Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第6回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
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二度と見ることもあるまいと思っていた故郷の景色の中、雁夜は足早に歩を進めた。
何度、冬木市に舞い戻ろうと、川を渡って深山町にまで踏み込むことは決してなかった。思えば一〇年ぶりになろうか。日毎に開発の進む新都と違って、この辺りはまるで時が止まったかのように変化がない。
記憶にあるままの閑静な町並み。だが歩調を緩めてそれらに見入ったところで、蘇ってくる思い出には快いものなど一つもない。そんな益体もない郷愁には背を向けたまま、ただ雁夜は、小一時間ほど前の葵との問答ばかりに思いを馳せていた。
『……それでいいのか?』
目を伏せる葵に、思わず投げかけた詰問の言葉。あんなにも険しい声音が自分の口を衝いて出たのは、ここ数年来ないことだった。
目立たず、誰の妨げにもならず……そう心がけて生きてきた。怒りも、憎しみも、雁夜はこの深山町の寂れた町並みに置き去りにしてきた。故郷を捨てた後の雁夜には、拘るほどの出来事など何もなかった。どんなに卑劣なことも、醜い事柄も、かつてこの土地で嫌悪した諸々に比べれば、取るに足らないものばかりだった。
だから――そうだ。今日のように声にまで感情が出たのは、きっと八年前のこと。
あのときも雁夜は、同じ声音と剣幕で、同じ言葉を、同じ女性に投げかけたのではなかったか。
『それでいいのか?』――あのときも、問うた。年上の幼馴染みに向けて、彼女が遠坂の姓を得る日の前夜に。
忘れもしない。あのときの彼女の面持ち。
困ったように、申し訳なさそうに、それでもはにかみに頰を染めて、彼女は小さく頷いた。その慎ましい微笑に雁夜は敗北した。
『……覚悟していた……ごく当たり前の家庭の幸せなんて、求めるのは間違いよ……』
そんな言葉は、噓だ。
八年前のあの日、彼女が若き魔術師のプロポーズを受け入れたとき、その笑顔はたしかに幸福を信じていた。
そして、その微笑みを信じたからこそ、雁夜は敗北を受け入れた。
葵を娶らんとする男は、或いは彼こそが、彼女を幸せに出来る唯一の男なのかもしれない、と。
だがそれは間違っていた。
その致命的な間違いを、雁夜は誰よりも身につまされて理解していた筈だった。魔術というものが、いかにおぞましく唾棄すべきものか、それを痛感したからこそ雁夜は運命を拒み、親兄弟と決別してこの地を去ったのではないか。
にも拘わらず、彼は許してしまった。
魔術の忌まわしさを知り、それに怯えて背を向けた彼でありながら……誰よりも大切だった女性を、よりによって、誰よりも魔術師然とした男に譲ってしまった。
いま雁夜の胸を焼くのは、悔恨の念。
彼は一度ならず二度までも、同じ言葉を間違えた。
『それでいいのか』と問うのではなく、『それはいけない』と断じるべきだった。
もし八年前のあの日、そう断じて葵を引き留めていれば――或いは、今日とは違う未来があったかもしれない。あのとき遠坂と結ばれなければ、彼女は魔術師の呪われた命運とは無縁のまま、ごく普通の人生を歩んでいただろう。
そして今日、もしあの昼下がりの公園で、そう断じて遠坂と間桐の決定に異を唱えていたならば――彼女は呆れたかもしれない。部外者の戯言と一蹴したかもしれない。だがそれでも、葵はあんな風に自分だけを責めることはなかった。涙を嚙み殺すような思いをさせずに済んだ。
雁夜は、断じて許せなかった。二度も過ちを重ねた自分を。そんな自分を罰するために、決別した過去の場所へと戻ってきた。
そこにはきっと、ただひとつ、償いの術がある。かつて自分が背を向けた世界。我が身可愛さに逃げ出した運命。
だが今ならば、対決できる。
この世でただ一人、悲しませたくなかった女性を想うなら――
夕闇の迫る空の下、鬱蒼とそびえ立つ洋館の前で足を止める。
一〇年の時を経て、間桐雁夜はふたたび生家の門前に立った。