Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第20回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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森のとば口でじゃれ合う父娘の小さな姿を、城の窓から見送る翡翠色の眼差しがあった。
窓辺に佇むその少女の立ち姿は、か弱さや儚さからは程遠い。結い上げていてもなお軽さと柔らかさが見て取れる美しい金髪と、細い体軀を包む古風なドレスは、まさしく深窓の令嬢に相応しい可憐な記号だが、それでいて彼女の雰囲気には、居合わせるだけで部屋の空気を引き締めるような、凜烈で厳格なものがある。とはいえ、その冷たさは氷の冷酷さよりむしろ、清流の爽やかな浄気を思わせて清々しい。重く暗鬱なアインツベルン城の冬景色には、どこかそぐわない人物だった。
「何を見ているの? セイバー」
背後からアイリスフィールに呼びかけられて、窓辺の少女――セイバーは振り向いた。
「……外の森で、ご息女と切嗣が戯れていたもので」
訝るような、困惑したような、わずかに眉根を寄せた硬い表情でありながら、それがまったく少女の美貌を損なっていない。浮ついた媚のある笑顔より、きりりと清澄に張りつめた眼差しの方がよく似合う、そんな希有な質の美人である。
この瑞々しい存在感が、どうして英霊の実体化した姿などと信じられようか。だが、彼女はまぎれもなく『セイバー』……聖杯が招いた七英霊のうち一人、最強の剣の座に据えられた、歴としたサーヴァントであった。
そんな彼女の隣に並んで、アイリスフィールは窓の外を窺う。折しもイリヤスフィールを肩車した切嗣が、森の奥へと駆け込んでいくところだった。
「切嗣のああいう側面が、意外だったのね?」
微笑するアイリスフィールに、セイバーは素直に頷いた。
彼女の位置からでは、結局、少女の顔までは見えず、かろうじて母親譲りの銀髪を目に留めたのみだったが、それでも視野から消える間際に聞こえた甲高い笑い声は、たしかに歓喜に満ち溢れたものだった。それだけでも、遊び戯れていた父と子の仲睦まじさを察するには充分だった。
「忌憚なく言わせていただければ。私のマスターは、もっと冷酷な人物だという印象があったので」
セイバーの言葉に、アイリスフィールは困り果てた顔で苦笑した。
「まぁ、それは無理もないわよね」
召喚されてよりこのかた、セイバーはただの一度もマスターの切嗣から言葉をかけられたことがない。
サーヴァントを、あくまでマスターの下僕に過ぎない道具同然の存在として扱うのは、たしかに魔術師然として道理に適った態度かもしれない。だがそれにしても切嗣のセイバーに対する姿勢は度が過ぎていた。一切言葉を交わさず、問いかけも黙殺し、視線すら合わすことなく、切嗣は自らの呼び出した英霊を拒絶し続けた。
切嗣のそういう人もなげな態度には、セイバーもまた、面にこそ出さなかったが内心では大いに不満を感じていたに違いない。そんな彼女が切嗣に対して懐いていた人物像が、いま城の外で愛娘と戯れている男の姿と、大きく隔たっていたのも当然であろう。
「あれが切嗣の素顔だというなら、私はマスターからよほど不興を買ったのでしょうね……」
苦々しげに呟くセイバーの表情に、いつもの端整な横顔からは窺えない本音が垣間見えて、アイリスフィールは思わず笑ってしまった。それを見てセイバーはますます憮然となる。
「アイリスフィール、なにも笑うことはないでしょう」
「……ごめんなさいね。召喚されたときのこと、まだ根に持ってるのかな、と思って」
「いささか。……私の姿形がみなの想像するものとは違う、というのは慣れていますが。なにも二人揃って、あれほど驚く事もないでしょう」
風格こそ颯爽とした威厳に満ちながら、その実、セイバーの容姿は十代半ばの少女のそれでしかない。かつて彼女が輝く召喚陣の中から立ち現れたとき、儀式に臨んでいた切嗣とアイリスフィールは揃って言葉を失った。
それもそのはず。切嗣が招いた英霊とは、男性としてその名を歴史に刻んだ偉人だったからである。
コーンウォールより出土した黄金の鞘の主、即ち、聖剣エクスカリバーの担い手として知られる唯一人の英雄王アーサー・ペンドラゴンの正体が、まさか年端もいかぬ少女であったなどとは、後世の誰が想像し得ようか。
「……確かに私は男として振る舞っていましたし、その噓が噓として後の歴史に伝えられずに済んだのは本懐ですが……私があの鞘の持ち主であることを疑われたのは、正直なところ不愉快でした」
「そうは言ってもね、仕方がないのよ。あなたの伝説はあまりに有名すぎるし、それが一五〇〇年もかかって脚色されてきたんだもの。私たちが知っているアーサー王とは、イメージのギャップが凄すぎて」
苦笑いするアイリスフィールに、セイバーは不服そうに疲れた吐息をもらす。
「容姿についてとやかく言われても仕方がない。岩から契約の剣を抜いた時点で不老の魔法がかかり、私の外見年齢は止まってしまいましたし、そもそも当時の臣民は王である私の外見になど疑問を抱いたりしなかった。私に求められたのは、ただ王としての責務を果たすことだけでしたから」
それは、どれほどに苛烈な青春であったことか。
異教徒の侵攻に晒され、壊滅の危機に瀕していたブリテン国。魔術師の予言に従ってその救世主の任を負わされ、一〇の年月、一二もの会戦を常勝のうちに戦い抜いた“龍の化身”たる若き王。
その武勲にも拘わらず、最後には肉親の謀叛によって王座を奪われ、ついに栄華のうちに終わることを許されなかった悲運の君主。
そんな激しくも痛ましい命運を、こんなにも華奢な少女が背負ってきたという真相は、アイリスフィールの心にも重くのしかかる。
「切嗣には……私の正体が女であったが故に、侮られているのでしょうか? 剣を執らせるには値せず、と」
アイリスフィールの感慨を余所に、セイバーは切嗣たちが分け入っていった森の彼方を遠望しながら、乾いた声で呟く。
「それはないわ。彼にだってあなたの力は透視えている。セイバーの座を得た英霊を、そんな風に見損なうほど、あの人は迂闊じゃない。……彼が腹を立てているとするなら、それは別の理由でしょうね」
「腹を立てている?」
セイバーは耳ざとく聞き咎める。
「私が切嗣を怒らせたというのですか? それこそ理解できない。彼とは未だに一度も口を利いたことがないというのに」
「だから、あなた個人に対しての怒りじゃないの。きっと彼を怒らせたのは、私たちに語り継がれたアーサー王伝説そのものよ」
もしも切嗣の呼び出した英霊が、伝承に伝え聞く通りの“成人男性の”アーサー王であったなら、彼はここまでサーヴァントを拒絶することはなかっただろう。ただ何の感情も交えず冷淡に、必要最低限の交渉だけで接していたに違いない。そうすれば済むところを、敢えて“無視”という態度を貫くというのは、裏を返せば大いに感情的な反応なのだ。
切嗣は、かつて岩に刺さった契約の剣を抜いたのが年端もいかない少女だったという真相を知った途端、アーサー王伝説のすべてに対して隠しようのない憤りを懐きはじめたのであろう。
「たぶんあの人は、あなたの時代の、あなたを囲んでいた人たちに対して腹を立てているのね。小さな女の子に“王”という役目を押しつけて良しとした残酷な人たちに」
「それは是非もないことでした。岩の剣を抜くときから、私も覚悟を決めていた」
その言葉には何の卑下もないらしく、セイバーの表情は依然、冷ややかに澄んでいる。そんな彼女に、アイリスフィールは困ったように小さくかぶりを振る。
「……そんな風にあなたが運命を受け入れてしまったのが、なおのこと腹立たしいのよ。その点についてだけは、他でもないアルトリアという少女に対して怒っているかもしれないわ」
「……」
返す言葉がなくなったのか、セイバーはしばし黙して俯いた。だがすぐに顔を上げた彼女の目つきは、なおいっそう頑なになっていた。
「それは出過ぎた感傷だ。私の時代の、私を含めた人間たちの判断について、そこまでとやかく言われる筋合いはない」
「だから黙ってるのよ。あの人は」
あっさりとアイリスフィールに受け流されて、今度こそセイバーは、む、と口ごもる。
「衛宮切嗣と、アルトリアという英雄とでは、どうあっても相容れないと――そう諦めてしまっているのね。たとえ言葉を交わしたところで、互いを否定し合うことしかできないと」
その点については、アイリスフィールもまた同意見だった。こうしてセイバーと時間を過ごすほどに、この誇り高き英霊と、切嗣という男の精神性がどれほどかけ離れたものであるかを、重ね重ね痛感する。
どちらの言い分もアイリスフィールには理解できたし、それぞれに共感できる部分もあった。だからこそこの二人が分かり合うことは決してないだろうという諦観も、またアイリスフィールの結論だった。
「……アイリスフィールには感謝しています。貴女という女性がいなければ、私は今回の聖杯戦争に戦わずして敗北していたことでしょう」
「それはお互い様よ。私だって、夫には最後に聖杯を手にするマスターであってほしいんだから」
かねてから英霊アルトリアとの相性を危惧していた切嗣は、その打開策として、誰にも想像の及ばないような奇策を考案していた。
サーヴァントとマスターとの、完全なる別行動、である。
もとより両者の契約には距離的な制約があるわけではない。どんなに遠方であろうともマスターの令呪はサーヴァントを律することが可能であり、同様にサーヴァントへの魔力供給も、マスターが人事不省に陥らない限りは継続される。それでもマスターがサーヴァントに同伴して共闘するのは、ひとえに意思の疎通の問題だ。慎重な判断が要求される戦闘の各局面において、すべての判断をサーヴァントに託すわけにはいかない。どうあってもマスターは戦いの現場に居合わせながら、司令塔となってサーヴァントに采配を振る必要があるのだ。
切嗣がサーヴァントの行動を把握しないまま、マスター単独で行動しようというのは、無論、セイバーを信頼してのことではない。切嗣は自分の代理として、セイバーの行動を監督する役をアイリスフィールに委ねたのである。
決して無謀な選択ではない。もし仮に切嗣のサーヴァントに叛意があったとしても、聖杯を求めている以上は、決してアイリスフィールを殺める気遣いはない。アイリスフィールがいない限り、セイバーはたとえ他のサーヴァントを総て倒したとしても聖杯を手にすることはできない。冬木の聖杯を降霊させるためには、アイリスフィールが隠し持つ『聖杯の器』が必要不可欠なのだ。それ故、セイバーはアイリスフィールの身柄をマスター同然に保護しぬく必然性が生じてくる。
この変則的なチーム編成は、ひとえに切嗣とセイバーとの戦術的な相性によるものだった。騎士の英霊たるセイバーは、サーヴァントとしての能力といい、宝具の性能といい、すべての面において“真っ向勝負”を前提とした戦士である。何よりも彼女の精神性が、それ以外の姑息な戦術を許諾すまい。ところがマスターである衛宮切嗣が、本質的に策謀奇策を頼みとする暗殺者である以上、そんな二人が足並みを揃えて行動できる道理がない。
むしろ相性という観点から言えば、アイリスフィールこそセイバーのパートナーとして適任であろう、というのが切嗣の見立てだった。彼の妻は確かに人外のホムンクルスといえど、それでも名門アインツベルン家の一員として、生まれ持った気品と威厳とがある。騎士が忠義を尽くすべき淑女としての風格は、まぎれもなくアイリスフィールに備わっていた。
事実、召喚より以後の数日に亘って寝食を共にしてきたセイバーとアイリスフィールは、お互いに理解を深めるにつれて敬意を交わすようになっていた。生まれてこのかた、高貴さを空気のように当たり前に呼吸してきたアイリスフィールは、セイバーが自らの時代において知る通りの“姫君”であったし、また育ちの良いアイリスフィールにとっても、セイバーの礼節には心地よい、しっくりと肌に馴染むものがあった。
それ故、契約上のマスターである切嗣ではなく、その妻であるアイリスフィールが“代理マスター”になるという申し出を、セイバーは易々と許諾した。彼女もまた現実問題として切嗣というマスターとの協調に不安を感じていたし、戦場で存分に剣を振るう上では、アイリスフィールの方がより主として相応しい、と認識していた。そして二人はサーヴァントとしての契約とは違う、騎士の礼に則った主従の誓いを交わし、今もこうして聖杯戦争の準備を進めている。
「アイリスフィールから見た切嗣は、いったいどのような人物なのですか?」
「夫であり導き手。私の人生に意味を与えてくれた人。――でも、セイバーが聞きたいのはそういう話じゃないわよね?」
セイバーは頷く。彼女が知りたいのはアイリスフィールの主観ではなく、セイバーでは知り得ない衛宮切嗣の側面について、である。
「元を糺せば優しい人なの。ただ、あんまりに優しすぎたせいで、世界の残酷さを許せなかったのね。それに立ち向かおうとして、誰よりも冷酷になろうとした人なのよ」
「そういう決意は、私にも理解できる。決断を下す立場に立つのであれば、人間らしい感情は切り捨てて臨まなければならない」
そういう意味では、切嗣とセイバーは似たもの同士、という見方もできなくはない。切嗣がアーサー王の英霊に向ける感情は、あるいは同族嫌悪なのかもしれない。
「聖杯の力によって世界を救済したい――そうアイリスフィールは言いましたね? それが貴女と切嗣の願いだと」
「ええ。私のは、あの人の受け売りでしかないけれど。でもそれは命を賭す価値があることだと思うわ」
アイリスフィールの言葉に、セイバーもまた眼差しに熱を込めて頷く。
「私が聖杯に託す願いもまた同じです。この手で護りきれなかったブリテンを、私は何としても救済したい。……貴女と切嗣が目指すものは正しいと思います。誇って良い道だと」
「そう……」
微笑みながらも、アイリスフィールは曖昧に言葉を濁した。
誇り――それこそが、問題なのだ。
アイリスフィールの脳裏に、夫の言葉が蘇る。切嗣がセイバーと別行動を取る真意についての説明が。
『君たち二人は存分に戦場の華になってくれ。逃げ隠れせず盛大に、誰もがセイバーというサーヴァントから目を逸らせなくなるほど華やかに。
セイバーを注視するということは、つまり僕に背中を晒すのと同じ意味だからね』
……切嗣は、戦局をアイリスフィールとセイバーに託す気など毛頭ない。むしろ彼ならではの手段によって積極的に戦況を塗り替えていく心算である。敵の背後へと忍び寄る暗殺者、その罠を確実なものとするための囮であり陽動にすぎないのが、セイバーの役回りなのだ。
固く口止めされているアイリスフィールだったが、どのみち戦いが始まれば切嗣の行動は自ずと明らかになるだろう。そうなった後で、この誇り高き清廉の騎士がいったい何を思うことか……今から考えるだけで、アイリスフィールは気が重くなる。
「アイリスフィール、貴女は切嗣という夫を深く理解し、そして信頼しているのですね」
アイリスフィールの憂鬱を知りもせず、セイバーは今も父娘が睦まじく戯れているのであろう窓の外の森を眺めていた。
「こうして見ていると、貴女がた夫婦が、ごく普通の家族としての幸福を得ていたらと思わずにはいられない。
でも同じように切嗣もまた、私が王でなく人としての幸を得るべきだったと感じているのなら……どちらも同じぐらいに、詮無い望みなのでしょうね」
「……そう思って、切嗣を恨まずにいてくれる?」
「勿論です」
頷くセイバーの潔い面持ちに、アイリスフィールはますます、このサーヴァントを裏切っているという罪の意識を感じた。
「しかし――アイリスフィール、良いのですか? ここで私などと話していて」
「え?」
問い返すアイリスフィールに、セイバーは、やや言いにくそうに視線を逸らす。
「つまり――ああやって切嗣のように、ご息女との別れを済ましておくべきだったのではないかと。明日には……問題の聖杯が現れるという、ニホンなる国に向けて発つのでしょう?」
「ああ、そういうこと。――いいのよ。私とあの子の間には、お別れなんて必要ないの」
アイリスフィールは静かに微笑した。それはセイバーの心遣いに対する謝意の顕れのようであり、それでいてどこか、心騒がされるほどに寂しく虚ろな笑顔だった。
「アイリスフィールとしての私はいなくなるけれど、それで私が消えてなくなるわけではない。彼女が大人になれば、それはちゃんと理解できるわ。あの子も私と同じ、アインツベルンの女ですからね」
「……」
アイリスフィールの言葉は謎めいていて理解しきれなかったが、それでも内に秘められた不吉な意味合いを感じ取ったセイバーは、表情を引き締めた。
「アイリスフィール、貴女は必ず生き残ります。最後まで私が守り抜く。この剣の誇りに懸けて」
厳粛な騎士の宣言を受けて、アイリスフィールは朗らかに笑って頷いた。
「セイバー、聖杯を手に入れて。あなたと、あなたのマスターのために。そのときアインツベルンは千年の宿願を果たし、私と娘は運命から解き放たれる。――貴女だけが頼りよ。アルトリア」
このときセイバーは、まだアイリスフィールの憫笑の意味を理解できていなかった。
雪のように輝く銀髪と玲瓏な美貌の中に、あたたかな慈愛を湛えたこの女性が、果たしてどのような宿命の下に生まれついたのか――騎士がすべての真相を知るのは、まだ先の話である。