エレGY
CHAPTER 3-4『人とは違う生き方』
泉 和良 Illustration/huke
「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!
4『人とは違う生き方』
しばらく経って、ずっと休み続けていた碁会所へ久しぶりに顔を出した。
エレGYと出会うまでは、アンディー・メンテの仕事をしない日はあっても、碁会所へ行かない日はない程に、僕は囲碁に対してだけは真剣だった。
僕が囲碁に没頭するようになったのは、ユメと別れた事がきっかけだ。
囲碁に夢中になる事で、ユメとの事を少しでも忘れようとした。
碁会所に通う事が、抗不安剤を服用するのと同じような意味を持っていたのだ。
おかげで僕の囲碁の棋力は短期間で急上昇した。
その頃の癖なのか、エレGYの事を考えまいとしていたら、碁会所に行ってみようという気になったのだ。
昔と同じように、再び囲碁に熱中してエレGYの事を忘れられればいい。そう思った。
「おや、珍しい子が来たなっ。しばらく来なかったから田舎にでも帰ったかと思ったよ」と、先生が言った。
「すみません。郵便局のバイトが忙しくって」僕は噓をついた。
「噓つけぇ〜、ゲームとか音楽の方に夢中だったんだろ?」噓がバレた。
以前、僕がゲームや音楽を作っているのを話した事がある。
元ミュージシャンだった先生と、お互いの曲を聴かせ合ったりもした。
しかし先生はエレGYの事までは知らない。
「そ、そんな感じです……。郵便局のバイトもクビになっちゃいました」
「あははは、本当かい。しょうがないね。……じゃあ打つか。棋力落ちてなきゃいいけどな」
「お願いします」
先生と向き合って座る。
前回と同じように黒石を三子置いて、対局が始まった。
先生と打つ碁は、他のお爺さん連中や小山田幸貴と打つ碁とは違う。
先生と打つ碁は、言わば試験だった。
その対局で、どのような内容の手を打ったかが先生に判断される。
先生とは何度も打ったが、未だに碁石が汗で光った。
神経を尖らせ、集中と緊張のせいで指先が震える。
囲碁は手談と言われる事がある。
石の一手一手に意思がこもり、対局している者同士だけが分かる会話となる。
特に高段者になってくると、下手と打つ時、相手の心理が読めてしまう事がある。相手がどんな考えなのか、どんな心情なのか、どんな性格なのかさえ分かってしまう事もある。
つまり先生のような人と打つと、まるで自分の皮膚が透明になって、自分の何もかもを見透かされているような気分になる。
以前はそれを強く感じていたが、僕の棋力が上昇するにつれ、先生の考えている事もじょじょにだが分かるようになってきた。
先生と打っている最中は、何にも代えがたい喜びを感じる。
普段の生活で、それほどに意識を研ぎ澄ませ、全力で戦いに立ち向かう事など皆無。
普通では味わえない精神的窮地を、先生との対局では体感できる。
アドレナリンが舞い、冬でも掌に汗をかく。
先生はよく碁吉の話を僕にした。碁吉のキチは「狂う」の意だ。碁吉とは、碁が極度に好きになってしまい、没頭するあまり家族も仕事も失って、しかし尚も碁を打ち続けるような人の事を言うのだ、と先生は言った。
碁吉になる人の気持ちが分かる。
碁を打っている間は、何もかもを忘れられる。
一度深い読みに潜行すれば、あらゆる現実の苦しみから逃避できた。
どんな心の痛みも振りはらって、目の前の戦いが全てとなる。
先生との対局を終えて、二人で一手目から並べ直し検討する。
碁会所に通い始めた頃は、初手から全てを再現する先生を見て、神業かと思ったものだ。
今では僕も一緒に並べ直せるほどにはなった。
……序盤は何事も無くゆっくりと進行していった。
互いに石を打ち合い、中盤に差し掛かる。
「前は毎日来てただけあって、衰えてなかったな」と、先生はパチッと石を置いて言った。
僕の優勢に傾くきっかけとなった箇所だ。
部分的な戦いを制し、黒の有利な展開となった。
続けて数十手を打ち直し、先生の手が止まる。
「この手はなんだ? 攻めるのか守るのかはっきりしない」
先生の厳しい口調に、僕はただ「はい」と答えて頷いた。
「急に変になった。迷いがあるな……。ここで攻めるなら、隅は捨てろ。捨てたくないなら、最初から攻めるな。気合が足らない」
実戦では隅の薄みが気になって仕方がなかった。だが局面は攻めるべき状況に至っており、僕は悩んだあげく、どちらともつかぬような曖昧な手を打ってしまったのだ。
何もかもを読まれているようだった。対局中の心理はおろか、今の僕の弱さすら。
その一手を境に、この碁は形勢が入れ替わり、僕の投了となった。
「あの手さえ無かったら、白は足りない。そしたら俺の負けだったな」と先生がニコニコして言った。
碁石を碁笥に戻し、「ありがとうございました」と言って、ようやく張り詰めた気を解放する。
興奮状態だった脳が一気に脱力し、心地よい疲労感で満たされた。
「しかし強くなったよ。本当に。半年で二段になれる人はそうはいない」
先生は車椅子の上で腕を組み、目を閉じてそう言った。
褒められて嬉しくなる。
レッスン代を払おうとすると、先生が止めた。
「実はもうここ閉めるんだ」
意外な言葉に耳を疑った。
「いつですか?」
「今月いっぱい。……最近は、子供教室の人数も『ヒカルの碁』のおかげで増えたし、それなら自宅でやっていけるなと思ってね。年寄りはもう駄目だ。『ヒカルの碁』の影響で囲碁人口は増えたっていうけど、増えたのは子供だけで、囲碁好きな年寄りは減る一方。公民館に行けば月千円で打てるしな」
「そ、そうですか……」
僕はひどく残念だったが、それをうまく言葉にできなかった。
この近くに他の碁会所はあっただろうか、などと自分本位な考えが浮かぶ。近くにあったところで、そこに先生のような特別な人は居ない。
先生は奥の本棚を指差して、「どれがいい?」と僕に尋ねた。
「好きなの一冊持ってくといい」
並んでいるのは膨大な数の囲碁の教本。それに混じって分厚い外国文学の全集が何セットかある。
「ああ、それはロシア文学だ。ここを開いてから、毎日ちょっとずつ読んでたんだよ。こういうのを三十年も毎日読んでれば、同じ年数働いてるサラリーマンらとは、幾分違う人間になれるかもしれない……なんて思ってな、ははは」
哀愁の混じった笑顔で先生は言った。
「泉君も、人とは違う事をしてるんだろ?」
「えっ……、ええ、まあ……」突然聞かれて、受け答えに戸惑う。
「はは、しょうがないな。人と違う生き方は苦しい事ばっかりだぞ?」先生の言葉は重い説得力を伴っていた。
「……でも、誰もしないような生き方をせんと、特別な存在にはなれない、ってな。……がんばれよ」
先生は二冊の本を棚から出して、僕に差し出した。
『趙治勲打碁傑作選』の上下巻とあった。
「これにしよう……。こりゃ俺が、泉君くらいの棋力の時に読んだ本だよ。いい本で今でも時々読んで並べてる。気が向いたら読むといい」
僕は二冊をしっかりと両手で受け取って、深く頭を下げ礼をした。