Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第9回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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その闇は、一〇〇〇年を経て蓄積された妄執に澱んでいた。
衛宮切嗣とアイリスフィールが当主の呼び出しを受けて赴いたのは、アインツベルン城の礼拝堂――この氷に閉ざされた古城の中でも、もっとも壮麗かつ暗鬱な場所だった。
神の恩寵を讃える癒しの場などでは、むろんない。魔術師の居城における祈禱の場とは、すなわち魔導の式典を執り行う祭儀の間である。
故に、仰ぎ見る頭上のステンドグラスも聖者の絵姿ではなく、そこに描かれているのは聖杯を求めて彷徨したアインツベルン家の悠久の歴史だった。
始まりの御三家においても、アインツベルンが聖杯に費やした歳月はなお古い。
凍てついた深山に自らを封じ込め、外部との交わりを頑なに絶ったまま、彼らはおよそ千年もの昔から聖杯の奇跡を追い求めてきた。だがそんな彼らの探求は――挫折と屈辱、そして苦肉の打開策。その繰り返しだったと言っていい。
独力での成就を諦め、ついに遠坂とマキリという外部の家門との協定を余儀なくされたのが二〇〇年前。
そうして始まった聖杯戦争でも、つねにマスターの戦闘力で遅れを取ったが故に、ただの一度として勝利せず――結果として、戦慣れした魔術師を外から招き入れるしかないという決断に至ったのが九年前。
いわば衛宮切嗣は、血の結束を誇りとしてきたアインツベルンが二度目に信条を曲げてまで用意した切り札だった。
回廊を歩きながら、切嗣は漫然と、絵窓のうち比較的新しい一枚に目を留めた。
そこに描かれているのは、アインツベルンの『冬の聖女』ことリズライヒ・ユスティーツァと、その左右に侍る二人の魔術師が天空の杯に手を差し伸べている姿である。その絵柄の構図、意匠のバランスとを観察すれば、いかに二〇〇年前のアインツベルン家がマキリと遠坂を卑下し、そんな彼らの助力を仰がざるを得なかったことに屈辱を感じていたか、ありありと窺い知れる。
今度の戦いに勝ち残れば――切嗣は胸の中の皮肉に、独り、小さく苦笑した――この自分の姿も、あんな風にさも不本意だと言わんばかりの構図でステンドグラスに組み込まれるのだろうか。
冬の城の主たる老魔術師は、祭壇の前で切嗣とアイリスフィールを待ち受けていた。
ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。八代目当主の座を嗣いでからは『アハト』の通り名で知られている。延齢に延齢を重ね、すでに二世紀近い永きに亘って生き長らえながら、聖杯“探求”が聖杯“戦争”へと転換されて以降のアインツベルンを統べてきた人物である。
ユスティーツァの時代こそ知らない彼だが、以後の第二次聖杯戦争から、一度ならず二度までも大敗を喫してきたアハト翁にとって、今回の三度目のチャンスに臨んでの焦りは並々ならぬものだった。九年前、当時“魔術師殺し”の悪名を轟かせていた衛宮切嗣を、その腕前だけを見込んでアインツベルンに迎え入れたのも、老魔術師が勝利に逸るあまりの決断だった。
「かねてよりコーンウォールで探索させていた聖遺物が、今朝、ようやく届けられた」
氷結した滝を思わせる白髭の束を手でしごきながら、アハト翁は落ちくぼんだ眼窩の奥の、まったく老いを窺わせない強烈な眼光で切嗣を見据えた。永らくこの古城に住まう切嗣だが、顔を合わせるたびに当主から浴びせられる偏執症めいたプレッシャーには、だいぶ以前から辟易していた。
老当主が手で示した祭壇の上には、仰々しく梱包された黒檀の長櫃が載せられている。
「この品を媒介とすれば、“剣の英霊”として、およそ考え得る限り最強のサーヴァントが招来されよう。切嗣よ、そなたに対するアインツベルンの、これは最大の援助と思うがよい」
「痛み入ります。当主殿」
固く無表情を装ったまま、切嗣は深々と頭を垂れた。
アインツベルンが開祖以来の伝統を破って外部の血を迎え入れたことを、聖杯は何の不思議もなく受け入れたらしい。衛宮切嗣の右手にはすでに三年も前から令呪が刻まれていた。まもなく始まる四度目の聖杯戦争に、彼はアインツベルン千年の悲願を背負って参戦するのである。
切嗣の隣で、同様に恭しく面を伏せているアイリスフィールに、老当主は視線を転じる。
「アイリスフィールよ、器の状態は?」
「何の問題もありません。冬木においても、つつがなく機能するものと思われます」
淀みなく返答するアイリスフィール。
願望機たる“万能の釜”は、それ単体では霊的存在でしかなく実体を持ち合わせていない。よってそれを『聖杯』として完成させるには、依り代となるべき“聖杯の器”に降霊させる必要がある。それを巡る七人のサーヴァントの争奪戦そのものが、いわば降霊の儀式と言ってもいい。
その器たる人造の聖杯を用意する役は、聖杯戦争の開始以来、代々のアインツベルンが請け負ってきた。そして今回の第四次聖杯戦争で『器』を預かる役を任せられたのがアイリスフィールである。彼女は切嗣とともに冬木へと向かい、戦いの地に居合わせなくてはならない。
アハト翁は、その双眸に狂おしいまでの強い光を宿したまま、厳めしく頷いた。
「今度ばかりは……ただの一人たりとも残すな。六のサーヴァント総てを狩りつくし、必ずや第三魔法、天の杯を成就せよ」
「「御意に」」
魔術師とホムンクルス、ともに運命を負わされた夫妻は、呪詛めいた激情を込めて発せられた老当主の勅命に、声を揃えて返答する。
だが内心において、切嗣はこの老いさらばえた当主の妄執に呆れはてていた。
成就……アインツベルンの長が万感の思いを込めるのは、ただその一言のみ。そう、もはやアインツベルンの精神には“成就”への執念しかないのだ。
魂の物質化という神の業。失われたとされるその秘技を求めて一千年……そんな気の遠くなるような放浪のうち、彼らはすでに手段と目的とを履き違えるまでになっていた。
その永きに亘る探求が無益なものでなかったという確証を得たいがためだけに、ただ“それが在る”ことを確かめるためだけに聖杯を摑まんとするアインツベルン。彼らにとって、呼び出した聖杯が何のためのものであるかという目的意識は、もはや眼中にさえない。
“いいだろう。お望みの通り、あんたの一族が追い求めた聖杯はこの手で完成させてやる”
アハト翁に劣らぬ熱を込めて、衛宮切嗣は胸の中で呟いた。
“だが、それだけでは終わらせない。万能の釜の力を以て、僕は僕の悲願を遂げる……”