ドッペルゲンガーの恋人
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唐辺葉介 Illustration/シライシユウコ
亡くした恋人のすべての記憶を、僕はクローンに植え付けた。新しく誕生した「恋人」との暮らしが、僕と彼女を追い詰めていくとは思いもよらずに――。まさに待望、唐辺葉介の復活作は、胸打つSFラブストーリー。
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仕事がない。そしてすることがないのでテレビばかり見ていると、失業者や犯罪が急増しているという事実を知った。
特に軍の縮小によって職を失った元軍人の社会復帰が社会問題となっているらしく、昨夜も、ワタナベという二十五歳の青年が支援団体の職員達と相談しながら仕事を探す様子が、ドキュメンタリー番組として放送されており、とても面白い番組で、僕の身につまされる部分もあり、それをはじめから最後まで見てしまった。
いくつもの企業の採用試験を受けて、そうして次々と不合格になってゆくワタナベ君なのだが、テレビに映ったのが嬉しいのか始終へらへらとしているため、同じ立場の僕から見てもちっとも危機感がない。面接官にこっぴどい言葉を浴びせられた後のシーンで、ディレクターの意図としてはおそらくうちひしがれた様子を撮りたかったのだと思うが、彼はそのことについては語らず、自室のミリタリーグッズを嬉しそうに見せびらかしていた。そして、ミリタリー好きが高じて軍隊に入ったものの、前線から遠く離れた後方に配置されて毎日することもなく、他国の兵士とサッカーに興じていたなどと、楽しげに語るのである。こんな場面を放送してしまうということは、他のカットではもっとひどいことを言っていたのだろう。この調子で面接を受けたのなら、そらあ落とされるだろうと、僕は画面に向かってつい言ってしまったものだ。
ご両親も、この妙にのんきな息子に手を焼いているようで、テレビのクルーに「ちゃんと言ってやって下さいよ」などと頼み込んでいた。番組の構成としては、元軍人に行き届いた受け皿を用意しない政府の理不尽なやり方を弾劾するような方向へ持って行きたかったのだと想像が出来たが、肝心のワタナベ君がこの有様であるから、ご大層なBGMやナレーションがことごとく空回りするのである。それがとても面白い。
番組中、ワタナベ君は「全て、戦争が悪いんですよ」と何度も口にしていたが、スタッフにそう指示されていたのか、それともどこかで聞いた言葉を繰り返しているだけなのか、言っている本人なのに言葉の意味を理解していないようで、言い方がいかにも演技臭く、そして言った後に、どうだこの格好の良い台詞はと言わんばかりにカメラを見つめた。そこも面白かった。
そうして僕は楽しくテレビ観賞をしていた。まあ、何はともあれ、戦争の終結によって世界的には平和がもたらされたのだが、個人に幸福が訪れたかと言えば、そうでもないらしい。良くも悪くも、世間の人々はそれなりに不幸で、それなりには幸福なのだろう。そして僕らの家庭も平和にはほど遠かった。
目が覚めるとひどい頭痛がして、体温を測ると三十八度五分もある。このところずっと体が重く、風邪ではないかと薄々察してはいたのだが、どうせ仕事に行く訳でもなし、無用の身に養生なんぞ馬鹿馬鹿しいと処置を怠っていたのが良くなかった。無職のくせに一丁前にと、この期に及んでもそう毒づきたくなる。
まったく僕はワタナベ君を笑っていられるような状況ではなかった。不安そうな顔をする彼の両親を見た時、自分の両親の姿が思い浮かんだ。僕の両親は、まだ僕が失業し無職になってしまったことを知らない。目的のない大学生から、国立研究所の職員になったことを喜んでいたのを思い出せば、何も告げられようはずがなかった。しかも、ただ職を失ったばかりではなく、どこにも雇って貰えぬのだ。雇用がないということは、すなわち誰も僕に金銭的価値を認めぬということで、社会に必要のない人間だということだ。息子がこれでは両親も胸が痛むだろう。それを思うと僕の胸も痛む。もしワタナベ君ではなく僕が取材され、公共の電波にのったならば、昨日の僕のようなやつがソファーに寝転がりながらそれを見て、「駄目なやつだなあ」と笑うのは間違いない。その情景が具体的に想像出来た。
タナイさんが言っていたとおり、僕は無理にでもあの仕事にしがみつくべきだったのだ。判断をしくじってしまった。
後悔先に立たず。前向きに明日のことを考えようにも、頭痛がして意識がぼんやりとする。水分とビタミンCを摂取しようと寝室を出ると、慧が無表情に掃除をしている。墓参りをしたあの日から、すっかりふさぎ込んでいる。そして、少し瘦せてしまっているようだ。このところ、一緒に食べようと誘うと、後で食べますと断るばかりで、そう言えばいつ食事をしているのか。ろくに栄養をとっていないのかもしれない。顔色も悪いように見える。
「朝食は食べたの?」
尋ねてみると頷くが、それが真実かどうかはわからない。どうも噓のような気がする。テーブルやキッチンに食事をとった痕跡がない。困ったものだ。もう一度尋ねようとして、僕はごほごほと咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
慧は掃除機を繰る手を止めてそう言った。
「大丈夫だよ」
「咳が出てるじゃないですか」
「そうだけど、それはどうでもいい。きみこそやつれてるじゃないか。ああ、よく見れば目の下に隈も出来ている。睡眠もろくにとれていないんじゃないか?」
「いえ、別に。そんなことはないですよ」
「噓をつくのはやめるんだ」
「そうは言っても、口にしたって仕方がないことじゃないですか」
慧はそう言うと掃除機のプラグを抜き、本体のボタンを押す。しゅるしゅると音を立てて、電源コードは本体のなかに巻き取られる。
「仕方がないってことはないだろう。何か解決の糸口が見つかるかも知れない」
「私は大丈夫です。ユウジさんこそ、具合が悪いなら横になってたらいいじゃないですか」
慧は掃除機を持ち上げると、すたすたと歩いてリビングルームを出ていった。その間に僕はキッチンに行き、冷蔵庫のミネラルウォーターで、ビタミンCの錠剤を流し込む。
そしてリビングルームに戻ってくると、今度は慧はぞうきんを手に拭き掃除をしている。
「毎日てきぱきと働き過ぎだよ」
「いいんです。動いている方がラクですから」
食器棚を拭きながら慧は言う。
「僕が悪かったよ。墓を見せるべきじゃなかった。あれ以来きみはおかしくなってしまった」
「いいえ、そんなことないです。あれを見たおかげで、私にもありのままの事実を理解出来たんですから」
「ありのままの事実ってなにさ」
「私は木原慧ではないということです」
「またそんなことを言う」
「だって、彼女は遺骨になってあそこにしまわれていたじゃないですか。それとも、あのとき私は自分の骨を見たとおっしゃるんですか?」
「そうさ。理解しにくいかもしれないが、現実としてはそういうことだ」
僕が言うと、慧はため息をついてから顔を上げる。
「事実だ現実だと言っても、どうしても感覚が伴わないんです。そもそも、この実験は無理があるんですよ」
「どういうことだい?」
「たとえば朝起きて、鏡を見ますよね? するとほくろの位置が昔と違うんです。ふと手を見ます。今度は指紋のかたちが違います。耳かきをしようとすれば耳たぶのかたちにも違和感があります。いっそのこと、何もかもが違ったらまた別なんでしょうけれども、顔立ちとか、体型とか、ほとんどそっくり同じなのに、だけれど少しずつ狂っているんです」
「わかるけど、そんなの失敗じゃないよ。遺伝子が一緒でも、そのあたりの差違は発生するものなんだ。そうでなければ一卵性双生児には生体認証が意味をなさなくなる。何もおかしなことじゃない」
すると彼女は顔を歪め、
「ああもう、そんな説明をしてもらいたいわけじゃないんです! 古いパンを食べて苦しんでいる人に、食中毒の原因がばい菌だと解説して吐き気がなくなりますか? クローンという技術では遺伝子に書かれてない部分はコピー出来ないなんてこと、私だって知ってますよ! その違いで、当人が苦しむことを想定してないのが、失敗だと言っているんです」
「もちろん想定はしてるよ。そうした状況に当人がどういった反応を示すのかも実験の目的の一つだ」
「だったら、気分は最悪だと報告させてもらいます!」
慧はそう言って、ぞうきんをバケツの中に投げ込んだ。
「最初はそういうものかとも思いましたが、時間が過ぎるにつれてたまらなくなるんですよ。……これを、どう説明したらいいのでしょう? 自分の体はちょっとずつおかしいまがい物だし、頭の中の記憶や意識も機械でコピーされたものだっていうし、墓には自分の骨が入っています。これが悪い夢じゃないというのなら、なんなのですか? まるでルイス・キャロルの世界にでも迷い込んだような気分です。あなたが喋ることや、他の誰かが話す言葉も、あのおかしな帽子屋や、ハートの女王の言葉みたいに聞こえます。私にはやっぱり、ちっとも理解出来ない。木原慧は死んだんです。当たり前のことを、どうしてあなたたちは認めないんですか? 私がおかしくなったと言うけれど、あなたの方がおかしいです」
「そうかなあ」
「そうですよ」
慧はうつむいて、胸の前でもみしだく自分の両手を見つめている。もちろん僕には反対意見があったが、今何を言っても逆上させてしまいそうだ。
「じゃあきみは、生まれて来なければ良かったと思っているのかい?」
おそるおそるそう尋ねると、慧はため息をついたのちに口をひらく。
「……もっとうまく騙してくれたなら、素直に喜べたとは思います。たとえ私を取り巻く状況は同じでも、せめてほくろや指紋が同じだったなら、何となくうやむやに出来たのかもしれません」
「整形手術をしようって話もあったんだ。でも急速成長させた肉体にメスを入れるのはリスクがあるし、結局健康を優先させた。そこまで気にするんだったら、そうした方が良かったのかもしれない。それとも、今からでも手術を受けるかい?」
「もう遅いですよ」
そう言うと、慧はバケツを持って立ち上がった。
一人になった後に、ため息をつくと、吐息がやたらに熱っぽく感じられる。棚から総合感冒薬を取り出し、キッチンで飲んで来ると、慧はテーブルに両手をついてうつむいている。その表情はゆがんで、泣き出したいのを我慢しているようだった。
「私の感じていることは、わからないですよね。きっとこれは、体験者にしか理解出来ない感覚なんでしょう。そして世界にクローン人間は数多くいれど、遺伝子だけでなく頭の中身まで押し付けられた、こんな境遇の人間は私一人しかいないんですから、誰にも理解出来ないんです。私は結局、一人なんです。一生懸命わかって欲しいと、いくら喋ったって、どうせ意味がないです」
慧ははき出すように言った。
「そんな、子供みたいな言い方しなくたっていいじゃないか」
「それは仕方ないですよ。だって、私、生まれて一年も経ってないわけでしょう? 子供どころか、赤ん坊じゃないですか」
その目から、ついに大粒の涙が落ち、テーブルの上ではじける。
「そりゃ肉体はそうかもしれないけれど、知識と経験は二十六年分あるじゃないか。そうだ、カワゴエ先生から貰った薬はまだ残っていたよね? 少し飲んだらどうだろう。気持ちが落ち着く」
「いらないです。気持ちなんか落ち着けたって、何も解決しません。そっとしておいてくれれば、そのうち慣れるでしょう。慣れるしかないんです」
泣きながら、唇をひきつらせ、笑うような形を作る。僕は彼女に対してなすべきことが見つからない。
「ああもう、やっぱりあんなもの見せるべきじゃなかった!」
思わず大声を出すと、目の前がくらくらと揺れる。僕は目をつむった。そしてソファーにどすんと腰を下ろして、慧の顔を見上げる。彼女も僕を見つめている。窓から差し込んだ朝の光がその横顔を照らし、まだ新しい白い肌に影を作っている。何か言おうとしたら、咳が出た。
「大丈夫。大したことはない」
近づこうとする慧を押しとどめ、僕はウイルス混じりの呼気を吐きかけないよううつむいた。
「ごめんなさい。いやなことばかり言って」
頭の上から慧が言う。
「いやいいんだ。きみの言ってることもわかる。でも僕は、受け入れてほしいんだ」
「それが出来れば、私もどれだけ幸せなことか。せっかく、またここであなたと一緒に暮らせるっていうのに……」
言いながらまた泣き出そうとする慧をなだめようとしたら、咳き込んでしまった。今度はなかなか止まらず、慧が背中をさすってくれた。
「ああ、体がとても熱いです。熱は何度あったんですか? 測ってないんですね。……今から体温計をとって来て、あと、氷枕を作ります。だから少し横になって……」
濡れた顔を拭って立ち去ろうとする慧の手を、僕は摑んで引き留めた。
「大丈夫だから。どうか慧をやめるなんて、言い出さないでくれ」
彼女は困り顔で僕を見ている。
「つまりさ、要するに、きみの不安を取り除けばいいんだろう? そんなの、いくらだってやり方はあると思うんだ。僕がなんとかする。僕には責任がある」
「ユウジさん……」
「そうだな。まず、ちゃんと体に力をつけなきゃ。食べるものを食べて、しっかり寝ないと、考えも暗くなる。家にあるものじゃ食欲が出ないなら、僕が何か買って来よう。そうだ、ケーキがいい! 丸いケーキをテーブルの上に置けば、なんだかわくわくとした気持ちになるじゃないか。よし、きみが一番好きなやつを買って来よう。それまでここで、おとなしく待っていておくれ」
「あの、ユウジさん。私は……」
慧の声を振り切るように、僕はアパートをよろぼい出た。
歩き始めると風邪の菌が存在を主張する。ひどいめまいがして、今にも吐きそうだ。薬はちっとも効いていないのか。意識が揺らめいて、風景がかげろうのようにうつろっている。空が紫色に見えた。なんだこの色は? 僕の目が、精神が、おかしくなってしまったんだ。本当はもっと明るいのだろう。
買うものは決めている。慧が病気になる前の最後のクリスマスに、ふらりと立ち寄ったケーキ屋で買った苺のショートケーキだ。びっくりするほど美味しくて、来年も食べようと話していたんだ。そして入院したあとも、もし病気を治すことが出来たら、一緒に食べると何度も約束させられた。結局果たされなかったあの約束を、慧も覚えているはずだ。あの白くて丸いやつを、買って帰ろう。
大体、世の中に存在するほとんどの苦しみなんか、美味しいものを食べたり、楽しいことをして気分よく眠れば、忘れてしまうものなんだ。つらいことばかり考える慧を、無理矢理楽しくさせてやろう。上手な冗談の言い方も、勉強しなくちゃいけない。アイデンティティがどうだとか、形而上の苦しみなんか、所詮生活には流されるものだ。
あえぎあえぎ商店街までやって来た。店は確かこの一角にあった。しかし、その場所をはっきりと思い出せない。ケーキの味とかたちははっきりと覚えているのだけれど、たまたま通りかかって入ったせいか、場所の印象が薄い。
どうやってあの店の前を通り、入ったんだっけな? 最初から順序立てて思い出そう。まず、あの夜僕は仕事だったんだ。クリスマスイブだということで慧がわざわざ駅まで迎えに来て、二人で夜に食べるものを買い歩き、その帰り道に見つけたのだっけ。そうだ、こぢんまりとしてはいたけれど、あたたかそうな店だった。ひげの生えた無愛想な店主と、明るい奥さんは収まりのよい夫婦で、将来僕らもこんな風に穏やかな生活をしたいと話し合ったような記憶がある。二人用のホールケーキが一つだけ残っていて、それを家で食べると、予想以上に美味しくて、顔を見合わせたんだ。
あの夜のことを思い出しながら確かこの辺りだろうと目星をつけて、商店街を行ったり来たりしたのだが、これがどうしたことか見つからない。そうわかりにくい場所にあるはずもないのに、見つからない。さんざん歩かされて、どんどん体調は悪くなり、脂汗が出るまでになっても、見つからなかった。
これが慧だったら、記憶の移植に失敗したせいで見当違いの場所を探しているのではないかと不安になるところだろう。僕はそうは思わないが、夢と勘違いしているのではないかと不安になる。一年前に慧の看病をしていた時、彼女が完治して、お祝いのパーティーをする夢を、何度か見た。その夢のなかでケーキも買った。僕がいま頼りにしているのは、あの夢のなかの記憶なんじゃないだろうか。
あるいは、風邪のウイルスが脳に侵入して、僕を混乱させているのかもしれない。それとも、視界に入っているのに、気づかないという可能性もあるぞ。
空には綿を薄く引き裂いたような雲が広がっている。風は冷たく、なでるように肌に触れるだけでも僕の悪寒を誘った。体の軸が定まらない。これは良くない。グラリと揺れて頼った電信柱には、拡張員募集とだけ書かれた怪しげなビラが貼り付けてある。求人広告を見ると自分に仕事がないのが思い出される。僕は無職だ。無職なのに、職を探さずにケーキ屋を探している。いやこれは愛のためだ。別にいいじゃないか。
呼吸が喉でぜえぜえと鳴る。店番のおばさん同士が立ち話をし、勇退後とおぼしきご老人が丹前姿で悠々と闊歩している。花屋の前を、女店員が腰を曲げて掃き清めていた。彼女は先ほどから通りを何往復もしている僕を不審げに見上げる。うっかり視線があってしまうときまりが悪くなって、思わず愛想笑いを作った。そしてついでに「このあたりにあったはずのケーキ屋を探しているんです」と尋ねてみた。すると店員は箒の手を止める。
「あのう、ご存じないですか? このあたりにあったと記憶しているのですが、どうしても見つからなくて」
風邪でざらついた声でそう尋ねると、店員は僕の風体を上から下まで眺めつつ「ずいぶんとちぐはぐな格好をしていらっしゃいますね」と失礼なことを言ってから、
「それは、ニシムラさんのことですか」と答えた。
「ニシムラさん?」
「ムスタッシュっていうお店をお探しだと思ったんですが。そこのご主人がニシムラさんです」
「ああ、確かそんな名前だった気がします。ムスタッシュ、ひげという意味ですね。そう言えば店主さんはひげを生やしていました。あの人がニシムラさんというんですか。それは存じませんでした」
「そうです。ひげのニシムラさんです。あそこでお店をやっていたんですよ。もう閉店してしまったんですが」
と彼女が指さしたのは、はす向かいの建物だった。かつてあった洋菓子屋らしい華やかな装飾も看板もむしり取られ、さび付いたシャッターがショーウィンドウを覆い隠している。以前とはすっかり様変わりしており、こうしげしげと眺めて、やっとそうかもしれないと思える程度の面影しかなく、これでは目の前を何度通り過ぎても気がつかないわけだ。僕の記憶が狂っていたのではなくて良かったと、ため息をつく。
半年ほど前に店を閉めたのだと店員は教えてくれた。確かにシャッターの上に貼られている『貸店舗』と書かれた張り紙は土埃で汚れ、四隅をとめるセロファンのテープは黄色く変色している。
店がなくなってしまっては、思い出のケーキが買えない。啖呵を切って家を出て来たのに、出鼻をくじかれてしまったような思いだ。かわりに何か他の食べ物を買うしかないが、慧が喜びそうなものというと、すぐには思い出せない。この店のケーキしかないと、思っていたのになあ。
名残惜しく劣化したセロファンを指でなぞっている姿がよほど情けなく映ったのか、「あの」と店員が声をかけて来る。
「ニシムラさんは、隣の市の商店街で新しい店を借りたという話ですよ」
ありがたい情報だった。本当ですかと聞き返すと、訪ねたことはなく、詳しい場所も知らないが、間違いのない話だと店員は保証する。にわかに元気を取り戻した僕は、お礼に彼女の店で花を買うことにした。
家にいる恋人にいい花を見せてやりたいと申し出ると、店員は花束を見繕おうと申し出てくれた。しかし花束は僕には少々気障に感じられる。鉢植えが欲しいと言うと、赤いバラの咲く鉢を持って来た。
「あっ、これもしかして、挿し木で増やしたんじゃないですか?」
「え? ああ、そうですね。有名な品評会で賞をとったバラ農家が近くにありまして、うちはそこから特別に安く挿し木を分けていただいているんです」
「賞ですか。それはすごいですね。どんな世界でも抜きん出るというのは大したものです。僕も似たような仕事をしていましたが、表彰されるなんてとても。しかしそう言われてみると、これは実にかわいらしいバラですね」
「園芸関係のお仕事をしてらっしゃるんですか?」
「いえ、バイオ関係の仕事をしていました。もう辞めてしまいましたけれどね。いまはわけあって、愛の戦士として活動をしています。ご存じですか? 挿し木って、クローン技術の一種なんですよ」
「はあ」と、店員は当惑している。
「まあいいです。とにかく、これをいただきます。ありがとうございました」
代金を支払ってから、タクシーに乗り、教えてもらった商店街へと向かう。駅前のバスロータリーを抜けて、パチンコ屋の騒音の前を通り過ぎてアーケードに足を踏み入れた。路上の人気は死に絶え、閉じたままのシャッターと野良猫の姿ばかりが目立った。ここはこのまま滅びゆくにちがいない。もう滅びているのかもしれぬ。ケーキ屋はどうしてこんな商店街に移転したのだろう。
布団屋の前に掲示板があり、商店街の地図が貼ってあった。お手製のおおざっぱなものだったが、詳しく見てみると小さな字で『洋菓子ムスタッシュ』と記してあるのを発見した。『シ』の字がどうしても『ツ』にしか見えなかったが、まあそんなに似通った名前の別の店があるはずもないだろう。
洋菓子ムスタッシュはアーケードの奥、ほとんど外れの方にあるらしい。地図に従って商店街の頭上を覆う半透明プラスチックの屋根の下をずんずん進んで行く。するとそれらしい建物が見つかったのだが、本当にこの店に入って良いものか、扉の前で僕は自信がなくなってしまった。
おかしな建物だ。通常こういった洋菓子の店は外壁の一部、或いは全面をガラス張りにして店内を見通せるようにし、往来を通行する人間が気軽に足を踏み入れられるように配慮しているものだが、そうした工夫が全くない。コンクリートを打放した素っ気ない壁に、粗末なアルミのドアがついているだけだ。窓は一つあるにはあるが、明かり取りの小窓が高い位置についているだけで、視線を通すものではない。
ドアに貼り付けられた表札に『洋菓子ムスタッシュ』と書かれていなければ、麻雀荘か何かと勘違いしてもおかしくなかった。こうして出入り口の前に立って見上げても、営業中なのかどうかすら定かでないような佇まいなのである。
以前の大衆的な店を捨てて、こんなアヴァンギャルドな店舗に移ったのは、営業方針の転換なのだろうか? 以前の味が保たれていなければ、せっかくここまでやって来た意味がない。不安だったが、引き返すわけにもいかず、ゆっくりとドアを開いた。
留守宅を狙う泥棒のようにそっと店内に足を踏み入れた僕を、店主の声が出迎える。
「いらっしゃい」
手狭な店内は飾り気がなく、洋菓子屋にしてはあまりに素っ気ない内装で、しかも薄暗かった。ショーケースの向こうの厨房で店主が作業をしている。ボウルのなかで泡立て器を振ると、金属の触れ合う音がコンクリートの壁に反響する。店内はひんやりとしていて、体が冷えた。僕はそこで咳き込んでしまう。
「風邪ですか?」
店主はちらりとこちらを見て言った。薄暗い店内に似合わぬ、明るくてはきはきとした声だ。
「気をつけた方がいいですよ。病院にかからなきゃいけなくなったら大変だ。最近は、まともな病院も少なくなっているらしいですからね」
「はあ」
店主は以前と同じように密度の濃いひげを口元に蓄えてはいたが、体の線は大分細くなってしまっている。わずか二年だが、これが時間の流れなのだろう。とにかく僕は、ケーキをさっと買って、さっと帰るのだ。意気込んでショーケースのなかを覗くと、店の外観とは違って、常識的で信頼感のある形状の商品が並んでいる。モンブランの上に載ったチョコレートの細工など、なかなか手間が行き届いているじゃないか。しかし、以前買ったケーキは見当たらない。カットしたやつはあるけれども、あの丸いやつが見つからない。
「どれを包みますか?」
作業に一段落つけた店主が、手を洗いながら近づいて来る。僕より頭一つ高い大柄の人物で、すぐ目の前に立って見下ろされると威圧感があった。
「ホールのケーキが欲しいんですが。二人分の小さめのやつ。以前来た時に美味しかったのですが、どうも見当たりません。季節限定商品だったのでしょうか」
「いついらっしゃったのですか?」
「クリスマスの時です」
「ああなるほど、ここに越して来る前にいらっしゃったんですな。それは確かに今の時期は販売しておりません。しかし、少し待って頂ければ用意出来ますよ」
店主は愛想笑いを浮かべながら言う。
「ありがとうございます」
やっと目的のものを手に入れられそうで、僕はため息をついた。
「バースデーケーキですか?」
「いえ快気祝いです。恋人が病院から帰ってきまして」
「それはおめでとうございます。何かメッセージは入れますか? サービスでおつけしますが」
「それは……結構です。必要ありません」
「わかりました。作っておきますので、またいらしてください」
「すぐ出来るのなら、ここで待ちますが」
「じゃあ、そこの椅子におかけになってください」
言われた通り、入り口の傍にあった籘の椅子に座る。膝の上に置いたバラから、甘いにおいが漂う。いいにおいだ。慧もきっと気に入るだろう。早くかがせてやりたい。ケーキはどれくらいで出来るのだろうか? じっとしていると、悪寒が一層ひどくなって仕方がない。
店主は厨房に戻って、作業を行っている。冷蔵庫からこぶりのスポンジを取り出し、生クリームや苺をデコレートしてゆく。熊のような図体で、ちまちまとかわいらしいものを作るものだ。
「入りにくい店でしょう。よくいらっしゃいましたね」
作業をしながら店主は言う。
「最初は前の場所を訪ねたのですが見つからなくて、人に訊いて来たんです」
「なるほど、そうなんですか。また来ていただいて、嬉しいことですね」
店主は上機嫌な笑顔をつくる。
「ありがたいことに、お客さんのような方が結構いらっしゃるんですよ。おかげさまで、なんとか生活させていただいております。いやむしろ、最近は以前より繁盛しているかもしれません。おかしな店構えなのに案外旨いと噂になっているようなのですよ。出してる菓子は以前と変わらないのですが、不思議なものですね。この雰囲気が秘密めいていて良かったのでしょうか。狙ったつもりもないのですが、瓢簞から駒とは言ったものです」
「はあ」
店主の朗らかで大きな声が、僕の頭のなかにぐわんぐわんと響く。黙ってさっさとケーキを作ってくれないかな、と思うのだが、ひげ面の大男を前にそんなことは言い出せない。彼が握るケーキナイフの一振りで、僕なんぞは絶命してしまうだろう。こんなに狭くて暗い場所で死んでしまったら、誰が見つけてくれようか。
しかし店主はどうしても無駄話がしたいようで、新しい地域に移って以前よりゴミの分別が厳しくなったことや、自転車を盗まれたことなどを話題に語りかけて来る。僕は内心放っておいて欲しかったが、無理をしてそれに応えていた。そして「そう言えば、以前は奥さんがいらっしゃったような。今日はお手伝いをなさってないんですか?」などと聞いてみたところ、「死別しまして」と、表情を変えずに店主は答える。
「あ、これはすみません」
僕は慌てて頭を下げる。
「いや、気にしないでください。私も気にしていませんから。それよりも、お待たせしてすみません。まだちょっと掛かりそうなので、これでもいかがですか?」
そしていつの間に用意してくれたのか、湯気の立つティーカップをショーケースの上に置く。カフェインは飲みたくなかったけれど、それ以上に体を温めたかった。ありがとうございますと言って、それをすすった。すると久方ぶりのカフェインは覿面に効果を発揮し、熱病の浮遊感に拍車をかける。
こんな体調で僕は、ケーキと鉢植えを落とさずに家まで持ち帰り、そして慧と共に楽しく過ごせるのだろうか。
「恋人さんの快気祝いという話ですが、もう完全にお元気になられたのですか?」
ぼんやりとしていると、店主が話しかけて来た。
「ええ、まあ」
「それはいいことです。大事になさるんですな。私が言うのもなんですが」
言うと、口元のひげが動いた。苦笑して見せたらしい。
「あの、奥さんはどうして亡くなったんですか?」
そう尋ねて欲しそうだったので、僕としてはあまりその話題に深入りしたくはなかったのだが、そう尋ねた。
すると店主は「ふふっ」と、まるで待ってましたとばかりに笑い、
「交通事故ですよ。電話一本で警察から告げられて、あっけないものです。それで私の人生プランはすべてパーですよ。貯金の計画とか、子作りの予定とか、老後に入る施設の心配まで、馬鹿みたいにいろいろ考えていたんですけれど、全てなくなっちまいました」
あれは何と呼ぶのだろう。くるくると回る円形のテーブルの上にケーキをのせ、彼はナイフで手際よく生クリームの形を整えて行く。
「それは悲しいですね」
出来上がってゆくケーキを眺めながら、僕は応えた。すると店主は作業の手を止めて、僕の方を見る。
「悲しいですって? はは、そりゃ、悲しいですな! しかし、それはどうだっていいことです。家族が死んで悲しみにくれるのは、野良猫だってすることです。人間らしくもっと高尚な話をしましょうや」
「はあ」
「いや、実は、私はいまだにあいつが死んでしまったという気がしないんですよ。それがどうにも不思議で、ひっかかっておりまして。ねえお客さん、実際、彼女はまだ存在しているんじゃないですかね? どうも、死んだからって、いなくなるのとは違うような気がするんですよ。どう思います?」
そう言って彼はおどけた。
「まあ、物質的にはなくなるわけではないですからね。消滅とはまた違うのかもしれません」
すると彼はパチンと手を叩いて、
「そのとおりです! まったく、私も同感ですよ! 死んだからって、だからなんだって言うんですか? われわれもどうせすぐに死ぬんですよ。取り立てて騒ぐようなことじゃない。それで泣いたり苦しんだりするだなんて、馬鹿げていると思いませんか? 静かに毎日を暮らせば、それで済むんですから」
ナイフの柄でとんとんと冷蔵庫を叩くと、笑い、
「変なことを言ってすみませんね。最近はどうも、お客さんにすぐ話しかけてしまうんです。良くない癖だと知ってはいますが、楽しくってやめられない。でもご安心ください、こういう人間が、案外旨い菓子を作るものなんですよ。もうすぐ出来ますよ。すばらしく美味しい私のケーキが。あなたの恋人もきっと喜ぶでしょう。でもどうやって食べるんですか? もう骨になっちゃってるじゃないですか」
さらに大きな声で笑うので、僕はむっとした。失礼なことを言うやつだ。人を馬鹿にするにもほどがある。
「骨になったら食べられないというのは、あなたの思い込みですよ」
「そうですかね? それこそあなたの思い込みじゃないんですか。まあどちらでもかまいません。私はケーキを作るだけだ。それをあなたがどうしようが知ったことじゃない。豚の餌にしようが、死体の口に突っ込もうが、関係ないんだ」
それに反論しようと口を開いたが、喉から声が出ない。まるで空気が急になくなったみたいに、何も喉を通り抜けてはくれず、口をぱくぱくとするばかりだ。おかしいな、どうしたのかな、と不思議に思っていると、驚くべきことに急に地面が回転しながらぐんぐんと僕の側面に迫って来る。奇妙なことも起きるものだ、まるで遊園地のアトラクションのようだ。のどかにそんなことを考えていたせいで避けるのを忘れてしまった。右肩に激しい衝撃を感じ、その次の刹那、僕の目の前が真っ暗になった。
そうして僕は目が覚めた。フローリングに頰をべったりと押しつけた姿勢だった。腰骨がやたらと痛むのは、ベッドから落ちた時に打ち付けてしまったのだろう。
大きなくしゃみをひとつすると、鼻水が上唇に垂れて来た。頭痛がして、意識がぼんやりとする。水分とビタミンCを摂取しようと寝室を出ると、テーブルについた慧は丸めた背をこちらに見せて何かを食べていた。
床の上には脱いだままの衣服や、スナック菓子の袋が落ちている。キッチンの方で生ゴミが腐って、リビング全体に悪臭が漂っている。こちらに背を向けた慧は前屈みになって、手元に顔を埋めるようにして何かをかき込んでいる。首回りにも背中にもでっぷりと肉がつき、まるで豚のようだ。その脇には、カップラーメンの空き容器が重ねられている。昨日僕がドキュメント番組を見ている時はあんなものはなかった。あれら全部を今朝起きてから食べたというのか。
「あまり食べ過ぎない方が良いよ。健康に悪い」
僕は彼女の機嫌をそこねぬよう、そっと語りかけた。しかし、どう口調を工夫しても意味はなかった。彼女はゆっくり振り返ると、あからさまに不機嫌な表情と共に僕をにらみつける。その口元には米つぶがついていた。
「カツ丼でも食べてたの?」
「私が何を食べてたって、いいじゃないですか!」
慧は僕の頭に響くような大声を張り上げた。
「食べるくらいしか楽しみがないんですから、放っておいてくださいよ。大体この部屋の壁紙はなんですか!」
慧は三日ほど前に張り替えた壁紙を指さしてそう言った。
「きみの好きな色だろう?」
「そうですけれど、部屋の壁紙を全部ピンクにするだなんて、どうかしていますよ!」
「喜ぶと思ったんだよ」
「気持ちは嬉しいですけれど、これはあんまりです。朝目覚めて、突然こんなふうになってるのを見たら、頭がおかしくなったのかと思うじゃないですか。そうでなくても、いつ狂ってしまうんじゃないかと不安なのに……」
そう言われると、僕には返す言葉がなかった。すごすごと引き下がると、キッチンでビタミンCと総合感冒薬をミネラルウォーターで飲み下す。リビングルームに戻ると、彼女はまだ食べている。僕が戻って来ても、視線一つよこさないで食べている。ラーメンと炒飯を並べて、交互に口に運んでいる。一目見ただけで僕は満腹になった。
「もうすぐクリスマスだよ」
「そうですね」
彼女は食べる合間にそう答える。
「年が明けたら挨拶に来いって、きみのご両親が言っているんだ」
「行きません」
彼女はどんぶりを傾けてスープを一口すすった。
「このままずっとこうしているつもりかい?」
「あなたこそ、ずっとこうしているんですか?」
「いや、そのうち働くよ。そのうち」
僕の言葉に、慧は食べながら肩をすくめる。
「なんというか、今の僕は養豚場の飼育員みたいだね」
小さく口の中でつぶやいたが、彼女は聞き逃さなかった。
「今なんて言いました?」
「そんな恐ろしい顔で怒らなくたっていいじゃないか。ただの冗談だよ。まあね、きみだって大人なんだから、そこまで食べたいならね、僕も干渉しないでおこう。ただね、このままじゃどうにもならないよ。せっかくの人生が台無しになっちゃうよ」
すると慧は急に顔をゆがめ、
「私だって出来ることならば、私の頭の中にある昔の思い出みたいに楽しく暮らしたいですよう! でも、どうしても出来ないんです」
さっきまで顔を真っ赤にして怒っていたかと思えば、今度はボロボロと涙をこぼし、泣きはじめる。そして死にたい死にたいと嘆き出すのだ。
喉の奥から絞り出すような嗚咽の声に合わせて、全身の脂肪が細かく震えている。顔にも脂肪がつきすぎて、泣いているのか笑っているのか判別がつかないような表情になっている。昔からよく泣く子で、以前はもうちょっとさまになっていたのだけれど、今はあんまりにも面白すぎる姿で、かえってそれが痛ましい。あまりにも痛くって僕は何も言えない。彼女の涙がラーメンのスープに落ちるのを、うつむきながら眺めている。
僕だって泣けるものなら泣きたいのだ。社会においては仕事も収入もない不要者だし、家では恋人が一日ごとに醜くなって、口を開けば僕を責め、世界を呪う言葉を呟いている。
文句の一つだって言いたかったが、言えば一層手をつけられなくなってしまう。そうすると、彼女は僕の大事なものを壊すのだ。いつだったか口げんかになったとき、つきあい始めたばかりの頃に慧が誕生日プレゼントとして買ってくれた壁掛け時計を打ち壊したときは、僕の心も砕けそうになった。
「あら、そんなに大事なものだと知りませんでしたわ。多分実験の失敗で記憶が抜け落ちてたんだと思います」
なんて言っていたけれど、顔は悪魔のように笑っていたっけ。それを見れば全部わかった上でやっているのは明白だ。どうしてこんなことをするのだろう? その時計の残骸を、僕は今でも捨てられなくて、こっそりと物置に仕舞っている。慧が泣き止んで、再びラーメンを食べ始めるのを見届けると、僕はその残骸を取り出し、トイレのなかで見つめた。どうしてこんなことになってしまったのか。彼女は自分を慧じゃないと言い張っているくせに、慧としての経験と知性と性格をもって、僕の心の守られていない部分を的確につく。そんなのずるいじゃないか。
便座の蓋に座ってメソメソしていると、カワゴエ先生から電話があった。しばらく慧が診察を拒否していたので心配してかけてくれたのだと言う。おおまかな事情を伝えると、まず僕と二人で話したいとのことだったので、了承した。
早速その翌日に彼の指定する場所へ向かった。そこは、四方を防塵の幕で取り囲まれた工事現場だった。古いビルの改築をしているらしく、作業着姿の男達が資材を担いで出入りしている。この入り口のそばから電話をしてくれということだったのでその通りにすると、なかから黄色いヘルメットをかぶったカワゴエ先生が現れる。
「どうも、ご足労いただいてすみません。本当は私から伺うべきだったのでしょうが、ここに用事がありましてね」
ヘルメットを脱ぎながら彼は言う。
「こんなところにですか?」
「ええ。ここは私の病院になる予定なんです」
「えっ、病院ですか?」
「はい。それで、このところずっと忙しかったのですよ。廃業した病院の建物をうまく買い取ることが出来ましてね、内装から設備からいじってるところなんです。暖かくなる前になんとか開業出来ればというところですね」
「誰か出資者でもいるんですか?」
「それはもちろん。政府と、あとはまあ、いくつかの団体が趣旨に賛同してくれましてね。クローン被害者は日本でもどんどん増えていますし、そういう施設も必要なのでしょう」
自分の病院だなんて、まさか冗談だろうと思ったのだが、どうやら本当の話のようなので驚いた。確かにカワゴエ先生は日本には珍しいクローン人間専門の精神科医だし、公的な意義がないとも言えず、あり得ない話でもないのだろうが。もしかしたら、僕たちの企画に参加したことで、どこかの役人とコネでも出来たのかもしれない。どうして彼のような考え方の人間が僕たちのプロジェクトに参加していたのか不思議だったが、それが目的だったのか。邪推かもしれぬが、だとしたら大したものだ。自分の願望を実現させるために、賢明にしたたかに行動している。
僕には到底真似出来ない。ため息が出そうになったが、どうにかこらえて、何食わぬ顔を取り繕った。
「それでは、近くの喫茶店へ行きましょうか」
カワゴエ先生が言ったので、僕たちは並んで歩きはじめる。
工事現場のすぐ近くにある静かな喫茶店に足を踏み入れた。かすかに有線が掛かっているようだがほとんど聞き取れない。店の奥にいる客が本のページをめくる音さえ聞こえて来そうな静けさで、僕らは辺りに気を配りながら囁くような声で話さなくてはならなかった。
「なるほど」
僕が慧の状況について話すと、ひとつ頷く。
「あり得ることです。あの状況でしたからね。私も気にしてはいたのですが、なかなか手が回らずに申し訳ないです」
「仕方のないことです。プロジェクトは解散したわけですからね。ご自身の仕事もあります。それに僕らの方から診察に行かなくてはいけなかったのです」
「来にくかったというのは、わかりますよ。二人の間だけの話としてとどめておきたいことも、多いでしょうしね」
カワゴエ先生はそう言って、ブラックコーヒーを一口飲む。僕は自分のレモンソーダのストローに口をつけてから、
「やはり墓を見せたのがいけなかったんでしょうか」
「どうでしょうね。それがきっかけにはなったのかもしれませんが、遅かれ早かれ似たような状況になっていたように思いますよ。クローンとして生まれた人にはよく見られる傾向です。自分の特殊な出自に、社会や他人との断絶や違和感を憶えるんです。彼女はいわゆるクローン犯罪によって生まれた人々とはいくらか事情が違いますが、その辺りは共通するものがあるのでしょうね。クローン犯罪が多発する地域では、当然クローンとして生まれた方々も多数おられるわけですが、社会に適応出来ずに犯罪に手を染めるケースが多いです。世界を憎んでいるんですよ」
「はあ、そうなんですか。日本でもそのうちそうなるんですかね」
「そうならないために、私はこうしていろいろと活動をしているんですがね」
そう言って、カワゴエ先生はため息をついた。
「とまれ、大体事情は飲み込みました。詳しい話は本人と会ってから、ということになりますが、おそらく、慧さんには隔離された環境で過ごしていただくことになりそうです」
「具体的にはどういった環境ですか?」
「なんのしがらみもない場所です。木原慧さんに関係するものから離れた、他の誰でもない彼女自身でいられる場所で、自分自身について落ち着いて考える時間が必要です」
「つまりそれは、彼女を慧でなくするということですか?」
「それは本人の結論次第です。心外かもしれませんが、ご両親やハジさんが、慧さんであることを押しつけて、プレッシャーを与えているという側面もあるんですよ。それから解放されなくては、彼女の状態は悪化する一方でしょう。どういう結論を選択するかはわかりませんが、彼女には誰として生きるか、選ぶ権利があると思いますがね」
「いや、それでは、そうやって彼女が慧であることをやめてしまっては、実験の意味がないじゃないですか」
「プロジェクトはもう凍結されましたよ」
「しかし……」
口の中がやたらと渇く。僕はいつの間にか握りしめていた手を開いた。手のひらにいやな汗をかいている。
「お気持ちはお察ししますが、彼女には適切な治療を受けて健康な人生を取り戻す権利があるのです。ご理解ください」
そう言われれば、僕も不承不承ながら頷くしかない。
「当面は既存の施設で生活していただきましょう。そして、私の病院が出来上がったら、そちらに移るのがベストだと思います」
「どうしても、在宅でなんとかするわけにはいきませんかね?」
「無理ですね」
カワゴエ先生は、役人のように素っ気ない物言いで断言した。
「取り返しのつかない事態に陥っても知りませんよ。もっとも、あのプロジェクト自体が、クローン人間というものを軽く考えすぎていたとは思いますが」
「はあ」
僕が気のない返事をすると、彼は冷たい視線をこちらに向けて、続ける。
「肉体のコピーと精神のコピーを組み合わせれば元の人間がもう一人増えるだなんて、あまりに乱暴な考え方ですよ。この際だからはっきり言わせてもらいますが、私には正気の沙汰とは思えなかった」
暖房で暑くなって来たのか、カワゴエ先生は襟元をゆるめた。
「クローン人間なんか、作るべきではないんですよ。ご存じの通り、南米ではクローンの規制などあってないような状況です。そのため、かの地に世界中のクローン研究者が集まってしまって、技術が過剰に発展しました。まあ、一概に悪いことばかりではないんですがね。たとえば、低コスト化が実現して優秀な家畜の安定供給が容易になったのはポジティブな成果の一つに数えてもいいでしょう。いまスーパーに上等の肉が安価に並んでいるのは、たいていあの辺りでクローニングされた種牛のおかげでしょうよ。ただ、その代償は大きかった」
ずっと温めていた不満なのだろう。カワゴエ先生は吐き捨てるような口調で言う。
「牛が安く作れるのなら、人間だって安く作れるんです。それで世界中にクローン犯罪が蔓延してしまったんだ。日本で発生するクローン犯罪の多くも、元をたどれば大体あの辺りに根を持つんでしょうね。おそらく、ハジさんが昔お知り合いになったという女性も、出生地はその辺りでしょう。戦争直前くらいの時期に、売春要員としてクローンの少女が大量に密入国させられた事件がありましたから、その時の一人かもしれません」
そして、彼は片方の眉毛を吊り上げ、
「かわいそうな話です。私はまったく気に入りませんよ。そうだ、私が以前働いていた場所のお話をしましょうか? あそこは、本当の地獄だったんですよ」
カワゴエ先生はカップに残ったコーヒーを飲み干し、そしてゆっくりと語り始める。
あまり人には話したくないような気分の悪い出来事ですが、今回ばかりは仕方がありません。あなたも、その世界に完全に足を踏み入れてしまっているのですから。
そうですね。まず、クローン島と呼ばれた島をご存じですか? 誕生させたクローン人間達を、売り払うまでの間に集団で生活させていた場所が見つかった事件があったじゃないですか。カリブ海に浮かぶ小さな島を一つ丸々買い取って、その隔離環境で人身売買用のクローン人間を育て、教育していたのです。警察隊を送り込んで、大量のクローン人間が保護された時、美しい少女たちが映った映像が、こちらでは報道されませんでしたか? されていませんか? ああ、なるほど。ちょっとだけ触れたことがあったかもしれないと。そうでしょうね、地球の裏側の事件ですし、あまりにも救いのない残酷なニュースですから、そんなものでしょう。あちらでは連日メディアを騒がせる大ニュースとなり、一斉検挙されたギャングの大物達の処遇や、保護された少年少女の今後の処置について、盛んに議論が交わされていました。結局ギャングのほとんどは死刑になり、少年少女は、島の教育施設をそのまま保護施設として再利用することで決着がついたんですよ。そこならば外界からは隔離されていましたし、様々な不慮の事故にも対応出来ますからね。そして施設には、彼らの治療にあたる医師や看護師と、教育を行う教師に牧師、それから研究目的の科学者が派遣されていました。私は医師として、その施設に勤務していたことがあるんです。
何というか、不思議な場所でしたね。クローン人間達は、成長促進剤を飲ませて遅くとも十歳までには売り飛ばされてしまうのが普通です。ですから、施設にいたのはそれ以下の、まだ幼い子供達ばかりでした。男女の割合で言えば、これは圧倒的多数を少女が占めていました。ご存じの通り、クローン犯罪の主な目的は、性的目的による人身売買ですからね。労働力として買い取られるケースもないわけではないですが、さすがにコストには見合いません。低コスト化に成功したとはいっても、人間一人を作り出し、ある程度まで養育するには、成長促進をしたとしても相当の資金が必要です。彼らがいずれも非常な美貌の持ち主なのも、性利用という目的を考えれば、当然のことでした。
島には顧客の望みに応じて白人も黒人も黄色人種もいました。そのほとんどは、どこから手に入れたのか、映画スターなどの有名人の遺伝子を受け継いでいたので、見たことのあるような顔ばかりです。この付加価値がなければ、クローンなどにせず、誘拐したり、最貧国で親から買って来るという、昔ながらのやり方で済むのですから、いわばこれこそがこのクローン島が扱う商品のセールスポイントだったのです。
本当に、あらゆる有名人が数多くいましたよ。たとえば、八歳のマリア・カーソンが四人、五歳と四歳のカロリーネ・ファーナーが二人ずつ、そして四歳のサエキ・ミリが七人といった具合に、世界中の美女が、何人かずついるんですよ。ああ、ヤン・イーリンもいました。ご存じないですか? アカデミー賞助演女優賞を受賞した中国人女優ですよ。私はファンだったもので、彼女も流通していたのだと知ってショックでした。そして、彼らはその島で、商品としての偏った教育を受けていた訳です。
どんな教育を施されていたと想像されますか? ……まあ確かに、ソドムやゴモラのような、背徳的な教育もないではないですが、教養や、言語、それから疑うことのない従順な態度を学ばされていたようです。顧客の欲望に応える形で、そうなっていったのでしょう。彼らの生育には非常にコストがかかるため、顧客には特別な富裕層しかおらず、上流階級に属する人間も多数利用していました。彼らのお眼鏡にかない、その財布の紐をゆるめるために、いろいろとやったものですよ。
子供たちは世間のことに関しては全く無知ではありましたが、非常にしつけが行き届いていて、どの国の上流階級の子供と比較しても、見劣りすることがないほどでした。教育施設の壁には、彼らの描いた絵が並べられ、花壇にはハイビスカスが咲き乱れていました。天使のような子供に育てる、というのが組織の方針だったようですね。実際その島の子供たちの魅力というのはおそるべきもので、無邪気さのなかに、コケティッシュなところも持ち合わせているんです。しかも、従順ですからね。子供たちと不適切な関係を結ぶスタッフが処分を受けるケースも少なくはありませんでした。もっとも、精神外科的な脳手術を受けて、人間性を失った子供たちもいます。……いわゆるロボトミーってやつですよ。その辺りの知識に関してはハジさんの方が詳しいでしょうね。感情の起伏のない、文字通りロボットのような状態にして『出荷』されることもあったそうですよ。要は、顧客の要望次第なのでしょう。
自然の美しい島でしたよ。日本の汚れたそれとは違う、美しい空と海に囲まれ、砂浜も真っ白です。裏に隠された事情や、その行く末を考えなければ、無邪気で美しい子供達が暮らす、楽園のような場所に見えたかもしれません。尤も、少し離れた丘の裏までまわれば、それが幻想であることにすぐ気付かされますが。そこには、島にある他の建物とは少し趣の異なった建物があります。それは顧客向けのホテルで、島で育てられた子供たちのうち何人かはそこで働き、客にサービスを提供していました。客は相当の料金さえ支払えば、子供達を買い取り、いかなる要求を果たすことも出来ました。たとえば、建物の地下には、中世の拷問具が置かれていたそうですよ。アンティークとして飾っているわけでもなく。この意味はおわかりですよね?
まったく、腹立たしい話ですよ! 今こうして話していても、当時のことが目の前に蘇り、冷静ではいられません。これほど非人道的なことが、世の中で起こりうるんですよ! 子供達は物の様に扱われました。その消費先の割合は、島でのものと、買われて行くのとで、三対七ほどだったと聞いています。ホテルの裏から相当数の遺骨が見つかっていますが、その倍以上の子供達が世界中に売られていたのですから、大変な収入だったのでしょうね。顧客のなかには毎年、二人も三人も一遍に買ってゆく人物もいたそうです。摘発によって子供を救出出来たケースもあったようですが、ほとんどは藪のなかです。顧客の多くは立場のある人間でしょうし、裏で何か当局との取引がなされたのかもしれませんが、私には知る由もありません。ただ、後に私はその救出された子供……会った時はもう成人していましたが、その人物を担当する機会がありました。
彼女は引き取り手の老富豪に家族のように扱われ、学校に通うことも許可された幸運な例外でした。老富豪の死後、クローンとしての経歴を隠し、普通の人間として社会で生活をしていたのですが、どうしても馴染むことが出来ず、神経を患ってしまったのです。仕事を辞めた彼女は一人で島に来て、施設を見学したいと申し出ました。警備員も、はじめはただの観光客かとも思ったのですが、サングラスをとったその顔が、島に何人もいる子供達とそっくり同じだったので、尋ねてみると、確かにここの出身者だという話で、それから彼女もそこで暮らすようになったのです。神経症が緩和されると、彼女はスタッフの側に加わって、子供達の面倒を見てくれるようになりました。今は学校へ通い、臨床心理学の勉強をしています。ああ、木原さんは今度、彼女と会って、話してみてもよいかもしれませんね。卒業後、私の病院で正式なスタッフとして迎え入れることになっているのです。
まあ、彼女は見事社会復帰が出来ましたが、それは幸運に恵まれたごく希なケースでしかありません。ほとんどのクローンたちはまず生還することが出来ませんし、帰って来たとしても、社会に適応するのは困難です。全てのクローン人間は、苦しみを抱えたまま一生を過ごさなくてはなりません。
クローン島の少女達も、本当に大変なのはこれからです。自分たちの残酷な運命を知らず、夢のような話だけを聞かされて育った子供たちを、いかにして社会に近づけるか。その過程で予測出来る事柄のほとんどは、彼女たちにとってネガティブなものです。私が居た間には、結局答えは出ませんでした。かといって、いつまでも隔離し続けるわけにもいかないでしょう。ただでさえ政情不安定で、充分なケアの出来ない環境です。彼らが島を出る時、また恐ろしいことが起きてしまうのかもしれません。どうなることか。
当地では、クローン犯罪によって生まれたクローン人間が多数生活していますが、彼らは希望の持てる前例とはなり得ていません。残念ながら、その多くは余生を病院か、刑務所の塀の内側で過ごしています。
さっき言ったとおり、彼らは基本的に、クローン人間同士でしか信頼関係を結ばず、その他の人間を敵視する傾向がありますからね。彼らのほとんどが人間の欲望や犯罪の道具として誕生したわけですし、社会でも奇異な目で見られることが多いものですから、自然とそうなるのでしょう。そしてクローン人間が犯罪や問題を引き起こすたび、彼らへの差別意識が助長されます。また、間違った技術で生まれ落ちた悪魔的な存在だと、宗教的な理由で彼らを憎み恐れる人々もいます。全体的に、良い印象で受け入れられてはいないのです。施設から保護されたクローンの少女が、地域の住民からリンチを受けて自殺をはかるという悲しい事件もありました。
四年ほど前に、こうした差別意識と闘うために、クローン人間の互助会が結成されたのですが、ご存じですか? ……名前だけは聞いたことがある。なるほど。でも詳しくはご存じないでしょう? 研究室の他の方も、ほとんどご存じないようでしたから。世界中のクローン技術の論文に精通しているような方でも、社会でのクローン人間たちの活動に無知であるというのは、なんとも滑稽な話だと私は思いますよ。
彼らはクローン犯罪から救出された児童や、社会で働くクローン人間たちの支援を行っています。この間、ついに政府からも補助金を勝ち取ることに成功したようですね。これから少しずつ、活動の場を広げてゆくのでしょう。クローン犯罪は、増加する一方ですからね。
そういえば、彼らは『クローン人間』という言葉にかわる新しい呼称を作ったのですが、ご存じですか? ……はい、そうです。EVASというのがその名前です。おっしゃるとおり、アダムの肋骨からイブが生まれたという神話から、そう名付けたのです。クローン人間という呼称はいかにも非人間的、非人道的ですからね。日本では浸透していませんが、向こうでは、既に公式の場での呼称として採用されているようです。ちなみに、我々クローンでない人間のことはADAOSと呼ぶのだそうですよ。これはもちろんアダムのことです。宗教に因縁のある呼称ですから、これらもやがてまた別の言葉に置き換えられるでしょうが、アダムとイブの夫婦のように、関係に問題を抱えながらも仲むつまじくやってゆこうという意味の込められた、いい呼び名だと思います。こうしてEVASは今、クローン人間としての自分たちの人生を、前向きに受け入れようと努力しているのです。
科学技術の発展というのは、誰にも止められないものですが、その裏側でこうした世にもおぞましい現象が発生していることは、当事者ならば知っておくべきだと思いますがね。あのクローン島の子供達は、あなたの同輩や先輩が作り上げた技術によって生まれたのですよ? ギャング達の去った研究施設の本棚には、トミタ先生の若い頃の論文も並んでいました。
いかがでしょう? やはり、あなた方の実験は、乱暴なものだったとは感じられませんか? 慧さんは、EVASでもADAOSでもないでしょう。EVASの体に、ADAOSの人格を植え付けた人間なんて、かつていませんでしたからね。機会があればEVASの人々を紹介したいとは思いますが、そこでも慧さんは孤独を感じるかもしれません。彼女は普通のクローンよりもさらに新しい存在ですから。本当に、痛ましいものですな。
カワゴエ先生は近いうちに診察をしようと言ったけれども、僕は気が進まない。この話を慧に伝えようか、迷っていた。慧を施設にいれるという話がどうも受け入れがたいのだ。そこで彼女が慧であることをやめてしまったら、もう帰って来ることはない。そうしたら、僕のこの努力は何だったのか。もう一度彼女を失うのかと考えると、体が震えた。
しかし、このままではいけないというのも理解している。カワゴエ先生の語る治療方針が最善の選択だという説明には具体性と説得力があった。僕の願いなど、要するにただの我が儘なのだろう。しかし譲りがたい。家に帰った僕は、なんとかならないものかなと思いつつ、ベッドに眠る慧を見つめた。
それにしても最近の慧は眠るか食べるかのどっちかで、小説を読むだとか、音楽を聴くだとか、映画を鑑賞するだとか、以前は好んでいたはずの文化的な喜びをちっとも求めようとしない。プリミティブな世界に引きこもってしまっている。脳を使うこと自体が、彼女の恐怖となっているのだろうか。僕に当たる他は別段悪さをするわけでもなく、世間に迷惑をかけるでもないが、この状況がずっと続くようでは彼女の一生は不幸なものになってしまうのだろうな。そうしたら僕は後悔するだろうか。それとも、目の前で苦しみ続ける慧を見ながら、その絶望に共感せず、自分の側にいてくれて、僕は楽しいからこれでいいのだと、笑っていられるだろうか。自信がない。
彼女を施設に手放しても、ここに残して彼女を苦しませても、いずれを選んでも後悔するのならば、やはり彼女が健康になったほうがましだろう。そもそも、理屈で考えれば迷うような話ではないのだ。僕の感情は完全に利己的で、間違っている。むごいものだ。
半日悩んだ末に、結局話すことに決めた。相変わらず眠り続けていた彼女の肩をゆすり、不機嫌そうに寝起きの目をこする彼女に、カワゴエ先生の提案を話した。
「また診察をするんですか?」
慧はそう言って眠そうな顔を上げる。分けた前髪が頰にべったりとくっついている。僕は手を伸ばしてそれをほぐした。
「そうだよ。そして、彼の勧める施設に入ることになるだろう。そこでしばらく過ごしたら、彼が今作っている新しい病院に入るんだ」
僕の口のなかは渇いている。指先が細かく震えている。今すぐにでも吐きそうだ。
「その改装の現場を見てきたけれどね、近くに公園の緑も多いし、雑居ビルみたいなごみごみした建物が少ない閑静な住宅街で、なかなか良さそうな街だったよ」
慧はうつむいて僕の言葉に耳を傾けている。
「どんな、施設なんですか?」
警戒するような目つきで僕の表情を探りながら、そう言った。
「日本では例のない、クローン人間専用の病院だよ。現状行き場がないクローン被害者たちを一手に引き受けるんだそうだ。何でも、スタッフの側にもクローン人間を使ったりするらしい。そこでならきみも、僕には話せないような話題で打ち解けたり出来るんじゃないかな」
「そうですか……」
慧は再びうつむいて、
「ユウジさんは、私がいなくなった方が気楽ですよね」
「馬鹿なことを言わないでくれ。きみがいなくなったら寂しいよ。だけど、このままじゃあまりに不健康だと思ってさ」
「……まだ頂いた薬は残っていますし、もう少し後で、と言うわけにはいきませんか? 他人と話すのは気が進まないんです。入院も、出来ればしたくありません。知らない人しかいない場所はこわいです。すみません」
困惑の半面、安堵したのも事実だった。僕は救われたような気がして、それ以上その話には触れず、そしてこの件はそれで終わった。その後カワゴエ先生から電話があったが、慧の意思を伝えると、無理にとは言わなかった。
「本人がその気になったらでかまいません。そういった時期は、いずれやって来ると思いますよ」
もしかしたら僕の返事を予期していたのかもしれない。あらかじめ用意した言葉を語っているように感じられた。
そうして二人の生活は続いた。僕は働かず、慧も生活の改善をせず、二人でじっと部屋にいると、どこに行くでもないというのに、漂流しているような気分になる。四六時中顔をつきあわせていて、会話一つしない日もあれば、些細なことで言い争いばかりしている一日もあった。どちらにしても疲労するのにはかわらない。
外へ出かけようと誘っても慧は乗って来ない。僕も、もはや仕事を探す意欲はなくなっていた。しかし、このままではいずれ貯金も底をつく。実家に帰って旅館を継ごうか? いやあれは、妹の旦那さんが譲り受けることになっていたっけ。そもそも、客商売についてなんの知識も経験もない僕に仕事は任せられぬだろう。まさか慧を連れて、二人で居候になるわけにもいかない。あそこはもう僕の帰る場所ではないのだ。
そうして半分ふてくされたように毎日を過ごしていると、驚くべきことに、仕事の方からやって来た。
『最近、どうですか?』
と、電話をかけてきたのはトミタ先生である。
話によると先生は引退後、科学関係のつきあいの一切から距離を置き、古い本などを読みあさる生活をしているらしい。実家が寺である関係からか、特に仏教の勉強をしているのだそうだ。慧のその後を心配してくれているのか、僕の電話には何度か彼からの着信があったが、いつも間が悪く、直接話すのは研究所最後の日以来であった。
「芳しくはないですね」
僕は尋ねられるまま、自分と、そして慧の状況を話した。先生は噂としては知っていたらしく、その確認をするような質問の仕方だった。
『もし働く意思があるのなら、私の方で紹介出来るかもしれません』
「どんな仕事ですか?」
『研究職になってしまいますが、問題はありませんか?』
「もう、何でもいいです」
『それならば、力になれると思います。詳しい話を直接したいので、出て来ていただけますか?』
もちろん僕に異存のあるはずもなし。二つ返事で了承した。そして電話が終わると寝室のドアを開け、ベッドの上で惰眠をむさぼる慧に宣言したのである。
「先生から連絡があって、仕事があると言われたよ。これで僕も人がましくなる。だからきみも、少し人間らしい生活をしよう。このままじゃ、二人とも駄目になってしまう」
しかし慧はうんともすんとも言わず、薄目で僕を見るだけだった。そして無言のままくるりと寝返りをうつと、たっぷりと肉がついてまんじゅうのようになった背と尻をこちらに向けた。
まだ春には遠かった。外には冷たい風が肌を切り裂くように吹いている。皆が幾重にも巻いたマフラーや、外套の襟のなかにあごを埋めて歩くなか、堂々と顔を上げ、風に向かうように路上を往くのは心地がよかった。
先生が指定したのは、かつて研究所へ通うのに利用していた駅の目の前にあるレストランである。別段僕の家と先生の家の中間地点というわけでもなく、なぜここに呼んだのかと思いながら、そこにたどり着く。そしてドアを開けようとしたところで、先生と出くわした。彼の頭には、毛皮の帽子が載っている。先生はそれを抑えて風に奪われるのを防ぎつつ「お久しぶりです」と言った。
先生はステーキセットを頼み、僕は柑橘系のジュースを頼んだ。帽子を脱ぐと、先生の頭は青々と剃り上げられている。どういうことですか、と尋ねると、出家したのだと言った。
「出家なんかしたのに、ステーキなんか食べていいんですか? それとも、先生の家は肉食に関しては戒律のない宗派なんですかね」
「いえ、私は個人的に、食べるものに関する戒律については守る必要がないと感じていましてね。好きにしています」
「それはやっぱり科学者としてのキャリアから、戒律の意味を感じられないとか、そういった理由があるんでしょうかね」
「いえ、単に味が好きなんですよ。肉の」
「味ですか」
「ええ、重要です」
そんな出家になんの意味があるのかと思ったが、本人はなんの疑問も矛盾も感じてはいないようで、仏教のすばらしさや、座禅の体験などを口にする。
そして料理が運ばれて、僕らはそれぞれの注文の品に手をつけはじめた。
「ボノボのメイを覚えていますか? あれを引き取ったんですよ」
ステーキをナイフで切り分けながら先生は言う。あの黒い猿はいま、先生の自宅に檻ごと移送され、平和に暮らしているのだそうだ。
「実験に関わるものは全部処分されたと聞いていますが、処分しなくても良かったんですか?」
「そういう話もありましたが、私が反対したのですよ。言ってみるものですね。それよりも、自治体に飼育の許可を取るのが一苦労でした。ああいった動物を個人で飼うのは大変なんですね。初めて知りました。犬や猫を飼うのと同じように考えていたのです」
先生は苦笑してから、
「木原さんには色々と難しい事情があるようですが、メイは健康に暮らしていますよ。クローンというものを、理解出来るはずもないですからな。もし彼女に実験の内容を理解するだけの知能があったなら、木原さんと同じように悩んでいたのでしょうが、いたって気楽なものです」
そう言って、グラスの水を一口含む。
「本当に理解出来ないものなんですかね。サツキと会わせてみたら、どうなるんでしょうか?」
「それは面白い実験ですね。ハジさんはどう予想されますか?」
「さあ、わかりませんが、何か起きそうじゃないですか」
「なんらかの特別な反応を示すかもしれませんが、それは我々の領分ではなく、動物学的な実験となるでしょう。……まあ、学術的な意義はともかく、単純に可愛いものですよ。私のところは子供がいないのですが、まるで娘のように思えて来たところです」
そう言って、先生は笑った。そして話題は本題にうつる。
「中断していたプロジェクトが、再開されることが決まったのです。責任者は私で、再びメンバーを集めています。それで、ハジさんにももう一度協力していただけたらと思いまして」
先生はなんでもないことのように言うが、僕は大変に驚いた。声が出ない。落ち着かせるためにグラスの水を飲み干して、どうにか口がきけた。
「それは本当の話なんですか? だって、もう戦争は終わったし、スペアを用意する必要なんかないじゃないですか」
「私もそうは思いますが、再開の話が持ち上がっているのは事実です。どうでしょう、相変わらず後ろ暗い研究になりますが、引き受けて頂けますか?」
「お受けいたします。僕も世間の厳しさというものが身にしみました。しかし、にわかには信じられません。よくそんな話が出て来たものですね? 露見すればただじゃすまないですよ」
「どうも、テクノクラートを経ずに持ち上がった話のようです。政府の有力者の中に、自分のスペアをどうしても作りたい人物がいたのでしょう」
先生はそう呟いてから、赤い血のしたたるステーキを一切れフォークで突き刺し、口に放り込んだ。ゆっくりと咀嚼して、そして、口元を拭う。
「何にしろ、研究が再開されれば、木原さんへのケアについてももっと組織的な体制を組むことが出来るようになるはずです。ハジさん一人に押しつけて、申し訳ありませんでした」
「いえ、とんでもない。彼女は僕にとって大事な人間ですから。それより、先生こそどうしてこの仕事をお引き受けになったんですか? 仏教の研究をして余生を過ごすと、確かそんなことをおっしゃっていたじゃないですか。いまも楽しそうに話してらっしゃいましたし、てっきり研究には未練がなくなったものと考えていたんですが」
「いや、この仕事はそもそも、私の信仰的な衝動を発端にして行っていたものなので、驚くような矛盾はありませんよ。宗教的、あるいは哲学的な精神修養などとはまったく違うやりかたで個人の自我の拡散と普遍化を実現したかったのです。おおむね成功しているようなので、実に嬉しい。クローンと言うと人は表情を険しくしますが、本来は、とても平和な研究だと私は考えているんです」
先生は肉から立ち上る湯気で曇った眼鏡を取り外し、拭い、また掛けた。
「おっしゃることはさっぱりわかりませんけれど、なにやら先生にも強い情熱があったようで、驚きました」
僕は肩をすくめて言った。
「他には誰を呼ぶ予定ですか?」
「以前のメンバーには一通り声をかけるつもりです。現段階で参加しているのは、キドさんと、ナグモさんですね」
「ナグモさんが? 驚きました。あの人は本当にプロフェッショナルですね。クローンにあんなに否定的なのに、よく引き受けたものです」
僕が感心すると、先生は眉を上げて、
「あなたはまだ聞いていないんですね」
「何をですか?」
「……いえ、聞いていないのなら私から言うことはありません。ただ、彼女もこの研究に携わるべくして携わった人間ではあるのですよ。そうしてハジさんなどとも出会った。まったく、人の巡り合わせとは数奇なものですな。私は縁と呼ばれるものにも、理由はあるのだと思います」
と、なにやら意味深長なことを言う。特別な事情があるのならばはっきり言ってくれればいいのにと思っていると、
「あ、そういえば、ひとつ言い忘れていました」
ふと顔を上げて先生は言った。
「なんですか?」
「研究が再開された最初の実験には、私の体細胞と、私の脳のデータを使うつもりです」
「えっ?」
大きな声を出してしまって、僕は慌てて口を閉じた。そして周囲を見回し、他の客の耳目を集めてしまっていないのを確認してから、小声で話す。
「本気ですか?」
「もちろんです」
先生は何でもなさそうにうなずく。
「先生ほどの科学者が二人も三人も増えるのなら、それは喜ばしいことだとは思いますけれど……」
「私はただ、クローンとなった後の自分に、その心境を尋ねてみたいだけです。カワゴエ先生が書いた木原さんに関する報告書に目を通していて、どうしても私の精神にこの感覚を経験させてみたいと思いましてね。過去の宗教家がどんな修行をしても得られなかったような体験ではないですか。これを逃す手があるでしょうか。本当は、最初の被験者になりたかったくらいなんですよ。あの時はなぜか知りませんが役人に却下されてしまいましたが、今回はもう否定させません。研究が再開されて何が嬉しいって、これに勝る喜びはないですね」
先生はそう言って、目を輝かせた。
話が終わって僕らは並んで寒風吹きすさぶ通りに出た。レストランのすぐ前にはバス停があり、そこで別れることとなる。この後先生は、研究所に向かうのだという。そのために、このレストランに僕を呼びつけたらしい。
「もうプロジェクトは動き始めていますから」
白い息を吐きながら先生は言う。
「作業があるのなら、さっそく手伝いましょうか?」
と尋ねてみると、
「正式に決まってからでかまいません。仕事をはじめる準備もあるでしょう」
とのことで、僕は内心ほっとした。一刻も早く家に帰って、慧に報告したかったのだ。
先生と別れると、そのまま目の前の駅に向かって歩きはじめる。せっかくだし、ケーキを買って帰ろうか。買うとすれば、あのケーキ屋か。クリスマスの夜に慧とふらりと立ち寄った、あの温かく小さな店だ。つい先日、店の前を通りかかったときに、ガラスの向こうで髭の生えた店主と、優しそうな彼の妻が楽しそうに喋っているのが見えた。あの幸福を、ケーキに込めて分けて貰おう。
背中を丸めて歩道をゆく僕を、先生の乗ったバスが追い越してゆく。時間帯のせいか、車のまばらな道路を、バスは気持ちよさそうにすいすいと進んでゆく。そして駅前の交差点を右に曲がろうとしたところで、それは突如閃光を放って破裂した。耳をつんざくような轟音と共に、バスを構成していた鉄板がはじけ飛び、ガラスの破片がきらきらと空を舞った。黒いペットボトルのようなものが、飛沫をまき散らしながら宙をくるくると回転し、路上に落ちる。目をこらしてよく見ると、それはペットボトルではなく、どうやら引きちぎられた人の腕が血を噴きながら回転しているようだった。
僕は慌ててその近くに駆けつけた。久方ぶりの駆け足で、すぐに息が上がってしまう。膝を摑んで荒く呼吸をする僕の目の前で、バスは黒煙を上げてめらめらと燃えていた。その炎のなかからは、人の声ひとつしなかった。かなり多くの人が乗っていたのだが、みな死んでしまったのだろうか。周囲では、破片を浴びた通行人が血の滴る傷口を押さえてうずくまり、うめき声を上げている。
これはきっと夢だろう。最近疲れているせいか妙な夢ばかり見る。さっきの再就職の話も夢だと考えると悲しいが、それでもこんなものを見続けているよりは目覚めて慧と喧嘩をしているほうがましだ。
いつ目が覚めるのかと、ぼうっとそこに立ち尽くしていたが、その気配はない。そのうちけたたましいサイレンの音と共に救急車と消防車と武装警察隊が順々にやって来て、それぞれ負傷者の搬送と、バスの鎮火と、通行人の整理や目撃者への事情聴取を開始する。
どうもこれは、現実らしい。警察隊が黄色いテープでバスのまわりを手際よく囲ってゆくのを呆然と眺めていたら、その様子が不審だったのか、若い隊員が厳めしい表情で近寄ってきて、ちょっと話を聞いてもいいですかと尋ねて来る。
何も話したくはなかったが、逃げれば誤解を生みそうだ。問われるままに自分の名前と身分を答え、そしてバスに知人が乗っていたと話すと、さらに詳しい事情を聞きたいとのことで、パトカーのなかに押し込められてしまう。早く済ませてしまいたかったので、ありのままを手短に伝えた。乗っていたのは有名な科学者で、政府のプロジェクトに関わっており、あのバスで研究所へ向かう途中であったと正直に話したのだが、いまだに僕は落ち着かず、ふわふわとしていたせいか、身分証の提示を求められてしまった。
気分が悪かったが、素直にIDチップを渡すと、隊員は警察用の携帯照合機で僕の身元を確認してくれた。しかしそれでも警戒は解けなかったようで、不審げな視線で僕を見る。
「確かに以前は研究施設で働いていたようですが、このところずっと働いていらっしゃらないようですが。今も無職ですね。どうして、その博士が重要なプロジェクトのために研究所へ向かうとご存じだったんですか?」
「いや、今さっきその依頼を受けたばかりなんですよ。だから、まだ登録されていないんでしょう。もしかして、私が失業の恨みかなにかで事件を起こしたとでも?」
隊員はうんともいいえとも言わず、じっと僕の目を見る。
「あなたは、以前その博士と共にどんな研究をしていたんですか? 具体的に教えていただけませんか?」
明らかに疑っている様子で、腹が立った。
「はあ、僕の口から言っていいものかどうか。非常に重要な、国家秘密なんですよ。あなたの照合機じゃ閲覧出来ませんか? それなら、お話しすることは出来ないですねえ。もっと身分の高い方なら、知ることが出来るでしょうから、連れて来たらいかがですか」
僕が言うと、隊員はため息をついてボールペンで自分の眉間を搔く。そして僕の風体を上から下まで見直し、そんなプロジェクトに関わっているようにはとても見えないとでも言いたげに肩をすくめる。
そこへ、パトカーの窓が叩かれて、見ると年配の警察隊員がそこにいた。若い隊員は彼に呼び出され、そしてパトカーの外で何か話し合い、再びパトカーに戻って来ると、その態度が少し変わっている。どうやら、今の爆破について別の誰かから犯行声明が出され、僕への疑いが晴れたらしい。
「すみません、どうやらこの爆破事件は、別の人間を狙ったもののようです。トミタ博士は、偶然それに巻き込まれたようですね」
「わかっていただければ結構です」
「いや、何しろ最近はトミタ博士のような有名なクローン技術者を狙ったテロ事件が相次いでいますからね。どうもご迷惑をおかけいたしました」
隊員は深々と頭を下げた。
「気にしないで下さい。それより、本来の標的となった人物は、どういう方ですか?」
「キド・タカシ博士です」
ようやく解放されて、僕はパトカーの外に出た。燃え盛っていたバスはすでに鎮火し、消防隊員が遺体を担架に乗せて運び出している。運び出された遺体は、黒い袋につめこまれて路上に並べられている。先生の遺体が、あるいはキドさんの遺体が、このなかにあるのだろうか? 聞いてみたかったが、現場で働く人々がみな忙しそうにしているので断念した。
そうして僕はトボトボと帰路についた。キドさんも再開されるプロジェクトのメンバーだという話だ。とすれば彼は、研究所に向かうためにバスに乗り込んでいたのだろう。それを、どういう方法かは知らないが、テロリストが嗅ぎつけて、爆破したのだ。
キドさんは研究所が閉鎖された後も、クローン技術に関する本などを書いて、目立つ活動をして顔もよく知られていたから、狙われやすいのはよくわかる。しかし、トミタ先生までその巻き添えで死んでしまったのか。先生は表には出ず、ひっそりと古くさい宗教書を読み、猿を愛でながら暮らしていたというのに。爆弾によって先生の自我は、その肉体ごと、拡散、普遍化してしまった。
家に帰ると、ソファーでうつらうつらしていた慧が顔を上げ、「仕事は決まりましたか?」と尋ねてくる。
「わからなくなったよ」
正直に答えると、
「残念ですね」
と言ってくれた。本当に残念だったと思う。
トミタ先生の葬儀のために、僕はナフタレン臭い喪服を着て家を出た。
会場は先生の実家の寺であり、キドさんの葬儀と共同で行われる。世間でのクローン技術者に対する反感に配慮したのだろう。直接的なつきあいのある人間だけが参列する、高名な学者としてはごくひっそりとした葬儀だった。
控え室にいたのは、両家の親戚と、研究所での同僚たち、そして同業の学者たちである。同じ学問の道を歩む諸氏にとっては他人事ではなく、いずれも葬式のような顔をして、まあ実際葬式だから当然と言えば当然なのだが、沈鬱な面持ちでお互いに囁きあっていた。
実行犯は元軍人の失業者であるとか、クローン技術の発達によって損失を被る某有名企業の差し金だとか、出所不明の怪情報が出回っているが、どれが事実かは誰もしらない。海外ではこうした事件はよくあるらしいけれども、日本でこんな形で学者が殺されるのはおそらく初めてだったのではないだろうか。みな少なからずショックを受けている様子だった。
現場の目撃者である僕は、一々彼らにその状況を話すはめになった。といっても、要するにバスが爆発して燃えるところを見ただけであり、彼らが何かを得るような話が出来るわけでもない。繰り返し、炎の燃えるさまや、とりまく通行人の様子を、なんとか臨場感を持たせようと苦労しながら描写する自分が滑稽に思えた。
やがて先生の弟である住職が、猿を連れた婦人を伴って現れる。あれは未亡人となる先生のご内儀で、猿はボノボのメイだった。赤ん坊の様に未亡人の黒い和服の足下にしがみつき、キョロキョロと視線だけを動かしている。子供用のスーツを着せられているのは、彼女の趣味だろうか。それとも先生が着せたのか。獣に服を着せるような間抜けを、先生のような聡明な人でもするのかと思うと、見るべきでないものを見てしまったような気がした。メイは、一応葬式を意識しているのか、黒いネクタイをしている。
獣が現れて参列者たちはいくらか動揺したが、彼女はすました顔で喪主の挨拶をする。僕はメスの筈のメイが、男物の衣装を身につけているのが気になった。その感想を誰かにこぼしたかったけれども、いつも話し相手になってくれるタナイさんが今日は来ていない。仕事の用事があるのだそうだ。
メイは読経の間中、ヒイヒイと高い声で鳴いていた。首輪がきついらしく、その辺りを何度もさすっているのだが、飼い主の未亡人はそちらを見ようともしない。途中見かねたホッタさんが奥さんに何か囁くと、彼女はメイを連れて別室に行き、戻って来る時には一人だった。檻に戻したらしい。それから、キドさんの幼い娘が急に泣き出す場面もあった。これには、母親がぬいぐるみを抱かせて、なんとかおとなしくさせた。あとはトラブルというほどのものもなく、葬儀の全ての段取りがつつがなく終了した。
一同が火葬場から寺へ帰って来ると、焼き上がったばかりの二つの骨壺を前に、精進落としの会食が始まった。仕出し屋の料理が膳の上に並べられていたが、ポットから注いだばかりの吸い物以外は、冬の空気でつめたくなっており、一口食べると体の芯が冷えてしまう。
もうすでに夜であった。葬儀の緊張感から解放された一同は、アルコールも入り、幾分なめらかになった舌で世間話などを語り合っていたのだが、職のない僕はそれに混じらずに黙って座っていた。僕の隣の未亡人も、誰とも会話せずに黙々と食事を口に運んでいる。皆が会話をするなかで、二人並んで黙っていることになり、なんだか気まずかった。
そろそろおいとまさせて貰おうかと考えはじめたとき、向こうでガシャンと音がする。
見ると、キドさんの娘が、ぬいぐるみを抱きかかえて呆然としている。その足下には、割れた骨壺が転がっていた。あの大きなぬいぐるみの足か何かを壺にひっかけてしまったのだろう。お父さんの遺影に近づいて、最後の別れでもしようとしたのかもしれない。そのアクシデントに部屋の一同が水を打ったかのように静まりかえってしまうと、キドさんの奥さん、つまり少女の母親が飛び出して来て、見ているこちらがびっくりしてしまうほどに激しく、娘の頰を打擲した。その乾いた音が静かな部屋に響き渡る。
わんわんと大声で泣き出す娘を、若い未亡人は顔を真っ赤にして抱きかかえ、部屋を出て行った。葬儀社の人間は素早く立ち上がって、一人は廊下へ未亡人を追いかけ、二人が散らばる遺骨の処理を始める。すると、部屋には再び会話の声が戻りはじめる。
僕はすっかり気が滅入ってしまって、隣の喪主に挨拶をしてから座敷を出た。縁側から空を見上げると、月も星もない黒い闇が頭上を覆っていた。
靴べらを使って革靴を履き、歩きはじめる。最近家でねころんで過ごしていたせいか、全身が重い。自然とうなだれて、自分の革靴のつま先を見ながら歩くかたちとなった。すると、靴の表面に白っぽいすり傷がついているのに気がつく。こんな汚れた靴を履いて街を歩き回っていては、仕事が見つかるはずもない。
門を出たところでタクシーを探していると、背後から足音がして、振り返るとナグモさんが僕を追いかけてそこまで来ていた。立ち止まると僕の目の前まで来て、軽く頭を下げた。
「よろしければ明日、時間をとっていただけますか」
白い息を吐きながら彼女は言った。
「なんでしょう?」
「研究所でやっていただきたい作業がありまして」
「僕がですか?」
「ええ、ハジさんがふさわしいかと。プロジェクト参加の返事はしてらっしゃるんですよね? 他に正式に参加を表明している人間が、いないようですので。ハジさんに頼むのは酷かとは思うのですが」
その言い回しがなんとなく気になったが、僕にはこれといった予定もない。これ以上この場所で重い気分のまま他人と会話を続けるのも気怠い。おとなしく頷いた。
「ありがとうございます」
そして彼女は折り目正しく頭を下げ、会場へ戻ってゆく。ナグモさんは、相変わらず勤勉な人だ。その後ろ姿を見ながら、先生が何か意味ありげなことを言っていたのを思い出した。あれは一体どういう意味だったのだろう。不審に思ったが、改めて呼び止めて聞き出すのも億劫だった。彼女には何か事情があるのかもしれないが、僕は僕で、自分の事情で手一杯なのだ。
マンションにたどり着く頃にはすっかり凍えていた。かじかむ指でエレベーターのボタンを操作し、部屋の前までやって来る。そこで僕は気配がおかしいことに気がつき、立ち止まった。
部屋のなかから、ガラスの割れる音や、重く固いものが床に落ちる音が聞こえて来るのだ。そして、荒く息をする何者かの声。
これはどうしたものか。このマンションは高度なセキュリティが売りで、不審者が簡単に這入り込むことなど出来ないはずだ。こんなに疲れ果てているのに、なんだか面倒なことになってしまったなあと考え込む僕の耳に、さらに何かが崩れるような音が飛び込んでくる。これは本棚をひっくり返した音に違いない。引き続いて聞こえる物音は、おそらく窓辺に飾っていた陶器製のネコを床に落としたのだ。そして、すすり泣くような声。ああこの泣き声は間違いない。慧が暴れて、そして、泣いているらしい。
僕は本当に疲れ切ってしまって、ドアを開けて慧と顔を合わせるだけのファイトがわいてこない。ここでまわれ右をして、カプセルホテルかどこかで夜を明かしたい。けれども、そうもいかない。僕がこのまま遁走すれば、慧の信頼を完全に失ってしまうだろう。
仕方なくドアを開けると、ちょうど慧が、鏡を床に叩きつけようと両手を振り上げているところだった。
彼女は僕が入って来たのに気がついて、こちらを振り返る。興奮で、唇が小さく震えている。瞳がらんらんと輝いている。ひどい顔だ。そのまま僕を見て一歩踏み出そうとしたので「動かないで」と強めに言った。彼女の足下の周りには元は何の道具だったのかすでにわからぬほどに砕けたガラスや陶器の破片が散らばっている。そして彼女は裸足だった。
「どこへ行ってたの?」
鏡を両手に抱えたまま、抑揚の不安定な、揺らめくような声で彼女は言う。
「先生のお葬式だって言ったじゃないか」
「そんなの知らないわ!」
「あっ」
結局彼女は床に鏡をたたきつけた。鏡は意外と頑丈で、ひびが入りはしたものの、砕け散りはしなかった。
「ちゃんと伝わってなかったのならすまない。でも本当に言ったんだよ。そして、きみも誘ったじゃないか。きみは行かないと言ったろう? だから一人で行って来たんだ」
僕は部屋に足を踏み入れた。棚という棚は倒れ、そのなかに整頓されていたはずのものを全て床の上に吐き出している。サラダボウルは割れ、ティーカップは砕けている。いつだったか僕が彼女のために買ったバラの鉢植えも、床の上で無残に根と土を晒して横たわっている。ピンク色の壁紙は、火傷でただれた皮膚の様に剝けて垂れ下がり、白色の地を見せている。そうして荒廃した部屋のなかに、慧の丸々と太った体が佇立している。灰色のスウェットの襟元と脇の下に汗が黒っぽいしみを作っていた。
「知らないわ!」
彼女は首を横に振り、僕はため息をついた。
「じゃあそれはいいよ。とりあえず休もう。こんなにしちゃって、きみも疲れたろう?」
「ああもう、いや!」
彼女はそう叫んで、頭を抱えた。
「気が変になりそうです! どうしてあなたはそうなんですか……。ああ、そうだ、いっそのこと首を切り落としてください! そうすれば、何も苦しまなくってすむんです。私は、もううんざりなんですよう……」
「わかったよ。わかった。だからもう大声を出さないでくれ。僕がいない間に、何かあったんだろう? 教えてくれよ」
「何もないですよ! 何もありません! ただ私が一人で勝手におかしくなってしまったんです。誰の責任でもありませんよ! 全部私が悪かったんです。それでいいんでしょう? ここは本当に酷い世界ですよ。うっ、うっ、うっ……」
彼女はしゃくり上げ、涙のこぼれた顔を拭った。僕はただじっと彼女を見守っていた。何を言ったらいいのだろう。名案が思いつかず、なるべく同情したような顔を作って、そこに立ち尽くしていたのだ。
「……ユウジさん、なんでまだそこにいるんですか? 出て行ってくださいよ! 私を、私を見ないでくださいよ! こんなの、見てたってしょうがないでしょう。あなたがいつも言うとおり、問題は全部私が勝手に作り出しているんですよ。そこで見てたって、なんにもなりゃしない。見ないでください。本当に、出て行ってってば!」
慧はその場にしゃがむと、鏡の破片を一つ摑んで、僕に投げつけた。破片は僕に当たらずに右の壁をかすって玄関のタイルの上に落ち、乾いた音を立てる。投げた時に指が切れたのか、慧はしたたる血をスウェットの裾で拭った。肩で荒く息をし、涙に輝く瞳で僕を見ている。
ここに僕が居るとそれだけで、彼女は昂ぶってしまうようだった。僕は風呂に入って、自分のベッドで眠りたかったが、今日はとても無理らしい。今にも二つ目の破片を投げようとしている彼女を刺激しないよう、静かに後ずさってドアを閉めると、疲れがどっと全身にのしかかって、そのまま廊下の冷たい床の上にへたり込んだ。
もう一歩も歩きたくない。今日の僕は疲れているんだ。横になっていると、部屋のなかで慧は再び暴れ始めた。部屋のなかには僕の大事な思い出の品もたくさんある。明日の朝までに、どれだけの物が元の形のまま生き残るのだろう。
嗚呼、慧はどうしてしまったのか。いつの間にか僕の知らない生き物になってしまったようだ。まるで作品が作れなくて苦悩する芸術家みたいじゃないか。彼女に何が起こったのだろう。日常の積み重ねが臨界点を超えてしまったのだろうか? そうだとしても、ひどすぎる。もしかしたら、以前から時々彼女が訴えていたように、最初から実験のどこかに欠陥があったのかもしれない。そうして元の木原慧と似ても似つかぬ、出来損ないの壊れた人格が、いま彼女の心のなかにあるのだとしたら。
そうだとしたら、たいへんだな。トミタ先生もいなくなったというのに、僕に何が出来るのか。チームも既に解散してしまっている。誰かに言えば、あの頃の資料を見せてもらえるのだろうか。プロジェクトを再開しようとしていたのだから、何かしらあるはずだ。今となってはもう無理かな。もし見つかったとしても、僕では有効に使えないかもしれない。明日研究所に行ったら、訊いてみようか。
ここで僕もクローン人間だったら、彼女ともっとうまい信頼関係を築くことが出来たのだろうか。お互いかわいそうね、かわいそうね、と傷をなめあって。まったく、ご両親には申し訳のないことをしてしまった。僕は慧を、こんなにもおかしくしてしまった。結局カワゴエ先生に引き渡すしかないのか。だとしたら、一体何のために僕は彼女を呼び戻したというのだろう?
体が芯から冷えている。僕は温かいうどんが食べたかった。ロングコートの前をかき合わせ、家具の壊れて行く音を聞きながら、うつらうつら、寝るともなく、起きるともなく、朝までの時間を過ごした。
やがて鳥のチュンチュンと鳴く声が聞こえはじめる。起き上がると、体の下になっていた部分が痛んだ。ドアの向こうは静まりかえっている。さすがに慧も寝てしまったのだろうか。僕はノブに手を掛けて、音を立てぬようそっと開いた。
ドアの向こうには昨夜見た通りの光景が広がっている。あの後も慧は荒れていたし、いくらか散らばるものが増えているのだとは思うが、昨日の段階で荒れきっていたのでほとんど印象の変化はない。電灯も点けっぱなしで、惨状を煌々と照らし出している。この部屋は誰が片付けるのだろう。全てこのままにして、引っ越してしまいたいくらいだ。
慧はソファーの上で静かに寝息を立てていた。目の周りには泣いた跡があり、涙を拭った時に付着したのか、血で頰が汚れている。素足にもやはり血が乾いて固まっていて、やはりガラスを踏んでしまったらしい。手当てをしようかと迷ったが、結局諦めた。僕は毛布をその上にかけると、彼女を起こさないように、静かに部屋を出た。
世界がグルグルと回転しているような感じがして、まっすぐ歩いているだけのはずなのに足下がよろけて仕方がない。駅のトイレで顔を洗い、ファミリーレストランで朝食をとって、それでもまだ少し時間があったので、そのままテーブルに突っ伏して仮眠をとった。するといつの間にか約束の時間が近づいており、慌てて研究所へ向かう。先生とキドさんが死んだのと同じ路線のバスに乗って向かうと、すでにナグモさんが門の前に立っていた。時計を見ると時間ぴったりで、僕はひとまずため息をついた。
「着替えなかったんですか?」
僕の姿を見てナグモさんは驚いたように眉を寄せる。
「これが僕の普段着です」
「でも喪服ですよ」
「いいんですよ。別に、そんなの。今日だって、世界のどこかでは誰かしら死んでいるでしょうよ。僕はそれを悼み悲しみながら生きてゆくことに決めたんです」
何の意味もない服装の話を続けるのが億劫だった。強い口調で言ってしまうとナグモさんは怪訝な顔をする。それを促して、ひさかたぶりに研究所に足を踏み入れた。
建物のなかには僕たちが搬出したはずの実験器具や開発装置が、元の通りの場所に戻されている。研究はすでに再始動していたという話だから、環境は完全に再現されているのだろう。きっと地下室にも、慧の体を培養したカプセルが暗闇のなかに潜んでいるに違いない。思えば、あそこから僕らの全てが始まったのだ。培養液のなかで育ちゆく彼女を眺めている間は、こんな事態が訪れるとはちっとも想像していなかった。
ナグモさんは鍵を持っていて、次々とドアを開けてゆく。僕はその後ろをついていった。やがて実験室の奥にある一台のコンピュータの前で彼女は足を止める。それは僕らの実験の心臓とも言えるもので、実験体から抽出した脳のデータを、保存、再生する装置を管理していた。
「これからハジさんに手伝って欲しいのは、データの消去です」
そのコンピュータを起動させながら、ナグモさんは言う。
「なんのデータですか?」
「トミタ先生の、脳のデータです。それを消去するんです」
あんまりにもあっさりと言ったので聞き間違えかと思ったほどだ。先生は自分のクローンを作ると言っていたが、もうここまで作業を進めているとは思っていなかった。彼女の横顔をのぞき込むと、察してくれと言わんばかりに肩をすくめる。
「もしかして、体細胞も採取しているんですか?」
「はい。それも今日処分しなくてはいけません」
「いや、それはちょっと……」
「これも遺志なんですよ。先生は実験中に何かあった場合、データと体細胞サンプルを破棄するよう書き残していらっしゃいます。書面もあります」
ナグモさんは鞄の中からファイルを取り出し、机の上に置く。ファイルを開くと、その下部には確かに先生のサインがあった。
「しかし、ここまで来たものを破棄するのはいかがでしょう。だって、ここから先生を蘇らせることは可能じゃないですか。今すぐとはいかなくても、保存しておけば、プロジェクトが再開されないとも限らない。むしろこれで永遠に中止となるとも思えませんよ」
「その場合は、また別の方からサンプルを採取することになるでしょう」
ナグモさんは感情の見えない冷たい口調で言った。
「僕は納得出来ないですよ。先生の知識や人格は替えのない貴重なものじゃないですか。そうだ、遺族はどう考えているんですか? 先生が帰って来る可能性を失うなんて、奥さんには耐えられないでしょう?」
「遺族の了承もすでに頂いています。あとはデータを消去するだけです。ハジさん、あなたがどう説得しても、私を感情的に誘導することは不可能ですよ。私は出来うることならば、クローン人間なぞ作らない方が良いと考えているのですから。先生がこのような私を、こうした作業を実行するポジションにつけた意味も考えるべきです」
ナグモさんは否定を許さぬはっきりとした口調と、強い視線で断言する。
「なぜ僕を連れて来たんですか?」
「削除には研究員二人の認証が必要です。だから、ハジさんに来て頂いたのです。酷かとは思いましたが、仕方がなかったのです」
「まったく、残酷な話ですよ。よりによって、この僕だなんて! 他の人なら簡単に消去出来るのかもしれないですが、僕には無理です。僕が一緒に暮らしているのがどういう人間だと思ってるんですか? それを、想像出来ませんでしたか? 僕にとっては、こんなの、殺人をやれって言っているようなものじゃないですか」
「お察ししますが、このままにしておくことは出来ません。ご理解ください」
「理解は出来ませんが、やりますよ! それしかないんでしょう? ここでぐちぐち話していたって、疲れるだけだ。やりますよ。やって、さっさと帰ります。僕だって、もう何も考えたくないんですよ」
そして僕は自分の手で電源スイッチを押した。静かにコンピュータが起動すると、僕たちはそれぞれの認証を行って、ロックを解除する。そうして表示された画面を見ながら操作をはじめると、僕はさらに驚くべきものを見つけてしまった。
そこには、慧のデータが保存されていたのである。先生のデータの他に、病院から連れて来た慧から採取した、あの日のデータがそのまま残っていたのだ。
考えてみれば当たり前で、データは研究員以外に消去することは出来ないのだから、この装置自体が破棄されていなければ保存されているに決まっている。しかし僕は完全に失念していたのだ。いまの慧を作り出した、いわば慧のもととなるものが、まっさらな形のまま存在していることを。
「これは、どうしますか?」
ナグモさんはそばかすだらけの顔で僕を見上げる。
僕は咄嗟に返事をすることが出来なかった。ここにあるのは、二年前の、まだ自分がクローンになったことを知らない、ただ自分の病身に悲しんでいる無垢な慧の人格と、記憶なのだ。
嗚呼、なんということだろう! これが何を意味するのかというと、つまり、僕たちはもう一度やり直せるということじゃないか!
思えば彼女が目覚めてから、僕は失敗ばかりしていた。そうして彼女の精神を損なってしまった。しかし、ここからもう一度新しいクローンを作り直せば、最初の状態からやりなおせるのだ。あの信頼関係で結ばれていた状態から再スタート出来るのだ。もし望むのならば、一人ではなく、いっそのこと何人も大量に作ってしまうことだって出来るぞ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言うし、百人くらいいれば、一人ぐらいは理想的な慧になってくれるはずだ。そうしたら、二、三人をまとめて引き取ってもいい。その方が、慧もクローン人間である孤独を感じないですむだろう。出来の悪い慧たちはどうするか? 裸で草原を走らせて、ライフルで狙い撃ちでもさせて客から金をとるか? そういうことも、やろうと思えば出来るのだ。なるほど確かにこれはひどい技術だ。悪魔の技術だ。世間がカワゴエ先生がナグモさんが嫌悪するのも理解出来る。
「どうしました?」
ナグモさんが怪訝な顔をする。僕は荒っぽく息を吐いてから、
「消しましょう。両方とも」
と、返事をした。
膨大なデータを完全に消去するには時間がかかる。コンピュータが作業をしている間、僕らは手持ち無沙汰になった。今まさに、トミタ先生と、慧の記憶が人格が失われてゆくのを思うと、どうにも落ち着かない。やはりこれは一種の殺人なのだと思う。だとすれば喪服のままで来たのは正解だった。僕にしては気が利いている。
ナグモさんは普段から必要なこと以外を喋らない人で、今も静かに窓の外を眺めていた。その眼鏡の奥の瞳からは、感情を読み取ることが出来ない。
作業が終わると、ナグモさんと並んで研究所を出た。彼女は持っている鍵で門を閉める。そして一緒にバスに乗り込み、後部座席に並んで座った。
「さすがナグモさんですね。プロジェクトが再開するって決まった一番最初の段階で、呼ばれたわけでしょう? 能力を買われているんだなあ」
先生があの日に言った言葉を思い出しながら皮肉っぽく話しかけてみると、彼女は首を横に振って、
「いえ、私は別に、能力だけを評価されているわけではありません」
「え、それは初耳です。じゃあ、僕みたいにコネで参加してるってことですか?」
「……そのようなものですね」
ナグモさんらしくもない、歯切れの悪い返答だった。やはり何か個人的な事情があるのだ。もしかして、先生の愛人か何かでもやっていたのだろうか? だから、クローンが嫌いでも研究には力を貸さざるを得ないと。まさかあの謹直な先生に限ってそんなはずがないとも思うが、人間ばかりは絶対というものがない。
ナグモさんとは駅前で別れ、そのまま帰路についた。一人になると、トミタ先生と、そして慧のデータを消去してしまったという事実がのしかかる。
これで本当に、慧は今いる彼女一人だけになってしまった。別に今までスペアを期待して何かを考えたことがあるわけでもないが、やはり彼女はかけがえのないたった一人の人間なのだと、そう思われた。
もう全てが手遅れなのかもしれないが、出来るだけ努力をしよう。僕は今後も末永く彼女と暮らして行きたいし、二人で幸せを摑む方法も、今は見えないだけで、地上のどこかに隠れているのかもしれない。
途中でデパートに立ち寄って螺鈿のオルゴールを買い、ラッピングをしてもらった。店員が、「いいですね、プレゼントですか?」と言うのにうんと頷くと「いいですね、いいですね、私も今度結婚するんですよ」と、聞いてもいない話をされて、僕はなんだか嬉しい気分になった。頑張ろうと心に決めた直後に、幸福に満ちあふれた人に出会うというのは、実に幸先がよい。
明るい気分で家に帰ると慧はもう起きていた。手足に包帯を巻き、掃除機をかけている。部屋は元通り、とはいかないが、出て来たときよりは大分片付いていた。彼女がやってくれたのだ。
「きみが片付けてくれたのかい?」
嬉しくなって声を掛けると、慧はこくりと頷く。
「すみません。あんなに取り乱してしまって。どうしても、じっとしていられなかったんです」
「時にはそんなことだってあるよ。ほら、これをあげよう。オルゴールが入っているよ。懐かしいだろう? やっぱり僕たちの生活には音楽が必要なんだ。思えば最近なにもかけていなかったからね。もう気分は落ちついたのかい? オーディオが無事なら、きみが好きだった曲でも流そうか?」
「ありがとうございます。でも、今は大丈夫です」
慧は浮かぬ顔のままそう言った。
「そうか、それはよかった。たまには体を動かしてストレス発散も悪くないけれど、あれじゃ怪我をするだけだからね。手と足、痛くないかい?」
慧は首を横に振る。
「それはよかった! 大怪我なんかされちゃ困るよ。僕はきみを愛しているんだ。これからも一緒にがんばろう。ほら、掃除機は僕がやるから、きみはそこに座っているんだ」
僕はオルゴールを押しつけ、かわりに掃除機を奪い取り、作業の続きを行った。慧は所在なげにおどおどしてしまって、オルゴールの包みを抱えたまま座ろうとしない。
銀色の掃除機は、フローリングの上の細かな破片を次々と吸い込んで行く。あらかた綺麗になったところで、溜まったゴミをキッチンのゴミ箱に捨て、棚に掃除機をかたし、戻って来るとまだ慧は同じ場所に立っていた。
「壊れた家具は?」
「粗大ゴミの業者に引き取ってもらいました」
「それは仕事がはやいね」
「すみません、いろいろな物を壊してしまって……」
「もう良いって、そろそろ新しいのが欲しいと思っていたんだ。これを機に、引っ越しでもしようか。仕事も見つからないし、きみも良くならない。こんなに運が悪いのは、きっと風水か何かが悪いんだろう。遠い田舎の、誰もいないところに行って、環境をがらりと変えれば、運気もよくなるかもしれない」
慧は何も答えずに沈鬱な表情をしている。僕は彼女と向かい合って立っていた。ふと、この場面を、死んだ慧の霊が見たらどう思うだろうかと考えた。やはり僕たちは、もう少し仲良くしなければいけないと思う。
「そうだ、そこで二人で魚屋をやったらどうだろう? それは風変わりな魚屋でね。僕が魚を投げるからきみがキャッチするんだ。そう、フィッシュスロウイングだよ。覚えてるかい? 昔よく話したじゃないか。覚えてないのかな?」
慧は黙ってうつむいたままだ。
「黙ってちゃわからないな。どうして返事をしないんだ。ああ、そうか、投げる役の方がいいんだね! じゃあ、僕がキャッチする方にまわろう。そしてきみが魚を投げるんだ。遠慮しなくたっていいよ。どんなふうに投げたって、必ず僕がキャッチするから。それでどうだい? 最初から僕はどっちだって良かったんだから、きみが好きな方を選べばいい。木原慧か、そうでないか、それも好きな方を選んだらいいんだよ。なんだっていい。僕は、きみだったらそれが何であれ構わないからね。最初からこうやってきみの意見を聞けば良かったのかもしれないね。畜生、魚屋はきっと楽しいぞ! もし店が繁盛したらグッズも作らないか? あざとく儲けて、もちろん夢は世界平和だ。そして二人でいつまでも笑って暮らす。つまらないことは考えなくたっていいんだよ。昔のことなんか全部忘れて暮らすんだ。何なら僕も土師悠司をやめるよ。そしたらきみが新しい名前をつけてくれるかい? 何も思い出さないですむような、これまでとはまるっきり違う名前をさ。ねえ、これは素晴らしいアイデアだと思わないか?」
返事のかわりに、慧の目から涙がこぼれ落ちた。
「どうしたのさ? 泣くようなことは言ってないよ?」
「ユウジさん、病院に行きましょう」
「僕は正気だ」
慧は長くなった髪を振り乱すように、首を左右に振った。その勢いでとんだ大粒の涙が、僕の手に掛かる。
「違うんです! 病院で診て貰うのは私です。きっと私は、おかしくなっているんですよ。自分でもそれがわかります。入院出来るなら、そうさせてください。ここにいて、これ以上ユウジさんに迷惑をかけたくないんです! 私に何か選ばせてくれるのなら、それを選ばせてください。この間言ったことと違ってしまいますが、私を、一人にさせてください。どうか、どうか、お願いします……」
慧はそう言うと、肩を震わせる。
翌日カワゴエ先生を呼んで、彼と引き合わせた。彼は太って別人のようになってしまった慧の変化を目の当たりにしても、まるで何事もなかったかのように振る舞っていた。彼らはリビングルームで二人きりで五分ほど話した。それが終わると、都内の精神病院に入院することが決まったと、カワゴエ先生の口から告げられた。
別れる間際、カワゴエ先生は珍しく優しい口調で僕の労をねぎらってくれた。そんなに憔悴して見えたのだろうか? 慧は最後に無言で一礼をして、車に乗り込んだ。二人を乗せたタクシーを見送ったあとで家に戻ると、まだ包装されたままのオルゴールがテーブルの上に置かれていた。
後日、これらの経緯を慧のご両親に連絡すると、すぐに二人は飛んで来て、彼らと一緒に病院へ行くことになった。僕だけは廊下に残り、木原夫妻だけで面会室に入った。その時間はおよそ十分くらいだろうか。二人は案外早く部屋から出て来た。
「すみませんでした」
僕は彼らに向かって深々と頭を下げる。
「いえ、気にしないでください」
お父さんがそう言い、続けてお母さんが、頭を上げるよう促した。おずおずと言われた通りにして向かい合うと、お父さんは力なく苦笑していて、
「彼女にも同じように謝られてしまったよ」
と言った。
「それで自分が本当に慧なのかどうか、しばらくじっくりと考えさせて欲しいって言うんだ。私はそれもいいだろうと答えておいた」
「ねえユウジさん。あれは慧なんですか?」
お母さんは、不安に顔を曇らせている。
「なんだか、顔つきも、話し方もすっかり変わってしまって。それにあんなに太ったことなんて、今まで一度だってなかったんですよ?」
「僕が悪いんです」
「まあまあ、彼を責めたって仕方がないだろう。見てごらんよ、前より頰がこけてしまっている。苦労しているんだろう。ここまでしてくれたんだから、感謝しなきゃいけないよ」
「確かにそれはその通りなんですが、お父さん、私は心配で仕方がないんですよ」
「そりゃ私だって心配だよ。だけれど、娘のことでまた心配が出来るだけでも、ありがたいことじゃないか。あのままだったら我々は生きながら死んでいるようなものだった。覚えているかい? 病名が宣告されたあとの家のなかの空気を。ハジ君は我々も蘇らせてくれたんだよ」
「それは私だってわかっていますわ。あの時の私達はまるでお墓のなかでひっそり過ごしているようでした。二人とも体温を失い、テレビを見る目もガラス玉のようでした。それに比べれば確かに今の私達は血の通った、生きた時間の流れに帰って来たのでしょう。理解はしているのですが、でも、やっぱりこれじゃあんまりです。あれは本当に慧なのでしょうか? 私達の、娘なのでしょうか?」
「そうに決まっているじゃないか。彼女は私達から生まれた慧の、その細胞から生まれたんだ。山頂から転がり落ちた雪玉の、途中で砕けた破片が転がりながら雪をまとい、立派なひとかたまりになったのだよ。ハジ君、それに間違いはないんだろう? それなら疑う必要はない。彼女は私達の遺伝子を受け継いだ、れっきとした娘じゃないか」
「そうですね。ほんとうに、その通りです。ああ、私はどうして馬鹿な疑いを持ってしまったのでしょう! あの子にかわいそうなことを言ってしまいました。ユウジさんにも失礼なことを言ってしまいました。すみませんでした。そして、ありがとうございます。心から、ありがとうございます」
「私からも礼を言うよ。慧のことは、ありがとう」
二人は交互に、ありがとう、ありがとうを繰り返す。僕はどんな態度も出来ず、油の切れたブリキ人形のようなぎこちない動作で何度も頷いた。
慧が病院に入ってしまうと、僕は再びマンションで一人ぼっちの生活を送ることになった。彼女が壊した家具がなくなって、部屋はがらんとしている。破れた壁紙はホームセンターで買った接着剤で僕が補修して、出来上がった直後はプロに遜色のないよい仕事が出来たと満足だったが、時間が経ってから見ると素人仕事も甚だしく、その不規則なゆがみやヨレが部屋にいる者を不安な気持ちに陥らせる仕上がりとなっている。しかしそれを修正する気力もなく、毎日寝転んで過ごした。何度か慧の見舞いに行きたいとカワゴエ先生に電話で意思を伝えたが、治療上の理由だとかで拒否された。
二月が終わりつつあったがまだ寒さは厳しい。雪もちらほらと舞いはじめている。僕は久しぶりにタナイさんと会うことになって、その家へ向かっていた。しかし、こんなに寒いのなら、家で寝ていた方が良かったのかもしれない。誘われたから来たものの、僕の方にはとりたてて話すべきことはなかった。そもそも、世の中の誰とも話す必要を感じない。起きていても、どうせいいことなんぞ何一つないのだから、時間の許す限り寝ていればいいのだ。世の中に、寝る程楽は無きものを、知らぬうつけが起きて働く。その狂言の一節は、学生時代の信条だったはずなのに、いつの間にか僕もうつけになっていた。起きて働いていやなことばかりに遭遇する。
まったく面倒くさい。タナイさんは都心から離れた一戸建てに住んでいやがるのだ。駅からも離れている。どうしてこんな場所に家を買ったのだと憤りつつインターフォンを押すと、すぐに玄関の引き戸が開いた。奥さんと子供は留守にしていて、静かな家に一人で僕を待っていてくれたらしい。
薄暗い家だった。廊下を歩くと古い床板がきしむ。障子は建て付けが悪く、無理に開けると敷居に引っかかってカツカツと乾いた音を立てた。
タナイさんは休日だというのにきっちりと七三分けに整えていた。わずかに見ない間に頭髪が減り、以前より分け目が薄くなっているように見えた。案内された部屋には掘りごたつがあって、その上の卓上コンロには土鍋がかかり、出汁を張ったなかに豆腐が一丁丸々浮かんでいる。
「今日は地獄鍋をやるぞ」
タナイさんは嬉しそうに、生きた泥鰌の泳ぐタライを僕に見せた。
「これを生きたまま鍋にいれてね、そうして火をつけるんだ。湯の温度が上がると泥鰌が驚いて、慌てて冷たい豆腐のなかに逃げ込む。するってえと、煮上がった時には泥鰌入りの湯豆腐が出来上がるって寸法さ。生き延びたいと努力する泥鰌の必死の抵抗が、皮肉にもそのまま人間様が美味しく食べる調理の手伝いになってしまうという、なんともユニークな料理だよ。一種哲学的でさえあるじゃないか、ええ、おい? 以前から一度やってみたかったんだが、女房がいやがってね。きみが来てくれて良かったよ」
タナイさんは説明しながら鍋に泥鰌を放ち、コンロのつまみをひねる。一回では点かず、二回、三回とひねりなおすと、ボッと音がしてようやく青い火が点いた。タナイさんは日本酒、僕は麦茶を飲みながら二人して鍋のなかを見つめていると、出汁の温度が上がって次第に泥鰌の動きが激しくなって来る。
「これはどうしたことだろう。苦しんではいるが、なかなか豆腐に潜ろうとしないじゃないか」
「そうですね」
そのうち泥鰌は狂った様に暴れはじめ、今にも鍋から飛び出しそうになったので、タナイさんは慌てて蓋を閉めた。しばらくは蓋の内側でビチャビチャと泥鰌の飛び跳ねる激しい音が鳴っていたが、やがて出汁が沸騰するぐつぐつという音しか聞こえなくなる。
「よし、出来上がったぞ。うまくいったかな」
真剣な顔でタナイさんが蓋を取ると、豆腐は多少角は取れていたが、滑らかな表面を保ったままで、泥鰌は出汁のなかで死んでいた。箸で豆腐を崩しても一匹も潜り込んでいない。結局そのまま玉子でとじて、ただの泥鰌鍋として食することとなった。
北側の障子を開け放しにしていると、むこうの台所から悪臭が漂って来る。生ゴミを入れたゴミ袋をそのままにして、腐っているらしい。
「捨てる暇がないんだよ。嫁がいないからな」
いつからいないんですか、と尋ねると、低く笑って誤魔化した。タナイさんは農業試験場では閑職にまわされていて、とてもつまらないと愚痴をこぼす。
「九時五時で終わりじゃ、時間が余っちゃってどうしようもない。きみは無職だそうだが、空いた時間をどうやって過ごしているんだい? いくら暇があったって、なにもしたいことがないんだよ。俺は朝から晩まで実験のことばかり考えていて、時間の使い方など考えなくて良かったあの生活に戻りたいよ。トミタ先生は研究を再開しようとしてたんだって? ナグモさんも誘ったんだろ? なのに、どうして俺を誘ってくれなかったんだろうねえ。まあ、いいけれどもさ」
タナイさんは出汁を一口すすると、薄口醬油を足した。
「まったく退屈な仕事さ。新食材開発研究なんて名目で、毎日虫だのプランクトンだの、旨くもないものを食わされてるよ。クローンの仕事と違って、危険もない平和な仕事だがね。スリルがないと、人間は腐るよ。まあそれでも、死ぬよりはマシだが。……まったく、先生もキドさんもまだこれからだってのに、かわいそうな話だね。……ねえハジちゃん、我々のやったことってのは、死ななきゃならないほどの悪事なのかい? 俺はそうは思わないんだがねえ。クローンがいけないだとか、ちっとも理解出来ないよ。便利な技術じゃないか。一旦普及しちまえば、彼らもそれに慣れるだろうに。馬鹿だからそれがわからないんだろうねえ」
タナイさんは猪口の酒をあおった。まださほど飲んではいないはずだが、もう顔が真っ赤になっている。
「ああ、いやだいやだ。まったく世のなかはろくなことがない。年をとればとるほど、失望ばかりが増えてしまうよ。ハジちゃんも慧さんとうまく行かなかったんだって? ははは、ざまあみろ、すぐに忘れた方がいいよ。しがみついちゃみっともない。彼女はね、芝浜で拾った財布みたいなものなんだ」
「それは、なんですか?」
「芝浜ってのは、落語の演目だよ。知らないかい? まあいいや、とにかく、彼女のことは夢だったと諦めてがんばってりゃ、忘れた頃にいいこともあるだろうよ。今は仕事もしてないんだし、まるっきりの役立たずじゃないか。君らがたとえ普通のカップルだとしても、愛想尽かされて当然だよ。……あ、箸が進んでないね。泥鰌は嫌いだったのかい? それとも俺の味付けが気に入らないのかな? 普段ゲテモノばっかり食ってるから、俺の味覚がおかしくなっちゃったのかな。何にしろ、泥鰌は滋養があるんだから、好き嫌いせずに食わなきゃ。食って、元気を出すんだよう。むっつりしてちゃ人生つまらんぜ」
タナイさんはそう言って僕の肩を叩く。
「僕は愛想を尽かされたんですか?」
気になって問い返すと、
「何言ってるんだ。当たり前じゃないか」
タナイさんは肩をすくめて、呆れたようなおどけ顔を作った。
部屋のなかで寝たり起きたりしているだけなのに、容赦なく時間は過ぎてゆく。そうして気がつけば冬が終わり、桜が咲きはじめていた。
外に食べに出かけると、新しい制服を着た子供たちとすれ違う。まだ傷一つない革鞄を持ったサラリーマンが、バス停の時刻表を何度も見上げている。
実家の妹が出産を控えて病院に入っているそうだ。一度挨拶に来て、ついでに顔を見せて欲しいと、母からメールが送られていた。何一つ近況を話した覚えはないのだけれど、どことなく僕の状態に感づいているような文面で、学生時代、風邪をひいて一人でアパートに寝込んでいる時に限って、なぜか母から電話がかかって来るのを思い出した。魂も奇蹟も信じない僕だけど、それ以来肉親の愛情というものだけは心のどこかで信じている。
そんなある日カワゴエ先生から連絡があった。慧が僕に会いたいと言っているそうだ。
ああ、ついに最後の時が来たのだと、僕は自然にそう悟った。彼女とは肉親というわけではないけれど、慧が今考えていることや、どうして僕を呼んだのかが、なぜか理解出来るような気がした。
慧はカワゴエ先生の新しい病院に移っている。以前来た時は季節が違ったので気がつかなかったが、病院までの長いゆったりとした坂道の左右に植えられているのは全て桜の木で、風が吹くと桃色の吹雪が視界を埋め尽くした。
そうして坂を登り切り、ロビーに足を踏み入れた。そこは随分と気持ちのいい場所だった。天井がやたらに高く、片面の壁が丸々ガラス張りになっていて、そこを透過した柔らかな春の自然光が部屋のなか全体を明るくし、空気には微かな芳香が感じ取れた。
ここはクローン人間専用の施設だそうだから、そのあたりを行き来しているのは患者だろうか。だとすれば、みな誰かのクローンなのだろう。向こうでは、若い二人の女性が談笑している。すぐ近くのベンチには小学生くらいの女児が熱心に漫画を読んでいた。女性ばかりだ。
受付の綺麗な女の人に用件を告げると、すぐにカワゴエ先生が現れる。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
「いえ、慧が会いたいと言うのなら、来ないわけにはゆきませんから。いい病院じゃないですか」
「入れ物はいい物を作って頂けました。問題はこれから私が中身をどうしてゆくかですね。毎日忙しくて、ちっとも眠れません」
そう言うカワゴエ先生は、日々が充実している人間特有の輝いた微笑を浮かべる。身につけている白衣も、今日はやたらと眩しく見えるくらいだ。
「木原さんも、ずいぶん明るく健康的になりましたよ。他の患者さんたちとも、うまくやっています」
慧との面会室に向かって先導しながら彼は言う。
「それはよかったです。彼女も元々は明るいやつですからね」
その後ろを歩きながら、僕は答えた。
「なるべく、慧さんとは呼ばないように気をつけてください。院内では、別の名前を使っておりますので」
最後の最後で大事なことを告げられてから、彼は面会室のドアを開ける。僕がなかに入ると、彼は廊下で待つつもりのようで、そのままドアを閉めた。
面会室もロビー同様、大きな窓のある明るい部屋だった。白い壁に、白い机、そして椅子が置いてある。出入り口は、僕の入って来たものと、それから正面の壁に一つあって、おそらく向こう側は閉鎖病棟と繫がっているのだろう。いや閉鎖病棟という呼び方はカワゴエ先生が嫌っていたっけ。なんにしろ、クローン人間以外との接触を避ける必要がある患者たちが向こうの棟に住んでいるに違いない。ドア越しに、微かな生活音が聞こえて来る。この部屋が僕らの世界と彼らの世界との中間地点なのだろう。
やがてドアが外側から開かれ、慧が姿を現した。
「お久しぶりです」
そう言って会釈をする慧の姿は、すっかり見違えている。一緒に住んでいた頃の余分な脂肪はなくなって、ほっそりとした昔の体型に戻っていた。黒い髪が短く切りそろえられているのは、肉体の幼さや化粧っけのなさとあいまって、彼女をまるで少年のように見せている。そして身につけたブラウスは清潔に日の光を反射していた。
それを見ながら僕は、せめてもう少しまともなものを着て来ればよかったと後悔をした。無頓着にタンスからつかみ取ったのは、もう裾のすり切れた古いセーターだった。学生の頃に奮発して買った舶来品で、物自体は悪くない筈だが、いまはあまりにもくたびれてしまっている。そして中身も同じくらいくたびれている。あの頃の僕を知っている慧は、いやでも心のなかで当時と重ねてしまうだろう。
一方彼女は、むしろあの頃よりもさらに若く、新しくなってしまっているのだ。人間というものは、長く一緒に過ごせば同じように歳をとるものだと思っていたが、こういう差の開き方をするとは不思議な物だ。
彼女が立ったままなかなか椅子に腰を下ろそうとしない。なぜだろうと考えて、そして僕自身がそこに立ち尽くしているのを発見した。僕が座ると、彼女も同じようにする。
「だいぶ健康そうじゃないか。以前とは別人みたいだ」
「その節はご迷惑をおかけしました。今思うと本当に、恥ずかしいです。お見舞いに来ようとなさっていたそうですが、会えなくて、それもすみませんでした」
慧は深々と頭を下げる。
「いいよ、別に。それよりもさ、急に会う気になってくれたのは、どういうわけだろう? 言いたいことがあるって、カワゴエ先生から聞いたけれど」
「はい……」
そして彼女はうつむいた。
いよいよその時が来る。僕も唾を飲み込んで、その言葉を待った。
やがて顔を上げた慧は、もう泣きそうになっている。眉間にしわを寄せ、僕の目をしっかりと見つめながら言う。
「やっぱり、木原慧は死んだのだと思います。一緒に骨を見た、あれがあなたの恋人なんです。どうか、それを受け入れてください。彼女は死んでしまったんです。私をその身代わりにするのは、きっとよくないことです。何というか、おぞましい感じがして、私はもうこれ以上、死者の役割を務めることが出来ません。それはやっぱり冒瀆だと思うのです。何か人間にとって、大事なものに対する。すみません、あの、私はあなたのことは好きなのですが、それでもやはり……」
これ以上喋らせたら泣かせてしまいそうだ。僕は手を上げてその言葉を押しとどめた。
「わかった。そのことはわかったから、もういいよ。それよりも、きみはこれからどうするんだい? そっちの方が、ずっと大事だ」
慧はまぶたを擦って、
「……私は、別の人間としてやり直そうと思うんです。自分の人生を生きてみたいんです。あなたと会うのも、これが最後です。そのお別れとお礼を、伝えたくて……」
「いや、でも、そこまでする必要はないんじゃないか? これまで通りのつきあいは無理でも、僕が力になれることはまだあると思う」
「そうかもしれませんけれど、それは……私が、つらいです」
言って、彼女は再びうつむいてしまう。
「ごめん、困らせるつもりで言ったわけじゃないんだよ。僕は納得している。それは、素晴らしい話じゃないか!」
僕が笑うと、彼女は泣き顔を上げる。
「だってさ、実のところ、前からカワゴエ先生にも言われてたんだ。慧として生きるより、本人の人生を歩かせた方が幸せなんじゃないかってね。それと同じ結論をきみは今口にしたんだ! 僕の部屋で、目を死んだ魚みたいに濁らせて、飯の入った丼を一日中抱えてたあの時とは大違いだ。自分の未来の幸福に手を伸ばせるようになったんだよ。これは、祝福しないわけにはいかない。本当に、よかった!」
僕はもう一度笑った。すると彼女はたまらずに、再び顔を歪ませる。
「身勝手な話で申し訳ありません。どうか、私を許してください。今まで色々なことをしていただいて、本当に、嬉しかったです」
そして、彼女は頭を下げる。その拍子に、きらきらと輝くものが顔から落下するのが見えた。
「やめてくれよ。謝ることなんかないんだからさ。言葉通り受け取ってくれればいい」
僕は椅子から立ち上がる。
「ユウジさん……」
「こちらこそ、ありがとう。色々あったけれど、ここにいるきみを誕生させる手伝いが出来てよかったよ。じゃあね! 用事を思い出したんだ。すぐに行かなきゃならない。僕だって結構忙しいんだ」
暗い顔をする慧――いや、慧だった彼女をその場に残し、僕は部屋を出た。廊下に立っていたカワゴエ先生に会釈をして、その前を早足で通り過ぎる。
そしてロビーを通り抜け、玄関を出て、門をくぐると、来た時と同じ花吹雪が僕を出迎えた。春の淡い青空を背景に、風に舞う花びらの桃色がよく映えている。なんて美しいのだろう。この色彩のコントラストを眺めながら歩いていると、花びらが一枚目のなかに飛び込んで、ボタボタと流れ落ちる涙が止まらない。顔を押さえて坂を下る僕を、通行人が振り返った。
メイに会いに行こうと思った。あの哀れな実験動物は、葬儀のあと未亡人が手放して、いまは動物園にいるらしい。どの動物園にいるのだっけ? タナイさんは知っているかな? 駅のホームで携帯端末を取り出して電源を入れると、ナグモさんからの不在着信を表示する。ちょうど良かった。彼女ならメイの行方を知っているだろう。
コールバックをすると、呼び出し音が三回ほど鳴った後に、ナグモさんが出た。
「メイがいる動物園を知っていますか?」
「え、なんですか?」
「実験動物のボノボのメイです。どこの動物園に行ったか忘れてしまって」
戸惑うナグモさんに何度も同じ質問をして、やっと答えを得ると、通話を切った。切った後に、そう言えば彼女から電話をかけて来たその理由を聞くのを忘れていたのを思い出す。まあいい、それより僕は、メイを見たいのだ。
週末だけあって動物園は家族連れで混雑している。僕は受付のそばにあったパンフレットを片手に、ボノボの檻を探した。ゴリラやチンパンジーといった類人猿の檻がならぶ一角にそれはあった。大きな黒い檻のなかに、人工の木が幾本も立ち並び、毛むくじゃらの黒い猿がクモの様に枝を渡っている。子供達が集まって檻の前の看板を読んでいた。そこにはそれぞれのボノボの特徴と名前が書いてある。僕はメイについて書かれた文章を頭に入れて檻の中を見たのだが、どれがどれだか個体の判別がつかない。全部同じに見える。こうして紹介文があるということは、このなかで暮らしているはずなのだが。
ならば向こうが僕のことを覚えているかもしれないと、出来る限り檻に近づいて、手を振ってみたが、その行為に特別な反応を示すボノボはいない。僕のことがわからないのだろうか。わかっていて、知らぬふりを決め込んでいるのだろうか。別段、仲が良かったわけでもない。メイを見分けたからといってどうということもないが、会いに来た相手を見つけられないのは、悲しかった。
しばらくそうして猿の群れを眺めていた。そろそろ田舎に帰ろうか。檻の前から立ち去ろうとすると、横合いから声を掛けられたのである。
誰かと思って振り向いた先には、スプリングコートを着て、デニムを履いた、私服姿のナグモさんが立っていた。
「どうしてここに?」
僕はすっかり驚いて、そう尋ねた。
「ハジさんを捜しに来たんです」
ナグモさんは若干苛々しているのか、不機嫌そうに言う。
「なぜわざわざ、そんなことを」
「用件があったんです。何度電話をかけなおしても出ないものですから」
「メールでも良かったじゃないですか」
「でも、さっきの電話の様子があまりにもおかしかったもので、気になったんですよ」
そう言って、額にうっすらと浮かんだ汗を拭う。そんなに急いで来なくてはならぬほど、僕は妙な態度をしていたのか。
「いや、それはすみません。急にメイの行き先なんか聞いてしまって。どうしても見たかったものですから」
「何かあったのですか?」
「別に、たいしたことじゃないんです。ふとそう思っただけですから。それより、用件ってなんですか? 用件があったから、電話をして、ここまで追いかけて来たわけでしょう? ないなら、帰りますよ」
「用件は、あります。大事な話です」
「なんですか?」
「研究が、もう一度再開されることに決まりました」
「そうですか。やっぱり、先生が亡くなったからそれで終わりってわけじゃなかったんですね」
「はい、トミタ先生の後任者がやっと見つかったそうで、もう一度動き始めました」
ナグモさんは中指で眼鏡を整えてから、続ける。
「オオシマ博士をご存じですか? それからナカノ博士、ええ、トミタ先生の葬儀にいらっしゃっていました。あの方々を中心にやり直すそうです。いかがでしょうか?」
その話を聞いた僕は思わず笑ってしまって、彼女に怪訝な顔をさせた。
「いやすみません。あんまり可笑しかったものですから」
僕は肩をすくめてみせる。
「まったく、あなたもよくよく変わった人ですよ。クローン人間なんかだいきらいだと言っておきながら、三度この実験に関わろうとしているじゃないですか。どうしてですかね? そう言えば、先生も亡くなる前に妙なことを言っていましたよ。あなたは関わるべくしてこの実験に参加しているのだとか。こうしてみると確かにその通りの成り行きになっています。何か特別な事情があるんですか? 言ってみたらどうです? 偶然ってことはないでしょう。理由があるはずなんです」
笑いかけると、ナグモさんは口ごもる。そして、うつむき加減で落ち着きなく視線をさまよわせた。動揺している? なぜだろう。
「まあいいですよ。まあいいです。とにかく、その仕事、引き受けましょう」
すると、ナグモさんは驚いたように顔を上げた。
「自分で誘っておいて、驚くことはないでしょうよ。ついさっきまで田舎に帰って嘆き悲しみながら暮らそうと思っていたんですが、話を聞いて気が変わったんです。僕は最初からこの実験に携わっていたんですから、ここまで来た以上はもう放り出したくはないですね。きっと僕の人生は、この研究に捧げるためにあったんでしょう。だから、再開するというのなら、喜んで参加させていただきます。ただ、一つだけ条件をつけさせていただいてもいいですか?」
そして僕は、今思いついた話を言葉にし、彼女に伝える。すると彼女はあからさまな動揺を浮かべたまま硬直してしまって、なかなか返答をしてくれない。
「どうですか? いいアイデアでしょう? 研究に骨を埋めるとは、まさにこういうことだと思います」
「それは……」
彼女がようやく答えようとしたその時、子供たちからざわめき声がわき起こった。
見ると檻のなかでボノボが追いかけっこをはじめている。子供たちは追いかけられている方のボノボを指さして、「笑ってるね」「笑ってるよ」と囁きあっている。確かにそのボノボが歯をむき出してヒッヒッと声を上げているさまは、笑っているとしか表現しようがない。ボノボが笑うという話は聞いていたが、実際に目撃するのは初めてだ。実に醜いものだ。
「ハジさん」
ボノボの笑顔に見入っていると、ナグモさんが呼んだ。彼女は苦々しい顔をして、額をハンカチで拭う。
「なぜそんなことを希望されるんですか?」
ナグモさんはしかめた眉をそのままに、そう尋ねる。
「今言ったとおり、研究の発展のためです。別に、これをしたからって僕が損をするわけじゃないですしね。周りの人間は多少戸惑うかも知れませんが、そんなの、この実験には最初からつきまとう問題でしょう。吞んでいただけなければ、僕は参加しませんよ。ナグモさんは反対ですか?」
「反対はしません。私はそんな立場にないですから。しかしそれはあんまりにも……。どうしてハジさんは平然としてらっしゃるのですか? 慧さんの例をあげるまでもなくクローン人間を取り巻く環境は過酷です。誰かのコピーとして生まれ、自分の存在価値に苦しみながら生きるのです。自分の分身を、そんな目に遭わせるのに抵抗はないんですか?」
ナグモさんは眼鏡の奥の瞳で僕の顔をじっと見る。
「あまりないですね。考えてみると僕には、クローン人間というものをそんなに特別だと思った経験がないようです。ずっと昔、知り合いがクローンだったと発覚したことがあって、確かにそれを聞いて気持ち悪がる人間もいましたけれど、不思議と僕にはそういったものはなかったような気がします。むしろ、その人のイメージと重なって、いい思い出しかありません。噓じゃないですよ。それで興味を持って、大学でバイオを専攻することにしたくらいですから。こんな僕の人格を受け継ぐわけですから、他の誰を被験者にするよりも適役だと思いますがね。尊敬するトミタ先生が行こうとした道でもあります。まあ、やる以上は、とことんやらせてくださいよ。もう僕には他に道がないんですから」
言い終わって相手を見ると、ナグモさんは冷や水でも浴びせかけられたかのように驚いた顔でそこに立っている。
「どうしました?」
尋ね返すと、ナグモさんはふうと息を吐く。
「いえ、了解しました。そこまでおっしゃるのなら私の口から伝えてはみますが、プロジェクトがあなたの要求を受け入れるかどうかはまだわかりません。しかし、本当に、後悔はしないんですね?」
「もちろんです」
そして僕は満面の笑みで頷いてみせた。それはきっと、今見たばかりのボノボのような顔になっていただろう。