エレGY
CHAPTER 5-2『約束』
泉 和良 Illustration/huke
「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!
2『約束』
十二月二十四日。
朝方まで眠れなかったにもかかわらず、午前中に目が覚めた。
何をやっても手につかない日中をただひたすら過ごし、夕方地点を折り返す。
ようやく午後七時頃になって、とうとう待てずに家を出た。
まだ二時間も早い。
外は既に夜で、いつも以上に寒かったが、湧き出る期待と若干の不安で頭は麻痺している。
OIOI下の広場までは一瞬で到着してしまった。
この寒さだというのに、二、三組のストリートミュージシャン達が演奏していた。
少し風もあり、立ち止まるにはやや辛い気温だが、クリスマスイヴのせいか広場は意外に人が多く、彼らの音楽に耳を傾ける人も何人か見受けられた。
とりあえず広場を一周してみる。
当然、彼女の姿はまだ見当たらなかった。
広場の中央に設置された時計を見ると、九時までまだ一時間半。
ミュージシャン達の歌でも聴いていようと各組の間を行ったりきたりする。
しかし、いつ現れるか分からない彼女の事が気になってキョロキョロしてばかり。どの歌も丸っきり頭には入ってこなかった。
九時十分前になって、赤いマフラーと制服が視界に現れた。
エレGYだ……
彼女は僕には気づかず、広場の隅へと移動した。
緊張しながらその姿を追う。
どのタイミングで、自分を彼女に気づかせればベストなのか、という計算が頭を走ったが、そのタスクは一秒でフリーズした。
彼女の横顔を目にしただけで心も体も発熱した。
彼女は一角のベンチに陣取ると、バッグからキティちゃんのイラストの入った真っピンクの小さなラジカセと、「古島絵里がうたっています」と大きく手書きされたダンボールの不出来なポップを取り出した。
ダンボールの皺と文字の擦れ具合から、随分使い古されているのが分かる。
彼女はベンチの手前の地べたにしゃがみ込むと、自分と観客席の間にカセットテープを数個並べ、ラジカセやポップを各所に配置して、あっという間に超ミニコンサートステージを完成させた。
それから彼女は、しばらく下を向いて体を前後に揺らせ、次に辺りをキョロキョロと見回して、僕を発見した。
彼女と目が合っただけで、僕の胸に詰まった様々な気持ちが一気に溶解する。
僕は笑顔を見せた。
手を振ろうとして右手を上げると、彼女が全く表情を変えずに僕を睨んでいる事に気づく。
な、何故睨む……
僕がここへ来た事を怒っているのだろうか。
マック激闘の日からメールしか交わしていないものの、僕らは完全に打ち解けあったのではないのか?
まさかそれらは全て僕の勘違いだったとか……
そんな愚かな不安が頭に浮かんだが、すぐに否定する。
彼女から招待状が来たではないか。
微妙な位置で空中停止したままだった手をゆっくりとおろし、僕は、彼女の目の前、一メートルの地点に座った。
彼女の目はまだ鋭く僕を睨んだままだったが、近くまで来て、それは彼女が極度に緊張しているからなのだと分かった。
自ら催す出来事に、彼女がこれほどまで気を張り詰めているのだと知って僕は驚いた。
彼女にとってこれから起こる事は、決してふざけ半分などではないのだ。
両腕の包帯がまだ取れていない事も、その時気がついた。
あの時、僕の上着を引っ張る彼女の手首の包帯に、真っ赤な染みが浮かんでいたのが鮮明に思い出される。
今はもうその染みは無い。包帯は白く綺麗に彼女の手首を守っていた。
「パンツ見えてるよ」と、僕は言った。
無意識かもしれないが僕を睨みつけた事への仕返しだ。
彼女は慌てて座りなおした。
無表情のままだったが、少し赤くなった。
彼女が目の前にいるからとは言え、公衆の中で、こうして地べたに座り込むのには相当恥ずかしさを伴った。
この広場はストリートミュージシャン達の溜まり場ではあったが、それでも自分達がその場から浮いているような感じがして、ただでさえ高鳴る心臓に拍車がかかる。
見ている側ですらこれなのだから、当の彼女はもっとだろう。
こんな中で、いつも一人で歌っていたのだろうか。
それも、ラジカセ一つで。
それも、鼻歌だけの伴奏で。
エレGYは深く深呼吸をしてから、ラジカセの再生ボタンを押した。
寒さのせいか、緊張のせいか、彼女の指は震えていた。
ガチャッ
と、古めかしい音がして、シャーというホワイトノイズが流れ出す。
互いに心を解きあって会うのが久しぶりである事から来る新鮮な感情と、これから何かが始まるのだという場の空気とが相乗して、口の中が乾くのが分かった。
突然、スピーカーから彼女の鼻歌が流れ出した。
鼻歌を伴奏にするなんて、実際に聴いたらあまりにお粗末に聞こえるのではないか、と思っていたのだが、予想に反して、それは美しい伴奏だった。
エレGY自身の歌声が、伴奏にライドした。
僕の状況分析が追いつかぬままに、彼女の歌はそうして始まった。
{*}「*++,‥;,#‥;,$#$+*#$+*#$+#$+*
+*#$,#〟#*P#*$+*#*#〟+*$+#〟+4」
日本語ではなかった。
外国語でもない事は明らかだった。
何語であれ、文法の成立していない未完成な言葉……、動物の鳴き声にも似た発音。
では和声はどうだ。
伴奏の敷いたラインは、カデンツは元より西洋音楽の楽典をとうに逸脱し、……と言うよりも、その配置と移動は、それらを意図的に避けているかのようだ。
まるで、それらが劣っているとでも言うように。
当然、メロディも音楽の規範からは掛け離れた流れになっている。
ただ
美しかった。
発声の、ベロシティとビブラートの操作能力が極めて高かった。
それらのスキルだけは、どうやら既成概念に準じてくれている。
一見、カオスだが、無秩序ではない事は容易に分かった。
時たま、既成の湖畔を彼女の声がかすめると、涙が出た。
偶然などではなかった。
彼女は、既成概念の遠方より、その沿岸の小さな位置に狙いを定めて、確実にヒットさせているのだ。
歌詞(?)にも、同様な手法が見られた。
理解不能な言語(?)の中に、時たま人間が理解できる単語や文節が出現しては煙のように消えた。
浮き彫りにはならず、周囲の特殊な言語に完全に溶け合って、ただの一単語が、人類が得た新発見かのような感動を伴って、僕の耳に流れ込んでくる。
彼女の十五分に及ぶ一曲目が終了した。
彼女の顔には、僕が知るいつものエレGYの表情が蘇っていた。
「凄い、君は凄い」と、僕は興奮して言った。
彼女はあどけない顔で目を丸くして、白い指を僕の目に接触させてきた。
目を突かれるのではないかと思い、彼女の手を払った。
彼女の目的が、僕の目から流れた涙を拭う事なのだとすぐに気づく。
自分で慌てて拭った。
彼女の歌そのものに対する感動だけではない。
歌を聴いている間に、彼女と出会ってからの二ヵ月が思い出された。
ようやく彼女と素直に向き合う事ができる……という感慨深さが、胸に込み上げていた。
「もっと早く聴かせてくれればよかったのに」
「だって、恥ずかしかったの」
「何も恥ずかしい事なんかないよ。とっても良かった」
「違うよ、じすさんの真似してるだけだってバレるじゃん……」
「え? 僕の真似? そんなはずない、君の歌は素晴らしいよ」
彼女は怪訝な顔をして、
「昔のじすさん、こういう曲作ってたの覚えてないの?」と言った。
「帰って『あおいほし』や『music』を聴いてみなよ。昔のじすさんの曲大好きなんだ。私、じすさんみたいになりたかったの。ゲームは作れないけど、歌なら真似できるかもしれないって思って……」
言われてみれば、似たような曲がその二枚のCDから幾つか思い浮かんだ。
しかし、比べても旋律はずっと凡庸で、それらは全て歌の入っていない曲だ。
僕の真似をしたとは言っているが、同じ類と一括りにできる程度ではなかった。
彼女が、僕の昔の作品から、一粒の種を得たのは確かかもしれない。
だがそれを長い時間の努力によって育み、巨大な大樹へと繁らせたのは、彼女自身に他ならない。
子供の頃や思春期に、様々な作品に触れることで創造的なセンスが形成されるように……、彼女は僕の生み出した作品達から何かを吸収して、彼女独自のセンスへと発展させていったのだ。
……そうか。
「そうか。その歌は、僕からもらった光がきっかけか」
「うん、そうだよ。本当は、誰よりじすさんに聴いて欲しいって、ずっと思ってた。やっと聴いてもらえた。あー……緊張した」
この時僕は、フリーウェアゲーム作家としての最上の喜びと、その誇りを理解した。
僕が真摯になって生み出す創作物は、たとえ金銭的に反映されずとも、そこに込められた魂が種となってネットの世界へとばら蒔かれる。
そしてそれは奇跡的に誰かのもとへ届き、心の道標や支えとなって、未知なる新しい息吹を生んでいくのだ。
……エレGY……、彼女のように。
「フフ、ほらね、じすさん」と、彼女は笑った。
「え……?」
「私、光見せたよね? 約束」
「約束?」
彼女は体を近寄らせて、
「うん、そう。……キスしてくれるよね?」と言った。
彼女は少しだけ恥ずかしそうに視線を泳がせ、最後に僕の目を見てから瞼を閉じると、静かに唇にキスをした。
…………
「一緒に歌う?」と彼女は言った。
僕はまるで赤ん坊のようにきょとんとした顔をして、
「歌う」と答えた。