エトランゼのすべて

第一話 桜散る頃、サークル決まる

森田季節 Illustration/庭

注目の新鋭・森田季節が贈る青春小説。ようこそ、京都へ!

第一話 桜散る頃、サークル決まる

一寸先は闇だというが、自分から闇に踏みこむとは思っていなかった。

白い引き戸の内側は、六時のくせに夜に近づきすぎていた。窓はすべて暗幕あんまくで覆われている。二日前にこの講義室で英語をやっていたとは、にわかには信じられない。

部屋を照らす唯一の光は、机の上の懐中電灯だ。その席に長い黒髪の女性が座っていた。暗闇からりあげたような、真っ黒なワンピース姿で、その顔と机の上に置いた小さな手だけがほの白く浮かんでいる。モノクロ映画の住人のように色みというものがない。

あの人が「京都観察会きょうとかんさつかい」の会長なのだろうか。むしろ、これでは占いの館の主人だ。

もっと凡庸ぼんような、どこの大学にでもあるようなサークルだと思っていたのに、まるで不穏ふおんなセミナーではないか。それとも、僕の大学サークルにおける認識が現実と大きくかけ離れていたのだろうか。自分の中だけでは答えが出るわけもなく、僕は身動きがとれなくなってしまう。大学の中には頭のねじがぶっ飛んだ人間なんていくらでもいるのだ。

なんとも居心地が悪い。自分がこの人たちとは違う世界の人間なのだと強く感じる。またなのか。大学に入っても、この知らない風習に出会うような気持ちを味わうことになるのか。いつも、部外者の役回やくまわりがやってくるのだ。

「こっちに来なさい」

しかも、その部外者に向こうは平気で声をかけてくるからたまらない。おそらく、これが最後のチャンスだ。話を聞いてしまったら、引き返すのは難しくなる。今なら雰囲気に怖くなって逃げ出した臆病者という言い訳が成り立つ。双方傷つくこともなく、和を重んずる日本人としてはベストと言わないまでもかぎりなくベターな解決法ではないだろうか。

この共東きょうひがし 31講義室の通路が、いまや自分にとってのルビコン川となっている。もしかすると、ここで引き返すかどうかで人生が激変するかもしれない。できれば、もっと劇的な場所であってほしかった。かといって、火サスのような崖の上でも困るのだけど。

「ほら、来て」

でも、結局、僕は目の前に向かって歩き出していた。二度も来いと言われて逃げられるほど自分は強くない。そりゃあ、相手がナイフでも握り締めているなら話は別で、京阪けいはん出町柳でまちやなぎ駅までと言わず、地下鉄の今出川いまでがわ駅あたりまで走って逃げるけれども。

僕はどうすることもできず、前にあるパイプ椅子に座った。机をはさんで、至近距離で向かい合う。お見合いをしたことはないが、ここまで緊張するものなら違う出会いの場を求めたいところだ。

しかし、現実問題として、何をしゃべれば正しいのだろうか。「いいお天気ですね」とでも答えておこうか。部屋をわざわざ暗くして、いいお天気も何もあったものではないか。あるいは、「ご趣味は何ですか?」か。だから、お見合いではないのだ。

けれども、そんな定型文は彼女からやってこなかった。 

隅田すだのあたりは、冬が寒くてつらいですよね」

前置きもなく、占い師さんが言った。

「あの、いったい何の話を

「学校の前の坂も凍結して危ないですし。靴がつるつる滑って、よく転びそうになりますしね」

「えっ?」

「学食の業者もあなたの在籍中に替わりましたね。業者が撤退するほど閑古鳥が鳴いていたのに、前のところよりおいしいという理由で、急に盛況になりました。やっぱり、料理は味なんですね。それとほんのちょっとの真心」

「どうしてそんなことを?」

何が起こっているのかわからず、僕は相手の目をじっと見つめた。けれども、瞳の奥に答えは書いてはいなかった。

「忘れていました。甲子園出場おめでとうございます。あれって野球部ではなくても、うれしいものなんですか?」

これ、全部、僕の地元の話、母校の慶明学園けいめいがくえんの話ではないか! たしかに学校の前の坂は冬場は凍結して危ないし、学食の業者も替わった。赤字で前の業者が逃げたというのも事実だ。お金の力で優秀な選手を集めてきて、甲子園に出たのも事実だ。

問題は「どうしてこの人はそんなことを知っているのか」ということだ。ここは新歓、いわゆる新入生歓迎会の会場で、僕はアポもとらずに手ぶらでやってきたのだ。そんな人間を事前に調べられるわけがない。

「『ハイライト』の定食なら、鶏南蛮とりなんばん定食が一番コストパフォーマンスがいいと思いますよ。鮮魚の和風マヨネーズ定食もいいですけどね」

初対面の人間から定食屋の名前を聞かされるとは思っていなかった。しかも、注文したメニューまで特定されているのは、意味不明というしかない。僕は鮮魚の和風マヨネーズ定食を食べたことなど誰にも話していない。

「それから憲法概論をとるなら、金曜一限のより、木曜三限の講師のほうが単位がとりやすいですから」

だ・か・ら、なんでわかるんですか、そんなこと! 学校裏サイトみたいなものが、大学にもあり、僕の一挙手一投足がさらされているとでも言うのか。まさかな。手間と面白さが釣り合わない。鮮魚の和風マヨネーズ定食で笑いがとれるのは、最初の一回だけだ。

やらずに後悔するよりはやって後悔しろと俗諺ぞくげんにあるが、これならば来ないほうがよかった。今更ながら体が恐怖できしみそうになっていた。知られてはいけないことまで知られてしまっている。もう、ここで成立しているのは赤の他人と赤の他人の関係ではない。

どうして、こんなことを知っているんですか?」

僕にはその疑問を口にする権利がある。納得のいく答えが出るまで何回でも。場合によっては、題目のごとく、プライバシーという外来語を連呼してみせるつもりだ。

「ちょっとした魔法ですよ」

占い師さんは無邪気ないたずらをしたように笑った。これで答えを教えてくれるなら、世の中に探偵はいらない。

宝石のような大きな瞳、お菓子のようにさえ見えるさらさらで波打った髪、魔性と認定せざるをえないその唇人をパーツでばかり見る変質者的嗜好しこうを持った人間のようだが、本当にどこの女神かはっきりしてほしいというほどの美しさだった。部屋が薄暗くて不安だという、ある種の吊り橋効果にあることを差し引いても、やっぱり女神だ。

僕の心は嵐に吹かれる遣唐使船けんとうしせんのごとく、揺れ動いていた。なかったことにしてほしい、白紙に戻してほしい。セイレーンの歌声が僕を遭難させる。

「不安なんですね」

セイレーン、もとい、謎の女神が幼子おさなごをあやす母親のようにささやく。これは読心術どくしんじゅつでもなんでもない。自分がどれだけいたたまれないような顔をしているかぐらいは想像がつく。スーパー帰りのおばちゃんでも「不安なんやねえ」と答えるだろう。だが、女神はここからが違う。

「まるで三年前までの私みたい」

過去の自分の愚かさにあきれたように、女神は息をはいた。仮に三年前に嫌な日々があったとしても、おそらく僕なんかよりははるかに上品な憂鬱ゆううつだろうが。

「ねえ、この三年間、あなたはどんな日々を送っていましたか?」

これは純粋な質問のようだ。そして、雰囲気に負けて、初対面なのに、僕は身の上相談を始めてしまう。

「灰色でした。むしろ、灰でした」

高校生活の記憶を消せるならば、ハンマーで頭を叩く覚悟がある。もっとも、最初の一年は悪くはなかった。クラスで話の合う人間も多かった。問題は二年になって文系と理系に分けられた際に起きた。仲の良かった人間が一挙に鉢替はちがえのごとく理系に移ってしまったのだ。おかげで僕は高校デビューをもう一度やらされる羽目になり、見事にデビューに失敗した。だって文系クラスの男子ってなんか荒っぽいんだよ。やたらと格闘技の話をしてるんだよ。

もちろん、客観的に見れば悪いのは話題に入っていけなかった僕だ。圧倒的多数は無難に高校生活を満喫していたのだから。でも、女神は僕を非難したりはしなかった。

「あなたは優しい人なんですね」

「え、僕が優しい?」

「だって、人を殴ったり、蹴ったりすることが嫌いなんでしょう? 人を傷つけたくないんでしょう?」

まさか、格闘技の話についていけないだけで、優しい人扱いされるだなんて思っていなかった。やはり、女神はあらゆる人間に福音を与えてくれるのだろうか。

「その優しさを忘れないで下さい。理解されなくて苦しい時期もあったかもしれません。私もそうでした。でもね、いろんな人のおかげで、私は生まれ変わることができました」

この台詞せりふを教団の施設で聞いていたら、僕は彼女に背中を向けていただろう。

しかし、女神という言葉が暗喩あんゆにすらならないほどの説得力が彼女にはあった。はっきりと言おう、僕の錯覚でなければ、黒一色のはずの彼女の背後に、天国とか浄土じょうどとか桃源郷とうげんきょうとか呼べるような何かが見えた。

「あなたの不安、きっと私なら取り除いてあげられます。私を信じて」

その底知れなさの奥は闇か、はたまた光か。

僕は光のほうに賭けてみようと思った。

絶対に安全なものなんて世の中にない。車に最新式のエアバッグをつけたところで、死ぬ時は死ぬ。どんなことでも、最後の最後にはリスクを覚悟で飛び出す勇気がいるのだ。今がまさにその時だ。

これが大学デビューなんだ。

でも、怖いものは、怖いな

さて、僕がこんな怪しいサークルの新歓に来てしまったのには、深い深いいやさほど深くもない理由がある。

自分は大学の一回生だ。といっても、一回生になってから、二週間ほどしか経っていない、いわゆる「ピカピカの」という枕言葉をつけていい時期だ。

京都の大学、というか京都大学きょうとだいがくに入学することが決まって、奈良なら和歌山わかやまの間から京都の下宿に越してきた。あまりにもマイナーな土地なので、近所の比較的大きな駅の名を言うと、たまに、「ああ、京王沿線けいおうえんせんですか」と反応される。京王沿線にもそんな地名があるのだろう。

はっきり言わせてもらうが、高校までは地味な存在だった。「までは」というところにぜひとも傍線ぼうせんを引いてもらいたい。とにかく、地味な学生だった。

しかも、僕の住んでいた街は電車(電化はされている)が一時間に一本の明らかな田舎だった。当然、娯楽自体も少なかったので、趣味に生きるようなこともできなかった。つまり、非リア充である。しかも、田舎の非リア充である。ここを強調したい。都会と田舎に格差があるように、都会の半端者はんぱものと田舎の半端者の間にも格差は歴然として存在するのだ。

たとえば、人生が楽しくないのでオタクに転向しようとする。しかし、近所に秋葉原あきはばら日本橋にっぽんばしも何もない。アニメの映画なんて上映してる劇場などあるわけない。人口が少ないからオタク仲間も作りづらい。これではやっていけない。日本橋には一時間電車に乗ればいけなくもないがそこまでする情熱はない。高校生が往復するには辛い運賃なのだ。

では、釣りでもしようかと思うが、海が近くにない。

鉄道オタクをやろうか。ローカル線すぎるので、遠方まで乗りにいけない。

そもそも、今のご時世で、駅前にパチンコ屋さえないという、ていたらくである。

とにかく、人より自然の多いところで育った目立たない生徒、それが針塚圭介はりづかけいすけだと思っていただければ、さほど間違っていない。特徴的なところと言えば、「苗字です」とでも言うほかない。卒業式を終えてからまだ一月と経っていないが、おそらくそろそろ自分のことを忘れかけている人間がいたとしても驚くには当たらないし、そんな人を恨むつもりもない。

しかし、僕はそのような無力さを受け入れているだけの卑屈な人間ではない。

自分が言ってるのだから間違いない。

地味な自分を変革する志はある。

一言で言えば、「大学デビューを果たしたい!」という志が。

離れた大学なら、高校までの自分を知る者もいない。新しい自分を演出しても誰も違和感を覚えないはずだ。やるなら今! そして通信教育の入試コースで必死こいて勉強した結果、僕は京都市の百万遍ひゃくまんべん近辺に住む権利を勝ち取ったのである。いやあ、これぐらいたいしたことないですよ、もっとめて下さい。

だが、ここで浮かれていてはいけない。なぜなら京大に合格することは過程であって、ゴールではないからだ。僕のゴールは大学デビューを果たし、リア充になることである。

引越しの前日、早速髪をうっすらと茶色に染めた。明るく楽しい人間として自分は振る舞うのだ。いやいや、振る舞うのだと、演技になってしまう。僕は明るく楽しい人間になるのだ。カメが突然変異でニンジャ戦士になるかのごとく。

まだだ、まだ足りない。

なんだか、血に飢えたドラキュラのような言葉だが、違う。

まだ自分は大学デビューの参加証を手にしたにすぎない。

楽しいキャンパスライフには、必要なものがある。

まあまあのお金と親しい友達、できればかわいい彼女。

そして、なんといっても、素晴らしいサークル。

やはり大学生といえばサークルだ。サークル無所属で大学生活を満喫とか、そんなのはありえない。無所属の議員が総理大臣になれるわけがないのと同じだ。完全無欠のサークルに入ることによって、一生の友が生まれたり、青春にふさわしいアバンチュールが生まれたりするはずだ。サークルからすべては始まると言っても過言ではない。しかし。

モーゼは海を切り開いて道にしていたが、向こうから道が作られていた場合は、我々はどうしたらいいのだろうか。決められたレールには従わない、脱線するならそれもまた一興いっきょうよ、と違う道を選ぶのか。それとも忸怩じくじたる思いで相手の意向に屈するのか。

抽象的で意味不明だと思うので、具体的に描写すると、健康診断の途中で通るキャンパスの中に、卒業生を送るがごとく在校生の花道ができていた。一回生は絶対にそこを通れと言わんばかりだった。

あれはサークルの勧誘部隊だ。みんな、チラシを手にしている。「シンカン、シンカン」と声をあげているが、新館でも新刊でもまして神官でもなく新歓のことだろう。新入生歓迎会の略称らしい。ただし、実態はサークルによる新入生勧誘会のことだ。

花道を離脱することも不可能ではないようだったが、そんなひねくれた生き方は得意ではないので、流れに乗ってみた。

「剣道サークルです!」「宜しくお願いします!」「新歓、今日やります!」「ラクロス最高!」「鳥人間とりにんげんです!」「テニスだったら、『でまちてにす』!」「鍋食べ放題やで!」「一緒に日本一周しよう!」

そんな声とともにチラシを渡されていく。一枚とったのが運の尽きで、二枚目以降を断る明確な理由もなく、そこから先は手に紙が増えていく一方だ。甘い誘惑には乗ってはいけないのだ。ダメ、ゼッタイ! 中には書類を入れていた手提げ袋に直接押しこんでくる手合いまでいる。たまに、B4の紙に印刷してるようなところがあって、地味に邪魔だった。こういう時に規格を統一しない人間は将来、確実に嫌われる。出版社に入社して本棚に収まらないサイズの本を作って、読者の恨みを買ったりするのだ。

ちょっとこれは尋常ではない。いつの間にか手が紙の重さで疲れてくるほどだ。横では、紙をぶざまに落とした同志が、あくせくと拾っていた。ああなったら、おしまいだ。何がおしまいか知らないがおしまいだ。僕は親指に力をくわえた。

帰宅後、チラシを体重計に載せてみたところ、三キロ弱を記録した。エコとは何か、エゴとは何か。今度帰郷した際には親と話し合ってみようと思う。

さて、その日の勧誘合戦で僕の心は比較的軽視できない程度のダメージを受けた。簡単に言いなおすと、少し引いた。歩合制ぶあいせいでもないだろうし、なんでこんなに熱心なのか。

熱心なのはいいのだけど、勧誘してる側がものすごく楽しそうな顔をしていたというのが少々解せない。勧誘というのは相手に来てもらうことが目的なのであって、勧誘者が面白いというのは二次的、三次的なものであるはずだ。初回限定の特典のような、プラスアルファでもらえればラッキー程度のもののはずだ。そこを多くの勧誘者が勘違いしているのではないだろうか。我々一回生は上級生の思い出作りの道具ではない。以上、一回生の主張でした。

それから、テニスサークルが冗談抜きで一ダース以上あるのだけれど、大学生と言えばテニスなのだろうか。いわゆるテニサーというやつなのか。ここでみんな毎夜のようにコンパを繰り返しているのだろうか。毎夜のようにコンパを繰り返す資金はどこから出ているのだろうか。まさか、金銀財宝が湧き出る泉のありかでも知っているのか。教えて下さい。

なんという重い現実。具体的に言うと三キロ弱の現実。恐怖で新歓に顔を出す勇気もくじけてしまった。

あんなノリの先輩ばっかりのサークルだったら、やっていける気がしない。京大は同志社どうししゃと比べるとリア充率が低いから楽だという話を聞いていたのに。サークルすべてが肉食系に見えてくる。ある程度おしとやかで清楚せいそで人をいたわる余裕のあるサークルにしよう。とりあえず、テニスはやめよう。

そんなことを考えていたら、二週間ほど経ってしまっていた。

サークルによっては最後の新歓を終えたところすらある。もちろん、新歓が終わってもサークルに顔を出すことはできるだろうが、難易度が大幅に高くなる。

まずい。何も成長していない。デビューする前に引退だ。

そして、動きだすのが遅ければ、いろいろなところを見てまわるチャンスが減る。いわゆるジリ貧という現象が起こる。お金がないからお金を借りる、お金を借りるからお金がなくなる、といったあの現象だ。この場合、サークルのことがわからないから新歓に出ない、新歓に出ないからサークルのことがわからない、時間だけが経つ、という悲惨なことになっている。

だが、新歓というのは基本的に夜にやるものだ。つまり、夕飯をおごられるだろうことは容易に想像がつく。僕には飯をおごってもらいつつ、サークルに入らないなどという人でなしな行為をやれる自信がないのだ。だとしたら、サークルに入るのは一発勝負になる。複数のサークルを掛け持ちするという裏技もあるのだが、僕は恋したら一途な男なので、二股のアバンチュールなどもってのほかである。

ある夜、僕は地図を片手に八坂神社やさかじんじゃに行ってみた。サークルのことで頭がいっぱいだったので、気分転換をしたかったのだ。自転車なら十五分も乗れば着くだろう。夜の神社というのは、きっとオツなもののはずだ。少しぐらい人気ひとけがなくて、お化けが出そうなぐらいがちょうどいいなどと考えていたら、神社の北側の円山公園まるやまこうえんは花見客で酒池肉林しゅちにくりん有様ありさまだったので、すぐに引き返した。現実逃避している場合ではないという神のお達しだ。平安神宮へいあんじんぐうの近所にある下宿でチラシの確認作業に戻ろう。

チラシの収集はあれからも続けていた。一回生の講義に出れば、机にチラシが置いてあったのだ。中にはネタみたいなチラシを何種類も作っているところもあった。この朽木団くちきだんというところは何種類作るつもりなのだろう。そもそも、どういうサークルなのだろう。でかでかと「犬」としか書いていないサークルもある。道教どうきょうの札なのかもしれない。

ひとまず、サークルを「優」「良」「可」「不可」の四種に分けてみた。科学的思考である。

まず、「不可」。これは超体育会系のところ。糞がつくほど真面目にスポーツをやっているようなところは論外。勝手に汗でも鼻水でも流せばいいと思うが、自分には関係ない。

「可」は、全然興味のない文化系サークルと、ゆるそうなスポーツ系サークル。具体的に言うと、能楽のうがくサークルとか鳥人間とか卓球とかである。逃げ出したいほどではないが、けっこう面倒くさそうである。もし、柔道と能楽しかこの世にサークルがなかったら、後者を選ぶが、ほかの選択肢が豊富にあるので除外。

なお、テニサーもすべてここに入る。テニサーは中学や高校からとっくにデビューしている人たちが行くところであって、大学からデビューしようとしている人には敷居が高い。その点、早稲田わせだ慶応けいおうに通うには、付属高校あがりのほうが楽なのに似ている。しかもこの場合、血のにじむような努力が報われるかよくわからない。テニスに打ちこんで汗臭かったら、むしろ嫌われるだろう。僕は努力がまっとうに評価されない業界は嫌いだ。よって除外。

さて、「良」のサークルに目を向けてみる。このあたりからは、十分に検討に値する範囲だ。まずオタク的ノリのサークルだ。こういうところなら肩肘かたひじはらずに気楽にやっていけるだろう。サークルに母のような包容力が感じられる。オメデトウとかオカエリとか言って、僕を受け入れてくれるだろう。もう、こういうところでいいかな。僕ももうゴールしたい。

けれど、それは妥協ではないか、逃げではないか、そんな自己批判がすぐに湧き起こってきた。冴えない人間の中に入ることで自分が冴えることなどありえない。腐ったリンゴの中に入れたリンゴが抗菌加工されることはない。

しかも、そもそも論として、とくにオタクでもない自分がオタクの中に立ち入って面白いのか。ライトノベルは高校の時にクラスメイトの武田たけだ君が絶賛して貸しつけてきた『イリヤの空、UFOの夏』しか読んだことがないし、アニメは『けいおん!』を数回ぐらいしか見たことない。おそらく話題についていけず、寂しい思いをすることになる。よって除外。

そして、いよいよ、「優」。写真サークルとハイキングサークルの二つだけだった。人生は最悪を予想して動くべきだが、その最悪の上をいくほど少なかった。五つぐらいはあると思ったのに。

どうしてこの二つがいいかというと、まず僕の趣味がデジカメで近所の風景を撮影するというものだったせいだ。自分ほどJR和歌山線沿線を撮影してきた高校生はそうはいない。

だが、写真サークルはどうも本格的な一眼レフなどを使った撮影が前提のように書いてあり、年代物のデジカメを持っていったら三脚で殴られそうだった。殴られなかったとしても、裏でバカにされるだろう。自分だって逆の立場なら、おそらく見下すと思う。温泉卓球しか経験がないのに、卓球部に入るようなものだ。

では、楽そうなハイキングサークルはどうかと思ったが、こちらもよく見ると新歓ハイクに比良山ひらさんけい(ちなみに、武奈ヶ岳ぶながたけで標高一二一四m)とか伊吹山いぶきやま(標高一三七七m)とかいう単語が入っていたので、心が折れた。これは普通の登山サークルではないだろうか。千mを超えるのはちょっと。中学生の時に金剛山こんごうさん(標高はその時のぼったコースのいちばん高いところで一一一二mぐらい)をのぼっただけでくたくたになったのだ。自分は楠木正成くすのきまさしげにも役行者えんのぎょうじゃにもなれそうにない。

高校時代に在籍していた部と似たようなところに入ればいいんだよという意見もあるかもしれない。まともな部活に入っていた人なら、参考になるだろう。しかし、僕は科学部の人間だった。その名前を言えば半数の人は察しがつくだろうが、帰宅部に最も近い、いわば準帰宅部的な部活だ。そもそも、僕が科学にさしたる興味もなく、大学の文学部に入ったことがすべてを物語っている。科学と料理は似ているという合言葉を武器に、お菓子を作って食べてばかりいた。バウムクーヘンが思ったより上手くできたのがいい思い出だ。ココアボールというお菓子もなかなか美味だった。べっこう飴はすぐにできるが、さほどおいしくもないので、あまり流行はやらなかった。終始こんな調子で、科学部というと家庭科部の下部かぶ組織と高校では信じられていたほどだった。

結局、その日もどのサークルの新歓に出るか決められなかった。夕飯を買い忘れていたので、近所のイオンに弁当を買いに行った。交差点近くにある唐子からこというラーメン屋には今度寄ろうと思う。マンションの一階も喫茶店なのだが、僕のお財布事情だと外食を繰り返す体力はない。国債のように針塚債を発行できればいいのだけれど。

翌日は、もう二週目の英語の講義が始まっていた。タイムリミットまでいよいよ時間は少ない。円山公園の桜もほぼ散っただろう。これまではわざわざ聖護院しょうごいん八ツ橋やつはしの角を右折して、東大路ひがしおおじどおりから大学に入っていたのだが、京都ハンディクラフトセンターという外国人観光客用の土産物屋の横に裏道があることを発見したので、そちらを使う。この道なら信号も丸太町まるたまちどおりを横切る一箇所しかないし便利なのだが、裏道というのがいかにも日蔭者ひかげものっぽくて少ししゃくだ。吉田南よしだみなみ4号館の背後にある抜け道のような門から構内に入る。ここで講義がある時はこの抜け道はさらに効果を発揮する。

ちょっと仲良くなった九州出身の山下やました君もまだ来ていないので、僕は講義室前で足を止めた。すでに花開いている会話の中に飛びこむ勇気はなかった。かといって、講義室の横では、これまたリア充系の雰囲気の男女が楽しそうに笑い合っていて、肩身が狭い。

仕方ないので、講義室前の掲示板に目をやる。どこかで見たことのある新歓のチラシが画鋲がびょうで留めてあった。掲示板というのは目立つようで目立たないので、掲示板の常連のサークルというのは、どちらかというとマイナーなのではないだろうか。

けれど、その中にいまだに未確認のサークルがあった。

京都観察会とチラシにはあった。

隅に申し訳程度に大文字山だいもんじやまが描かれている。

文字どおりの意味だと京都を観察するということになるが、いったい何をするのだろうか? 説明文には、「京都をのんびりめぐろう、とにかく気楽に、気楽に。すごく気楽」と書いてあった。気楽を三回並べるあたり、そこに主眼があるのは明らかだった。意志とか成長とか、そんなしんどそうなことには一切興味がないと言わんばかりだ。

これって、写真サークルとハイキングサークルのいいとこ取りをしているサークルかもしれないぞ。完全な文化系ではないし、かといってハードでもないし、ちょうどいい。風呂で言えば四十度!

僕はそのサークルに緊急避難場所のような意味合いを感じた。僕のような性格の人間が過去にもいただろう。そういう人間を受け入れるサークルがあっても不思議ではないはずだ。それがここではないのか。

目的も京都をぶらぶらするということ以外ない。面倒な計画も仕事もぱっと見、なさそうだ。だって、気楽だし。あと、メンバーが男子に偏っているという雰囲気もない。

ここなら楽しい大学生活が送れるかもしれない。曲がりなりにもデビューできるかもしれない。僕みたいな人間しかいなかったら、それはそれでデビューしづらそうだが、女の子の比率が高いなら、たいした問題ではない。そうそう美少女と巡り合えるわけなどない。その程度の身のほどはわきまえている。小学校時代の文集にだって、「将来、薬ざい師になりたい」と書いたぐらいだ。決してプロ野球選手とか書いたりはしなかった。もっとも、文学部だから、薬ざい師には多分なれないけど。

よく見ると、新歓はあと一回しかなかった。明後日の夕刻の一回きりだ。

あわてて、僕はメモ帳を出して日程を書きこんだ。場所は目の前の共東31講義室。この時点でメジャー感はない。和歌山線沿線の人間としてはちょうどいい。ちなみに僕は万葉まんようまほろば線だとか、名前だけすごそうにするこけおどしは嫌いだ。

そして、満を持して行ってみたら、いきなり占い師さんと遭遇したというわけだ。

「新歓に来てくれてどうもありがとう。針塚君はそちらの席に座って」

占い師さんは、後ろのほうの長机を差した。ところで、僕はまだ名前を名乗った覚えなどない。逃げられなくなった僕は、やむなくそこに収容された。

まさか自分のほかにこんなサークルに来る人間なんていないだろうと思っていたら、もう一人、背の低い少女が入ってきた。少女といっても、大学だから、七歳とか八歳ではなく、十八歳ごろだろうが。声は聞こえなかったが、どうやら、相変わらず個人情報を的確に当てている様子が、痛いほどに伝わってきた。

やがて、その少女は僕のほうに、おずおずとやってきて、「中道香澄なかみちかすみです。文学部です」ともごもごとこもる声で名のった。こちらも「はじめまして。針塚圭介です。奇遇きぐうですね。僕も文学部です」と頭を下げる。とくに文学部に関するトークには発展しなかった。それが中道さんとの出会いだった。

「ちょっと怖いです」

今の気分をとてもストレートに中道さんは発信した。

中道さんはショートカットの小動物然とした女の子だった。この髪形をたしかカーリーボブというはずだ。つまり、短めの髪をカーリーにボブにしているわけだ。石を投げないでほしい。僕の説明能力ではほかに表現しようがない。なんだか、後ろから見たら北欧の華奢きゃしゃな美少年のような感じがするが、女性に「北欧の華奢な美少年みたいですね」と言うのが褒め言葉なのかわからないので黙っておく。

見た目から判断すると、いかにも気の弱そうな子だ。ついでに幸も薄そうだ。おそらく僕と同じような理由でこのサークルに来て逃げられなくなったのだろう。

どうやって出ていこう。僕の頭はもう退避方法に移っていた。座右の銘は「戦いません。勝つまでは」である。

このサークルはどこかがおかしい。少なくとも一般的な大学サークルの動きではない。異常なサークルで大学デビューができるとは思えない。事件を起こすようなところだったらどうする? 僕は警察の方々とは、交番で道を聞くだけの関係でいたい。この中道さんという女子が「こんなふざけたところ、出ていきます!」などと啖呵たんかを切ってくれれば、僕もあっさりと追随ついずいできるのだが、そういう性格の人ではないだろう。追従ついじゅうするつもりでいた時点で僕も動かない。動かざること山の如し。

そして、僕も動けずにいる間にすぐに事態は進展してしまった。二十一世紀は時間の流れも速い。

占い師さんが教卓の前に立つ。その横に、どこに潜んでいたのか、サークル会員らしき人たちが並ぶ。占い師さんを入れて六人だ。しかも、半数は女性。こんなサークルだから多くて三人ぐらいしか会員はいないだろうと思っていたので、これには驚いた。そして占い師さんの演説がはじまる。

「二人も来てくれて、本当によかったです。正直、誰も来なかったら、このサークルは今日で廃部にしようと思っていました。なにせ、現役部員が全員四回生なんですから」

サークルの紹介の前に、占い師さんはそんなことをのたまった。どうしよう、これは出ていきづらい。しかも、すでに頭数あたまかずに加えられてしまっている。いくらなんでも新歓に来ただけで、新人扱いというのはずうずうしくないか? 僕がいくつものサークルを吟味してから所属サークルを決めるタイプの可能性だってあるというのに。実際はまったく違うけど。

「ぜひとも、この京都観察会の未来のためにお二人の力を貸して下さいね。私、このサークルをやっていて、一番感動しているかもしれません」

占い師さん、そんなことは言わないで下さい。ハードルがあがる。どんどんあがっていく! 六段の跳び箱も危うかったんだから!

「それじゃあ、ほかの四回生の紹介もしようかしら。長月ながつきさんからお願い」

長月さんと呼ばれた、一番右にいた清楚な雰囲気の女性がぺこりと頭を下げた。いかにも上流階級な立居振舞たちいふるまいが体に染みついている。こんなキャラ、実在したんだと男子が七割だった高校の出身者としては驚きを禁じえない。

その次は、今度は巨体のメガネの男が頭を下げる。名前も聞きとれなかったが、あまり楽しそうではなかった。もしかして、サクラとして徴集されてきたのだろうか。

続いて、ぶかぶかのTシャツ一枚のがさつそうな男が自己紹介をした。「けんどう」という苗字が聞こえてきたが、漢字変換ができない。

ここまでだと、自分みたいにさほど気の強くない人間の集まりのようだが、そこから先の人種はそんな仮説だけでは説明がつかなかった。

「二人とも、多分びびってると思うけど、予想以上にゆるいから気にしないでいいよ」

その男はまるで僕の心を読んでいるかのようにそんなことを言った。しかも、驚いたのは、その人の恰好である。スーツを着崩した、ホストみたいな雰囲気なのだ。絶対にオタクサークルにはいないタイプの人間のはずだ。しかも、そんなタイプが僕の心の機微を理解しているとは信じられなかった。

「今から新しく入るサークルを決めるのって、けっこうストレスフルだしさ、なんていうのかな、とりあえずの籍を入れるって考えでも全然いいと思うよ。俺もここに入った当初はろくに来てなかったしさ」

この男は何者なのだ。もしかして、この人が心を読んでいたせいで、占い師さんも僕のことを知っていたとか? そっちに意識がいきすぎて、僕はその名前を聞き逃してしまっていた。

そして、最後の一人の女性が、ものすごくだるそうな声で、「勝原かつはらです」と言った。髪を見事に茶色に染めて、やたらと短いスカートをはいていた。僕は混乱していた。パンクとでも呼ぶしかないような人になるのだろうか。こんなタイプの人は、渋谷しぶや新宿しんじゅく池袋いけぶくろのあたりに集住しゅうじゅうしていて、関西に限って言えば、梅田うめだ難波なんば三宮さんのみやの限られた地域にしか棲息せいそくしていないと地理の教科書に書いてあったはずなのに。

サークルの趣旨がわからない。正体がわからない。

そして、自己紹介が一周した後、占い師さんが小さく会釈した。

「そうだ、言い忘れていました、私がこのサークルの会長です」

「これは、どうも」

僕も無意識のうちに頭を下げていた。

「では、新歓に行きましょうか。近くにお魚のおいしい、いいお店があるの」

会長という名の魔法使いは僕らを講義室の外へ連れだす。十年若かったら人さらいじゃないだろうかと心配したかもしれないが、今の僕はむしろあやしくつやっぽい女性にさらわれたいぐらいだ。十年で人も変わるものである。

僕らの後からはぞろぞろとほかのメンバーもついてくる。護送されているみたいだ。列から飛び出して逃げようとしたら、射殺しゃさつされそうだった。後ろに視線をやるのが怖いという理由もあって、僕はすぐそばの会長のことばかり見つめていた。とくにやましい理由はない。会長にはどこか違和感がある気がしていたが、右手に雨傘があるせいだということに気づいた。

柄の部分はプラスチックではなく、重厚な杖のような木製のものだ。値段は不明だが、おそらく僕の使っている二百十円のビニール傘の百倍以上高いと思う。本体の部分は黒に近い紺色で、か弱い女性が持つにはいささか無骨な印象すらある。どうして、あんなものを? 水不足が心配されるほどに、今日もよく晴れているのに。あるいは聖人や仏像の持物じもつのようなものだろうか。口で言うと寒いから言えないけど、まさか魔法のステッキ?

「ああ、この傘が気になりました? これは私の力の源泉なんです」

よくある質問なのか会長はほがらかにお答えになられた。

ただ、回答は案の定、魔法使いのようだった。

魔法のステッキ説、正解かもしれない。

そのあと、僕らは公約通り、「とみくら」という魚とお酒の飲み屋風のお店に連れていかれて、きっちりとご飯をおごられた。だらだらとサークルのメンバーと話もしたのだが、カフェテリア・ルネで週に二回集まってご飯を食べるということだけしかわからなかった。

僕は酒に酔いつつ、サークルの権力構造について頭をめぐらせていた。そう書くと大げさなようだが、つまりは、会長の周囲の動きに意識をやっていた。

会長の飲み物がなくなると、長月さん(清楚なほう)が、さっと追加を頼む。少し酔って足元のおぼつかない会長がトイレに行こうとすると、勝原さん(パンクっぽいほう)が、「ほらほら、飲みすぎだよ」と付き添っていく。

その奉仕をごく普通に受け入れる会長。自分が偉いことが生来せいらいのもので、わざわざ気取る必要もなければ、下手したてに出る必要もないと言わんばかり。どこかの資料館で、名前しか書いていない明治時代の権力者の名刺を見たが、あれに通じるものがある。僕も四十年先には権力にありつきたい。

これは否定的な意味ではない。それほどに会長は高雅こうがに振る舞っていたわけで、僕はそんな会長に懸想けそうしかけていた。

「ところで、会長の名前ってまだ聞いていないんですが」

僕はなかば照れながら席の向かい側の会長に尋ねた。こういうお見合いの席なら歓迎します。

「秘密ということにしておきましょう。だって、皆さん、私のことは会長としか呼ばないですから」

笑えばすべてを誤魔化せるとでも思っているみたいに会長は笑った。そして、僕にとってはだいたい当たっていた。女性のたえなる笑みにケチをつけられるほど、僕は朴念仁ぼくねんじんでもなければ、モテる余裕もない。

「少し悲しいことですが、私の力は『会長』という言葉に宿っているだけなのです。私自身は、何もできない人間です。でも、私はまだこのサークルを守っていかないといけない。だから、一年待っていて下さい。その時に、サークルと一緒に会長もお譲りします」

「まさか。会長の力は会長自身のものですよ」

言っている僕も何のことだかわからなくなってきた。会長の前では、あらゆるものが観念に還元されてしまうのだ。とても、世間話なんてできない。「今日も雨ですね」などと聞いた途端とたん、「空の水の量が減ってしまいますね。ちなみに空が黒いのは私が闇を少しばかり溶かしたからです」なんて答えが返ってきそうだ。

「私は無力ですよ。きっと、このサークルの中で一番」

会長は自分の黒髪を艶めかしく手でもてあそびながら、答える。さらり、さらり。そんな小さくて聞こえるはずのない音が、僕の耳に入ってくる。ちょっとしたしぐさがすべて思わせぶりで、どこか人間離れしている。まるで闇から生まれてきましたと言わんばかりなのだった。流行とも関係なさそうな黒いワンピースも、異様に似合いすぎている。本当にオーダーメードなのかもしれない。

「でもね、無力だからこそ、できることだって世の中にはあるのですよ。天才にも凡庸な人にかなわない分野があるように、私なりにできることも、なくはないのです」

「なるほど」

僕は「なるほど」って心底便利な言葉だなと思った。

「だから、針塚君、あなたにも何かできることがあるはずです。それをこのサークルで見つけていって下さい」

見つけろと言われても、何をするサークルかもいまいち理解できていないのだけど。絶対に楽しくハイキングに行ったりなどしないだろうことは確実だ。

「僕にできることですか? そんなもの、何もないですよ」

まともな能力があれば、多少は楽しい高校生活を送れていたはずだ。

「そんなことはありません。無力ということも、また一つの力のありようですから」

両手を組んで会長は僕の目を慰めるように見た。黒いワンピースと対照的なほどの白い手。生唾なまつばを飲んだ。これが本物の魔女だ、魔法使いだ。京都で西洋風の魔法使いというのもおかしな話だが、間違いない。

そして、僕はすでに魔女の術中にはまっていたのだ。

「あら、そういえば」

魔女の目が隣の席の勝原さんにスライドする。やっと、解放された。

「食後にデザートのプリンを頼みたいのですが?」

「このお店には、どう見てもないって。食後にからふね屋にでも行かないと」

「では、食後のコーヒーは?」

「熱いほうじ茶で我慢しなさい」

この人、本当にマイペースなんだな。魚料理メインの定食屋でプリンが所望しょもうされるとは思わなかった。そもそも、ホッケを食べた後にプリンを口に入れたいか?

そういえば、まだ聞かないといけないことがあった。

「あの、どうして僕のこと、知っていたんですか?」

僕がお相伴しょうばんあずかっている理由の半分はそれだ。個人情報を完全に握られ、下手をすると生殺与奪せいさつよだつの権さえ向こうの手の内かもしれないのだ。お天道てんとう様に見られてさほど恥ずかしくない生活はしてきたつもりだが、それでも黒歴史くろれきしの一つや二つはある。

「魔法と言ったでしょう。人の話は聞かないといけませんよ」

会長はまたはにかんだ笑みで僕をはぐらかす。おっとりした人だとよく言われているのだろう。その答えはわかっていたけれど、満足だった。

「そうですよね」と酒の入ったコップを持ちながら相槌あいづちを打つ僕を、例のホスト系の人が、ちょんちょんと肩を叩いた。

「こっち、こっち」

そのまま、僕はトイレのほうまで連れだされた。まさか、会長に変な質問をしたばっかりにめられるのではなかろうな。自慢ではないが、腕には自信はないぞ。握力も人一倍弱いぞ。

「まだ名前は覚えてないと思うから、もう一度自己紹介な。俺は綱島つなしま、でもみんなヒモじまって呼んでるから、そう呼んでくれ」

そんな前置きの後、ヒモ島先輩は核心に踏みこんできた。

「ここが天国のようなサークルだとは俺も言わん。天国ならもっとにぎわってるはずだ。でも、どこのサークルにも入らないよりはマシだと思う。いわば、保険だな。絶望的な灰色の大学生活を送らないための保険だ」

その言葉はいちいち僕の心を狙ったようにかきむしる。

「そうですよね僕もよくわかります」

「大学生活は最低でも四年ある。しかも、高校の時みたいに進学っていうわかりやすい出口がない。最初をしくじると本当に四年引きずるんだよ、これが」

ヒモ島先輩の容姿も手伝って、悪徳キャッチセールスの勧誘みたいだったが、間違ったことは言ってなかった。そして、灰色の大学生活は他人事でもなんでもない。灰色学生の典型的な陽性反応を僕は示しているはずだ。最低でも自覚症状はある。

「それじゃあ、とりあえず入ってくれないかな。もう、無理だと思ったら、俺に言ってくれれば、アフターケアも多少はするしさ。ほかのサークルのツテもいくつかある。ちなみに女の子のほうは、入ってくれるって」

もう、僕に断る理由も勇気も残ってなどいなかった。

「はい、ここに決めました」

そんなわけで、僕(それと中道さん)は京都観察会に入会することになった。

新入社員のような気持ちで席に戻ると、会長がとてもきれいな声で笑った。

「これから、よろしくお願いしますね」

「よろしくお願いします」

即答した。

これが華々しい大学デビューとなるのか、はたまた、さらなる転落の始まりとなるのか、今の段階ではわからない。できれば前者であってほしいと願ってはいるけれど、この会長と落ちる地獄ならそれはそれでオツなものかもしれない。人間はどんな苦境でも楽しむ力を持っているはずなのだ。そうじゃなきゃ、人生なんてやってられるか。

「では、今日はおひらきとしますね」十時過ぎに、長月さんがぱんぱんと手を叩いて言った。思ったより長く時間が経っていた。「一回生の二人はタダです。でも、学生証を見せると、今日だけ二百円引きになるらしいので、貸していただけるとありがたいです」

おごってもらうわ、割引にも貢献しないわ、では面目が立たないので、すぐに僕は新しい学生証を出した。写真写りが悪く、すでに後悔している。もちろん四回生たちも学生証を長月さんに渡していく。ただ、会長一人だけがお札だけでなく小銭を用意していた。

「ごめんなさい、忘れてしまったようです。二百円追加で払います」

割引を考えるなんて庶民のすることですと言わんばかりの貴族的な雰囲気で会長は言った。

「はい、ありがとうございます」

長月さんも慣れた調子で追加の二百円を受け取っていた。生まれ変わったら女になって、こういう人たちと女子会をやりたい。まかり間違っても男子に生まれて、科学部で毒にも薬にもならない時間つぶしをして、オタクでもなんでもないのにオタク扱いされたりしたくはない。オタク差別をするつもりは微塵みじんもないけど、オタクじゃないのにオタク扱いされると損した気分がするのだ。

停めていた自転車にまたがろうとしたところで、「あの」と声をかけられた。僕と同志となることを運命づけられた中道さんだった。

「今後とも、よろしくお願いします」

ぺこり、という擬態語が聞こえてきそうなかわいらしい仕草で、中道さんはおじぎをした。

「いえいえ、こちらこそ」僕もすかさず頭を下げる。「中道さん、本当に礼儀正しいですね」

「礼節をわきまえない人間は身を滅ぼします。信長のぶながつばいたら殺されます」

妙なたとえだが、言いたいことはわかった。

波瀾万丈はらんばんじょうなことになってしまいましたが、きっと大丈夫です。頑張りましょう」

四字熟語を使って、中道さんはそんなことを言う。僕はこれから出征しゅっせいでもするのだろうか。

「はい、善処ぜんしょいたします」

なあに、信長と戦うわけでもないし、命をとられることもないだろう。

酔いをましながら僕は帰宅のについた。東山ひがしやまどおりと呼んでも通じる東大路通をだらだらと南下して、熊野神社くまのじんじゃが見えたら、左折する。お化けが出そうな熊野神社、その向かいには対照的に深夜までやっているスーパーがこうこうと明かりを灯している。そして、薄暗い桜馬場さくらのばばどおりを右折すると、目的地のマンションが見えてくる。昼間は近くに平安神宮もあって人通りも多いのだが、そのぶん夜とのギャップが激しい。

マンションのすぐそばにある、剣道や弓道をやる施設の桜は、もうすっかり散り終わっていた。また、一年はおあずけだ。これから暑くなるんだろうなと思いながら、自転車置き場にママチャリをすべりこませた。裏側から入ってもいいのだが、その日は気分的に正面から入りたかった。

エントランスホールの明かりは十時に消えるので、それ以降はちょっとした心霊スポットのようだ。もし、誰かが物陰から飛び出してきたら、悲鳴をあげるだろう。

たてつけの悪いドアを開けると、壁の分厚い寒々とした部屋が広がっていた。これだよ、これが現実なんだ。さっきのサークルの風景は夢なのだ。あんなに妖しく美しく、なぜか自分のことを事細かに知っている会長など実在するわけがないじゃないか。自分の現実は、古い網戸の隙間から羽虫が入りこみ、風呂の水がポタポタいつまでも止まらない、この下宿のほうなのだ。トイレと洗面所も水漏れしている。これが京都の月四万五千円の物件だ。

もう、嫌だ。独り暮らしなんてたくさんだ。地元に帰りたい。

疲れて眠っても、その間に誰もご飯を用意してくれたりなんかしない。洗濯も掃除もすべて自分がやらないといけない。部屋だって狭苦しい。こんなところで夢なんてつかめるわけがない。新天地にいけるとだまされて奴隷に売られた気分だ。昨日も一昨日も三日前も、不安で不安でぼそぼそと独り言まで口にしていた。

土日は実家に戻ろうかな。三条さんじょうから京阪で京橋きょうばしまで出て、環状線かんじょうせん新今宮しんいまみやまで行って、南海なんかいに乗り換えて橋本はしもとまで行って、またJR和歌山線に乗り換え。おそらく三時間もあれば帰れるはずだ。

その時、沈黙を打ち破るかのように、机に置いていた携帯がふるえた。

メールの発信者は「長月さん」となっていた。新歓でアドレスを交換したのだった。今後ともよろしくお願いします、といったあいさつがきれいな丁寧語で書かれていた。

危ないところだった。現実を自分の固定観念で否定するところだった。僕はサークルに入ったんだ。これから素晴らしい未来が開けるはずなんだ。だから、もうちょっとだけ我慢しろ。

長月さんには懇切丁寧こんせつていねいな返礼のメールをしたのち、親宛てにも短いメールを送った。

サークル決まった。京都をぶらぶら歩くサークル。