遙か凍土のカナン

第九回(2巻 第三章 馬市場)

芝村裕吏 Illustration/しずまよしのり

公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設せよ。広大なユーラシア大陸を舞台に、大日本帝国の騎兵大尉・新田良造(にったりょうぞう)の戦いが始まるー。

第三章 馬市場

チッタゴンの東には丘陵地帯があり、山がある。南には長大な砂浜があり、良造達は巡洋艦ペガサスからこれを見た。

東の丘陵地帯で天然ガスの試掘をしているということで、チッタゴンの街にもかなりの数のそれらしき英国人を見ることが出来た。うまく行けば何十年か先、ここにガスとうを使った不夜城ふやじょうができるかもしれない。

良造は馬を歩かせる。このあたりは人が多く、日本でいえば浅草あさくさ喧噪けんそうを思わせた。この道もまた日本と同じで舗装されておらず、馬には結構なものだった。石畳を闊歩かっぽすれば聞こえる馬の足音も、騎手にとっては馬の足が痛むのではないかと心配するものである。この点、未舗装路は余り心配しないでよい。

人多く、さやが当たったとかで喧嘩はとても出来ない風情ふぜい。まじめにやれば一丁いっちょう先の煙草屋にいくにも一〇遍は喧嘩しなければいけなくなる。ありえないほど人、人、人。それがチッタゴンであった。

グレンは数名の現地人を雇い入れていた。彼らは馬に積む良造やオレーナの荷物を並んで運ぶのである。馬があるのでいらないと良造は言ったが、グレンは難しい顔をして、いいから預けろと返した。

クロパトキン将軍が、馬の代わりに人間が運ぶのを見て非難めいたことを言っていたが、それとよく似た気持ちになっている。

良造はそんなことを考えた。額に紐をくくって補助としつつ背に大きな荷物を背負って歩く人々を見て、馬を使えばいいのにという気分になっている。荷物持ちは一様に陽気そうではあるが、大変であろう。

国から離れると、そういう気分にもなるのだな。あちらこちらに荷物を運ぶ人の列を見ながら日本にいた頃の感覚があやふやになる自分に驚く。

せめて人力車を使えばいいのに。いや、この人通りではそれすら無理か。ここは人の海原だった。馬や牛などそうそう見ない。

一際人が増える。どうにも進むのが難しくなる。あちこちに露店が並ぶ、祭りにあわせて開かれた市場というグレンの説明。常設ではなく、時折開かれるのだという。

この点日本によく似ている。だからという訳でもないが、良造は少し笑顔になった。馬に同乗するオレーナが朝から黙っているので、つられて自分も無口になっていた。

なんとか機嫌を直して欲しい。切なる願いである。彼女が笑顔になるようなものは何かないかと探しながら、遅々たる進みを繰り返した。

色とりどりの花で飾られた、縁起物と思しき、女神の姿や象面の美男子が描かれた小さな絵画が売られていた。今日のこの日は、女神ドゥルガーを讃える日であるという。

あちこちに香がかれ、煙たいほどであるのは浅草寺せんそうじも似たり寄ったりである。

「珍しいか。それとも退屈しているか」

グレンが馬を近づけて言った。

「いや、人の数に圧倒されている」

グレンと良造の間すら、人が抜けて歩いていく。グレンはその姿を見て、納得顔で口を開いた。

「ここは人が熱病で簡単にばたばた死ぬ。だから沢山生まれもする」

「そうか」

やまいに掛からぬように早く離れたいが、まあ、そのためには馬だ」

良造は頷く。ロシアまで一万km。馬二頭では心許こころもとない。

「馬で思い出したが、なんで人間が運ぶんだ。あれくらいなら馬だけで運べる」

「ああ、あれか」

グレンは背後を見た。おしゃべりしながらついてくる数名の荷物持ち。

「このあたりには物取りが多い。だが人足を雇えば問題はない。そういうもんだ。荷物持ちと窃盗団がグルだという奴らもいるが良くはわからん。それに馬よりずっと安い。この地を離れたがらないから旅行に使えないのは残念だが、正直、ここらだけで旅行するなら人間に荷物運びさせたほうがいい」

「なるほど」

「余り怒らんのだな」

「いや、仕事がなければ人は死ぬ」

良造はそう返した。

人の海でも物売りの小舟はやってくる。頭の上にザルを載せ、女たちが次々やってきては笑顔で果物や貝殻で作った小物、土産ものの絵などを持ってくるのである。

綺麗な絵葉書があったので、良造はこれを買い求めた。珍しい物が大好きな郷里の伯父に送るつもりである。

日本は明治の早い段階で万国郵便連合に加盟しており、国際郵便もそれなりに盛んであった。

ついでにと、目を走らせる。すぐに見つけた。

わらを編んで作ったつばの広い帽子を買い、良造はオレーナの頭に載せた。表情が見えないオレーナが、自分の袖を強く握るのを感じたが、言葉はない。

グレンは難しそうな顔でその様子を見ている。

「んで、馬市場はあそこだ」

「いい馬がいるといいが」

「軍馬はいないな」

「さすがにそれは分かっている」

大砲の音に慣らされた軍馬が普通に売られていたら大問題である。富士号にしてもセン馬だから払い下げが認められていたのであって、去勢きょせいされていなければ、新たな軍馬の種馬として使われていたはずである。

馬市場ははずれにある。女性の姿はまるでなく、男ばかり。子供の姿もほとんどない。馬が驚くといけないので大声を出す者もおらず、真剣に指をあげてそれで値段交渉をしているようであった。いちである。

国は違えど見れば一目で分かる馬喰ばくろうの姿が結構あって、良造はこれは安くないなと直感した。値段が分かる人間が沢山いるということは、相応の値段がちゃんとつくということである。

一方でそれなりの馬が出てくると思い、良造は安心した。

出品として運ばれてくる馬はいずれも優美なアラビア種ばかりである。綺麗にたてがみをすいて、花で飾られた馬はれする脚の動きを見せていく。軍馬としては細い富士号と比較してもほっそりしており、脚は速そうだが荷馬には難しそうである。競馬をするでもなし、こういう馬でも需要があるのかと思いきや、かなり競り合って売れている。

「何に使うんだ。ああいうの」

「英国人に売りつける。格好いいからな」

「なるほど」

納得しつつ、馬を物色する。荷馬と乗馬が二頭ずつは欲しい。丈夫で長く歩ける馬が良い。都合四頭、結構な出費である。グレンが仲買を通さず競り市に直接出向いたのは、こちらのふところを心配しての話に違いない。

イトウから渡された当座の秘密資金は日本であれば家が一〇〇軒は建つ金額だったが、この先どうなるか分からず、また国民の血税を無駄遣いするのも気が引けるので良造としてもありがたい話であった。

馬の相場を聞きながら、日本と余り変わらぬことに苦笑いする。おおよそ肉体労働者一人が一年働いて稼ぎ出すのと同じくらいの金額である。確かにこの価格なら人足を雇った方が、安い。

自動車や単車が出てから長年が過ぎ、陸上輸送の多くを鉄道にまかせるようになってもなお、未だ人類は馬なしにはいられなかった。

とはいえ、戦争における馬の時代も終わりであろう。良造は馬を眺めていく。民需みんじゅでも馬は消えゆくかもしれない。そうして少しずつ、長年のつきあいは終わる。馬と人は、遠ざかる。

それまで生きていたくはないがと思いながら眺めていると、あまり美しくはないが立派な体つきの馬が来た。荷馬ではなく乗馬という。

乗馬として訓練されていないと、背に人間が乗ったとき跳ねるので、荷馬と乗馬は価格に相当の差がついている。加えて最近長距離は鉄道を使うので乗馬の流行はアラビア種の優美な馬である。しかし、こんな場所までその流行が来ているとは思わなかった。

その上でこの馬。足は立派で、体格も立派。鬣の調子もいい葦毛である。最近あまり見ない馬だ。

良造はすぐに買い付けた。グレンに頼んでハンドサインをやってもらうのである。競りで粘る馬喰がいたが、良造は価格を気にするグレンを押し切り、競り勝った。荷馬も年寄りが多い中、中々のものを二頭選んだ。

後一頭。良造は少々肩の力を抜いてオレーナを見た。

「気に入った馬があれば、買いますよ」

オレーナは黙っている。どうにかして機嫌を直して欲しいものである。救いを求めて目を動かしていると、グレンは謝れと口の形でそう訴えかけてきた。謝れといっても、何を。良造は途方とほうに暮れかける。

「あの馬とこの馬の値段の違いは?」

不意にオレーナがそう言った。声は冷たいが聞けると嬉しいものだと良造は口を開いた。

「体格です。馬格といいます。大きいほど荷物が運べますが、最近は美しい馬が喜ばれます」

「あの馬とその馬は、同じような体格なのになぜ値段が違う?」

「年齢もありますが、めすだからですね。雌は子が産めます」

オレーナはしばらく黙った。ほっそりした美しい馬をさして、あれは駄目だろうかと尋ねた。先ほど尋ねた黒毛の雌馬だった。

「気性もおとなしいでしょうし、いいかもしれません」

良造はうまくいったと考えた。オレーナの機嫌は少し良くなったと考えた。思えば自分も小さな時には伯父に連れられて馬買いの所にいったものだ。良造はオレーナが目を伏せた事に気づかず手早く馬を競り落とした。

満足して馬を引き連れ、歩き出すと先ほど競り合った馬喰がやってきた。歳は二六の良造から見て一〇ほど上、肌浅黒く髪は巻き毛で短い。眼光鋭いが口は歯を見せて笑っている。いい笑顔をしているとは、思った。

「最後以外はいい買い物だった。長旅かい?」

片眉をあげたグレンに翻訳してもらいながら良造は頷いた。グレンはこの馬喰を好いてないらしい。商人は一切気にせず、笑みを浮かべている。

「しかし、最後は駄目だったな。最後は。統一感がない。俺はそこで隊商やってるんだ。馬が物足りなければ来てくれ」

「馬喰で隊商ですか」

「ああ、五〇〇ばかりの馬を連れて、あちこちをな」

「西はどうです?」

「海沿いに北、そこから西へ進むと河がある。小さな河船で渡るから大変だ。俺たちはそこまではいかない」

輸送費がかさめば儲けも減る。そもそも北は主たる輸送手段が船で、馬は余り使わないと言う。良造は頷いて後で見に行くと言った。

いい笑顔で手を振り、去っていく馬喰。一緒に後ろ姿を見送っていたグレンが口を開いた。

「あの商人、競り負けた腹いせに俺たちの情報を売るつもりだぞ」

「馬を買えば黙っている人種に見えた」

グレンは渋い顔。実際そういう事らしい。良造は苦笑する。

「噓を教えても良かったが馬を見る目は確かだ。馬を見て長旅と言い当てるあたり、頭もいい。馬はもう一頭あってもいいと思う」

「それだけの価値のある売買になればいいんだが、金持ちなんだな」

良造は苦笑した。

「いや、そうじゃない。ただ、地獄にまでは金を持っていけない。それだけだ。替馬かえうまはそれなりに持って行きたい」

そう言って一度宿に引き上げた。買ったばかりの馬の点検がいる。グレンと手分けして馬の様子を見る。病気などはないか、仔をはらんでいないかを見るのである。普通、仔をはらんでいれば価格にも影響するのが普通だが、グレンによれば回教かいきょうの教えにそういうことはしてはならぬとあって、それで価格には影響もなく、売る際に言及もないのだという。

「奴らは銀行も嫌うんだ」

グレンはそんな事を言って、肩をすくめて見せた。心臓たる銀行なしにどうやって商売の血流である金を動かしているのか、とも。

「ところで今日見た女神は、回教とはまた違ったようだが」

「頼むから人前で言うなよ。そんなこと。今日はヒンドゥーの祭りだ。まあ来週かそこらには今度は回教の祭りがある」

複数の宗教が順番に祭りなどをやるという。神仏を分けて以後の日本と同じようなものなのだなと、良造は納得した。

馬の口に触れ、舌の状態や歯を確認する。馬も慣れたもので暴れたりはしない。問題はなさそうである。蹄鉄ていてつを入れ直した方が良いのが二頭。他は良好。

立ったまま作業を見守るオレーナが、不意に口を開いた。

「私の選んだ馬は駄目だったか」

静かな声の中にある、深い憂慮ゆうりょ。グレンは寒気に当たったか、手袋を取って、そのまま煙草を吸ってくると言って逃げ出した。

オレーナと並んでグレンを見送る。オレーナはしゃがんでトウゴウ号をなでだした。

「駄目ではないですよ。あなたが選んだ馬は、昨今の流行です」

良造は優しく言った。犬もオレーナを心配そうに見あげて手を舐めた。

オレーナはトウゴウの頭をなでる。耳を倒して尻尾を振るトウゴウ。

「あの商人は駄目だと言っていた」

「統一感がないと言っていただけです。どうせならいかつい方で統一してよかったのでは、と」

「なぜそうしなかった。私の機嫌を取るためか」

オレーナは不意に良造を睨んだ。良造は微笑んだ。

「貴方が乗ることを考えると気性がおとなしく、小さめの馬が良いと思ったのです。それだけです。荷が軽ければほっそりしていてもいいのです」

「馬からも私を追い出すのか。そうか、分かった」

「いやいや」

オレーナが泣きそうなので良造はその手を引っ張って寄せた。細い手はトウゴウが舐めていたせいで妙にぬめぬめした。

「自分で自由に馬を操るのは楽しいものです」

オレーナは氷のような青い瞳で良造を見た。顔がこわばっていると、青い目が冷たく見えた。

「いつも私の幸せを勝手に決めるのだな」

良造は痛いところを突かれた気になる。あるいは藤子もそうだったんだろうか。

「決めていません」

良造はそう言いながら、だとしたら皆俺のせいだなと考えた。俺が皆悪い。

「噓だ」

オレーナは言う。少しすねている。機嫌は上向きか。

「噓ではなく」

良造は優しく、そう噓を言った。

「ぶっきらぼうに」

「噓じゃない」

オレーナは良造を見る。そっぽを向く。

「噓ばっかり。私に言われないと言葉遣いだって他人行儀だ」

少々ずれているような気がするが、痛いところは突いている。良造は顔をしかめた。

「そういうわけでは。あー」

良造はオレーナが選んだ黒毛を見た。尻尾を振る黒毛はまだ若く、人間のやりとりが面白くて仕方のない様子。良造とオレーナは黒毛から目を離して互いを見る。

「そんな風な態度で馬にはあたらないでください」

「あたってはいない。正当な抗議だ」

「馬は臆病なのです。人間が親しいつもりになっても馬がそうだとは限らない」

良造がそう言うと、オレーナは馬を見た。黒毛はつぶらな瞳で見た後、ちょっと興奮した。犬猫を含め、動物は全般として、見つめられるのは苦手である。

オレーナは慌てて目を逸らした。

「どうすればいい?」

「馬のいいようにさせてください。そのうち馬の気持ちが分かります」

良造の言葉の意味を考えるオレーナ。顔をあげて良造を見上げる。

「私の目の前の男はどうだろうか」

「それはまあ、手を洗いましょう。べたべただ」

お茶を濁そうと、外で煙草を吸うグレンを捕まえ、馬商人のもとへ行く。

蹄鉄を入れなおす必要がある馬も連れて行く。馬喰なら馴染みの鍛冶屋もあるはずである。

馬は人間との長いつきあいの末、随分と品種改良してその姿を変えていった。結果として脚力は強く、長距離を走ることになり、ひづめはあっという間に磨耗まもうしたり割れたりするようになった。度重なる品種改良も、蹄を強くするには限界があったのである。

蹄が磨耗すれば馬は走れなくなるので、それが乗り物としての馬の性能を強く制限していた。そこで生まれた発明が蹄鉄、蹄の磨耗を防ぐ道具である。

蹄鉄という形で蹄が改善されてから、馬というものは経済動物として飛躍的に寿命が延び、また長距離を走ることになった。

「随分早く来たな。急ぎかい?」

「いや、そこまでは急いではいないんだが、蹄鉄がね」

グレンが馬の足を見せると、馬喰はすぐに事情を理解したようだった。

「蹄鉄だな。わかった。直ぐに案内する。ついでだ、何か買わないか」

馬を見る。高いが、馬喰の目は確かそうだった。良造は苦笑して、頷いた。

「一頭くれ」

「一頭でいいのか。ロバもあるが?」

「とりあえずは馬だけでいい」

商談を済ませ、馬の側に野営用のテーブルと椅子を出して良造と馬喰、グレンとオレーナは座った。茶を出されて吞む。ぬるいがうまい紅茶だった。良造としてはこれぐらい渋い方が好みなのだが、オレーナは一口、口を付けたままで飲まなくなった。

馬喰は笑顔で言う。

「蹄鉄が出来るまでまああと半時というところだ」

「ありがとうございます」

良造が言うと、馬喰はにやりと笑って皺深い口を笑わせた。

「俺は口が固いからあれだが、事情があるなら早く動いた方がいいな。その娘は目立つ」

オレーナは冷たい表情を浮かべてじっとしている。そうしていると人形のよう。

「まあ、三人組は目立つよな。三人組は」

グレンは馬一頭売りつけといて、よく言うよという顔でそう返した。

馬喰は満面の笑みで笑った。

「そうだな。三人なら目立つよな。それで引っかかるやつがどれくらいいるかはしらないが」

良造は笑った。

「馬やロバはこれ以上いらないが、他に役立つものがあれば買いたい」

馬喰はいい笑顔。

「銃なんかどうだ。北に行けば必ず使うぞ。野犬に山賊、いろいろいる」

「南北戦争時代の骨董品こっとうひんならお断りだ」

うんざりした口調でグレンは言った。余程この手の話に乗せられているのであろう。

アメリカ合衆国を二分し、日本への圧力をまんまと弱めてしまった南北戦争は、今もって最大の銃器を使用した戦争だった。日露戦争で使われた銃器より遙かに多い数が使われたと言えば、規模も知れよう。

かれこれ五〇年経つこの頃でも、南北戦争で使われた大量の銃器が世界中で安価に転売され、治安などに悪影響を与え続けていた。

グレンの横槍に笑う馬喰。

「もっと最新だ。仕上げは簡素だがな」

馬喰は銃を持ってこさせた。布にくるまれた銃である。

「今をときめく日本製だ。ロシア人だってこれにかかればばたばた死ぬ」

良造は目を見開いて銃を見た。村田銃むらたじゅうだった。一三年式ですらなくより新しい一八年式である。銃身には菊の紋も確かに入っており、良造は驚愕きょうがくした。このごろようやく有坂銃ありさかじゅうが行き渡って余剰よじょうになってきたとはいえ、一つ前の戦争である日清戦争時代の主力銃である。

表情を見て馬喰はしてやったりという顔。

「仕上げが青で、そこんところは余り良くないが、にしても安くて丈夫だ。どうだ」

「まあ、だがこの銃には問題がある」

良造は内心の驚きを消しながら口にした。馬喰は片眉をあげている。

「なんだ?」

「弾がないはずだ。どんなに優秀でも弾がなければ使えない」

馬喰は苦い顔をしたあと、直ぐに笑った。

「フランス式の弾なら流用できる。グラースだ。少しだけヤスリを入れる必要はあるが、何、少しだ」

グレンが面白くないように口を開く。

「フランスの弾が英領であるインドにそうそうあるものか」

「港に行けば買えなくもない」

「北にいこうとする奴に売りつける銃がそれか」

グレンと馬喰の間で商談とも悪口の交換ともいえないやりとりが開始された。両者切迫した感じではあるが、これがこの地本来の商談かもしれない。金を出す良造はというと、放って置かれた。仕方なく銃を手に取り、眺める。初年兵当時、訓練の時に使っていた銃である。当時一部は村田銃の形式に改造した外国産銃だったが、それでも日本の銃は心強いと思った覚えがある。

南北戦争後の紛争地域なら世界中どこもそうだったが、幕末から西南戦争までの日本でも、大量のアメリカ銃やアメリカで使われたヨーロッパの銃が流れ込んできたものである。日本の富は内戦を戦うために、多くが外国に流れていったものだ。商人を名乗る外国人が持ち込んだ銃を買って同国人を撃つのだからあっという間に国は傾いた。江戸時代と比較しても明治が始まってからの一五年は厳しいものだった。その後何でも国産を叫んで富の海外流出阻止が合い言葉になって今に至るが、政変や技術導入という変化で気を紛らわせていなかったら、その後の日本人はもっと鬱屈うっくつしていたかもしれぬ。

気づけばオレーナが、氷のような青い瞳で良造を見ている。まだ機嫌は、直ってないらしい。それとも先ほどお茶を濁したのを不満に思ったか。

「良造はこの銃でロシア軍と戦ったのか」

「いいえ、この銃はもっと昔のものです」

そうか、と言ってオレーナはまた黙った。良造はオレーナの機嫌をどうにか良くできないかと考える。馬ならなんとかなると思ったのだが。

「今度はこれで、貴方を守ります」

そう言うと、オレーナは不意に顔を赤くした。氷が溶けたような感じで、良造はそれが嬉しかった。

「そうやって蕎麦畑そばばたけに飛び込むことをあちこちで言って回っているのだろう」

「どういう意味ですか? それは」

「ぶっきらぼうに!」

「どういう意味だ」

オレーナは不意に黙った。横を見た。

「秘密だ。そしてこれは、正当な復讐であることを宣言する」

良造は参った。元はといえば自分が蒔いた種である。

「機嫌を直してください」

「私とて不機嫌になりたいわけではない。大人げないとは思う。でも駄目なんだ」

オレーナは小さく言った。突然の笑い声。オレーナと良造が驚いて見ればグレンと馬喰が古くからの友人のように握手している。

「銃を五〇〇丁手に入れたぞ。弾丸も一万はある」

グレンは晴れ晴れと言った。

「どこをどうしてどうなった」

オレーナの質問は的確に過ぎた。

「量が多すぎる」

良造の言は、端的だった。

グレンは馬喰と短く話した。

「ロバが一〇頭つく。無料でだ」

グレンの言葉に、大きく馬喰が頷いている。

「そんなに仕入れてどうするんだ」

答えになっていないぞという気配を込めつつ、良造が尋ねるとグレンは笑顔で答えた。

「インドの北、中央アジアではロシア人が南下と侵入をはじめて久しい。困っている部族も多い。ロシアとの対抗上、イギリスとよしみを結びたい奴らもな」

「要するに売るのか」

「貸してくれ。儲けの七割は渡すから」

グレンは濡れたような黒髪を振って言った。日本ならば両手をあわせて頼み込むところである。馬喰にうまく丸め込まれた気もするが、グレンが元からそういう人間であるような気もする。つまり儲け話に弱いのだった。

良造は顔をしかめたふりをしつつオレーナを見る。ロシアからの分離独立を目指しているとはいえ、ロシア貴族として序列されているオレーナにとっては、あまり耳ざわりの良い話でもあるまい。

オレーナも顔をしかめつつ、重々しく口を開いた。

「売る際は、我々全員の合意を取ること。それが条件だ」

嬉しそうに顔をあげて笑うグレン。

「もちろんだ。良造。価格はこんぐらいだ。安いだろ、安いだろ」

良造は手帳の数字を見る。習志野なら家が三軒建つ値段である。しかし元々製造された価格を考えれば、大変な安さ、ともいえた。日本国民の血税が叩き売りされていることに良造はため息をつきつつ、小さく頷いた。

せめて銃に刻まれた菊の紋くらいは消してやりたい。

気づけば大変な所帯になっている。三人ではとても無理であり、人を雇いながら旅をすることになった。案内人に、ロバを見る係が必要だし、ロバや馬の食料などを運ぶことも考えれば、さらにロバがいる。

ロバは馬の親戚である。実際一代限りではあるが交配する事も出来はする。これをラバという。馬と比較して粗食そしょくであり、小さい割に力が強い。また扱いやすいので荷役に広く使われている。一方で速度は遅く、結果として長旅になることが予想された。普通、ロバを連れて旅行することはないのである。

やれやれと思いつつ、護衛もいるなと良造は考えた。大所帯である。秘密資金に余裕はあるとはいえ、無駄遣いではないかと苦い顔をした。しかし、規模が大きいほど旅は安全になり、危険は低くなる。歩みも遅ければ負担も少ない。

オレーナの事を考えればこれは致し方ない。

それにうまく行けば、実際どうかはわからないが、儲けも出るという。これで補塡ほてんすれば、納税者にも言い訳が立とう。

グレンに護衛や案内の人選を任せつつ、馬を引き連れて宿に戻る。帽子をかぶっているとはいえ、オレーナを休ませなければならないと思ったのだった。

一緒に馬に乗り、歩く。オレーナは藁で作った帽子を深くかぶりながら口を開く。

「いいのか。大所帯になったが」

「大所帯の方が安心できます。そもそも襲われる可能性も低くなる」

「そういう話ではなく。ええと」

帽子で表情は窺い知れないが、オレーナは躊躇している。耳を澄ませば、小さな声が聞こえてくる。

「いいんだろうか。かなりお金を使わせている気がする」

「まあ、なんとかなるでしょう」

良造はそう答えた。必要経費といえないものまで買った感じはするが、グレンも無策ではあるまい。

それに新鮮な体験ではあった。良造にとり、銃は国から与えられるもので、自衛用の拳銃を除いて銃を購入したことがなかった。今、銃の相場や取引の実態に触れて随分勉強になった気がしてもいる。

極東にコサック国を樹立する密命について考える。基本、大陸に展開する日本軍に馬を供給するような立場だが、自衛のためにそれなりの武装は必要だろう。今日の売買で得た情報は、役立つはずである。

書き付けの一つも残したいが、グレンの持っているような手帳がほしい。

「済まない。私は良造に迷惑をかけてばかりだ」

下を見て言うオレーナの言葉に、良造は我に返った。

「何がですか」

「迷惑を

「いえ。別に。楽しくやっております」

その答えは余り気に召さなかったらしく、オレーナは口をとがらせた。

「そこはぶっきらぼうに言うところだ」

「気にするな」

もう少し慰めてくれてもいいと思う」

難しいな、どう言えばいいんだ。騎兵は馬と話せたら御の字であり、人間相手に喋るのはあまり重視されない。

「慰め方が分からない」

腕に摑まるオレーナの手が熱くなった気がする。

「そのうち教える」

かなり複雑なようである。良造は嘆息たんそくした。