ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編
第一回 6月10日(金)
竜騎士07 Illustration/ともひ
ゼロ年代の金字塔『ひぐらしのなく頃に』の小説が、驚愕のオールカラーイラストでついに星海社文庫化! ここに日本文学の“新たな名作”が誕生する!「鬼隠し編 (上)」を『最前線』にて全文公開!
贈る花束
どうせ引き裂かれるなら、身を引き裂かれる方がはるかにマシだと思った。
信じてた。
……いや、信じてる。
今この瞬間だって、信じてる。
でも……薄々は気付いてる。
信じたいのは、認めたくないだけだからだ。
自分に言い聞かせるような、そんな涙声が…もうたまらなく馬鹿馬鹿しくて……。さらなる涙が…顔をもっとぐしゃぐしゃにする…。
機械的に繰り返されていたそれはようやく収まり、とても静かになった。
ひぐらしの声だけが…いやに騒がしい。
なのに、…彼女のそれはまだ聞こえる気がする。
…聞こえるはずはない。
彼女はもう、言うのをやめているのだから。
泣いているのは俺だけだった。
彼女は泣きもしなかった。
彼女がそれを繰り返し口にしていた時も、表情どころか感情もなかった。
彼女に、俺のために流す涙がないのなら、俺にだって。…彼女らのために流す涙はいらないはずなのだ。
それなのに……痛み、目を潤ませてしまうのは……どうして?
それでも引き裂かれてないと、……信じていたいから。
もう充分だろ?
内なる、もうひとりの自分がやさしく語りかける…。
俺はもう充分に心を痛めたさ。…そして何度も、その痛む心を捨てるべきかどうか迷ったんだ。
だけど俺は…頑なに、捨てることを拒んだんじゃないか。
捨てれば…もっと心が楽になれる…。それを知りながらも、俺は信じることを選んだんじゃないか。
その辛かった苦労は、きっと俺にしかわからないし、俺にしかねぎらえない。
なぁ俺。…俺は充分に頑張った。……俺がそれを認めてやる。だから。……もう楽になってもいいんじゃないか……?
それに………捨てるんじゃない。
彼女と一緒に、置いていくんだ。…花を手向けるように。
さぁ。……心を落ち着けて…。もう右腕が痺れているだろうけど。……頑張って振り上げよう。
そして、ひとつ振る度に忘れるんだ。
親切が、うれしかった。
愛らしい笑顔がうれしかった。
頭を撫でるのが、好きだった。
そんな君がはにかむのが、好きだった。
これで最後だから。これを振り下ろせば忘れてしまうのだから。
君に贈る、……………俺からの、最初で最後の花束。
ひょっとすると、…俺は君の事が、
…………………………………好きだった。
その言葉と共に、もう一度だけ振り下ろす。
…そして俺は、真っ赤に滴る金属バットを床に落とした……。
昭和五十八年 初夏
…誰かが、ずっと謝っている気がした。
彼女は何を謝っているのだろう。
それに聞き耳を立てるのは悪い気がしたので、意識的に聞かないようにする。
親類の葬儀のために戻った、久しぶりの都会だった。
つい先月まで住んでいたにもかかわらず、都会の賑やかさに圧倒された。
高層ビルに何車線もの道路。歌うように騒がしい横断歩道のメロディ。駅前での騒々しい選挙演説すらも今では懐かしかった。
だが、今、住んでいる土地にはそんな賑やかなものはない。
あるのはセミの声と清流のせせらぎ。そして、ひぐらしの声。そんな静けさに寂しさでなく、安らぎを感じ始めたのは最近だ。
確かに今住む土地には何もない。
気の利いたハンバーガー屋はおろか、自動販売機すらない。レコード屋もないし、レストランもないし、ゲームセンターもない。アイスクリーム屋なんてもってのほかだ。最寄りの町まで行けばあるにはあるが、自転車で一時間もかかる。
だが、考えてみればそれに不便を感じる必要はなかった。
前の町には確かにレコード屋もゲームセンターもアイスクリーム屋もあったが、別にそれらを頻繁に利用していたわけじゃない。アイスクリーム屋に至っては、十年も住みながらついに一度も入ることはなかったのだから。…一度くらいは食べに行けばよかった。今更ながらちょっと後悔。
…誰かが、まだ謝り続けている。
彼女は誰に謝っているのだろう。これだけ謝っているのだから、もう許してやればいいのに。
彼女だって、こんなにも謝り続けることはないはずだ。いつまでも彼女を許そうとしない誰かに、俺は少し苛立ちを覚えた。
どんな過ちだって、許されないことはないはずだ。取り返せないミスなんかない。次から気をつければいい。
…それでも彼女は謝り続けている。
では…取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだろうか?
一体彼女が何を犯したのか知らないが、取り返しがつかないものなら、なおのこと許してやるべきだ。彼女がいくら謝ったって、起コッテシマッタコトはどうにもならないのだから…。
それでも彼女は、こんなにもみじめな声で謝り続けている…。
なあ、彼女に謝られている誰かさんよ。もういい加減に彼女を許してやれよ。こんなにも…みじめな声で謝っているんだから……。
「圭一、そろそろ着くぞ。起きなさい。」
親父に小突かれ、俺はようやくまどろみから目を覚ます。列車は速度を落とし始めていて、車内の旅客たちは網棚の上から各自の荷物を下ろし始めていた。
どうやら、列車が終点に着いたようだった。
新幹線やら電車やらを乗り継ぎ数時間。
窓の外の風景は、半日前までいた都会と同じ国であることを、いや、同じ時代であることすら疑わせる。
ここからさらに自家用車に乗り換えて三十分。そこが今の俺の住む土地、雛見沢だ。
6月10日(金)
夏を迎えても、雛見沢の朝の空気は切るように冷たい。その代わり、肺の底まで存分に吸いこめるくらい澄んでいた。
窓をがらりと開ければそこは一面の緑。木々以外何もない。お隣さんの家だってずーっと向こうだ。だからきっとこの風景と朝の空気は俺だけのひとり占め。
もう一度大きく吸いこんで、肺いっぱいに満たしてみる。空気にも味があることを、この雛見沢に来て初めて知った。
手早く登校の準備を済ませ、朝食のために階下へ降りる。お袋のみで親父の姿はなかった。おそらく、朝方まで仕事に精を出していたのだろう。
親父は画家などという風変わりな職業をやっている。これが何とも吞気な商売なのだ。好きな時に起き、好きな時に寝、好きな時に仕事をしている。
その気楽さがうらやましくて小学校の時、将来なりたい職業に画家と書いたら父は大層喜んだ。…もちろんラクそうだったから、なんてのは内緒だが。
お袋が食卓に朝食を並べてくれる。
食卓には、ノリに漬物に生卵に焼鮭。我が母ながら恐ろしい。完璧な、一分の隙もない典型的な日本人の朝食だった。スケジュールという言葉と無縁な親父とは逆に、お袋はソツがない。押えるべきものは確実に押えてくれる。
「こっちに引っ越してきてから、圭一が早起きになって嬉しいわね。」
「早起きしないと朝飯を食いそびれるんだよ。」
よい子ぶりを褒められ、ちょっと悪い子ぶった言い方をする自分がかわいかった。
「ご飯はいっぱい? それとも半分くらいでいい?」
「山盛り。」
湯気を立てるご飯を、まずはノリで味わう。それからとき卵をぶっ掛ける。喉ごしのよくなったご飯の合間に、漬物の歯ごたえを味わう。うん、今日も朝食がうまい。そして今日も体調は絶好調のようだ。
「こっちに引っ越してきてから、圭一が朝食を欠かさないんで嬉しいわね。」
お袋は俺の見事な食いっぷりを見ながら柔らかに微笑んでいた。朝飯を食べるだけで微笑まれてはくすぐったいことこの上ない。…だが、かつてのことを思えば、お袋がこの程度のことで感慨深くなるのも納得できなくはない。
都会に住んでいた頃は朝の寝起きは悪かった。遅刻ぎりぎりまで寝ていたし、朝食だってほとんど取らなかった。
それは、本当に下らないささやかな反抗。
塾通いを強要する親に対し、毎朝用意してくれる朝食をボイコットすることだけが、自分にできる無言の反抗のつもりだったのかもしれない。
…今にして思えば、それは青臭い反抗期というやつだったのだろう。
毎朝早起きして作ってくれる朝飯を、一瞥すらせずないがしろにする昔の俺。同じ家に住んでたらひっぱたいているだろうな…!
お袋が時計を気にすると、にやにやと笑って俺を急かした。
「そろそろレナちゃんと待ち合わせの時間じゃない? 急いで急いで。」
お袋は息子が女の子と登校するというシチュエーションを楽しんでいるらしい。俺としては、いい歳をした男が女の子と一緒に登校なんてのは照れ臭いだけなのだが…。
でも、確かに毎日毎日、律儀に待っていてくれるクラスメートを無闇に待たせるのも悪い。…ってゆーか、レナのヤツ、毎朝何時からあそこで待ってるんだ…?
最後に味噌汁をがーっと喉の奥へ流しこみ、玄関へ駆けていく。
「レナちゃんにお漬物ありがとうって伝えてね〜!」
そういや、市販の漬物じゃなかったよな。なるほど、レナの家からのもらい物だったか。
「あいよ! 伝えとくぜ!」
竜宮レナ
「圭一く〜ん! おっはよ〜ぅ!」
朝の爽やかさそのままの快活な挨拶が響いてきた。
主人を見つけた犬が尻尾を振るみたいに、上機嫌にぶんぶん腕を振って挨拶してくれる彼女がレナだ。
「相変わらず早えなー。たまにはのんびり朝寝坊したっていいんだぜ。」
「お寝坊したら圭一くんを待たせちゃうじゃない。」
「そん時ゃ置いてく。」
「け、圭一くん冷たい。いつも待っててあげてるのにー…。」
「さくさく置いてく。きりきり置いてく。」
「どうして冷たいんだろ。…だろ?」
レナがちょっぴり困った表情をする。人の言葉に、いちいち一喜一憂する本当に楽しいヤツだ。
「噓。ちゃんと待ってるよ。」
その一言に、レナは全身の緊張を解いたようだった。顔が一気に紅潮する。
「…わ、…あ、ありがと…。」
「レナが来るまでずーっと待ってる。いつまでも。」
「……わわ、わ……ず、ずーっと……。」
レナが真っ赤になって頭から湯気をあげ思考をショートさせている。
こいつはこっち系のネタにとにかく弱いのだ。これだけからかい甲斐のあるヤツもめずらしい。
「レナはロマンスものの文庫本は読んだことあるか…?」
「…え……あ、…ないよ。よ、読んだ事ない。」
その反応から察するに、興味は津々なのだが恥ずかしくて買えない、ということか。読んだら大変だ。赤面して卒倒するんだろうな。
「そうそう、お袋から伝言。漬物サンキューでしたって。」
「う、うぅん、どういたしまして〜。どうだった? しょっぱくなかったかな?」
「…その前に聞きたい。あの漬物を漬けたのはレナか? レナのお母さんか?」
「え? …え? 何で聞くんだろ? しょ、しょっぱかった…?」
今度は一転、おろおろわたわたする。その反応が面白くて、ついついからかってしまう。
「レナか? レナのお母さんか?」
「…な、何で作った人、聞くんだろ? …だろ!?」
「どっちが作ったかで感想が著しく変わる。」
「……え、えぇ…!?」
調理過程を思い返し、あせあせと指を折りながら塩の分量を思い出しているようだった。もうその仕草だけで作ったのがレナ本人であることがわかる。
漬け方をどこかで致命的に間違ってしまったのだろうか? どこだろうか、あそこだろうかとうろたえる姿がとても微笑ましくて、ついついからかってしまうのだ。
別にいじめているつもりはないのだが…。可愛い子につい意地悪をしてみたくなる男心というヤツだろうか。
レナは何度か声を飲みこんでからおずおずと口を開けた。
「……レ、レナだけど…。」
「うまかった。」
「え?」
「前回に続きなかなかだったぜ。飯との相性は最高だった。」
また赤面する。ぽーっとした感じで。
つくづく、本当にからかい甲斐のあるヤツだ。…レナが悪い男にだまされないことを願わずにはいられない。がんばれよレナ。俺が人並みに鍛え上げてやるからな! …そう勝手に決心する。
俺は、まだ漬物に自信が持てずにいるレナに、もう一度うまかったと念を押してやる。それでようやくレナは、ちょっとからかわれただけであることに気付くのだった。
「それより、早く行こうぜ! 魅音を待たせるとあいつ、うるさいぞ。」
「は、はぅ! そうだね。早く行こ!」
この、すぐ真っ赤になってぽーっとするヘンなヤツは竜宮レナ。
まだ知り合ってひと月も経っていないが、変わっているのは名前だけじゃないことはよくわかると思う。
園崎魅音
「魅ぃちゃ〜ん! おっはよ〜ぅ!」
次の待ち合わせ場所で俺たちを待つ人影が見えた。向こうも気付き手を振ってくる。
「お、来た来た。遅いよ二人とも〜!」
「いつも遅いのはお前の方だろ!」
レナの律儀さとは逆にマイペースなヤツ。こいつは園崎魅音。一応、上級生でクラスのリーダー役だ。
レナが女の子らしく振舞おうと努力していることに比べると、魅音はまさに正反対。髪こそ長くしているが、性格はだいぶ男勝りだった。
もっと言ってしまっていいなら、長髪をまとめたポニーテールと、女であることを主張するわがままなバスト以外に女の子らしい要素は皆無とまで言い切れる。そんなヤツだった。
「おはようレナ。そして圭ちゃんお久しぶり! 何年ぶりだっけぇ?」
「二日しか休んでねえよ!」
「あっはは! そうだっけか。前に会った時はあんなに可愛かったのになぁ!」
魅音の下品な目線が俺の胸元からつーっと下がって行き、下腹部に集まり始める。
「そうだよ立派になったぞ。驚くぞ。」
「たくましくなっちゃった上にヒゲまで生やしちゃってさぁ〜☆」
「毎朝、元気全開で大変なんだ。今度見せてやるから挨拶してみろ。」
「今度なんて言わないで今がいいなぁ。朝の新鮮な空気を吸わせてあげたらぁ?」
「よしわかった。大公開だ。後悔するなよ…ッ!?!?」
俺がジッパーに手をかけたところで、レナが慌てふためきながらまくし立てた。
「…ね、ねえねぇ…、何の話? 何の話だろ何の話だろ…ッ!!」
赤面しておろおろしながら無知を装うレナだが、がっちりと会話についてこれてるのは間違いない。
「どうだった? 久しぶりの都会はさ。」
魅音は下品モードから復帰し、ようやく朝の爽やかさに相応しい話題に転換してくれた。
「葬式で行っただけだぜ。慌ただしいだけだったよ。」
「でさ! 探しといてくれたぁ? 頼んどいたヤツ!」
「お前、人の話、聞いてないだろ。俺は葬式で帰っただけだぜ! おもちゃ屋巡りをしてる余裕なんかなかったんだよ!」
「ちっちっち。おもちゃ屋とホビーショップは全然違うよ? 特に洋モノこっちじゃなかなか手に入らないからねぇ。」
「魅ぃちゃん、またゲームの話?」
レナがくすりと笑うと、魅音は得意げに頷いてみせた。
「そ! 圭ちゃんに洋ゲーのカタログを持ってきてもらいたかったんだけどねぇ。」
「そんなのまた通販で取り寄せりゃいいじゃねえか。」
「ま、そうするかなぁ。またプレイングの熱いゲームを入荷するからねぇ!」
「…こ、今度は、私にもわかり易いゲームがいいなぁ…。」
魅音はカードゲームやらボードゲームやらの愛好家で、様々なゲームを収集しているらしい。なんでも、レナの話によると、魅音の部屋は国内外のゲームの博物館のような状態になっているという。
「俺にもわかりそうなゲームがあったらやらせてくれよ。」
「へぇ…いいよ! 圭ちゃんさえ良ければね。でもウチらのレベルは高いよぅ?」
「上等じゃねえか。俺だって遊び百般、遅れを取るつもりはないぜ!」
「…わぁ…。じゃあ今度は圭一くんも仲間に加わるのかな。…かな!」
レナが全身で喜びを表現しながら、俺と魅音の顔をきょろきょろと見比べる。魅音が肯定を意味するウィンクを送ると、レナは一層表情を明るくした。
「男の子ってきっと外で遊ぶ方が好きだと思ってたから…ダメかと思ってたよ。」
「んなことはないぜ。男だって雨が降りゃ屋根の下で遊ぶぜ? トランプもするし野球盤なんかメチャクチャ盛り上がるぞ!」
「あははは、そっか。ならよかったかな、かな!」
レナはやたらとうれしそうに笑った。
これだけ親しそうに話をしていても、実際にはここに転校してきてまだひと月も経っていない。転校生の俺が溶け込めるよう、色々と気を遣ってくれているに違いなかった。
だから俺もこれ以上、気を遣わせないよう、早く溶け込む努力をしなければならない。
自分でも少々馴れ馴れしいかな、と思うくらいの方が、きっとこの場には相応しいのだ。
北条沙都子と古手梨花
ここ、雛見沢は小さな村で、学校どころかクラスもひとつしかない。
しかもクラス内は、年齢学年ばらばらだ。その上、人数も二十人ちょっとしかいないのだ。これだけでも雛見沢の寒村ぶりがよくわかる。
「…ん〜? おやおや、これはこれは。くっくっく!」
それまで俺たちの先頭を歩いていた魅音が不意に笑うと、俺に先頭を譲った。
教室の引き戸の前で、うやうやしい仕草をしながら、俺に引き戸を開けさせて先頭で教室に入らせようとする。
ふ…。残念だが、もうひっかからない。
「…ここで先頭を譲るとはな。お手並み拝見ってことかよ。」
魅音は不敵ににやりと笑った。
「ど、どうしたの…二人とも…?」
「下がってろレナ。危ないぞ。……ヤツだ!」
「えぇ…? じゃあ…沙都子ちゃんが…!?」
当人が登場する前だが、先にヤツの名を紹介しておこう。ヤツの名は北条沙都子。年下のくせに年齢をわきまえないクソ生意気なガキンチョだ。
口調も腹立たしいが、それくらいで腹を立てては年長者として大人気ない。
問題なのは…こっちだ。
「…見え見えのワナだな。引き戸の上に挟んだ黒板消し。…見え見えだぜ! 沙都子!」
引き戸の奥でくぐもった笑いが聞こえた。
見事仕掛けられたワナを看破した俺を、魅音が口笛を吹いて称える。
「お見事、圭ちゃん! …こりゃあ今回は勝負あったかな?」
「…いや、相手は沙都子だ。これだけとは思えない…!」
転校初日から壮絶なトラップコンボを見舞われた俺だからこそ、慎重になれる。
複数のワナを多彩に組み合わせ、本命のワナへ誘う誘導や、連続でヒットさせる連鎖系トラップなどなど。この数週間でも、まだヤツは手の内の全てを明かそうとはしない!
「見たところ、黒板消しは普通。石とかは入れてないみたいだな。」
初日に食らったのは黒板消しに石が入れてある強力なものだった。あれ、三日はコブになって残ったぞ…!
「じゃあさじゃあさ、ガラガラって開けて落としちゃえばいいんじゃないかな…?」
「それだ!」
沙都子の狙いはそれだ。俺の注意を上に引き付け、引き戸に手をかけさせ…。そう、そこにこそ本命を仕掛けるのだ!
引き戸の手をかける部分にガムテープと画鋲で、恐ろしいワナが仕掛けられていた。攻撃力抜群の恐るべきワナだ。上に気を取られたまま手を掛けていたら、飛び上がることになっただろう! 上の黒板消しは、このワナを隠蔽するための陽動なのだ!
「見事なコンボだ沙都子! だが所詮はガキの浅知恵だったな!」
俺は勝利を確信し、画鋲の仕掛けられていない部分に手を掛けてガラリと扉を開く。そして眼前を黒板消しが落ちるのを見届けてから、教室に飛び込む!
その時、足首に違和感。それはなわとびを足に引っ掛けた時の感触によく似ていた。
やられた…と思った時にはもう遅い! 余りにも美しい角度で転んでいく俺…。
「圭ちゃん、避けてッ!!」
魅音の鋭い声に、俺は反射的に身をひねって床に倒れこんだ。
「……ぃてて…てッ!?」
俺の転ぶ予定地点に墨汁の満たされたすずりが置かれている…! クリティカルヒット時の惨状を思い浮かべ、俺はぞっとした。咄嗟に身をひねらなかったら、今頃、俺の顔面の魚拓が取れているって寸法だ!
「あらあらこれはこれは。おはようございますですわ圭一さん。朝から賑やかですわねー!」
無様な格好で倒れている俺を、小馬鹿にするような声が迎えた。
「一段とスペシャルなトラップワークになったじゃねえか、沙都子!!」
「あらあら。私、何のことかわかりませんわよ。朝からついてませんわねぇ。」
「てンめぇええぇえ〜…!! …ぃててて…。」
不覚にも、転んだ時に腰をひねったらしかった。妙な角度で転んだからな。
すると、すっと俺の頭に小さい手が載り、やさしく撫でてくれた。
「……圭一の痛いの痛いの、飛んで行けです。」
「あ…あぁ、ありがとな。梨花ちゃんのおかげで痛みが引いてきたぜ。」
「わぁ〜…梨花ちゃん、おっはよ〜ぅ!」
「…レナにおはようございます。みんなにもおはようございますです。」
梨花ちゃんはぺこり、ぺこりと可愛らしい仕草で頭を下げて挨拶した。
つられて、俺もレナも魅音もぺこりぺこり。
「梨花ちゃんはいい子だよなぁ…。それに比べて沙都子…!!」
ぎょろりと睨み付けると、沙都子は口笛を吹きながらわざとらしく目線を逸らす。
「沙都子はいい子でございますのことよ?」
「いい子はこんな凶悪なワナは仕掛けないぞ!」
「言い掛かりでございますわぁ! 何の証拠があって…ふわッ!」
俺は沙都子の後ろえりを摑み上げる。こうするとしつけの悪い猫みたいだな。でも猫はワナなんか仕掛けないぞ。…もっと始末が悪い!!
「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イって言ってみな。言わないならぁ……!」
俺は右手でデコピンを作り、ぶるぶると震わせながら沙都子のおでこに近付ける。
「ぼぅ、暴力反対ですのー!! 証拠がどこにあるんでございますのー!!」
「言っとくが俺のデコピンは凄く痛い! ベニヤくらいなら割る!」
「ひぃいいぃいぃ…!!! やめて寄らないで、けだもの〜!!!」
「人様が聞いたら誤解するような言い方をするんじゃねぇえぇえ!!」
今まさに、俺のマグナムデコピンが炸裂しようという時、小さな手が、くいと俺のすそを引っ張った。梨花ちゃんだった。
「……沙都子は圭一が二日間もお休みしたから寂しかったのですよ。」
「む……、そ、そうか…。」
「だからこのトラップは、圭一がお休みした二日分、遊んで欲しかったのですよ。みー…。」
…本当に梨花ちゃんって子は。こういう言い方をされたらこれ以上何ができるってんだ。
この子の名前は古手梨花。沙都子と同い年で無二の親友でもある。
梨花ちゃんは沙都子と正反対で、年長者への礼儀をちゃんと弁える模範的な少女だ。
沙都子が活発なイメージを感じさせる短い髪型なのとは逆に、梨花ちゃんは切り揃えられた前髪と長くて綺麗な髪。まるでお人形さんそのものだった。
俺の名前を呼びすてにしているが、それは誰に対してもであるらしく、しかもとても可愛らしく呼んでくれるので、不快に感じる者はいない。
梨花ちゃんに諭され、半べそをかきながらいつ来るとも知れぬデコピンに耐えるべく、きゅっと目をつぶった沙都子を俺はそっと解放した。
「ふ、ふわぁあぁあぁあ…ん!! 悔しくなんかないもん!! ふわぁあぁああん!」
「……泣いちゃだめです沙都子。ファイト、おーです。」
いたずら盛りの友人の頭を梨花ちゃんはそっと撫でる。この二人が同い年とは到底思えなかった。沙都子は梨花ちゃんの爪の垢を煎じて一リットルくらい飲むべきだ。
「今度はもっともっとすごいワナで、圭一を返り討ちなのですよ、にぱ〜。」
…ちょっと待てぃ。
その光景を見て、レナが恍惚の表情でうっとりとしていた。
「…はぅ…沙都子ちゃん泣いてる……かぁいいよぅ……。」
「持ち帰っちゃダメだからね。」
「…ひぅ! …だってだって…こんなにかぁいいよぅ?」
「どんなにかぁいくてもダメなの。」
「でも…ちょっとくらいなら……だめかな? だめかな? ちょっとお家にお持ち帰りしてしまっちゃうだけだよーぅ。」
「それ、世間様じゃ誘拐って言うらしいぞ。犯罪だって知ってるかー?」
「はぅぅ、かぁいいのに、こんなにかぁいいのにぃ! お持ち帰りしたい〜!」
魅音の話によると、レナは可愛いものにめっぽう弱いらしく、しかもそれらを何でもお持ち帰りしようとしてしまうらしい。物でも人でも…!
「とにかく諦めろ。誘拐は営利が付かなくてもかなりの重罪だぞ…。」
「じゃあ見てるだけ。見てるだけだよ…。それならいいよね。よね?」
「…む、…確かに昭和五十八年にストーカー条例とかはないな。…な、ならいいのか、な…?」
悔し泣きする沙都子にうっとりするレナ。
もしもこの雛見沢で幼女誘拐事件が起こったら、俺はレナのことを通報しなければならないだろう。許せよレナ。ちゃんと差し入れは持って行ってやるからな…!
「ほら、先生来たよ。早く片付ける! 沙都子、すずりあんたのでしょ!」
魅音の一声で一気に場の空気が戻った。
すずりもまずいが引き戸の画鋲はもっとまずい! 俺は刺さらないように気をつけながらガムテープごと引き剝がす。仕掛けたのは沙都子でも、後片付けはみんなでだ。
先生が教室に入ってきたときには、つい今あった光景は綺麗に片付けられていた。
「あははは、間に合ったね!」
「何で被害者の俺まで沙都子のワナの証拠隠滅に付き合わなきゃならねぇんだ!」
「ほらほら、先生が来ましたわよ。私語は慎みなさいませー!」
「きりーっ、きょーつけー!」
クラス委員長の魅音が号令をかけた。
雛見沢分校
この学年もばらばらなクラスで先生がひとりというのは大変だった。
ひとりひとりに違うことを教えなければならない。しかも、低学年の子にはより丁寧に教えなければならず、必然的に先生は小さい子の世話にかかりきりになる。
そのため、上級生の魅音やレナはほとんど自習状態。
それどころか先生といっしょに下級生たちの勉強を見ることもあるので、とても自分の勉強までは手が回っていないようだった。
実際、彼女らの勉強の進行度は俺に大きく遅れを取っていた。その結果、俺は先生に代わってレナや魅音の勉強を見るはめになったのだった。
「圭一くんはお勉強教えるのうまいね。わかりやすいよ。」
レナはチェック箇所をマーカーで塗り終えると一息ついた。真面目なレナは、本当に教え甲斐がある。然るべき塾へ通い、然るべき勉強量をこなせば、きっと都会でもかなりいい偏差値を出せるに違いない。
「教える端から自信がなくなるよ。自分の理解の浅さがわかるなぁ。」
「人に教えるには三倍理解してなければならない、って言うしね。圭ちゃんもうちらに教えながら、同時に復習も出来てるわけなんだよ。うんうん。教えてるつもりが教えられてもいるわけだね!」
「魅音さ、他人事じゃないぞ。真剣にやんないとまずいぜ。お前、今年受験だろ!? こんなんじゃ、相当痛い目を見るぞ…。」
レナに比べると魅音はちゃらんぽらん。雑学の知識は大したものだが、成績に結びつくような知識はからっきし。しかも、そもそも勉強する気がないときてる。
「別に進学校を目指すわけでもないし。受験に必要なそこそこが出来てりゃ充分充分!」
開き直りの潔さだけは天下一品だな…。魅音らしいといえば魅音らしい。
「魅ぃちゃん、圭一くんががんばって教えてくれてるんだからさ。私たちも頑張ろうよ。」
「レナは素直ないい子だなぁ…。先生がきっといい学校に進学させてやるからな。」
「…わ、わぁ……あ、ありがとう……。」
「レナには特に教えてやるからな。二人きりでプライベートレッスンだぞ。」
「…ぷ、…ぷらいべと……れ、れっすん………。」
レナの頭からポン、と音がして丸い輪っかの煙が上がっていく。
一体、どんなプライベートレッスンを想像したらあんなに赤面できるんだろう…? 今度ぜひ声に出して実況してもらいたいものだ。
「都会じゃさ。こんなに勉強しなきゃいけないわけ〜?」
魅音が単語帳をべらべらといじりながら投げやりに聞いてくる。勉強に飽きたので、雑談に持ち込んで時間を潰そうという魂胆が見え見えだった。
「決まってるだろ。この程度の成績じゃ進学できないぜ。」
「進学できないから勉強するわけ?」
「まぁ。平たく言えばそうなるな。…将来、役に立たないのは承知で。」
「都会じゃそうだろうけどさ。こっちじゃあさ、出席日数が足りてりゃみんな進学できるんだよ。」
「…そ、そうなのか…!?」
勉強イコール受験という万有引力の法則並の常識をあっさり否定され、さしもの俺も狼狽する。
「そうかもね。試験で振り落とさなきゃならないほど、人もいないし。」
「誰でも進学できるならさ、そんなにガリガリとやることもないんじゃない?」
「…まぁそうだけど…、でも一般常識程度にはできた方が…、」
「おじさんはそんな無駄な勉強に時間をかけるよりさ、この思春期の貴重な時間をもっと有意義に過ごすために使うべきじゃないかなぁ、と考えるわけよ。」
笑い飛ばすには含蓄のある言葉だった。もっとも魅音のことだからそこまで深い意味はないのだろうけど。
チャイムの代わりに校長先生の振る振鈴の音が聞こえてくる。
「圭ちゃん、おしまいおしまい! さぁ楽しいランチタ〜イム!」
さっきまでの消極的な態度とは一変。魅音がクラスに号令をかける。
「…圭一くん、お昼にしよ!」
難しそうな顔をしていたのかもしれない。レナはやけに明るく笑ってくれた。
「うっしゃ! 飯にするか!」
仲良しグループとお昼
年齢も学年もばらばらのこのクラスでも、やっぱりグループがある。それはお昼の時間を見れば一目瞭然だった。
都会の学校でなら、班分けに従ってお昼を取るが、ここではそんなルールもない。仲良しグループ同士で席を寄せ合い、わいわいと賑やかに食事するのだ。
もちろん、俺にも一緒に食事をする仲良しグループがあった。
レナと魅音が互いに机を向かい合わせにする。そこに沙都子と梨花ちゃんが自分たちの机をよたよたと運んでくる。
「圭一くん、早く早く!」
レナが行儀悪く箸を振りまわしながら俺を急かす。
全員揃わなきゃ弁当箱のフタも開けないらしい。
朝、一緒に登校したレナと魅音。そしてワナで出迎えてくれた沙都子と梨花ちゃん。そして俺の五人が一緒にお昼を取るグループだった。
「圭一さんのお弁当はきっと貧乏臭くパンの耳に決まってますわ〜! さぁ恥ずかしがらずにお見せなさいな! ほらほら!」
憎まれ口を叩く沙都子でも、俺が揃うまでは弁当箱を開けない。
俺は手早く弁当箱を引っ張り出すと、イスを引っ張って彼女らの輪に加わっていった。
「おぅ、お待たせ!」
「…では魅ぃ委員長の号令でいただきますなのです。」
初めは、女の子しかいないグループでとても恥ずかしかったが、そんなのはすぐに薄れた。今では、この年齢も性別も違うグループが俺の居場所であるとはっきり自覚できる。きっと俺も、この中の誰が遅れても弁当箱を開けないだろう。
年齢も性別も違う。でも、仲間だった。
「いっただきま〜す!!」
五人の綺麗な合唱が教室に響き渡った。
無言で食事に勤しむ男に比べると、女の食事は賑やかだ。だから、俺以外が全て女のこのグループの食事はいつも大変賑やかだった。
本来なら、俺は男子たちのグループに所属するべきだったろう。だが、たまたま他の男子たちの学年が大きく離れていたため、彼らと接点を持てなかったのだ。
このくらいの歳の男子にとって年上の男は怖く見えるもんだ。そこへ行くと女子、少なくとも彼女らはその辺をまったく気にしない。
最初に俺に声を掛けてくれたのが彼女らで、色々親しくしてくれたのも彼女ら。そして一緒にお昼を食べようと誘ってくれたのも彼女ら。だから、俺が彼女らのグループの一員であることを自覚するのは当然だった。
おかずを中央に集め、みんなで自由に突っつく。
こういうのって結構、女の子は気にするんじゃないかな、と思ってドギマギしていたが、それを魅音に見透かされずいぶんと囃したてられたものだ。
努力(?)の結果、今では誰の弁当箱のおかずであれ、箸を伸ばすことができるようになっていた。
「あらあら、圭一さんのお弁当は今日は大奮発ではございませんことー?」
「あらあら、沙都子さんのお弁当こそ大奮発ですこと。煮物がシックでイイ感じですわぁ。」
沙都子の売り言葉に買い言葉で返し、互いにクロスカウンター状態で箸を相手の弁当箱に突っ込む。箸を刺したのと同じ速度で戻し、口に放りこむ。
「あら美味!」
「お、里芋がイイ感じだぞ。煮物は冷めててもうまいよなぁ!」
俺の笑顔を確認すると梨花ちゃんが表情をちょっぴりほころばせた。どうもこの煮物は梨花ちゃんの作らしい。
「……昨夜のお夕食の煮物を少し取っておきましたのですよ。」
「なるほどな。一晩たってダシがさらによく染み込んだってわけだな! うまいのも納得だぜ。」
「をっほっほっほ! そうでございましょう? 梨花は煮物が大の得意なんですのよ!」
「……もちろん、煮物以外のお料理も大得意なのです。」
沙都子と梨花ちゃんが微笑ましく笑い合いながら、煮物を突っつき合う。
ちなみに、梨花ちゃんと沙都子のお弁当はいつも同じなのだ。どうも梨花ちゃんが毎日作ってきてあげているらしい。
梨花ちゃんの料理の腕前は年齢に似合わずかなりのもの。こんな腕前なら、俺の弁当もついでに作ってもらいたいくらいだった。
「こっちの煮物も梨花ちゃんが作ったのかい? …こいつはお袋の味クラスだよなぁ!」
素直に感心する。このニンジンで作った花形は型じゃなく、包丁によるものだ。
「梨花ちゃんって何気にそーゆうの得意なんだよねぇ。」
「お料理だけじゃなく、お裁縫とかお洗濯とかも上手なの。すごいよね。すごいよね!」
「梨花はいろいろとすごいんですのよ。をーっほっほっほ!」
「お前が威張ることじゃねえ!」
「…ボクより、レナの方がお料理は上手です。」
「……え、あ、…その……ね☆」
思わぬタイミングで話を振られたらしく、レナは言葉を詰まらせ赤面した。
確かにレナの弁当箱はこの食卓の花だった。
見た目にもうまそうで、実際にうまい!
みんなもレナの弁当箱には進んで箸を伸ばす。
「これ、前に評判良かったからいっぱい作ってみたの。…おいしいかな? …かな?」
「かなり合格点! あ、魅音、お前取り過ぎだよ!」
魅音の箸を払い、俺の分を確保しようと身を乗り出すと、沙都子と梨花ちゃんも一斉に身を乗り出してきて大変なことになった。
みんな口々にうまいうまいと言いながら、あっという間にレナの弁当箱を空にしてしまう。誰もレナの分を残してやろうとは思わない辺りが恐ろしい。
でも、それを見てレナはすごく満足そうだった。
「いかがかしら。レナさんもとてもお料理が上手ですことよ? 圭一さんとは大違いですの!」
「だからお前が威張ることじゃねーだろ!」
「沙都子だって圭ちゃんと変わらないじゃんよ。あんた、ブロッコリーとカリフラワーの区別、付くようになったわけ〜?」
沙都子の顔色がさっと変わる。…どうやら、沙都子の弱点のひとつらしかった。
「…おいおい、ブロッコリーとカリフラワーの違いなら俺だってわかるぜぇ?」
「わ、わわ、わかりますもの! …わかるもん!」
つくづく噓のつけないヤツだ。言い繕えば言い繕うほど、見分けがつかないと公言していることに気付かないらしい…。
久々に沙都子に対して優位に立てることに気付き、俺はにま〜と笑うとさらに沙都子を追い詰めることにする。
「圭一くん、ど、どっちでも茄でてマヨネーズかけるとおいしいじゃない? いじめちゃかわいそうだよ…。魅ぃちゃんも!」
「まぁまぁ家庭科の授業ってことで。…んじゃ沙都子、これはぁ?」
魅音が箸でひょいと摘み上げる、ベーコンに巻かれた緑の断面。
「…でもそれ、アスパラ…むぐっ、」
魅音のアイコンタクトを受け、俺はコンマ三秒で梨花ちゃんの口を塞いだ。
アスパラのベーコン巻きをもって二択を迫るとは…。恐ろしいヤツ。
「えーと、その! えーと…! 黄色がカリフラワー、うぅん、緑がカリフラ……、」
「さぁどっちだ! うぅん!?」
「多分、黄色がぶろっこりで青がかりふらわで……でも緑は……その……ぁぅ……、」
「本当にどっちかわかってるぅ〜? 降参した方がよくない〜?」
さすがクラス委員長。最年長。魅音のいびり方、追い詰め方は年季が違う。何の根拠もないが、園崎家に婿入りしたら大変なんだろうなぁ…。
「わかりますもの…! わかるもん!!」
「じゃあ答えなよぅ!」
「…わかるもん……わかるもん……ぅわぁあぁああぁあん!!」
とうとう堪えきれず、泣き出してしまった。こうなると沙都子も歳相応だ。
「…は、はぅ〜…か、かぁいぃよぅ…。」
悔し泣きの沙都子にレナは狂喜している。
胸に飛び込んでくる沙都子の頭を抱え込むと、撫でながら頰擦りをし幸せの限りを満喫している。…この状況下なら、きっとレナはドスでお腹を刺されても気付かないだろう。
「レナさんレナさん〜! 魅音さんがいじめるんですのー! わあぁあぁああん!!」
「かぁいいかぁいい…! 大丈夫だよ、レナお姉ちゃんが悪い人たちはやっつけちゃうからね!」
すぱぱーん!!
稲妻が閃いたように感じた。気付けば、俺と魅音は二人して大の字になって天井を仰いでいる…。
「……今、……一体……何が……?」
顔面が痛い。ダウンしている。レナから何かの攻撃を食らった。…それしかわからなかった。
「…圭ちゃんは食らうの初めてだよね。…今日のはまだ…甘い方…。」
そこまで言い、俺も魅音も同時にガクッと頭を垂れる。
「ほぅら沙都子ちゃん、やっつけちゃったよ〜。……あぁん、かぁいい〜! お持ち帰りしたぃ〜!!」
レナから見えないよう、沙都子が俺たちを一瞥し舌を出す。ち、畜生〜、レナを上手に使いやがってぇえぇ!!!
梨花ちゃんは無言で、それでいて満足そうに笑いながら俺たちの顔面のアザを撫でてくれていた…。
下校
どんなに起伏ある遠路でも、下校時だけは短く感じる。俺たち三人の影が長い。
「ねぇ圭一くん、今度の日曜日はさ、何か予定とか、あるかな? …かな?」
「え…?」
レナにしてはかなりの積極的なアプローチに思わず赤面した。そういう聞かれ方をしたら、普通はデートのお誘いだと思うよな。
しばし言葉を失う俺を見て、レナはどういう風に誤解されたか気付き、勝手に赤くなる。
「…え、…あ、…ち、違うの、…そーゆうのじゃなくて…その…!」
「なぁんだ、…そーゆうのじゃ、…ないのかよ…。」
「え…!? えぇ!?」
俺は大袈裟に肩を落としてがっくりしてみせる。
「……け、圭一くん、何でがっかりしてるんだろ? だろ!? …魅ぃちゃぁん!」
「…ぷ、あーっはっはっはっはっは!!!」
堪えきれなくなった魅音が俺の背中をばしばし叩く。
「そっかぁ! そーゆう攻め方はおじさん知らなかったわ。わーっはっはっは!!!」
「…え? …え? なに? なに!? 何なの!?」
腹を抱えて転げまわる魅音に、状況が飲みこめずわたわたするレナ。
俺もつられてげらげらと笑いながら、ちょっぴりの罪悪感と共にレナの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「うそごめん冗談。…悪かったよ。」
つくづくかわいいヤツめ。
「……え、…え? ……冗談って? どこからだろ! どこからだろ!?」
「え、ぁ…途中から。」
「…途中からぁ? ってことは圭ちゃん、最初の真っ赤になったのはあれ演技じゃないんだ?」
「…え…? …そ、それって……?」
一瞬の心の隙だった。魅音がこんなおいしい揚げ足を取らないわけがない…!
「え、いやその……、」
二の句もまずい…。迂闊な狼狽がますます俺を不利にして行く。その後、俺はたっぷりと魅音におちょくられることとなった…。
「……んで、日曜がヒマだと何なんだよ。レナ。」
「え…? と、…何の話だっけ…?」
切り出した本人が忘れるほどの間、俺は魅音におちょくられていたらしい。魅音は、くっくっくと笑うと、本題に戻してくれた。
「圭ちゃんさ、まだこの雛見沢、ひとりじゃ回れないでしょ。」
確かにそう。魅音の言う通りだった。
転校してきてひと月も経たない俺は、まだ雛見沢の地理について、お世辞にも理解しているとは言い難かった。
スイカ割りのように目隠しをされて、三回ぐるぐる回されたらもう、そこがどこかわからない自信はかなりある。
「…そうだなぁ。町へ行くのと学校へ行く以外はまだ自信ないな。」
「そうそう。それでね、明後日ね、魅ぃちゃんとレナでお散歩しながら圭一くんに雛見沢を案内してあげようよってことになって…。」
まさに渡りに船。率直にこの申し出をうれしく思った。
「もちろん行くでしょ?」
「ヒマならな。」
「女の子が誘ってんじゃ〜ん!?」
「ヒマならな。」
魅音の有無を言わせなさそうな口調に敢えて反抗する俺。渡りに船とか思いながら、素直に歓迎できない自分がかわいい。
「…圭一くん、…ヒマじゃないのかな? ……かな?」
魅音との不毛なやりとりに、レナがおずおずと俺を覗きこんできた。
さっきは少々いじめ過ぎたと思ったから、今回はレナのペースに合わせてやることにする。
「……すまん、許せごめん。ヒマだ。」
「よかったぁ!」
屈託なくレナが破顔した。
「おうおう! 魅音さんとレナさんじゃあずいぶんと温度差がありますじゃーん!?」
「行こうレナ。日曜は二人っきりで出かけような。嫌味な魅音は置いてって。」
ぷーっと頰を膨らます魅音を置いて行くように足を速めた。
「……え、わ…、…圭一くんが…それでいいなら……。」
「案内しようって提案したのは私〜!! シカトすんな前原圭一ーッ!!」
「二人きりでピクニック嬉しいなぁ! 弁当は持ってくかレナ。」
「……お、お弁当いるなら…レナ、…作っちゃおうかな……かな!」
「レナもシカトすんなー! 二人がホテル街へ消えたって回覧す、………。」
魅音が何か下品なことを言おうとした瞬間、魅音の顔面に見えぬ何かが叩き込まれ卒倒する。
「じゃあじゃあ! レナ、張り切ってお弁当の準備するね…! 日曜日が楽しみ! 圭一くんに魅ぃちゃん! さよぅならぁ!」
まるで月面を跳ねるかのような足取りで、レナは駆けて行った。
砂塵が消え、あとに残される俺と、大の字になって横たわる魅音。顔面にはアザ。
「……大丈夫か…? 魅音とレナの立ち位置、二メートルは離れてたはずだぞ…。」
「……あ……あんたが来て以来、キレ味は増す一方…。おじさん、身が持たないわ…。」
「挫けるなよ魅音。レナのジャブを見切れるのはお前しかいない!」
「……私は膝じゃないかと思ってんだけどね……。」
俺と魅音はレナの必殺技攻略への決意を新たにするのだった…。
うちって学年混在?
「……レナってさ、俺と同い年だったよな?」
「うん。そうだよ? 干支もおんなじだよね。」
おいおい、年が同じで干支が違ったらおかしいだろうが…。
「そんなことないよ。誕生日の違いがあれば、年齢が同じでも干支が違うこともありえるって。」
「あれ? あ、そーか。魅音、頭いいじゃねぇか!」
「あははははは。ところで圭一くんは何月生まれなのかな? レナは七月なんだよ!」
レナがえっへんと胸を張る。…おいおい、そりゃどういう意味だよ。
まさか、俺よりちょっとでも誕生日が早かったら威張ろうってつもりじゃないだろうな…。
「…ふ! だが諦めろ。俺に誕生日で挑もうったって無駄なことだ!! ……何ならひと月差ごとに百円の賭けをしてもいいぜー!」
「え? え!? なんでだろ? なんでだろ!?」
突然、賭けにされて狼狽するレナ。…うろたえ具合から今月の小遣いは残り少ないと断定する。
しかし…、たかだか誕生日程度でこうもうろたえてくれると、楽しくて仕方がないぞ。
「ってことは圭ちゃん、ひょっとして四月生まれ?」
「そーゆうこったな! 残念だなレナ! 俺、もーとっくにレナより年上なんだよ。」
「へぇー! そうなんだ! じゃあ魅ぃちゃんと同い年なんだね!」
「まぁ、ほんの何ヵ月かはね〜! すぐにまた差を開いてあげるけどさ!」
魅音が鼻でヘヘンと笑う。…おいおい、威張ることじゃねーぞ…。って俺のことか。
「……そう言えば…、魅音って上級生なんだよなぁ。」
「下級生の方が萌えるってんなら、今日から下級生ってことでもいいけどー?」
「魅ぃちゃん、よくわかんないこと言ってる……。」
レナの赤面具合を見れば、ばっちり理解できてることがわかるんだけどな…。
「んで、沙都子と梨花ちゃんが下級生と。……どころか学校が違うくらいの下級生だよな?」
「け……圭一くんは、ちょっと好みの年齢が低すぎると思うな…。思うな……。」
レナこそよくわかんないこと言ってるぞ…。とりあえず、頭部を鷲摑みにして、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
「はぅ〜〜〜!! やーめーてーー……!」
「前から思ってたんだけどさ。なんでこの学校って、クラスが学年混在なんだ?」
「教室の数が足りないからだよ。仕方ないじゃん? 営林署の建物を間借りしてんだからさー。」
…そう言えばそうだよな。うちの学校って前々から変だと思ってた。
校庭は砂利だし、学校とは無関係な部屋はあるし、変な建設重機みたいのは止まってるし。
「何で借りてるんだよ。本当の学校はどうしちゃったんだよ?」
「戦前からずーっと建ってたらしいからねぇ…。老朽化でね。廃校ってわけよ。」
それは…さぞや趣のある渋い校舎だったんだろうな。
「まーそれで、生徒は町の学校に通うことになったんだけどさ、遠いでしょ?」
「どこの学校だったの?」
「興宮の駅前通りを抜けて病院を曲がって、小児科の向かいに学校あるのわかる?」
「え、えーーーーーッ!?!? と、遠いよぅ…!」
地理的なものはさっぱりだが、レナの驚きようからかなり遠いことがわかる。
「まぁ、そんなわけでさ。興宮の学校に通いたくない連中は、こうして営林署の建物を間借りした仮校舎に通ってるってわけさ。」
「雛見沢の子供の半分くらいかな? 朝早くに自転車で通ってる子たちも結構いるよ。」
「まぁ、こんなハチャメチャな学校に通ってたら、進学校とかはちょっと無理だろうからねぇ。」
「そんなことないよ魅ぃちゃん。ちゃんと頑張ればどこでだってお勉強はできるよ。」
「お、そうだぞそうだぞ! レナとは意見が一致したな!」
「うん、そうだね。そうだね! がんばろ!」
「せーぜー頑張って下さいな。おじさんはささやかに応援しとりますわ。」
「俺たちがじゃないぞ、魅音がだぞ! お前、受験生だろ!? こんな成績じゃお先真っ暗だぞ!?」
「いーもんいーもん。路頭に迷ったら永久就職して圭ちゃんに食わせてもらうから☆」
「え、え、永久就職って何だろ!? 何だろ!?」
「こら! そこ、うるさいですよ! 自習は静かに!」
三人そろってばっさりと先生に怒られる。いやまったく申し訳ない…。
それを見て沙都子がケタケタと笑う。それに俺はあかんべー、と舌を出して応えてやる。
……確かに魅音の言うとおりだな。この学校は進学とは無縁だ。
その代わり、どこの学校にもない貴重なものがたくさんあるのだろうけど。
うちって制服自由?
まだ六月だってのに…暑い。
外ではセミがミンミンと鳴き、夜は蚊まで出る。…これって完全に夏だよなぁ。…朝だけは涼しいのが救いか。
「暑いでございますわねぇ!」
沙都子が気だるそうにスカートをバタバタさせている。
「…はしたないぞ、おい。…ガキンチョとは言え、一応女の子なんだからさぁ。」
「圭一さんはワイシャツ一枚で涼しそうですわねぇ…。羨ましいですわ。」
「俺から見りゃ、スカートの沙都子の方が涼しそうだよ。この時期のズボンの股座がどれだけ蒸すか、女のお前にゃわかるまい!」
「……む、…蒸すんだ………、はぅ……。」
小耳に挟んでいたレナが勝手に赤面する。またこの娘は、いかがわしい想像をたくましくさせてるな…。
「レナの夏服は涼しそうな色合いがいいよな。見てるこっちも涼しくなる。」
「あはははは。ありがと! 本当に涼しいんだよ。」
「私もレナさんみたいな涼しい夏服がよかったですわねぇ。」
「でも沙都子ちゃんの夏服、ワンピースですっごい可愛いし! レナは沙都子ちゃんの夏服、着てみたいなー☆」
「これ、結構蒸しますわよ? 絶対にレナさんの方が涼しいですわぁ。」
「でもかぁいい服の方がきっと楽しいよ。……はぅ!」
……レナと沙都子では根本的に価値観が違う気がするぞ。
「そう言えば…、この学校って指定の制服とかないんだよな。」
「うん。ないよ。相応しい服であれば私服でも大丈夫なんだよ。」
私服の生徒は確かに多い。制服を着ている生徒もいるが、みんなデザインは同じ、地味なものだ。しかし俺の仲間たちはみんなそれぞれ違う制服を着ている。
「…他の連中が着てる制服は何なんだよ。みんなお揃いだよな。」
「あれは町の学校の制服なんですのよ。別に決まってるわけじゃないですけど、みんな着てますわね。」
「そこへ行くと、俺らの仲間はみんないろいろな制服を着てるよな。…わざわざどこかから取り寄せたのか?」
「えぇ。魅音さんが調達して下さいますの。」
「魅ぃちゃんの親類で、古着商をやってる人がいて、全国の学校の制服を格安で仕入れてるんですって。」
「んで、その親類に頼んで、いろいろ個性的な制服を取り寄せてもらってるわけか。魅音のヤツ、仲間を着せ替え人形にして楽しんでるな、絶対。」
………しかし変な古着屋だよな。古着全般はわかるとして、全国の学校の制服を仕入れてる? …よくわからん古着屋だ。遠くの知らない学校の制服など、何の役にも立たないんじゃないのか??
「…うん。それはレナも思うよ。他にも体操服とかスクール水着のお古とかも扱ってるの。…そういうののお古はちょっと嫌だよねぇ。」
「あんまり儲かってなさそうな商売だな。……きっと少しでも儲けさせるために、魅音が一肌脱いでやってるんだろうな。」
「……でも、いつも魅音さんが自信満々に言いますのよ? 今にきっと大ブレイクしてすごい商売になる!! って。」
……学校制服の古着屋が大ブレイクねぇ? …わからん。