Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第15回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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その夜、いよいよ最後の試練に挑むべく間桐邸の地下へ赴こうとしていた雁夜は、途中の廊下でばったりと桜に出会した。
「……」
出会い頭に桜が浮かべた怯えの表情が、ほんのわずかに雁夜の胸を痛ませる。
今となっては仕方がないとはいえ、この自分までもが桜の畏怖の対象になるのは、雁夜には辛かった。
「やぁ、桜ちゃん。――びっくりしたかい?」
「……うん。顔、どうかしたの?」
「ああ。ちょっとね」
とうとう左目の視力が完全になくなったのは昨日のことだ。壊死して白濁した眼球ともども、その周囲の顔筋まで麻痺した。瞼や眉を動かすこともできず、およそ顔の左半分が死相じみた有様で仮面のように硬直している。鏡で見た自分でさえぞっとするのだから、桜が怖がるのも無理はない。
「また少しだけ、身体の中の『蟲』に負けちゃったみたいだ。おじさんは、きっと桜ちゃんほど我慢強くないんだね」
苦笑いをして見せたつもりが、またしても不気味な表情になってしまったのか、桜はますます怯えたように身を竦める。
「――カリヤおじさん、どんどん違う人みたいになっていくね」
「ハハ、そうかもしれないね」
乾いた小さな笑い声で濁しながらも、
“――君もだよ。桜”
そう、雁夜は胸の内で沈鬱に呟いた。
今は間桐の姓を名乗る桜もまた、雁夜の知る少女とは別人のように変わり果てた。
人形のように無機質な、空虚で昏い眼差し。その目に喜怒哀楽の情が宿ることなど、この一年を通して見たことがない。かつて姉の凜と仔犬のようにじゃれ合っていた無邪気な少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。
無理からぬ話である。この一年、間桐家の魔術継承者となるために、桜が受けた仕打ちを思えば。
たしかに桜の肉体は魔術師としての素養を充分に備えていた。その点では雁夜やその兄の鶴野などは及びもつかぬほどに優秀だった。が、あくまでそれは遠坂の魔術師としての適性であって、間桐の魔術とはそもそも根本から属性が違う。
そんな桜の身体をより“間桐寄り”に調整するための処置が、この間桐家の地下の蟲蔵で『教育』の名を借りて日夜行われてきた虐待だった。
子供の精神とは、どこまでも未熟である。
彼らには固い信念もなければ、悲嘆を怒りに変える力もない。残酷な運命に対し、意志の力で立ち向かうという選択肢は与えられていない。それどころか、子供たちは未だ人生を知らぬが故に、希望や尊厳といった精神もまた、まだ充分には培われていない。
それ故に、極限の状況を強いられたとき、子供たちはむしろ大人より安易に、自らの精神を封殺できる。
未だ人生の喜びを知らぬが故に諦められる。未来の意味を解さぬが故に絶望できる。
そんな風に、一人の少女が虐待によって心を閉ざしていく過程を、雁夜はこの一年間に亘って目の前で直視する羽目になった。
身体の内から寄生虫に食い貪られていく激痛に見舞われながら、それでもなお雁夜の心を責め苛んだのは自責の念である。桜の受難は、まぎれもなくその責任の一端が雁夜にもあったのだ。彼は間桐臓硯を呪い、遠坂時臣を呪い、それと同じ呪詛の念を自分自身にも向けていた。
唯一、ささやかな救いといえば――人形のように自閉した桜が、雁夜にだけはさほど警戒することもなく、顔を合わすたび二言三言、他愛もない言葉をかけてくれたことだ。それは同類相哀れむ情なのか、かつて彼女が遠坂桜だった頃の縁によるものなのか、いずれにせよ少女は、臓硯や鶴野といった“教育者”とは別種の存在として、雁夜のことを認識してくれていた。
「今夜はね、わたし、ムシグラへ行かなくてもいいの。もっとだいじなギシキがあるからって、おじいさまが言ってた」
「ああ、知ってる。だから今夜は代わりにおじさんが地下に行くんだ」
そう答えた雁夜の顔を、桜は覗き込むようにして小首を傾げた。
「カリヤおじさん、どこか遠くへ行っちゃうの?」
子供ならではの鋭い直感で、桜は雁夜の運命を察したのかもしれない。だが雁夜は、幼い桜を必要以上に不安がらせるつもりはなかった。
「これからしばらく、おじさんは大事な仕事で忙しくなるんだ。こんな風に桜ちゃんと話していられる時間も、あまりなくなるかもしれない」
「そう……」
桜は雁夜から目を逸らし、また彼女だけにしか立ち入れない場所を見つめている風な目つきになった。そんな桜がいたたまれず、雁夜は無理に話の穂を接いだ。
「なぁ桜ちゃん。おじさんのお仕事が終わったら、また皆で一緒に遊びに行かないか? お母さんやお姉ちゃんも連れて」
「お母さんや、お姉ちゃん、は……」
桜は少し途方に暮れてから、
「……そんな風に呼べる人は、いないの。いなかったんだって思いなさいって、そう、おじいさまに言われたの」
そう、戸惑いがちな声で返事をした。
「そうか……」
雁夜は桜の前に膝をつき、まだ自由が利く方の右腕で、そっと桜の肩を包んだ。そうやって胸に抱き寄せてしまえば、桜から雁夜の顔は見えない。泣いていると気付かれずに済むだろう。
「……じゃあ、遠坂さんちの葵さんと凜ちゃんを連れて、おじさんと桜ちゃんと、四人でどこか遠くへ行こう。また昔みたいに一緒に遊ぼう」
「――あの人たちと、また、会えるの?」
腕の中から、か細い声が問うてくる。雁夜は抱きしめる腕に力を込めながら、頷いた。
「ああ、きっと会える。それはおじさんが約束してあげる」
それ以上は、言えなかった。
叶うなら、より違う言葉で誓いたかった。あと数日で間桐臓硯の魔手から救ってやれると、それまでの辛抱なんだと、今、この場で桜に教えたかった。
だが、それは赦されない。
すでに桜は絶望と諦観で精神を麻痺させることによって、精一杯に自分を護っていた。非力な少女が耐え難い苦痛に抗するためには、そうやって“痛みを感じている自分”を消し去ってしまうしかなかったのだ。
そんな子供に、『希望を持て』だの、『自分を大事にしろ』だのと――そんな残酷な言葉を投げかけられるわけがない。そういう気休めの台詞は、口にした当人だけしか救わない。彼女に希望を与えるというのは、“絶望”という心の鎧を奪い去るのと同じこと。そうなれば幼い桜の心身は、一夜と保たずに壊れるだろう。
故に――
同じ間桐邸で日々を過ごしながら、雁夜は自分が桜にとっての“救いの主”であるなどとは、ただの一度も漏らさなかった。彼は桜と同じく臓硯によって“いじめられて”いるばかりの、桜に負けず劣らず無力な大人として、ただ傍にいてやることしかできなかった。
「――じゃあ、おじさんはそろそろ、行くね」
涙が止まった頃合いを見計らって、雁夜は桜から手を放した。桜はいつになく神妙な面持ちで、雁夜の、左半分が壊れた顔を見上げてきた。
「……うん。ばいばい、カリヤおじさん」
別れの言葉が、この場には相応しいものと、彼女は子供ながらに察したらしい。
背を向けて、とぼとぼと立ち去っていく桜の背中を見送りながら、そのとき雁夜は痛切に、心から祈願した。――手遅れになってくれるな、と。
雁夜はいいのだ。すでにこの命は桜と葵の母子のために使い捨てるものと決めている。雁夜自身について“手遅れ”があるのだとしたら、それは聖杯を勝ち取るより先にこの命が潰えることだ。
むしろ恐ろしいのは、桜の“手遅れ”――もし首尾よく雁夜が聖杯を勝ち取り、桜を母の元へと送り返すことができたとしても、それであの少女は、心を固く覆った絶望という名の殻から、再び外に出てきてくれるのだろうか。
この一年のうちに桜が負った心の傷は、きっと永く尾を引くだろう。だがせめて、それが時間とともに癒えるものであってほしい。彼女の精神が、致命的なところまで壊されていないものと信じたい。
できるのは祈ることだけだ。あの少女を癒すのは雁夜ではない。そんな役目を請け負えるだけの余命など、彼には残されないだろう。そればかりは、未来の命が保証されている者たちに託すしかあるまい。
雁夜は踵を返し、ゆっくりと、だが決然とした足取りで、地下の蟲蔵に降りる階段へと向かった。