ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編
第十回 6月23日(木)
竜騎士07 Illustration/ともひ
ゼロ年代の金字塔『ひぐらしのなく頃に』の小説が、驚愕のオールカラーイラストでついに星海社文庫化! ここに日本文学の“新たな名作”が誕生する!「鬼隠し編 (上)」を『最前線』にて全文公開!
6月23日(木)
…ひた、…ひた、…ひた…。
その押し殺したような足音は俺の部屋の前で止まった。中をうかがうような…沈黙の間。
…俺は事もあろうか、まだ浅いまどろみの中にいた。意識は徐々に鮮明になっていくが、体がそれについていかない。…危機がすぐそこ、扉のたった一枚向こうでうかがっているのに…まるで金縛りにでもあったように動かせない。……それは紛れもない、恐怖だった。
頼む……このまま去ってくれ…。あぁ、体はまだ目覚めないのか? 今、部屋に踏み込まれたら……!!
「うわぁあぁあぁあぁああぁあッ!!!!」
「きゃあッ!?」
威勢良く跳ね起き、その布団を扉を開けたお袋に投げ付ける!!
「ちょッ! 何、圭一!? どうしたの?」
「ぁ………あ、…ごめん。…寝ぼけてた…。」
「もう、しっかりなさい? お顔を洗ってらっしゃい。」
まだ深夜の一時か二時だと思っていた。だがカーテンの隙間からは朝の空虚な日差しがこぼれてきている。……まったく実感のない朝だった。
昨日、俺は…あの後、そのまま寝入ってしまったはずだ。……なら、たっぷり十時間は眠っていたはず……。…だがとてもそうとは思えなかった。
体内時計は完全に狂い、体の平衡感覚もどこか鈍い。熱っぽさまで感じ、心身のバランスを崩してしまったことを自覚するには充分だった。
「…どう圭一? 体の調子はどう? 学校、行けそう?」
……とても学校に行けるような体調、…いや、精神状態ではなかった。
昨日の恐怖が、じっとりと蘇ってくる…。
あの針をそのまま…飲みこんでいたら…どうなっていたんだろう…? あるいは口の中に、舌に突き刺さっていたなら…?
殺意は間違いなかったが、それでも…完全なものじゃなかった。
俺を殺す気なら、もっと確実な方法でやるはずだ。こんな、針を飲ませるなんて確実性の低い方法に訴えるはずがない。……つまり……信じたくはないのだが……、ここまでしようとも…レナや魅音にとっては…脅迫なのだ。
死ななくてよかったね、…でも次はもっと確実な方法でやるよ…? そんな感じの。
手紙と一緒にカミソリの刃を送る…なんて、これと比べればシャレでしかないだろう…。
「…ちゃんと病院は行った? お薬は飲んだの?」
「ん、…うん。まぁ一応…。」
お袋の怪訝な表情がどこか不愉快だった。
なぜなら…病床の息子を気遣う様子よりも、二日続けての病欠への不快感の方が色濃く出ていたからだ。
…そりゃ確かに、精神的なショックがあったにせよ…別に病気というわけじゃないさ。
「一度生活のリズムを崩すとなかなか戻らないんだから。ささ、起きて起きて! 病は気から、って言うのよ。」
昔からよく聞かされたセリフだ。
俺は小学校卒業の時、精勤賞で表彰されたが…別に人一倍強健だったわけじゃない。
「ささ、顔を洗ってらっしゃい。ご飯はもう出来てるわよ。…もうレナちゃんが来るまであんまり時間がないわね。」
お袋の有無を言わせなさそうな口調に、俺は二日目のズル休みを諦める。
「そうそう。…居間の壁にぼた餅を投げつけたのは圭一? だめよあんなことしちゃ! お父さん、怒ってたわよ!?」
……別に罪の意識はなかったので、特にリアクションは返さない。また、お袋もそれ以上の追及はしなかった。いや、していたのかもしれないが、気にも留めなかった。
俺がもぞもぞと寝床を抜け出すのを確認すると、お袋は階下へ降りていった。
魅音が昨日、帰り際に言った「明日、休んじゃ嫌だよ?」という言葉がねっとりと脳裏に蘇る。
あれはどういう意味だったんだ…?
考えるまでもない。…もう欠席するな、と言っているのだ。
もっと踏み込んで考えればつまり……、いつもと同じように生活しろと言っているのだ。
俺が明らかに普段と違う様子を見せれば、それは特異に映るだろう。そんな俺の様子に……例えば大石さんのような人間に「何かの異変」を気取られかねない、ということなのだろう。
つまり、…俺自身が口を閉ざしていようと、いつもと違う振る舞いをすれば、それは結果的に「好まざる者」たちに何かを伝えてしまう結果となるわけだ…。
そして彼女たちは、それすらも俺に許さないつもりらしい…。
じゃあ……俺がいつも通りに生活するなら……何も危害を加えない……ということなのか…?
昨日までの陰鬱さが気味悪いくらい薄れていく…魅力的な取引だった。
この数日の間に見聞きしたことを綺麗に忘れるだけで、…俺はいつもの生活に戻れるのだ。
「そ……そんな虫のいい話……あるわけ………。」
ごくり、と溜まった唾を飲み込む…。…一度は否定しかけたその想像を…俺はもう一歩踏み込んで考えてみた…。
魅音はきっと…仲間思いのいいヤツなんだ。…知りえない何かのルールに違反してしまった俺に……チャンスを与えてくれたのだ。
俺が犯した何かは…本当は許されないものなのだろう…。だが魅音はチャンスをくれた。…全部を忘れてこれまでと同じ生活を送れるなら、許そうと言ってくれているのだ…。
「圭一〜! ご飯冷めちゃうわよー! 急いで降りてらっしゃい〜! 早くしないとレナちゃんが来ちゃうわよー!」
「あ、…い、今行くよ!」
俺はカバンに乱雑に教科書を詰め込むと、あわてて階下へ降りていった。
そして、何だか精彩のない朝飯を箸でついばむ。
時間はもうほとんどないようだ。レナとの待ち合わせ時間はもう過ぎていた。
昨日の様子だと…あと五分もしない内に迎えに来るだろう。…それまでには登校できるようにしないと…。
昨日までのことは全部忘れるんだ…。全部忘れて普通に生活するんだ…。普通ならもうレナとの待ち合わせ場所に行ってないと…。こんな日に限って、ご飯はパサパサで喉の通りが悪かった。
ピンポーン!
びく! として思わず箸を落としてしまう。…レナの訪れを知らせるチャイムだった。
お袋が俺を急かす。
「ほら、レナちゃん来ちゃったわよ…! 急いで急いで!」
お袋の浮かれたような笑顔と、俺の顔の陰りがなんだか対照的だった。
玄関の向こうにいるレナを迎えるのには正直、抵抗があった。
…扉の向こうにいるレナは…俺のよく知っているレナだろうか? …と。
だが待たせてはいけない…。いつものように振る舞わないと……。
「おはよう〜!」
扉の隙間から聞こえた朝の挨拶はとてもさわやかだった。
「…圭一くん、遅かったから来てみたけど……今日はどうかな? …かな?」
レナの気遣うような様子は、俺がレナだと思っているレナのそれに違いなかった。
…だがそれはきっと、俺がいつものように振る舞えばこそなのだ。
昨日までをすべて忘れて……何事もなかったように…。
残酷なバラバラ殺人のことも忘れる。その後毎年起こる怪死事件も忘れる。…転落事故も、病死も自殺も、撲殺も失踪も、全部全部忘れる。
レナが怖いのも、魅音が怖いのももちろん忘れる。みんな忘れる。おはぎのことも全部忘れる。忘れる忘れる忘れる。
レナがもう一度、念を押した。
「…学校、行けそう?」
「あ、……あぁ。…大丈夫だよ。」
「よかったぁ! じゃ行こ! 魅ぃちゃん待ってるよ。」
レナはいつも見せるような、明るい笑顔を見せてくれた。
とても表裏があるような表情には見えない。……緊張が解け、自分が安堵したことを知る…。
「なのに沙都子ちゃんね、絶対にできるって意地になっちゃってー!」
歩きながら、レナはいつも以上にいろいろと話しかけてきた。昨日一日のことをダイジェストで教えてくれているらしいが、今の俺にはあまり関心がないことで、淡白に相槌を打つくらいしかできなかった。
「……ふぅん。…それで?」
「沙都子ちゃんぶきっちょだから、何度やってもできないの! …はぅ、かぁいかったんだよぅ…。」
その会話は、傍から聞く分には、いつもの俺たちの様子と何ら変わりが無いように見えたに違いない。……いや、…本当に、いつもの朝の登校と何も変わりがないかもしれない。
ご近所さんがすれ違い、俺たちに声をかけてくる。
「あぁれ、圭一ちゃんにレナちゃん、今日はちょっと遅いんじゃないの〜? 魅音ちゃん、先に行くって言ってたわよー?」
「わわ! 魅ぃちゃん怒ってるかな? 怒ってるかな!? 早く行こ圭一くん!」
ご近所さんに笑顔で挨拶したあと、俺に振り返りぺろりと舌を出してみせた。そんな仕草に思わずつられて、自然に頰が緩んだ気がした。
「……あ、圭一くん笑った。」
「え、…な、なんだよ。」
レナが足を止めて、じっと俺を見入った。
「…圭一くん、今朝もなんか元気なかったから、まだ風邪が治らないのかなって思ってたけど、…大丈夫みたいだね。…だね!」
そう微笑むと、俺の頰をちょこんと突っついた。
表裏のないさわやかな笑顔だった。
…なぁ前原圭一。…この笑顔を見てもなお俺はレナを疑うのか…? 昨日までの俺はひょっとしてものすごい高熱を出して寝込んでて、ありもしない幻を見ていたんじゃないのか?
……本気でそう思わずにはいられなかった。
もしも神様がひとつ願いをかなえてくれるなら…。俺が望むことはひとつしかない。
この何日間かの出来事。…もっと限定するなら、綿流しの晩から昨夜までの全ての出来事を……なかったことにしてほしい。
この何日間かで、俺は何度これを願っただろう……。
このままいつまでもレナが微笑み続けてくれたなら…それはかなうかもしれない。
だからレナにはいつまでも笑っていてほしい。…いつまでも…笑っていて…。
「で、圭一くん。昨日のおはぎ、ちゃんと食べてくれた…?」
そんな俺の儚い願いはあっさりと打ち消された。
心臓がどきんと跳ね、朝のゆるやかな空気が一瞬にして氷結する。なぜならその問いかけは、…俺がなかったことにしたいと願う日々が現実のものであったことを否応なく突きつけるからだ。
レナの笑顔は…いつもの笑顔で、瞳もいつものやさしい瞳のように…見えた。
昨日のおはぎ、ちゃんと食べてくれた…? …もちろん文字通りの意味のわけはない。
つまりレナは……私たちの意思は伝わったかな? ……そう言いたいのだろうか…。
「…………………………圭一くん?」
レナは歩みを止め、返事に躊躇する俺の瞳をじっと覗き込んだ。
「……………あ、」
…ちゅ、…躊躇するな前原圭一。……レナはいつもの様子で振る舞ってるじゃないか。俺もいつもの様子で返すんだ。……それも自然に…!
だが喉も唇もいつの間にかからからに干上がり、上と下の唇をぴったりと貼りつけてしまっていた…。
早く返事するんだ圭一…。今ならそんなに時間は経ってない。まだ…自然に会話はつながるんだ…。何はともかく……早く言葉を………。
「……う、」
「う〜?」
俺がようやくひねり出した声をレナが愉快そうになぞる。
レナの反応は常識の範囲内だった。……俺が思ってるほど、間はなかったみたいだ。なんとか続く言葉をひねり出す。
「う、…うまかった…!」
だが、そんな俺の必死の苦労にも、レナは表情を晴れも曇らせもしなかった。
一瞬、返すべき言葉を誤ったのかと焦る。
だが数瞬の後、レナはいつもそうするようにやわらかく顔を崩し、朝の空気を澄み渡らせてくれるような軽快な声で笑ってくれた。
つられて笑いを誘う、そんな笑いだったから…俺も自然に笑うことができた。
「そうなんだ〜。で、全部食べたのかな? …かな?」
俺のささやかな笑いがもう一度凍りつく。
…裁縫針を飲まずに済んだの? そう聞いているんだろうか…?
飲んでいたら無事にここにいられるわけがない。
「い、いや…全部は…食べきれなかったからさ。………まだ残ってるんだよ。」
恐る恐るだが…そう言い逃れた。
「……あれれ? どれがレナが作ったのか、当てる宿題はどうなっちゃったのかなぁ…?」
「あはははは…、あの宿題って…今日までだったっけ?」
「うん。今日までなんだよ。…魅ぃちゃん怒るよ〜。きっと罰ゲームだね。」
もう一度二人で笑い合う。
誰が見たって違和感のない朝の風景だった。
俺だって、…ちょっと気を許せばいつもの朝の風景に思えてしまう…。だが…決して勘違いしてはいけないのだ。
このからからと笑うレナだって、その内には見かけからは想像できない何かが潜んでいるのだ。
「噓だッ!!!」
あのレナの喉から出されたとは思えない、刺さるような声が思い出される。
それを思い出しただけで、背中を冷たいどろりとしたものが流れ落ちた。
あの時だけ、レナに何か悪いものでも取り憑いていたのだろうか…? いや違う。あれもまたレナなのだ。大石さんは確かに言ったじゃないか…。
「実は調べてみたら、竜宮さんは引っ越しの少し前に、学校で謹慎処分を受けているんですよ。何でも、学校中のガラスを割って回ったんだとか。」
レナには…常人とはかけはなれた魔性があるのだ。どんなにさわやかに笑っていても……その事実は変わらない。
しかし…どのような状態でそのような蛮行、校内のガラスを割って回ったのかは……想像が付かない。
ひとつ言えることは、ささやかな瞬間的衝動によるものではないということだ。
瞬間的な怒りに任せてガラスを一枚割るくらいなら…まぁ、あるかもしれない。
だが学校中のガラスをだ。
自分がバットを持って実際に学校にガラスを割りに行ったところを想像すればいい。
ガラスを力任せに一枚二枚。砕け散る破片をものともせず…。
呆然とするクラスメートたち。…突然の出来事に、身じろぎひとつできまい。
ガラスが一番たくさん、それもずーっと並んでいるところはどこだろう。…多分廊下だ。
割って、歩いて、振り上げて。割って、歩いて、振り上げて。
その恐ろしい光景を、今こうして笑顔を浮かべるレナと重ねるのはとても難しい…。
だが、…それでも俺は、想像しなければならない。……想像できないからありえない、という子供染みた考えはすでに…通用しないのだ。
ガラスが砕け散る不穏極まりない音を立て、じゃりじゃりとその破片を踏みつけながら、まっすぐにこちらに向かってくるレナ。
……真っ青になって息をすることも忘れてしまったクラスメートたち。
彼らはガラスを叩き割りながら近づいてくるレナにどういう行動を取ったのだろう。
レナを説得するために懸命に何かを説いた? あるいはその蛮行を制止するために飛び掛かった? あるいは職員室に先生を呼びに走ったのだろうか?
多分どれも違う。
鬼気せまるその様子で、次々にガラスを誅していくレナに……黙って道を空けることしか出来なかったに違いない。
呆然としながら…レナの歩みに道を空ける。…それを見て見ぬふりだと非難するのはあまりに暴力的だ。
彼らは見て見ぬふりをしてたんじゃない。……それが、唯一の護身法だと知っていたのだ。
周りの人間と違う行動を取ることで…突然、レナの興味が自分に移るかもしれない。
自分に興味を持ったレナはどのような行動を取るだろう…?
そんなのは簡単だ。……レナは興味のままに行動しているだけに違いない。
…つまり、自分が、…俺が次のガラスにされてしまうのだ。
レナが俺だけの瞳をじっと見つめながら、じゃり、じゃり、とガラスの破片を踏みしめながら近づいてくる。……俺もまたレナの瞳に吸い込まれ、身動きひとつできない。
そしてレナは、他のガラスと同様に俺をバットで何度も殴打する。
俺は床にうずくまり必死で頭だけは守る。レナは頭でも背中でもどうでもいい。がむしゃらに何度も何度も殴りつける。
レナはどんな表情でこの行為を繰り返しているんだろう? …そっとその様子をうかがってみた。
………その表情はあまりに淡白で、とても不愉快そうだった。いくら叩いても他のガラスのような軽快な音が出ないのだから。
何度も何度も。叩き続ける。レナの期待するような音は出ない。周りのクラスメートたちも止めない。次のガラスになりたくないから。
誰か助けてくれよ…。…楽しく遊ぶ時以外は知らんぷりかよ…!?
…そりゃそうだよな、偏差値ってのはクラス内での奪い合いなんだから。…俺みたいな塾三昧のガリ勉を助けて得をすることなんかないもんな…。
その内、くるみの殻を割る時にするような軽い音に混じって、赤とも黒ともつかない が飛び散るようになるのだ…。
………そのぞっとするような想像を、強く頭を振って無理やり追い出す。
とにかくそのレナの様子は、怒りに我を忘れるといった瞬間的なものではなかったに違いない。
……深く息を吐き鼓動を抑えてから、俺は大石さんの言葉をもっと深く思い出す。
「…でですね、そのカウンセリングをした医師のカルテにレナさんの会話内容が記載されているんですがね……。その中に、出てくるんですよ。結構。」
「何がです…?」
「出てくるんですよ。『オヤシロさま』って単語が。」
その後、レナは謹慎処分となり、病院へ通院して診察を受けた。
そこでレナは医師とのカウンセリングの中で何度となく口にするのだ。「オヤシロさま」、と。
「オヤシロさまって言う、幽霊みたいなものがですね、夜な夜な自宅にやってくるって言うんですよ。枕元に立って自分を見下ろすんだ、って。」
医師と話した会話の一部なのだろうから話の全体は見えないが、……それは薄気味のいい話ではない。
ではレナは…、自身の行なった蛮行は、オヤシロさまに取り憑かれたからだと告白したのだろうか…?
俺はこれまで、オヤシロさまの祟りを認めたくなかった。だから、毎年起こる怪死事件を人間の犯人の仕業だと思い込もうとしてきた。
そして大石さんと会話を重ねる内に、祟りでなく、人為的に繰り返されてきた事件であるとの確信を深めた。
だが……その人間の起こしてきた事件には…みんなが深く関わっていた。
祟りを認めないことへの代償は、こともあろうか………俺にとってもっとも親しい者たちの事件への深い関与だったのだ。
なぜ? どうして? 何のために? レナが? みんなが??
それはオヤシロさまの祟りが実在することを受け入れること以上に苦痛で困難なもの。
だがそのレナは蛮行の後、病院で医師に、オヤシロさまに取り憑かれていたからだと告白したというのだ。
……俺はここで奇妙な安堵感を覚えた。
やはりそうなんだ。レナに表裏があるわけがない。……オヤシロさまなんていう怪しげなものに取り憑かれたからこそ…あんなこと、…本当のレナなら絶対に言わないようなことを口にしたりしたのだ。
レナは悪くない。悪いのはオヤシロさまなんだ…!
…わかっている。それは本末転倒だった。
祟りを信じまいとする俺は人間の犯人を切望し、……近しい仲間たちにその嫌疑がかかった今、都合よくすり替え、今度はオヤシロさまの祟りのせいにしようとしている。
俺にとって、レナたちが一連の怪死事件に深く関わっているかもしれないことと、オヤシロさまの祟りが実在することを認めるのと……どちらがマシなんだろう?
考えたくなかった。
考えないことによって、これまでと同じ日々が維持できると…そう信じたかった。
だが…………それはもう無理なのだ。
彼女らのメッセージは受け取ってしまった。あの裁縫針を受け取ってしまった。…それを何とか都合よく曲解しようとする自分の女々しさが情けなかった。
敵が人間だろうと祟りだろうと。……俺は殺されない。
殺されてたまるかよ! ……こんな訳もわからずに…!
「圭一くん? …さっきから変な顔してる。何でだろ? だろ?」
レナの声にはっとし、我に返った。気付けばそこはもう昇降口だった。
頭を軽く数回振り、たった今まで頭を満たしていた恐ろしい妄想を振り払った。
いくらなんだって…レナがこんな恐ろしいことをするわけがない……!
それはまるで、自らに言い聞かせるようなか細さがあった…。
これからどうすれば
がらりと扉を開き、教室へ踏み込もうとすると同時に、頭にチョークの粉だらけの黒板消しが落ちてきた。もちろん、それは綺麗に俺の頭を捉える。チョークの粉末が目に入り、しばし苦痛を味わった。
「をっほっほっほ! ズル休みの圭一さんにはお似合いですことよ〜!」
「……にぱ〜☆ 圭一もレナも、おはようございますです。」
「おっはよー! 沙都子ちゃんに梨花ちゃ〜ん!」
何となくテンションが合わなかったので、沙都子のトラップにも俺は特に何の感情も感じなかった。
沙都子は俺が横を通り過ぎる時、何らかの攻撃があるものと思って身構えていたようだったが、俺が黙って通り過ぎただけだったので拍子抜けした様子だった。
「何なんですの…? 張り合いがありませんわ。」
「……圭一、まだ本調子じゃないみたいです。」
「うん。……だから今日は加減してあげて、ね。」
突然、俺の肩がバシンと叩かれた。ちょっと痛い…。
「よ! 圭ちゃん、しっかり休んできたー?」
魅音だった。
レナのことで頭がいっぱいだったが……、魅音だって当事者のひとりなのだ。
思い出すんだ圭一。…昨日の鷹のような眼差しを。
「……あぁ、………おはよ。」
「なんだなんだ、ずいぶんと覇気のない挨拶じゃ〜ん? 差し入れのおはぎ、ちゃんと食べてくれなかったのー?」
ちゃんと食べたからこの様子なんだよ…。言葉が喉のそこまで出掛かった。
「…やっぱ食欲がなくてさ。…いくつかは食べたけど、だいぶ残しちゃったんだ。」
「あれ? じゃあ宿題は? どれがレナの手作りか、ってのの回答は?」
「圭一くん、宿題忘れなんだって。あはははは。」
「……ありゃあ……じゃあ仕方ないねぇ、罰ゲーム。…いっしっしっし!」
嫌らしい笑いを浮かべると、魅音は席へ戻って行った。
そんなやり取りをクラスメートが不審がる様子はなかった。
そりゃそうだ。今朝までのやり取りを誰が聞いたって。…不審な様子があるわけがない。
だからこそ……怖かった。
前原圭一という一個人にどんなハプニングが起ころうと、絶対に疑われなさそうなそんな素振りが…逆に恐ろしかった。
やがて先生がやってくる。
俺の体調を尋ねると出席を取り、そしていつもの退屈な日常を再開した。
耳に入るのは、クラスメートたちがめくる教科書のページが擦れる音と、セミたちの合唱、そして先生の指導の声だけだった。
それらは、授業に関心がないならば心を搔き乱すほどの騒音ではない。……自習状態の授業中は、今の自分の置かれている立場を考えるのに都合がよかった。
俺は軽く目を閉じ、自分が置かれている理不尽な状態について考えてみることにする。
まず…忘れてはならないのは…自分がどれほど危険な状態にあるか、だ。
自分は彼女らにとって好ましくないことを知る人間になってしまった。大石さんと何度かの接触を重ね、核心に迫ろうとしているかに見える。
昨日のおはぎはそれへの警告だと考えるのが妥当だろう。
……いや、…警告という言い方自体、相も変わらず女々しい言い方だ。彼女らにとってあのおはぎは俺を萎縮させ時間を稼ぐ意味しかないだろう。
…俺を完全な方法で「消し去る」までの………時間稼ぎ。俺が脅しに屈したって、知りすぎた人間には変わらないのだから。
その時、机のひんやりとした手触りが、去年までこの席を使い、そして失踪した生徒、北条悟史のことを思い出させた。
彼もまた…俺と同様だったのだろうか? 余計な事まで知ってしまい……消されてしまった…?
………くそ…! 俺は…簡単に消されたりはしないぞ……絶対に…!!
だが…本当に俺は命を狙われているんだろうか…?
レナたちを疑いながらも…同時にかばうような、そんな二律背反の気持ちはさっきからずっとあった。
不審な言動をあれだけ目の当たりにしながらも、こうして朝日の中にいると全部ウソなんじゃないかと思えて……。…いや、思い込もうとしてしまう。
俺は仲間を疑っている? かばっている?
命を狙われている? いない?
…本当にずれた論点だった。
自らが置かれている現状を思えば…そんなのはとっくの昔の論点のはずなのだ…。
なぁ……本当に俺は…命を狙われているのか…? レナたちに……。
そんな俺の煮え切らない思考を、俺の中のもうひとりが罵倒した。
馬鹿かよ前原圭一!! そんなのは決まってるじゃないか!!
で、…でもひょっとしたら……裁縫針は本当に偶然の、事故かもしれないだろ…?
裁縫針がどう間違ったらおはぎに混ざるんだ!? お人好しも大概にしろ!!
確かにレナも魅音も…不審な態度や言動があるけど…ひょっとしたら何かの誤解で…。
何の誤解だよ!? 不審どころか…異常なのは明白だろッ!?
レナには噓を質されただけだし……魅音には昼飯を聞かれただけだし……。
そのレナは部屋の前で一時間も聞き耳を立ててたんだぞ!?
そ、それはきっと…俺の電話が終わるのを待ってて……。
一時間もずっと部屋の前で!? そしてそのまま何も告げずに帰るか普通!?
………………。
大石さんに聞かされただろ!? レナが前の学校で何をしたかを!!
で、でも…それはオヤシロさまのせいだって病院で……。
「いい加減にしろよ前原圭一。お前、命を狙われてるって自覚、あるのかよ!?」
ッ!?
それは自分が、無意識の内に口にした言葉だった。
自らのあまりにストレートな言葉に…しばし呆然とし、誰かに聞かれはしなかったかと周りをうかがった。
……今の独り言は…あまりに真を突いていた。
俺はレナたちから殺意を感じながらも、…心のどこかで、それを否定している。
この期に及んで…そんな躊躇は命取りだ。…それはわかってる。
だが…俺は平均的な男子生徒で……ごく普通の生い立ちのごく普通の男なんだよ!
先週の日曜日まで楽しく笑い合ってた仲間たちが…自分に殺意を抱いてるなんて…急に信じられるかよ…!? なぁ…?
「甘えるな圭一ッ!!!!」
今度は意識して、自分だけに聞こえるよう下腹に力を入れて小さく叫んだ。
ひとつわかったことがある。
俺は…甘い。レナたちがどれほど恐ろしい存在なのかを理解していない。いや、理解しようともしていない。
大石さんの心遣いに甘え、核心に耳を貸さなかった。
落胆したふりをすることで、聞こうとしなかった。理解しなかった。逃げていた。
俺に理解できないから殺意はない、などという甘えはもう捨てるんだ…!
そう決意したとき、終業の鐘の音が聞こえてきた。
…気付けば、あっという間。それは今日という一日の終わりだった。
食事をした記憶も、授業を受けた記憶も、何も残っていなかった。
仲間たちは机を向かい合わせて放課後の部活の準備中だ。今までの俺なら、大喜びであの輪に飛び込んでいくのだろう…。
……だが、今の俺にそんな気持ちがあるわけもない。俺は他のクラスメートたち同様に帰り支度を始める。
「あらあら圭一さん? 帰り支度とはあんまりですことよー?」
沙都子の口調があまりにいつも通りで……胸が痛んだ。
「あれ? 圭一くん、今日は都合悪いのかな? …かな? 今日こそ二人で大勝利………はぅ…。」
レナの、せっかく楽しみにしていたのに…という表情が辛い。
なぁ圭一。……実は大石さんが大悪党で、俺をみんなから引き離すために噓をついてるんじゃないだろうか…?
パシーンッ!!
軟弱な考えを追い払うため、自らの手で頰に平手打ちした。
「け、圭一くん…?」
「……………。」
あぁ…レナは本当に俺を殺そうとしているんだろうか…?? 誰か噓だと言って欲しい。噓でもいいから噓と言って欲しい。……く、また甘えた考えを…!! 俺ってヤツは…どうしてこうまで甘いんだ!?
「だ、大丈夫…? 頭痛いの?」
俺がひとり苦悩する様がレナにはそう映ったようだった。
「顔色悪いよ? ひとりで帰れる? …送ってった方がいいかな? …かな?」
「いや……いい。…ごめん。ひとりで帰れる。部活はみんなでやってくれよ。」
俺が部活に参加しないことを知ると魅音が不満そうに口を尖らせた。
「圭ちゃんがリベンジ熱望してたってんで、今日はせっかくこの間の推理ゲームにしたってのになぁ。」
「圭一さんにはリターンマッチに臨む熱いハートはありませんですの? なっさけないですわね〜!」
低俗な挑発には乗らない。
特に買い言葉も返さず、俺はカバンを摑んで席を立とうとした。
そんな俺の頭に、すっと誰かが手を載せる。
「………圭一、具合悪そうです。………かわいそかわいそですよ。」
梨花ちゃんだった。
小さな手で、精一杯の背伸びで俺の頭をよちよちと撫でてくれた…。とても気持ちよく、…それがかえって悔しかった。
「…ごめんな。みんな。………じゃ!」
それだけを言い残し、俺は足早に教室を後にした。
俺の背中を見ながら、何やら言っているようだったが、もう俺の耳には届かなかった。
そのまま昇降口へ向かい、靴を出し、履いて、前へ。前へ。
心を空っぽにしろ……前原圭一…!
あいつらは…どうしてか知らないけど…俺の命を狙ってる!!
怪しげな企みをしていて、俺の挙動を虎視眈々とうかがっている連中なんだ!!
でも…憎めないッ…!! だって……仲間じゃないかッ!!!
自らの甘さを悔やむ自分と、それを悔やむこと自体、失ってはならないものを失ってしまったのではないかと悔やむ自分。
自分という人格が体ごと引き裂かれてしまうような…そんな感覚だった。
もしもこれがオヤシロさまの祟りというものなら。…あまりに…辛いじゃないか。
なぁオヤシロさま…、あんたの祟りを信じなかったのは俺が悪かったよ…。
でももう信じる。絶対信じる。あんたの祟りは実在する…。
だから、もう本当に……勘弁してくれよ…………。頼むよ…………なぁ…。
両親すら頼れない
いつになく、夕食はおいしくなかった。
味はなく、匂いもなかった。…普段なら食欲をそそる味噌汁の湯気ですら、ただの水蒸気としか感じられなかった。
今夜の食卓には親父も一緒だった。うちでは珍しい部類に入る。
仕事に熱が入れば、食う寝るはマイペース。時間などお構いなしの親父だ。
その親父が食卓に着く、ということは、ちょうど仕事のキリがいいのか、さもなければスランプで不調のどちらかということになる。
「とにかく、作家のモチベーションってものを理解してないんだよ、彼は。」
「タイアップの話だって口約束なんでしょ? そんなにそりが合わないならきっぱりお断りしたら?」
「助け合いの世界だからお互い様だとは思うんだけど…。…これじゃ仕事になぁ…。」
親父とお袋の会話から察するに、あまりムードのいい会話ではない。……まずい食事がさらにまずくなるのも道理だった。
両親のそんなやり取りを見ながら、俺はぼんやりと今日一日続けてきた思考を続けてみた。
…身近な友人、いや、友人と思っていた人間たちが信用できなくなった今、俺には味方が圧倒的に不足している。
信頼に足る人間、いざという時に頼れる人間がまったくいないのだ。
…ひとりでも味方がいれば、この絶望的な状況でどれほど心強いことか…。
箸を休め、仕事の話を続ける両親を見上げてみる。
全てを両親に打ち明ける、という選択肢は一番初めに考えた。
雛見沢の誰もが百パーセント信用できなくなった今、唯一信用できるのは自分の両親だけなのだから。
だが……、これまでのことを話したところで、理解してくれるだろうか?
例えばレナ。
転校以来、甲斐甲斐しく世話をしてくれ、毎朝迎えに来てくれ、たまにお裾分けまで持ってきてくれるご近所さんのレナ。
その彼女が俺の命を狙っていると、…どう説明する? どう説明しても、それに理解を求めるのはとても難しいだろう…。
仮に理解してくれたとしても…どんなことができる?
真相を暴けるわけでもなければ、俺の命を守れるわけでもない。…いやむしろ……俺から〝余計なこと〟を知らされることによって、両親も危険にさらされるようになるわけだ…。
過去の事件の被害者が夫婦丸ごとのことが多かったことを思うと…とても笑えない。
この雛見沢から、前原一家という三人家族があっさりと事故で、もしくは蒸発して消えてしまうということもありうるのだ……。
ここで大事なことは〝余計なこと〟を知ると危険になる、という点だ。さらに気味が悪いのは……どうやってヤツらは自分が〝知ってしまった〟ことを知ったのか、という点だが…。
裏返せば、〝何も知らない限り〟両親に危害は及ばないのではないかという言い方もできるんじゃないか…? 少なくとも俺の場合がそうだ。〝知ってから〟おかしくなってしまった。
…つまりこういうことだ。何も知らない両親がいる限り、両親には何も起こらない。そんな両親がこの家にいる限り、この家はヤツらからの安全地帯になるというわけだ。
……詭弁の上に詭弁を塗り固めた憶測なのはわかっている。
この家だけは安全地帯であって欲しいという、俺の弱気が求めたご都合主義だ。
…表よりは安全という程度で、…絶対安全ではないことをよく理解しなくてはならない。
両親は頼りない…、いや、両親を巻き込めないことはわかった。
なら俺に味方してくれるような人は……大石さんしかいないことになる。
大石さんは現在の俺の状況を理解している唯一の人間だ。俺の身の安全こそ軽んじているが、事件解決に情熱を燃やしているのだけは間違いない。
……ちょっと悔しかった。…こんな事態になった大本は大石さんなのに、この事態において一番頼れるのがその大石さんだけだなんて。
つまり……大石さんの目論見通りに進んでいるわけだ。
俺は海に撒かれた餌で、波間を美味しそうに漂うのが仕事。…そして、俺の周りに魚たちが群がってきたところで大石さんがそれを一網打尽! 少し悔しいが、……それがベストとしか思えない。
じゃあつまり……俺はどうすりゃいいんだ!?
…釣りの鉄則は待ちだ。魚が食いつくまで、ひたすらじっと伏して待ち続ける…。
だが俺は大人しく食われるつもりなんかない。食われる直前にあらゆる努力をすることができる。
ヤツらが仕掛けてきた時、なんとかそれを紙一重でかわし、大石さんに引き継がなくてはならない。
無論、簡単ではない。…大石さんに継ぐタイミングが難しい。大石さんは雛見沢じゃなく、町にいる。だから緊急時に電話をしても、駆けつけてくれるまでに三十分はかかるだろう。この三十分間を何とか逃げ切らなくてはならない……。
例えば…予め緊急時の待ち合わせ場所を決めておくとか。…俺はそこで大石さんが来てくれるまで隠れていればいいわけだ。
…よし………少し…見えてきたぞ…。
疑心暗鬼の暗闇の中にいることに間違いはないが、自分がこれからどう進めばいいのかわかることが、これほど心強いとは思わなかった。
誰が敵で、誰が味方か。…それを知るだけで、自分が何をするのが最善かようやく見えてくる。
そうだ。いざというときの為に、何か携帯できる武器を用意した方がいいかもしれない。……代表的なものは折り畳みナイフとかだろうか。だが戦うには心細い。また、社会的に武器だと認知されている点もよくない。さりげなく携帯できる物の方が有利だ。
やはり、いざという時は…バットのような長い武器の方が有利だろう。
学校に金属バットがあったのを思い出す。…あれならいざという時、心強い。…素振りの真似でもしていれば、いつも持っていても不審に思われない。
…明日、早めに登校して確保しよう。武器の所持が、それだけで相手の行動を抑止する効果があるかもしれない。
あともうひとつ…保険だ。
メモでも書置きでもいい。これからの出来事を簡単に、日記風に書き記しておこう。
もしも、俺が〝蒸発〟してしまっても日記は残る。…大石さんは俺の日記を元にヤツらに復讐をしてくれるだろう。
…それはなかなかの妙案だった。これは今すぐ実行できるものだった。
どうせこれ以上食卓にいても、箸など進まない。俺は仕事の話に没頭している両親を尻目に、二階の自室へ戻る。
さっそくノートのページを破り取り、机に向かった。……日記なんて小学校の夏休みの宿題以来だ…。
万が一の時、警察は俺の日記を手がかりにするのだ。…だから事実のみを簡潔に書こう。
書き出しはどうしよう……。思いつくままにさらさらっと書き出してみる。
〝私、前原圭一は命を狙われています。〟
ちょっと苦笑した。よく推理小説に出てきそうなこんな文章を、自らが書く羽目になるとは…夢にも思わなかった。
〝なぜ、誰に、命を狙われているのかはわかりません。〟
レナたちを疑わしいと思っているが、確証はない。……だからこれ以上のことは書けないだろう。
あまりにミステリーめいた文章に、自嘲気味に苦笑いしてしまう。
この文字通り謎めいた文章を読んで、警察へのなんらかのヒントになるだろうか。
なることを祈るしかない。…一番祈りたいのはこの日記の出番が訪れないことなのだが…。ここでやはり苦笑する。
あまりに簡素だったので、思いつくままにもう一行加えてみた。
〝ただひとつわかる事は、オヤシロさまの祟りと関係があるということです〟
これはさすがに…書き過ぎか…?
……これ以上は書かない方がいいかもしれない。……これ以上を書き連ねると妄想日記になってしまう。
書き手の冷静さをアピールする意味ではこれ以上のことは、現時点では書くべきではない。……新しい事実がわかった時、書き足せばいいだろう。
俺はそのメモを畳み、どこに隠したものか思案する。……簡単な場所に隠したのでは、万が一の時、ヤツらに見つけられて揉み消されてしまう恐れがある。逆に難解な場所では、誰にも見つけてもらえなくなる恐れがある…。
考えた末、俺は壁に掛けてある時計を外し、その裏に畳んだメモをセロハンテープで貼り付けることにした。その後、元通りに時計を掛け直す。…うん。とても裏に隠してあるようには見えない。
あとは、このメモを「俺に何かがあったとき」両親に見つけてもらえるよう、仕掛けるだけだ。
角度を変えて何度か見直し、納得したところで俺は階下へ戻る。
両親はまだ飽きもせず仕事の話をしていた。…しばらく待っても話は途切れそうになかったので、自分から切り出すことにする。
「あー、話し中ごめん!! ……ちょっと聞いてもらっていいかな。」
俺がこういう切り出し方で話すことはないので驚いたのか、両親はぴたっと話をやめて振り向いてくれた。
「どうしたの圭一?」
「お願いがあるんだけど、聞いてほしいんだ。……その、もしもだよ?」
「圭一、急ぎの話じゃなきゃ後にしなさい。お父さんとお母さんはちょっと今、急ぎの話をしているんだ。」
こっちより急ぎの話だとは思えない。とにかく用件を伝える。
「もしもだよ? 俺が死んだらさ。」
両親が目を丸くする。…無理もない。
「その、俺が死んだらさ。……俺の部屋にある時計、あれを棺に入れてほしいんだ。」
そうすれば気付いてくれるだろう。あの日記のメモに。
両親は目を丸くしたまま微動だにしない。…突然、何を言い出すのかと呆然としているのは明白だった。
「あの時計、工作の授業で作ったお気に入りなんだ。頼むよ。」
「…ど、どうしたの。圭一。……何かあったの?」
お袋が怪訝な顔でようやく口を開いた。…突然息子がこんなことを言い出したら、普通こういう反応を返すだろうな。
心配をかけて申し訳ないが、今は俺の部屋の「時計」を意識さえしてくれればいい。
シンとして、すっかり居心地の悪い空気になってしまったので、自室へ戻ることにする。
「俺さ、明日は早くに学校に行きたいからもう寝るよ。お休み。」
それだけを言い残し、居間を出た。
明日は早い内に登校し、武器のバットを確保しよう。レナとの登校も今日限りにすべきだ。
階段を上る時、お袋が俺の名前を呼んだが聞こえないふりをした。
両親に相談できることなど何もない。相談すれば…その分、危険が増えるだけだ。
誰にも頼ることのできない、俺だけの、たったひとりの戦いが始まる。
俺は殺されない。…こんなわけもわからない内には…絶対に。
元気ないね
「最近、圭一くんの元気がないね。機嫌が悪いのかな。」
「さぁてどうしたんだろうね。生理でも来てんじゃないのー?」
「みみ、魅ぃちゃんそれ下品…!」
「うっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
「……どう思う?」
「さーね。」
「………。」
「圭ちゃん、ひょっとして…。………かな?」
「……わかんない。」
「あの日、圭ちゃんと車で話してたの、中年のでっぷりした男だったんでしょ?」
「うん。間違いない。」
「大石のヤツ、圭ちゃんに何を吹き込んでるのかなぁ…。」
「真剣そうだったよ。圭一くんは顔面蒼白だった。」
「………あのねぇ、レナはよく知らないだろうけど、実はあいつ、オヤシロさまの使いなんだよ。」
「え? 何の話?」
「あいつが現れるとね、…必ず鬼隠しが起こるの。……本当だよ。」
「…………あれ? そうなの?」
「……一昨年、梨花ちゃんのお母さんが入水したでしょ? その直前に大石が尋問してたんだよ。」
「………そう言えば、悟史くんが転校する前にもいたね。」
「転校〜? あはははははは、レナはいいヤツだよなぁ。」
「で、今度は圭一くんの前に現れたんだ。……じゃあ圭一くんも鬼隠しになっちゃう?」
「……………………。」
「……………………。」
沈黙の空白がじんわりと続く。そしてふと途切れた。
…哄笑だった。