エレGY

CHAPTER 3-7『マック遭遇』

泉 和良 Illustration/huke

「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!

7『マック遭遇』

外の空気は一段と冷え込みだした。

僕はいつまた風邪を引いてしまわないかとビクビクして、ほとんど外出しようとはしなかった。

今、体調を壊してしまったら、余計な薬代で貯金を圧迫させてしまう。

収入が無い以上、残高が僕の残り寿命を意味している。

が、しかし、その日に限っては、底をついた抗不安剤を処方してもらうために、大井町にある精神科クリニックまで、なんとか赴かねばならなかった。

ただ破滅へと突き進むだけの毎日で、その薬は唯一の命綱だ。

食費を削ってでも、それだけは必要である。

寒さがどんなに怖くても行かねばならない。

僕はこれでもかというほど服を重ね着した。更にニット帽とマスク、マフラーに手袋を着用。

万全の無敵態勢で自転車に乗った。

空は曇り、風も強かったが、さすがにそれだけ防寒すれば向かい風も怖くない。

頭の中で、処方のための診察代と薬代を予想し、それを差し引いて、あとどれくらい生活が続けられるかを計算した。

大丈夫だ、少なくとも年は越せる

大井町の駅前まで来ると、右手にマクドナルドが見えた。

赤い看板に、咄嗟に体が反応する。

なるべく他の事を考えようとしたが、エレGYとそこで初めて会った時の光景が、強制的に脳裏で再生された。

やめろ、やめろ、やめろ

そこさえ過ぎれば、クリニックの入ったビルまですぐだった。

なんとか辿り着き、診察を受けた。

医者から、飲むペースが早すぎる、と注意を受けたが、処方箋しょほうせんは書いてもらえた。

数十分後、隣のビルの薬局にて、二週間分の抗不安剤の入手に成功した。

これでまたしばらく凌げる

薬を得たというだけで安堵し、気が緩んだ。

帰りもまた駅前のマクドナルドが気になった。

早く通り過ぎようとスピードを上げたが、横断歩道で信号に阻まれた。

なかなか青にならない事に苛々する。

深呼吸をしたが、意に反して動悸どうきが高まるのが分かる。

信号が変わった。

発進。

チラリと店の方を見た。

駄目だと分かっていながら、おもわず視線が、窓際のあの席の方へと向いてしまった。

見るな、と自分を制止しようとしても、言う事をきかない。

心の中で警告ランプが明滅しだす。

百五十メートルほどの距離があったが、誰かが座っているのが分かった。

彼女であるわけがない。

他の誰かだ。

さあ、もう行こう。帰って薬を飲むんだ。

遠目にも制服を着た女子高生だと判別できた。

別人だろう。

そして、赤色のマフラーすら見えた。

心臓が急激に強く鼓動した。

ブレーキをかけて片足を下ろし、呆然とマクドナルドの方を見た。

「なんで居るんだ

不意に携帯が鳴った。

見ると、既に四通のメールが受信されていた。

どれもエレGYからのメールだ。

息を吞んだ。

いつから届いていたのだろう。

彼女のメールが途絶えてからは、携帯を見る機会はほとんど無かった。

アンディー・メンテの閉鎖に対して、彼女から何らかの反応があるのは予想できたはずだが、薬の残り数を気にして、携帯の確認を遠ざけていたのだ。

削除しなくては。

右手の手袋を脱ぐ。

手がかじかんで上手くボタンを押せない。

削除をするはずが、僕の指は命令を無視して、メールを開こうとしている!

やめろ、メールを見るな!

一通目が開いた。

『じすさん、私、死にたい』

全身がカッと熱くなるような感じがした。僕の中のもう一人が二通目を開くのを命懸けで止めようとしていた。

一拍おいて、二通目が開く。

『アンディー・メンテが無くなった。どうして? 私のせいかもしれない』

三通目と四通目を阻む気概はもう無かった。

『痛い。じすさん、痛い。息ができない。ずっと返事が来ません』

『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』

メールを見終わって、再度マクドナルドの方を見た。

顔までは判別できなくとも、あれがエレGYである事はもう間違いなかった。

いったい何故居るんだ、と頭の中で繰り返した。

まさか、僕がメールを無視し始めてから、ずっと毎日通っていたのではなかろうか。

彼女ならやりかねない。

僕は自転車を押しながら、ゆっくりと歩いて店の方へと接近した。

五十メートルくらいまで近寄った時、店内の窓際の席にすわる彼女がこちらを向くのが分かった。まだ遠くではあったが、エレGYだとはっきり見えた。

彼女は数秒、視線を泳がせた後、僕の位置に目をとめた。

一瞬、この厚着とニット帽、更にマスクまでしている僕には気づかないかもしれない、と思ったが、彼女の視線はしっかりと僕を捉えたまま動かなかった。

僕はまるで呪いにでも掛かったかのように立ち尽くし、ただ彼女と互いをじっと見つめ合った。

体中の神経が、音が鳴るのではないかと思うほどに振動した。

僕の中の、ようやく封じ込めつつあった気持ちが、再び動き出そうとしているのが分かった。

駄目だ

僕はすぐに自転車に跨り、方向転換をしようとする。

ぱっと彼女の方を見ると、さっきまで居たはずの席に誰も居ない。

今まで見ていたのは幻覚だったのか、と自分を疑いそうになった。

「じすさん!!」

突然、響いた大声にハッと我に返り、幻覚などではない事を悟る。

店から飛び出したエレGYが、全速力で僕の方へと走ってきていた。

思い切り振られた彼女の両腕に、真っ白な包帯が見えた。

僕は慌てて自転車の向きを直し、彼女とは反対方向へとペダルを漕ごうとする。

ハンドルの変速機が重いギアに入ったままで、なかなか加速しない。

やっと走り出したかと思うと、またすぐペダルに負荷が掛かり、バランスを崩しそうになって両足を地面に落とした。

「嫌!!」と、僕の真後ろで声がした。

振り返ると、エレGYが自転車の後部座席を両手でつかみ、必死に進むのを止めようとしていた。

「離せよ!! 馬鹿!!」そう叫んだら、マスクが耳から外れて落ちた。

「絶対嫌!!」彼女は泣いていた。

周りの通行人が、何事かとこちらを見ているのが分かった。

僕は自転車に跨ったまま、後ろのエレGYの手をつかむと、力ずくで後部座席から振りほどいた。

その際、彼女の袖口があがり、手首に巻かれた包帯は、肘の方にまで達している事を、僕は目の片隅に捉えた。

罪悪感と恐怖で血の気が引いた。

その包帯は、僕のせいで彼女が手首を切ったのだと訴えていた。

心の中が質量さえありそうな黒い鬱で充満する。

全身の力を振り絞ってペダルを漕ぐ。

「嫌だよ、じすさん!!」と、辺り一帯に響き渡る程の叫び声が後ろから聞こえた。

僕は漕ぐのを止めず、前を向いたまま「手首切るなよ、馬鹿!! もう絶対切るなよ!!」と、懇願するように叫んで、走り去ろうとする。

「聞いて、じすさん!!」

エレGYの声が、さっきより少し小さくなった。距離が開いたのだ。

信号の手前まできて停止し、後ろを振り返る。

彼女は走って追い駆けて来ていた。諦める様子など微塵もない。

信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたが、物凄い速さで僕の自転車に到達した彼女が、僕の上着をつかんで止めた。

強引に振り払おうと、体を左右に振る。

彼女の指が上着の生地に食い込んで離れない。

体ごと突き飛ばそうとしたが、包帯を見ると、彼女の腕が千切れてしまいそうで、思わず力が緩んだ。

それでも彼女は倒れた。しかし僕の上着をつかんだ手はそのままだったため、彼女の体は僕と自転車の真下に滑り込むようにして仰向けになった。

スカートがまくれて、太股があらわになる。

自分で突き飛ばしておいて、僕はすぐに、自転車に乗ったまま、彼女を引っ張って立ち上がらせた。

彼女は頑として僕を睨んでいた。

「おまえ、俺のこと好きじゃないだろ!! なんで付きまとうんだよ!!」心まで緩みそうになった自分を戒めるように、大声で言った。自分の事を思わず「俺」と言った事に、自分でハッとする。

「そんなこと無い!」

「噓つけ! ジスカルドが幻想だから、仕方なく僕を好きになろうとしてるだけだろおが!!」言うだけ辛くなった。

「聞けよ、馬鹿!! ジスカルドも泉和良も、両方併せておまえだろ!!」

エレGYは泣きながら僕の目を貫いて、そう言った。

「ち、違う、ジスカルドは僕じゃない。僕が作ったキャラクターだ」

「じゃあ、ジスカルドを知らない人が、じすさんを分かってるって言える? アンディー・メンテの事、全然知らない人が、じすさんを理解してるって言えるの!?」

「私は泉和良の事は今までよく知らなかったけど、アンディー・メンテはじすさんにとって全てだったって信じてるの!! だから、アンディー・メンテのジスカルドは、泉和良にとって、すごく大事な一部だと思う! 幻想なんかじゃないよ!! 泉和良からジスカルドを消したら、泉和良じゃなくなると思う。どっちが欠けても駄目、全部併せてじすさんでしょ?」

僕はもう自転車を走らせようとはしていなかったが、彼女はまだ上着をつかんで強く引っ張ったままだった。

彼女の右手首を覆う包帯の端が赤くなっているのに気づいた。傷の一部が開いてしまったのだ。

上着から離そうと、包帯の上から彼女の腕をそっとつかんだ。

だが、彼女は上着もろとも互いの体を強く揺さぶり、僕の手を拒絶した。

「なんで何も言わないんだよ!! なんでメールの返事よこさないんだよ!!」

ただ黙って、必死に叫ぶ彼女を見た。

二人ともまだ肩が激しく上下していた。

「私、じすさんが好きなんだよ! 私の事、放っておいて逃げるならさっさと行けよ! ばーか! ばーーーか!!」

細い声を精一杯振り絞って出していた彼女の声が、じょじょに小さくなった。

彼女はやっと上着から手を離して、自転車のタイヤを横から蹴飛ばした。

突然バランスが崩れて、僕は自転車ごと歩道に倒れてしまった。

何かを投げつけられた。

「何するんだ」と言おうとしたが、起き上がると彼女はもう居なかった。

見渡すと、駅の方へと一人で走って行っていた。

啞然と見つめていると、構内に消える前にこちらを一度振り返り、そしてまたすぐ去って行った。

倒れた自転車を起こそうとして、横にぐしゃぐしゃになったバンソウコウの箱が落ちているのを見つけた。さっき投げつけられたのはこれだ。

手に取ると、蓋の部分に見覚えのある文字があった。

『エレGYのリストカット用』