ドッペルゲンガーの恋人
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唐辺葉介 Illustration/シライシユウコ
亡くした恋人のすべての記憶を、僕はクローンに植え付けた。新しく誕生した「恋人」との暮らしが、僕と彼女を追い詰めていくとは思いもよらずに――。まさに待望、唐辺葉介の復活作は、胸打つSFラブストーリー。
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「体調はどうですか?」
すすり泣く声が収まり、部屋に沈黙が戻ると、トミタ先生が声をかけた。
「こんな狭く薄暗い場所では、静かな森林で目を覚ますように清々しくとは行かないでしょうが、空気が清潔なのと、温度と湿度が適切に調節されているのは保証します。そして現在のあなたの肉体が、その快適さを享受するために十分健康であるのも保証しましょう。精神が落ち着いたならば、あなたはその事実に気がつくことが出来るはずです。どうですか? 苦しいとか、痛いとか、身体面で問題はありませんか?」
「大丈夫です。体は、どこも悪くは感じません」
「それならひとまず安心ですね。明日か、明後日か、落ち着いたら検査を受けて頂くことになりますが、その時不調があったら遠慮なく言って下さい。状況に対する驚きは多々あるでしょうが、まずなによりも健康が一番です。あまり考えすぎないで、いたわることを優先して下さい」
「はい、努力します。私こそ、先生の実験に協力すると言っておきながら、こんなに取り乱してしまって、すみませんでした」
「取り乱すのは当然のことです。木原さんの協力にはとても感謝しています。私はあなたやハジさんのような素晴らしい生徒を持てて光栄です」
慧は涙に濡れた顔に微笑を浮かべて頷いた。もう嵐は完全に去ったようだった。ぼくはほっと安堵のため息をついた。
そして先生はこれからの予定を慧に説明した。彼女は静かにそれを聞き、話が終わると、全て了承したという風に頷く。
「何か欲しいものはある? 用意出来るものなら、用意するけれど」
僕の言葉に、慧は少し考えるそぶりを見せてから、
「鏡を下さい」と言った。
そして手鏡が部屋に持ち込まれ、慧に渡される。彼女はそれを無言で見つめている。若返った自分の顔に、何を思うのだろう。僕は若干緊張しながらそれを見守っていたが、結局うんともすんとも言わないまま、手鏡を僕に戻した。
翌日から、実験の成果を確認するための検査がはじまった。そこで慧が取り乱すことはもうなかった。用意された検査を文句も言わず次々とこなした。同時に行われた運動機能のトレーニングにも勤勉に取り組んだ。彼女はこの研究のなかで自分のなすべき事をよく理解しており、こうした実験にありがちなトラブルを起こすこともない。僕は彼女の泊まる部屋に通い詰めたが、最初の時のように情緒不安的になることもなく、以前のように明るく笑い、話をしてくれている。
最初の日に泣いたあれは、やはり、ただ驚いただけなのだろう。まあ確かに、いつも通りの朝を迎えたと思ったら、昨日までの自分が死んでいて、肉体がクローンにすり替わっていたわけだから、戸惑うのも当然だ。むしろ、あの場面で狼狽してしまった僕の方が恥ずかしいくらいだ。それを言うと慧は肩をすくめて、苦笑した。
そして一カ月ほど過ぎると、研究所で慧がなすべき全てのスケジュールが消化された。
「想像以上ですね」
ナグモさんは検査の結果を自分のモニターに映しながらそう言った。彼女はいつだっててきぱきと仕事をこなす。態度があまりに素っ気ないため、彼女を嫌う人は主にその容姿を陰口にしたが、僕は素直に尊敬している。僕がトミタ先生のおまけのような形でこのプロジェクトに参加したのに対し、同い年の彼女は実力でスカウトされて入所したのだ。ここで仕事をしているのは選び抜かれた優秀な科学者ばかりで、タナイさんのような人でも、ああ見えて抜きん出た能力の持ち主だった。そのなかに、年少の彼女が選ばれるのは並大抵のことではない。
「これを見る限り、ほぼ理想的な経過と言えるでしょう」
そしてナグモさんは、ペンの先でグラフの数値を示してみせる。
事前の段階で想定されていた問題は、今のところ慧には何一つ発生していなかった。いずれの結果もおおむね良好で、彼女が木原慧としての人格や記憶を明瞭な形で保持し、神経や臓器も正常に機能していることが証明されており、実験の成功はほぼ疑いのないものになっていた。
「じゃあ、法務省の許可もおりますよね?」
「まず問題ないでしょう」
ナグモさんが頷くので、僕はほっとした。
いくら実験が成功したと研究者の間で言っていても、役所の許可がおりないことには、本当に木原慧が戻って来たことにはならない。許可があって初めて、彼女は慧としてそのIDや資格、権利、財産を引き継ぐことが出来るのだ。
「そりゃあ結構だね。ただ記憶を移植するだけでなく、元の人間として社会でやっていけなければ実験の意味がないわけだから、はやいところ手続きを済ませてほしいもんだ」
僕と一緒にモニターを眺めていたキドさんが口を開いた。
「そういえば、ねえハジ君。昨日はじめて彼女に固形物を与えたんだろう? 様子はどうだった?」
「美味しいと食べていました」
「味に違和感はなかったのかね。以前と同じように感じているって?」
「ええ、そうですね。味覚検査の結果と同じですよ」
「それならいいんだがね」
精神を別の肉体に移し替えると、感覚質あるいはクオリアと呼ばれるものが変化して、世界の感じ方が以前と異なったものになってしまうのではないかという説があった。
これは感覚質のメカニズムが完全に解明されていない現在の状況から生まれた憶測に近い仮説で、精神と肉体のマッチングを変更してしまうことで、感覚質そのものにも何らかの影響を及ぼすのではないかという指摘である。たとえばそれまでは青と感じていた色を、赤や別の色に感じてしまうとか、音が以前とまったく違う心象風景をもたらしてしまうとか、あるいは共感覚的な混濁が発生してしまうといった現象が可能性としてあげられている。そうなってしまうと、突然の変化が精神に耐えきれぬほどの苦痛をもたらし、被験者は発狂してしまうのではないかというのだ。
これは、研究員の間で議論にもなったことがある。要するに人間の感覚質というものに対し、ある種の普遍性を認めるかどうかといった議論のわけだが、僕はさほどの問題はないだろうと考えていた。一方、混乱を予測する側に立ったうちの一人がキドさんだったのである。
「最初に彼女が泣いた時はもしやと思ったものだけれど、検査結果を見る限りでは私の予想は外れていたようだ。もっとも、今回はたまたま適合しただけかもしれないが、まあ、問題が発生しなかったのは喜ばしいことだよ」
キドさんは肩をすくめて苦笑する。
「あくまでも現状で問題が起きていないだけであって、しばらく経過を観察しなければ結論は出ませんよ」
言いながらナグモさんは、今日の慧のデータをキーボードで打ち込んでいた。
「その通りだが、一カ月経ってこの状態だということは楽観視出来ると思うよ。そうだ、ハジ君は、彼女と話していて違和感を覚えることはないか? 仕事の暇を見つけてしょっちゅう会いに行っているそうじゃないか。そこでデータにはならないような部分で、気づいたところはないか? 恋人なんだから我々よりも些細な変化に気がつくだろう」
「以前と全くかわりないですね。メイの時も飼育員さんが何もかも同じだと驚いていましたが、そんな印象です。あれは慧以外のなにものでもないですよ」
「結構だ。きみがそう言うなら、その通りなんだろう」
キドさんは皮肉的な笑みを浮かべ、
「しかしついに、人間で成功させてしまったものだなあ。これは、えらいことだぞ。個人というものの根本的な概念が変わる。いや滅びると言った方がふさわしいかな? もはや個人の人格というものは世界でたった一つの特別なものでも、肉体と共に滅びゆくものでもなくなってしまったんだ。我々の精神も知性もデジタルデータとしていつまでも保存され、いくつでも再生出来てしまうんだよ。改めてこれはすごいことだと感じないか? あるいは、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。きっとこれが技術的特異点というやつなのだろう。古い人類の時代はこれで終わりだ。さすがのナグモ君も、こうなれば興奮してくるんじゃないか?」
「いえ、ちっとも」
ナグモさんは素っ気なくそう答える。
「ご存じの通り、私個人としてはこうしたクローン技術を人間に適用すること自体、正しい行いだとは思っていません。プロジェクトには、あくまでも仕事として関わっているだけですから。木原さんも、これからが大変ですよ。平穏無事にこれからの人生を送れればいいのですが」
「はあ、そういう批判的な発言を、よくこの場所ではっきり言えるものだと思うよ」
キドさんが呆れたように言うが、ナグモさんは表情を変えない。
「こうした個人的な価値観については、前もって博士にもお話しした上で入所していますから、特に控える必要もないかと」
キドさんはため息をつく。
「きみもきみだが、それを受け入れるトミタ先生も変わってると思うよ。あの人のことだから、私には及びも付かない考えがあるんだろうがね。それにしたって、きみにはあまりにも情緒というものが足りない。若くて非常に優秀なのは確かなんだが」
「重要なのは仕事として成果をあげることだと理解しています。それより……」
ナグモさんは一通り入力の終わった画面を閉じて、別のファイルを開く。
「キドさんは、ここで油を売っている場合ですか? まだ色々とやることがあったように思いますが。我々の研究はこれで終わりではないんですよ。実用化のためにはまだいくつものハードルが残っています。ご存じですよね?」
「そりゃご存じだとも。実用化ね。そんなもの、本来は我々の仕事ではないだろうに。しかし、この偉大な研究が、結局お偉いさんのバックアップを作るためだけに使われるのかと思うと、そのあまりの卑俗さに涙が出るよ。トミタ先生はどう思ってるのかね。こんな歴史的快挙が、日陰に埋もれたままでさ。なんとか表社会に出す方法はないのだろうか。ハジ君はどう思う? 我々研究者の社会的使命として、優れた技術は公開すべきだと思わないか?」
「僕には、あまりそういった大それた話はわかりません」
そう答えると、キドさんはやれやれとため息をついた。
正式に慧に帰宅の許可が下りると、僕はそわそわして落ち着かなくなった。ついに木原慧が研究所を出て、生活の場に帰って来るのだ。その日をどれだけ待ちわび、夢に見たことだろう。もちろん、今後も彼女の経過は逐一研究所に報告してゆくことになるが、自由と呼んで差し支えがない程度の生活は保障されている。彼女の死によって一旦は断絶してしまった時間が、また動き出すのだ。
未だにどうも、現実感に欠けたところがある。心が春の穏やかな日に浮かぶ風船のようにふわふわとしてしかたがないのだ。その日も彼女の部屋を訪ねると、無言のままその顔をじっと見つめてしまい、相手を困惑させてしまった。
僕は照れ隠しに頭をかきつつ、ここを出たらどうしたいのかを彼女に尋ねた。
田舎の実家に戻るのか、それとも、以前のように僕の部屋に帰って来るのか。もちろん僕はマンションに戻って欲しかった。そうして以前のようにまた二人で暮らしたかった。
彼女は少し考えて「そうさせて頂けるのなら、私もそうしたいです」と、頷いてくれた。
そうして退院、というのは違うか。出所? それではまるで刑務所に入っていたようじゃないか。何と言うべきかはしらないが、とにかく、慧が研究所を出るその日がついにやって来たのである。ナグモさんから慧の新しい身分証と各種の書類を受け取り、所員達に祝福されながら僕たちは門を出た。
空は五月晴れで、埃っぽい風が吹いている。少し歩くと、向こうにヘリコプターがバタバタと音を立てて飛んでいた。どうやら庁舎ビルの屋上にあるヘリポートに着陸しようとしているらしい。上空はさらに風が強いらしく、ヘリはふらふらと不安定に揺れながら着陸のタイミングを窺っている。気がつくと僕たちは並んでそれを見上げていた。慧は恥ずかしそうにそそくさと歩き出し、僕もそれについて歩きはじめる。
「来る時は車椅子でしたね。また、自分の足でこんな風に歩けるだなんて、思っていませんでした。ここに来た時から、もう一年も経ってるんですよね。私にはその実感はありませんが」
慧は感慨深げにそう呟いた。彼女は足下も見ずに辺りの風景をきょろきょろと見回している。歩行補助のために松葉杖を与えられてはいたのだが、もうそれに頼る必要はなさそうだった。
「ああでも、私にとっては久しぶりの外出、じゃなくて、生まれて初めての外出になるんでしょうか? だって、この体は研究所のなかで生まれ、ずっとここにいたわけですよね?」
「それはそうだけど、僕はやっぱり、初めてじゃなくて、一年ぶりの外出と呼ぶべきだと思うよ」
僕は彼女が転んでしまわないか、心配しながら言った。
「きみという人格は続いているわけだし、その体だって、別に無から作り上げたわけじゃないんだ。もともときみの細胞なんだから、病院からやって来たあの日だって、きみの一部としてそこにいたのは間違いない」
「それは、そうですね」
慧は素直に相づちを打って、そして笑った。
「どうして笑うんだい?」
「あんまり清々しくて、良い天気なものですから」
彼女はもう一度笑う。何か別の意味がありそうだったが僕にはわからなかった。
「外気が心地よいのは健康だからだね。実際、健康は一番大切だよ。もうきみは、これからはいくらだって歩くことも出来るんだからね。それどころかテニスや水泳だって可能だ。願望や幸福に向かって手を伸ばす力をもう一度手に入れたんだよ。そうだ、すぐ夏が始まるし、久しぶりにプールにでも行こうか? だけど、二人で行ったら人に怪しまれるかもしれないな。いまの僕らの外見は、年齢が離れすぎだもの」
僕の言葉に、彼女は微笑んだまま何も言わない。
慧が最後に部屋を出て行った日のことは今でもよく覚えている。夏が終わり、秋になろうとしている時期だ。その頃彼女は既に入院しており、病院に許可をとって僕の部屋に外泊していた。すでに歩行は困難で、僕は彼女の車椅子を押して、さまざまな場所へ連れ回した。それより前は、少しでも多くのものを見せてやろうと、旅行にも連れて行ったものだが、しかし、その頃になるとちょっとしたことで疲れてしまうほどに衰弱していたので、近くの公園や美術館まで行くのが精一杯だった。
その日僕たちは黒田清輝展を見にいった。途中で彼女が疲れてしまったので、まだ明るいうちにマンションへ戻り、学生時代の思い出話をした。その頃は、やたらと昔話をすることが多かった。慧はホットミルクを飲みたいと言って、僕が手渡すと、時間をかけてゆっくりと飲み、それでも飲みきれず、半分残した。
「ごめんなさい」と言って、テーブルの上にマグカップを運ぶ、枯れ木のようにやせ細った白い腕を、僕ははっきりと記憶している。
彼女はその翌日は両親と時間を過ごす予定をたてており、一夜明けた朝、二人が僕の部屋まで迎えに来た。車椅子を押す役割を父親とかわると、「あ」と慧は何かを思い出す。そして、僕の部屋で写真を撮りたいと言った。これが最後の外泊になると慧が考えているのがわかったので、僕は次に来た時に撮ればいいと言った。今思えば、一緒に撮ってやればよかったと思う。
あれからずいぶん時間が過ぎた。部屋は僕の一人暮らしのために様相を変え、当時慧が使っていた日用品はもう姿を消している。歯ブラシ、シャンプー、化粧道具。マンションに帰る前に商店街に寄って、これからの生活のために買い揃えた。慧はどれも一番安いものを選ぶので、もうちょっとマシなものを買ったらいいと促したが、これでいいと彼女はきかない。
買い物の後に夕食をとり、家に戻ると、もう夜になっている。慧は疲れているのか、無口になっていた。重い足取りでドアの前までやって来たものの、ノブを見つめたまま動かない。僕が開いてやると、こちらを振り返った。
「入ろう」
促すと、うんと頷き、そしておずおずと玄関に足を踏み入れた。それを見て、無口の原因は疲労ではなく緊張なのだと気がついた。
「おかえり」と笑いかけると、彼女は無言で頷き、はにかんだ。
こうして、慧は僕の部屋に戻って来たのである。
少しテレビを見た後に、互いにシャワーを浴び、そして同じベッドで寝ることとなった。しばらく横になっていたが、目が冴えて眠れない。慧もまだ起きているようだった。せめて今日は我慢しようと思っていたのだが、血が頭に上って眠れなかった。そっと彼女に手を伸ばすと、拒否する気配はなかったが、積極的に受け入れる態度でもない。戸惑っているのだろうか。一瞬迷ったが、結局続けた。服を脱がすと、以前よりずっと若返った、少女の裸体が現れる。慧はされるがままにじっとしていた。しかし慎重に触れているうちに、彼女は少しずつ反応をしはじめ、やがて以前と変わらない振る舞いを見せてくれた。行為に熱中しながら、僕はほっと安堵した。
「これからずっと、一緒にいて下さい。私にはあなたしかいないんです」
と彼女は上気した顔で囁いた。僕はそれに無言の頷きを返す。
その夜は何日かぶりにゆっくりと眠って、幸福感に満ちた清々しい気分で目を覚ますことが出来た。しかし、朝の静かな光に満たされたその部屋には、僕一人しかいない。それを知ると、不安が心臓の鼓動を強く速くした。この光景を見ると、慧が死んだ翌日、初めて部屋で目が覚めた瞬間の記憶がぶり返してしまう。ああそうだ、これがあるから、僕は家に帰るのがいやだったんだ。
慧はどこへ行ったのか? 昨夜脱がしたはずの衣服も見当たらない。ここへ一緒に帰って来たのが夢だったかのような気さえする。いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。一度死んだ人間がまた戻って来るだなんて、本来はあり得ないことだ。僕の愛する慧が、またここへ戻って来るだなんて、そんな素晴らしい話が、現実に起こるはずがない。
起き上がると頭痛がした。それを抱えながら、ふらつく足取りで寝室を出て、そこで僕はテーブルに食事を並べている慧の姿を見つけた。夢ではなかった。ほっとため息をつきながら、椅子に腰掛ける。朝っぱらから不安になったり安心したり、忙しいものだなあと、我ながらおかしな気分だ。
「早起きして作ってくれたのかい? ゆっくりすれば良かったのに。僕だって今日は休暇を貰っているんだよ」
「大丈夫です。何もしないわけにもいかないですから。ユウジさんは私を世の中に生み出すために、大変な努力をなさってくれたんでしょう?」
その慧の口調と微笑の仕方が何となく気になったが、言わなかった。黙って味噌汁に口をつける。それはかつて慧が毎朝作ってくれた、自分で再現しようとしてもどうしても同じにはならない、懐かしい味だった。不意に涙がこぼれそうになり、それをこらえる。
「これから毎日この穏やかな朝が続くんだと思うと、とても幸せな気分だよ」
僕が無理して笑うと、慧は照れくさそうにうつむいた。
僕は十日あまりの休暇を貰っていたのだが、最初の二日間は部屋にこもって慧を相手に性交ばかりしていた。その間僕は、何度もこれは夢ではないかと不安になり、慧に向かって確認したものだ。すると彼女は彼女で、今の自分の状況を現実と認めるのは難しいと苦笑する。確かにその通りだと思った。
「きっと二人で夢を見ているんだろうね」と僕が言うと、
「そう考えるのが、一番つじつまがあいますね」と彼女は言った。
慧はよく笑い、毎日が楽しかったが、しかしいつまでもこうして部屋のなかで二人で絡み合っているわけにもいかない。三日目にようやく、新生活のための生産的な行動を開始しようと決めた。
「今日はご両親に会いに行くよ」
そう告げると、彼女は少し考えてから、目に暗いものを浮かべ「どうしても行かなくてはならないんですか?」と返す。
僕はその反応が意外だった。彼女は親離れが出来ていないのではないかと思われるほど両親と親密にしていたので、てっきり喜ぶものと決めつけていたのである。
「当然じゃないか。連絡だってもうしちゃったよ。ご両親だって、早く会いたいと言ってたんだ。元気な顔を見せてやらなくちゃ」
「本当に、会いたいって言ってたんですか?」
「何言ってるんだ。娘が戻って来たんだよ。すぐに会いたいに決まってる。他に何があるのさ」
答えられずに慧がうつむくと、黒い前髪が目元を隠した。
どういう思いがあるのかは知らないが、ここで予定を取りやめることは出来ない。僕としても、是非ご両親に元気になった慧を見て貰いたいのだから、気が進まなくても付き合って貰わねばならぬ。
のろのろと支度をする彼女を急かしながら、自分の準備も整えて、予定より大分遅れてマンションを出た。新宿で特急に乗り換え、そこから一時間電車に揺られ、電車を乗り換え、やっと到着した駅はすでに夕闇に包まれている。降りたホームからご両親に電話をして遅刻を謝り、南口から出ているバスに乗り込む。そうして座席に腰掛けて、どうにか人心地つくと、慧が傍目にもわかるほどにそわそわとし始めたのである。
「本当に、どうしたんだ。様子がおかしすぎるよ。ご両親と会うのがそんなにいやなのか?」
慧は首を横に振る。
「……怖いんです」
「怖い?」
「だって、結局私はクローンじゃないですか。本人はもう死んでしまって、あの人たちもそのことは知っているはずでしょう? その上で、どんな風に私を迎え入れるつもりなのか、ちっとも想像が出来なくて。姿だって、こんな、子供みたいで……」
「どんな風って、僕と同じだよ。僕だって普通に受け入れたじゃないか」
僕が言っても、慧は顔をあげない。
「ユウジさんは、実際に実験に立ち会って全てを知ってますから……」
「そんなの関係ないよ。ご両親だって喜ぶに決まってる。全部知ってるんだからね。まったく、困ったな。そんなこと気にしてたのか」
ため息をつくと、慧はちらりと僕の表情を盗み見て、
「でも、気にしないのは無理ですよ。これは、大変なことなんですよ。だって、そんなの噓だと思うんです」
申し訳なさそうに話しはじめた。
「そりゃ私としては、自分が以前通りの木原慧だって感じがしますけれど、この意識は機械でコピーされたものなんですよ。結局私はクローンに、機械で記憶を植え付けられただけの実験体なんです。それで、死んだ木原慧の身代わりになってるんです。私もずっといろいろ考えてたんですけど、それが一番妥当だと思います。いつか破綻してしまうに決まっているのに、自分が本物の木原慧だと噓をついて、両親をぬか喜びさせるだなんて卑劣だと思うんです。複製の肉体に、複製の記憶をすり込まれたこの私が、木原慧そのものとして振る舞うのは、あまり正しいことだとは思えないんです」
「驚いたな。そんなことを考えていたのか」
僕は一瞬絶句してから、言葉を続けた。
「そんなことで悩む必要はないよ。だって、正しいに決まってるじゃないか。きみは偽物なんかじゃない。その肉体は、元の肉体から引き継いだものだし、記憶だって、きみ自身が積み重ねて来たものだ。細かい仕草や癖も、昔のままだよ。経緯には人の手が加わってるのは確かだが、きみが今持っているものは、元々全部きみのものなんだ」
「そう強く言われると、そのような気分もしますけど……」
慧は眉間にしわをよせて、
「そもそも私、今思うと本当に実験に納得していたのかなって思うんですよ」
「えっ、それはどういう意味だい?」
「あの時私は病人で、もう未来はなかったじゃないですか。だから、クローンがどうだとか言ったって、自分が死んだ後の話なんです。そのあと誰かが身代わりになるのは、正直ちょっといやで、それに、どうせ私が死んだ後にはユウジさんは誰か別の人を好きになるわけでしょう? それならまだ、自分と同じ姿をしたクローンを好きになった方がマシだと思って、だから私は、いや、死んでしまった彼女は、そういう消極的な理由で実験を受け入れていたような気がします。それに、病気でみんなに迷惑をかけてしまったから、人の言うことはなんでも聞かなきゃいけないって気持ちもありました。なんというか、末期の病人の発想だったんです。それは、今の健康な私からすると、ちょっと理解出来ない異常なところもあったように思います」
「えらい告白をされちゃったな」
僕はすっかり驚いて、そう言うのが精一杯だった。
「すみません。もっと言うと、ユウジさんに対しても、後ろめたいところがあるんです。あなたが私のことを慧と呼ぶ度に、噓をついているような気がして」
そして慧はうつむいた。
「いや、それは気にしないでいいんだよ。何度も言うけれど、きみは肉体も心も木原慧なんだよ。きみが何を心配しようと、僕はそう信じてる」
すると慧は顔を上げて、僕を正面から見つめた。
「じゃあたとえば、元の木原慧が生きていて、同時に私が存在していたとしたら、どちらを選ぶんですか?」
「最高じゃないか。三人で暮らすよ」
笑いながらそう答えると、
「馬鹿にしないでください!」
どうも怒らせてしまったようだ。慧が大きな声を出すと、バスの乗客の視線を集めてしまう。僕らはそれらに頭を下げて謝意を示し、そして今度は辺りをはばかるひそひそ声で話し合った。
「健康になって、楽しいことは多いですけれど、でもこういう不安はあるんです。なんだか、崩れゆく砂の上に立っているような、足下から不安な気分です」
慧は暗い顔でうつむく。
「まあ、気持ちはわかるよ。きみみたいな体験をした人間は、かつていなかったわけだからね。みんな自分の心はたった一つの肉体にだけ宿るものだと信じてたし、それを覆すような現実もなかった。状況を受け入れる概念もないんだろう。戸惑うのも当然だけれど、でもね、すぐに環境に慣れて心境も変化するさ。ただね、音楽をいろんなメディアにダビングしたからといって、曲そのものの内容が変わるわけじゃないんだ。それと同じことで、きみはやっぱり木原慧なんだと思うよ」
慧は僕の説得を全面的に受け入れたわけでもなさそうだったが、それ以上抗弁する気もないらしい。
「じゃあ、ひとまずそう考えることにします。私は木原慧なんでしょう。それで間違いがないのなら、私もその方が楽なんです。後で別のことを言ったりしないでくださいね」と言って、黙り込んだ。
やがてジャージ姿の高校生の集団が乗り込んで、バスのなかは汗臭くなる。彼らはガヤガヤと騒々しく、彼らの間で流行している何事かの会話をしていた。それを聞くともなく聞きながら、僕はフィッシュスロウイングについて考えた。
いつだったか、夜が更け、仕事の合間にテレビ放送でアメリカのドキュメント番組が流れているのを見たことがある。そこで紹介されていた鮮魚店のパフォーマンスが、フィッシュスロウイングだった。
筋骨隆々とした鮮魚店のおやじが、毛むくじゃらの腕で銀色に鈍く光る鮮魚を勢いよく放り投げている。別の店員がそれをキャッチして、氷の上に陳列する。これが評判となり、客を集め、店舗は拡大され、従業員も増員し、ついには魚を模した関連グッズが製作され、しかもそれがまた売れているのだそうだ。実に不思議な話で、一体それの何が楽しいのか、何が客に魚を買わせるのか、僕にはさっぱり理解出来ぬ。これは僕の頭が固いせいなのか、アメリカ人がとんでもなく阿呆なのか、それとも、そもそも世のなかというものがワンダーに満ちた場所なのか。
考え込んでしまう僕の前で、インタビュアーは鮮魚店のおやじにこう尋ねた。「最終的な目標は?」するとおやじは満面の笑みでこう答えた。「私の夢は、世界平和です」
鮮魚を投げて世界平和。おやじの目は清く澄んでいる。そうか、人生とはそういうものだったのかと、僕は目から鱗が落ちるような思いがしたものだ。
大いなる感銘を受けた僕は、そのパフォーマンスに「フィッシュスロウイング」と名付け、それからしばらく、ことあるごとに人に話した。とりわけ一緒に暮らしていた慧には何度も情熱を込めて語ったのだが、にもかかわらず、僕の話はついに彼女の共感を得られなかった。
「ああ、フィッシュスロウイングの話はもうやめてください!」
と、ある日彼女は悲鳴を上げた。理解の出来ない話を延々とされる苦痛は判らぬでもないが、しかし僕の方としても困ってしまう。なぜといって、この話のなかにこそ僕の一生の答えがあったからだ。それはきっと、あのみっともない現代病から僕らを解放してくれるのだ。そして未来をきらびやかな輝きを持つものに変えてくれる。だから僕はこの話をやめることが出来ない。
「一見くだらなく聞こえるかもしれないが、よく聞いたら少しは理解出来るようになるかもしれない。それでもやっぱりくだらないと感じるならば、そのときは笑ってくれてもいい。とにかく、僕の話を最後まで聞いて欲しいんだ」
そう言うと彼女は「わかりません」と涙を流して泣き出して、僕はたいそう驚いたものだ。
やがて目的の停留所に着き、僕たちはバスを降りる。
確か、慧の実家はここからさらに五分くらい歩くはずだ。しかし僕は道をはっきりとは覚えていなかった。困ったなとぼんやりしていると、慧が先導してくれた。
昼は既に初夏の兆しを見せ始めていたが、この時刻になるとまだ肌寒い。慧は七分袖からはみ出した手首をさすりながら「木原慧は、小学校に行くときも、中学校に行くときも、この道を歩いたそうです」と伝聞のように呟いた。さっき木原慧だと思うことにすると言ったばっかりじゃないか。文句を言いたかったが、もう彼女の実家は近い。喧嘩を蒸し返したくもない。我慢をして歩き続けた。すると慧の指がそっと僕の手に触れる。
「さっきは、ごめんなさい」
慧は申し訳なさそうに言った。
「大丈夫、僕はきみと口論がまた出来るというだけでも幸福なんだ。喋れば喋るほど、きみはきみだよ。ご両親も、きっと温かく迎え入れてくれる」
木原家は、小さな内科診療所を夫婦で営んでいる。今日は早いうちに診療を終え、ご馳走を用意して僕たちを待っていた。食卓には郷土料理や慧の好物が所狭しと並べられている。お父さんは芋虫を揚げて塩を振ったものをばりばりとかみ砕きながら上機嫌でビールを飲んでいた。当地の伝統食材だと奨められたが、僕には口に運ぶ勇気がなかった。芋虫以外の料理も、これがこの辺り特有の味付けなのだろうか、とてもまずかった。色も黒いものばかりだ。前にご馳走になったときも無理をしなければのどを通らなかった。慧の作る料理は旨いのに、どうしてなのだろう。みんなは笑顔でつまんでいる。慧も時々それに箸を伸ばしている。僕は愛想笑いをしながら白米ばかりを食べていた。僕の味覚がおかしいのかもしれない。
食卓を照らす電球は、最近とんと見なくなった白熱電球で、僕らの顔をオレンジ色に染め上げている。卓上の醬油差しや茶碗の下には濃い影が出来ていた。父も母も、我が娘の久方ぶりの帰郷を喜び、涙ぐんでいる。慧は当初はおどおどと控え目にしていたが、両親に話しかけられて言葉を交わしているうちに、次第に親子の口調になっていって、時に笑った。なんだ、あらかじめ言っていたより大丈夫そうじゃないか。結局顔を突き合わせて、以前と同じように話せば、「己は何者なのか?」だなんて迷想は飛んでしまうんじゃないか。思春期の悩みと一緒だよ。体が若返ったせいで、その部分も若返ってしまったに違いない。
「今日は実にすばらしい日だなあ! 慧、もう一杯飲むか? いらないか。なあハジ君、まったく、きみは大した男だよ。娘を連れ戻してくれてありがとうな! しかし、もうちょっとアルコールに強ければ言うことがなかったのに。この祝杯を酌み交わせないとは、ああ、実に残念だ!」
父親はそう言って、僕の肩を揺する。僕はなんとも返すことが出来ず、えへへと痴呆のような愛想笑いで返す。
すると、母親から助け船が入った。
「お父さん、飲み過ぎですよ。頭のてっぺんまで真っ赤になっていますよ。明日もお仕事でしょう?」
「お母さん何を言っているんだ。こんなに酒が旨い日に飲まなきゃ、何のために生きているのかわからない。なあ慧、本当に酒はもういらないのか? そうか、まだ病み上がりみたいなものだものな。それにしても、お前、これからどうするんだ? どこかに就職するか? もう一度学生をやるという手もあるな。そうだ、免許をとって、ここを継いでくれよ。ああそうだ、それがいい。田舎の開業医もそう悪くないぞ。この辺りの年寄りは、みんなお前のことを子供の頃から知っているし、喜ぶだろう。それくらいの金はあるんだ。可愛い一人娘のために貯金していた。それとも、もうハジ君と結婚するか? 二人でここをやってもらっても構わんぞ。黙ってちゃわからんじゃないか。彼がいやなのか? それなら、遠慮せずにここに戻って来たっていいんだ。ワハハハ! すまないねハジ君。これは冗談だからね」
「ああ、お父さん、飲み過ぎですよ。ごめんなさいねユウジさん。この人、慧が帰って来たものだからすっかりはしゃいじゃって。でも、私も心から嬉しいわ。世のなかも捨てたものじゃないわね。一時は、生きているのも辛いくらいだったのよ。それが、本当に……」
その一時間後に父親が酔いつぶれて、その日の会食は終わった。
僕たちにあてがわれたのは二階の和室で、そこは慧が子供の頃使っていた部屋らしい。足を踏み入れると、彼女の学習机や古い教科書が、まだ当時のまま並べてあった。
しかし、そこには寝具が見あたらない。この湯上がりのまま立っていたら、二人とも風邪をひいてしまうだろう。
「どうしよう?」と言うと、「こっち」と慧は言った。
勝手知ったる懐かしき我が家、彼女は真っ暗な廊下を電灯もつけずにすいすいと進んでゆき、僕は手探りでその後をついてゆく。そして突き当たりの押し入れに客用の布団が入っていたのを、二人で部屋に運び入れた。
布団を敷いて横になると、すぐにとろとろとして来る。慧におやすみの挨拶をしようと隣の布団を見たら、そこはもぬけの殻だった。どうしたことかと起き上がると、彼女は学習机に向かって立ち、なにかいじっている。僕の気配を感じて彼女は振り返る。その背後の窓から差し込む月明かりが逆光となり、表情が真っ黒に塗りつぶされていた。僕は目をこすりながら、彼女に話しかけた。
「随分楽しそうだったじゃないか。昔話に花が咲いて、僕が知らなかったことも随分たくさんあった」
「きっとあれは、私の記憶を試してたんです。私が本当に木原慧かどうか」
「照れてるのかい? まあ何にしろ、そうやって、ひねた見方をしちゃ寂しいよ」
「すみません」
彼女は肩をすくめ、
「でも、あの人達も、木原慧が死ぬその瞬間は看取ったんですよね? 死んだその瞬間を目の当たりにしていたら、やっぱり、私のことなんか、幽霊やゾンビのように見えてしまうものなんじゃないでしょうか」
そう言うと、そのシルエットが微かに揺れた。
「その話はもうやめようじゃないか。根拠のないものを疑ってもしようがない。それより、何をしていたんだい? わざわざ布団を抜け出してさ」
「あの、これが……」
慧は手に何か持って、月明かりにかざした。
「水準点かな?」
「水準点?」
「あのね、路傍にある十字の刻まれた四角いコンクリートのかたまりがあるじゃない。それ、ちょうどそんな形してるだろう? まあ違うのはわかってるんだけれどさ。だって水準点なんか部屋に持ち込んでも仕方がないし、地面から切り離したらなんの水準にもならない。おかしな答えをすれば、きみが笑ってくれるかなと思って、言ってみたんだよ。でも笑わないね。ごめん」
謝る僕を、慧はみじろぎもせずそこに立ったまま見つめている。
「いや、僕が悪かったって。で、それはなんなの?」
改めて促すと、慧は小さく頷く。
「これは鉛筆削りです」
そして彼女が手の中で角度を変えると、それがハンドル式の鉛筆削りであるのが見て取れた。こんなに深刻なそぶりで鉛筆削りを見せつけられたこの場面を面白いと思ったが、慧の場合は冗談でやっているわけでもなさそうだ。
「この鉛筆削りの記憶が、私にないんです」
深刻な口調で彼女は訴える。
「そうなんだ」
「私、木原慧がこれを使っていたという記憶がないんです」
「それはわかった」
彼女は僕に何かを悟らせようとしているらしいがさっぱり見当がつかない。どうも重要な話のような気はするのだが、鉛筆削りがどうこうという話と、慧の深刻な態度がどうしても結びつかない。
腕を組んで考えるふりをしていると、慧はため息をつく。
「もしかして、実験は失敗だったんじゃないでしょうか?」
「おい、そんなこと軽々しく言っちゃいけない」
あわててそう言うと、彼女は鉛筆削りを机の上に戻し「だって、これ、ここに置いてあるということは、木原慧が子供の時に使っていたものですよね」と言った。
「そうだね。そうかもしれない。それはいいんだけど、さっきからどうしても気になってることを一つ言っていいかな? その、自分のことを木原慧って呼ぶの、やめてくれないかな? なんだか疲れるんだ」
「子供の時に使ったのに、ちっとも覚えていないんです」
慧は僕の言葉を無視して続ける。
「机も、ペン立ても、全部覚えているのに……この鉛筆削りだけ見覚えがないなんて不自然だと思いませんか? 子供の頃に使ってた文房具なんか、たいてい覚えてるものでしょう?」
「そう言われればそのような気もするけれど、そうじゃないことだってあるでしょう」
と言っても慧は首を横に振る。
「いえ、これは、実験が失敗して、記憶がコピーされなかったんです。だから私はこれを覚えていないんです」
「まさか、そんなはずはない」
「そんなの、言い切れるものなんですか? 言い切れないでしょう。だって、私が最初の被験者なんですから。失敗も成功も、私で確かめるしかないんです。それに最初なんですから、失敗はどこかにある方が当たり前じゃないですか。ユウジさんはさっき肉体も精神も完全に以前と一緒だと言いましたけれど、もし精神のコピーが失敗してたら、どうですか? 私の心が、欠けたものだったとしたら、どうなるんですか?」
「ああもう! またその話か、めんどうだなあ」
僕がうっかり言ってしまうと、
「なんですって?」
表情は見えなくとも、声色だけで彼女が怒ったのがわかった。
「いや、なんでもないよ。気にしないで。ただね、僕が思うにきみは几帳面すぎるんじゃないか? 物忘れなんか誰にだってあることだよ。それくらいで一々騒いでたら、全ての人間が平穏には生きられなくなる。それくらい、わかるだろう?」
「だって、そんなこと言っても、忘れるはずがないことなんですもの」
さっき怒っていた慧が、いまは泣きそうだった。
「わかった。わかったよ」
僕は会話を打ち切って立ち上がると、慧に近づく。彼女はぎょっとたじろぐが、別に乱暴をしようというわけじゃない。そんなこと、一度だってしたことないのだから、そんなに怯えなくたっていいじゃないか。僕はただ机の上の鉛筆削りを借りたかっただけだ。そして身を硬くする慧の傍でそれを手に取ると、部屋を出た。
階段を下りて、ドアの外からご両親を起こし、怪訝な顔をする母親に鉛筆削りを見せて、これは何かと尋ねた。
「え、何かって……」
彼女は狼狽してしまう。それはまあ当然か。これだけの言葉では要領を得るはずもない。重ねて僕は、あの子が自分の部屋に見慣れないものがあると不審がってるので、これがどういうものか教えてくださいと、そして、今部屋であったことを正直に丁寧に若干早口になりながら説明した。
するとやっと事情を飲み込んで、冬休みに親戚の子が宿題と一緒に持って来て、そのまま忘れていったのだと教えてくれる。
思った通りだ。やっぱり、実験の失敗などではなかったじゃないか。僕は安堵のため息をついてから、いつの間にか額に浮かんでいた汗をぬぐい取る。
「本当にすみませんねえ。あの子のことで迷惑ばかりかけてしまって。ユウジさんには本当に頭があがりません。ありがとうございます、ありがとうございます」
拝むように手を合わせる母親に、僕はきまりが悪くなりながら礼を言い、その場を辞した。
そして手探りで二階へと戻りはじめる。
戸外から虫の声が這入り込み、暗闇に染み込んでいる。古い家特有の黴臭さを感じる。階段は傾斜が急で、踏み幅も狭かった。これではご両親が年をとったら危ないだろうにと思いながら昇っていると、僕の方が段につまずき、したたかに脛を打った。涙が出るほどの激痛で、触れると指先がぬるりとし、なめると生臭かった。唾をつけて立ち上がる。よろけて壁に手を突いてしまい、それが思いのほか大きな音を立てた。
這いつくばるようにして部屋に戻ると、常夜灯の仄かな明かりの下で、慧は布団の上に膝を抱いて座っていた。鉛筆削りを見せて、今聞いた話をそのまま伝えると、ばつの悪そうな顔をした。
「ごめんなさい」
子供のようにそう言うのを、僕は笑い飛ばし、
「いいんだ。不安になる気持ちはわかる」
それで寝ようと横になったのだが、慧は再び口を開く。
「でも、今回は私の勘違いだとしても、百パーセント元の記憶が移植されたとは限らないわけですよね……」
「もう!」
僕は再び体を起こした。
「科学の世界に百パーセントなんかないのはきみだってよく知ってるだろう。そう言われたら、百パーセントではないとしか言えないけど、でもね、記憶なんか、忘れたり印象によってねじ曲げられたりしながら、常に変動するものじゃないか。根本のところが大体あってれば、それでいいんだよ。僕だって、昨日の僕と今日の僕は違うだろうさ。それでも僕はそのことに気がつかないし、きみだって気づかない。世界の誰も気づかないまま変わってゆくのさ。でもそれでいいんだよ。誰にも確かめようがないんだから。よく未来は混沌としているというけれども、過去だって同じくらい混沌としているんだ。ああ、こんなこと言うと、また何か反論されるかな。とにかく、今日はもう寝よう。リズムを崩さず、健全な生活を守るんだ。僕たちには明日があるんだから。今はそれだけで充分幸福だと思わないか?」
それだけ言うと、慧はもう反論しない。経験的に、こうやって言いたいことを一方的に言うと、彼女はしばらく始末に負えなくなってしまう。言い過ぎたかなあと、多少後悔したが、僕もかなり疲れている。目を閉じると、すぐに眠くなった。
案の定、翌日から慧の表情は重く沈み、マンションに帰るとしくしくと泣き出した。泣きながら食事をとり、泣きながらベッドに入り、性交が終わるとまた泣いて、そして翌日目を覚ますとすでに泣いていた。おそらくこの状態が三日か四日は続くのだろう。
僕はもう理由を尋ねなかった。ベッドの上で下着姿のまますすり泣く彼女を置いて、リビングルームでテレビを見はじめる。外は雨が降っていて、雨粒が抑揚なく窓を叩き続ける音で僕の気分も暗くなる。おまけに、慧の実家でぶつけた向こう脛が黒く腫れ上がり、じんじんと痛んでいた。
壁掛けテレビは芸能人の不倫だの、美味しいランチだのを紹介する情報番組を映し出している。誰かが喜ぶからこういうものを放送しているのだろう。僕はその誰かになったつもりで眺めていた。雨は止む気配がない。低気圧も慧の精神に影響を与えているのかもしれない。ふと、水屋の奥に貰い物のハーブティがあったのを思い出した。確か安静効果があるとか、そんな話をしていたっけ。ホットミルクを飲めば安眠出来るという話と同じ程度の効果だと思うが、あれを慧に飲ませたらどうだろう? プラシボ効果というものもある。ただの気休めだって、泣き止んでくれればそれでいい。彼女が多少なりとも僕を信じてくれているのならば効果があるだろう。もちろんそれは、本当に悲しくて泣いているならばの話だが。どうせあんなの、僕に対する抗議のアピールなんだ。そう思っても、態度に出さずに本気で心配しているかのように振る舞うのが事態を早く収拾するコツだ。「気持ちが落ち着くお茶だよ」と、笑顔と共に差し出すのは、たとえこちらの意図を全て見透かされていたとしても、悪くない行動には違いない。
そうして箱を取り出してみたら、すでに賞味期限が切れている。もう悪くなっているだろうか。まず自分で飲んでみようか。
キッチンに立ってやけに青臭いそのお茶をすすっていると、一年前にも同じようなことをしていたのを思い出す。もはや科学的な治療法では手の尽くしようがないと聞き、怪しげな健康食品を取り寄せては、まず自分で飲み、そのうち良さそうなものだけ彼女に与えていた。中国の奥地でとれたというキノコの乾物。何とかという洞穴から汲み上げたという鉱水。おかげで当時の僕は常に具合を悪くしていた。
お茶はどうも悪くなっているようだったので、そのままゴミ箱に捨てた。
どうしたものかと答えがあるわけでもないのにテレビを眺めていると、不意に画面が切り替わり、スーツを着た禿頭の人物が映し出された。世情に疎い僕も、彼が我が国の現在の官房長官であることは知っている。生中継のテロップ。これから緊急記者会見をやるらしい。一体これは何事か。画面のなかから記者たちの慌ただしい気配が伝わってくる。官房長官は水玉模様のネクタイを整えてから、用意した書類を読みはじめる。
淡々とした声で彼が話すところによると、どうやら戦争が終結したらしい。
それから講和条約による取り決めについて説明をし始めたが、前提知識の足りない僕には何のことやらわからない。質問する記者の声の冷静なトーンを聞く限り、良くも悪くもない予想されたものなのだろう。
どうやら大変なことになったようだ。具体的に何がどう大変なのかと問われても、僕にはちょっと思いつかないが、大変だというその事実は理解出来る。
「戦争が終わったってさ」
寝室に戻って慧に伝えると、一旦泣くのを止めて、きょとんと僕を見上げたが、すぐにまた手を顔に当てて泣きはじめる。慧にとっても、終戦というものは、泣き止む必要があるほどの緊急性はないものなのだな。
リビングルームに戻って一人であれやこれや考えていると、研究所から電話がかかって来た。家にいるならすぐ研究所に来いと言う。家を抜ける口実が出来たのは、僕にとってもありがたい。慧に外出の旨を告げてから、タクシーに乗り込んだ。
駅前を通り過ぎるとき、車窓から号外を配っている場面を見かけた。片手に傘を持ち、片手で刷り立ての号外を配っている。通行人の多くは「ああついに終わったか」と、ため息でもつきたそうな顔でそのニュースを受け止めていた。その一方で、その場にうずくまる老婆もいる。身内に軍の関係者でもいるのだろうか。号泣しているらしい。物心ついた頃からずっと戦争のなかで過ごし、成人した後は研究所などという閉ざされた場所に入って世間が遠くなっていた僕は、むしろその老婆の昂ぶりから、戦争というものが重大なものだったのだという実感を得た。
会議室に来てくれという話だったので、研究所に到着するとまっすぐその部屋に向かう。足を踏み入れると、すでに騒然としていた。世界初の被験者である慧と生活している僕は本来かなりのニュースバリューがあるはずなのだが、それについて尋ねて来る者もいなかった。戦争の終結によって、それどころではない何事かが起こっているのだろう。まあ確かに、ここは国立の研究所であるし、研究内容も戦争と無関係なものでもないのだし、多大な影響を受けているのはわかる。ちょっぴり寂しかったが、考えてみれば僕としてもけして皆の前で積極的に話したいような事柄があるわけでもない。これはこれで良かったのかと思って腰掛けていると、タナイさんがしたり顔で近づいて来る。
「どうだ、俺の言ったとおり、戦争が終わったぞ」
タナイさんは僕に勝ち誇っているが、なんのことだかわからない。
「こないだ、戦争が終わるニュースがあるってきみに話したら、どうせガセネタだって否定してたじゃないか」
「そうでしたっけ」
まったく覚えていなかった。首をひねると、タナイさんはやれやれという具合に体を揺らし、
「まあなんだっていいさ。とにかく、ついに、長い長い戦争が終わったんだよ。何もこんなタイミングで終わらなくても良いと思うがね」
「それなんですが、何か内示でもあったんですか? みんな顔色が違ってますけれど」
尋ねると、タナイさんはうんと頷き、
「さすがにね、我々みたいな秘密研究への根回しは早かったようだ。記者会見がまだ終わらぬうちから、先生のところに連絡が来たそうだよ。今本人が電話をかけ直して詳細を問い合わせているところだが、まあ中止は間違いないところだね。仕方がないさ」
「そんな簡単に終わるものなんですかね。だって、完成まであとちょっとなんですよ? それを待ってからでも遅くないと思うんですが」
するとタナイさんは鼻で笑い、
「戦争が終われば、政府首脳の顔ぶれも一新されるわけだし、そうはいかないさ。おれたちはいわば負の遺産なんだよ。世間にバレる前にさっさと閉鎖したいだろうよ」
その話ならば僕にも理解が出来る。
世間でクローン元年と呼ばれているのは、今から十五年ほど前、テロメアの修復技術が完成したその年のことだ。これによって、短命にしか生きられなかったクローン生物の寿命が、通常の生物と同様のレベルまで延長された。これ以降、畜産業などを中心にクローン技術が発展して行くのだけれど、同時にこの年、世界人権倫理機構が発足し、霊長類に対するクローン技術の規制がはじまった。それまでも、各国で似たような規制はあったのだが、クローン技術のめざましい発展を人類共通の問題として捉え、超国家的な機構として設立されたのだそうだ。年長の科学者の話によると、この設立が現場にもたらした影響は大きかったらしく、それまではせいぜい黒よりのグレーといった位置づけであったクローン人間の研究が、ほぼ全面的に禁止されてしまったと聞いている。日本も当然それを批准しており、現段階でも脱退はしていない。
そうした事情を背景としつつ、僕たちの研究は機密事項として進められていた。全ての研究員は、研究内容を口外した場合には重い罰を受けるという内容の契約書にサインさせられている。
これが白日の下にさらされれば大変な批判を受けるのは、いくら僕でも理解出来た。いや、批判だけでは済まないかもしれない。世間には感情的にクローン技術を嫌悪している人々は多い。
「理解は出来るんですが、惜しいと感じますねえ」
「そりゃ当事者からするとそうだろうよ。誰だって失職はしたくないからな。だがまあ、肯定的に考えれば、早い段階で中止にしてもらえて良かったのかもしれん。危ない船からはさっさと退散するに限るからな」
「それはそうですが……」
「あっそうか、君は慧さんのことがあるんだな。それだけは、何か約束してもらった方がいい。混乱のどさくさでどうなるかわからないからな」
それは確かにそのとおりだ。タナイさんに言われるまで気づかなかったが、確かに研究が中止された後の慧の身柄については重要な懸念事項に違いない。
「僕もだんだん暗い気持ちになってきましたよ……」
そしてタナイさんが何か言いかけたところで、トミタ先生が部屋に入って来た。
先生が正面に立つと、皆は口を閉ざし、部屋は静まりかえった。先生はその静寂に向かうと、いつも通りの淡々とした口調で、事実のみを告げる。そして、近いうちに正式に研究所閉鎖の指示が下ること、それがいかなる方法をもってしても覆しようのないものであることが、皆の前で明らかにされた。聴衆からはため息が漏れる。
「閉鎖後一ヶ月ほどは、後始末のための時間が与えられています。そこで少し片付けを手伝って頂いて、それがみなさんの最後の仕事となります。再就職口については政府からなんらかの提示があると思います。それが意向に沿わない場合は、私も出来る限り協力しますが、これから世のなかも変わるでしょうし、おとなしく政府の提案に従った方が確実かと思います。退職される方には、保証金がいくらか出るようです。突然のことで驚かれているかと思いますが、ご理解下さい。これまでの精励恪勤、ご苦労様でした」
先生は淡々とそう言って、咳払いを一つ。そこで「あの、いいですか?」と立ち上がったのはキドさんだった。
その目はぎらぎらとして、肉食の爬虫類みたいだ。そういえば、その乾いた唇も、やせて筋張った首も、どこか蜥蜴じみているのに気づく。以前から何かに似ていると思っていたが、そうだったのか。隣のタナイさんをつついて「キドさんてどこかイグアナに似てませんか」と囁いたら、「突然何を」と言いながらも、笑いを抑えるのに大変そうだった。
「後始末ということは、つまり研究の資料などを隠滅するということですか?」
キドさんは攻撃的な口調で言う。
「その理解で間違いありません」
「それはいけませんよ!」キドさんは、ひときわ大きな声を出し、目をむいた。
一度気がついてしまうと、もはやそうとしか見えない。その顔は一層爬虫類じみている。タナイさんは僕の横で「クックッ」と笑いをかみ殺した。
キドさんはタナイさんの態度に気づかない。
「この成功がこのまま完全に闇に葬られてしまうなんて、人類の損失じゃないですか!」
ドン、と机を叩くと、その隣に座っているワタベさんの肩がびくりとする。
「ここ数年のクローン技術の停滞っぷりは、先生もご存じでしょう? 毎年代わり映えのしない論文が発表され、その細かい差異をむりやり賞賛したり、批判をして、無為に労力を費やしている。この状況が後世に暗黒時代と称されるのは間違い有りません。確かに強行すれば道徳屋さんの批判を招くでしょうが、同業者連中は、よくぞやったと膝を打つでしょうよ。それでいいじゃないですか。科学とは本来行儀の悪い、自由なものだったはずです。どうあっても、この研究結果は世に出さねばなりません。停滞した状況に、風穴を開けるのです」
キドさんは身振り手振りをつけて情熱的に語るが、先生は泰然としてなんとも答えない。先生向きの話題ではないというのは、長いつきあいの僕にはわかる。
キドさんだってそれを知らないわけでもないだろうが、よほど腹の虫が治まらないのか、咳払いをして、さらに続けた。
「いけませんよ! このままなかったことにしちゃあ。我々は科学者じゃないですか。なかでも先生のような才能の優れた方には、特別な使命があるんですよ」
「そんな大したものじゃありませんよ」
先生はキドさんとは対照的な静かな声で返す。
「使命だのなんだのは知りませんが、これは、政府の出資による政府の事業であることはかわりません。職業倫理として、公開などけして出来るものではありません」
「その考え方は、わからないではないですよ。私は科学的発見の前には、政府から課された職業倫理など些末なものだと感じますが、そこは価値観の違いでしょうから言いません。ただ言いたいのは、それで先生は本当に満足なされるのかってことです。ご自分の研究成果が、他人の勝手な意向で葬り去られてしまうのですよ?」
「端的に申し上げるならば、満足している、というのが妥当な回答になりましょう」
「信じられません」
「そうですか? 青年時代からの長年にわたる持論が、こうしてチームと資金を与えられ、曲がりなりにも一つの結論を生み出し、この目で見届けることが出来ました。私事を語るのは恐縮ですが、研究者人生にとってこれ以上幸福なことはなく、大変満足していますよ」
この返答に、キドさんは大きくため息をついて「それなら仕方有りません。残念です」と、椅子に腰を下ろした。
「あのため息、わざとらしすぎやしないか? 先生に失礼だ」
タナイさんが、小声で不快感を伝えて来る。そんな態度が気になるほどに先生のことを尊敬していたのかと、僕はそちらの方にやや驚いた。
キドさんが黙ってしまうと、他に意見をしようとする者もいなかった。具体的なスケジュールや、今後の処遇についての質問のみがいくつかなされ、それが済むと会議はお開きとなり、三々五々それぞれの作業に戻っていった。
僕は廊下に先生を追いかけて、会議の場では言い出せなかった慧についての質問をした。
「ああ、それは説明するのを忘れていました。すみません。一応、支援金などは今の形式のまま継続するということになっています」
「ああなるほど、それなら良かったです。これで援助も打ち切られるとなったら、どうしようかと」
僕は安堵に胸をなで下ろした。
「そう言えば、木原さんはお元気ですか?」
「まあ、元気と言えば元気ですが……」
言おうか言うまいか迷ったが、結局僕はありのままを報告した。
「なるほど、不安定になっているのですか。それはゆゆしき事態ですな」
トミタ先生は眼鏡の奥の目をしばしばさせている。
「いや、そんな大したことじゃないんです。前から機嫌が悪くなるとこんな感じでしたから、実験の影響とかそういったものとも関係ないと思っていますよ」
「あまり簡単に楽観視してはいけませんよ。万一というものがありますから。そうですね、カワゴエ先生に診て貰いましょう。そして、今後のことも相談しておくと良いかもしれません」
カワゴエ先生というのは、民間からの出向というかたちでプロジェクトに参加している精神科医で、慧の精神面でのケアを担当している人物だった。
「え、いや、わざわざ先生に診ていただくような状況じゃないんですって。ああ、言わなきゃ良かったかな」
後悔したが時既に遅し。先生は診察を受けさせるべきだとの主張を曲げるつもりはないようだ。
「先生には私の方から連絡しておきます。すぐに彼からハジさんに連絡があるでしょう」
「はあ、すみません」
「今後も、何かあった場合は、逐一私に連絡を下さい。中止になってもプロジェクトの責任者は私ですから。……ハジさんには、迷惑をかけてしまいましたね。元々研究者志望でもなかったはずなのに、ここまで付き合わせてしまって」
「いえ、先生が大学からここへ招いて下さらなかったら、僕は未だに慧を失ったままでした。心から感謝しています」
「近いうちに木原さんも交えて三人でお話をしたいですね。それでは今日はこれで。こんな状況ですから、私にもまだ用事があるようなのです」
そうして先生との話が終わると、研究所に長居をする理由はなかった。
所員たちがあちこちに固まって、それぞれの今後について話し合っていたが、それを尻目に僕は白亜の建物を出る。それを見送る警備員の顔はどこか不安げだ。彼にはまだ事態を告げられてはいないはずだが、僕らの雰囲気からおおよその察しはついているのだろう。何か尋ねたそうにしながらも、結局口は開かなかった。ここがなくなれば、彼らも失職するのだろうか。これから景気も悪くなるだろうに、気の毒なことだなあと思いながら、その前を通り過ぎた。
空には暗い雲が垂れ込め、蕭々と雨が降っている。僕は研究所に傘を忘れてきたのに気がついたが、もう駅までの道のりを半分ほど来ており、すでにずぶ濡れになっている。バスを使うことさえ思い付かなかった。まるでステゴサウルスのような鈍さだ。
やっと駅にたどり着くと、携帯に電話が着信する。相手はカワゴエ先生だった。トミタ先生は、早くも連絡を取り付けてくれたらしい。
「ハジさんですか? 聞きましたよ」
受話口から、早口で忙しそうに喋るカワゴエ先生の声が流れた。僕はそんなに緊急性のある状況ではないから、後で時間がある時にこちらから向かうと話したのだけれど、彼はいまから診たいと言ってきかない。
「そんな甘い考えじゃいけません。万が一何かあってからでは遅いんですよ。木原さんのような特殊な例は他にないのですから、慎重になりすぎるということはありません」
トミタ先生に言われたことと同じような言葉を強い口調で言われてしまった。じゃあこれから診せに行くと渋々伝えると、向こうからこちらのマンションまで訪ねてくると言う。彼が仕事熱心なのは知っていたけれど、そこまでしてくれるとは思わなかった。申し訳ないことだし、正直彼に僕たちの部屋のなかを見られたくなかったのだけれど、彼の情熱的な態度には逆らえず、結局承諾してしまった。
そして僕は電車に乗り、最寄り駅で降り、濡れて今更ではあるけれど傘を購入し、マンションへ向かって歩き始める。
カワゴエ先生は、クローン人間に対する精神医療の専門家だ。大学を出たあとすぐに南米の病院に勤めたと聞いている。そこで多くのクローン人間の患者を診ていたらしい。
彼らはクローン犯罪における被害者で、その多くが少年少女だったそうだ。性的目的や臓器目的で作成されたクローン人間なのである。犯罪組織の施設や、売却先から救出されたあと、その心の傷を癒すために治療を受けていた。カワゴエ先生はそこで毎日彼らのカウンセリングをし、その口からむごたらしい話を聞いていたらしい。
「そういうところで働いているとね、やっぱりクローン犯罪や、クローン技術者に対して良い感情はもてないわけですよ。私もやっぱり、好きじゃないですよね。正直なところ。なのに、こんなプロジェクトに関わっているのだから、因果なものですよ。名目は違うにせよ、やっている内容はそう違ったものじゃないでしょう?」
あるとき彼はそう言ってから、乾いた声で笑った。そして「この話は秘密ですよ」とも言った。この話というのは自分の経歴のことか、研究者を嫌いだということなのか、どこからどこまでの話を指しているのかわからなかったが、僕は頷いた。そして、そんな秘密の話をどうして僕に対してしたのかと逆に尋ねた。
「特別な理由はありません」
そう彼は答えた。誰かに愚痴りたい気分で、たまたまそこに僕がいたと、ただそれだけだと笑った。昔僕にもクローン人間の知り合いがいて、そのことをどこかで聞いたのではないかと疑っていると伝えると、「それは初耳です」と肩をすくめる。そこで僕は彼に当時の話をした。彼は感想を口にしなかった。かわりに彼は、いつか日本にもクローン犯罪被害者専門の病院を作りたいのだと自分の夢を語った。
「彼らには特別な治療が必要です。彼らの多くは、クローン人間以外の誰とも共有出来ない喪失感と孤独感にさいなまれています。心臓に楔が打ち込まれているようなものです。そのまま社会に出れば、クローンでない人々と向かい合うたびにその繊細な部分が刺激され、苦しむことになるのです。気をつけなければいけません」
それは過去の僕に対する皮肉なのか、それともこれからクローン人間と暮らそうとしている今の僕に対する警告なのか、判別はつかなかった。いずれにしても、その台詞を口にしたその瞬間に、彼が僕を話し相手に選んだ理由を理解した。彼は、僕を特別に憎悪しているのだ。
家に帰ると、慧はソファーに座ってチョコレートを食べている。入って来た僕と目が合うと、また顔に手を当てて、泣き出そうとする。
「ちょっ、ちょっと待って! 今から人が来るんだ」
慌てて押しとどめると、彼女は泣こうとした姿勢のまま目を丸くし、
「人が?」
「そうだよ。お客さんがきみに会いに来る」
「……どなたですか?」
「カワゴエさんだよ。研究所で会ったろう? きみの担当の精神科の先生だよ」
「えっ、どうして……」
「研究所でトミタ先生にきみの様子を聞かれたものだからね、噓をつくわけにもいかないからずっと泣いてるって正直に言ったんだ。そしたら、これは大変だから至急カワゴエ先生に診て貰わなくちゃっていう話になって……」
「そっ、そんなのいりません! 私は平気ですから、断って下さい!」
「それがもう遅いんだよ。彼はもうこっちに向かってるらしいんだ。僕も断ったんだけれどね、きみのような状況は前例がないからもっと慎重にとかなんとか深刻に言われたら、うんと頷くしかない。たのむから、ちょっと診察を受けてくれないか? 僕の顔を立てると思ってさ。そしたら、きみの予定より二、三日長くぐずってもいいから」
「よ、予定なんか立ててません!」
「とにかく、客を迎えられるようにその変な部屋着を着替えるんだ。それから部屋も片付けなくちゃいけない。チョコレートがついた顔も洗うんだ。大体、きみが泣いてばかりいたせいでこうなったんだから、文句を言って貰っちゃ困るよ」
すると慧も言い返せなくなって、二人で部屋を片付けた。慧の実家から帰って来たまま放り出していた旅行鞄を押し入れにしまい、脱いだままの下着を洗濯機に放り込み、使ったまま丸めたティッシュを慌ててゴミ箱に捨て、僕が雨で濡れた体をシャワーで流し、それと入れ替わって慧がバスルームに入ったところで、予想外に早いチャイムの音が聞こえた。
カワゴエ先生は急いで来たらしく、肩が雨に濡れて、ねずみ色のスーツがその部分だけ黒く染まっている。
「様子はどうですか?」
彼は削いだようなシャープな頰を持った美男子で、普通に喋るだけでも、まるで何かの台詞のようだった。
「もう大分平静を取り戻して、今シャワーを浴びさせています。大丈夫なんじゃないですかね」
僕は先ほどまでのどたばた騒ぎを感じ取られぬよう細心の注意を払いながら、そう答えた。
「そうですか。じゃあ、出るまでここで待たせて貰ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
彼をリビングルームに上げると、タオルを渡す。彼はそれで顔を拭うと、部屋の中を見回した。隠し忘れたものがないかと緊張しながらその様子を見守っていたが、どうやら醜態を見せないですんだようだ。
やがて慧がバスルームから戻って来て、カワゴエ先生の問診が始まった。最初は僕も交えて三人で行い、その後に慧と二人きりで話すという。その間、僕は寝室で待つことにした。
ベッドの上に横になって天井を眺める。何はともあれ、無事にカワゴエ先生を迎え入れることが出来て良かった。慧もそれなりにまともに受け答えが出来ていたし、これで先生が帰ったらまた泣き出すということもないだろう。結果として、すべてがうまくいったと言えるのかもしれない。
それにしても、カワゴエ先生は随分と早く到着したものだ。さっきの電話の様子からするに、彼は病院に居たのを抜け出てここに来たのだろう。雨に濡れながら。その仕事に対する責任感や情熱には頭が下がる。
彼はまだ若く、その年頃は僕とさほどかわらない。しかし、クローン人間の精神を扱うことにかけては日本の第一人者であり、経験も豊富だ。さらに病院を建てるという男らしい野心もあるという、なかなかに立派な男だ。一方僕は生まれつき、野望や欲望といったものにかける人間で、トミタ先生に声をかけられて研究所へ来なければ、あのまま大学で目的もなく非生産的な研究をやり続けていただろう。どうして同じような人間なのに、これほどの差が出てしまうのか。しかも僕は、どうやらこれから失業してしまうらしい。政府は職員にかわりの仕事を斡旋してくれるそうだが、他の人々と違って、何の実績もない僕に仕事があるのだろうか。もし職を失えば、慧はどう思うだろう。彼女はすっかり若返ってしまった。僕と並んで歩くと明らかに不釣り合いだし、若さという武器を使えば他にもっといい男を捕まえることも出来るはずだ。カワゴエ先生みたいな立派な男になびいてしまうかもしれない。そうなったら困るなあと、ぼんやり考えていると、いつの間にかうとうととして、カワゴエ先生が僕を呼ぶ声で目が覚めた。
「薬をいくつか処方しておきましたので、必要に応じて頓服させてください」
まぶたをこする僕に、彼は事務的な口調でそう言った。
「ひとまず今の生活のまま、様子を見れば良いでしょう。ご本人もそれを希望しています」
「わかりました。ありがとうございます」
「ええ、ただし、気をつけてください。不安定な状況なのは確かですから」
「そうなんですか? ただかまって欲しいだけなんじゃないんですかね」
「とんでもない! 彼女は状況に対して臆病になっているんですよ。ハジさんを含め、周囲の人々に、自分が受け入れられるかどうか、ひどく気にしています」
「はあ、その辺りの話はなんとなく聞いていますが」
それからカワゴエ先生は自身の見立てを口にしたが、彼にとっても例のない患者であるため、はっきりした言葉にはならなかった。
「何にしろ、もう少し様子を見た方がいいでしょうね。あとこの件は書類にしてトミタ先生にもご報告しますので、ご了承ください」
最後に彼はそう言った。
「それではまた、ご連絡します。何かあったら、すぐにまたご連絡下さい」
カワゴエ先生は忙しそうに帰ってゆく。玄関で見送った後に部屋に戻ると、慧がカワゴエ先生のグラスを片付けていた。僕が部屋に入ってきたのに気がつき、手を止め、顔を上げる。
「カワゴエ先生って、いい男だね」
そう言ってみると、慧は気まずそうに、
「そうかもしれませんが、あまり私の好みじゃないです」と言ったので、僕はほっとした。
一カ月の期間が与えられていたが、建物のなかが片付くまでにそれほどの時間は必要としなかった。
政府から派遣された作業服姿の人々が、研究データのつまったコンピュータや、実験のために特別に開発した機材を次々と運び出し、トラックに積んで行く。僕らはそれをぼんやりと見ているだけだった。どうも後で聞いた所によると、彼らは戦地から帰って来た兵隊だったらしい。てきぱきとした効率的な作業で、全てが終了するまで一週間もかからなかった。
とにかく根こそぎ全部持っていった。最終的な処分は、向こうでチェックした上で行うとのことで、現場にはほとんど何も残されなかった。いくつかの机と椅子、それと研究員の私物がいくらか転がっているのみだ。窓際に飾っていた観葉植物まで持って行かれてしまった。何かの実験に使われたものだと勘違いされたのだろうか。
そうしてあっという間に、我々の八年にも及ぶ研究の現場は、ただのがらんとした空間になってしまった。僕はその部屋のど真んなかに立ち、閉鎖の感慨を存分に味わった。
ほとんどの職員は次の行き先が決まっている。その多くは、政府が用意した職場、たいていは別の国立研究所へ移るらしい。異動先の多くはこれまでと同じようなバイオ関係の研究所だが、なかには新型のモノレールを開発しに行く人もいるそうだ。本人は、バイオしかしらない自分がその職場で何をするというのだと、苦笑いをしていた。実際のところ、上からすれば僕らが無職になりさえしなければ、何でも良いのだろう。窮迫して、研究内容を外部に漏らされぬために、とにかく手当たり次第に仕事をあてがっているのだと思う。
こうして次々と政府の機関へ行き先が決まってゆく一方で、自分の伝手で職場を見つける者、また、実家に戻って家業を継いだり、あるいは全く別の職種に挑戦する者もちらほらといた。そうしたなかで僕の行き先は最後まで決定しなかった。
一応僕にも政府から職場が用意されてはいたが、実際の所、これ以上研究職を続けてゆくモチベーションを自分のなかに見出せなかった。タナイさんは「燃え尽きたんだよ」と笑ったが、確かにその通りなのだろう。慧を目覚めさせた瞬間に、僕の科学者としての人生は円満な解決を迎えてしまった。
元々研究者を志望していたわけでもなく、この世界に誘ってくれたトミタ先生も引退して悠々自適の生活にはいるようだし、今が潮時だ、というのが僕の考えだった。
これがあまり正しい考えではないというのは自覚している。戦争が終わって、世の中は少し不景気になった。多数の兵隊が帰還したり、特需によって潤っていた企業が業務を縮小することで、世間は失業者であふれつつあるそうだ。この状況で、与えられた仕事を拒否して別の職種を探すのは賢明な選択とは言い難い。転職するにしても、次の働き口が見つかるまでは用意された職場で働くべきなのかもしれない。
それでも僕はやめたかった。正直なところ、慧のことが心配だというのもある。この不安定な状況で、彼女を一人家に残して働きに出たくはなかった。幸い銀行口座にはそれなりに蓄えがあったし、しばらくは失業手当も支給される。慧のために時間を作りながら、のんびりと就職活動をしようと考えていた。
そして新しい職場については、いまのところ具体的ではないにしろ、いくつか条件は考えている。
まず、時間に融通がきく職場でなくてはならない。慧に何かあったとき、仕事で手が離せない、なんてことになったら困る。プロジェクトが解散したいま、彼女が頼れるのは僕だけだ。引き続き国がある程度の面倒はみてくれるという話だが、この混乱した政局で、一体どの程度の約束が守られるのか、信用出来たものではない。
さらに、中途採用でも差別なく人並みの収入が見込めなくては困る。そして将来のことを考えると、やはり発展性が必要だ。それに僕は環境の変化に弱い性格だから、長期の出張や遠方への配置換えもなく、土日祝日もしっかり休めるようだとベストだ。あとそうそう、福利厚生も万全だと心配がなくてすむだろう。僕はそういうところで働きたい。
「世のなかをなめてるんじゃないの?」
酒に酔った真っ赤な顔で、タナイさんは言った。
「願望を言えっていうから、ありのままを話したんじゃないですか」
「いい年をして、そんな馬鹿な条件を真顔で並べるやつがいるか。ハジちゃんのキャリアで、研究職以外の勤め先が見つかるわけがない。いくら探したって絶対無理だ。断言してやる」
タナイさんは舌打ちをして、ビールのジョッキをあおった。
今日は研究所最後の夜で、打ち上げと称して研究所名義で近くの居酒屋を借り切っていた。狭い店内は職員たちの喧噪で満ちている。
普段はまるきり酒の飲めない僕も、タナイさんに無理矢理カシスオレンジを注文させられていた。一口飲んだだけで精一杯で、ほとんど残ったそれをテーブルの上に置いたまま彼の話を聞いている。
「きみはここでは若手の部類だといっても、もう三十なんだよ? そんな簡単に仕事が見つかるはずがないじゃないか。巷にはオーバードクターがあふれて、きみのような人材はいくらでも余ってる。インテリ至上主義の風潮も、ここにきわまれりだ」
熱弁をふるうタナイさんは、千葉の農業試験場に就職が決まっているらしい。給料も役職もこれまでより上昇すると、自慢げに語られたばかりだった。
「貯金や手当があるっていったって、それでいつまでもやっていけるわけでもないだろ? 無職生活が長引くうちに不安に焦って、結局クズみたいな仕事をつかむことになるんだ。おとなしく与えられた仕事で手を打つべきだと思うがね」
「そうですかねえ」
「そうだよ。そんなこともわからないのか。だからきみは世のなかをなめてると言ったんだ」
ずっと研究室で過ごし、まともに世間に出ていないタナイさんには言われたくなかったが、どうも正論のような雰囲気がある。
せっかくの一度きりの人生だし、やりがいのある仕事を見つけたいのになあ。そうして慧と末永く暮らせていければ、とても幸せだと思うのになあ。そんなに無理な話なのだろうか? だとしたら、世のなかというのはつまらぬものだ。
タナイさんの説教を黙って聞いているうちに鬱屈して来て、飲めもしない酒を無理に煽ると、その報いで気分が悪くなった。酔いが胸を内側から突き上げる。
あわててトイレに駆け込んで、琺瑯の便器を抱きかかえた。冷たく硬い感触を両腕に感じながら、胃の奥からせり上がってくるものを残らず吐く。最後には酸っぱい液しか出なくなり、その悪臭がさらに吐き気を誘った。しかしそれからあとは、吠えるようにえずいても、わずかな液が唇の端からしたたり落ちるだけだった。
顔を洗って外に出ると、照明がグラリグラリと揺れている。キドさんが熱気を帯びた大声で、持論を主張しているのが聞こえる。政府の決定は人類における歴史的損失だとかなんとか批難している。あの人も随分酔っているようだ。人はなぜアルコールを口にするのだろう? 金を払ってわざわざ毒物を摂取し、正気を失って喜ぶというのだから人間は愚かだ。
空いているテーブルの上に両手を突いて、揺れる体を必死で支えていると、頰をわずかにピンクに染めたナグモさんが水の入ったグラスを目の前に置いてくれた。
思いの外に優しいなあとその顔を見ると、彼女は苦々しい顔で「醜態ですよ」と冷たく言い放つ。
「おっしゃる通りです」
僕はそう言ってグラスをあおった。なんでもない水が、やたらとうまく感じられる。
「ハジさんの新しい就職先は、決まったんですか? 紹介は断ったそうですが」
ナグモさんが髪をかき上げると、ほんのり甘い香りがした。今日は珍しく、香水をつけているらしい。
「いえ、まだです。僕なりに色々と考えているところですよ……。しかし、ナグモさんは閉鎖でよかったんじゃないですか? 気に入らないクローン人間から離れられて、うれしいでしょう」
先刻タナイさんにこてんぱんに否定されたばかりの自分の考えを披瀝する気にもならず、そう話題をそらした。
「別に」
ナグモさんは肩をすくめ、
「確かにうんざりはしていますが、そう簡単に離れようがありませんから」
素っ気なく言う。再就職先について詳しく聞いてはいなかったが、やはり彼女も引き続きバイオ関係の仕事を続けるのだろう。
「まあ、頑張ってください。ナグモさんならきっと、どこでもやれますよ。僕は足を洗います。今までお世話になりましたが、これでお別れだと思うと少し寂しいですね」
「そうですか。私も寂しいですよ」
彼女はそう言うと、僕の返事も待たずに自分の席に戻っていった。その途中、一度足がよろける。ああ見えて酔っているのかもしれない。
一人になってからため息をつくと、ひどく酒臭い息が出た。
気がつけば八月も半ばになっている。まぶしい太陽が連日アスファルトを焦がしていた。今年は猛暑だそうで、街角を歩いていると例年よりもアイスクリームを移動販売するバンを多く見かけるような気がする。店主に若い人が多いのを見ると、今年の春の就職にあぶれた人たちが一斉に始めたのだろうか。
研究所が閉鎖されてそれなりの時間が過ぎていたが、僕の就職活動はちっとも進展しておらず、相変わらずの無職であった。どうも僕が間違っていて、タナイさんの意見が正しかったらしい。想像以上に世間の面接官は僕に厳しかった。僕のIDには一応国立研究所で働いていたという経歴が記録されているはずだが、この時勢ではあまり効力を発揮しないようだ。民間企業は、公的機関というものをずいぶんと低く評価しているらしい。一昔前は違ったはずだが、時代が変わったということか。
タナイさんの言っていた通り、世間には職にあぶれた博士が一山幾らであふれかえっているというのが現実なのだろう。研究職を選ぶとか選ばぬとか、僕の側で意向を持つこと自体が甘えだったということに、早い段階で気がつかされた。
多少条件を緩和してみても、採用通知は届かない。いい加減僕もいやになる。段々求人情報を集めるのも億劫になり、就職活動にも出かけなくなった。そうしていつの間にか僕の個人的な夏休みが始まって、今日に至る。窓の外のカンカン照りを眺めながら憂鬱な気分で音楽を聴く僕の横で、慧が薄いキャミソール一枚の姿で、皿に盛られたペペロンチーノをカチャカチャとフォークで巻き取り食べている。
僕たちは一つのソファーに並んで座っていた。昔に二人で選んだ赤いソファーだった。慧があまりにも旨そうに食っているので、半分わけて貰った。麵をすすりあげると、オリーブオイルとにんにくの強い香りが鼻をつく。
あれ以来僕たちは喧嘩することもなくやっていた。慧は時折何か考え込むそぶりを見せることはありつつも、取り乱すようなことはない。ただ、こうして実験によって新しい肉体を得たことを受け入れることが出来たのかは今ひとつわからない。一緒に映画を見に行けば喜ぶし、こうして食べ物も幸せそうに食べるけれど、急にふさぎこんで一つも口をきかなくなることがあるし、両親と顔をあわせるのも未だに気が進まないようだ。カワゴエ先生は静かに見守るべきだと言うのでそうしているが、それで解決するものなのか、今ひとつ信じられない。
僕はソファーにもたれかかり、こっくりこっくりと船を漕ぐ慧の横顔を見た。その肩の上で黒髪が揺れている。ずいぶんと髪が伸びたものだ。こうしていると幸せそうに見えはするのだ。それならば、あとは僕が安定した仕事を見つけるだけなのだが。
のろのろとペペロンチーノを食べていると、彼女はそのままソファーの上に体を丸めて横たわり、すやすやと寝息を立てはじめる。その唇には、乾燥バジルのかけらが付着していたので、指先でとってやった。
スピーカーから流れているのは復刻版のヴェルヴェット・アンダーグラウンドで、それに外から這入り込むアブラゼミのノイズが混ざる。僕のすすっているペペロンチーノからにんにくの破片が飛んで、慧の首筋に張り付いたが、彼女は気づかずに眠り続けている。
その翌朝のことだ。一階のゴミ置き場に一週間分のゴミを捨てて部屋に戻って来ると、慧がそこに立ち、何か言いたげに僕の顔を見つめている。その不安な顔つきを見た時点で嫌な予感がして、出来れば見なかったことにして通り過ぎたかったが、さすがにそうも出来ない。
「なに?」
と無職生活ですっかり無精髭が伸びた頰をかきながら、おそるおそる口にしてみる。
「あの、ユウジさん。私のこの実験について知っているのは、研究所の人達と、ユウジさんと、それから私の両親だけなんですよね?」
彼女はどこか焦るような態度でそう言った。
「そうだね。ああ、もしかして、かつての友達や、知人に会いたいのかい? それは全然かまわないよ。研究所を出る時に説明を受けたと思うけれど、IDに記録されたとおりの理由を相手に言うんなら……」
「いえ、そうじゃないんです」
彼女は僕の言葉を遮り、首を横に振った。
「それより、尋ねたいことがあるんです。寝起きに、ふっと思ったことがあって……」
慧はガラス玉のようなうつろな瞳で僕を見る。この表情は、彼女が返答の難しい言葉を口にするときの予兆だった。
「なに?」
渋々そう促すと、慧はそれを待っていたかのように、間髪を入れず口を開いた。
「あの、木原慧という人間の死は、世間にはなかったことになってるわけですよね?」
予想通り、いやな話題を持ち出したものだ。
「ああ、うん……そうだね。一応その事実は伏せられている」
「じゃあ、彼女はその状況で、どんな風に死んでいったんですか? その死を世間に隠されたということは、たとえば人里離れた寂しい場所に見捨てられて、ひっそりと一人で死んでしまったとか……」
言いながら、彼女の目に暗いものが浮かぶ。
「馬鹿な。そんなことあるはずがない」
「そうでしょうけれど、なんだかいろいろと考えてしまうんです……」
「気にしすぎだよ。わかった、変な夢を見たんだな。そのせいで、寝起きの頭が引っ張られているんだ。少し休んだ方がいいんじゃないか?」
その言葉は彼女の耳には届かなかったようで、慧は急に目をキラキラと輝かせると、次の質問を口にする。
「あの、そのときユウジさんはそこにいたんですか? 木原慧が死んだその姿を目の当たりにしたんですか?」
これもなんとも答えにくい質問だったが、しかし、隠すわけにもいかない。僕は無言のまま頷いた。
「じゃあ教えてください。そのとき、どんな気分でしたか? 木原慧がそこで死ぬのは、哀しかったですか? だって、その時にはもう、私が作り出されることが予定されていたわけじゃないですか。だから、目の前のこの女が死んでもどうせスペアがあるって、そんな気持ちになったんじゃないですか?」
正面から見つめる大きな二つの瞳に対し、僕は若干ひるみながら答えた。
「あの時はそんなこと少しも考えなかったよ。考える余裕もなかった。多分ご両親もそうだと思う。数日の間、僕らは死を受け入れるので精一杯だったんだ」
「じゃあ数日経って、落ち着きはじめたらどうでしょうか? ……正直に言ってください。一瞬も考えなかったとは思えないんです。だって、本当に哀しかったのなら、思わないはずがないでしょう? 今目の前の木原慧が死んでも、かわりを作るから大丈夫だって、自分の心を支えようとするのが普通じゃないですか。責めたくてこんなことを聞いているんじゃないんです。ただ、ありのままを知りたくて……」
「一瞬も考えなかったよ。噓じゃない。実験が本格的に動きはじめたのが、彼女が亡くなった後だったせいかもしれないけれどね。そして実験がはじまると、これをなんとしても成功させなくてはと、そのことだけで頭の中は一杯になった。とにかくきみが言うようなことは全然考えなかったんだよ。今言われて、そんな思考の仕方もあったんだと気づかされたくらいだ。こればっかりは信じて貰う他ない話だけれど」
「彼女の死はそんなに哀しかったんですか?」
「うん」
「今も哀しいですか?」
「それは……」
正解がわからない。口ごもってしまってから、
「少しは哀しいかもしれない。でもこうして戻って来てくれたおかげで、すでに過去の話になっている」
「私は、最初からそこのところがどうしてもわからないんです。木原慧は死んでしまって、あなたたちはその静かになった肉体を見た。そして私はその後に培養液のなかからやって来た人間なのに、あなたたちは故人のスペアでも身代わりでもなくて故人そのものだと言う、その気持ちがわからないんです。やっぱり、どこか偽っているんじゃないですか? そう思いたいだけなんじゃないですか? 木原慧は死んでいないって」
「生命の定義というのは個人の考え方に依存するものかもしれないが、僕は、こうして木原慧の記憶や人格が継続している以上、死んだというのは間違いだと思っている。あまりこういう言葉は使いたくないけど、肉体は滅んでも、その魂はきみに受け継がれているんだ。ご両親も多分、同じ気持ちだろう」
「そうですか」
慧は親指を口元に持って行った。そしてその先端を小さく嚙む。
この話題が慧にとって重要なのは間違いのないことだが、僕も落ち着かなくてそわそわしてしまう。彼女がこういった質問をした場合の返答を、あらかじめ考えていなかった。とっさに答えたいまの言葉が正しかったのか、間違っているのか、彼女の仕草から判別することは出来ない。僕は椅子を引いてそこに腰掛けた。窓の外から、大型車の音声アラームが聞こえる。間の抜けたチャイムの後に、録音された女性の声が車の後進を伝えている。ゴミ清掃車がやって来たのだろう。
やがて慧は顔を上げて、さっきより幾分光のある目で僕を見る。
「もし慧さんのお墓があるなら、見たいです」
「え」
「あなたも、お父さんやお母さんも、その木原慧の死を見ているんですよね? だから私も知りたいんです。みんなが知っているのに、私だけ知らないだなんて、おかしな話ですよ」
「しかし、それは……」
「お願いします」
慧は懇願するように僕を見る。
「それで気が済むのなら案内するけれど、でもそれは、きみにとって覚悟の要る体験になると思うよ。見ても見なくても事実は変わらないのだから、僕としてはよしておくべきだと思う」
僕の言葉に、彼女は真剣な顔で首を横に振る。
「ユウジさんとお父さんお母さんが乗り越えられたのなら、きっと私にも出来るはずです。どうか、私をお墓に連れて行って下さい。……さっきユウジさんは変な夢を見てそれに影響されたのだと言っていましたけれど、もしかしたら私は、研究所で目が覚めたときからずっと寝起きなのかもしれません。なんだかひどくふわふわとして、夢のなかを生きているような感じが消えないんです」
鮮烈なほどに赤い空を、供物に餌付けされたのか、カラスの黒いシルエットがくるくると舞っている。子供の頃の僕はこうやってカラスを見上げる度に、カラスがなくからかえろ、と条件反射的に口ずさんでいたので、三つ子の魂なんとやら、今でも少しそうしたくなる。我慢して地上の慧の後ろ姿を見た。彼女は自分の墓の前に立って墓石を見つめている。心細げな背中だった。
『木原家之墓』と彫られたこの御影石の下に、慧の骨壺は納められている。彼女はおそるおそる手を伸ばすと、彫られた文字を指先でなぞった。
墓の裏側には木原家代々の故人の戒名が刻まれているが、そこには慧の名はない。表向き彼女は死んだことにはなっておらず、本来ならば墓も分けて埋葬する予定だったのだが、ご両親のたっての希望により、木原家のこの墓に祖父母と共に入ることになった。ここは慧が少女時代を過ごしたあの家から歩いて三十分も離れていない。のどかな場所で、背後は山、正面には町の全景を見下ろすことが出来る。都会の墓地と違って、スペースを贅沢に使っており、僕の田舎でも同じような具合だったのを思い出す。
今年は確かに猛暑のようだ。陽が落ちようとしているのにまだ暑い。汗でTシャツがべったりと張り付く。僕は襟元にひとさし指を引っかけて、胸元に風を取り込んだ。慧の背中も汗で濡れて、白いブラウスが透け、下着のかたちが見える。
僕の田舎ではお盆には墓参りをするなと言われていたが、この辺りでは風習が違うらしい。多くの墓前には、花や線香が供えられている。木原家の墓にも、花と、そしてカップ酒が供えられていた。慧のご両親が来たのだろうか。僕がここに来たのは、納骨の日以来だった。春の彼岸に誘われたが、その時は忙しいと断った。
慧が入院していたのは、優れた医師と最新の設備が揃った贅沢な個室だった。実験に協力することで得た報酬と、人脈を使い、その病院に入れてもらった。まるで一流ホテルの客室と見間違うような上品な部屋で、彼女はこれじゃ逆に落ち着かないと、よく苦笑していた。
この病室で彼女が過ごしている間、ご両親は毎日のようにやって来て、僕も週の半分はそこに泊まっていた。いつも誰かしらそこにいて、けして慧を孤独にすることはなかったと、僕は信じたい。ただ、病人という存在自体が根源的にどうしようもなく孤独なものらしいから、その負担を完全になくすことは出来なかったろうけれど。
しかし、どんなにみんながそばにいてやったとしても、どんなに優秀な医師が治療に当たっても、どんなに最新の設備を調えたとしても、彼女の病気の進行を止めることは出来ない。容態は、風が冷たくなるにつれて悪化していった。固形物がのどを通らなくなったし、背もたれなしに体を起こせなくもなった。言葉を紡ぐのにも、まず体を準備し、力を振り絞っていくつかの言葉を口から押し出して、そして休まなくてはならなくなった。ご両親が病室を出た後の廊下で肩を抱き合って泣いている場面をよく目にした。在りし日にはみずみずしかったその体はミイラのように骨張って、その腕には注射の痕跡が痛々しかった。僕は仕事に行くのをやめて病室に泊まり込み、いつもその手を握っていた。
慧はいつも僕の仕事を気にして、こんなに長い時間ここに居てよいのかと尋ねた。今思うとあれは、僕が傍を離れてしまうことを心配して、確認をしていただけなのだろう。僕はいつも「大丈夫だよ」と答え、彼女は嬉しそうに「ごめんなさい」と言った。このやりとりは、彼女が死んでしまうまで、毎日のように繰り返された。
その日、僕は彼女のために、砂糖がたっぷり入ったココアを作った。一匙口に含ませると満足したようで、「ありがとうございます」と笑った。声はかすれてほとんど聞き取れなかったけれど、唇の動きでそうとわかった。
数日前から急激に衰弱している。年の瀬が近づいており、あと半月も過ごせば新年が訪れるはずだったが、医者の口ぶりからすると初日の出を見ることは出来ないらしい。
彼女にはその話を伝えてはいなかった。その頃になると、常に痛み止めを打っていないと激痛に耐えられない状況で、その薬がもたらす多幸感がそうさせるのか、彼女はいつも微笑を浮かべていた。そして時々自分の状況を忘れてしまうらしく、元気になったら焼肉を食べるのだとか、今度僕にケーキを焼いてくれるだとか、楽しそうに語ることがあった。
彼女が残したココアを啜った。僕は少しでも元気を出すために積極的に飲み慣れぬカフェインをとっていたので、四六時中気持ちがカッカとしていた。その日は曇り空で、窓の外にはどんよりとした灰色が広がり、部屋を閉塞しているようで息苦しかった。湿度が少し低くなっているのを感じて加湿器の調節をした。そしてふと目の前の窓の外を見上げると、空全体を覆う雲が渦巻いて、ゆるやかなインボリュート曲線を描いている。その中央には大きな目玉模様があった。瞳孔の開ききった瞳が、穢れた視線を部屋のなかに投げかけて、僕らを覗いているような気がした。
いまこの空を見上げたものは、みな僕と同じように、自分だけが見られていると感じているのだろう。ぼんやり目玉と見つめ合っていた僕に、背後で慧が「ココアをもう一口飲みたい」と、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で呼びかける。
僕は一匙すくってやった。慧は乾いた唇をとがらせて、その隙間から茶色い液体を吸い込む。ゆっくり味わったのちに「甘い」と笑い、それが彼女の最後の言葉になった。
その夜に人工呼吸器が装着され、それから四日後の朝、前日から泊まり込んでいた僕は看護師に起こされて、たった今彼女が死んだと告げられた。僕がうたた寝している間を見計らうかのように彼女は死んでしまったのだ。
葬儀は身内だけでこっそりと行い、表立ったことは何一つせずに、全ては秘密の裡に、この墓の下に埋葬された。
あの日僕は墓石の前に呆然と立ちすくみ、お父さんに肩を叩かれるまでそこを去ることが出来なかった。その同じ場所に、今は慧が立っている。
その背中をぼんやりと眺めていると、慧は、不安げな瞳で僕を振り返る。
「どうしたらいいんでしょうか。こうしてお墓を見ても、やっぱり信じられません。本当にここに木原慧は眠っているんですか? 噓じゃないんですか? だって、何にも書かれていないじゃないですか。そんな証拠、一つもないじゃないですか。当たり前なんでしょうけど、これじゃ信じられません。本当だとしても、これじゃあまりにも寂しいじゃないですか。もしかして、実はまだどこかで彼女は生きているんじゃないですか? あるいは、実験なんか最初からしていなくて、私が寝ている間に病気の治療と、若返りの手術をしたんじゃないですか? ……滅茶苦茶なことを言ってるとは思うんですけれど、なんだか、そう考えたほうが自然に思えるくらい、現実感がないんです」
慧は泣きそうな顔で、僕のTシャツの裾を摑んだ。
嗚呼、どうして信じることが出来ないのか。僕らはやっとの思いであの恐ろしい死を乗り越えて、どうにかここに辿り着いたというのに。
「じゃあ、見てみる?」
「え」
慧は戸惑いを見せる。「骨を」と僕は付け加えた。すると彼女は驚きを見せてから、
「……はい」
おずおずと頷く。
周りに人がいないのを確認してから、僕は墓の前に立ち、蓋石に手をかける。雨よけのセメントで下の石と接着されていたようだが、施工が悪かったのか、引っ張るだけでポロポロと崩れた。
そうしてぽっかりと開いた空間の、一番手前にある骨壺がそれであることを、僕は鮮明に記憶している。慎重に両手で持ち上げたら、なかでカチャリとおもちゃのような音がした。
地面の上で蓋をとり、それを慧の目の前に差し出す。
彼女は大きく目を見開いて、壺のなかを凝視して、そのままじっと動かない。