Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

第22回

虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON

あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!

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雨生龍之介うりゅうりゅうのすけはスプラッター映画を軽蔑していた。が、そういう娯楽の必要性には、それなりに理解があった。

ホラーの分野だけでなく、戦争映画、パニック映画、さらにはただの冒険活劇やドラマ作品に到るまで、どうして虚構の娯楽というものはくことなく“人間の死”を描き続けるのか?

それはつまり、観客は虚構というオブラートに包んだ“死”を観察することで、死というものの恐怖を矮小化わいしょうかできるから、なのだろう。

人間は“智”を誇り“無知”を恐れる。だからどんな恐怖の対象であれ、それを“経験”し“理解”できたなら、それだけで恐怖は克服され理性によって征服される。

ところが、“死”ばかりはどうあっても生きているうちに経験できる事象ではない。したがって本当の意味で理解することもできない。そこで仕方なく人間は、他人の死を観察することで死の本質を想像し、擬似的に体験しようとする。

さすがに文明社会においては人命が尊重されるため、疑似体験は虚構に依らざるを得ない。が、おそらく日常茶飯事に爆撃や地雷で隣人が挽肉ひきにくにされているような戦火の地においては、ホラー映画など誰も見ようとはしないのだろう。

同じように、肉体的な苦痛や精神的ストレス、ありとあらゆる人生の不幸についても、虚構の娯楽は役に立つ。実際に我が身で体感するにはリスクが大きすぎるイベントであれば、それらを味わう他者を観察することで、不安を克服し解消するわけだ。だから銀幕やブラウン管は、悲鳴と嘆きと苦悶の涙に満ちあふれている。

それはいい。理解できる。かつては龍之介も人並み以上に“死”というものが恐かった。特殊メイクの惨殺死体、赤インクの血飛沫と迫真の演技による絶叫で再現された“陳腐な死”を眺めることで、死を卑近で矮小なものとして精神的に征服できるのであれば、龍之介は喜んでホラー映画の愛好家になったことだろう。

ところが雨生龍之介という人物は、どうやら“死”というものの真贋しんがんを見分ける感性もまた、人並み以上に鋭かったらしい。彼にとって虚構の恐怖は、あまりにも軽薄すぎた。プロットも、映像も、何から何まで子供だましの安易なフェイク。そこに“死の本質”なんてものは微塵も感じ取れなかった。

フィクションの残虐描写が青少年に悪影響を及ぼす、などという言論をよく見かけるが、雨生龍之介に言わせれば、そんなものは笑止千万な戯言たわごとだ。スプラッターホラーの血と絶叫が、せめてもう少し真に迫ったものであったなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかもしれないのだから。

それはただ、ただひたすらに切実な好奇心の結果だった。龍之介はどうあっても“死”について知りたかった。動脈出血の鮮やかな赤色、腹腔ふくこうの内側にあるモノの手触りと温度。それらを引きずり出されて死に至るまでに、犠牲者が感じる苦痛と、それがかなでる絶叫の音色。何もかも本物に勝るものはなかった。

殺人は罪だと人は言う。だが考えてみるがいい。この地球上には五〇億人以上もの人間がひしめいているそうではないか。それがどれほど途方もない数字なのか、龍之介はよく知っている。子供の頃に公園で砂利の数を数えたことがあるからだ。たしか一万個かそこいらで挫折したが、あのときの徒労感は忘れようがない。人の命はその五〇万倍。しかもそれが毎日、これまた何万という単位で生まれたり死んだりしているという。龍之介の手になる殺人など、一体どれほどの重みがあるというのか。

それに龍之介は、人ひとりを殺すとなればその人物の死を徹底的に堪能たんのうし尽くす。ときには絶命させるまで半日以上も“死に至る過程”を愉しむこともある。その刺激と経験、一人の死がもたらす情報量は、取るに足らないひとつの命を生かし続けておくよりも、よほど得るところが大きかった。それを考えれば、雨生龍之介による殺人はむしろ生産的な行為と言えるのではないのか。

そういう信条で、龍之介は殺人に殺人を重ねながら各地を転々と渡り歩いた。法の裁きは恐くはなかった。手錠てじょうをかけられ虜囚りょしゅうとなる感覚は実際に何人かをそういう目に遭わせた末に恐れるまでもない程度にきちんと“理解”できていたし、絞首刑も電気椅子も、どんな結末に到るものなのかは充分に“観察済み”だった。それでも彼が司直の追跡から逃れ続けている理由はといえば、ただ単に、自由と生命を手放してまで刑務所に行ったところで得る物など何もないからであり、それならより享楽的きょうらくてきに日々の暮らしを楽しむ方が、ポジティブで健康な、人として正しい生き方であろうと思っていたからだ。

彼は殺す相手の生命力、人生への未練、怒りや執着といった感情を、ありったけ絞り出して堪能する。犠牲者たちが死に至るまでの時間のうちに見せる末期まつごの様相は、それ自体が彼らの人生の縮図とも言える濃厚で意味深長なものばかりだった。

何の変哲もない人間が死に際に奇態な行動を見せたり、また逆に、変わり種に思えた人間が凡庸ぼんようきわまりない死に方をしたりそういった数多あまたの人間模様を観察してきた龍之介は、死を探究し、死に精通するのと同時に、死の裏返しである生についてもまた多くを学ぶようになっていた。彼は人を殺せば殺すほど、殺した数だけの人生について理解を深めるようになっていた。

知っているという事、弁えているという事は、それ自体が一種の威厳と風格をもたらす。そういった、自分自身に備わった人間力について、龍之介は正確に説明できるほどの語彙ごいを持ち合わせていなかったが強いて要約するならば、“COOLである”という表現がすべてを物語る。

たとえて言うならば、洒落じゃれたバーやクラブに通うようなものだ。そういう遊び場に慣れていないうちは空気が読めずに浮いてしまうし、愉しみ方もわからない。だが場数を踏んで立ち振る舞いのルールを身につけるようになっていけば、それだけ店の常連として歓迎され、雰囲気に馴染んでその場の空気を支配できるようになる。それがつまりCOOLな生き様、というものだ。

言うなれば龍之介は、人の生命というスツールの座り心地に慣れ親しんだ、生粋きっすいの遊び人だった。そうして彼は新手のカクテルを賞味するような感覚で次々と犠牲者を物色し、その味わいを心ゆくまで堪能した。

実際に比喩でも何でもなく、夜の街の享楽では、龍之介はまるで誘蛾灯ゆうがとうが羽虫を引き寄せるかの如く、異性からの関心を惹いた。洒脱で剽軽ひょうきん、そのくせどこか謎めいた居住まいから醸し出す余裕と威厳は、まぎれもない魅力となって女たちを惑わした。そういう蠱惑こわくの成果を、彼はいつでも酒のさかなの感覚で愉しんだし、本当に気に入った女の子については、血みどろの肉塊にくかいにしてしまうほど深い仲になることもしばしばだった。

夜の街はいつでも龍之介の狩り場だったし、獲物たちは決定的な瞬間まで捕食者である龍之介の脅威に気付かなかった。

あるとき、彼は動物番組でひょうを見て、その優雅な身のこなしに魅せられた。鮮やかな狩りの手口には親近感さえ覚えた。豹という獣は、あらゆる意味で彼の規範になるCOOLな生物だった。

それ以来、龍之介は豹のイメージを自意識として持ち合わせるようになった。つねに衣服のどこかには豹柄をあしらった。ジャケットやパンツ、くつ帽子ぼうし、それが派手はですぎるようなら靴下や下着、ハンカチや手袋の場合もあった。琥珀色こはくいろ猫目石キャッツアイの指輪は、中指に塡めないときでも常にポケットに入れておき、本物の豹の牙で作ったペンダントも肌身離さず持ち歩いた。