Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第7回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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玄関先で繰り広げられた、ささやかながらも剣吞な押し問答の末、ほどなくして雁夜は勝手知ったる間桐邸の中で、応接間のソファに腰を据えていた。
「その面、もう二度とワシの前に晒すでないと、たしかに申しつけた筈だがな」
雁夜と差し向かいに座りながら、冷たく憎々しげに言い捨てる矮軀の老人は、一族の家長たる間桐臓硯である。禿頭も手足も木乃伊と見紛うほどに萎びていながら、それでいて落ちくぼんだ眼下の奥の光だけは爛々と精気を湛えた、容姿から風格から尋常ならざる怪人物である。
実のところ、この老人の正確な年齢は雁夜にも定かでない。ふざけたことに戸籍上の登録では彼が雁夜たち兄弟の父親ということになっている。だがその曾祖父にも、さらにその三代前の先祖にも、臓硯という名の人物は家系図に記録されていた。この男がいったい何代に亘って間桐家に君臨してきたのかは知る由もない。
語るもおぞましい手段によって延齢に延齢を重ねてきた不死の魔術師。雁夜が忌避する間桐の血脈の大本たる人物。現代に生き残る正真正銘の妖怪が彼だった。
「聞き捨てならない噂を聞いた。間桐の家がとんでもなく恥さらしな真似をしてる、とな」
いま相対しているのが冷酷無比かつ強大な魔術師であることは、雁夜とて重々承知していた。だが怖じる気持ちは毛頭ない。雁夜が生涯を通じて憎み、嫌悪し、侮蔑してきたすべてを体現する男。たとえこの男に殺されるとしても、雁夜は最後まで相手を蔑み抜く覚悟を固めていた。すでに一〇年前の対決からして、そういう気概で臨んだからこそ、雁夜は掟破りの離反者として間桐を離れ、自由を得ることができたのだ。
「遠坂の次女を迎え入れたそうだな。そんなにまでして間桐の血筋に魔術師の因子を残したいのか?」
詰問調の雁夜に、臓硯は忌ま忌ましげに眉を顰める。
「それを詰るか? 他でもない貴様が? いったい誰のせいでここまで間桐が零落したと思っておる?
鶴野めが生した息子には、ついに魔術回路が備わらなんだ。間桐純血の魔術師はこの代で潰えたわ。だがな雁夜、魔術師としての素養は、鶴野よりも弟であるおぬしの方が上だった。おぬしが素直に家督を受け継ぎ、間桐の秘伝を継承しておれば、ここまで事情は切迫せなんだ。それを貴様という奴は……」
口角に泡を飛ばす勢いでまくし立てる老人の剣幕を、だが雁夜は鼻を鳴らして一蹴する。
「茶番はやめろよ吸血鬼。あんたが今さら間桐一族の存続なんぞに拘ってるとでも? 笑わせるな。新しい代の間桐が産まれなくても、あんたには何の不都合もあるまい。二〇〇年なり一〇〇〇年なりと、あんた自身が生き続ければ済む話だろうが」
そう雁夜が言い当てた途端、臓硯はそれまでの怒気を噓のように収めて、ニヤリと口元を歪める。およそ人間らしい情緒など欠片も窺えない、それは怪物の笑みだった。
「相変わらず、可愛げのない奴よのう。身も蓋もない物言いをしおって」
「それもこれも、あんたの仕込みだ。くだらない御託で誤魔化される俺じゃない」
ククク……と、さも愉快げに老人は喉の奥から湿った音を鳴らす。
「左様。おぬしや鶴野の息子よりも、なおワシは後々の世まで生き長らえることじゃろうて。だがそれも、この日毎に腐れ落ちる身体をどう保つかが問題でな。間桐の跡継ぎは不要でも、間桐の魔術師は必要でのう。この手に聖杯を勝ち取るためには、な」
「……結局は、それが魂胆か」
雁夜とて、概ね察しはついていた。この老魔術師が妄執のごとく追い求める不老不死。それを完璧な形で叶える『聖杯』という願望機……数世紀を経てなお往生せぬこの怪物を支えているのは、その奇跡に託す希望だけなのだ。
「六〇年の周期が来年には巡り来る。だが四度目の聖杯戦争には、間桐から出せる駒がない。鶴野程度の魔力ではサーヴァントを御しきれぬ。現にいまだ令呪すら宿らぬ有様じゃ。
じゃがな、此度の戦いは見送るにしても、次の六〇年後には勝算がある。遠坂の娘の胎盤からは、さぞ優秀な術者が生まれ落ちるであろう。アレはなかなか器として望みが持てる」
遠坂桜の幼い面影を、雁夜は瞼の裏に思い出す。
姉の凜よりも奥手で、いつも姉の後について迴っていた、か弱い印象の女の子。魔術師などという残酷な運命を背負わされるには、あまりにも早すぎる子供。
湧き上がる怒りを飲み下し、雁夜はつとめて平静を装う。
今ここで臓硯と相対しているのは交渉のためだ。感情的になって益になることは何もない。
「――そういうことなら、聖杯さえ手に入るなら、遠坂桜には用はないわけだな?」
含みのある雁夜の言い分に、臓硯は訝しげに目を細める。
「おぬし、何を企んでいる?」
「取引だ、間桐臓硯。俺は次の聖杯戦争で間桐に聖杯を持ち帰る。それと引き換えに遠坂桜を解放しろ」
臓硯は一呼吸の間だけ呆気に取られ、それから侮蔑も露わに失笑した。
「カッ、馬鹿を言え。今日の今日まで何の修業もしてこなかった落伍者が、わずか一年でサーヴァントのマスターになろうだと?」
「それを可能にする秘術が、あんたにはあるだろう。爺さん、あんたお得意の蟲使いの技が」
老魔術師の目を真っ向から見据えながら、雁夜は切り札の一言を口にする。
「俺に『刻印虫』を植えつけろ。この身体は薄汚い間桐の血肉で出来ている。他家の娘なんかよりはよほど馴染みがいいはずだ」
臓硯の面から表情が消え、人ならざる魔術師の顔になる。
「雁夜――死ぬ気か?」
「まさか心配だとは言うまいな? お父さん」
雁夜が本気なのは、臓硯も理解したらしい。魔術師は冷ややかに値踏みする眼差しで雁夜を眺めながらも、ふむ、と感慨深げに息をつく。
「確かに、おぬしの素養であれば鶴野よりも望みはある。刻印虫で魔術回路を拡張し、一年間みっちりと鍛え抜けば、あるいは聖杯に選ばれるだけの使い手に仕上がるやも知れぬ。
……それにしても、解せぬな。なぜ小娘一人にそうまでして拘る?」
「間桐の執念は、間桐の手で果たせばいい。無関係の他人を巻き込んでたまるか」
「それはまた殊勝な心がけじゃのう」
臓硯はさも愉しそうに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「しかし雁夜、巻き込まずに済ますのが目的ならば、いささか遅すぎたようじゃのう? 遠坂の娘が当家に来て何日目になるか、おぬし、知っておるのか?」
やにわに襲いかかってきた絶望が、雁夜の胸を押し潰す。
「爺ぃ、まさか――」
「初めの三日は、そりゃあもう散々な泣き喚きようだったがの、四日目からは声も出さなくなったわ。今日などは明け方から蟲蔵に放り込んで、どれだけ保つか試しておるのだが、ホホ、半日も蟲どもに嬲られ続けて、まだ息がある。なかなかどうして、遠坂の素材も捨てたものではない」
憎しみすら通り越した殺意に、雁夜の肩が震えた。
今すぐにもこの外道の魔術師に摑みかかり、皺首を力の限り絞め上げ、へし折りたい――そんな抗いがたい衝動が、雁夜の内側で猛り狂う。
だが雁夜とて承知していた。瘦せても枯れても臓硯は魔術師。この場で雁夜一人を殺してのける程度のことは造作もない。力業に訴えたところで雁夜には欠片ほどの勝算もないのだ。
桜を救おうと思うなら、交渉以外の手段はない。
雁夜の中の葛藤を見透かしたのか、臓硯はまるで満足した猫が喉を鳴らすかのように、陰鬱な含み笑いを漏らした。
「さて、どうする? すでに頭から爪先まで蟲どもに犯されぬいた、壊れかけの小娘一匹。それでもなお救いたいと申すなら、まぁ、考えてやらんでもない」
「……異存はない。やってやろうじゃないか」
雁夜は冷えきった声でそう答えた。もとより他に選択肢はなかった。
「善哉、善哉。まぁせいぜい気張るがいい。だがな、貴様が結果を出すまでは、引き続き桜の教育は続行するぞ」
カラカラと嗤う老魔術師の上機嫌は、雁夜の怒りと絶望を玩ぶ愉悦によるものだった。
「ひとたび我らを裏切った出戻りの落伍者なぞよりも、アレの産み落とすであろう子供の方が、はるかに勝算は高いからな。ワシの本命はあくまで次々回の機会じゃ。今度の聖杯戦争は負け戦と思って、最初から勝負を捨ててかかる。
だがな、それでも万が一、貴様が聖杯を手にするようならば――応とも。そのときは無論、遠坂の娘は用済みじゃ。アレの教育は一年限りで切り上げることになろうな」
「……二言はないな? 間桐臓硯」
「雁夜よ、ワシに向かって五分の口を利こうと思うなら、まずは刻印虫の苦痛に耐えて見せよ。そうさな、まずは一週間、蟲どもの苗床になってみるが良い。それで狂い死にせずにおったなら、おぬしの本気を認めてやろうではないか」
臓硯は杖に寄りかかって大儀そうに腰を上げながら、いよいよ持ち前の邪悪さを剝き出しにした人外の微笑を雁夜に向けた。
「では、さっそく準備に取りかかろうかの。処置そのものはすぐに済む。――それとも、考え直すなら今のうちだが?」
雁夜は無言のまま、ただかぶりを振って最後の躊躇を拒絶した。
ひとたび体内に蟲を入れれば、彼は臓硯の傀儡となる。もうそれきり老魔術師への反逆は叶わない。だがそれでも、魔術師の資格さえ手に入れたなら、間桐の血を引く雁夜はまず間違いなく令呪を宿す。
聖杯戦争。遠坂桜を救済する唯一のチャンス。生身のままの自分では決して手の届かない選択肢。
その代価として、おそらく雁夜は命を落とすだろう。他のマスターに仕留められずとも、わずか一年という短期間のうちに刻印虫を育てるとなれば、蟲に食い蝕まれた雁夜の肉体には、ほんの数年の余命しか残されまい。
だが、構わない。
雁夜の決断は遅すぎた。もし彼が一〇年前に同じ覚悟を決めていたならば、葵の子供は母親の元で無事に暮らしていただろう。かつて彼の拒んだ運命が、巡り巡って、何の咎もない少女の上に降りかかったのだ。
それを償う術はない。贖罪の道があるとすれば、せめて少女の未来の人生だけでも取り戻すことしかない。
加えて、聖杯を手にするために、残る六人のマスターを悉く殺し尽くすというのであれば……
桜という少女に悲劇をもたらした当事者たちのうち、少なくとも一人については、この手で引導を渡してやれる。
“遠坂、時臣……”
始まりの御三家の一角、遠坂の当主たるあの男の手にもまた、間違いなく令呪が刻まれていることだろう。
葵への罪の意識とも、臓硯への怒りとも違う、今日まで努めて意識すまいとしていた憎悪の堆積。
昏い復讐の情念が、間桐雁夜の胸の奥で埋火のように静かに燃えはじめていた。