Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第18回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
× ×
ここまで逃げれば安全、と気を抜けたのは、冬木大橋のたもとにある遊歩道まで、全力疾走で駆け続けた後だった。
「はー、はー、はー、……」
普段から鍛錬を怠っていたウェイバーにとっては、まさに心臓の破裂しかねない地獄の長距離走だった。もはや立っている余力さえなく、道端に膝をつきながら――改めて、ライダーが図書館から持ち出した本を検める。
「……ホメロスの詩集? それに……世界地図? 何で?」
ハードカバーの豪奢本は古代ギリシアに名高い詩人の書物。もう一冊の薄い方は、学校の授業で使うようなカラー刷りの地理の教材だった。
途方に暮れるウェイバーの背後から、ひょいと差し伸べられたいかつい腕が、指先で地図帳を摘み上げていく。
いつの間にやら再び実体化したライダーは、どっかりと路面に胡座をかいて座り込むと、ウェイバーから取り返した地図帳をぱらぱらと捲りはじめた。
「おいライダー、戦の準備っていうのは……」
「戦争は地図がなければ始まるまい。当然ではないか」
何が嬉しいのか、ライダーは妙にニヤニヤと顔を綻ばせながら、まず地図帳の冒頭のグード図法による世界地図に見入る。
「なんでも世界はすでに地の果てまで暴かれていて、おまけに球の形に閉じているそうだな……成る程。丸い大地を紙に描き写すと、こうなるわけか……」
ウェイバーの知る限りでは、英霊はサーヴァントとして聖杯に招かれた時点で、聖杯からその時代での活動に支障がない程度の知識を授けられるのだという。つまりこの古代人も、地球が丸いことを納得出来るぐらいには弁えているのだろう。だからといって、どうしてライダーが泥棒まがいのことをしてまで世界地図なぞ欲しがったのか、ウェイバーには皆目見当もつかない。
「で、……おい坊主、マケドニアとペルシアはどこだ?」
「……」
相変わらず傲岸不遜なライダーの態度、しかもマスターに対して名前ではなく坊主呼ばわりという不敬ぶりに憮然となりながらも、ウェイバーは地図の一角を指さした。途端――
「わっはっはっはっは!!」
まるで弾けるような勢いで豪快に笑い出したライダーに、またも度肝を抜かれて竦み上がるウェイバー。
「はははッ! 小さい! あれだけ駆け回った大地がこの程度か! うむ、良し! もはや未知の土地などない時代というから、いささか心配しておったが……これだけ広ければ文句はない!」
持ち前の巨軀に相応しく、ライダーは笑い声もまた雄大だった。どうにもウェイバーは同じ人間サイズの存在を相手にしているというより、地震や竜巻と向き合っているような気分になってきた。
「良い良い! 心高鳴る! ……では坊主、いま我々がいるのは、この地図のどこなのだ?」
ウェイバーはおっかなびっくり、極東の日本を指さした。するとライダーは大いに感心した風に唸って、
「ほほーぅ、丸い大地の反対側か……うむ。これまた痛快。これで指針も固まったな」
いかつい顎を撫でながら、さも満足げに頷いた。
「……指針って?」
「まずは世界を半周だ。西へ、ひたすら西へ。通りがかった国はすべて陥としていく。そうやってマケドニアに凱旋し、故国の皆に余の復活を祝賀させる。ふっふっふ。心躍るであろう?」
しばし呆気に取られたあとで、ウェイバーは怒り心頭に目眩さえしながら吼えた。
「オマエ何しに来たんだよ! 聖杯戦争だろ! 聖杯!」
ウェイバーの剣幕に、むしろライダーは白けた風に溜息をついた。
「そんなもの、ただの手始めの話ではないか。何でその程度のことをわざわざ――」
言いさして、そこではたと思い当たったかのように手を打ち鳴らすライダー。
「そうだ聖杯といえば、まず最初に問うておくべきだった。坊主、貴様は聖杯をどう使う?」
不意に感情の読めない口調になったライダーに、ウェイバーは何か名状しがたい悪寒を感じた。
「な……何だよ改まって? そんなこと訊いてどうする?」
「そりゃ確かめておかねばなるまいて。もし貴様もまた世界を獲る気なら、即ち余の仇敵ではないか。覇王は二人と要らんからな」
さらりと言い捨てたその言葉は、およそサーヴァントが令呪を持つマスターに向けるには、これ以上ないほどに無茶な放言だったが、この大男の野太い声がわずかに冷酷さを帯びたというだけで、ウェイバーは心胆から震え上がった。マスターである自分の根本的な優位さえ失念してしまうほど、それは圧倒的な恐怖だった。
「ばっ、バカなっ! 世界、だなんて……」
そこまで言葉に詰まってから、ウェイバーは唐突に、威厳を取り繕う必要性を思い出す。
「せっ世界征服なんて――ふん、ワタシはそんな低俗なものに興味はない!」
「ほう?」
ライダーは表情を一転させて、さも興味深げにウェイバーを見つめる。
「男子として、天下を望むより上の大望があるというのか? そりゃ面白い。聞かせてもらおう」
ウェイバーは鼻を鳴らし、精一杯の胆力ですかした冷笑を取り繕った。
「ボ……ワタシが望むのはな、ひとえに正当な評価だけだ。ついぞワタシの才能を認めなかった時計塔の連中に、考えを改め――」
言い終わるより前に、空前絶後の衝撃がウェイバーを一撃した。
ほぼ同時に「小さいわッ!」というライダーの大音声の一喝が轟いた気もしたが、衝撃と怒号はどちらも負けず劣らず強烈すぎたせいで、ウェイバーにはその区別さえつかなかった。
実際のところ、ライダーはさしたる力もこめず、ぺちん、と蚊でもはたき落とす程度の加減で平手打ちを見舞ったに過ぎないのだが、小柄で脆弱な魔術師にはそれでも強烈に過ぎたらしく、ウェイバーは独楽のようにキリキリ舞いをした挙げ句、へなへなと地面に崩れ落ちた。
「狭い! 小さい! 阿呆らしい! 戦いに賭ける大望が、おのれの沽券を示すことのみだと? 貴様それでも余のマスターか? まったくもって嘆かわしい!」
よほど腹に据えかねたのか、ライダーは怒るどころか泣きださんばかりの呆れ顔で魔術師を喝破した。
「ぁ――ぅ――」
こんなにも真っ向から、身も蓋もなく暴力に屈服させられるなど、いまだウェイバーには経験のないことだった。張られた頰の痛みより、むしろ殴られたという事実の方が、より深刻にウェイバーのプライドを打ちのめした。
顔面蒼白になりながら唇を震わすウェイバーの怒りようを、だがライダーはまったく斟酌しない。
「そうまでして他人に畏敬されたいというのなら、そうだな……うむ坊主、貴様はまず聖杯の力で、あと三〇センチほど背丈を伸ばしてもらえ。そのぐらい目線が高くなれば、まぁ大方の奴は見下してやれるだろうよ」
「この……この……ッ」
これ以上はないというほどの屈辱だった。ウェイバーは逆上すらも通り越し、貧血めいた眩暈に囚われながら、全身を身震いさせていた。
許せない。どうあっても許せない。
サーヴァントの分際で、ただの従僕に過ぎぬ身の上で、この大男は完膚無きほど徹底的にウェイバーの自尊心を否定した。こんな侮辱は、たとえ神であろうとも許さない。このウェイバー・ベルベットの威信にかけて――
ウェイバーは爪が掌を抉るほど握りしめた右手に――その甲を飾る三つの刻印に力を込めた。
“令呪に告げる――聖杯の規律に従い――この者、我がサーヴァントに――”
ライダーに……何を、どうする?
忘れたわけではない。何のために時計塔を見限り、こんな極東の片田舎にまでやってきたのか。
すべては聖杯を勝ち取るために。そのためにサーヴァントを呼んだ。この英霊との関係の危機が許されるのは二度までだ。三度から後は――令呪の喪失。すなわちマスターとしての決定的敗北を意味する。
そんな重大な局面の、最初の一度が、まさか今だとでもいうのか? まだ召喚から一時間と経っていないのに?
ウェイバーは俯いたまま深く深呼吸を繰り返し、持ち前の理性と打算で、胸の内の癇癪をどうにかして抑え込んだ。
焦ってはならない。たしかにライダーの態度は許し難いが、まだこのサーヴァントはウェイバーに刃向かったわけでも、命令を無視したわけでもない。
この猛獣を打ち据えるための鞭を、ウェイバーはただ三度しか振るうことができないのだ。ただ吼えられたぐらいで使ってしまえるほど、それは軽々しいものではない。
充分に平静を取り戻してから、ウェイバーはようやく顔を上げた。ライダーは相変わらず地べたに座ったまま、マスターを罵倒したことも、いやマスターの存在すらも忘れたかのように、背を向けて地図帳に読み入っている。その桁外れに広い背中に向けて、ウェイバーは感情を殺した声で語りかけた。
「聖杯さえ手にはいるなら、それでワタシは文句はない。そのあとでオマエが何をしようと知らん。マケドニアなり南極なり、好きなところまで飛んでいくがいい」
ふーん。と、ライダーは気のない生返事――なのかどうかも判らない大きな鼻息――を吹いただけだった。
「……ともかくだ。オマエ、ちゃんと優先順位は判ってるんだな? 真面目に聖杯戦争やるんだな?」
「ああもう、判っておるわい。そんなことは」
ライダーは地図帳から顔を上げ、肩越しにウェイバーを一瞥しながら、さも鬱陶しそうにぼやく。
「まず手始めに六人ばかり英霊をぶちのめすところから、であろう? しち面倒な話だが、たしかに聖杯がなければ何事も始まらん。安心せい。くだんの宝はちゃんと余が手に入れてやる」
「……」
余裕綽々の発言に、だがウェイバーはいまひとつ納得しきれない。
たしかにこの英霊、見かけ倒しではない。ウェイバーがマスターとして得たサーヴァント感応力で把握できる限りでも、図抜けた能力値の持ち主だ。
だが、なにもサーヴァント同士の闘争が腕相撲で競われるわけではない。いくら屈強な肉体を備えていたからといって、それで勝ち残れるほど聖杯戦争は甘くはないのだ。
「ずいぶん自信があるようだが、オマエ、何か勝算はあるのか?」
ウェイバーは敢えて挑発的に、精一杯の空威張りでライダーを睨めつけた。自分はマスターなのだから、サーヴァントに対して高圧的な態度を取るのは当然であろう、という主張も込めて。
「つまり貴様は、余の力が見たい、と?」
するとライダーは、これまでとはうって変わって静かな、どことなく不安にさせられる抑揚のない口調で、ウェイバーの視線を受け止めた。
「そ、そうだよ。当然だろ? オマエを信用していいのかどうか、証明してもらわないとな」
「フン――」
鼻で笑って、巨漢のサーヴァントは腰の剣を鞘から抜き払った。豪壮な拵えの宝剣ではあったが、それ自体からは宝具と思えるほどの魔力は感じられない。だが剣を手にしたライダーの剣吞な雰囲気に、やにわにウェイバーは不安になった。まさか、生意気な口を利いたからって斬られるんじゃあ……?
震え上がるマスターを一顧だにせず、ライダーは抜き身の剣を頭上に掲げ、
「征服王イスカンダルが、この一斬にて覇権を問う!」
そう虚空に向けて高らかに呼びかけてから、何もない空間に向けて荒々しく刃を振り下ろした。
その途端、まるで落雷のような轟音と震動が、深夜の河川敷を盛大に揺るがす。
度肝を抜かれたウェイバーは、ふたたび腰を抜かして地面に転がった。ただの空振りだったはずのライダーの剣が、いったい何を斬ったのか――
ウェイバーは見た。切り裂かれた空間がぱっくりと口を開けて裏返り、そこから途轍もない強壮なモノが出現するさまを。
そして、ウェイバーはサーヴァントの何たるかを思い出す。
英雄を伝説たらしめるのは、その英雄という人物のみならず、彼を巡る逸話や、彼に縁の武具や機器といった“象徴”の存在である。その“象徴”こそが、英霊の具現たるサーヴァントの隠し持つ、最後の切り札にして究極の奥義。俗に『宝具』と呼ばれる必殺兵器なのだ。
だから――間違いない。今ライダーが虚空から出現せしめたソレは、まぎれもなく彼の宝具であろう。その存在の内に秘められた、規格外の、法外に過ぎる魔力の密度は、ウェイバーとて理解できる。それはもはや人の理、魔術の理すら超越した奇跡の理に属するものだった。
「こうやって轅の綱を切り落とし、余はコレを手に入れた。ゴルディアス王がゼウス神に捧げた供物でな。……余がライダーの座に据えられたのも、きっとこいつの評判のせいであろうな」
さして自慢する風もなく嘯くライダーではあったが、その兵器を前にして浮かべる誇らしげな笑みは、彼が絶大なる信頼を寄せてそれを愛用してきたことの証であろう。
「だがな、これとてまだ序の口だ。余が真に頼みとする宝具はまた別にある。まぁいずれ機会があれば見せてやろう。そこまでするに値する強敵がいれば、の話だがな」
ウェイバーは改めて、ライダーを畏怖の目で眺めた。魔術師である彼だからこそ、いま目の前にある宝具の破壊力は理解できる。近代兵器に換算すれば戦略爆撃機にも匹敵しよう。小一時間も続けて暴走させれば、新都あたりの全域は余裕で焦土の山にしてしまえる。
もはや疑いなく言える。このライダーこそは、ウェイバーが望みうる最強のサーヴァントだ。その威力はすでにしてウェイバーの想像を超えている。この男に倒せない敵があるとするなら、それはもう天上の神罰を以てしても降せない存在であろう。
「おいおい坊主、そう呆けたツラを晒していても始まらんだろうに」
底意地悪くにやつきながら、ライダーは腰を抜かしたままのマスターに声をかける。
「取り急ぎ聖杯が欲しいなら、さっさと英霊の一人や二人、居場所を突き止めて見せんかい。さすれば余がすみやかに蹂躙してくれる。……それまでは、地図でも眺めて無聊の慰めとするが、まぁ文句はあるまい?」
脱魂しきった表情で、ウェイバーはゆっくりと頷いた。