ドッペルゲンガーの恋人
3
唐辺葉介 Illustration/シライシユウコ
亡くした恋人のすべての記憶を、僕はクローンに植え付けた。新しく誕生した「恋人」との暮らしが、僕と彼女を追い詰めていくとは思いもよらずに――。まさに待望、唐辺葉介の復活作は、胸打つSFラブストーリー。
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閉じたまぶたの上から光が当てられて、血液の赤が視界の全体を覆い尽くしている。
またカーテンを閉め忘れたまま眠ってしまったのか。窓から差し込む光が顔に直射しているに違いない。そして手探りで枕の上の空間を探ってみたのだが、本来ならその辺りにカーテンが垂れ下がっているはずなのに、指先に触れるものがない。カーテンどころか、壁にすら当たらない。
どうしたのだろう? 顔をしかめつつまぶたをこじ開けてみると、どうも思っていたのと様子が違った。光の源は頭上ではなく真正面にあり、どうもこれは、ライトのようだ。
「あ」
と、光の向こうから声がした。これが、こんな立派なライトを用意して、僕にいやがらせをしている犯人の声なのだろうか? 瞳孔が縮小しきってしまって、光以外の部分がよく見えぬ。目を閉じて、まぶたの上からごしごしとこすっていると、何者かによってライトの明かりが落とされた。
「ハジ君」
誰かが僕の名を呼ぶ。
もう一度まぶたを開くと、僕の横たわるベッドを取り囲むように白衣の人々が立っていた。彼らはみな僕の顔をじっと見つめている。そして彼らの背後には様々な電子機器が並んでいた。ベッド脇にも計器が並び、それは僕の体とコードで繫がれ、僕の脈拍数や脳波をモニターに表示していた。
もちろんここは僕の部屋ではない。研究室のこの部屋で、研究員たちに見守られながら目を覚ます、この場面を僕はよく知っている。
なるほどこれはそういうことかと、思い出した。確かにこれは、自然な目覚めだ。これまで何度も訪れたありふれた朝と何ら変わることのない、当たり前の目覚めだ。しかし現実には、全てが変わっているのだろう。
白衣の人々は、皆僕の見知った人物だった。ナグモさんがボードを胸に抱え、目を丸くしている。どうしてそんなに驚いているのだろう? 何か、変なところでもあるのだろうか。そして、その隣のタナイさんは目をらんらんと輝かせ、ニヤニヤとしている。あの人は本当に、どんな出来事に対しても面白がっている。あれも一種の才能なのだろう。
それから、ワタベさん、トウシマさん、カドイさん、昔の実験の時もいたメンツに、今回新しく加わったメンバーも何人かいる。どうやら知らない顔もあるようだ。僕が寝ている間に新しく入ったのだろう。まさか、その部分の記憶が抜け落ちているなんてことはないはずだが。まあ、多少欠落があったとしても、さほど重要ではないだろう。僕が僕であるのは間違いない。
そして今回の責任者であるオオシマ博士とナカノ博士は、僕の右手の側に寄り添うように立ち、横合いから僕の顔をのぞき込むようにしていた。
「ハジ君」
オオシマ博士はそう口を開いた。さっき声をかけたのも彼なのだろう。
「……私の言葉が、理解出来るかい?」
その声は緊張で固くなっている。
「大丈夫です。理解出来ますよ。何ひとつ違和感のない目覚めです」
そう言った自分の声が若干以前と違っている。おそらく慧の時と同じような肉体の差異が僕にも存在している筈だし、全く同じというわけにもいかないのだろう。
「あんまり自然すぎて、ちょっと信じられないくらいです。本当に今ここにいる僕は、実験によって再生された僕なんですか? まさか僕をからかおうって言うんじゃないですよね。ああそうだ、鏡を見せてくれませんか?」
僕が言うと、女性研究員の誰かが手鏡を渡してくれた。
「どんな感じがする?」
そう尋ねるオオシマ博士が若干緊張しているのは、慧の件の報告を受けているからだろうか。
彼女は目覚めたその瞬間、事態を理解すると取り乱した。しかし僕は特別興奮したりはしない。するはずがない。自分が全てを仕組んだのだというのはよく理解している。
鏡に映っているのは、十代後半といったところの少年だった。高校の卒業アルバムに写っていた僕は、確かこんな顔つきをしていたはずだ。ただし、あの時のようにニキビは一つもなく、すんなりとした白い肌をしている。
実験をなされた後なのは、どうやら間違いがなさそうだ。鏡を持っている手を開いてみると、手のひらのしわや指紋も、見慣れたものではなくなっている。それから、手首のところにあったほくろが見当たらなくなっているのにも気づいた。それでも指や手のひらの形は以前と同じである。じっと見ていると、おかしな気分になって来る。
なるほど、これが慧の言っていた違和感か。確かに彼女が言っていたような、夢のなかの世界に目覚めたような気分は少しあるが、僕はそれほど深刻なものだとは感じなかった。人によって受け取り方は様々なのだろう。むしろ僕は、なんとも言えないさわやかな気分だった。
普段からよく学校にいる夢を見る。高校生や大学生の時もあるが、一番多いのは中学生時代の夢だ。そのなかで僕は、友達と会話をしたり、翌日のテストの準備不足に悩んだりして、青春というものはいつまでも終わることがないと信じている。この夢から醒めると、年相応の責任と老いを背負った自分に再会し、もう自由な生命力に満ちたあの時代には二度と戻れないのだと、絶望的に戻れないのだと、心底寂しくなるのだけれど、ちょうどいまはその逆の気分だ。
少年時代は想像でしかなかった二十歳を過ぎ、さらに三十歳を迎え、ろくに成長しないまま無駄に年老いてしまった悪い夢から目が覚めたような、やっと本来の若い自分に戻ったような、最近ついぞ味わわなくなった、非常にいい気分だ。
僕は鏡を返し、二人の博士の方を向いた。
「わがままを聞いていただいて、ありがとうございます。おかげで、まるで生まれ変わったような気分です」
言うと、二人は愛想笑いのような曖昧な表情を浮かべた。
僕が研究に参加するために提示した条件というのは、次の実験の素材に自分の体細胞と記憶を使用するというものだった。ナグモさんは気に入らないようだったが、上役は僕の提案を気に入ってくれて、すぐに採用された。そりゃあ、何も知らない一般人に一から説明して協力させるよりも、僕のようないろいろな意味で実験と密接な関係がある人間がクローンになった方が都合がよいというものだ。そうして実験は順調に進められ、めでたく僕は研究所で目を覚ますことが出来た。
僕は最初にどうしても確認しておきたいことがあった。目が覚めた翌日に、タナイさんに車椅子を押して貰って、B−102号室に足を踏み入れた。そこに脳神経走査装置が設置してある。CTスキャンに似た大がかりな機械で、その装置一つだけで広い部屋が完全に占領されていた。僕はその機械を見上げつつ、これが僕の脳のデータを読み取ったのだと、嘆息した。
慧の時からいくつか改良は加えられてはいたが、形状はさほど変わらない。巨大なカタツムリの殻のような形をしていて、その口にベッドに横たわる被験者の頭を突っ込むと、あとは装置が勝手にやってくれる。このカタツムリの中で、被験者はこれまでに見たことがないような様々な夢を見ると言われている。
僕はどんな夢を見るのだろうかと、そんなことを考えながら装置を眺めたのが、僕の古い肉体での最後の記憶だった。検査衣がスウスウとして、若干肌寒い思いをしたのを記憶している。
今同じ場所から見上げると、実験の前よりもずっとその装置が親しいものに感じられた。僕はこの機械を通って今の肉体に移されたのだ。いわばこれは、僕の産道のようなものである。これからの僕の人生は、この装置の発展と繁栄のために費やされるのだ。
そうして検査とリハビリ漬けの毎日がはじまる。慧と同じように一カ月ほど研究所にとどまって、実験データの収集と、生活適応訓練が行われた。訓練は運動機能に関するものが主で、要するにひ弱な体に人並みの生活が送れるだけの体力をつけるためのものだ。これが存外にくたびれるもので、終わった後はいつもへとへとになる。慧はよく文句一つ言わずに耐えたと思う。僕は四六時中愚痴をこぼしていた。
またあるときは、タナイさんがカメラを持って部屋にやって来たことがあった。記録フィルムを撮影するのだと言う。タナイさんがカメラを構え、僕の生活風景や、インタビュー形式での質疑応答を、映像データに収めるのだそうだ。そして諮問機関の審査に提出するらしい。
「これで審査に落ちれば実験は次の段階に進めない。責任重大だぞ」
タナイさんは台詞と似合わぬにやけ顔で言った。
映像を作るというのが楽しくてたまらないらしく、撮影がはじまると映画監督気分で演出などをあれこれと指示する。僕の台詞自体をタナイさんが作りかえることもあり、資料としてそれは正確性に欠くのではないかと異議を唱えると、上の連中に意見を通すためには多少の演出も必要だと、タナイさんは譲らない。結局彼の演技指導通りに振る舞うこととなった。
結局、素人の猿芝居を収めた、まるで高校生の自主制作映画のようなちぐはぐな映像が出来上がったと思う。心配でたまらなかったが、結局は諮問機関は僕らの研究の有効性を確認し、次の段階へ進めることが決定された。僕が想像していたよりもいい加減な機関なのかもしれない。それとも僕らが専門家として過剰に信頼されているのか。
心理面のサポートは、慧の実験に引き続いてカワゴエ先生が担当してくれている。彼はクローン技術に批判的な人間だが、経営している病院の活動上、拒否することも出来ないのだろう。と、僕は思っていたのだが、どうもそれだけでもないようだ。
「確かに現在のクローン技術には賛成出来ませんが、やり方があまりに乱暴だと言っているだけで、全てを批判しているわけではないのです」
定期診察の後に雑談となり、僕がふと口にした言葉に彼はそう反応した。
「そもそも、私は毎日クローンで生まれた人々を相手にしているんですよ? 彼らの多くは、自分は悪魔の技術で生まれてしまった、見捨てられたいびつな人間だとかたくなに思い込んでいますが、私の見るところ、ちっともそんなことはありません。他の人々と同じように豊かな精神や人間性を持った、素晴らしい人々なんですよ。誰とも一言も口を利かず、部屋の隅で膝を抱えて目ばかりを光らせていた子が、ある日笑顔で小さな花を差し出してくれたときは、彼が生まれてそこに存在することに感謝したくなります。クローン技術が素晴らしいものだとは言いませんが、しかしそれによってその子が生まれたのも事実なんです。どうして全面否定など出来るでしょうか?」
「ああなるほど、先生はロマンチストだったんですね」
僕が頷くと、彼は眉間にしわを寄せて、
「あなたたちが即物的すぎるだけです」
と断言した。
僕はどちらかというと自分をロマンチストだと感じていたが、別段逆らうような件でもないので黙って頷いていた。
患者と精神科医という関係で彼と関わり合ううちに、わりと好きになっている。なんだかんだで謹直な人なのだ。仕事にも手を抜かない。彼との雑談のなかで、世間に存在する他の多くのクローン人間について知ることが出来た。今の僕にとってその話題は、自分の人生そのものの参考にもなる。犯罪によって生まれた彼らと、自分から望み、そして記憶を引き継いだ自分との間には明白な違いがあるのも、よく理解出来た。彼らはクローンという技術の否定的な側面から生まれたのだろうけれど、僕は肯定するために生まれて来たのだ。自分の立ち位置が鮮明になるということは、生活を非常に気楽なものにしてくれる。
そして研究所生活が終わりに近づいたある日、僕はこのカワゴエ先生に、もう一つ重要なことを尋ねた。
「木原慧は、彼女は今、どうしているんですか?」
すると、彼はペンの尻で自分の額をかいた。
「言えませんか? まだ担当なさっているはずですが」
「そうです。私が担当しています。しかし、この口から患者の情報を他の患者に漏らすのは正しい行為ではないでしょうね」
「僕にはそれを聞くに充分な職務的権限があると思いますが」
「それならば、調べればすぐにわかることでしょう? 報告書は提出していますから。そちらで調べて下さい。私からはそれ以上言えません。手続きを踏んだ上での正式な質問なら応じますが。まあ、元気にやっているようですよ」
カワゴエ先生はおどけて肩をすくめる。
「そうですか」
想定された返答とは言え、僕はいくらか失望した。口幅ったいことを言ってはいたが、もし彼が医師として、僕と慧が接近することに肯定的であるならば、情報を伝えるのをためらいはしなかったろう。要するに彼は、僕に近づいて欲しくないのだ。それを裏付けるように、彼はこう付け足した。
「もし接触を持とうと思われているのなら、考え直すことをおすすめしますがね。職務権限があると言われればそれまでですが」
そうして、研究所を出る日がやって来た。
新しい免許証とIDチップを受け取ると、幾重にも施された厳重なセキュリティを解除して、門を出る。トミタ先生とキドさんの件があったので、僕たちの研究は以前の場所とは少し離れた施設に移転していた。ここは戦時中は軍事関係の研究を行っていた施設だそうで、設計段階からセキュリティ性を念頭に置いて建設されているらしい。僕らのやっている研究もトップシークレットであり、門の付近は自動小銃を背負った兵隊が配置されている。その前を通り過ぎる時に目礼をすると、彼らも同じように礼を返した。
与えられたマンションへの道を歩きながら、いよいよ僕の新しい生活がはじまるのだと胸が高鳴った。やるべきことは多く、のんびり休養するつもりもない。新居の環境を整えるのもそこそこに、僕は二日後から研究所に出勤し、働きはじめた。そして次の水曜日に休みを取った。それは、その日が慧の大学が創立記念日で休日だという情報を手に入れていたからである。
慧であることをやめた彼女は下の名前だけ変えて、書類上は木原慧の妹として暮らしているらしい。アルバイトをしながら学校へ通い、勉強をしなおしているそうだ。その辺りが彼女なりに折り合いをつけられるラインだったのだろう。両親もそれを受け入れて、家族として彼女の生活を支援していると、報告書に書いてあるのを見て確認している。
カワゴエ先生は忠告をしてくれたが、考え直すつもりはない。僕は彼女に会うつもりだった。休暇日の前日、事務所で帰り支度をしていると、タナイさんが近づいて来る。
「やあ、ファウスト博士。いよいよきみのグレートヒェンに会いに行くのかい?」
やに下がってそう言った。
「なんですかそれは」
「いい譬えだろう? 若返って真実の愛を探す旅に出たきみにぴったりじゃないか。そして、会ったところできみは叫ぶんだ。時よ止まれ、汝は美しい! なんてね。いい話じゃないか。メフィストフェレスにもだまされてみるもんだね。へっへっへ」
「馬鹿馬鹿しい、そんなんじゃありませんよ。他に用がないのなら、帰りますよ」
「慧ちゃんによろしくな。あっ、あと、そうだ! ちょっと待った!」
タナイさんは、研究室じゅうの人間が振り返るほどの大声で僕を呼び止める。
「ハジちゃんのことを知ってるかい? いや、きみのことじゃなくて、きみが目覚めるまでここにいた方のハジちゃんだよ。辞めてからずっと連絡がつかなくてね。電話も繫がらないんだ。きみなら知ってるんじゃないかと思ってさ。そうか、知らないか。どこへ行っちゃったんだろうなあ……。なんだか、心配だなあ……」
タナイさんはそう言ってから、エヘヘと笑った。
そして水曜日が訪れる。よく晴れて柔らかい風の吹く、過ごしやすい日だった。慧の住む街まで、僕のマンションから電車で四十五分。駅を出てからは二十分くらいの徒歩で到着することになっている。
端末のGPSを頼りにキョロキョロしながら道を進む。どこにでもあるような平凡な住宅地で、野良犬とホームレスがのそのそと歩いていた。なんとか目的地のすぐ近くまでやって来たのはいいが、道が入り組んでいて彼女のアパートの正確な位置がわからない。端末を片手に行ったり来たりしていると、
「おい、キミ」
パトカーが停まって歩道の僕に呼びかけた。
「どこの学校だ? 平日だぞ」
見ると助手席に座った若い警官が険しい顔をしている。僕の服装が野暮ったいのがよくないのか、キョロキョロ辺りを窺いながら歩いていたのがいけないのか、どうも家出少年か何かだと思われたようだ。
IDを渡すまで、成人だと言っても信じて貰えなかった。登録された僕の年齢と肩書きに、二人の警官は驚きを隠せない。確か登録上は以前の年齢に目覚めてからの時間を足したものになっていたんだっけ。登録年齢は見かけと一致させた方がよいのかもしれない。
僕の生体認証がIDのデータと一致すると、警官は呆然としながらもそれ以上は疑わなかった。世の中には管理システムの厳密性を批判する人もいるようだが、こういう場合はありがたい。データ上に問題がなければ、目にしたものがどんなに不自然でも大抵信じてくれる。
ついでだから警官からアパートの場所を聞き、そうして僕はようやくその建物の前にたどり着くことが出来た。手入れが行き届いてはいるが、そろそろ古色が隠せなくなって来たアパートで、鉄骨は錆びの上にペンキを塗り重ねられて火傷のようになっていた。
ここの二階の突き当たりに、彼女は住んでいる。そっと窺ってもさすがにこの距離では物音が聞こえない。表にまわると、彼女が住んでいる部屋のベランダに、バスタオルやハンカチが洗濯ばさみに吊られ風に揺れているのが見えた。ファンタジーのかけらもない、やけに実用的なデザインのタオルとハンカチを使っているものだ。
いまあの部屋にいるのだろうか。もうアルバイトに行っているのだろうか。それとも学校の友人と遊んでいるのかもしれない。中身は大分上だが黙っていれば同年代にしか見えないはずだものな。あるいは、相変わらずクローンである自分の身を気にして、休日は一人で家に閉じこもっているのだろうか。そうだとしたら、会えて嬉しいが、残念でもあり、心情的には複雑だ。
ぼうっと見上げていると、アパートの一階から出てきた若者がうろんくさげに僕を見る。ここにずっと立っていたらまた警察を呼ばれてしまう。僕は何気なく会釈をしてから、階段を上る。カンカンと、金属製の外階段は懐かしい音を立てる。
木原と書かれたプレートが貼り付けられたドアの前に立つと、さすがに緊張して息苦しくなった。
人差し指でそっとインターフォンのボタンを押す。押した間だけブザーが鳴る古くさいインターフォンで、僕はすっかりチャイムだと思い込んでチョンと小さく押してしまったものだから、蟬の断末魔のような短い音が鳴った。これでは気づかないかもしれぬと、改めてボタンを押し、今度は充分な時間それを押さえ、部屋の中でガタリと物音がするのを聞いてから離した。
『はい、どなたですか?』
ドアの横のスピーカーから、かつて毎日耳にしていた声が聞こえる。それに向かって僕はハジですと告げた。
『え……』
インターフォンの向こうで彼女は絶句する。
「ちょっと、ドアを開けて貰えませんか?」
ややあって、キイと音を立ててドアが開かれる。そしてその隙間から、おそるおそるこちらを覗く彼女の姿が見えた。
短かった髪が伸び、後ろで結んでいた。透き通るように白かった肌が、人並みに日に焼けて健康的な色になっている。無地のTシャツとデニムのパンツ。化粧っ気もなく、まるでプロレタリア文学のようないでたちをしている。
「やあ」と僕が軽く手を挙げると、「もしかして、ユウジさんの、親戚のかたですか?」と彼女は怪訝な表情で尋ねた。
「違うよ」
「じゃあ、あなたは?」
「ハジユウジ本人、というか、そのクローンだよ。きみが木原慧のクローンであるように」
僕は照れ隠しに頭を搔いた。すると彼女は目を大きく見開いて絶句する。
「大分若いけれど、顔つきはそっくりだろう? そして頭の中にも彼が入ってる。きみとそっくり同じなんだよ」
彼女は半開きのドアの向こうから、ぽかんと僕の顔を見ている。
「つまり僕は、きみと同じ世界に足を踏み入れたんだ。だからこうして挨拶に来た」
「ああ」
慧は大きな声を上げてから、顔をゆがめた。
「……どうして、どうしてそんなことを……」
そうしてわなわなと唇をふるえさせ、目から涙を流した。
泣き止むと彼女は僕を部屋に上げてくれる。部屋には男っ気がなく、僕は内心でこっそり安堵のため息をついた。彼女はそわそわと立ったり座ったりしている。
「落ち着いて座りなよ」
「すみません。面と向かっていると妙な気持ちで落ち着かなくって。初対面なんですけれど、そうでもないような、ユウジさんなんですけれど、そうでもないような……」
彼女はクッションの上に腰を下ろしたが、それでもしっくり来ないようで、視線を僕にやったり外したり、体をゆらゆらと揺らしたり止めたりしている。
そうしてグラスの麦茶を一口すすり、
「さっきは動転してしまって、すみませんでした」
と頭を下げた。
「こちらこそ、急に来てごめん。もう会わないってきみに言われていたのに。いや、正確には僕が言われたわけじゃないのかな? どっちにしろ同じようなものか。でも来ないわけにはいかなかったんだよ。僕のような境遇の人間は、世界を探したってきみしかいないわけだからね」
「……もう一人のユウジさんは、どうしているんですか?」
「どうしているかは知らないけれど、多分、死んだ恋人のことだけを考えてひっそりと暮らしているんだろう。彼は、きみがかつての慧ではないことを理解して、彼女が死んでしまったという事実も受け入れた。彼がそのことを悲しんでくれるから、僕は慧のことを忘れて新しいことが出来る」
「そうですか……」
「だから、誤解しないで欲しい。君は今、ユリと言うんだっけ? ご両親がきみのために考えていた名前のもう一つの候補だって、いつだったか慧さんが言っていたね。きみも覚えているだろう? 僕たちが生まれる前の話だけれど、僕たちは自分の人生で得ていない様々なことがらをよく知っている。世間にも時々現れる、前世の記憶があると主張する人々みたいにね。とにかく今日は、木原慧じゃなくて木原ユリに会いに来たんだよ」
彼女はうつむいたまま返事をしない。やっぱり来るのは不味かったのだろうか。どうやったらうまく僕の考えを伝えられるのか。
考えていると、彼女は唐突に声を荒らげる。
「ああやっぱり、どうやって気持ちを落ち着けたらいいのか、ちっともわかりません!」
そして再び涙をためはじめた瞳で僕を見た。
「どうしてこんなことをしたんですか? クローンとして生まれたって、他人の記憶を与えられたって、そんなの全部偽物で、切ないだけなのに。理解出来ません! 私もあんなに言ったじゃないですか。こんなの、間違ったことだって……」
「きみが泣くことじゃないだろう?」
「だって……」
「僕はね、そんなに気にならないよ。全然平気なんだ。自分でもびっくりするくらい調子がいい。もしかしたら僕は、脳内に詰まったこの記憶と人格が、ハジユウジのものなんかじゃなくて、根も葉もないでたらめのデータだったとしても、さほど違いを感じないのかもしれないね。自分の脳みそに詰まっているのがオガクズでも黄金でも、どっちでもいいような人間なんだよ。だからきみが悩んだようには悩まなかった。それより新しい体験に、嬉しくってたまらない。そういう人間もいるんだ。この実験は、悪いことばかりでもないんだよ」
すると、彼女はぷいとそっぽを向いて、
「私はそうは思えません。こんな研究、再開したのなら、またすぐに中止にして欲しいくらいです」
そんな彼女の昔からちっとも進歩しない子供っぽい言い分と態度が面白くて、うっかり笑ってしまった。彼女はそれをとがめるように僕をにらむ。
「ごめんよ、懐かしくってつい」
「こんな時に笑うだなんて、あんまりです」
「しかしね、前のハジユウジが木原慧の死を認めたように、きみだってそろそろ現実を認めたらどうだい? きみは木原慧の妹ではないし、お母さんがお腹を痛めて産んだ子供でもない。木原慧をコピーしたクローン人間なんだよ。今きみは木原慧の妹ユリとして、十八歳だか十九歳だとか偽って大学生活を送ってるんだっけ? そんな噓の物語を演じながら、こんな部屋で乾いた生活を送ってたってしかたないだろう? そもそも、仮に木原慧の思い出を頭から追い出したところでかわりの何かを与えられるわけじゃないんだし、それなら一通りの知識と経験を持って生きていった方が、単純に得じゃないか」
それだけ言って待ったが、彼女は何も言い返さない。黙って僕の顔を見つめている。
「今日きみに言いたかったのはこれだけだよ。僕はきみには幸せになって欲しいんだ。押しつけがましいと言わないでくれ。研究者としてきみをこの世に生み出した責任は、引退した彼にかわって僕が引き継いでいるつもりだ。彼が最初の実験者の恋人として体験したことを、成果に結びつけてゆくのが僕がここにいる理由の全てなんだよ。そのために僕は生まれたんだ。いまプロジェクトでは政府要人の欲望のいいなりになって、彼らの再生のためだけのくだらない研究をしているけれど、それが一通り終わったら、僕やきみや、これから生まれるだろう多くのクローン人間たちのための活動をしてゆくつもりだ。自然とそうなるだろうけどね。彼らは大きな見落としを一つしているんだ。再生されるのは確かに本人の人格と記憶を受け継いだ人間には違いないが、クローン人間であるというアイデンティティがプラスされている。プロジェクトが成功してお偉いさんがクローン人間にかわってゆけば、次は彼らのための環境が必要になるのだし、そうしたら僕らクローンにとっても住みやすい世の中になるだろうよ」
僕はグラスに残った麦茶を飲み干した。
「ごちそうさま。また会いに来るよ」
彼女はうつむいている。僕はその唇の間から拒絶の言葉が出てこないのを確認してから、席を立つ。想像よりも拒否をされなかった。それだけで僕はすっかり有頂天となり、自然と足取りも軽かった。
研究所では、いよいよ閣僚の再生のための具体的な作業が開始される。
イ34号計画と、スパイ映画のような符丁で呼ばれる今回の計画に、参加者として名簿に名を連ねるのは政府高官たちであり、全閣僚の三〇パーセントほどにあたる。事前に研究所内で想定していたよりもいくらか多い割合で、設備の増設が必要となった。
作業の手順は基本的には僕や慧の場合とかわらない。希望者を一人ずつ研究室に招き、その体細胞と記憶を採取し、そこからクローン体を生成するのだ。僕は研究者兼体験者として、採取に訪れた彼らに説明をするのが主な役割だった。
研究所に訪れた閣僚を、まず僕が出迎える。すると大抵は僕の若すぎる外見に対して怪訝な顔をするが、これが彼らがこれから利用する技術の結果であることを説明すると、それが好意的な驚きに変わった。
採取はおおよそ二日に一人のペースで行われる。脳のデータは記憶装置に保存され、月に一度程度の頻度で、最新のものに更新される。
肉体は、事前に培養液のなかで適当な年齢まで成長させ、カプセルのなかで冷凍睡眠をさせることとなっている。それらは、研究室の最下層にあるひんやりとした部屋に安置され、必要となるその瞬間まで静かに眠り続けるのだ。
作業はつつがなく進行し、全日程が終了した。そして研究所は前人未踏のプロジェクトに挑戦する秘密の実験室から、閣僚たちの肉体と精神を保管、再生する、巨大な孵卵器へと生まれ変わったのであった。
僕は地下室に並んだ銀色のカプセルを眺め、感慨にふけったものだ。このなかで眠るクローン人間たちが目覚め、いま社会で活動している人々に取って代わってゆけば、世の中も見合ったものに変化するに違いない。それを思うと、胸が高鳴らないわけにはいかない。
「世の中は、かわるよ。いろいろな経緯はあったけれど、僕はそれに微力ながらも参加出来たんだ。ユリ、きみもだよ。そして新しく出来上がる社会は、僕らのような新しい人類にとって住みやすいものに違いない」
と、ユリに向かっても何度かそう話した。
彼女はそれを半信半疑の態度で聞いて、そして最後に、
「そんなに都合良くゆくものでしょうかねえ」
と嘆息するのが常だった。
初めてアパートを訪れたあの日以来、彼女とはちょくちょく顔を合わせている。
喫茶店で話し込んだり、映画を観たり、話題になった料理店で食事をしたりした。少し格式のある店などに僕らが外見相応の服装でゆくと、その若さに店員が戸惑ったり、年齢を確認してくるのが面白い。また、彼女の方が若干年上に見えるらしく、よく姉弟とも間違えられた。その彼女が僕に敬語を使っているのも他人の目に不自然に映るようで、そろそろ対等なしゃべり方をしたらどうかと促しても、「それは出来ません」と言下に拒む。学生時代に先輩後輩だったころからの習慣だが、昔からなぜかその点に関しては頑固だ。
「なんだかとても平和な気分だ。こんな状況が自分に訪れるなんて、ちょっと前まで想像もつかなかったよ」
普段はほとんど飲まないアルコールを口にして、僕はすっかり気分がよくなっていた。
「仕事は絶好調で、充実感がある。休みの日にはこうしてきみと過ごし、美味しい食事をとることができる。本当に生まれて来て良かったよ」
すると、ユリは苦笑する。彼女も僕と同じ白ワインを口にしており、頰を赤く染めていた。最初にアパートで出会った時と違って、いまのユリは女らしい服を着て、色っぽい化粧をしている。こっちの方がずっと似合っていると、僕は思ったが、口には出さなかった。
彼女は僕を悪くは思っていなそうだ。僕も、他の可能性は考えられない。
「また一緒に暮らさないか?」
その夜、僕は意を決してそう尋ねると、彼女は考えるそぶりを見せたあとに、「はい」と神妙に頷いた。
こうなれば話は早いもので、さっそく次の日に二人で新しい住まいを探した。不動産屋が四件目に紹介した新築の一戸建てを彼女が気に入ったので、それを買う。そして、それから一カ月後には、二人でユリの実家にも挨拶に行った。ちょうど庭先でお父さんがランニング姿で生け垣を刈っていたので、つかまえて、その場で同棲の報告をする。
「こんなに若い子と暮らすのか? まだほんの子供じゃないか!」
その驚き方が尋常ではなかったので、よく考えてみたら僕がハジユウジだと説明するのを忘れていた。ユリもそれに同時に気がついたらしく、顔を見合わせて二人で笑った。
夜の食卓では、ご両親が揃っているのを見計らい、是非彼女との結婚を許可して欲しいと願い出た。
「二人で話し合って決めました。彼女と同じ境遇なのは僕しかいません。僕しか彼女を幸せに出来ません。僕は誰よりもここにいる女性を愛しています」
僕にしてはかなり無理をした強い口調で断言すると、お父さんは腕を組んだまま、
「確かにそれはその通りだ。これまでのハジ君の行動には、娘への愛を疑う要素が、残念ながら存在しない。納得せざるを得ない」
と、渋々ながら頷いてくれた。それを横で見ていたお母さんとユリは、そろって噴き出した。
僕としてはかなり真剣に話していたつもりだったし、お父さんもそうだろう。それをあんな風に笑うなんて失礼じゃないか。食事が終わってユリと二人きりになってからそう愚痴ると、
「すみません。でも、ユウジさんの行動を振り返ってみると、本当に何もかもやりすぎじゃないですか。死んだ恋人のクローンを作り出したり、それにふられたかと思ったら自分がクローンになって現れたり。こんなに一人の女に真顔でからかわれ続ける人も珍しいと思ったら、おかしくって、おかしくって」
言いながら思い出したのか、ユリはもう一度笑った。
それは張本人のきみが言うことじゃないだろうと腹が立ったし、言葉自体への反感もあったが、言われてみると確かにその通りなので反論も出来ない。クスクスといつまでも笑い止まないユリの顔を、恨めしく眺めていた。結局僕は完全に敗北してしまったのだ。それはそれで幸福なことなのではないかと、自分を慰めた。
その翌日には、二人で木原慧の墓前に結婚の報告をした。ほんの少し不安だったが、ユリはあの日のように動揺するでもなく、慣れた手つきで墓を掃除し、線香を立てた。僕がいない間に、何度か一人で墓参りに来ていたらしい。もう吹っ切れた様子で、静かに手を合わせていた。
そうして東京に帰ると、僕たちの新しい生活がはじまったのだ。
まだ梅雨の季節は去っておらず、その日も細い雨が街を濡らしていた。研究室にいる数名の職員はいずれも静かにデスクワークをしている。僕も眠気に耐えながらパソコンの前で退屈な作業に耐えていた。
先日、プロジェクトが次の段階に移行したということで、研究チームのメンバーが大幅に配置転換されることが決定した。僕たちはその引き継ぎのための事務仕事をしていたのである。
今回の配置転換では、発足時からの主要なメンバーの多くがチームを去ることになっており、たとえば、タナイさんやナグモさんもそのなかに含まれていた。彼らは新しく立ち上がった別のプロジェクトに参加するらしいのだが、チームに残留することが決まっている僕はその詳細を知らない。去って行くメンバーの顔ぶれを見ると重要なプロジェクトであることは推測が出来たが、僕は自分の今していることについて考えるだけで精一杯だった。
月末にはユリとの結婚式を控えている。単調な作業がどうも性に合わない僕は、キーボードを打ちながらもつい、そのことばかり考えてしまう。僕らお互いの事情が事情であるから、ごく近しい身内だけを呼んだこぢんまりとした式を教会で挙げることになっている。ユリ本人はやらなくても構わないとは言っていたが、気を遣ってくれただけで、普通の女性のように祝福されるのを望んでいるのは間違いない。クローンだから挙式を諦める他なかった、というのは僕にはどうにも我慢がならない話であるし、だから僕の方から主張して挙式を決定したのだが、やるとなれば案外面倒が多い。
眠気覚ましのガムを口に入れたところで、慌ただしく部屋のドアが開かれ、オオシマ博士が入って来た。
「ハジ君、いま大丈夫か?」
「なんでしょうか」
「とにかくこちらへ来てくれたまえ」
呼ばれて廊下へ出ると、博士は囁くような口調で、とある閣僚の死を告げた。それは、再生プロジェクトにも参加している人物である。
彼のことは僕もよく覚えている。閣僚のなかでは比較的若い、六十になったばかりのまだ髪の毛が黒々とした人物であった。参加を決意した理由を尋ねると「一種の生命保険のようなものでだよ」と、人の良い笑顔を浮かべていた。
彼は心臓病を患っていたそうで、その発作によるものだという。
この間会って言葉を交わしたばかりの人間が死亡してしまったことに動揺はしたが、この瞬間、故人を悼むよりも他にやるべきことがあるのは僕も理解していた。プロジェクトの参加者が亡くなったということは、これから我々は彼の再生に取りかからなくてはいけないということだ。地下で眠る予備の肉体に、ついに出番がやって来た。イ34号計画の最初の適用者であり、我々にとっては、むしろこれからが本番だった。
「それで、最初の適用者の発生ということで、政府の方から人が来ているんだ」
オオシマ博士は硬い口調で言う。
「なんでしょう。これからの予定の打ち合わせですか?」
「いや、プロジェクトそのものに疑問があるって言う議員がいたらしいんだよ。ねじこんで来たんだ」
「そんな、今更横やりを入れられたって困りますよ」
「そう言われても、もう既に来てしまったものは仕方ない。さっきから納得して貰えるよう説明していたんだが、どうしても体験者の言葉が聞きたいという話になって、きみを呼びに来たんだよ」
オオシマ博士は見事にはげ上がった額をぬぐいながら言った。
「私もこんな段階でごちゃごちゃ言われるのは気にくわないが、来てしまったものは仕方がない。それに相手はいやになるくらいの大物なんだ」
「誰ですか?」
「見ればすぐわかるよ」
博士は苦い顔をする。
「わかりました、すぐにうかがいましょう」
そう言って博士と別れた後、僕はトイレで顔を洗って眠気を追い払ってから、面会場所となった会議室へ向かう。
部屋の前にはスーツ姿のSPが立っている。僕はそれに会釈をしつつノックをし、部屋の中からの応答を待ってから、ドアを開いた。
「わざわざすみませんねえ。どうしても本人の話が聞きたくなっちゃいまして」
部屋に入るなり、正面の奥に座っている人物が口を開いた。それはテレビでもよく見る政治家で、確かに僕のような世事に疎い人間でも「顔を見ればすぐにわかる」人物であった。
「彼がハジ君です」
とオオシマ博士が僕を紹介する。部屋には他に二人の博士と、カワゴエ先生、それからナグモさんが同席していた。
「いやあこうして見ると本当にお若い。そのあたりの高校生を連れて来たのじゃないのですか? いや失礼、こう、最先端の科学というものは、私のような素人にはどうも魔法じみていて、にわかには信じがたいのですよ。しかし、どうなんでしょうな。実際タジマ君をクローンで再生したとして、こんな若くなってしまっては、みなに偽物だとばれてしまうのではないですか?」
タジマ、というのが死んだ大臣の名前だった。
「いえ、実際の運用では、生前と同程度の年齢で再生する予定になっております。整形手術も行って、ほくろなどの特徴も本人と同じくする予定ですから、簡単なことでは発覚するおそれはないと思われます」
ナグモさんが静かな声で説明すると、
「そうですか。それは失礼しました。でも、それはそれで、せっかく新品に取り替えたのにわざと年なんかとらせて、勿体ないような気がしますな」
そう言って、その人物は鷹揚に笑う。
話を聞いてみると、彼はどうも、再生された人間が、故人と同じ知識や内面性を持てるのかという、プロジェクトの根本的な部分に対して疑問を持っているらしい。既に博士やカワゴエ先生から技術的な説明はなされていたが、それでは納得出来ないということで、僕がこの場に呼ばれたようだ。
「そもそも、クローンを本人と入れ替えるだなんて、世間を欺くわけじゃないですか。それがどうも私には気に入らない。まあ、他の議員さんがたが決めてしまったことなので、そこについてはとやかく言いませんが、ただ、やるならやるで、そんなおとぎ話のような話が事実なのか。これだけははっきりさせておきたかったんです。見せかけだけ本人と同じに出来ても、中身がまるっきりの別人じゃ混乱するだけですからな」
愛想は良かったが、目は笑っていない。
しかし彼がどんな疑いを持っていたとしても、僕には怯む理由はなかった。僕はハジユウジとしての記憶を完全に受け継いでおり、この研究所で長年果たしていた職務も、問題なく引き継いでいる。ありのままを説明すればよい。噓などつく必要はないのだ。その人物はどこからか手に入れた僕のプロフィールを見ながら、僕を試すような質問を重ねたが、その全てに対し、正確な返答をすることが出来た。またその場で考えたのか、二十年ほど前に流行した映画や芸能人など、僕が見た目通りの若者だったら知り得ないような質問もして来たが、それにも言葉がつまることはない。
「ふむ、確かにおっしゃるとおり、あなたはこのハジユウジさんの人格を持っていらっしゃるようです。こう目の当たりにしても、なんとも不思議ですが、信じるしかないようですな」
彼がそう言った時、オオシマ博士が安堵のため息をついた。しかしすぐにそんな安心を吹き飛ばすかのように、彼は声を張り上げる。
「ただし、別の疑問もあります」
彼は手元の書類を一枚めくった。
「私の頂いた資料によると、最初の被験者の女性は、自分がクローンとして再生されたことに耐えきれず、別の人物として生活をなさっているようです。カワゴエ先生のお話によると、こうした感覚には個人差があるもので、だとすれば今回も絶対にうまくゆくという保証はないじゃありませんか。同じように、別人格者としての人生を送りたいと言い出す可能性については、どう考えてらっしゃいますか?」
「失礼ですが、どうもこうもありませんよ。そこに何の問題があるのか理解出来ません。間違いなく本人の人格が継続しているのならば、後にどんな生き方を選択するのも、その人の自由ではないのですか? 都合の悪い考え方を選びそうだからといって、本人の再生を否定するのは、いかがなものでしょうか」
僕が言うと、彼は苦笑した。
「それはまあ、確かにその通りですな。私が間違っていました。誤解なすっているようですが、私も、ここまで来て中止しろと言うつもりはないんですよ。ただね、リスクの大きいことですから、聞いておきたくってね。それだけです」
そして彼は傍らの秘書に言って、書類を片付けさせた。その後に、僕に向かって微笑みかける。
「こうしてお話を伺っている限り、今回はどうも私が折れるしかないようですが、やはり個人的にはあまりよい計画だとは思えません。どうもまったく、どうしてこんなひどいプロジェクトに許可を出したのでしょうか? 死んだらそれで終わりで、いいじゃないですか。何だか気持ちが悪い話ですよ。大の大人が真顔で死者の復活について語るだなんて、世の中が狂ってしまってるんでしょうかねえ?」
「世の中が狂ってるかどうかは知りませんが、このプロジェクトがそんなにおかしいものだとは、私は考えていません」
僕が言うと、彼は大げさに手をふって、
「いや、ちがうんですよ。別にあなたの生まれを否定しているわけではないのですよ。気を悪くしないでくださいな」
「いや本当に、この技術はおっしゃるような不健全なものではないと考えているんです。出来ることならば、こんなふうに再生を隠さずに、世間に堂々と公開してやるべきですよ」
そう言うと、彼は声を立てて笑った。
「そりゃ無理なんでしょう? ナントカという倫理機構に禁止されているという話じゃないですか。公開すれば、世論の反対は免れない」
「反発はあるでしょうが、それ以上のメリットがあるのではないでしょうか」
「あなたには、それについて何かご意見があるのですか?」
「はい」
頷くと、わきでナカノ博士があからさまに顔をしかめるのが見えた。余計なことを言うな、ということなのだろう。それは理解出来たけれども、かといってこのせっかくの機会に黙っているわけにはいかなかった。
「まず技術を公開して、閣僚だけでなく一般の方でも利用出来るようにすることです。長い人生のなかでせっかく培った経験や記憶が、肉体と共に滅びてしまうだなんて、あまりにも大きな損失じゃないですか。これを継続出来るようになれば、社会の利益にも適っているのじゃありませんか? どうせ現状では低コスト化なんか出来ないわけですし、必然的に豊富な資産を持った優秀な人物だけが継続されます。資産はなくとも特別な才能を持った人物には、補助金かなにかを出してもいい。能力を示せば未来に自分の人格や体験を残せるのだと、新しい夢にもなるのではないですか?」
「それはなかなか、新しい意見ですね。そんな大胆な提案は初めて聞きました」
政治家はおもしろそうに笑う。
「だけれど、実現性は低いですな。そこにたどり着くまでに、どれだけの反発があることか」
「どうでしょうね。その手の反発なんてものは、所詮感情的なものに過ぎないんですから、目に見える利益がそれを上回れば消えてなくなるでしょう。自分の人格を未来に残したいと考える人はいるでしょうし、大事な人間が失われることなく存在し続けることを望む人は、さらに多数存在するはずです。そもそも、政府がわざわざ凍結していたこの企画を蘇らせたのだって、その魅力に勝てなかったからではないですか? それをこっそり隠して一部の人間だけで独占しようなんて、その根性の方がみっともないですね」
「ハジ君、やめたまえ」
ついにナカノ博士が言葉でそう言ったが、
「いや、いいんです。面白い意見です」
当の政治家本人は機嫌良く自分の顎をなでると、
「あなたの主張は個人的には悪くないと思いますよ。正直なところ、妙な隠しだてをするくらいなら公表すべきだとは私も思っていたんです。今回のケースには間に合わないでしょうが、やるならば、堂々とやるべきですな。ああそうだ、今度意見を書類にまとめて私のところへ送ってくれませんか? 一度、正式に検討してみようと思います」
意外なことを口にした。場の一同が驚きの表情を浮かべるなか、
「はい、その時は、お願いします!」
そう叫んだ僕の声はうわずっていて、言ったあとにいやな汗をかいた。
「驚きましたよ」
政治家が博士二人と共に部屋を出て行ったのを見計らって、カワゴエ先生があきれたように口を開いた。
「あれは本気なんですか?」
「もちろん本気ですよ。カワゴエ先生も賛成してくれますよね?」
「どうして私が」
「カワゴエ先生の目指しているものと、僕の目指しているものは同じだと思いますよ。社会にクローン人間が増えて当たり前のものとなれば、現在既に存在しているEVASと言いましたっけ? クローン人間の子供たちも、過ごしやすくなりますよ。いつだったかおっしゃっていたじゃないですか。技術そのものは否定するのではなく、それをとりまく悲劇をなくしたいのだと、そんな主旨の言葉を」
「確かにその理想の部分については大賛成ですよ! 心から共感します。しかし、ねえ。そんな簡単なものではないですよ。トミタ先生たちの事件を忘れたわけではないでしょう? 関係者が何人死ぬことになると思っているのですか」
「それは覚悟の上です。言い出した以上、負える限りのリスクは僕が負います。たとえば、もし公表の過程において研究者の名が必要ならば、僕の名前を出せばいいんです。それで殺されたって、僕の肉体と精神のスペアを作っておけば、意思は継続されます。思えば先生も、無理やりにでも再生するべきでした」
「立派な覚悟と言いたいところですが、さすがにそれは極端な考えですよ」
カワゴエ先生はため息をつく。
「そうでしょうか? ユリにもよく話すんですが、クローン人間という存在はそれほど悪いものではないですよ。世間で言うほど悲しいものだとは感じません。自分がこうなる前もそう思っていましたし、実際自分がその立場になってからは、なおのことです。先生だってそれはご存じですよね? だから僕は、僕やユリのような人間が、つまらない隠し事をせずに胸を張って歩けるような未来を作りたいんです。そんなにおかしな考え方だとは思っていません。権利を獲得するためのごく当たり前の活動でしょう。先生にも、協力して欲しいんですよ。賛同していただけませんか?」
すると彼は肩をすくめ、
「そりゃね、EVASの中にもあなたと同じようなことを考えている人もいますし、そうした意見は何度も耳にしましたよ。しかし、私はいつも意見を実現するための手段が性急すぎると感じるのです。私だって、クローンを取り巻く現状にはあらゆる意味で憤慨しているんですよ。変えなきゃいけないのはわかってる。しかし、この段階で技術を公開して、世間にどんどんクローン人間を増やしてしまうのはどうなんでしょうね。それはやっぱり、むつかしいことですよ。こう思うのはやはり、私自身がクローン人間ではないからなのでしょうかね? ナグモさんはどう思われますか? 純粋な研究者のお立場として」
「純粋な研究者ですか……」
ずっと聞き役に徹していたナグモさんは、眉間にしわをよせつつ、
「悪い意見では、ないように思います」
別の答えを期待していたのだろう。カワゴエ先生は意外そうに目を見開き、そして大きなため息をついた。
「私は仕事に戻ります。この件に関しては、また後で話させて下さい。それでは、お大事に」
そうして先生はさらに何度もため息をつきながら、足早に部屋を去ってゆく。そしてその場所には僕とナグモさんの二人が残された。彼女はうつむいて机の上に乗せた自分の手をじっと見ている。僕もカワゴエ先生同様、この人が意見に賛成してくれたのは意外だった。何か言うべきことがあるはずだと思いつつも、言葉を見つけ出せないままそこに佇む。部屋は静まりかえっていた。
するとナグモさんが、伏し目がちに口を開く。
「いつだったか、クローン人間とお知り合いだったとおっしゃっていましたが。それは、あなたが高校生の時に付き合っていた恋人のことですよね?」
「え、ああ、はい」
「最後の休みに一緒に東京へ行って、そこで喧嘩をして、それっきりになってしまった……」
ナグモさんがどうしてそんなことを知っているのか。僕にはさっぱり事情が飲み込めない。目をぱちくりさせていると、彼女は言いにくそうな顔で、
「それ、私なんです」
と言った。
「えっ?」
「信じられないかもしれませんが、事実です。ずっと黙っていてすみません」
「ちょっと待って下さい。とても信じられません。大体、顔が全然違うじゃないですか」
「整形したんです。あの顔じゃどこへ行っても目立つし、鏡を見るたびに、自分が他人のクローンだって思い知らされるのがいやだったんです」
「あんなに綺麗だったのに、メスを入れてしまったんですか? いや、今が綺麗じゃないってわけじゃないですけれど。それに声だって違うじゃないですか」
「声も変えました。私はコンプレックスを克服したかったんですよ。でも、外見を変えただけでは不十分でした。だから、こうしてバイオの道に進み、クローン技術について学ぶことにしたのです。あなたが肯定的な立場から勉強をはじめたのとは、全く逆の理由ですね」
ナグモさんは肩をすくめた。
「この研究に呼ばれたのも、おそらく私がクローン人間だったからでしょう。トミタ先生はクローン被害者のリストを見て、そのなかに研究者になっていた私を発見し、選んでくださったのだとおっしゃっていました。最初は断るつもりだったのですが、生み出す側の気持ちも知りたくなって、引き受けさせて頂きました」
「いや、ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、ナグモさんの正体は、あのミサキだって言うんですね? 幽霊の話が大嫌いだったあの子なんですね?」
「そうです。それで間違い有りません。最後に沢山変なメールを送ってしまって、ごめんなさい、ユウちゃん」
そう言って、ナグモさんは投げやりに笑った。彼女の笑顔を見るのは長い同僚付き合いのなかでも初めてだった。そして、そのちょっとひきつったような控え目な笑い方は、確かに思い出のなかのあの少女とどこか重なる部分があった。
「驚いたな……」
度肝を抜かれるとはまさにこのことだった。予想外の告白に、混乱する思考をなんとかまとめようとしたが、まとまらない。
「トミタ先生もナグモさんについて意味ありげなことを言っていましたよ。しかし、全然想定もしていない衝撃の告白です。まさに青天の霹靂ってやつですよ。こんなことが、ありうるんでしょうか?」
冗談だと言ってほしくてナグモさんの顔を見たが、彼女は真顔のままそこに座っている。
「まったく、ここ数年の出来事で一番驚いたかもしれません。いや慧の余命宣告の次だから、二番でしょうかね。僕も、時々あの子はどうしているのだろうって、思い浮かべることもあったんですよ。それが、ずっと一緒に働いていただなんて、想像もしませんでした!」
じっと彼女の顔を見つめてしまうと、恥ずかしそうにうつむく。
「あの、研究所に、それを知っている人間はいますか?」
「以前はトミタ先生だけでしたが、今はオオシマ博士とナカノ博士もご存じです。それで、私は研究者ではなくクローン人間として、さっきあなたがおっしゃった言葉に関してもう一度意見を言わせて頂きたいのですが」
そう言って彼女は顔を上げた。
「なんでしょうか?」
僕は緊張しながらそう返した。
「是非やるべきだと思うんです」
彼女はきっぱりとそう言った。
「さっきあなたがおっしゃった主張を、少女時代の一番つらかった私に聞かせてやりたいと思いました。クローンであるという誕生の仕方はちっとも悪くないって。噓でも本当でも、公の場でそう主張する人間が存在してくれたなら、どれだけ救われたでしょう。それだけで、まったく違う人生が開けていたような気がします。私は随分と、自分の手で自分の人生を台無しにしてしまいましたから」
「僕が言ったのは噓ではなく、本当ですよ」
言うと、彼女は頷く。
「私はもう別のプロジェクトに移ることが決まっていて、お手伝いは出来ませんが、うまくいくよう願っています」
「いえ、お気持ちだけでもありがたいです」
「それでは、失礼します」
彼女は椅子を引いて立ち上がると静かにドアを開け、部屋を去っていった。そして会議室には僕一人となって、大きくため息をついた。
朝目が覚めると頭が痛い。自分の吐く息からアルコールの生臭いにおいがしてたまらない。
タジマ大臣の再生は無事成功し、彼は以前の記憶を持ったまま目を覚ました。彼がベッドの上で家族と再会し、泣きながら抱き合ったのは良い場面だった。そうして仕事が一段落ついたことで、タナイさんたち配置転換組が正式に部署を離れることも決まった。
この初仕事が成功したことの打ち上げと、彼らの送別会を兼ねた催しが昨晩開かれ、僕はそこで飲めない酒を場の雰囲気で飲みすぎてしまったのである。
どうして体が受け付けないものを飲んでしまうのか。僕はなぜこんなにお調子者なのか。自己嫌悪するこの感覚を、形而上的二日酔いと言うのだそうだ。どんな下らない状態にも、呼び名というものは付いているのだなあと感心してしまう。
ベッドから這い出して、ユリに何か冷たいものでも買ってきて貰おうと思ったのだけれど、家のなかにはその姿がない。
そう言えば、結婚式の準備で実家へ戻ると言っていたっけ。確かお母さんが昔自分の結婚式で使ったウェディングドレスを仕立て直していて、それを試着するのだとかなんとか、とても喜んでいたっけ。聞きもしないのに、何度もその話を僕にしていた。彼女は本当の娘扱いされるといつも過剰なほどにはしゃいでいるように思う。未だに両親に対し引け目のようなものを感じているのかもしれない。
こんなに楽しみにしていた式を、タジマ大臣の仕事が入ってしまったせいで延期してしまったのは申し訳なかった。
窓の外からは安物の拡声器でひび割れた男の声が聞こえて来る。下品な口調で税金の値上げを罵っており、カーテンの隙間から覗くと、垣根の向こうにゆっくりと通り過ぎて行く黒い街宣車の屋根が見えた。住宅街には珍しい風景だけれど、何か特別な意図があるのだろうか。最近世の中が随分ときなくさくなっているけれど、僕がこれからやろうとしていることへ反発する熱量を、そこで発散してくれればいいのだが。
冷蔵庫で冷えていたミネラルウォーターをコップ一杯飲み干すと、ほんの少し人心地がついた。そうして僕は、一階の書斎、と呼ぶのは仰々しいが、仕事用に使っているその小部屋に降りていって、政府に提出する書類資料の作成をはじめることにした。
こちらの方は研究所での空き時間なども利用して、大分かたちがまとまりつつある。あとはこの週末を使えば仕上げられるだろうというところまで来ていた。
提出したらどういう反応を得られるのか、緊張してしまうところではあるが、非常に楽しみだ。タナイさんなどは意地が悪いから、「再生プロジェクトに関わった連中を告発するための道具にされるんだよ」と笑っていたが、どうなのだろう? 仮にそうだとしても、実験が明るみに出ることは同じなのだから大差ないような気もするが、それは甘い見通しなのだろうか。
ただ、実際に再生プロジェクトが動き始めてからは、なんとなく良い風が吹き始めているような感触はあった。タジマ大臣の再生が成功してから、自分も同じようにプロジェクトを利用したいという申し出が、いくつか来ている。どうやら閣僚以外の議員にも熱望する人がいるようだ。病院でリハビリを受けるタジマ大臣もこの成果には満足しているようだし、いずれ彼が政界に復活すれば、そこでもこのプロジェクトの有用性が認知されるに違いない。
こうしたよい流れが続けば、僕がこんな書類を苦労して書かなくとも、そのうちなし崩し的に民間人への適用もはじまるような気が、しないでもない。とはいえ、あてにしてただ待っていればよいほどの確証があるわけでもないから、結局僕のすべきことは変わらないのだが。
なんにしろ、人生の中央にやるべきことが存在するというのは心強いものだ。仕事が見つからず、将来への希望も曖昧模糊とし、家でテレビを眺めながら当時慧だったユリと痴話喧嘩していた頃の自分とはまるで別人のように清々しく毎日を過ごしている。いや、実際別人と言えば別人なのだろうけれど、僕の心情としては連続しているのだから仕方がない。
これからの危険な活動に備え僕は、自分とユリの複製を、あの研究室の地下室に用意しようと考えている。危険な活動をしなくとも、そもそもクローン関係の仕事をしているというだけでリスクを背負っているわけだから、他の研究員たちにも勧めているのだが、なかなか賛同する人がいない。やはりあの銀ぴかのカプセルで眠り続ける様子が陰気くさくていけないのだろうか? じゃあもっと心安らぐような色彩にしたらどうだろう。いやこの発想は、ユリを元気づけようと壁をピンクにしたのと同じじゃないか。僕はどうも、見た目さえ変えれば他人をいくらでも誤魔化せると思っている節がある。これはよくない。
それはともかく、こうしてスペアを用意することによって、僕の記憶がさらに一段階未来へ継続されることが保証される。いつか僕が死に、跡を継ぐ彼が目覚めたときも、やはりいまの僕と同じように、全てを連続したものと自覚するのだ。そうやって、このハジユウジという個性が体験した感覚や経験は、複製され続ける限り、未来永劫引き継がれてゆく。何人もの僕という人間に、共有されてゆく。そう考えると、この心、思考は僕一人のものではないのだという思いで身が引き締まる。
いずれこの技術が普及して、みなが自分の意識を公共的なものだと認識するようになれば、人々はもっと己を厳しく監視するようになり、世の中はもっと良くなるのだろうか? そう安易に物事は運ばないのかも知れないが、しかし、そうであってほしい。僕は自分の仕事を懸命に果たし、その結果、世界がほんの少しでも明るくなるのならば、どれだけ喜ぶべきことか。やりがいのあることか。クローン人間をたくさんつくって、その夢は世界平和。出来うるならば一度くらいはそんなふうに断言してみたい。
モニターの前で一進一退しているうちに昼が過ぎていた。二日酔いの喧噪もそろそろ肉体を去ろうとしており、食欲が存在を主張するだけの体力的余裕があらわれている。
リビングルームで店屋物のチラシを物色していると、インターフォンが鳴った。来客の予定はなく、訪問販売か、それとも届け物でもやって来たのかと思いつつモニターを見ると、しわくちゃのジャケットをまとった人物がうつむいて立っている。
こんな佇まいの人間に見覚えはなかった。世間には妙な人間があふれているし、僕のような少年にしか見えない男が玄関に出て行けば、侮られて何をされるかわからない。居留守を決め込んでやろうとモニターの前を離れたところで、もう一度メロディを鳴らされた。
どういうつもりだか知らないがしつこいやつだ。再びモニターの前に行くと、今度は顔を上げてカメラをのぞき込んでいる。その顔つきを見て驚いた。
そこにいたのは、僕だった。紛れもない、ハジユウジだった。三十年付き合ったその肉体が、僕とユリが平和に暮らすその家の玄関の前に立っているのである。
「随分立派な家に住んでるんじゃないか」
リビングルームに通すと、彼はそう言って口笛を吹いた。
「今そこいらを歩いて来たけれども、子供が楽しそうに遊んでいたよ。いまどきこんなに平和な風景があるかい? いい住宅街じゃないか。高くついたろう。思い切ったローンを組んだのだろうが、それにしたって立派なもんだ」
そう言って彼は手頃な椅子を引き、その上に座った。服装も髪型も全体的に薄汚れており、まだ買いそろえたばかりの家具に触れられるのは嫌だったが黙っていた。
彼は無精髭の生えた顎を上げて部屋を見回す。その頰には吹き出物の痕があり、こめかみのあたりには小さなシミがあり、目の周りには細かいしわが寄っている。それらは確かに見覚えのあるものだけれど、こんなに汚い印象を与えるものだっただろうか? 当時の僕は、こうした欠点にもある種の愛着があったように思えるのだが、今面と向かっていても当時と同じ感想を抱けない。まだ若く、外気に接してからもそう時間の経っていない自分の顔に、鏡で慣れてしまったせいだろうか。非常に年をとって見える。そして見ていると非常に切ない感慨がわいてくる。有り体に言うと、つまり、僕はこんなにおっさんだったのだろうか?
「どうしてここに住んでいるのがわかったんですか?」
内心の動揺を隠しながらそう尋ねる。
「久しぶりに電話をしたら、タナイさんが教えてくれたんだ。今度彼女と結婚することが決まったんだって? おめでとう。いや、久しぶりに関東へ出てきたから、なんだかめまいがしてしまったよ」
彼は口元だけで笑うと、懐からミネラルウォーターのミニボトルを取り出し、旨そうに飲んだ。
「そちらこそお元気そうで。今は何をしてるんですか?」
「何もしていないよ。当たり前じゃないか。僕は名誉ある実験動物なんだ。生きてゆくくらいのことは保障されている。それはきみだって知っているだろう? 実験が失敗していないんだったら、僕の頭の中身は、そっくりそのままきみの頭のなかにあるんだからさ。それとも、忘れてしまってるのかい? 出来損ないの記憶がつまっているのかい?」
彼が挑発的に言うと、唇から唾液がとんで、テーブルの上に落ちた。僕はさりげなく台ふきでそれをぬぐい取りながら、
「いえ、覚えていますよ。実験は完全に成功していますからね。もっと細かいことも覚えています。何なら、マルの話でもしましょうか? 小学校の時に飼っていた猫ですよ。覚えてますか?」
「そりゃ覚えているさ。こっちがオリジナルなんだから馬鹿にしないでくれ。そんなことよりも僕はね……ああ、畜生! 部屋に入ってもめまいが治まらない! これはどういうことなんだろう」
彼は乱暴に頭を振った。
「酔い止めでも飲みますか?」
「いや、いらないよ! 乗り物酔いともわけが違う。最近の持病なんだ。少し動くとクラクラとする。栄養が足りていないのかもしれない。しかし栄養なんか、ちっとも取りたくないんだ。きみにはわからないと思うけれど」
彼はそう言ってからもう一度頭を振り、そして目を見開いてじっと自分の手のひらを見つめている。もうめまいは治ったようだが、一言も口をきかない。どういうつもりなのだろう? 彼を今すぐ追い出したくなったが、すんでのところで思いとどまった。いまはこう違ってしまっても、もともと僕は彼だったのだ。
「しかし、妙な気分ですね」
僕は自分の気を紛らわすために口を開いた。
「こうして年をとった自分と向かいあっていると、なんとも言えない心持ちがします。ドッペルゲンガーに出会ったら、こんな気分になるんでしょうかね。ああそう言えば、向こうでは、ドッペルゲンガーを見るのは死期が近い証拠だと言いますね。まさか、あなたはドッペルゲンガーではないですよね? ちゃんとした、人間ですよね?」
すると彼は眉の上を、指先でかいてから、
「ちゃんとしてるかどうかは知らないが、人間のつもりだよ。少なくとも自分がドッペルゲンガーだという自覚はないな。もっとも、本物のドッペルゲンガーが、ちゃんと自分をドッペルゲンガーと認識してるかどうかは知らないけれど。それにしても、ドッペルゲンガーって、言いにくい言葉だね」
そう言って、一人笑う。
「しかし本当に、ここはいい家だよ。あそこの水槽でゆったりと泳いでいるのは熱帯魚かい? 実に色鮮やかなものじゃないか」
彼はため息をつくと、椅子の背もたれによりかかった。
「まったくこれは、なんとも理不尽な話だね。慧が死んでしまって、僕は全てを失ってしまったのに、きみはこんなにも恵まれている。いや、そうなってくれたらと僕が期待して、きみが生み出されたわけだから、ただ役目を果たしてくれているだけなんだけれどね、わかっちゃいるんだけれど、やっぱり目の当たりにすると不条理を思うよ。彼女は出かけているのかい? 帰って来るまで僕がここに居たら、どんな反応をするかな? 帰って来た彼女に僕が窮状を訴えて、どうか助けて欲しいと泣きついたらどんな顔をすると思う? 優しい子だから、きっと昔に僕を拒否したことが、いまでも心の傷になってるはずなんだ。そのあたりを刺激すれば、結構良い線行くんじゃないかと思うんだがね。大体、きみも知っての通り、僕だって彼女と一緒に暮らし、様々なものを分かち合って来たんだ。おそらくきみは、彼女が培養液に浸かっている時から見守り、ずっと側にいるような錯覚をしているだろうけれど、実際そこに居て、彼女と思い出を築いたのはこの僕なんだ。その時彼女の目に映っていたのも、僕なんだよ? きみはその僕の体験をお裾分けされたに過ぎないのさ。このことを忘れちゃいけない。下世話な言い方をするとね、元々彼女は僕の女だったんだよ」
そして彼は黄色い歯をむき出して、笑顔のようなものを形作る。僕はため息をついた。
「そんなことを言いに来たんですか?」
すると彼は大げさに眉をしかめ、
「いや、これはただの冗談だよ。そうむきにならなくたっていいじゃないか」
ヤレヤレと首を振った。
「ただ一目見たかっただけだよ。きみは僕の成功例みたいなものだから、その夢のような生活をこの網膜に写し取っておきたかった。見られて良かったよ。僕の期待通り、なかなかうまくやっているようで安心した。もう用件は済んだから、ここで帰ってもいいんだけれど、せっかくだし、まだ少しだけ言いたいこともある。それを言ってもいいかい? どうだい?」
「なんですか? これ以上おかしなご託は聞きたくないですよ。僕はもう充分に失望しているんですから」
「失望! きみは随分と面白いことを言うじゃないか。一体どれだけ僕に、失うような望みがあったというんだい? 僕がどんな気持ちでナグモさんに、この恥知らずなプランを持ちかけたか、忘れてしまったわけじゃないだろう? それとも、幸福な現状が思い出まで都合良く脚色してしまったのかい? それはものすごく残酷なことだよ」
彼は声を立てて笑い、そして笑い終えると真顔になって、言う。
「さっききみは僕のことをドッペルゲンガーみたいだと言ったけれど、この発言に僕は違和感がある。あのね、正直、いまの僕にはきみを自分の分身と思えないんだよ。似ながらにして全く異なる人間だ。会う前はやはり僕も分身だと考えていたのだけれど、こうしてきみを目の当たりにして話すと、随分違うような気がしてたまらないんだ。やっぱり、結局きみは、僕が作ったものだからかな? その工程を目の当たりにしてしまっては、作品には見えても、自分そのものには見えない。慧もそうだな。色々と思い込もうとしていたけれどね、やっぱり僕はピグマリオンで、彼女は作りものだったんだろうよ。僕にとっての慧は、あの死んでしまった慧だけだ。きみの恋人が僕を責めた言葉は全て正しかった。僕はただ厳然と存在する死を認めたくなくて泣き叫ぶだけの子供だったんだよ。それをよく覚えておくんだよ。きみが思うような誠実な人間じゃない」
もう一度彼は笑って、そしてボトルの水を一口飲んだ。
「やっぱりね、きみたちは二人とも、おままごとの人形のようにしか見えないよ。そしてここはおもちゃの家だ。とっても綺麗な。……ねえきみは、このクローン技術を公のものにしようとしているんだって? 面白いことを考えるものだなあ。全ての人間に、滅びを知らない精神を植え付けて、世界中をおもちゃ箱にしようとしてるんだね。この家と同じようにさ。それがうまくいったら、いつまでも同じ人間が、この地上で暮らし続けるんだな。きみはそれを見て人類は死を克服したのだと結論するんだろう。さすがの僕もそこまでは思い至らなかったよ。僕が望みそうなことなのにね。身の回りのことで精一杯で、視野狭窄に陥っていたんだなあと、今更ながら思うよ」
そうして、大きくため息をついた。
「まあ、これからもうまくやんなよ。きみの頭の中身は器を替えながら未来まで続いてゆくのだからね。せいぜい自分で自分を検閲し、まともなことだけ考えてゆけばいいや! 一方僕の意思や心はこのまま肉体と一緒に滅びるわけだから、せいぜい間違ったことを考えて、間違った行動をして、それら全部を独り占めしたままくたばるよ。別にうらやましがることはないんだぜ? きみだって、死の瞬間だけは一人きりになれるんだからさ。世の中を全部おもちゃ箱にして、見かけ上の死を追い払ったって、その一点だけはけして変わらないんだ。うまく出来たものだよ。いくら人形のようになりたくても、きみは結局人間のままなんだ」
彼は赤い口を裂けるほどに大きく開けて笑い、僕はそこで目を覚ました。
キーボードに顔から突っ伏していたせいで、作りかけの文章に支離滅裂な文字列が挿入されている。だけでなく、どうも消去されてしまった部分もあるようだ。
作業を再開しようとすると、まだ頭が痛む。僕はもう一度キッチンで水を飲み、ついでにトイレで用を足してから、机の前に戻った。
横になりたい気分だがそんな暇はない。どんな文章を書いていたのか、おぼろげな記憶を頼りに復旧しはじめると、机の上に置いた端末が振動し、メールの着信を伝えた。
それはユリからのメールだった。本文もタイトルもなく、画像だけが送信されている。
どうやらお母さんに試着の模様を撮影してもらったらしい。画像を開くと、そこには純白のドレスを纏い、こちらに向かってはちきれんばかりの笑顔を向けるユリの姿が映っていた。
了