Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第5回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
――一年前――
目当ての女性の面影は、すぐに見分けがついた。
休日の昼下がり、小春日和の陽光が燦々と降りそそぐ芝生には、そこかしこではしゃぎ迴る子供たちと、それを見守る親たちの笑顔が目につく。噴水を囲む公園の広場は、家族連れで和む憩いの場として大勢の市民に親しまれていた。
そんな中でも、彼はまったく迷わなかった。
どんな人混みでも、離れた場所からでも、彼は苦もなくただ一人の女性を見分ける自信があった。たとえそれが、月に一度逢えるかどうかもおぼつかない、限りなく他人に近い間柄の相手だとしても。
木陰で涼む彼女のすぐ脇まで彼が歩み寄ったところで、ようやく彼女は彼の来訪に気がついた。
「――やぁ、久しぶり」
「あら――雁夜くん」
慎ましい愛想笑いに口元を綻ばせながら、彼女は読みかけの本から目を上げた。
窶れた――そう見て取った雁夜は、やるせない不安に囚われる。どうやら今の彼女には何か心痛の種があるらしい。
すぐにも原因を問い質し、どんなことだろうと力を尽くして、その“何か”を解決してやりたい――そんな衝動に駆られはしても、それは雁夜には出来ない相談だった。そんな遠慮のない親切を尽くせるほど、雁夜は彼女に近しい立場には、ない。
「三ヵ月ぶりかしら。今度の出張は、ずいぶん長くかかったのね」
「ああ……まぁね」
眠りの中、優しい夢には必ず現れる彼女の笑顔。だがその実物を前にすると、面と向き合う勇気がない。これまでの八年間がそうだったように、これからも未来永劫、雁夜はその笑顔を直視できないだろう。
そんな風に気後れをしてしまう相手だから、出会い頭の挨拶の後には、どういう話題を持ち出したものか判断に迷って、微妙な空白の間ができる。これもまた毎度のことだ。
それが気まずい沈黙になるまで長引かないように、雁夜はより気負うことなく話しかけられる相手の姿を捜す。
――いた。芝生で遊んでいる他の子供たちに混じって、元気に跳ね回る二房のツインテール。幼いながらも母親譲りの美貌の兆しを既に見せ始めている女の子。
「凜ちゃん」
呼びかけて、雁夜は手を振った。凜と呼ばれた少女はすぐに気付いて、満面に笑顔を咲かせて駆け寄ってくる。
「カリヤおじさん、おかえり! またオミヤゲ買ってきてくれたの?」
「これ、凜、お行儀の悪い……」
困り顔で母親が窘める声も、幼い少女にはまるで届いていない。期待に目を輝かせる凜に、雁夜もまた笑顔で応じながら、隠し持っていた二つのプレゼントのうち片方を差し出す。
「わぁ、キレイ……」
大小のガラスビーズで編まれた精巧なブローチは、一目で少女の心を虜にした。彼女の年齢を考えれば少し背伸びをした贈り物だったが、凜が歳不相応にませた趣味をしているのは雁夜もちゃんと心得ている。
「おじさん、いつもありがとう。これ、大事にするね」
「ハハ、気に入ってくれたのなら、おじさんも嬉しいよ」
凜の頭を撫でながら、雁夜はもう一つ用意したプレゼントを受け取るべき相手を捜す。どういうわけか、公園のどこにも見当たらない。
「なあ、桜ちゃんはどこにいるんだい?」
そう雁夜に訊かれた途端、凜の笑顔が空洞になった。
子供が、理解の及ばない現実を無理に受け入れるときならではの、諦めと思考停止の表情。
「桜はね、もう、いないの」
硬く虚ろな眼差しのまま、凜は棒読みの台詞のようにそう答えると、それ以上雁夜に何か訊かれるのを拒むかのように、さっきまで遊んでいた子供たちの輪の中へと戻っていった。
「……」
不可解な凜の言葉に戸惑ううちに、ふと雁夜は、視線で凜の母親に問いかけている自分に気がついた。彼女は暗い眼差しを、何かから逸らすようにして虚空に向けている。
「どういうことなんだ……?」
「桜はね、もう私の娘でも、凜の妹でもないの」
乾いた口調は、だが娘の凜よりも気丈だった。
「あの子は、間桐の家に行ったわ」
間・桐――
忌まわしいほどに親しみ深いその呼び名が、雁夜の心をざっくりと抉る。
「そんな……いったいどういうことなんだ、葵さん!?」
「訊くまでもないことじゃない? 特に雁夜くん、あなたなら」
凜の母――遠坂葵は、硬く冷ややかな口調で感情を押し殺して、あくまで雁夜の方を見ないまま淡々と語った。
「間桐が魔導師の血筋を嗣ぐ子供を欲しがる理由、あなたなら、解って当然でしょう?」
「どうして、そんなこと……許したんだ?」
「あの人が決めたことよ。古き盟友たる間桐の要請に応えると、そう遠坂の長が決定したの。……私に意見できるわけがない」
そんな理由で母と子が、姉と妹が引き裂かれる。
もちろん納得できるわけがない。だが葵と、そして幼い凜までもが納得せざるを得ない理由はよく解る。つまり魔術師として生きるというのは、そういうものなのだ。その運命の非情さは雁夜とてよく知っていた。
「……それでいいのか?」
いつになく硬い声でそう質す雁夜に、葵は力無い苦笑を返す。
「遠坂の家に嫁ぐと決めたとき、魔術師の妻になると決めたときから、こういうことは覚悟していたわ。魔導の血を受け継ぐ一族が、ごく当たり前の家庭の幸せなんて、求めるのは間違いよ」
そして、なおも言い返そうとする雁夜に向けて、魔術師の妻は優しく、だがきっぱりと拒むかのように――
「これは遠坂と間桐の問題よ。魔術師の世界に背を向けたあなたには、関わりのない話」
――そう、小さくかぶりを振って言葉を足した。
雁夜はそれ以上、もう身動きもできなかった。まるで自分が公園の立ち木の一本にでもなったかのような、無力さと孤立感で胸を締め上げられた。
かつて少女だった頃の昔から、妻になり、二児の母になったその後も、葵が雁夜に接する態度は何ひとつ変わらなかった。三つ年上の幼馴染みは、まるで本物の姉弟のように、いつも雁夜に優しく親身に、気兼ねなく接してくれた。
そんな彼女が、二人の立ち位置の線引きをはっきりと示したのは、これが初めてのことだった。
「もしも桜に会うようなことがあったら、優しくしてあげてね。あの子、雁夜くんには懐いてたから」
葵の見守る視線の先で、凜は明るく元気に、そう振る舞うことで悲しみを追い払うかのように、一心に遊びに興じている。
そんな凜の姿こそが答えであると言わんばかりに、そして、傍らで言葉に詰まったまま佇立する雁夜を拒むかのように、遠坂葵は、どこにでもいる休日の母親の和みきった面持ちのまま、ただ横顔だけで雁夜を遇した。
だがそれでも、雁夜は見逃さなかった。見逃せるはずもなかった。
気丈に、冷静に、運命を肯定した遠坂葵。
そんな彼女も、かすかに目尻に溜まった涙までは隠しきれていなかった。