エレGY
CHAPTER 2-4『風邪』
泉 和良 Illustration/huke
「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!
4『風邪』
僕は昔から風邪と縁が深い。
どんなに体調管理に気を配っていても、一年の間に何度も風邪を引く。しかも毎回長引いてなかなか治らない体質ときた。
特に冬の間は慢性的に咳や頭痛に悩まされる。
カレンダーはもう十一月だ。
今年も僕には厳しい季節が訪れたのである。
昨日の帰り道を思い出す。
傘なんか捨てるんじゃなかった……
目が覚めると同時に走った喉の激痛が、そう僕に後悔させた。
一人暮らしの風邪は悲惨なものである。
起き上がるのがやっとのような状態でも、食料や薬などを調達するために外出せねばならず、そのせいで病状は更に悪化する。
ただでさえ休みがちだった碁会所と郵便局のアルバイトへは、これでしばらくは完全に行けなくなるだろう。
僕は丸一日寝込んだ。
夜になって起き出し、下がらない熱に朦朧としながらも近くのコンビニまで買出しに出かけた。雨はまだ降り続いていた。
簡単な食事を取り薬を飲むと、すぐにまた倒れるようにして眠りに落ちた。
喉の痛み、発熱、頭痛、関節の痛みとお馴染みの試練を乗り越えながら、その次の日もやはり寝込んだ。
もはや慣れっこな過程ではあったが、苦しみの程は優しくない。
三日目にようやく回復の兆しが見えた。
エレGYからの十二通ものメールに気づいたのは、その日の昼前だ。
いつの間にか切れていた携帯のバッテリーを充電しなおし、画面を見て僕は慌てた。
その時まで、メールを確認する事をすっかり忘れてしまっていたのだ。
彼女は僕が風邪で寝込んでいた事を知らない。
彼女と別れた日と今日を除けば、連絡を取っていない時間は二日だったが、僕の脳はあっという間に彼女が手首を切るイメージを連想した。
自分の手抜かりを責めた。
すぐに一番最初に届いたメールへとカーソルを合わせ、順番に開いていく。
エレGYからの十二通のメールは、まるで万華鏡のように一通一通が変化しながら心境を伝えていた。
最後のメールはほんの三十分前に届いたものだ。更にそれには、いつものマクドナルドの店内が写された画像が添付されていた。
彼女は今、あのマクドナルドのあの席に居るのだ。
僕は焦りながら身支度をし、自転車に飛び乗った。
携帯で彼女に連絡を入れた方が早いのは分かっていたが、今すぐ向かってその場で安心させたかった。
三日前にマクドナルドの前で別れた時の、寂しそうに駅へと帰っていく彼女の後ろ姿を思い出し、胸が詰まる。
もし手首に新しい傷があったらおまえのせいだぞ……自責の念がペダルを全速力で漕がせた。
降ったり止んだりを繰り返していた雨は、早朝の小雨を最後にすっかりあがっていた。
通り過ぎる家の屋根や電線に残った雨粒が、太陽の光を反射してきらきらと躍っていた。
空気は冷たかったが、澄んだ空が病み上がりの体に力を与えてくれるようだ。
更にペダルを漕いだ。
彼女に会いたい。
自転車を降りると、それまで意識していなかった鼻水と咳が一気に襲ってきた。
悲鳴をあげる気管を拳で叩いて抑えつけ、窓越しに座る彼女を見た。
姿を見、とりあえず胸を撫で下ろす。
エレGYはいつもの席に座っていて、僕にはまだ気づいていなかった。
急いで店内へ入ろうとした時、携帯の着信音が鳴った。
きっと彼女が今送ったメールだ。
まだ息が落ち着かず両肩を上下させながらも、僕は立ち止まってメールを開いた。
入り口の自動ドアがなかなか開かなかった。
店に飛び込むと一直線に左奥の席に走った。
濡れた床に転びそうになる。
店内の様子を気にしている余裕はなかったが、昼近くでいくらか混んでいたのだろう。窓際の席へ辿り着くまでに、二、三人と擦れ違ってぶつかりそうになった。
やっと席一つ分まで近付いた時、エレGYは携帯から顔を上げて、こちらを見た。
目も鼻も赤い。
涙でぐしゃぐしゃ。
席に座って息を整えた。
メールにずっと気づいていなかった言い訳をしようと思っていたが、彼女の顔を見ると言葉が飛んだ。
「じすさん……だ」
エレGYが泣きながら笑った。
僕は息を切らせながら「へへ」と、少し照れて笑い返した。
テーブルに落ちた彼女の涙を見やり、すまない気持ちで胸が満ちる。
はっと思い出して、彼女の手を摑むと、テーブルの上に乗せて袖をまくった。
古い傷跡だけが白い手首に模様を描いていた。
「良かった、切ってない」と、僕が溜め息を漏らすと、「泣くので精一杯だったよ?」と彼女はにっこりして言った。
その表情を見て更に溜め息が出る。
僕は背もたれに深く身を委ね、張り詰めていた気を解放させた。
すると安心したせいか、またもや気管が暴れだして咳き込んだ。
「大丈夫? じすさん」
「ごめん、僕も風邪引いちゃってさ。寝込んでたら、いつの間にか携帯の電池切れてて……」と、ようやく説明して「心配かけて、本当にごめんなさい」と謝った。
「わあ。どうしよっ、ごめんなさい」と何故か彼女も謝った。彼女は途端に慌て出し、鞄の中をゴソゴソと搔き回し始めた。
「私が風邪移しちゃったんだ……。あああ……私バカだなっ」
「えっ、いやっ、違うんだ。そうじゃないよ」
「絶対私だよっ、じすさん元気だったもん。本当にごめんなさい……、あああ」
彼女は尚も動揺しながら鞄を弄り、「あったっ」と言って風邪薬とのど飴を取り出した。
「これ、私の薬。じすさん薬飲んでる? 飲んでなかったら……」
「薬は飲んでるからっ。いや違うんだよ。雨で濡れて勝手に風邪引いただけ。完全に自分のせい。君のせいじゃないから」落ち着きなく薬を差し出す彼女の手を遮って言う。
「でも私風邪引いてたし、移した可能性も捨てきれないでしょ? 私がいけないんだ……」
彼女はのど飴の包装紙を剝いて、「これ今すぐ舐めた方がいいよ」と、僕の口の中に強引に押し込んできた。
「この薬も持って帰って。今あるのが無くなったら買いに行くのたいへんだし。これとても良く効くから」
「君の分が無くなるだろ。僕は家にちゃんとあるからさ」
「私は大丈夫なの。熱は?」
彼女は立ち上がって僕の額に手を当てた。抵抗しようとして止める。彼女の気が済むまでじっとしているのが無難だ。
「うーん……ちょっとあるよ? ああ、じすさん、待ってて。私オレンジジュース注文してくる」
「あっ、おい。涙……」
止める前にカウンターの方へ駆けて行ってしまった。
まだ顔には涙の跡が残っているのに、そんな顔で注文したら店員がびっくりするぞ……
「店員のお兄さんに大丈夫ですかって言われちゃった。あはは」
数分後、オレンジジュースを持って戻ってきた彼女は、照れながら笑った。
「ありがとう」と礼を言って、ジュースを飲む。口にはまだのど飴が入っていたが気にせず飲んだ。彼女が注文してきてくれたというだけで、特別なまじないでも掛かっているような気がして、美味しい味がした。
「あーひどい顔だ」
手鏡を見ながら彼女が言った。目元をハンカチで何度も拭っている。
泣いたせいなのか、恥ずかしさのせいなのか、彼女の頰はまだ少し赤い。
「でも良かった……。じすさんとまた会えて……」
「はは、良かったね」
「うん」彼女は小さく頷いた。
「メールに書いてたけどさ……、中学生の時から知ってたの? アンディー・メンテの事」
「うん、知ってた。雑誌で見たの。最初は絵を見て、ちょっと他のと違う感じだったからやってみて……、そしたら面白くって。その後も、これ面白いなーって思って見たら、どれもみんなアンディー・メンテって書いてて。うわ、すごい、アンディー・メンテって何だろうって」
僕は中学生だった頃のエレGYを頭の中で想像してみた。
学校から帰ってきた彼女が、フリーウェア雑誌の中から僕のゲームを見つけ出し、夢中で遊ぶ……。そんな光景を思い描くと、つい嬉しくなって笑ってしまう。
「中学生でか……、他に趣味とか無かったの?」
「何言ってんの? 趣味とかそういうんじゃないの! アンディー・メンテは人生だよ?」
「なんだそりゃっ」
「私の全てだったんだから……」
そう言うと、彼女は懐かしそうな顔をして、視線をテーブルの上に落とした。
彼女の想い出の中にあるジスカルドは、どんな風に描かれて来たのだろう。
「私の全てだった」などと言い切れる物は多くない。
彼女の想い出を、失望に変えさせてはいけないという責任が僕にはある。
だが、現実を目の前にすれば、幻影などやがては薄れていくものだ。
実際に会ってみてどうだった? イメージと違ってたでしょ? と問い詰めたかったが、彼女は未だ、想い出の延長線上に立つジスカルドを僕に見ているに違いないだろう。
「じすさん、新作まだ?」
「え?」
不安な気持ちが顔に出てしまったのか、エレGYはそう言って話題を変えてきた。
「最近、アンディー・メンテのサイト、全然更新ないよ? 何か作ってるの?」
「いや……、何も作ってないよ。エレGYってやつの事で頭がいっぱいでさ」
僕は冗談ぽく本音を言った。
「ばーか」
エレGYの顔からはすっかり涙の跡も消えていた。彼女は肩をすくめて恥ずかしそうにそう言った。
暗くなる前に彼女と別れた。
家に戻ると、待ってましたとばかりに熱がぶり返した。
布団に倒れこむ前に、忘れずにちゃんと携帯を充電器にセットする。
僕は再び、風邪との戦いの眠りへと旅立った。
×
その夜、エレGYは夢の中に何度も現れた。
ケタケタと笑ってはしゃぐエレGY。ちょっとエッチな雰囲気のエレGY。そこで終わっていればいいものを、最後に現れたエレGYは、ついに魔法から覚め、本当の僕に落胆して去っていってしまった。
……これは単なる夢じゃない。いずれそうなるかもしれない可能性の一つだ。
今までのファン同様に彼女もまた、やがて訪れる幻想の終わりを迎え、いずれ僕への興味を失ってしまう。
思うだけでいたたまれないが、かと言って対策も無く。
魔法が解けるのをただヒヤヒヤとしながら待つのみ。
どうすればいいのか分からなかった。
愚かな悩みだ。
こんな悩みを抱くやつはきっとそんなにいない。
そもそもファンとは作品を通して作者を愛するものだ。
作者を現実以上に想像するのもファンとしての楽しみの一つだし、ファンとはそういうものである。しかも僕の場合は、それを更に自ら助長してきた。
つまり、ファンとそれ以上の関係になろうとする事自体が間違っている。
前にも言ったはずだ、自重すべきだと。
ファンとの間には一定の距離を保ち、プライベートな自分は見せず、あくまで作品を通してのみ接するべきなのだ。
ああああ、しかし僕は……もうエレGYと出会ってしまった。そして好きになってしまったのだ……
僕の中で、破綻していた。
既に打った手を悔やんでも仕方がないが、次に打つべき簡明な一手も見つからない。
次の日、僕がすっかり鬱な気分で朝を迎えた事は言うまでもない。