Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第27回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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冬木市新都の郊外、小高い丘の上に立つ冬木教会に、その夜、予定通りの来訪者が現れた。
「――聖杯戦争の約定に従い、言峰綺礼は聖堂教会による身柄の保護を要求します」
「受諾する。監督役の責務に則って、言峰璃正があなたの身の安全を保障する。さあ、奥へ」
万事申し合わせていた両者にとっては失笑ものの茶番であったが、門前ではまだ誰の目があるかも解らない。言峰璃正は厳しい面持ちで公正なる監督役を装ったまま、同様に敗退したマスターの役迴りに甘んじている息子を、教会の中へと招き入れた。
外来居留者の多い冬木市においては、教会という施設の利用者も他の街に比べて数多く、この冬木教会は極東の地にありながら、信仰の本場である西欧なみに本格的で壮麗な構えになっている。が、一般信者たちの憩いの場というのは表向きの擬装でしかなく、もとよりこの教会は聖杯戦争を監視する目的で聖堂教会が建てた拠点である。霊脈としての格も第三位であり、この地のセカンドオーナーである遠坂家の邸宅に匹敵するという。
当然、ここに赴任してくる神父は、マスターとサーヴァントの死闘を監督する役を負った第八秘蹟会の構成員と決まっている。即ち、三年前からこの教会で一般信者を相手に日々の祭祀を司ってきたのは、他ならぬ言峰璃正その人であった。
「万事、抜かりなく運んだようだな」
奥の司祭室にまで綺礼を通したところで、璃正神父は演技を止めて訳知り顔で頷いた。
「父上、誰かこの教会を見張っている者は?」
「ない。ここは中立地帯として不可侵が保障されている。余計な干渉をしたマスターは教会からの諫言があるからな。そんな面倒を承知の上で敗残者に関心を払う者など、いる道理があるまい」
「では、安泰ということですね」
綺礼は勧められた椅子に腰掛けると、深く溜息をついた。そして――
「――念のため、警戒は怠るな。常に一人はここに配置するように」
冷ややかな命令口調で、誰にともなく語りかける。もちろん父に向けた言葉ではない。傍らにいる璃正神父も、息子の奇怪な発言をまったく訝る素振りを見せない。
「――それと、現場の監視をしていた者は?」
「はい、私でございます」
虚空に問いかけたかに見えた綺礼の言葉に、今度は返答の声が上がった。女である。部屋の片隅にある物陰から、まるで湧いて出たかのように黒衣の女性が現れる。
綺礼も璃正も、その出で立ちには眉ひとつ動かさなかった。――が、それは本来であれば有り得ない人物を示す姿恰好の女であった。
小柄で柔らかな体格を包み込む漆黒のローブと、その顔に塡められた象徴的な髑髏の仮面。それは、まぎれもなく暗殺者の英霊、ハサン・サッバーハであることを示す装束である。
「アサシンの死の現場に居合わせた使い魔は、気配の異なるものが四種類おりました。少なくとも四人のマスターが、あの光景を見届けたものと思われます」
「ふむ……一人足りないか」
思案げに目を細めてから、綺礼は傍らの父を見遣る。
「父上、『霊器盤』は間違いなく、七体のサーヴァントの現界を感知していたのですね」
「ああ、相違ない。一昨日、最後の『キャスター』が現界した。相変わらずマスターからの名乗り出はないが、此度の聖杯戦争のサーヴァントはすべて出揃っているはずだ」
「そうですか……」
綺礼としては、できれば五人全員に今夜の茶番を見届けてもらいたかったのだが。
「そもそも今の局面で御三家の邸宅を監視するというのは、聖杯戦争に参加するマスターとして当然の策でございましょう」
脇に控える髑髏の女――ハサン・サッバーハでしか有り得ないはずの人物が、言葉を挟んだ。
「その程度の用心も怠るような者であれば、どのみち我らアサシンを警戒する神経など最初から持ち合わせておりますまい。結果としては問題ないかと」
「うむ」
マスターである言峰綺礼がサーヴァントを喪ったのであれば、その手に刻まれた令呪もまた、未使用のままに消滅するはずである。だが彼の筋張った手の甲には、依然、三つの聖痕が黒々と刻まれたまま残っている。
つまり……アサシンのサーヴァントは消滅していない。いま言峰親子の傍に侍る仮面の女こそが、真のハサン・サッバーハなのだろうか。
「死なせて惜しかった男か? アレは」
そう綺礼から問いかけられた仮面の女は、冷然とかぶりを振った。
「あのザイードは、我らハサンの一員としても、取り立てて得手のない一人でした。彼奴一人を喪ったところで、我々の総体には大した影響もございません。が――」
「が、何だ?」
「――大した影響でないとはいえ、それでも損失は損失でございます。言ってみれば指の一本が欠け落ちたようなもの。無益な犠牲であったとは思いたくありませぬ」
謙った物言いとは裏腹に、内心ではこの女が大いに不満を懐いているのを、綺礼は耳ざとく聞き取った。もちろん無理からぬことである。
「無益ではない。指一本の犠牲で、お前たちは他のマスターをまんまと欺いたのだ。すでに誰もがアサシンは脱落したものと思っているだろう。これで隠身を主戦略とするお前たちが、どれだけ優位に立てたと思う?」
「はっ。仰せの通りでございます」
黒衣の女は深々と頭を垂れた。
アサシンが排除されたものと油断しきっている敵対者たちの背後に、今度こそ影の英霊は、誰一人として予期し得ない脅威となって忍び寄ることになる。いったい誰が知ろうか――敗退マスターとして教会に逃げ込んだはずの男が、今もまだ膝下にアサシンのサーヴァントを従えていようとは。
それは聖杯戦争という奇跡の競い合いにおいても、明らかに怪異な事態だった。
たしかにハサン・サッバーハという名が示すのは、単一の英霊ではない。“山の長老”を意味するハサンの名は、かつて“暗殺者”の語源ともなった、中東のとある暗殺者集団の頭目が襲名する称号でしかない。つまりハサンを名乗る英霊は歴史上に幾多も存在する。もちろん女のハサンがいたところで何の不思議もない。
だが大原則として、聖杯戦争に招来できるアサシンのサーヴァントはただ一人きりである。他のマスターから支配権を強奪することによって二人以上のサーヴァントを従えることも、理屈の上では不可能ではないが、だからといって二人以上のアサシンを同時に配下に置くというのは、明らかに聖杯戦争の原理を逸脱していた。
「どのような形であれ、ともかくこれで戦端は開かれたわけだ」
厳かに嘯く老神父の声には、揺るがぬ勝利への期待が込められていた。
「いよいよ始まるぞ、第四次聖杯戦争が。どうやらこの老骨も、今度こそ奇跡の成就を見届けられそうだな」
父の熱意とは心の温度を共有できないままに、綺礼はただ黙して、薄闇のわだかまる司祭室の片隅を見据えるばかりだった。余人にとってどうであれ、彼が期待するところの聖杯戦争は、まだ始まる兆しすら見えていない。
そう、言峰綺礼が待ち受けるただ一人の標的――衛宮切嗣は、未だこの冬木の地に姿を現していないのだ。