エレGY
CHAPTER 1-5『マック邂逅』
泉 和良 Illustration/huke
「最前線」のフィクションズ。破天荒に加速する“運命の恋”を天性のリズム感で瑞々しく描ききった泉和良の記念碑的デビュー作が、hukeの絵筆による唯一無二の色彩とともに「最前線」に堂々登場! 「最前線」のフィクションズページにて“期間無制限”で“完全公開中”!
5『マック邂逅』
アラームは昼の十二時三十分にセットしたはずなのに、目が覚めたのは朝の八時だった。
二時間ゲームを作ったが、そわそわしてずっと落ち着かない。
ネットを徘徊するも、胸の高鳴りを静められる物は何も見つからなかった。
時計を見るとまだ十一時だった。
待ち合わせは三時だが、彼女なら朝からでも待っていそうだな、と一人で笑った。
午前中の外の空気が好きだ。自転車で大井町まで散歩するのは悪くない。
どこかで丼ものでも食べて、碁会所に行って、そんな事をしてるうちにすぐ三時になるだろう。
僕はシャワーを浴びて着替え、外へ出た。
外界は少し肌寒い空気と完璧な青空によって構成されていた。
アパートの前の道では、課外授業中の小学生達が大移動の真っ最中だ。子供達の黄色い帽子をかきわけて、自転車で大井町方面を目指す。戸越にある僕のアパートから大井町までは自転車で十五分くらいだ。
途中、戸越と大井町の中間地点にある下神明駅前のコンビニで、包帯とバンソウコウを買った。
大井町まで到達すると、そのまま近くの食事処にでも入るつもりだったが、一応マクドナルドの方へと確認しに行った。あんな突飛なメールを書く彼女のことだ。もしかしたら本当に朝から来て待っているかもしれないと不安に思ったのだ。
マクドナルドの赤い看板の色が目に入ると、両手がピリピリするのを感じた。
約束の窓際の席は、店外からでもはっきりと確認できる。
自転車に乗ったまま十メートルの距離まで近づいて、僕の心臓は一気に高鳴った。
……いた。
真っ黒い前髪で目の隠れた女子高生が、真っ赤なマフラーに包まれて座っていた。
携帯を一心不乱に見ている姿は、普通の女子高生となんら変わり無かったが、テーブルの上に山と積まれたハンバーガーと、無造作に散らかる見覚えのあるCDケースが、彼女がエレGYである事を証明していた。
ふっと彼女が、こちらを見た。
彼女の照準はすぐに僕を捕捉した。
エレGYはさわやかに笑って会釈をした。
一瞬、何故僕が僕であると分かったのか混乱したが、僕の姿などいくらでもネットに流出しているのを思い出した。ゲーム制作現場の映像や、僕本人が出演している映像作品なども、アンディー・メンテにはファンを楽しませるためにアップロードされている。
僕は会釈をし返した。
ガラス越しに僕を見つめる彼女の目の前に自転車を止めて、店内へと入った。
すぐに席には向かわず、まずカウンターへ行って注文をする。
彼女の方には一瞥もくれない。
カウンター前から彼女のいる席は見えなかった。
おそらく彼女は、僕がトレーを持って席へとやって来るまでの時間を永遠のように感じるだろう。
ちょっぴりいたずら心が出る。
会計を済ませ、ポテトとストロベリーシェイクの載ったトレーを受け取った後も、僕はしばらくその場を動かなかった。
こういう状況で相手や自分をじらすのが好きだった。
飛躍した幻想など、あっという間に覚めてしまう事を僕は知っている。
これまでも何度か、僕のゲームのファンである女性と直接会う機会があったが、誰もが幻想で僕を見ていた。
そして幾らかの会話を交わしていくうち、彼女達は現実とのギャップを上手く埋められず、僕に対する情熱から冷めていくのだ。
しかし、それがあっという間に覚めるものだとしても、魔法が効果しているうちは、僕はファン達にとっての王子様に違いない。
こうして席へ着くまでの時間をスローにする事で、その「あっという間」をほんの少しだけ延長させる事は可能である。
僕はアイドルでもスターでも、もちろん王子様でも無い。
ネット上でゲームを制作し公開しているだけの男。フリーウェアゲーム作家という名の貧乏人だ。
彼女の幻想に見合うだけの実体が足りない事は分かっている。
だからせめて、彼女が幻想を抱いている間だけでも、その状況を楽しみたかった。
僕は深呼吸をし、ゆっくりと窓際の席を目指した。
彼女は俯いて座っており、近づく僕をチラチラと見ては気にしている。
量のある髪が、精霊を隠す森の木々や葉のように彼女の顔を包んでいる。
その狭間から覗く上目遣いの瞳と目が合い、咄嗟に二人して目を逸らした。
二人の間を漂う微妙な空気とは裏腹に、テーブルの上の惨状には思わず笑いが込み上げてきてしまう。
山と積まれたハンバーガーは本当に五十個くらいありそうだ。
しかしそれでも僕は平然と席につき、上着を脱ぎながら「おはよう」と告げた。
彼女の王子様は、きっとハンバーガー五十個くらいで、はしゃいだりはしないのだ。
彼女は慌てながらも、テーブルの上に散らばったハンバーガーやCDを脇に寄せて、僕のトレーのスペースを確保してくれた。
彼女の袖から白い手首が覗く。
そこにしっかりと刻まれた生々しい傷たちを、僕は気づかれないように確認した。
傷は両手首にあった。
皮膚が赤紫ににじみ、まだ癒え切っていない。力を加えれば簡単に血が噴出しそうだ。
それ以外に、いくつかの古い傷跡も各所に見えた。
「じすさんきた。えと、じすさん、はじ、はじめまして。ごめんなさい。うわーどうしよ。まじやべえ」
耳を赤くさせて嬉しそうに困惑する彼女が、後どれくらいで幻想から覚めてしまうのかを考えると少しだけ寂しくなった。
「目を覚ませよ」と言って彼女の失望を早めたい衝動に駆られたが、そんな事をしても誰も得をしない。
代わりに「じすさん来たよ」となだめるように優しく言った。
「うん、来たね、ほんとに来た……、ありがとう」彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
近くで改めて見ると、彼女は美しかった。
黒い前髪に混じるどこか深遠な感じの目。白い皮膚にあどけなさを散らすそばかす。それらとは真逆に、年齢とは不相応な艶やかさを放つ唇。化粧はほとんどしていない。純粋な黒と白とピンク。美しさの三原色。僕の印象には、そこに手首の赤紫が加わる。
彼女は興奮したままだった。
「おちつけ、女子高生」
そう言って僕は笑いながら、コンビニ袋からバンソウコウを取り出した。
せわしない彼女の両手首を捕まえて、まだ癒えきっていない傷口にそっと貼った。
彼女はさまざまな弁明のような事を呟いて、目をまん丸にして泣いた。