Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

第12回

虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON

あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!

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地下の工房を辞し、一階に戻った綺礼は、廊下の途中で、特大のスーツケースを相手に悪戦苦闘している小さな少女と出くわした。

「こんにちは。凜」

べつだん愛想というほどの愛想も交えずに挨拶すると、少女は鞄を引きずり歩く足を止めて、大きな瞳でじっと綺礼を見据える。この屋敷で凜と顔を合わせるようになって三年が経つが、未だに綺礼に対する彼女の眼差しから猜疑さいぎの色が消えることはない。

こんにちは。綺礼」

いささか硬い声で、それでも丁寧に挨拶を返す凜の取り澄ました態度は、その幼さにも拘わらず、既に一端いっぱしのレディの片鱗へんりんを見せていた。他ならぬ遠坂時臣の娘である。同年代の小学生とは一線を画した風格も当然というものだ。

「外出かな? ずいぶんと大荷物なようだが」

「ええ。今日から禅城ぜんじょうのお家でお世話になりますから。学校も向こうから電車で通います」

聖杯戦争の開始に先駆けて、時臣は隣市にある妻の実家に家族を移すという決定を下していた。戦場となる冬木市に彼女らを置いて危険に晒すわけにはいかないという、当然の配慮である。

ところがそれが、娘の凜にとってははなはだ不服らしい。現に今も物腰こそ丁寧ではあるが、愛らしい口元を露骨ろこつにとんがらせた表情は見るからに不機嫌である。淑女の卵とはいえまだ子供だ。そこまで徹底した慎みは望めない。

「綺礼はお父様のそばに残って、一緒に戦うんですね」

「ああ。そのために弟子として招かれたのだからね。私は」

凜はただの無知な子供ではない。遠坂の魔導を受け継ぐ後継者として、既に時臣による英才教育が始まっている。これから冬木で起こる聖杯戦争についても、ごく初歩的な知識は持ち合わせている。

母親の実家に避難させられる理由も、正当なものとして納得してはいるはずだ。それでもなお不満なのは彼女が去った後も、綺礼だけは我が物顔で遠坂の屋敷を闊歩かっぽしているところにあるのだろう。

凜が父の時臣に寄せる敬慕けいぼはとりわけ強い。そのせいか、正当な後継者である凜よりも先に時臣の弟子となり、魔術を学んでいた綺礼に対しては、何かと風当たりが強いのだ。

「綺礼、あなたを信じていいですか? 最後までお父様を無事に守り通すと、約束してくれますか?」

「それは無理な相談だ。そんな約束ができるほど安穏な戦いであったなら、なにも君や奥様を避難させる必要もなかっただろう」

綺礼は気休めなど抜きにして、正味のところを淡々と語った。すると凜はなおのこと憮然と目元を険しくし、鉄面皮な兄弟子をにらみつける。

やっぱりわたし、あなたのこと好きになれない」

こういう年相応にねたことを言うときにだけ、綺礼はこの少女に好感を懐くのだった。

「凜。そういう本心は人前で口にしてはいけないよ。でなければ君を教育している父親の品格が疑われるからね」

「お父様は関係ないでしょ!」

父親を引き合いに出された途端に、凜は顔をにして癇癪かんしゃくを起こした。綺礼の期待通りである。

「いい綺礼? もしあんたが手ぇ抜いてお父様に怪我けがさせるようなことになったら、絶対に承知しないんだからねっ! わたしは

そのとき、まさに絶妙とも言えるタイミングで、玄関の方から葵が姿を見せた。すでに外出の身支度みじたくを済ませている。なかなか凜が来ないので様子を見に来たのだろう。

「凜! 何をしているの? 大声を出して」

ぁ、えぇと、その

「お別れの前に、私を激励してくれていたのですよ。奥様」

落ち着き払ってフォローする綺礼に、凜はなおいっそう腹を立てるものの、それでも母親の手前何も言えずにそっぽを向く。

「荷運びを手伝おう。凜、そのスーツケースは君には重すぎるだろうから」

「いいのっ! 自分でできます!」

凜はさっきまでよりもっと強引にスーツケースを引っ張り、そのせいでなおいっそう進むのに悪戦苦闘しながらも、ともかく玄関へと去っていった。大人げないと解ってはいても、ついつい事あらば凜をからかいたくなってしまうのが綺礼の癖だ。

後に残った葵が、丁重に綺礼に頭を下げる。

「言峰さん。どうか主人をよろしくお願いします。あの人の悲願を遂げさせてあげてください」

「最善を尽くします。ご安心ください」

綺礼から見ても、遠坂葵という女性は妻として出来すぎた人物だった。慎み深くも気遣いは細やかで、夫を理解しつつも干渉はせず、愛情より忠節を前に立てて日々の務めを果たす一昔前であったなら良妻賢母の鑑であっただろう。フェミニズムの浸透した昨今では化石のような人種である。なるほど時臣という男は、自分にうってつけの人間を配偶者として選んだようだ。

綺礼は玄関の車寄せまで母子を見送った。タクシーではなく自家用車で、ハンドルは葵が握る。運転手だけでなくすべての使用人には、先週からひまが出されていた。無用な巻き添えを出さないための配慮であるのと同時に、念には念を入れた防諜対策でもある。使用人まで警戒するという思考をまるで持ち合わせていなかった時臣に対し、これは綺礼が半ば強引に進言したことだ。

車が走り出す直前に、凜は母親の目を盗んで、綺礼に向けて舌を出した。綺礼も苦笑してそれを見届けてから、人気の失せた邸内へと引き返した。