Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第8回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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ウェイバー・ベルベットの才能は、誰にも理解されたためしがなかった。
魔術師として、さして名のある家門の出自でもなく、優秀な師に恵まれたわけでもない少年が、なかば独学で修業を重ね、ついには全世界の魔術師を束ねる魔術協会の総本部、通称を『時計塔』の名で知られるロンドンの最高学府に招聘されるまでに到ったという偉業を、ウェイバーは何人たりとも及ばぬ栄光であると信じて疑わなかったし、そんな自分の才能を人一倍に誇っていた。我こそは時計塔開闢以来の風雲児として誰もが刮目するべき生徒であると、少なくともウェイバー個人はそう確信していた。
確かにベルベット家の魔術師としての血統は、まだ三代しか続いていない。先代から世継ぎへと受け継がれ、蓄積されていく魔術刻印の密度も、世代を重ねることで少しずつ開拓されていく魔術回路の数も、ウェイバーは由緒正しい魔術師の家門の末裔たちには些か劣るかもしれない。時計塔の奨学生には、六代以上も血統を重ねた名門の連中が珍しくもなく在籍している。
魔術の秘奥とは一代で成せるものではなく、親は生涯を通じた鍛錬の成果を子へと引き継がせることで完成を目指す。代を重ねた魔導の家門ほど力を持つのはそのせいだ。
また、すべての術師が生まれながらにして持ち合わせる量が決定づけられてしまう魔術回路の数についても、歴史ある名家の連中は優生学的な手段に訴えてまで子孫の回路を増やすよう腐心してきたのだから、当然またここでも新興の家系とは格差がつく。つまり、魔術の世界とは出自によって優劣が概ね決定されてしまう……というのが通説である。
だが、ウェイバーの認識は違った。
歴史の差などというものは経験の密度によっていくらでも覆せるものである。たとえ際立った数の魔術回路を持ち合わせていなくても、術に対するより深い理解と、より手際の良い魔力の運用が出来るなら、生来の素養の差などいかようにも埋め合わせがきく――と、ウェイバーは固く信じて疑わなかったし、自らがその好例たらんとして、ひときわ積極的に自分の才能を誇示するよう努めてきた。
だが、現実はどこまでも過酷だった。血統の古さばかりを鼻にかける優待生たちと、そんな名門への阿諛追従にばかり明け暮れる取り巻きども。そんな連中こそが時計塔の主流であり、ひいては魔術協会の性格を完全に決定づけていた。講師たちとて例外ではない。名門出身の弟子ばかりに期待を託し、ウェイバーのような“血の浅い”研究者には術の伝承どころか魔導書の閲覧すら渋る有様だ。
なぜ術師としての期待度が血筋だけで決まるのか。
なぜ理論の信憑性が年の功だけで決まるのか。
誰もウェイバーの問題提起に耳を傾けなかった。講師たちはウェイバーの論究を煙に巻くような形で言いくるめ、それでウェイバーを論破したものとして後は一切取り合わなかった。
あまりにも理不尽だった。その苛立ちはますますウェイバーを行動へと駆り立てた。
魔術協会の旧態依然とした体制を糾弾すべく、ウェイバーがしたためた一本の論文。その名も『新世紀に問う魔導の道』は、構想三年、執筆一年に亘る成果であった。持論を突き詰めつつ嚙み砕き、理路整然と、一分の隙もなく展開した会心の論文。査問会の目に触れれば、必ずや魔術協会の現状に一石を投じるはずだった。
それを――事もあろうに、ただ一度流し読みしただけで破り捨てた降霊科の講師。
名をケイネス・エルメロイ・アーチボルトといった。九代を重ねる魔導の名家アーチボルトの嫡男であり、周囲からは『ロード・エルメロイ』などと呼ばれ持てはやされている。学部長の娘との婚約をとりつけて、若くして講師の椅子まで手に入れたエリート中のエリート。ウェイバーがもっとも軽蔑してやまない権威を体現する、鼻持ちならない男であった。
『君のこういう妄想癖は、魔導の探究には不向きだぞ。ウェイバーくん』――高飛車に、声音には憐憫の情さえ含めながら、冷ややかに見下してきたケイネス講師の眼差しを、ウェイバーは決して忘れない。ウェイバーの一九年の生涯においても、あれに勝る屈辱は他にない。
仮にも講師職を務めるほどの才を持つのであれば、ウェイバーの論文の意味を理解できないはずがない。いや、理解できたからこそあの男は妬いたのだろう。ウェイバーの秘めたる才能を畏怖し、嫉妬し、それが自らの立場を危うくしかねない脅威だと思ったからこそ、あんな蛮行に及んだのだ。よりにもよって――智の大成たる学術論文を破り捨てるなど、それが学究の徒のやることだろうか。
許せなかった。世界に向けて問われるべき自分の才覚が、ただ一人の権威者の独断によって阻まれるなどという理不尽。だがそんなウェイバーの怒りに対し、共感を寄せる者は誰一人としていなかった。それほどまでに魔術協会は――ウェイバー・ベルベットの観点からすれば――根深いところまで腐りきっていた。
だが……憤懣やるかたない日々を過ごすうちに、ウェイバーはひとつの風聞を耳にした。
名にしおうロード・エルメロイが、その虚栄の経歴に最後の総仕上げを施すべく、近く極東の地で魔術の競い合いに参加するという噂。
その“聖杯戦争”なる競技の詳細を、ウェイバーは夜っぴて調べ上げ、その驚くべき内容に心を奪われた。
膨大な魔力を秘めた願望機『聖杯』を賭して、英霊を現界させ使い魔として駆使することで競われる命懸けの勝ち抜き戦。肩書きも権威も何ら意味のない、正真正銘の実力勝負。
それはたしかに野蛮であったが、単純かつ誤解の余地のない優劣の決定だった。不遇の天才がここ一番の面目躍如を遂げるためには、まさに理想の花舞台に思えた。
興奮醒めやらぬウェイバーに、さらに幸運の女神が微笑む。
発端は管財課の手違いだった。ケイネス講師の依頼でマケドニアから届けられた、さる英雄ゆかりの聖遺物……一般の郵便ともども弟子のウェイバーに取り次ぎを託されたソレは、本来ならばケイネス本人の立ち会いのもと開封されるよう厳命されていたはずの特別な配送だったのだ。
それが聖杯戦争におけるサーヴァント召喚のための触媒であると、ウェイバーはすぐに気がついた。そのとき彼は、まさに千載一遇の好機を得ていたのだ。
もはや腐敗しきった時計塔に未練はなかった。首席卒業生のメダルの輝きも、冬木の聖杯がもたらすであろう栄光に比べればゴミのようなものである。ウェイバー・ベルベットが戦いに勝利したとき、魔術協会の有象無象は彼の足許にひれ伏すことになるだろう。
その日のうちにウェイバーはイギリスを後にし、一路、極東の島国へと飛んだ。時計塔でも、誰がケイネス宛ての荷物を奪ったのかはすぐに判明したことだろうが、それでも追っ手がかかるようなことはなかった。ウェイバーが聖杯戦争に関心を持っていたことは誰にも知られていなかったし、またこれはウェイバーの知らなかった事実だが、ウェイバー・ベルベットという生徒の器からすれば、せいぜいが恥辱の腹いせにケイネスの荷を隠匿する程度が関の山であろう、というのが大方の共通認識であった。まさか、かの劣等生が死を賭した魔術勝負に参加するほどの身の程知らずであろうとは誰も予想だにしなかったのだ。その点において、たしかに時計塔の面々はウェイバーという人物をまだまだ侮りすぎていた。
かくして極東の片田舎、運命の土地、冬木市において、いまウェイバーはベッドの上で毛布のぬくもりにくるまりながら、ひっきりなしに湧いてくる笑いを嚙み殺していた。いや、嚙み殺しきれずにいた。カーテンの隙間から漏れ込んでくる朝の日差しに、数秒おきに右手の甲をかざして見ては、ウフフ、イヒヒと悦に入った忍び笑いを漏らしていた。
聖遺物を手に、冬木の地に身を置き、さらに充分な魔術の素養を備えた者……これを聖杯が見逃すわけがない。はたしてウェイバーの手の甲には、サーヴァントのマスターたる証、三つの令呪が昨夜からくっきりと浮かび上がってきていた。明け方から庭でけたたましく鳴き喚く鶏の声も、まったく気にならなかった。
「ウェイバーちゃ~ん、朝御飯ですよ~う」
階下から呼びかける老婆の声も、今朝は普段と違ってまったく不愉快ではない。ウェイバーは今日という記念すべき日をつつがなく開始するために、速やかにベッドを出て寝間着を着替えた。
閉鎖的な島国民族の土地にありながら、冬木市という町は例外的に外来の居留者が多く、おかげでウェイバーの東洋人離れした風貌も、さほど人目を惹くようなことはなかった。それでもウェイバーはさらに慎重を期すため、とある孤独な老夫婦に目をつけて、彼らに魔術的な暗示をかけてウェイバーのことを海外遊学から戻ってきた孫であると思い込ませ、首尾良く偽の身分と快適な住居とを手に入れていた。ホテル住まいをする費用がないという問題も一挙両得に解決されて、ウェイバーはますます自分の機転に惚れ惚れしていた。
爽快な朝を満喫するため、庭で騒ぐ鶏の声をつとめて意識から追い出しながら、ウェイバーは一階のダイニングキッチンに下りた。新聞とテレビニュースと炊事の湯気に彩られた庶民的な食卓が、今日も何の警戒もなく寄生者を迎え入れる。
「おはようウェイバー。よく眠れたかね?」
「うんお爺ちゃん。朝までグッスリだったよ」
にこやかに返答しながら、ウェイバーは配膳されたトーストに分厚くママレードジャムを塗る。一斤一八〇円の食パンのふにゃふにゃした歯応えは、日頃から甚だ不満だったが、そこは多めのジャムで我慢していた。
グレン・マッケンジーとマーサ夫妻はカナダから日本に移り住んで二〇年余り。だが日本の暮らしに馴染めなかった息子は生国に戻って家庭を持ち、一〇歳まで日本で育てた孫も、顔を見せないどころか便りもないままに七年が経つという。――以上の情報は、ウェイバーが催眠術で老人から聞き出したものだ。お誂え向きな家族構成を気に入ったウェイバーは、老夫婦が理想として思い描く孫のイメージを暗示で自分とすり替え、まんまと二人の愛孫『ウェイバー・マッケンジー』に成り済ましていたのである。
「それにしても、なぁマーサ。今朝は明け方から鶏の声がうるさくてかなわんが、アレは何だろうね?」
「うちの庭に鶏が三羽いるんですよ。一体どこから来たのかしらねぇ……」
咄嗟に言い訳しようとして、ウェイバーは口に詰め込んでいたパンに咽せかかる。
「あ、あれはね……友達のペットを預かってるんだ。なんでも旅行で留守にするとかで。今夜には返してくるから」
「あらあら、そうだったの」
さほど気にかけていたわけでもなかったらしく、二人はすんなりと納得した。この老夫婦の耳が遠かったのは幸いと言えよう。三羽の鶏のけたたましさは、その日すでに近隣の住人から存分に顰蹙を買っていた。
だが苦労の程から言えば、一番災難だったのはウェイバーである。昨夜、令呪が宿ったと知るや喜び勇んで儀式の生贄の調達にかかったものの、まさか町の近隣で養鶏場を見つけるのがこんなに大変とは思わなかった。やっとのことで鶏小屋を探し当て、さらに三羽を捕まえるまでにまた小一時間。白みはじめた空の下をようやく家に帰りついた頃には、すでに全身鶏糞まみれ、啄まれた両手は血まみれだった。
時計塔にいた頃なら生贄用の小動物などいくらでも用意されていたというのに、どうして自分ほどの天才魔術師が、たかだか鶏三羽のためにここまで惨めな思いをするのか、ウェイバーは悔しさの余り泣きたい気分だったが、それでも朝まで右手の令呪を眺めているうちに気分はすっかり晴れやかになった。
儀式の決行は今夜。あの鬱陶しい鶏どももそれまでの命だ。
そしてウェイバーは最強のサーヴァントを手に入れる。二階の寝室のクローゼットに隠してある聖遺物――あれがどれほど偉大な英霊を呼び寄せる媒介となるのか、すでにウェイバーは知っている。
干涸らび、なかば朽ち果てた一片の布。それはかつて、とある大王の肩を飾っていたマントの切れ端である。アケメネス朝ペルシアを殲滅し、ギリシアから西北インドに到る世界初の大帝国を建設した伝説の『征服王』……その英霊が、今宵、召喚によってウェイバーの膝下に降るのだ。彼を栄光の聖杯へと導くために。
「……お爺ちゃん、お婆ちゃん、今夜は友達の家に鶏を返しに行くから、帰りは遅くなると思うけど、心配しなくていいからね」
「うむ、気をつけるんだよ。近頃は冬木も物騒らしいからな」
「本当。あの噂の連続殺人鬼、また犠牲者が出たそうですよ。恐い世の中になったものねぇ」
長閑な食卓で、安物の八枚切り食パンを頰張りながら、いまウェイバーは生涯最高の幸福感に包まれていた。相変わらずの鶏の鳴き声が、ほんの少しだけ耳障りではあったが。