2013年のゲーム・キッズ

第三十回 自殺

渡辺浩弐 Illustration/竹

それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。

第30話 自殺

BUGʼS DEATH

ぱさぱさという羽音を聞き、反射的に自分の耳を叩いていた。

それで目が覚めた。上半身を起こしかけたら、誰かの手が肩口に触れた。

「どうぞそのまま、お休みになっていてください」

僕を見下ろしているのは、化粧っ気がない、それでいてとても美しい女性だった。

僕は、ベッドの上にいた。天井も壁も丸太造りだ。ログハウスの中だろうか。

彼女は僕の枕元からそっと何かをつまみ上げ、ベッドサイドのテーブルの上に置いた。小さな蛾だった。羽が折れているが、まだひくひくと動いている。

「これから死のうとする人が、無駄な殺生はいけません」

「そうだ、僕は

「わかっています。こんな山奥までわざわざいらっしゃる方に、他に理由はありません。ただ、あなたはこの施設にたどり着く直前、崖下に落下されていたようです。私たちが救助して、ここまで運んできました」

そうか僕は山道で足を踏み外したのだ。皮肉なことに、それで死なず、しかし目的地にはたどりついていたのだ。

死ぬことはやはり、とても難しい。現在は法律で自殺が禁止されている。しかもこれほどの監視社会である。致死量の薬品を買ったり危険な場所に足を踏み入れたりしただけで、すぐに捕まってしまう。もし決行できたとしても、必ず死ねるとは限らない。薬を飲んでもたいていは吐いてしまう。屋上やホームから飛び降りても、首を吊っても、拳銃で頭を撃ち抜いても、実のところかなりの割合で、生き残るものなのだ。そのせいで大きく傷ついてしまったとしたら、以降は自分で死ぬ自由すらなくなる。さらに厳しくなった監視の目の下で、生き恥をさらし続けなくてはならない。

「ここに着くまで待ちきれずに、あそこで飛び降り自殺を試みたわけではありませんね?」

「いや、ただ虫に驚いて

正直に応えてしまって、顔が赤くなった。あの時、歩き疲れて何気なく木に手をかけたら、小さな虫がわっと落ちてきた。僕は虫が大嫌いなのだ。数匹が首筋から服の中まで入り込んできて慌ててしまい、足を踏み外した。

「ではこの村に来るつもりだったということで間違いありませんね」

僕は頷いた。ここは“自殺村”だ。確実に、そして無痛で自殺できるように、支援してくれる施設である。合法だが、世間からのバッシングがあるため、人里離れた山奥でひっそりと運営されている。

「わかりました。では安心して、死んで頂きましょう」

僕がたじろぐ様子を見て、女性は微笑んだ。

「まず、これをお飲みなさい。恐怖心を消す効果がある薬です。人間の脳は、死を恐怖するように生まれつきセットされています。その動物的本能を失うことによって、我々の言うことが理解しやすくなります。そう、一通り聞いておいて頂かなくてはならないことがあります」

口に差し込んでもらったストローを吸った。生ぬるい、甘い液体だった。

すぐに体全体がふわっと軽くなった。

「まず私たちについて説明しておきます。よく誤解されますが、宗教団体ではありません。DNA至上主義を提唱している科学者のグループなのです」

これから語られるであろうことを僕は既に知っていたが、これは逮捕される時に聞くミランダ条項と同じで、形式的に行われなくてはならない儀式なのだ。

「私たちは、全ての生命は、量子通信によって別宇宙から立ち現れてくるものと考えています。DNAは、その端末として機能しているのです。DNAという存在を絶滅させないように守ることこそが人類の、いえ全生物の使命です。そのためなら、個体の死など、どうでもいいことです。例えばあなたが死んだとしても、この世にDNAというものが存在する限り、問題はない。そこからまた“生まれ変わる”ことができるのです。むしろ、地球上のDNAの進化と繁栄にプラスしない、つまり生きていても無駄な人は、どんどん死ぬよう支援されるべきです。あなたのことは調べました。今後、繁殖の可能性も、他の人間の繁殖に寄与する可能性も、ほとんどないという結果が出ています。ですから、安心して死んで頂けることになっています。虫がお嫌いなのですか?」

僕は頷いた。顔の前で飛んでいるハエが気になって、目で追っていたのだ。

「私たちは虫を殺しません。科学的なシミュレーションの結果、昆虫は、DNA維持に貢献する重大要素と結論づけています。この話も大事なことです」

彼女は身を乗り出し、ほとんど僕に覆い被さるようにして言葉を続けた。その息は柑橘系の果物の匂いがした。

「昆虫は不思議な生物です。4億年ほど前に突然現れ、3部位に分かれる体と6本の脚、この同じシステムで100万種類もの多様化を成し、陸上、空中、水中と地球上のあらゆる場所にはびこりました。自ら繁栄するだけでなく、その存在は環境を安定させ、媒介としてあるいは栄養分として役立ち、動植物を、とりわけほ乳類を劇的に進化させました。ところが環境激変のため、現在の地球上では1日に数種類の昆虫が絶滅しているとも言われています。我々がこの温暖湿潤な国の森の中を選んだのは、自殺者のサポートだけではなく、昆虫の多様性を守るという目的があったからです。ご理解下さい。あなた達には、最後に、わずかですがDNAの繁栄に貢献しながら、死んで頂きます。つまりこういうことです」

彼女は僕の胸の上から白いシートをぱっと取り去った。僕が横たわっていたのはベッドではなく浅い水槽だった。僕の胸から下は液体に浸されていた。というより僕は、そのどろどろの液体と一体化していた。

液体は僕の意志とは関係なく、くねくねと、うごめいていた。よく見るとそれは、大量のウジ虫だった。

「ある種の昆虫の幼虫は、ほ乳類の血肉を、それも腐敗したものではなく、新鮮な、活動中の細胞を、大変に好みます。だから自殺希望者にはこうして数週間、虫の餌になって頂きます。どうせ不必要となった肉体です。有効に活用させて頂くわけです」

叫ぼうとしたが、かすれ声しか出なかった。首から下の感覚がなく、力が入らないのだ。

「あなたはこの状態であと3週間から4週間ほど、生き続けます。それから死にまして、その後に、生まれ変わることでしょう。さて、最後に最も重要なことをお教えしましょう。あなたの来世についてです。量子空間の情報を確保することはできませんから、我々は確率で考えます。それでほぼ確実な結論が出せるのです。まず、あなたが再び生まれる場所。それは間違いなく、この地球上です。地球外に生命が存在する可能性は1京分の1未満だからです。そしてあなたの、形。私たちにはわかります。虫です。99.9パーセントの確率で、あなたは、虫になるのです。なぜなら、意識を持つ、すなわち脳を所有する存在としては、この地球上の生命の99.9%以上が、昆虫だからです」