2013年のゲーム・キッズ

第十回 彼女の右手

渡辺浩弐 Illustration/竹

それは、ノスタルジックな未来のすべていまや当たり前のように僕らの世界を包む“現実(2010年代)”は、かつてたったひとりの男/渡辺浩弐が予言した“未来(1999年)”だった——!伝説的傑作にして20世紀最大の“予言の書”が、星海社文庫で“決定版”としてついに復刻。

第10話 彼女の右手

LET NOT THY LEFT HAND KNOW

>高浜理沙子です。並木くんに話したいことがあります。保健室に来てください。

驚いた。委員長が、授業中に、しかも僕なんかに、メールしてくるなんて。

そっと視線を上げて確認した。高浜さんの席は空だ。

いたずらかもと疑いつつ、僕はトイレに行くふりをして教室を出た。

保健室は静かだった。養護教諭もいない。その時またメールが入った。

>来てくれたのね。ありがとう。私はベッドにいます。

ベッドは、奥の白いカーテンの向こうだ。

>こっちに来て、隣に寝てください。そのまま、じっとしていて。

僕は操り人形みたいにぎくしゃく歩き、カーテンを開けた。ベッドが膨らんでいた。掛布をそうっと剝ぐと、女の子の横顔があった。目を閉じてるけれど、間違いなく、高浜さんだ。動かない。呼吸の音だけがかすかに聞こえる。

靴を脱ぎ、勇気を出してそっと隣に滑り込んだ。彼女は壁際を向いていて、表情はわからない。きれいな黒髪。首筋は陶磁器のようにつるつるしている。僕は次に何をすればいいのかわからず、天井を見上げた。

(あっ)いきなり大声を出しそうになって僕は自分の口を押さえた。

触られていた。ズボンのところを。

横目で見たけど高浜さんの頭も、肩も、微動だにしない。僕はそっと掛布を持ち上げて自分の下半身を覗いた。袖をまくり上げた高浜さんの白い手が、僕のズボンのベルトを素早く器用に、かちゃかちゃと外し始めていた。こういう時はどうすべきなのだろう。そうだ >じっとしていて。 と命じられた。何もしてはいけないのだ。

まるで別の生き物のように動く手。

その手首の部分に傷跡がたくさんついていることに僕は気づいた。

その瞬間、枕元にティッシュの箱を発見し危うくベッドを汚さなくてすんだ。

我に返った時、目の前に、ぱっちりと目を開けた高浜さんの顔があった。

「あなた、誰」

その表情は硬かった。委員長はすっと立って、口をぱくぱくさせている僕をまたいでベッドから下りた。そして、すたすたと去っていった。

僕は、自分の下半身に残る感覚を確かめた。そして手の中のティッシュを握りしめた。間違いない。さっきのことは絶対に、現実だ。

気を取り直し、急いで教室に戻った。高浜さんは席についていて、僕とは目を合わせようともしなかった。僕は手首の傷を思い出した。

数日後、またメールが来た。

>実は私は、あなたが高浜理沙子と思っているあの人物とは、別の存在です。

やっぱりだ。高浜さんはメンヘラなのだ。

>私は彼女の右手なのです。このメールは彼女が眠ってる隙に打っているものです。すぐに削除していますから、彼女には気づかれていません。先日の保健室の一件も、私がやったことなのです。私は彼女とは別の自意識を持っています。

別の自意識? 二重人格という意味なのか。

>私は、右手です。ただし、意識を持った、自我を持った、右手なんです。

並木くん、あなたの意識はどこにあるのか、考えたことがありますか。きっと頭の、脳の中のどこかという感覚があると思います。その通り、思考というものは脳細胞の中で起きている電気的化学的な反応です。さらに拡大していくと、それは脳の神経細胞の中の、量子レベルの微少構造物による回路での出来事ということになります。

けれども、脳細胞は一つではありません。また脳だけでなく、全身に神経細胞は分布しています。並木くんが自分だと思っているその、脳の中心にいる細胞は、たまたまそこから全てをコントロールするセンターの役割をしている、というわけです。しかしそれ以外の脇役達も、そう百億千億もの数の細胞も、一つ一つそれぞれが意識を持っているのです。胃や腸の細胞も、心臓や血管の細胞もです。ただしそのことは、誰にも知られることはありません。自分は自分なんだ、意識があるんだと表現するためには、他の細胞をコントロールして、例えば声を出したりしなくてはなりません。全身のほとんど全ての細胞は、意識があっても、それができません。

私は、そんな、中心になれなかった神経細胞の一つです。

ところがある時、奇蹟が起きました。原因は、高浜理沙子がたわむれに手首を切っていたことです。神経が切れてはつながり、また切れては別のところとつながり長い間そんなことが繰り返される中で、偶然が起きました。私は高浜の脳からの指示とは関係なく、自由に動けるようになりました。

あなたの存在は高浜の脳を経由してくる情報で知ることができました。そして私はあなたが好きになったのです。

そうです。私は、並木くん、あなたのことを愛しています。

これは彼女の妄想なのだろうか。いや、もしかしたら本当に僕は混乱しながらも、高浜さんを、いや彼女の右手を意識するようになっていた。

授業中、しゃんと背筋を伸ばしている高浜さんをよそに、その右手は、机の上にしどけなく投げ出されていた。保健室で見た時のように、肘のあたりまで袖をまくり上げていることもあった。それは、小さな小さな裸の少女が寝そべっているように見えた。僕が見つめていると、右手は時々こちらに向かって、誘いかけるようにひらひらと動いた。

>並木くん、私には、あなたの心の中がわかります。

とある日曜日。高浜さん、いや彼女の右手からまたメールが来た。

>私には体がありません。だからあなたは私を愛してくれません。そうですね。手だけじゃものたりない、って、そう思っていますよね。

その通りだった。保健室の記憶は焼け付くように残っていたけれど、それでも右手だけと恋に落ちるということに、どうしても現実感を持てなかった。僕は彼女の全身を求めていたのだ。

>もちろんあなたと高浜の全身がちゃんと付き合ってくれれば私は幸せです。けど二人がそうなるのは、普通の方法ではどうも不可能のようです。脳の方から伝わってくる情報によると、高浜はあなたのことが好きじゃないみたいなので。悪く思わないでください。私はあなたが好きです。だからあなたが求めていることを、実現するように努力したのです。私にとってはとても大変なことでした。並木くん、すぐに来てください。ただし絶対に、誰にも言わないで。

住所が記されていた。なんだかやばい予感がして、僕は興奮した。

たどり着いてみるとそこは、住宅街の端にある空き家だった。もう長いこと放置されているようで、荒れ果てていた。玄関の鍵はかかっていなかった。

奥の広い部屋に、高浜さんが倒れていた。目隠しされ、全身を縄でぐるぐる巻きにされていた。その縄の隙間から右の腕だけがにょっきりと出ていた。やがてその指が動き、床の上に置かれたケータイの上を踊り始めた。

>来てくれたのね。成功しました。ごらんの通りです。罠にかけたのです。私は、今まで宿主だった高浜理沙子を、今は従えています。さあ並木くん、今ならあなたは、彼女を自由にできます。殺す以外なら、何をしてもいいのです。

近づいてみた。荒縄の下は、ほとんど裸だ。いい匂いが立ち上ってくる。

僕は目を閉じてその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。くらくらする。

目を開けると、高浜さんが立ち上がっていた。荒縄がばらばらと床に落ちた。本当は縛られていなかったのだ。

彼女は一歩、近づいてきた。銀色のものがきらめいた。と、思った瞬間、視界いっぱいに赤い飛沫が散った。少し遅れて首に激痛が来た。両足から力が抜け、僕は倒れた。僕の喉元からどくどくと血液が流れ出していく。

横ざまになった視界の中に高浜さんの顔がまた現れた。舌を出しながら覗き込み、僕の目をべろん、と嘗めた。

「ごめん、あたしあなたの目玉だけが好きだった。他の部位は、いらなかった」

そして彼女は僕の顔の前にかたん、と何かを置いた。透明の大きな瓶だ。理科室で見たことがある、カエルの死体標本とかが入っているような頑丈なガラス瓶。その中には、無数の白い球体が泳いでいた。

わかった、目玉だ。

そしてナイフが僕の目玉にも、迫ってきた。