Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話
第1回
虚淵 玄(Nitroplus) Illustration/武内 崇・TYPE-MOON
あの奈須きのこがシナリオを担当した大人気ゲーム『Fate/stay night』の前日譚を虚淵玄が描いた傑作小説『Fate/Zero』が星海社文庫の創刊に堂々の登場! 1巻目となる「第四次聖杯戦争秘話」は『最前線』にて全文公開!
――八年前――
とある男の話をしよう。
誰よりも理想に燃え、それ故に絶望していた男の物語を。
その男の夢は初々しかった。
この世の誰もが幸せであってほしい、と、そう願ってやまなかっただけ。
すべての少年が一度は胸に懐き、だが現実の非情さを知るうちに諦め、捨てていく幼稚な理想。
どんな幸福にも代価となる犠牲があるものと――その程度の理は、どんな子供も、大人になるまでのうちに弁える。
だがその男は違った。
彼は誰よりも愚かだったのかもしれない。どこか壊れていたのかもしれない。或いは聖者と呼ばれる類の、常識を逸した天命を帯びていたのかもしれない。
この世のすべての生命が、犠牲と救済の両天秤に載っているのだと悟り……
決して片方の計り皿を空にすることは叶わないのだと理解したとき……
その日から、彼は天秤の計り手たろうと志を固めた。
より多く、より確実に、この世界から嘆きを減らそうと思うなら、取るべき道は他になかった。
一人でも多くの命が載った皿を救うため、一人でも少なかった方の皿を切り捨てる。
それは多数を生かすために、少数を殺し尽くすという行為。
ゆえに彼は、誰かを救えば救うほど、人を殺す術に長けていった。
幾重にも、幾重にも、その手を血の色で上塗りしていきながら、だが男は決して怯まなかった。
手段の是非を問わず、目的の是非を疑わず、ただ無謬の天秤たれと、それだけを自らに課した。
決して命の量を計り違えぬこと。
ひとつの命に貴賤はなく、老いも若きも問うことなく、定量のひとつの単位。
男は分け隔てなく人々を救い、同じように分け隔てなく殺していった。
だが彼は、気付くのが遅すぎた。
すべての人を等しく公平に尊ぶならば、
それは、誰一人として愛さないのと同じこと。
そんな鉄則を、もっと早くから肝に銘じておいたなら、まだ彼には救いがあった。
若い心を凍らせ、壊死させ、血も涙もない計測器械として自身を完成させていたなら、彼はただ冷淡に生者と死者を選別し続けるばかりの人生を送れただろう。そこに苦悩はなかっただろう。
だが、その男は違った。
誰かが歓喜する笑顔は彼の胸を満たし、誰かの慟哭する声は彼の心を震わせた。
無念の怨嗟には怒りを共にし、寂寥の涙には手を差し伸べずにはいられなかった。
人の世の理を超えた理想を追い求めておきながら――彼は、あまりにも人間すぎた。
その矛盾に男は幾度、罰せられたか知れない。
友情もあった。恋慕もあった。
そんな愛おしい一つの命と、赤の他人の無数の命が、天秤の左右に載ったとしても――彼は、決して過たなかった。
誰かを愛した上で、なおその命を他者と等価のものとして、平等に尊び、平等に諦める。いつでも彼は大切な人を、出会いながらにして喪っているようなものだった。
そして今、男は最大の罰を科されている。
窓の外には凍てついた吹雪。森の大地を凍らせる極寒の夜。
凍土の地に建てられた古城の一室は、だが優しく燃える暖炉の熱に守られている。
そんなぬくもりの結界の中で、男は、ひとつの新しい生命を抱き上げていた。
その、あまりにも小さな――儚いほどにちっぽけな身体には、覚悟していたほどの重さすらない。
手に掬い取った初雪のように、わずかに揺すっただけでも崩れてしまいそうな、危ういほどに繊細な手応え。
弱々しくも懸命に、眠りながらも体温を保ち、緩やかな呼吸に唇を震わせる。今はまだそれだけが限界の、ささやかな胸の鼓動。
「安心して、眠っていますね」
彼が赤子を抱き上げる様子を、母親は寝台に身を預けた姿勢のまま、微笑ましげに見守っている。
御産の憔悴からまだ立ち直れず、血色は優れないものの、それでも高貴な宝石を思わせる美貌は些かも衰えていない。なにより、疲弊による窶れをかき消すほどの至福の色が、優しい眼差しと微笑みを輝かしている。
「慣れてるはずの乳母たちでも、この子、むずがって泣くんです。こんなに大人しく抱かれているなんて初めて。――解ってるんですね。優しい人だから大丈夫、って」
「……」
男は返す言葉もなく、ただ呆然と、手の中の赤子とベッドの母親とを見比べる。
アイリスフィールの微笑みが、かつてこれほどに眩しく見えたことがあっただろうか。
もとより幸とは縁の薄い女である。誰一人として、彼女に幸福などという感情を与えようと思う者はいなかった。神の被造物たらぬ、人の手に因る人造物……ホムンクルスとして生まれた女には、それが当然の扱いだった。アイリスフィールもまた望みはしなかった。人形として造られ、人形として育てられた彼女には、かつては幸福という言葉の意味さえ理解できていなかっただろう。
それが、今――晴れやかに笑っている。
「この子を産めて、本当に良かった」
静かに、慈しみを込めて、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは眠る赤子を見つめながら語る。
「これから先、この子は紛い物の人間として生きていく。辛いだろうし、こうして紛い物の母親に産み落とされたことを呪うかもしれない。それでも、今は嬉しいんです。この子が愛しくて、誇らしいんです」
外見は何の変哲もない、見るからに愛らしい嬰児でありながら――
母の胎内にいるうちから幾度となく魔術的な処置を施されたその身体は、もはや母親以上に人間離れした組成に組み替えられている。生まれながらにして用途を限定された、魔術回路の塊とも言うべき肉体。それがアイリスフィールの愛娘の正体だった。
そんな残酷な誕生でありながら、アイリスフィールはなお「良し」と言う。産み落とした己を是とし、生まれ落ちた娘を是とし、その生命を愛して、誇って、微笑む。
その強さ、その貴き心の在りようは、まぎれもなく“母”のものだった。
ただの人形でしかなかった少女が、恋を得て女になり、そして母親として揺るがぬ力を得た。それは何者にも侵せない“幸”の形であっただろう。暖炉のぬくもりに護られた母子の寝室は、今、どのような絶望とも不幸とも無縁だった。
だが――男は弁えていた。自分が属する世界には、むしろ窓の外の吹雪こそ似つかわしいのだと。
「アイリ、僕は――」
一言を発するごとに、男の胸には刃が突き刺さるかのようだった。その刃とは、赤子の安らかな寝顔であり、その母の眩しい微笑みであった。
「――僕は、いつか、君を死なせる羽目になる」
血を吐く思いで放たれた宣言に、アイリスフィールは安らかな表情のまま頷いた。
「解っています。もちろん。それがアインツベルンの悲願。そのための私なのですから」
それは、すでに確定された未来。
これより八年を経た後に、男は妻を連れて死地へと赴く。世界を救う一人の犠牲として、アイリスフィールは彼の理想に捧げられる生贄となる。
それは二人の間で、何度も語られ、了解された事柄だった。
すでに男は繰り返し涙を流し、自らを呪い、そのたびにアイリスフィールは彼を赦し、励ました。
「あなたの理想を知り、同じ祈りを胸に懐いたから、だから今の私があるんです。あなたは私を導いてくれた。人形ではない生き方を与えてくれた」
同じ理想に生きて、殉じる。そうすることで彼という男の半身となる。それがアイリスフィールという女の愛の形。そんな彼女だったからこそ、男もまたお互いを許容できた。
「あなたは私を悼まなくていい。もう私はあなたの一部なんだから。だから、ただ自分が欠け落ちる痛みにだけ耐えてくれればいいのです」
「……じゃあ、この子は?」
羽毛のように軽い嬰児の体重、その質量とは異なる次元の重圧で、今や男の両足は震えていた。
この子供は、彼の掲げる理想に対し、まだ何の理解も覚悟もない。
彼という男の生き様を断じることも、赦すこともできない。そんな力はまだ持ち合わせていない。
だが、そんな無垢な生命であろうとも、彼の理想は容赦するまい。
ひとつの命に貴賤はなく、老いも若きも問うことなく、定量のひとつの単位――
「僕に……この子を抱く資格は、ない」
狂おしいほどの愛おしさに潰されそうになりながらも、男は声を絞り出した。
腕の中の赤子の、ふくよかな桜色の頰に、一雫の涙が落ちる。
声もなく嗚咽しながら、とうとう男は膝を屈した。
世界の非情さを覆すため、それ以上の非情さを志し……それでも愛する者を持ってしまった男に対して、ついに科された最大の罰。
この世の誰よりも愛おしい。
世界を滅ぼしてでも守りたい。
だが男には、解っている。もしも自らの信じる正義が、この穢れない命を犠牲として要求したとき――彼が、衛宮切嗣という男がどんな決断を下すことになるか。
いつか来るかもしれないその日に怯えて、その万が一の可能性に恐怖して、切嗣は泣いた。腕の中のぬくもりに胸を締めつけられながら。
アイリスフィールはベッドから上体を起こし、泣き崩れる夫の肩に、そっと手を載せる。
「忘れないで。誰もそんな風に泣かなくていい世界、それが、あなたの夢見た理想でしょう?
あと八年……それであなたの戦いは終わる。あなたと私は理想を遂げるの。きっと聖杯があなたを救う」
彼の苦悩をあまさず知る妻は、どこまでも優しく、切嗣の涙を受け止めた。
「その日の後で、どうか改めて、その子を――イリヤスフィールを抱いてあげて。胸を張って、一人の普通の父親として」