エトランゼのすべて

第四話 予定は未定

森田季節 Illustration/庭

注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!

第四話 予定は未定

その日のルネには同じ一回生の中道さん以外来なかった。

ルネで駄弁だべるほかに何もしない時点で出席率も意欲もあったものではないのだけれど、ここまで人が来ないのは初めてだ。会長と長月さんの欠席連絡は聞いていたから嫌な予感はしていたのだが。しかし、どうして嫌な予感というのは、ああも見事に的中するのだろう。しかも、対処法がないものばかり当たる気がする。これではギリシャ悲劇のカサンドラではないか。

もっとも、これで欠席者諸氏を恨んだりするつもりはさらさらない。四回生の方々にとって、今の時期が追いこみなのは百も承知だ。就職活動のほうが、ルネで世間話をすることの百倍は大事だ。むしろ、女子としゃべる能力に難のある大村先輩も休んでいてくれて、ほっとしている。いまだに謎キャラのけんどう先輩は今日も来ない。このまま、謎のまま彼は卒業してしまうかもしれない。

「二人きりですね」

中道さんが、言葉だけ切り取るとやけにロマンチックなことを言った。水色のワンピースは、いつもよりも彼女を大人っぽく見せていて、余計に変な気分になる。しかもレースの部分が白くて透けているせいか、やけに足の露出が大きく見える。久米くめの仙人なら、神通力じんつうりきを失って空から落下しているところだ。

無論、周囲は雑多な学生たちの山で騒がしく、厳密な意味では二人きりとは違うわけで、よこしまな気持ちを抱いて勘違いするなどということも(そこまでは)ない。

「とりあえず、荷物置いて、ご飯でも買いにいこう。もしかしたら、遅れて誰か来るかもしれない」

いつの間にか、中道さんに対してタメ口になっているなと気づきつつ、今更なおすのもおかしいので、そのままにした。どちらかと言えば、僕が丁寧語になおすより、中道さんがタメ口にしてくれるほうが正しいと思うのだけれど、彼女の性格から言って無理だろう。

というのも、サークルメンバーで吉田から聖護院しょうごいんのほうに歩いていた時、中道さんは塀の上の猫に素でこんなことを言ったのだ。

「そんなに眠いんですか?」

猫に丁寧語を使う以上、僕にも丁寧語が使われるのは当然の道理だ。むしろ、猫以下という認識をされるのは、僕が取るに足らない人間だとしても、やるせない気分になる。ここはこのままで行く。

盛岡冷麵れいめんという食べたことのないメニューにかれたが、汁が中道さんに飛び散ると迷惑だと考え、普通にご飯、味噌汁、ささみチーズフライにした。中道さんはメインのおかずの替わりに小さな肉じゃがと、小さな卵豆腐を取っていた。育ち盛りの男子だったら飢え死にしそうな量だ。

「では、いただきます」

律儀りちぎに中道さんが手を合わせたので、あわてて農家の人および流通の人、学食で作っている人に対して手を合わせた。みんな、大学生の男に感謝されるよりは、可憐な少女に感謝されたほうがうれしいに決まっているが、僕の感謝の念もどうか受け取ってほしい。

感謝の念を送る作業が終わったので、ささみチーズフライを口に入れる。とくに美味しいというわけではないが、不味いわけでもない。この微妙さ加減がかえって、リピーターを増やしている。この普通さに安心するのだ。

けれども、今日は中道さんと二人きりだ。いつものように、平凡にたゆたっているわけにはいかなかった。僕はすぐに重大な問題に気づくことになる。

びっくりするほど話題が続かないのだ。

今までは変な先輩が間にいたから気づかなかったのだが、いまだに自分と中道さんの間にろくな接点がない。同じ文学部なのにどうしてだというほどに、ない。共通の講義も多分あるのだろうけれど、よく知らない。大半が大教室だしな。

最初のうちはささみチーズフライを食べているからという免罪符めんざいふもあったが、かといって一切無言で食べ終わるわけにもいくまい。ささみチーズフライが半分以下になったところで、天候の話題を持ち出すことになった。継投策けいとうさくとしては四回から藤川ふじかわが出てくるようなものである。

「最近、暑いよね」

「はい、暑いですよね」

「うん、この調子じゃ八月になったら溶けるよ」

何、つまんないこと言ってんだ、自分。

ありがちすぎるクリシェだ。自分のセンスのなさに悶絶もんぜつしそうになった。

「この暑さは九月になっても続くらしいですよ。そのくせ、冬はがくっと寒くなるとか」

「ちょうど足して二で割ってほしいよね」

また、ありきたりな発言をしてしまった。これはもはや事故だぞ。挽回ばんかいしないと、どんどんつまらない人間だと思われてしまう。

「うちの大学って九月もまるまる休みらしいけど、夏が延長されてることの先取りってことなのかな」

また、しょうもないことを言ってしまった。あれ、どうなっているんだ。いくらなんでもここまで話題がない人間ではないと思っていたのに。ウィットに富んだこともたまには言えると信じていたのに。バイトの話をするか? いや、すでにさんざんみんなの前でやっている。いきなり中道さんの身の上について尋ねるのは失礼だろうしどうすればいいんだ!

そして、つまらないことを僕が話す都度つど、中道さんは、「そうですよね」などと軽い相槌を打ってくれる。打ってはくれるが、ほかの話題は提供してくれない。米兵にギヴミーチョコレートと言うように、ギヴミーワダイと叫びたい気分だ。

こんな、どうしようもないという状況は過去にもあった。高校二年生の時、誰のイヤガラセかクラス委員をさせられた時だ。同じくクラス委員にさせられた、とくに仲も良くない女子と委員会に出席させられた。あの会議が始まるまでの十分間、あれがまったくもって苦痛だった。まさか、「あなたと何を話していいかわからない」と言うわけにもいかないし、でも本当に何を話していいかわからないし。しかも普段、誰とでも気兼ねなくしゃべっているはずのキャラにかぎって、自分から助け船を出そうなどとはせずに黙っているのだ。これはすべてお前の責任だから知らないと言わんばかりに友達に携帯のメールでも打ったりしているのだ。中道さんにそのような底意地そこいじの悪さはないだろうが、途方に暮れている点では似ている。

「こんなんだったら、一年のうち三分の二はTシャツ一枚で過ごせるよ」

天候についての話題はやめよう。もう、これは鬼門だ。話の展開が一切ない。せいぜい、この後、水不足が心配だよねみたいなことしか言えなくなるのだ。抜本的に話題を変えないとやっていけない。趣味だ、趣味の話をしよう。

しかし、中道さんの趣味って何なのだろう。とりあえず、勝原さんのバイトを手伝ったところから始めようか。音楽について、何か聞き出せば話が広がるかもしれない。

「前に、CD屋のバイトしたんだけどさ」

「知っています。大変でしたか」

「いろいろとあったからね。万引き犯が出るとは思わなかったし」

この話題はすでにしているので、繰り返しはできない。

「中道さんはどんな音楽聞いてるの?」

「フィッシュマンズとかですかね?」

お願いだから、バンプだとかミスチルだとかサザンだとかスピッツだとかそういう単語を出してほしい。勝原さんもそうだが、誰でもわかる音楽の話題をなぜ提供してくれないのか。そのバンドを知らないとさも教養がないような態度でいるのはやめてくれないか。知らぬは一生の恥、聞くは一時の恥だとは言うものの、知ったかぶりは上手くいけば恥にあらずとあれば、僕は命懸けで知ったかぶりを選ぶしかない。

「ほかには、ワールズ・エンド・ガールフレンドとかトクマルシューゴとか」

「ごめん、僕、音楽苦手なんだ」

「会長さんがいないと、なんかしっくりきませんね」

先に中道さんのほうが白旗をあげてしまった。僕も情けない気持ちで「そうだね」と答える。

「あんな会長さんでも、いないと締まらないですね」

さらりと毒舌だぞ。僕は蚊も殺したことのないような少女から、そんな言葉が出てドキッとした。いつまでも子供と思っていた幼馴染がいつの間にか大人の女になっていたと気づいた時のような驚きだ。いえいえ、そんな経験は毛頭もうとうございませんが。

もっとも、客観的に評価すれば中道さんがこう言うのもわかる。サークルとして、食事をするほかには、何もやっていないのだから。

そんな、サークルの最重要の活動である食事だが、これすら四回生ばかりなのもあって、出席率は高くない。会長は今日まで皆勤賞かいきんしょうを続けていたのだが、その記録もこれでストップか。

ある意味、このサークルの存在意義は会長がいるという一点しかない。

「あのさあ、中道さん、会長の名前知ってる?」

久しぶりに会長に対する興味が湧いてきた。別にストーカーではない。むしろ、個人情報を引き出されているのはこちらのほうである。どうせ「いえ、聞いたことないです、ごめんなさい」などと言われるのだろう。これで「はいはい、野村のむらさんですよね。修学院しゅうがくいんに住んでいますよ」などとあっさり答えられてもショックだ。

「はい、知っています」

鏡はないのでわからないが、おそらく「鳩が豆鉄砲食らったような顔」を僕は実演していたと思う。ところで鳩に豆鉄砲を食らわせた人はこの国にどれぐらいいるのだろう。

「『はい』ということは名前を知ってるということ?」

「といっても、苗字だけですが」

それでも苗字をどこで仕入れたのだろうか。まさか、米国の諜報ちょうほう員だとでも言うのか? それとも同性には会長は心を開いていたということなのか?

しかし、物心ついた幼児ぐらい疑問の山を抱えているところに、向こうから問いかけが来た。苗字、聞きそびれた。

「授業で眠くてたまらない時に、前の子が先に眠っていて、その子を見ているといつのまにか眠るのも忘れてしまった、そんな経験ありませんか? 眠っている人を見ると、ほほえましいというか、ほっとするんですよね」

「あるある。自分の身代わりになってくれたのかと思うぐらい、眠気が出ていく」

でも、どうしてこんな質問がやってきたのか。文脈がわからない。

「わたしもあります。ちょうど、針塚君がわたしの前の席で眠ってくれているんですよ」

中道さんは楽しそうに笑っている。これは、どういたしましてと言うべきなのか、判断に迷う。

「どういたしまして。お役に立てたのなら光栄です」

本当にこの返答が正しいのかはわからない。でも、答え合わせは永久にできない。

「ところで、針塚君はどうしてこのサークルに入ったんですか?」

入社試験で必ず聞かれる質問のようだった。僕はまだ入社試験を受けたことはないが。就活のアドバイス本なら、こういう時は自分の言葉で語ろうなんてことが書いてあるのだ。しかし、自分の言葉とはこの場合、何なのか。「会長のオーラにしびれました」などと答えたら中道さんはこちらの存在を全否定するような失笑をするかもしれない。そもそも、そんな深い目的意識を持ってサークルを選ぶ人間などいないだろう。「大学デビューをし損ねて、最後の望みと思って」と答えたところで、どんな涙もろい人間でも白けるに違いない。

「ほら、新歓のうさんくささに引かれて、面白そうだなと思って」

我ながらとってつけたような理由だった。ウソではないかもしれないが、いかにも、よそよそしい、さほど親しくない相手との会話という印象を与えかねない。

「それで、中道さんはどんな理由でこのサークルに?」

バカの一つ覚えで質問をやり返す。ボキャブラリーは比較的豊富なほうだと思っていたのは幻想であり神話だったらしい。こんな会話なら英語でもできそうだ。もっとも、前に隣に座っていた外国人留学生の英語の会話で聞き取れた単語が「ヨシノヤ」「ニギリズシ」「サシミ」だけの僕には無理かもしれない。

「新歓が怖かったからです」

笑いも悲しみもせずに中道さんは答えた。中道さんはしっかりと自分の言葉で語り、一方で僕はいよいよどうしていいかわからなくなった。たしかに新歓の会長は怖かった。僕も引き返そうかと思った。しかし、それを今言ったらおしまいじゃないか? 脅されて仕方なく入ったと言っているのと同じことになる。

「でも、今は平気です。皆さん、いい人だとわかりましたから」

救いの言葉がやってきた。ここで「もう、サークル辞めたい」などと言われようものなら、僕は苦悩のあまり、一日で総白髪そうしらがになっていただろう。

「そうだよね。みんな、変わってるけど、いい人だよね」

最悪の事態にならないことがわかっただけでも、よしとさせてもらおう。こうなればトークの技術などは度外視して自分でイニシアチブをとるしかない。

「でも、その中でも不思議な人が、会長なんだよね。このサークルって目的もなくて、みんなばらばらだけど、会長を見てると、違和感がふっと消えていくんだ。ああ、ここは会長を中心にしたサークルなんだと思うんだ」

会長はいわばゼリーを固める粉みたいなものだ。ものすごく目立つわけではないが、それがないと何も成立しない。そういう人なのだ。

「そうですね。このサークルの中心は会長です。針塚君が真剣に語るのもわかりますよ」

断定口調で言われてしまうとちょっと悔しいものがある。

けれど、そこである疑問が浮かんだ。

なんで会長はこんなサークルを作ったのだろう。

目的もないのにサークルを作るなんて矛盾している。何もやりたくないなら、最初からどこにも所属しなければいいのだ。設立当初の話は聞いたことがないが、イチからサークルを作るなんて並大抵のパワーではできない。

だが、中道さんに話すことはしなかった。サークルの過去を中道さんと探究しても仕方ない。志望動機と同じで、さほど強い意志などなくても、やる人はやるのだ。

そろそろ、サークルの話題はやめよう。別のものにスライドさせよう。貧困すぎるボキャブラリーを使うことで会話が続かなくなるようにする作戦だ。欠点として、つまらない人というレッテルを張られるというところがある。

「いやはや、会長はすごい人だ」

「そうですね。わたしの故郷にもあんな人はいませんでした」

「そういえば、中道さんって、どこの出身だったっけ?」

福井ふくい県の鯖江さばえです」

僕の土地もマイナーだが、これまたどこかよくわからない。話題がスライドしただけ、よしとする。今からはこっちを本線にしよう。和歌山線から関西本線にグレードアップする感覚で向き合うのだ。関西本線は加茂から東の亀山までは単線非電化だが。

「鯖江って何が名物なの?」

地名からすると、鯖だと思うが、一応聞いてみる。中道さんは人差し指を頰に当てて、しばらくの間、思案してから言った。

「メガネ、レッサーパンダ、ツツジ」

中道さんは僕に三題噺さんだいばなしをさせたいのだろうか。あるいは極めてシュールなギャグなのだろうか。脳内に、ツツジの中を駆け巡るメガネをかけたレッサーパンダたちが浮かんだが、すぐに打ち消した。

「静かな街ですよ。京都まで一時間半ですから、よく来ていました」

「なるほど。僕は奈良県と和歌山県の間に住んでたんだけど、京都のことなんてろくに知らなくてさ」

「それはもったいないですよ! 京阪電車や叡山えいざん電車だけでもいろんなところに行けるのに」

中道さんの食いつきがこれまでで最高だ! そこで僕は大切なことを思い出す。

そうだった、ここは京都なのだ。京都の話をすればいい。

今までの様子だと、中道さんは歴史好きなのだろうか。それなら、戦国時代の話でも振ってみるか。一般人の自分でも知ってるネタがあるぐらい、ここには歴史が詰まっている。西陣にしじんという地名が応仁おうにんの乱の西軍の陣があったところだからだとか、そういう誰でも知っているトリビアのレベルだが。

ひとまず信長の話あたりでどうだろう。たしか、旧本能寺ほんのうじは今は福祉施設になっていて、寺は移転しているはずだ。テストに出ないそういう知識だけは持っている。いわゆる「歴史は好きだけど、歴史の授業は苦手」系の人の典型的なあり方である。

「そういえば、前に寺町てらまちとか新京極しんきょうごくの商店街を歩いてたんだけどさ、北のほうに本能寺があって」

「あ、焼かれた後、移転させられた本能寺ですね。火事をあらわす『能』の『ヒ』の部分が縁起が悪いからと、お寺では少し漢字をいじっているはずですが」

中道さんの目に生気が宿った。どこかで誰かがコンセントを差したのかというほどに目の色が変わっていた。けだるげな北欧の少女が急にラテンの熱にほだされたかのようだ。

これが信長の、英雄の力なのか。あるいは本能寺の、仏教の力かもしれない。

だが、このカンフル剤の力の強さを僕は甘く見ていた。中道さんは歴史について、なみなみならぬ熱意を持っていたのだ。

十分後の会話風景はこんな感じだ。

「でも、なんでも英雄を中心にした史観しかんっておかしいと思うんですよね。たとえば、六角氏ろっかくしって信長が上洛じょうらくする時に蹴散けちらされた大名って扱いしかされてないじゃないですか?」

「え、あ、うん

「でも、本当は全然そんなことないんですよね。浅井氏あざいしだって長らく六角氏にほとんど服従していたわけですし。戦国物の作品って、その影響力を無視しすぎていると思うんですあ、わたし、またつまらない話をしちゃってませんか?」

「いや、いいよ続けて」

「ほんとにつまらないと思ったら言って下さいね。わたし、時々、人をおいてけぼりにしちゃうところがあるんです」

すでに置いていかれているが、それでも置いていかれていないと答えるのが男だと思う。武士は食わねど高楊枝たかようじ

このあと、観音寺城かんのんじじょう(寺なのか城なのかはっきりしろ)の戦略的重要性の話や、善水寺ぜんすいじ百済ひゃくさい永源寺えいげんじなどの話が展開されたが、僕は適度に知ったかぶりを駆使し、話を折らずに受け流した。話の文脈から滋賀しが県の話らしいが、地図がないのでよくわからない。キョンシーのおでこからお札をとったところという、いささか失礼なたとえを想像した。

基本的に、「なるほど」とか「やっぱり」とか便利な言葉で相槌を打っておきさえすれば、中道さんが論を展開してくれるので何もしなくていいのだが、たまにクイズがやってくるので、気をつけないといけない。

「あれ、フロイスが褒めていたのって百済寺でしたっけ、西明寺さいみょうじでしたっけ?」

仏教クイズがやってきた。どういう問題なのかもよくわからない。猫の手も借りたい。千手観音せんじゅかんのんの手のうちから三本ほど貸してほしいところだ。

「たしか、百済寺で合っていると思うけど」

中道さんの選択肢のどちらかが正解なら二分の一で当たるわけだから、あながちウソではない。まったく別の寺だった場合はお手上げだ。

「すみません、わたし、すぐど忘れしてしまって

思いのほかショックだったらしく、中道さんが申し訳なさそうに頭を下げた。そんな謝罪会見はまったく必要ないので僕は慌てた!

「謝るようなことじゃないから、顔をあげて。ど忘れしたら、ウィキペディアで調べればいい。むしろ、忘れた時こそ、より強く覚えなおすチャンスじゃないか」

口からでまかせの割にはいいことを言えた。火事場の馬鹿力が近頃、身についてきた。

「針塚君ってやさしいんですね」

薄幸はっこうそうな顔で、中道さんが笑いかけてくれた。ありがとう、中道さん。その笑顔があるかぎり、僕はもう少し頑張れる。

けれど、これは自分でも少しぐらい、話題を出さないとまずいよな。ええと、桶狭間おけはざまの戦いって本当は全然違うんだっけ。長篠ながしのの三段撃ちもなかったんだっけ。そもそも、そういうありきたりなことを言ったら逆効果なのだろうか。

「あのさあ、長篠の戦いって鉄砲の三段撃ちなんてしてないんだっけ?」

二分後、穴山信君あなやまのぶきみが裏切ったことが武田氏の滅亡を決定づけたと思うと言われた。穴山って誰なのか。戦国大名なのか。説明がないのでわからない。

このままでは会話を進めることに支障が生じる。やはり、非電化の区間すらある関西本線ではダメだ。東海道本線あたりに乗り換えよう。穴山の乱から五分後、京都が軽く絡んだところで僕は、乗り換え作戦を実行に移すことにした。

「いやあ、日本史の話をしていると必ず京都が出てくるよね。すべての道は京都に通ずって感じだよね」

質の低いコメンテーターみたいな発言だが、ここは押し切るしかない。

「このへんだと、鞍馬くらまとか気になるんだよね。鞍馬天狗とか、ほら」

魔王尊まおうそんがいますよね、あそこ」

二ランクほど深い固有名詞が出てきても、このまま話を進めることにする。すでに知ったかぶりの罪は犯しているので強気だ。できれば、貴船きぶね神社とうしこく参りぐらいにとどめてほしかった。

「薄気味悪くて面白いところらしいですね」

薄気味悪いことをそんなに肯定的にとらえる人も少ないだろう。その後、中道さんは義経よしつね伝説についてとうとうと語り出した。ものすごく乗っている。和歌山線も終始人がものすごく乗っていれば、もう少し本数が増えるかもしれないのに。

もともと、民俗学的なものに興味を抱いていた自分としても歴史ネタよりもこちらのほうが助かる。ちなみに文学部に入ってから、民俗学関係のところは総合人間学部のほうで開講しているという衝撃の事実に気づいた。いずれ決めることになる専修せんしゅうをどうするか、今も悩んでいる。

「中道さんの話を聞いていたら、俄然がぜん鞍馬に行きたくなってきたよ。今度電車で行ってきます」

わくわくしたのに偽りはないので僕はそう答えた。今度行ってきますと言う人間の八割は実際にその場所を訪れたりなどしない。たとえば友達が「インドよかったよ、インド」と言って、「じゃあ、今度休みに行こうかな」などと社交辞令で返すようなものだ。だが、今回の場合は割と本気である。鞍馬はインドより近し。

けれども、ここから話が妙な方向にドライブした。免許はないので、鞍馬にはドライブではなく公共交通機関を使うつもりだが。

「あの、もしよろしければ、今度、一緒に鞍馬に行きませんか?」

中道さんは遠慮がちに声を小さくして言った。

え、そこまでの進展は考えていなかったのだが、孤独に行くよりは華があるほうがいい。断る理由なんてない。さすがにこれをデートだと早合点して焦る気もない。何度も深読みして失敗しているのだ。あくまで自分は会長一筋。

しかし、また僕のほうは相手の一言で混乱させられる。

「針塚君に話せていない大切な話がたくさん残っていますし」

たどたどしくも、どこか悲壮感ひそうかんを帯びた声。

いったいどういう意味だ。ここで話せない内容となると、告白ぐらいしか思いつかない。いや、どうせマークシートのチェックがすべて一つずつずれているといったレベルの重大な誤解をしているのだろう。

「あ、はい。ぜひとも」

不自然な応答で、それでも僕はすぐにOKした。ここで、「行けたら行く」とか答えたらクズだ。あくまでも交流だ。貴重な一回生同士の親睦を深めるためだ。

気づけば、いつの間にやら九時になっていた。例会なら一度おひらきの時間だ。二時間以上、中道さんと二人きりで話していたことになる。これはギネスに載せたいほどだ。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

女性をあまり引き止めるのもどうかと思うし、いただいた知識を整理させておきたかった。帰宅したらどの教官よりも多くのことをウィキペディアから学ぶだろう。

「あの、次は針塚君の話も聞かせて下さいね」

その言葉は少し自分の胸にグサッと来た。

中道さんもこっちがろくに話をしていないことに気づいていたのだ。そもそも、自分が無趣味なのも悪い。今度、JR和歌山線について、二時間しゃべれるよう頑張ってみよう。粉河寺こかわでらのことでも話せばきっと食らいついてくるだろう。

そして、ルネを出るまでの短い間ですら僕はそのことを失念しかけていた。

「鞍馬の待ち合わせ、出町柳駅でいいですか?」

下宿に置いてあるカレンダーはだんだんと「くらま」と書いた土曜日に近づいてきていた。というか、明日だよ、明日。本日は六月十五日。十三日の金曜日ではなかった。

いや、もちろん鞍馬に行くのが不本意なのではない。女子と二人きりで観光地に行くなど、高校までであれば妄想もできなかったことなのだ。うれしいに決まっている。けれど、終わってみるまでは不安もあるわけで。

周囲から変な目で見られるのも嫌なので、あれから一週間、サークルでも鞍馬の話はしていない。なにより、中道さんに調子に乗っているように思われるのだけは避けたかった。かといって、忘れてしまっても困るので、携帯のメールで連絡は取り合っている。不義の恋みたいで落ち着かない。京都に詳しくない同学年の学生が観光地に行く、それだけのことなのに。

さて、とっとと二限目にある国文学の短歌の講義に出なければ。平安神宮の裏手に住んでいる身としては、吉田南での講義は十分前に出ればギリギリで間に合う。一回生からそんなギリギリな生き方でよいのかなとも思うが。

そして、丸太町通の信号を渡り、聖護院の西側の道をぐいぐい自転車で走って、いつものように吉田南4号館の裏手から構内に入り、自転車を止めて、総合館のひさしをくぐる。

「あっ」

「あっ」

講義室に入る手前で、中道さんと遭遇した。薄いピンクのワンピースの上から、白いカーディガンをはおっている。大学生というより、高校生のよそ行きみたいだった。

しばらくお互い見つめあってしまった。恋に落ちたのではなく、言葉が出てこなかったのだ。このまま無視していくのもおかしいし

「あ、この講義とってたんだ」

「はい。金葉きんよう和歌集とか詞花しか和歌集とか、言葉がきれいだなと思って」

たしかに歴史好きなら、こういうのも楽しいのではないだろうか。むしろ、志望する学問が違う学部でやっていると知った自分は、何を専修すればよいのだろう。

なし崩し的に僕らは並んで座った。胃に穴があきそうなほどのストレスがかかっている。おそらく、中道さんも同じだろう。

「明日、鞍馬ですね

「そ、そうだね

相変わらず、気の利いたことが言えない。ここで、中道さんの不安をさらりとのけてあげられるようなことが言えれば。いや、そういうことができないから、自分はもてなかったのか?

板書された短歌を書き取って解釈を横に書くという単調な作業を続けていたところ、横からメモの書かれた付箋ふせんがやってきた。

魔王殿まおうでんに行きたいです。

中道さんは鞍馬に何を求めているのだろうか。言葉に一抹いちまつの不安を感じる。

魔王でも大王でもなんでもいい。行こう。

そう書いて返送した。なんだろうか、この甘酸っぱい気持ちは。親父に日本酒を飲まされた時のように、頭がまわらない。もしかして、僕はこの回覧ですごく大切な経験をしているのではないだろうか?

しかし、中道さんは生粋きっすいのエンターテイナーなのか、僕の予想の斜め上を的確についてくる。次に戻ってきた付箋にはこうあった。

覚悟しておいて下さいね。

僕はどういった覚悟を求められているのだろうか。首はよく洗っておいたほうがいいのかもしれない。

前に言っていた大切なお話のことです。

今すぐ彼女の手を握り、「僕も君のことが好きだ」などと囁ければ役者にもなれるのだろうが、僕はドン・ファンでもなければ光源氏ひかるげんじでもない。だいたい、そんなことをすれば浮気みたいじゃないか。浮気? はて、面妖めんような。付き合っている相手もいない自分がどうやって浮気ができる? 結婚する前から離婚するようなものだぞ。ええい、自分でもよくわからなくなってきた。

小市民の僕には、付箋にこう書くのが関の山だった。

覚悟しておく。

講義が終わると、僕は八坂神社まで自転車で行った。ティーンエイジャーは突然初期衝動というものが襲ってきて、走り出したくなるのだ。青蓮院しょうれんいんの横を立ちこぎで進んでいると、タクシーにクラクションを鳴らされた。聖護院の横の道もそうだが、広くもないのにタクシーがやたらと通る道が京都にはある。どうせ、知恩院ちおんいんにでも行くのだろう。雨が降りそうで降らない空の下、なぜか会長のことを考えていた。会員が悩んでいるのだから、会長に尋ねてみてもいいのかもしれない。だけど、何に悩んでいるのか、自分でもよくわかっていなかった。

円山公園から八坂神社の境内に入りこむと、末社の大神宮社だいじんぐうしゃの横にある湧き水を手ですくって、ごくごく飲んだ。煮沸しゃふつしてから飲めという看板もかかっているが、気になどしなかった。境内には観光客がそれなりの数いて、拝殿はいでんをバックにピースしていた。誰もが笑顔だった。僕だけが荒い息を吐いて、笑っていなかった。

帰宅後も鬱々うつうつたる気分は相変わらずだった。ガイドブックは買ってきたし、着る服も準備はした。ここで長月さんと買った服が活きてくるのだ。だが、心の重荷のほうはとれてくれない。あまりにも精神的にまずいので、少し昼寝してみたら、三時間も寝てしまった。

眠気を覚まそうと、夜は水漏れの音がうるさい風呂に入ることにした。立方体に近い形なので、湯を大量に入れる必要があり、足も伸ばせないという問題点だらけの風呂である。ガス代がもったいないので、タライをつかって行水ぎょうずい感覚で入浴している。

ざばあざばあ。さびしげな音と共にマイナスイオンを発生させて、ちょっと自己嫌悪に陥っていった。何がリア充だ。大学デビューだ。完璧なエスコートをしてやると意気ごむ気概もないのか。

自分は飾る必要すらない。緊張する意義もない。話が弾んで女性と観光地に行くだけだ。

だから、会長のことが問題になることなどありえない。絶対にありえない。じゃあ、もう、こうしよう。今から会長に電話をかけて、唐突に好きですと言ってしまえばいい。それでもやもやした気分もなくなって、鞍馬に行けるだろう!

浴槽よくそうを握りこぶしで叩いた。自分は決めたのだ。そのために京都に引っ越してきたのだ。そのために京大に入ったのだ。

あ、しまった。

僕、会長のメールアドレスも電話番号も知らない。

「もう、いっそ雨でも降ってくれ!」

思わず、風呂場で叫んで余計に自己嫌悪に陥った。

「もしも、もしも、中道さんと気まずくなったらどうしてくれるんだ! たった一人の一回生仲間なんだぞ! 楽しいけど怖くて怖い!」

だが、その呪詛じゅその言葉が効いてしまったのだろうか。

翌日、六時頃、雨の音で目が覚めた。窓をあけっぱなしにしていたので、網戸から入ってきた水で、少し絨毯じゅうたんが濡れていた。

あわてて、窓を閉める。

「おい、これはやばいぞ」

小ぶりなら、雨の鞍馬や貴船もオツなものだとか言えるが、目が覚めるほどの豪雨だった。平安時代なら鴨川の洪水を心配しないといけないかもしれない。

七時までは二度寝して考えようと思ったが、まったく眠れなかった。雨の音が大きすぎる。テレビをつけてみたが、大阪では大雨洪水警報が出ていた。

こんな日に雨天決行などと言ったら幻滅どころではすまないかもしれない。いや、もっと根本的な問題として、鞍馬は奥深い山の中だ。中道さんを危険にさらすわけにもいくまい。

七時過ぎ、以下のメールを送った。

本日予定しておりました「鞍馬山、天狗に出会う旅」はあいにくの大雨洪水警報のため、中止とさせていただきます。なにとぞご了承下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

だが、送ってから、これでよいのか? とまた自問自答がやってきた。ここでちゃんと代替日にいつがいいか決めるのが男というものではないだろうか。どうせ来週も空いているし、都合のいい日を聞いたほうが。だが、待てよ、なんだかそれってデートしたくてたまらないみたいに見えないだろうか? このチャンスを絶対に逃さないぞというハイエナ的心性が垣間見えたりしないか? ケダモノ扱いされたりはしないか? いやいや、思わせぶりなことを書いてきたのは彼女のほうだ。ここでやたらと腰が浮いているほうが彼女にショックを与えるのではないか? だが、中道さんの小動物系の雰囲気からすればオフェンスを強調するのは、やはり逆効果かもしれない。

携帯を持ちながら、二、三分思案しあんしていた。電池だけがじわじわと減っていた。

よし、「ほかの日で空いてるところある?」などと軽くメールしておこう。「来週どう?」とか具体的に聞くのは、ちょっといきすぎた気がする。そして、文章を打ち始めたところに、中道さんからの返信が来た。

残念ですが、今日は無理そうですね(T_T)

そのメールを見て、気張っていた力がゆるんでしまった。日程の話も書かれていないし、これはこれでいいのかな。たぶん、そうだろう。

その日は晴耕雨読せいこううどくのうちの雨読のほうの生活を部屋でする予定だったが、籠城するだけの食糧がなかったので、二条にじょうどおりにある近所のイオンに行った。

行く間に濡れた。

そして、週明けの火曜日になった。六時過ぎからの例会までの時間つぶしに、大学の附属図書館に顔を出していた。本部キャンパスを正門から入って時計回りに進むと左手に見えてくる建物だ。貧乏学生にはなかなか定価で買うのがつらい平凡社へいぼんしゃライブラリーのコーナーを物色する。よさそうなものがあったので冒頭から四十ページほど読んでいると、ちょうどいい時間になった。

よし、残りは借りて読もうと僕は二階の新書・選書コーナーから一階に降りた。受付カウンターの横に自動貸出機というバーコード読み取り機械があって、本を台に載せれば勝手に登録してくれるのだ。本の貸出にかかる人件費と手間なんて微々たるものだと思うが、そこまで人手を減らしたいのだろうか。どうでもいい感想を抱きながら機械に並ぶ。

「あっ、その姿は針塚君ですね」

僕は悪事を見つかった少年のようにぎくりとして、声のほうを向いた。我らが会長がそこにいらっしゃった。手には三冊の本があり、また雨でもないのに腕に雨傘がかかっていた。会長も例会までの時間つぶしをしていたのだろう。

「こんにちは、会長」

こんばんはのほうが適切かなと口にしてから思った。突然のエンカウンターで頭が追いついていない。中央食堂で見た時の腕の部分が透ける服を着ていらっしゃった。顔を見るのと腕を見るのとどちらが失礼なのだろう。

「針塚君、申し訳ないんだけれど、学生証貸してくれない?」

世間話よりも先に会長は本題に入った。それだけ、時間的猶予がないのだ。

「入る時に学生証を忘れてしまって、借りるのが少し面倒なんですよ」

そう言えば会長は自動貸出機ではなく、有人の貸出カウンターに並んでいた。カードがないとなると、たしかに身分確認などで不都合があるのだろう。カードなしでわざわざ借りたことがないからわからないが。

「お安いご用ですよ。数も上限オーバーしないし、一緒に借りておきます」

こんなところでポイントを稼げるなら楽なものだ。僕は会長の三冊と含めて五冊を貸出可能にした。

ついでに役得で会長の借りる本の書名を見てみる。『浜辺の生き物』『身近な植物』『鉱石図鑑』、会長は博物学でもやろうとしているのだろうか。

「勉強熱心ですね」

「四回生って、意外と暇なのです」

余裕綽々よゆうしゃくしゃくの言葉に僕は舌を巻いた。やはり、就職活動などとっくに終わり、卒論も楽勝ということだろうか。三回生から就職活動をするのが当たり前の時代だし、ありえないことではない。

「それと一つ、針塚君を叱っておかないといけないことがありました」

本を受け取った会長はハンディサイズの『浜辺の生き物』で僕の頭を軽く小突いた。あえて告白するが、人に叩かれてこんなにうれしかったのは人生初だ。念のため断わっておくが、僕はマゾではない。かといってサドでもない。

「あの、僕、何かしたでしょうか?」

会長の顔が笑っているので深刻な問題ではないだろうが、それでも不安は残る。

「中道さんとの件、中止にしちゃったでしょう」

内心で「しまった」という思いと「どうして会長は知っているんですか」という思いが混ざった。やはり、会長にはエスパーの素質が? おいおい、いくらなんでも話が飛躍しすぎだ。こんなの中道さんが誰かに言えばすぐに広まるだろう。隠すことでもないのだし。

「こういう時は、男の子がエスコートしてあげないといけないですよ。とくに中道さんはそんな積極的な子じゃないんですから」

「以後、気をつけます

「それでは例会に行きましょうか」

会長は傘を魔法の杖のようにスウィングさせながら、歩きだした。僕にできることはその従者になることだけだった。

その後、トイレで中道さんに謝罪メールを送ったが、順延日時のことまではすぐに書けなかった。その後のメールには「針塚君の気持ちを尊重します」という意味深な言葉がついていた。すべては手遅れになってしまった。しかも、もしかすると中道さんを傷つけてしまったかもしれない。後で平凡社ライブラリーで数回頭を叩いた。

結論から言うと、その後も中道さんの印象に変化はなかった。時たま、僕に向かって深遠で豊潤な歴史知識を披露してくれることが増えただけだ。おかげで日本の谷の中で一番詳しいのが、一乗谷いちじょうだにになった。そこに朝倉氏あさくらしの城下町があったからだ。結論から言えば、僕と中道さんはあの二人きりの夜(我ながらとてつもなく誤解を招きそうな表現だ)を介して、少し距離を縮めたわけで、悪いことなんて何もないのだ。

でも、罪の意識が鞍馬の一件で生まれたというのも事実だ。だから、僕は例会で中道さんと顔を合わせるたびにまず心のうちでつぶやく。

ごめんなさい、中道さん。