エレGY

CHAPTER 2-10『映画』

泉 和良 Illustration/huke

「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!

10『映画』

エレGYと大井町以外の場所で会うのはこれが初めてだった。

待ち合わせの場所も今まではずっとマクドナルドだったが、今日は川崎駅の改札口だ。

なんだか、いかにもデートっぽくて少し浮かれた気分になる。

川崎駅の改札を潜ると、すぐにエレGYが僕の隣に現れた。

ここでも彼女は制服姿だ。

彼女は伏兵の真似をして、「グサーッ」と言いながら、透明な刀で僕のわき腹を突き刺した。

はかりおったなあー、うぎゃあー」と、僕も倒れる振りをする。あほだ。

何事も無かったかのようにスッと立ち上がり、「何の映画観るの?」と僕は聞いた。

エレGYは最近封切りされたばかりのSF映画のタイトルを答えた。

映画館へ行く前に、駅近くのファーストフードの店へ入った。

マクドナルドとは違う店だ。それだけで全然違う雰囲気になる。

小さな席に着いたせいで、エレGYとの距離はいつものマクドナルドよりもずっと近い。

こんなに近くで向き合っていたら、心の中を見透かされそうだ。

僕は身を反らせて、なるべくエレGYとの距離を稼いだ。

食べる物もいつものハンバーガーやポテトと少し違う。

「いつもマックだから、なんだか新鮮だね」と、エレGYは食べながら言った。

「う、うん」

落ち着かない僕は、昨日作り始めたゲームの話をした。

「やった、また新作だ! 何のゲーム?」

「シミュレーションだよ。アイテムを拾って合成して売るっていう、ありがちなやつ。そろそろ、そういうのを作らないと、来月の家賃がやばいから」

「郵便局、クビになったもんね、ククク」手のひらで口を隠して、いやらしく笑うエレGY。

「そうだね、クビになったね。ククク」と、僕も同じ真似をしてみせる。平日の昼間のファーストフード店で、男と女が「ククク」と怪しげに笑い合っている姿は、さぞかし滑稽こっけいに見えるだろう。

「タイトル、なんていうの?」

「え、あ、タイトルまだ決めてない」

「じゃあ、『ククク物語』にして?」

「駄目だよ、このゲームは大勢にウケないと駄目なんだから」

「ちぇー、じゃあ、またエレGY出して?」

エレGYのためだけに『二人乗り』を作った事の、ほんの少しの後悔を思い出した。

作品を通してエレGY個人に自分を表現することは、もうあまり気がすすまなかった。

そうした作品の中で彼女に語りかける存在は、僕ではなく、ジスカルドの方なのだ。

「駄目駄目、もうエレGYは出さない」と、僕はきっぱり断った。

すると彼女は、予想以上にしゅんとして寂しげな表情を見せた。

視線を僕から逸らし、「そっか」と小さい声で呟いた。

そんなに残念がるとは思っていなかったため、彼女の反応に僕は戸惑った。

続く会話が思い付かず、少しだけ気まずい雰囲気になった。

既に空になっているジュースを飲もうとして、自分が焦っている事を改めて自覚する。

時計を見ると、映画まではまだ少し時間があった。

彼女は少し退屈そうに、店の外を歩く人の流れを眺めていた。

それはエレGYと会うようになって、初めて彼女が僕に見せた態度に違いなかった。

これまで彼女は、一度もつまらなそうにしていた事はなかったし、常に目を輝かせて僕を見ていた。

彼女が僕から視線を逸らしているというだけで、これほどに自分が困惑するとは思いもしなかった。

その時点になって、今日はまだ彼女の手首を確認していないことに気がついた。

ハッとなって、すぐに手を取ろうとしたが、店の外に視線を泳がせている彼女からは、何か気安く触れられないようなバリアを感じた。

いや、それでも、これは話が別だ。嫌がられても傷を確認する必要がある。

風邪のせいで前回会った時から幾らかの日数が空いている。その間に彼女が手首を切った可能性は少なくない。

僕は思い切って彼女の手を取り、手首を裏返させた。

エレGYは突然手首をつかまれて驚いていたが、すぐに僕の目的を理解すると、肩の力を抜いて両手を差し出した。

新しい傷は無かった。

「ない、良かった」

「うん、切ってないし」

その事には安心したが、胸の中で別の不安が残る。

「もうエレGYは出さない」と言った事が、よほど彼女を傷つけてしまったのだろうか。

手首の確認を終えた後も、エレGYからの不穏な空気は漂い続けた。

僕は『二人乗り』というゲームを作ったことを本格的に後悔した。

もしかしたら彼女は今、ジスカルドと僕の差を感じているのかもしれない。

作品を通してでしか、僕を尊敬できない事実に気づいたのかもしれない。

すぐに「やっぱりエレGYをゲーム中にも出すよ」と言えば、この場は彼女も喜ぶだろう。しかしそれは、作品を介さねば僕という男を楽しめないということを、より明確にしてしまうのではないか。

どうやったらこの突然湧いた雰囲気を切り替えられるのか分からず、僕は彼女に「そろそろ出よう」と促した。

彼女は何も言わずに立ち上がって、トレーを片付けた。

映画館のある川崎チネチッタに向かう間、僕もエレGYもあまり言葉を喋らなかった。

何かいい話題はないかと必死に頭を巡らせたが、歩道のタイルの線を足で踏まないように歩くゲームに脳は掛かりっきりだ。

すると、こんな時に限って思い出したくない記憶が蘇った。

前の恋人ユメとは何度もこの道を歩き、映画を観に行った。

「タイルの線を踏んだら負けだよ」僕がそう言うと、ユメも本気になってそのゲームに参戦してきた。

ユメの浮気が発覚した後も、なんとかユメの心を取り戻そうと、平日でも映画やショッピングに誘い続けた。

ユメと最後にここを通った時も、タイルゲームに誘った。だがユメはさげすむ目で僕を見て「恥ずかしいから止めて」と言った。

「今日、家へ行ってもいい?」と聞くと、「彼が来るから駄目」と言われた。

ユメとはいつ別れたのか、はっきりしない。

気づけば、ユメには僕ではない男がいて、僕はただ取り残された。

ある日、ユメの家へ行くとその男が居た。

僕は靴のまま家の中へ上がり、その男を何発も殴った。

後ろからユメが叫んで止めた。

家から追い出されて、ドア越しに「もう一度やり直して欲しい」と懇願こんがんした。

「ジスカルドになろうと必死じゃん。カズはもうジスカルドにはなれないよ。もう変わっちゃったんだよ」と、ドアの向こうでユメは泣きながら答えた。

映画館に着くと、僕は真っ先にトイレに入って抗不安剤を多量に服用した。

胸の奥に生まれた巨大な喪失感をなんとか押し殺す。

トイレから出てくると、エレGYが不安気な表情で僕を待っていた。

「じすさん、大丈夫?」と、心配そうに聞いてくる。

僕は目を合わさずに「うん」と答えて、彼女の細い指に自分の指を絡ませた。

彼女は明らかにドキリとした様子だったが、僕は静かに手を繫いだまま、彼女をスクリーンのあるホールへと導いた。

その行動がどんな悪い影響を及ぼすのか分からなかったが、そうしないと僕はエレGYを傷つけてしまいそうだった。

ユメとの思い出を散々語った末、僕のことを何も知らないとエレGYをののしって、全てを無茶苦茶にしてしまいそうだった。

だから、僕はエレGYと手を繫いで、そして席に着いた。

映画の内容は、全く覚えていない。

エレGYの手があまりに心地よかったのと、抗不安剤の副作用によって、僕は完全に丸々二時間熟睡してしまったからだ。

目が覚めた後も僕の脳は完全には覚醒せず、しばらくはモヤモヤとした霧に包まれたような気分だった。

エレGYには悪いと思いつつも、意識がはっきりせず、会話をしようという段階にさえ至れない。

「じすさん、むっちゃスウスウ言ってたよ」と、彼女は微笑んで言った。場をなんとかなごませようとしているのが分かる。

」心の中で、うん、そうだよ、と答える。口の動きを伴わせるだけのエネルギーがない。

「大丈夫?」

」うん、大丈夫。

「ねぇ、本当に大丈夫?」

」うん。

「じすさん?」

「もう、大丈夫だよ!!」と、やっと声が出たかと思うと、僕は大声でそう怒鳴ってしまっていた。

エレGYはびっくりした顔をして、「分かった」とだけ小さく呟いた。

すぐに「あ、うん、ごめん、大丈夫だよ、ごめん」と慌てて謝ったが、彼女の顔に笑顔は戻りそうにない。むしろ今にも泣き出しそうな感じだった。

すまない気持ちが膨らんだが、映画館に入る頃から僕の胸奥に発生した巨大な黒い塊は、そんな生やさしい感情は優先するに値しないと、冷たく僕に宣告していた。

電車の中でもほとんど会話を交わさなかったように思う。

というか、まともな記憶がなかった。

大井町駅に着いてホームに降り立った時、僕はふらついて彼女に腕を支えられた。

「触るな」と言ってそれを拒んだ所は憶えている。だがすぐに意識は水面下へと再び沈んでいった。

二人で駅の周りを二時間近くもブラブラと歩いたようだ。

気付けばもう遅い時間だったが、彼女はどうするんだろう、いつ帰るんだろう、ここで何してるんだろう、みたいな疑問が、頭の隅っこでフワフワと浮遊していた。

結局、戸越公園まで自転車を押しながら歩いて来てしまった所で、

「今日泊まってもいい?」と、彼女は言った。