Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第23回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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さて、そんな雨生龍之介という殺人鬼は、つい最近になって“モチベーションの低下”という由々しき事態に悩まされていた。
かれこれ三〇人あまりの犠牲者を餌食にしてきた彼だったが、ここにきて処刑や拷問の手口が、似たり寄ったりの新鮮味に欠けるものになってきたのである。すでに思いつく限りの手法を試し尽くしてしまった龍之介は、どんな獲物を嬲り、断末魔を見届けるのにも、もう以前ほどの感動や興奮を味わえなくなっていた。
ひとつ原点に立ち戻ろうと思い立った龍之介は、かれこれ五年ぶりになる実家に帰省し、両親が寝静まった深夜になってから裏庭にある土蔵に踏み込んだ。彼が最初の犠牲者を隠匿したのが、もはや家人たちにすら放棄されていた、その崩れかけの土蔵の中だったのだ。
五年ぶりに再会した姉は、姿形こそ変わり果てていたが、それでも龍之介が隠したそのままの場所で弟を待っていた。物言わぬ姉との対面は、しかし、これといった感慨ももたらさず、龍之介は無駄足だったかと落胆しかけたが、そのとき――蔵に詰め込まれたガラクタの山の中から、一冊の朽ちかけた古書を見つけたのである。
薄い和綴じの、虫食いだらけのその本は、刷り物ではなく個人の手記だった。奥付には慶応二年とある。今から百年以上も昔、幕末期に記されたことになる。
たまたま学生時代に漢書を齧ったことのある龍之介にとって、その手記を読み解くこと自体には何の苦もなかった。――が、その内容は理解に苦しんだ。細い筆文字で、とりとめもなく書き綴られていたのは、妖術がどうのこうのという荒唐無稽な戯言だったのだ。しかも伴天連がどうのサタンがどうのという表記が散見されるあたり、どうやら西洋オカルトに関する記述らしい。異世界の悪魔に人身御供を捧げて式神を呼び出し云々というのだから、もうまるっきり伝奇小説の世界である。
江戸の末期という時代において蘭学は異端のジャンル。その異端の中でもさらに最異端であるオカルトの書物となると、ただの悪ふざけにしては少々度が過ぎている感もあったが、どのみち龍之介にとって、その本の記述の信憑性などは最初からどうでもいい事柄だった。実家の土蔵から出てきたオカルトの古書というだけで、すでに充分COOLでFUNKYである。殺人鬼が新たなるインスピレーションを得るには充分な刺激だったのだ。
さっそく龍之介は手記にあった“霊脈の地”とされる場所に拠点を移し、夜の渉猟を再開した。現代では冬木市と呼ばれるその土地に一体どういう意味があるのかは知らなかったが、龍之介は新たな殺人については雰囲気作りに重点を置くという方針で、極力、和綴じの古書の記述を忠実に再現しようと努めた。
まず最初に、夜遊び中の家出娘を深夜の廃工場で生贄にしてみたところ、これが予想以上に刺激的で面白い。まだ未経験だった儀式殺人というスタイルは、完全に龍之介を虜にした。病みつきになった彼は第二、第三の犯行を矢継ぎ早に繰り返し、平和な地方都市を恐怖のどん底に叩き落とした。
そうして、都合四度目の犯行――今度は住宅街の真ん中で、四人家族の民家に押し入った雨生龍之介は、今まさに凶行の真っ最中で恍惚に酔いしれていたのだが、さすがに四度も同じことを繰り返していれば熱狂の度合いも冷めるのが道理で、頭の片隅では理性による警告の声が、ブツブツと耳障りに囁きはじめていた。
いい加減、今度ばかりは羽目を外しすぎたかもしれない。
これまで龍之介は全国を股に掛けて渡り歩きながら犯行を重ねてきた。同じ土地で二回以上の殺しを重ねたことはないし、遺体の処理も周到に済ませてきた。龍之介の犠牲者のうち大半は行方不明者として今も捜索されている有様だ。
だが今回のように遺体や物証を隠しもせず、連続して事件を起こしマスコミを刺激しまくっているのは、やはり考えるほどに愚行だったと思えてならない。様式に拘りすぎたせいで、普段の慎重さを完全に忘れていた。特に今回はまずい。これまでの三回で、いつも生き血で魔法陣を描く段になって失敗して血が足りなくなったため、今度こそは完全な魔法陣を描けるようにと、少し多めに殺すことにしたのだが、やはり就寝中の一家を皆殺しというのは少々センセーショナルに過ぎたかもしれない。いよいよ警察は血眼になるだろうし、地域の住人の警戒心も段違いに増すだろう。何よりもそれは秘めやかなる“豹”のスタイルではない。
とりあえず、冬木市に拘るのは今夜限りでやめよう――そう龍之介は心に決めた。黒ミサ風味の演出は気に入っているので今後とも続けていきたいのだが、それも三度に一度ぐらいのペースに自重するべきかもしれない。
気持ちの整理がついたところで、あらためて龍之介は集中して儀式に専念することにした。
「♪閉じよ閉じよ閉じよ閉じよ。繰り返すつどに四度――あれ、五度? えーと、ただ満たされるトキをー、破却する……だよなぁ? うん」
鼻歌交じりに召喚の呪文を暗唱しながら、龍之介はリビングルームのフローリングに刷毛で鮮血の紋様を描いていく。本当なら儀式というのはもっと荘厳にやるべきなのだろうが、そんなのは辛気くさいばかりで龍之介のスタイルではない。雰囲気重視といっても所詮は自己満足なのだし、むしろフィーリングの方が肝心だ。
今夜の魔法陣は、例の手記に図解されていた通りに、一発で完璧に仕上がった。こうもすんなり出来てしまうと、むしろ準備の甲斐がない。このためだけに両親と長女を殺して血を抜いておいたというのに。
「♪閉じよ閉じよ閉じよ閉じよ閉じよっと。はい今度こそ五度ね。オーケイ?」
余った血は部屋の壁に適当に塗りたくってファインアートを気取ってみる。それから部屋の片隅に転がしてある生き残り――猿轡とロープで縛り上げた小学生の男の子を振り向いて、反応を窺おうと顔を覗き込んでみたものの、幼い少年は泣きはらした瞳で、切り裂かれた姉と両親の骸を凝視してばかりいる。
「ねー坊や、悪魔って本当にいると思うかい?」
震える子供に問いかけながら、龍之介は芝居がかった仕草で小首を傾げる。当然、猿轡をされた子供には返答など望むべくもなく、ただ恐怖に身を竦ませることしかできない。
「新聞や雑誌だとさぁ、よくオレのこと悪魔呼ばわりしたりするんだよね。でもそれって変じゃねぇ? オレ一人が殺してきた人数なんて、ダイナマイトの一本もあれば一瞬で追い抜けちゃうのにさ」
子供は良い。龍之介は子供が大好きだった。大人が怯えたり泣き喚いたりする様は時折ひどく無様で醜いときがあるが、その点、子供はただひたすらに愛らしい。たとえ失禁しようとも子供であれば笑って許せる。
「いや、いいんだけどさ。べつにオレが悪魔でも。でもそれって、もしオレ以外に本物の悪魔がいたりしたら、ちょっとばかり相手に失礼な話だよね。そこんとこ、スッキリしなくてさぁ。『チワッス、雨生龍之介は悪魔であります!』なんて名乗っちゃっていいもんかどうか。それ考えたらさ、もう確かめるしか他にないと思ったワケよ。本物の悪魔がいるのかどうか」
龍之介はますます上機嫌に、怯える子供の前で愛嬌を振りまいた。普段は喋るのも億劫なのだが、とかく血を見ると――そして死に瀕した者の前に立つと、彼は人が変わったように饒舌になる癖があった。
末っ子を一人だけ殺さずに生かしておいたのは、血の量が三人分で充分だったというだけで、取り立てて深い意味はなかった。後々、儀式が済んでから何か他に楽しい殺し方を試してみよう、という程度に思っていたのだが――
「でもね。やっぱりホラ、万が一本当に悪魔とか出てきちゃったらさ、何の準備もなくて茶飲み話だけ、ってのもマヌケな話じゃん? だからね、坊や……もし悪魔サンがお出ましになったら、ひとつ殺されてみてくれない?」
「……!」
龍之介の発言の異常さは、幼い子供であろうとも充分に理解できた。悲鳴も上げられぬまま、目を見開いて身を捩りもがく子供の様を見て、龍之介はケタケタと笑い転げる。
「悪魔に殺されるのって、どんなだろうねぇ。ザクッとされるかグチャッとされるのか、ともかく貴重な経験だとは思うよ。滅多にあることじゃないし――ぁ痛ッ!」
不意に見舞った鋭い痛みが、龍之介の躁状態に水を差す。
右手の甲、だった。何の前触れもなく、まるで劇薬を浴びせられたかのような激痛があった。痛みそのものは一瞬で治まったものの、痺れるようなその余韻は、皮膚の表面に貼りついたように残っていた。
「……何、だ? これ……」
痛みの退かない右手の甲には、どういうわけか、入れ墨のような紋様が、まったく心当たりのないうちに刻み込まれていた。
「……へぇ」
不気味さや不安を感じるよりも先に、龍之介の伊達男としてのセンスが反応した。何だかよく解らないものの、三匹の蛇が絡み合うようなその紋様は、なにやらトライバルのタトゥーのようで、なかなかどうして洒落ている。
だが、にやけていたのも束の間、背後で空気が動くのを感じ取った龍之介は、さらに驚いて振り向いた。
風が湧いている。閉め切った屋内に、決して有り得ないほどの気流。微風にすぎなかったそれは、やがて、みるみるうちに旋風となってリビングルームに吹き荒れる。
床に描かれた鮮血の魔法陣が、いつしか燐光を放ちはじめているのを、龍之介は信じられない気分で凝視した。
何らかの異常が起こることは、むしろ期待していたのだが――こうもあからさまな怪現象はまったく予想の外だった。まるで龍之介が軽蔑してやまない低級なホラー映画のような、大げさすぎる演出。子供騙しのようなその効果が笑うに笑えないのは、それが紛れもなく現実だったからだ。
もはや立っているのも危うくなるほどの突風は竜巻のように室内を蹂躙し、テレビや花瓶といった調度品を吹き飛ばして粉砕していく。光る魔法陣の中央には靄状のものが立ち上り、その中で小さな稲妻が火花を散らしはじめる。この世のものとは思えない光景を、だが雨生龍之介はまったく怖じることなく、手品に見入る子供のように期待に胸躍らせながら見守った。
未知なるものの幻惑――
かつて“死”という不思議の中に見出した蠱惑。そして飽くほどに重ねた殺人の果てに、いつしか見失っていたその輝きが、今――
閃光。そして落雷のような轟音。
衝撃が龍之介の身体を駆け抜けた。それはまさに高圧電流に灼かれるかのような感覚だった。
かつて雨生という一族に伝えられていた異形の力。今は子孫にすら忘れ去られ、それでもなお連綿と継がれてきた血によって、今日この日まで龍之介の中に眠り続けてきた『魔術回路』という神秘の遺産が、いま津波に押し流されるかのようにして解放された。そして龍之介に流入した“外なる力”は、たったいま彼の中に開通したばかりの経路を循環し、それから再び外部へと流れ出て、異界より招かれたモノへと吸い込まれていく。
――いわば、それは例外中の例外だった。
もとより冬木の聖杯は、それ自身の要求によって七人のサーヴァントを必要とする。資質ある者がサーヴァントを招き、マスターの資格を得るのではない。聖杯が資質ある者を七人まで選抜するのである。
英霊を招き寄せる召喚もまた、根本的には聖杯によるもの。魔術師たちが苦心して儀式を執り行うのも、より確実に、万全を期してサーヴァントとの絆を築くための予防策でしかない。たとえ稚拙な召喚陣でも、呪文の詠唱が成されなくても、そこに依り代としてその身を差し出す覚悟を示した人間さえ居るのなら、聖杯の奇跡は成就する……
「――問おう」
立ちこめる靄の中から、細く柔らかい、それでいて不思議なほどよく通る声が呼びかけてきた。
いつしか風は止んでいた。光を放っていた魔法陣の輝きも今は消え、床に描かれた鮮血は、まるで焼け焦げたかのように黒ずんで干涸らびている。そうして薄れゆく靄の中、先の声の主が忽然と龍之介の前に姿を現した。
まだ若いらしく皺ひとつない顔。ぎょろりと剝いた大きな双眸に、てらてらと脂ぎった頰。土気色の顔色もあいまって、龍之介はムンクの絵画を連想した。
服装もまた奇異である。雲を突くような長身を、ゆったりと幾重にも重ねたローブに包み、豪奢な貴金属の留め具で飾ったそのスタイルは、まさに漫画の中に出てくる“悪の魔法使い”そのものだ。
「我を呼び、我を求め、キャスターの座を依り代に現界せしめた召喚者……貴殿の名をここに問う。其は、何者なるや?」
「……」
龍之介は少しだけ返答に窮した。血の召喚陣から稲妻と煙とともに出現した――にしては思いのほか普通の人間である。具体的にこれといった姿形を期待していたわけでもないのだが、それが仰々しい怪物でなく、ごく普通の人間の容姿をしていたことに、むしろ龍之介は途方に暮れた。たしかに服装こそ奇妙奇天烈ではあるが、だからといってこの男が、はたして本物の悪魔なのかどうか。
しばらく頭を搔いてから、龍之介は覚悟を決めた。
「えと、雨生龍之介っす。職業フリーター。趣味は人殺し全般。子供とか若い女とか好きです。最近は基本に戻って剃刀とかに凝ってます」
ローブの男は頷いた。どうにも名前以外の部分は聞き流されている風な様子だった。
「宜しい。契約は成立しました。貴殿の求める聖杯は、私もまた悲願とするところ。かの万能の釜は必ずや、我らの手にするところとなるでしょう」
「せい――はい?」
何の事やらすぐには解らず、龍之介は小首を傾げた。そういえば確かに、土蔵で見つけた古書の中にそんなような記述があった気もする。つまらない箇所なので読み飛ばしていたのだが。
「……まぁ、小難しい話は置いといて、サ」
龍之介は軽剽に手を振って、部屋の片隅に転がしてある子供を顎で指した。
「とりあえず、お近づきにご一献どうデスか。アレ、食べない?」
異相の男は、何の表情もない能面のような顔で、縛り上げられた子供と龍之介とを見比べる。龍之介の言葉と意図を理解しているのか、それさえも窺い知れない沈黙の間のうちに、はたと龍之介は不安に駆られた。もしかしたら失礼に当たる勧めだったかもしれない。悪魔が子供を食べるなんて、考えてみれば誰がそう決めつけたというのか。
男は無言のまま、ローブの懐から一冊の本を取り出した。分厚く重厚な装丁の、本がまだ貴重品であった時代の骨董古書。まさしく悪魔が持ち歩いていそうな小道具である。
その表紙を装丁する革が何なのか、龍之介は一目で看破した。
「あ、スゲェ! それ人間の皮でしょ?」
龍之介も昔、犠牲者の生皮を剝いでランプシェードを作ろうとしたことがあるから見覚えがある。結局、工作の苦手な彼は途中で挫折したのだが、同じ趣向の作品を最後まで仕上げた先達がいると知っては、リスペクトせずにはいられない。
龍之介の賛辞を、男は、ちらりと一瞥をくれただけで無視すると、おもむろに本を開いて手早くページを捲り、何か意味の取れない言葉を一言二言ばかり呟いてから、それで事足りたかのように本を閉じ、また懐に仕舞ってしまった。
「……?」
解せないまま見守る龍之介を余所に、男は床に転がされた男の子に歩み寄る。先刻からの怪事の連発に、少年は輪をかけて怯え、必死の様子で身を捩りながら、床を這って男から逃げようとしている。
そんな子供を見つめる男の眼差しが、なぜか優しく慈愛に満ちているのに気がついて、龍之介はますます困惑した。どういうことだろうか。
「――怖がらなくていいんだよ。坊や」
異相の怪人は、その面貌に不釣り合いなほど柔和で静かな声で、男の子に語りかけた。囚われの少年は、ここでようやく相手の温情に満ちた表情に気がついたのか、暴れるのをやめ、縋るような眼差しで男の表情を窺う。
それに応じるように、男は微笑して頷くと、腰を屈めて少年に手を伸ばし――縛めのロープと猿轡を、優しく解いて外してやる。
「立てるかい?」
まだ半分腰の抜けたような有様の少年を助け起こし、男は励ますように背中を撫でてやった。
龍之介は、もちろんこの男が悪魔であることを露ほども疑わなかったが、それにしても子供の遇し方についてはまったく釈然としなかった。まさか本当に、命を救うつもりなのだろうか?
それにしてもこの男、見れば見るほど奇妙な風貌である。黙っているときは亡者じみた恐ろしげな顔立ちが、笑うと途端に邪気のない、まるで聖者のように清らかな表情になる。
「さぁ坊や、あそこの扉から部屋の外に出られる。周りを見ないで、前だけを見て、自分の足で歩くんだ。――一人で、行けるね?」
「……うん……」
健気に頷く少年に、男は満面の笑顔で頷くと、小さな背中をそっと押しやった。
少年は言われた通り小走りに、両親と姉の死体には目もくれず、血まみれのリビングを横断する。扉の外の廊下には、二階へ上る階段と玄関。そこまで行けば彼は殺人鬼の手から逃れ、生き延びることが叶うだろう。
「なぁ、ちょっと……」
さすがに見かねて声をかけた龍之介を、男は素早く手で遮って制止した。勢いに吞まれた龍之介は、気を揉みながらも為す術もなく、逃げていく子供の背中を見送るしかない。
少年がドアを開け、廊下に出る。目の前には玄関の扉。さっきまで恐怖の色だけに塗り込められていた瞳が、そのとき、ようやく安堵と希望で輝きを取り戻す。
次の刹那に、クライマックスは待ち受けていた。
玄関を向いた少年は、ちょうど階段に背を向けていた。その階段の上、リビングルームからは見えない二階の踊り場の辺りから、いきなり何かが雪崩を打って階下の少年に襲いかかったのである。極太のロープの束――いや、無数の蛇の群れ――いずれとも形容しがたい生物、いや生物の器官らしきソレは、男の子の背後からくまなく全身に巻き付くや、有無を言わさぬ力でもって一瞬のうちに幼い身体を階段の上へと引きずり上げ、二階へと連れ去った。
そして――魂消る絶叫。無数の生物が一斉に舌を鳴らすかのような湿った音と、細い骨を砕き折る乾いた響き。なまじ様相が見えないだけに、上階で起こっている出来事はより一層おぞましく想像力を刺激した。
その悪夢のような音色に、異相の男は目を閉ざして顔を上向け、まるで酔いしれるかのように聴き入っていた。胸に当てられた手が震えている。どうやら感動の顕れであるらしい。
だが、感極まっていたのは龍之介もまた同じ……いや、彼の場合は何が起こるのか予期していなかっただけに、よりいっそう強烈なカタルシスに見舞われていた。
「恐怖というものには鮮度があります」
みずから企てた惨事の余韻が、まだ抜けきっていないのか、悪魔は――今となっては疑いの余地もあるまい――陶然と夢見るような口調で語りはじめた。
「怯えれば怯えるほどに、感情とは死んでいくものなのです。真の意味での恐怖とは、静的な状態ではなく変化の動態――希望が絶望へと切り替わる、その瞬間のことを言う。
如何でしたか? 瑞々しく新鮮な恐怖と死の味は」
「――く――」
龍之介はすぐに言葉が出てこなかった。
階段の上で、今も子供の遺体を貪り食っているらしい“何か”は、おそらくこの男が用意したものだろう。彼自身が血の魔法陣の中から現れ出たのと同じように。きっと最初に、あの人皮で装丁された本を開いたときに、何かが起こったに違いない。
手段そのものにも度肝を抜かれたが、なお素晴らしいのはその哲学である。龍之介などでは及びもつかない、創意工夫で磨き抜かれた耽美なまでの邪悪。これほど鮮烈で感動的な“死の美学”を持ち合わせた存在は、もはや最大級の賛辞をもって讃えるしかない。
「COOL! 最高だ! 超COOLだよアンタ!」
気が遠くなるほどの歓喜に小躍りしながら、龍之介は男の手を握って何度も振った。親友や恋人を得たとしても、どんなセレブに出会ったとしても、これほどの感動はないだろう。殺人鬼・雨生龍之介は、この退屈な世界の中で、いま初めて心から心酔し敬愛できる人物にでくわした。
「オーケイだ! 聖杯だか何だか知らないが、ともかくオレはアンタに付いていく! 何なりと手伝うぜ。さぁ、もっと殺そう。生贄なんていくらでもいる。もっともっとCOOLな殺しっぷりでオレを魅せてくれ!」
「愉快な方ですね。貴殿は」
龍之介の感激ぶりに気をよくしたのか、男は持ち前の邪気のない笑顔で、激しい握手にやんわりと応じた。
「リュウノスケといいましたか。貴殿のような理解あるマスターを得られたのは幸先がいい。これはいよいよ、我が悲願の達成に期待が持てそうです」
――聖遺物のないまま召喚が成されたとき、それに応じる英霊はマスターと精神性の似通ったものになるという。この悪質な殺人鬼が期せずして招き寄せたのは、彼になお輪をかけて残虐な所行で後世に名を知らしめた、正真正銘の嗜虐の英霊だった。いや、その性質を踏まえるならば、英霊というよりも怨霊と呼ぶのが相応しい。
「あー、そういえば、オレまだアンタの名前を聞いてない」
ようやく肝心なところに思い至った龍之介が、馴れ馴れしく問いかける。
「名前、ですか。そうですね。この時代で通りの良い呼び名といえば……」
男は唇に指をあて、しばし考え込んだ後、
「……では、ひとまず『青髭』とでも名乗っておきましょうか。以後はお見知り置きを」
そう親しみをこめて、天使のような笑顔で答えた。
こうして、第四次聖杯戦争における最後の一組――七番目のマスターとサーヴァント『キャスター』は契約を完了した。行きずりの快楽殺人鬼が、魔術師としての自覚も、聖杯戦争の意義も知らぬまま、ただの偶然だけで令呪とサーヴァントを得たのである。
運命の悪戯というものがあるならば、それは最悪の戯れ事と言ってよかっただろう。