エレGY
CHAPTER 3-6『nikoからの電話』
泉 和良 Illustration/huke
「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!
6『nikoからの電話』
午後が来ても、窓の外からの光は暗かった。
ガラス越しに建物の隙間から覗く冬の曇り空は、この世の終わりのように絶望的だ。
全世界の全ての人間が絶望しているなら許せるが、自分だけが一人、この空を見ながら鬱屈していると思うと、このまま侘しく死んでしまいたくなる。
布団に横になったまま動かず、ぼうっと窓を見上げていると携帯が鳴った。メールではなく電話の着信音だ。
一瞬、エレGYが掛けてきたのかと思ったが、携帯の電話番号は教えていない事をすぐに思い出した。
見ると、携帯の画面には「niko」と表示されていた。
「もしもし……」と、布団に寝転がったまま電話に出る。
「しすみん?」
携帯の向こう側から、nikoの特徴ある声が聞こえてきた。
「どした?」
「ききたんがね、ききたんがね、別れるって……」
電話の向こうでnikoが泣いてるのに気づいて、布団から体を起こす。
「なんでえっ」と、僕は驚いて言った。
「ききたん、にこの事、うざいって言うの。毎日、夜帰ってきてから、何もしないで家にいるのがうざいって」
以前の小山田幸貴のアパートでの喧嘩を思い出した。
電話越しに、雑踏の音が聞こえた。
「今、どこにいるの?」
「戸越銀座」
nikoは小山田幸貴の家を飛び出し、戸越銀座の商店街を歩きながら電話を掛けていると言う。
「分かった。とりあえず、そこに行くから待ってて」
電話を切って、出かける準備をした。
nikoは商店街をとぼとぼと一人で歩いていた。
ジャージ姿に、サンダル。手に何も持たず、突然に家を出てきたと言わんばかりの格好だ。
表情は暗く、目は沈んでいた。
nikoが泣き出す代わりに雨が降り出した。
nikoは俯いたまま、僕の後ろにあったファミレスを指差した。
財布の中身を思い出す。
「オーケー。早く入ろう、濡れちゃうよ」
席について、僕は小山田幸貴にメールした。自分の彼女と他の男が、知らない場所で食事をしていて快く思う男はいない。一時間くらいしたら、家に帰します、と打った。
フライドポテトを注文し、フリードリンクを取りに行く。
二人分の紅茶を注ぎ、席に戻ると頼んだポテトもきていた。
「しすみんごめんね」
紅茶を一口飲んでnikoは言った。
「いいよ、大丈夫かい」
「うん、平気だよ。よくあることなの。……でも、しょっちゅううざがられるんだ。ききたんがテレビ見てる時とか、勉強してる時とか、すっごい冷たいの。邪魔しちゃ悪いって分かってるけど……、もう少し構って欲しいだけなの」
nikoは両手の指の爪をこすり合わせながら、溜め息と共にそう話した。
「そっか……」
「うん。大喧嘩しちゃって出てきただけ。別れるって言ってたけど、前とおんなじ。心配しなくていいよ。電話してごめんね」
「いいよ。家に居ても暇だったから」
とりあえずは、それほど切羽詰った修羅場ではなかったと分かり安心する。
「……そうだな、男は集中してる時に邪魔されると嫌がるもんね」
「しすみんもそれ系か」
「それ系じゃ」
正直に答えると、nikoの方からポテトが飛んできた。
「きっと、にこには、ききたんしか無いから駄目なんだ」と、nikoは眉間にしわを寄せ、「にこには趣味がないから駄目なんだ」と続けた。
「しすみんにはアンディー・メンテがあるでしょ。ききたんにも遊戯王とか、アニメとか色々あるでしょ。にこにもそういうのが必要だ。そしたらききたんが何かやってる時は、にこも自分の事をやって、邪魔しないで済むね」
「そうか……、そうだね。違う趣味がお互いにあると、教え合ったりできるしね」
心の中で、アンディー・メンテはもう無いけどね……と呟く。
nikoは紅茶とポテトを交互に口に運んだ。
どうやら僕に話して気持ちも少しは落ち着いたようだ。
「エレちゃんの趣味は?」
「え」
nikoの突然の質問に言葉が詰まった。
nikoはまだ、僕がエレGYと会わなくなった事を知らない。
「えーと、なんだろ……」
エレGYの趣味が何だったのか、頭を巡らせる。
彼女の事をあまり思い出したくないという気持ちのせいか、すぐにはっきりとは思いつかなかった。
エレGYがアンディー・メンテを好きなのは知っているが、それ以外に趣味があるのだろうかと考えた。
以前彼女が、自分で歌を作って路上で歌ったりしている、と言っていたのを、数秒経ってから思い出した。
「そうだ。よく分かんないんだけど、歌を作ったりしてるらしいよ」
「へぇー、すごいなー……。エレちゃんの歌、聴いてみたいなー……」
エレGYは僕と会っていた時も、歌を作ったり、路上で披露したりしていたのだろうか、とふと思う。
特異な価値観を持つ彼女が作る歌とは、いったいどんなものだったのだろう。
その事を詳しく聞こうとしても、彼女はほとんど何も教えてくれなかった。
「僕も聴いた事ないんだよ」
「なんだ。しすみんもまだまだだな」
「う、うん……」
「エレちゃんって、高校生だよね?」
「あ、うん。そうだよ」
「いいなー。にこもまた学校行きたい」
「行けばいいじゃん」と、軽く答えた。
そしたら、「そっか。よし、にこ学校に行くよ!」とnikoは言い出した。
「何かの専門学校行って、いい女になるの! ききたんが何かやってる時は学校の勉強すればいいし、頭も賢くなるよね。そしてききたんにもっと好かれるんだっ」
「学校!? ……そ、そうか。学校か。それはいいと思うよ」
唐突の決意表明に、戸惑いながらも賛成した。
突飛ではあるが前向きな考えには違いない。行動力のあるnikoらしい対応策だと思った。
「ね? よーし、にこは学校に行くぞっ」
すっかり力強さを取り戻した彼女を見てほっとする。
小山田幸貴とnikoの二人には、ずっと上手くいって欲しかった。
会話が一段落付いた所で、
「僕、エレGYともう会ってないんだ」と、打ち明けた。
「どしてっ」nikoの表情が強張った。
「あの子は……僕が好きじゃなかったんだよ。ネット越しに、僕に妄想を抱いてただけだから……」
「そんな」
nikoは「うーん」と唸って、しばらくしてから言った。
「ききたんも、ネットゲームの中じゃ、にこがベタベタする性格だって気付かなかったから、ゲームで知り合うなんてやっぱり駄目だって前に言ってたの。……でもさ、そんなの普通の恋愛も一緒だよ? 普通の恋愛だって、付き合ってみるまでお互い分からない事だらけだし。それに、後から嫌な部分が見えたって、それも含めて好きっていうのが、本当の好きだもん」
外はまだ雨が降っていた。
僕は店の外を見ながら、
「小山田君は、にこちゃんの嫌な部分も受け入れてくれると思うよ」と言った。
「そんなわけないよ。ききたんはにこが嫌いだもん」
「嫌いだったら、趣味を持って欲しいとか言わないさ。とっくに別れてる」
そう言って、僕は店の外を指差した。
nikoは僕の指の先を辿り、後ろを向いて外を見る。
店の外に、傘を差しながらひっそりと立つ小山田幸貴の姿があった。
彼の左手には、もう一本の傘も握られていた。
「え……、ききたん?」
「嫌いなら、雨の中、傘持ってきたりしないだろ?」
外を見るnikoの目が潤むのが分かった。
席を立とうとして、そこから涙が一粒だけぽつんと落ちた。
その一粒の分、外の雨も少し穏やかになった気がした。
店を出て、僕は自転車に乗りながら、小山田幸貴に手を振った。
小山田幸貴の差す傘に入ったnikoが、もう一本の傘を僕に差し出して「ありがと、しすみん」と言った。
それから、
「エレちゃんだって、しすみんの嫌なとこも含めて好きだったんじゃないの?」と言った。
僕は何も答えずに、傘を受けとった。