ドッペルゲンガーの恋人
Prologue
唐辺葉介 Illustration/シライシユウコ
亡くした恋人のすべての記憶を、僕はクローンに植え付けた。新しく誕生した「恋人」との暮らしが、僕と彼女を追い詰めていくとは思いもよらずに――。まさに待望、唐辺葉介の復活作は、胸打つSFラブストーリー。
線路の左右は立ち並んだ高層ビルがコンクリートの壁を作っていて、列車はその谷底を走っている。駅に停まってドアが開く度に、洪水のような激しさで人が降車乗車して、その流れに押し流されぬよう必死に手すりにしがみつかねばならない。
これが都会というものなんだなと僕は思った。聞きしに勝るとはまさにこういった状況を適切に指す言葉で、こうやって実際に体験することがなければ、僕は本当の都会というものを生涯知ることはなかったろう。縁もゆかりもない見知らぬ人間同士が、お互いの肉を押し合いへし合いしているさまは、人間性の消失という言葉を心のなかに浮かばせる。これを味わっただけでも、山奥から出て来た甲斐があった。
「ユウちゃん、すごいね」と一緒に来ていた恋人が小さく耳打ちをする。
これに僕が訛りのある言葉で返せば自分が田舎者なのを周囲に知られてしまうから、聞こえぬふりをして、何を言われてもひたすら黙っていた。すると、聞こえていないと勘違いしたのか、彼女はもう一度「すごいね」と繰り返す。どうして気が利かないのだろうと、少し腹が立った。
目的の駅を降り損ねて折り返し、ようやくたどり着いた時にはへとへとになっている。駅のなかの喫茶店で二人軽食をとり、そして外へ出ると完全に日が落ちていた。
初めて訪れた夜の繁華街は色とりどりのネオンが輝き、無数の人間のざわめきで満ちている。そのなかを、二人でおっかなびっくり歩いた。
その頃僕は高校生だった。今時の子供は修学旅行だの遠足だので随分遠くまで出かけて行くらしいが、僕の世代はそうではない。例の神奈川の爆破事件や、岩手沖での潜水艦事件があって、公立学校での旅行が制限されているその時期が、僕らの小中学生時代と重なっている。家庭での旅行まで制限されている訳ではなかったが、世間の休日は我が家の稼ぎ時で、家族揃ってバカンスに出かけるような習慣はなかった。だから僕は初めて東京へやって来たその時まで一度も地元を離れたことがなく、都会と言えば、家から二駅離れた繁華街を基準に考えていた。しかし、本当の都会は比較にならないほどきらびやかだった。
溢れる情報は感覚を総動員しても処理しきれず、通りを数歩進むたびに新しい世界が目の前に広がる。当時の僕は完全な情報中毒者で、その圧倒的でとりとめのない情報量に、すぐに夢見心地になってしまった。
二人手をつなぎ、何度もため息をつきながら、ひたすら路地から路地へと歩き続ける。酔った男が電信柱に抱きついて絶叫している。募金箱を抱えた僕らと同じくらいの年頃の少女が、反戦運動がどうたらと鉄のように固い表情で声を張り上げている。辻に停車した移動販売車には『キメラ牛不使用! 100パーセント自然牛使用!』と大書された幟が立てられ、目の下に大きな隈のある青年がハンバーガーを売っている。ショーウィンドウの中では露出の多い服を着た女のホログラムが媚びるような顔つきで踊っている。デパートの前では宇宙開発局が制作した宇宙生活をする家族の模型が展示してあり、資金提供を募っている。田舎者のにおいをかぎつけた悪い大人が、卑屈な笑顔ですり寄ってくるのから、駆け足で逃げた。そうして気がつけば僕は恋人とはぐれている。
携帯端末の充電は切れており、連絡がつかない。少し歩いたが、それで見つかるはずもなかった。先に一人で帰ったのだろうか? おそらくそうだろう。彼女は僕よりもしっかりしていて、普段はあれこれと指図をする側だった。それを鬱陶しく思っていたのは事実だけれど、それに対する意趣返しをしようという意図があったわけでもない。街で得た興奮をそのまま自分のベッドのなかまで持ち帰りたかった僕は、すぐにしっかり者の彼女のことを忘れてしまった。
初めて目にした数々の風景に、僕はすっかり酩酊していた。まっすぐ家に帰ると、遅くなった僕を説教しようとする親が待ち構えていたのだが、その叱責さえほとんど聞かず、きらびやかな光景の説明と、高校を出たら東京の大学に行きたいという願望を一方的に語って親を呆れさせ、満足した気分のまま眠ったのである。
すると、その夜のうちに恋人からたくさんのメールが届いていた。どうやら無事帰ることは出来たようだが、ひとりぼっちになって寂しい思いをしたらしい。電話にも出ず、メールにも返信しなかった僕に対し、激しい調子で憤っている。最初の方のメールでは質問口調であったのが、最終的には「死ね」だの「呪ってやる」だのと、過激な文句が連ねられた恐ろしいものになっていた。ここまで言わせてしまうのは申し訳ない。最後のメールが送信されたのは朝の四時で、僕がそれを読んだのは六時半。すぐに謝罪をしようと、こちらからメールや電話をしたのだが、すでに拒否設定されていたらしく、届かない。連休が終わって学校に行っても、その日彼女は登校しなかった。次の日も、その次の日も彼女はやって来ない。電話やメールの拒否もされたままだ。そしてそのまま謝る機会はなく、彼女は学校を辞め、引っ越していったのである。
後になって、彼女はクローン犯罪によって生まれたクローン人間だったのだという話を聞いた。
それが周囲に知られ、いたたまれなくなって遠くへ居を移したのが、急な引っ越しの真相ということになっていた。今までもそうやって養父母と共にあちこちを渡り暮らしていたのだそうだ。
おそらくその噂は正しいのだろうが、そうだとしても、僕が最後の引き金を引いたような気がしてならなかった。あの時点で引っ越しが決まっていたのだとしても、少なくとも最後の休日を僕と使ったのには、それだけの理由があったに違いない。何か言葉を伝えたかったのかもしれない。
しばらくの間、彼女のことを考えると気持ちがもやもやとした。けれど、あんなに美しかったのは、彼女がクローンだったせいなのかと思うと、それだけは妙に腑に落ちた。
Prologue
脳裏をきらびやかなイメージが訪れては去ってゆく。走馬燈のよう、という修辞があるが、あいにく僕は走馬燈を見たことがない。実物が消滅しても、別の何かに置き換えられることもなく、言葉だけが生き残っていることを思うと、それは他に代用しようのない美しさを持ったものだったのだろう。
そして僕の脳裏に展開するそれも、めまぐるしく入れ替わる鮮やかで色美しいものだった。高校生の時に初めて降り立った新宿の街を思い出す。今訪れても、どうということもないばかりか煩わしいとしか感じられないあの新宿の騒々しさが、その時はやたらと素晴らしかった。ノイズとメロディが混ざり、闇と光が目まぐるしく移り変わる、その全てが僕を惑乱させた。
そしてそれよりさらに昔、父親と手をつないで行った秋祭りのことも思い出す。小さな僕は父親に手を引かれるに任せてぐんぐん進んでいるのだけれど、周りの大人の巨大な体が視界を遮り、どこをどれだけ歩いているのか見当さえつかず、迷いの森にいるかのようだった。人の隙間に断片的に垣間見える風景は、そのたびに様相を変えている。提灯の明かり、焼きそばを焼くテキ屋の汗ばんだ顔、キャラクターの顔に似せようとする意図があるのかどうかさえわからぬ奇妙なお面。ぴいひゃらと笛の音が聞こえるかと思えば、背後で子供が突然叫ぶ。
ちょうどあんな感じのものが、今、目をつむった自分の頭の内側でとめどもなく続いている。文字通りお祭り騒ぎと表現すればうまい比喩になりそうな、これが肉体のどういう状態を示しているのかは知っていた。僕は極端に疲れているのだ。
疲労の過度の蓄積で、脳が不潔になっている。思考が濁っている。そして、体のあちこちが痛む。時計を見ると、もう五時を回っていた。えっ本当かと、二度見たところで、表示された数字は変わらない。
ついに、朝になってしまった! 今から眠りについたとしても、もはや回復に十分な時間は残されていないだろう。中途半端に眠ればむしろ、余計に体が重くなるだろう。僕は眠りにつく努力を諦めて、棺のようなその狭いスペースから這い出した。そして金属のはしごを、そのひんやりとした感触を手のひらと靴下の向こうに感じながら伝い降り、床の上に立つと、膝が萎えてふらりとよろける。
ここ数日ずっと働きづめだった。気を張っている間は、こんなに疲れているとは気がつかなかったのだが、落ち着いてしまうとそうもいかない。こんなに消耗したのは久しぶりだ。成人してからの無理は、直接的に寿命を削るような感覚があって、わけもなく不安になる。
スリッパをつっかけてぺたぺたと歩く、その歩行の振動で頭が芯から痛んだ。そして船に乗ったように世界がグラグラと揺れてしまう。ああ、いやな感じだ。もしかしたら食事も足りていないのかもしれない。カロリーが欠乏している時の現象だ。今日は大事な日だっていうのに、これではいけない。この日のために僕はずっと頑張って来たのだ。
こういう一番肝心なところに限ってへまをしそうな気がする。実際のところ、こうした場面での失敗率は他の場面と比べて有意性が見られるほど高いかどうかは知らない。調べたこともない。大事なところで失敗した方がどうしたって印象が強くなるから、それに欺かれてしまっているだけという可能性もある。この心理法則を何と言ったっけ? 忘れてしまったな。いずれにしろ、『大事なところだと必ず失敗する』というこの思い込みに数字的な後ろ盾がないのは確かだ。きっと迷信なんだろう。この先いくら科学が発達しても、こうした小さな魔法はいつまでも人類と共に生き延びて、精神を真実から遠ざけ、迷いの森へ導いてゆくのだろうな。いくら気をつけようとしたところで、意識のそこらじゅうを軍人の迷彩服のように蝕んで、どうにもならない。
今はそんな幻想に惑わされることなく、建設的な行動をすべきだ。そして、そのための栄養が必要だ。脳も肉体もエネルギーを欲している。
そういえば誰かが信州土産のまんじゅうを持って来ていたっけ? 入り口のそばの机の上に箱があって、その蓋を取ると白いまんじゅうが二つ残っていた。包装紙を剝がすのももどかしくのどの奥に押し込むと、少しだけ気持ちが落ち着いてくれた。
薄暗い部屋のなかで、いくつもの寝息が音を立てている。部屋の片側に棺桶のような、というよりもカプセルホテルのような個室が八つ並んでいた。僕が出て来た個室は洞穴のようにぱっくりと黒い口を開けて、それ以外の個室にはシェードが下りている。満室というわけだ。これほど多くの人がここに泊まっているのを目にしたのは初めてかもしれない。いつもは僕とタナイさんの二人が泊まって、あとは多くとも終電に遅れた一人か二人が寝てゆくくらいのものだ。そもそも、本来ここは宿泊施設ではない。出入り口のそばの壁にもその旨を告げる張り紙がしてある。
『ここは仮眠室です。宿泊は避けてください』
印刷の冷たい文字でそう記されている。いつの間にこんな張り紙が貼られたのかちっとも覚えていないが、自宅に帰るのを面倒がって住み込んでしまっている僕のような不心得者を快く思わない者からの警告であることは間違いない。おそらくナグモさんの仕業だろう。確証はないが、普段から僕らが泊まり込むのをいやがっていた。僕が寝癖のついた頭を搔きながらキーボードをタイプしたりしていると、とやかく言う。潔癖症の女性なのだ。
確かに不潔にするのはよろしくない。泊まり込んで仕事をするのはよいとしても、入浴や洗濯をしないと人間の体というものはすぐににおいはじめる。僕ももう三十になったし、そろそろ田舎の祖父の布団のなかで嗅いだ懐かしい香りも漂いはじめるのだろう。加齢臭というものは、そんなに悪いものではないと思うのだが、この意見は世間ではあまり賛同を得られていない。他人に不快感を与えるのは本意ではない。気をつけねばなるまい。
袖口を鼻でクンクンとやりながら廊下に出ると、シャッターの隙間から薄ぼんやりとした光が差し込んで、足下を明るくしていた。
僕は裏口から建物の外に出た。東の空は朱色に染まっている。一方、西の空はまだ青とも黒ともつかぬ暗色だった。そして頭上の空は、その両方の色を繫ぐ桃色のグラデーションとなっており、いかにも不吉を運んで来そうな気色の悪い色だった。
敷地のなかにはA棟とB棟の二つの建物がある。それなりに広い研究所なのだが、今ここで活動しているのは僕らのチームだけだった。
かつてはいくつかのグループがここで研究をしていたものの、予算の縮小に伴って次々と解散し、僕たちが最後に残ることとなった。こうなってしまうと施設は少々広すぎて、持てあましてしまう。使っていない部屋も多く、何か有効利用出来ないかとも思うのだが、我々の研究の機密度の高さを考えるとそれも難しいのだろう。びゅうと音を鳴らしながら、二つの建物の間を風が吹き抜ける。鼻先に、朝の匂いがした。僕は出入り口のそばの水道で、じゃぶじゃぶと顔を洗った。
薄着だったが、寒くはない。もう夏がそこまで来ているのを感じる。やがてセミが鳴き、スーパーにスイカが並び始めるだろう。すると、僕らの職場でも、おやつにスイカでも食べようかという話になる。それを思うとげんなりする。僕はスイカが食べられない。小学生時代の出来事がきっかけだ。
その日僕は祖母と二人で留守番をしていた。夏の暑い日で、僕は冷蔵庫にある祖母が切ったスイカが食べたくて仕方がなかった。でも僕の分はすでに朝に食べてしまっている。祖母の包丁は錆びて生臭く、彼女が切ったものはなんでもにおいが移ってしまうので、その文句を言いながら食べたのだ。最後に一切れ残ったそれは、祖母のものだった。彼女は朝食のあと、具合が悪いといって部屋に引きこもっている。あのスイカを貰っても良いか、聞きに行ったがベッドの上の彼女は返事をしない。揺すっても揺すっても目を覚まさない。そうして息もしていない。そこで僕は異状に気がついた。自分がこの状況を素早く正確に大人に伝えなくてはならないと、そうでなければおばあちゃんが助からないと、いずれにしろもう手遅れだったのにそう思い、責任感が背筋を冷たくしたのをはっきりと覚えている。
今でもスイカを見ると、あの時の気分を思い出して泣きそうになってしまう。においも嫌だ。だから研究室でスイカがおやつに出て来ると、部屋を逃げ出す。まさか三十男が皿に盛られたスイカを見て泣き出すわけにもいかないじゃないか。自分でも情けないと思うが、どうにもならない。それにしても、祖母が生前最後に切ったあのスイカは、一体誰が食べたのだろうか。記憶にない。
シャワーを浴び、清潔な服に着替えてからタイムカードを押した。まだ誰もいない閑散とした研究室で昨日のデータを確認する。それぞれの専門家が既に精密な検討を終えた後のデータであり、僕のような下っ端が今更目を通しても仕方がないのだが、要は皆が出勤してくるまでの暇つぶしだ。どの数値も正常値の範囲に収まっており、これを見る限り、実験は成功しているはずだ。失敗の可能性は限りなく低い。そうは思うのだが、万が一のことを考えて僕はそわそわしてしまう。おそらく、同僚の誰よりも実験の結末を気にしているのはこの僕だろう。
一刻も早く実験室のドアを開いて彼女の顔を見たかったが、免疫テストが終わる午前十時までは立ち入り禁止になっていた。落ち着かぬまま書類をめくっていると、ドアがノックされる。入って「おはようございます」と丁寧な口調で述べたのは、グレーのジャケットを羽織った、都内の動物園で飼育員をやっている男だった。
この研究所では実験動物の飼育の件で以前から随分と世話になっており、今日も出勤前にわざわざ様子を見に来てくれたのだろう。ここに泊まり込むことが多く誰よりも早く出勤しがちな僕は、これまで何度も彼と接している。口べたな彼が何か言い出す前に察し、飼育室の鍵を取りに行った。
建物の西のどん詰まりにある部屋が飼育室になっていた。なかには大きな檻が設置され、そこに中型の黒い猿がうずくまっている。僕らが足を踏み入れると彼女はのそりと起き上がり、茶色い瞳でこちらを見た。
「健康そうですね」
彼は微かに訛りのある声で言う。
猿は跳ねるような二足歩行でこちらに近づくと、檻の間から毛で覆われた長い腕を伸ばした。飼育員はその甲をなでてやる。
「サツキもこうしてやると喜ぶんです」と飼育員が言うのを、僕はこれまでに何度も聞いている。
サツキというのは、この猿にとって親のような関係にあたるメスのボノボだった。それとも、双子と言った方が近いのだろうか。ただ厳密には、どちらも違う。
この猿は、サツキの体細胞から作られたクローンボノボなのである。サツキのクローンだから、その名をメイという。安易だが機能的なネーミングだと思う。そしてこのメイこそが、僕たちの研究の記念すべき成功例なのであった。
彼女は単にボノボの体細胞クローンであるというだけではない。クローン元のサツキはメディアでも有名な天才ボノボで、文字の書かれたカードを使って意思を伝えたり、おもちゃのピアノでいくつかの簡単な曲を弾くことが出来る。メイはそれと全く同じことが出来た。もちろん、研究所のみなで教え込んだわけではない。ここはそんな施設ではない。天才ボノボ、サツキの脳の中身が、そのままそっくりこのクローンの脳に移植されているのである。この、記憶の移植技術こそが、僕らの研究成果なのであった。
脳の中身をそのまま移すわけだから、そっくりなのはその芸だけではなく、習慣や癖、そして嗜好に至るまで、行動様式のほぼ全てがコピーされている。そして、サツキを幼い頃から育て上げた親代わりであるこの飼育員に、目が覚めた瞬間から馴れていた。実験室で目が覚めたメイは、彼女を見守る白衣の集団に怯えながら、飼育員に向かって訴えるように鳴いたものである。それが美しい実験成功の場面だった。
それから各種の検査が行われ、実験の成功が確認されたのだが、その後も引き続きメイはここで飼われている。飼育員は一頭で閉じ込められているこの境遇を哀れに思って、契約外にも拘わらず、こうして様子を見に来ているのだろう。今日は用意して来た果物を、手ずからメイに与えていた。メイが前歯でかじりとって食べているのは真っ赤な林檎だった。最近は農家が減って、林檎も随分と高価なものになっているらしいのに、奮発したものだ。
ボノボと飼育員の会話が終わるのを、僕はぼんやり突っ立ったまま待っていた。すると、飼育室の隅に花が生けてあるのが気になった。猿の部屋にこんな風流な真似をしたのは、飼育員だろうか? 尋ねてみると「いいえ違います」と彼は言う。「トミタ先生が飾ってくださいました」と、それは意外な言葉だった。
「本当なんです。先生が、週に一度くらい買ってくださっているんですよ。この子のために」
「はあ」と薄ぼんやりしつつ僕は、そもそもボノボも花を愛でたりするのだろうかと思った。
「他の例は知りませんが、少なくともこの子に限っては意味があるようですよ。色と香りが、気持ちをリラックスさせるんでしょうかねえ。花を与えると、実にいい顔をします。しかし、不思議なことに、サツキの方は花を愛したりはしないんですよ」
「別にそれは不思議ではないですよ。実験からもう一年経ちますし、環境の影響によってオリジナルとの違いが出てくるのはむしろ当然のことです。人間だって、特別な境遇に置かれれば性格が変わってしまいます。環境が変われば、感じ方も変わるんです」
「それは確かにそうなんですけれどもねえ」
納得出来ないのか、しきりに首をひねっている。
飼育員を見送って研究室に帰ると、タナイさんがもう起きていた。彼はいつものマグカップにコーヒーを淹れ、上唇を伸ばしてそれをすすっている。その頭髪は定規で測ったように直線的な分け目のある七三分けで、整髪料のつけすぎで必要以上に艶めき、清潔なはずなのにいつも不潔に見えた。
目が合うと「きみも飲むかい?」と言う。彼は毎日同じようにこう尋ねる。だから僕はいつも同じ言葉で断ることになる。
「今日くらいは飲んだらどうだい? 眠そうな目をしてるぞ。少し飲んで目を覚ました方がいいんじゃないか」
「カフェインは一切とらないんです。何度も言ったでしょう。何で毎日懲りずにすすめるんですか」
「そりゃだって、昨日と今日じゃ考え方が同じとは限らないだろう? 士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべしと言うじゃないか。きみを一人前の男子と認めているから、毎日期待しているんだよ」
タナイさんは笑って、一口すすり、話を続けた。
「それならせめて三日は間をおいて欲しいですけどね」
「まあ、その話はもういいじゃないか。それよりも、どうだいハジちゃん。今日を迎えてさ。久方ぶりに恋人と再会するんだ。しかも、これほどドラマチックな再会は、人類の有史以来ちょっとないんじゃないか? こんな時、人間はどんな気持ちになるのか、ちょっと話してみてくれよ。おいおい、なんで浮かない顔をするんだ。俺に触れて欲しくない話題だったってことかい? まあ、いいじゃないか。俺達は、何日もここで一緒に過ごした仲だろう。この一カ月、嫁や子供より、きみと会ってる時間の方がずっと長いんだ。それくらい素直に教えてくれたっていい」
「そんなに言うなら、帰宅すれば良かったじゃないですか」
僕が言うと、タナイさんは大げさにおどける。
「そんなむごいことは言わないでくれよ! ナグモさんじゃないんだからさ。もっと人情のある言葉で頼むよ。まったくあの子は、面と向かって臭いとか、汚いとか言って来るんだぜ? 先輩を敬う気持ちってものがないんだろうねえ。それはまあ、きみにも言えることだけれどもさ。ナグモさんときみは同い年だっけ? 世代共通の性質なんだろうか。いやいや、とってつけたように、褒めてくれなくたっていいんだよ。尊敬だなんて、気持ちが悪くて仕方ないからね。俺は、ここでのんびり実験を繰り返していられれば、それでいいのさ。結局それが一番の幸福なんだよ! このまま、ここで過労死でも出来れば最高なんだがね。家族だって、一生暮らせるだけの保険金が入ってくれば大喜びさ。全てが丸く収まるっていうのに、なかなか上手くいかないもんだねえ」
そう言うと、タナイさんは肩をゆすって笑う。ひとしきり笑ったあと、咳払いをして、僕の肩を叩いた。
「まあ、きみには関係のない話だったね。ハジちゃんは、彼女が元気になったら、自分の部屋で一緒に暮らすつもりなんだろう? そのために仕事を頑張ったんだからね。そこが俺とは違うんだ。帰るべきところが、これから出来る訳だから、世界はバラ色だろう。まったく、うらやましい話だねえ。おっと、こんな不謹慎なことを言っていたら、またきみの気を悪くさせちゃうかな。でも悪気はないんだよ。だって素晴らしいロマンスじゃないか。そうだ、今日俺はその瞬間を撮影してやろうか? 記録用のカメラがあるのは知ってるよ。でもそんなんじゃつまらない。もっと感動的なやりかたで、その記念すべき瞬間を抑えるのさ。どうだ、一生の宝になるぞ? そうか、いやか。じゃあ仕方がないなあ」
言って、タナイさんはまた一人で笑った。
そして独り言をつぶやきはじめる。その間に僕はデータチェックに戻ったのだが、ひょう、と突然奇声を発したので彼の方を見ると、その机の上の端末には今日のニュースが表示されていた。反戦団体の代表か何かが、もうすぐ戦争が終わると発言したのがニュースになっていたらしく、タナイさんは非常に興奮している。
「講和会議が行われたんだってさ! これはまずいことになったぞ。戦争が終わってしまう!」
「そんなニュース、しょっちゅう出てくるじゃないですか。結局話がまとまらないってニュースが出て終わりですよ」
「いやあ、今回はどうも違うらしいぞ。困っちゃうなあ。戦争が終わったら、我々は間違いなく失業だぜ? しかも最悪の場合、この極秘研究の全てが表沙汰になって、世間から倫理的な追及を受けてしまうかもしれん!」
「はあ」
「はあ、じゃないだろう! この間だって、ドイツだったかの博士が殺されたじゃないか。そんな悠長に構えてる場合じゃない。断言するが、もし戦争が終われば99・9%、この国のクローン学者の誰かが殺されるぞ」
「自説の確率に99・9%なんて数字をつかうと人間自体が安っぽく見られますよ」
僕はため息をついて、
「すみませんけど、今日はそんな話をしてる気分じゃないんです」
「頭は恋人のことで一杯か! まったく、青年というものは美しいものだね! ああ、困った、困ったなあ。……あ、おい、見たまえ。こっちでは、アジの不漁を伝えてるぞ! 秋になって、アジが思う存分食えないとなったら、俺はどうしたら……」
タナイさんはなおも話し続ける。やがて仮眠室に宿泊していた所員たちが続々と戻って来て、そこでタナイさんはようやく僕を解放し、今度は彼らを相手に同じ話を繰り返した。
仕事は真面目だし、噓はつかないし、悪い人ではないのだけれど、マイペースで鬱陶しいのが玉に瑕だ。何もしないうちからどっと疲れてしまった僕は、顔を背けてあくびをすると、緊張がいつの間にかゆるんでいたのか、うつらうつら、机に伏せてそのまま薄く眠ってしまう。
やがて正規の始業時間が近づき、研究室のなかも騒がしくなってくる。物音で目覚めた僕は、トミタ先生が椅子に座ろうとしているのに気がついた。記念すべきこの朝に、実験のリーダーである彼に何か言うべきことがあるような気がした。しかし言葉を探している間に、朝の掃除が始まってしまう。この研究所では、トミタ先生の方針で、一日のまず最初に職員が自分の身の回りの掃除をすることになっている。小学校でもあるまいし、清掃業者に任せていればいいと不評だったが、先生には朝の掃除をすることで仕事に身が入るという信念があり、そこは誰に反対されても譲らない。実家が寺だというのに何か関係がある信念なのだろうか。
清掃が終わると、ミーティングが始まる。そこでは今日の計画についての説明が行われ、具体的な手順の最終確認がなされた。すると、一同に緊張が行き渡るのが感じられる。それも当然だろう。僕たちは今日、おそらく世界で初めてなされた実験の結果を目にするのである。
僕たちはまるで白雪姫を見守るドワーフのようだった。
この場で役割を持つ者も、そうでない者も、研究に携わった人々が勢揃いして、昏々と眠り続ける彼女のベッドを取り囲んでいる。成功の瞬間に立ち会うためだ。それは、彼女の目覚めとともに訪れることになっている。
トミタ先生は小さく咳払いをし、白衣の裾でその口元を拭うと、小声で傍らのナグモさんに何か呟いた。ナグモさんは微かに頷き、手元のボードの上に貼り付けられた紙の上にボールペンを走らせる。ベッドを挟んだ僕の位置からは、表装がすり切れて白い地が露わになったボードの背中が見えた。手書きで書類を作成するのはやめてくれと方々から苦情があがっているのだが、彼女は依然としてその風を改めるつもりはないようだ。
窓のない実験室のなかで、白衣に身を包んだ所員たちは誰一人として口をきかない。ベッド脇に積み上げられた計器のビープ音と、誰かが時々身動きをする衣擦れの音だけが聴覚を刺激した。地下室の壁が余計な音の全てを吸収し、静寂を強調している。
空気は必要以上に張り詰めており、そのなかでも一番緊張しているのは間違いなくこの僕だろう。口のなかがカラカラに渇き、おかしな汗が止まらない。大きな声でもあげてしまいたいが、そんなことをすればつまみ出されてしまうだろう。
計器は幾筋ものコードで、ベッドの上で眠る彼女の体と繫がれ、その状態を数値で示している。僕はベッドのそばで、モニターと彼女の寝顔を、何度も交互に見やっていた。数値は正常の値を示している。脳波にも異常はない。しかし重要なのは数値に表れない部分で、そこに実験の成否の全てがかかっているのだ。
もう薬剤の効果は切れており、とっくに目覚めていておかしくないはずなのだが、彼女は未だ眠り続けている。その白い顔は、蛍光灯の光で陰影を作っていた。外気に出たばかりの肌は生まれたてのようになめらかで吹き出物やくすみ一つなく、まるで人形のようだった。
僕の恋人木原慧は、年の初めに余命を宣告され、その通りに死んだ。去年の十二月に、新しい年の訪れを待つことなく死んだ。ベッドの上で日に日にやせ細り、最後は枯れ枝のようになって死んだ。
この今は亡き木原慧こそが、僕たちの実験に提供された細胞と脳のデータの、元の持ち主であった。
慧の入院生活が始まったばかりの頃に、それらは採取された。体細胞はビーカーに保存され、脳の構成データは、我々の開発した特別な装置で解析され、デジタル化された。そして彼女の死後、体細胞からは疑似胚細胞が作り出され、その成長を促進すればクローン人間となる。そして、培養液に浸るその肉体の、まだ何も体験したことのない新しいまっさらな脳に、装置のデータが移植されたのである。サツキからメイを作り出したのと同じように、こうして慧そっくりの肉体に、慧そっくりの意識、人格、知性を備えた人間が出来上がった。死者の残したものから、同じ人間を再生する。これが、フランケンシュタイン研究所と揶揄されることもある僕たちのチームの、最終的な目的であった。
将来的にはこの技術で、政府要人の急な死に備えるらしい。今回の実験はそのための試験であり、今ここで彼女が目覚めれば、その成否が明らかになるというわけだ。木原慧の自意識で世界を目にし、そして考え、以前と同じように僕の名を呼ぶ、つまり木原慧が復活したと認められたその時、実験の成功がほぼ確実となるのだ。
彼女が死んでからずっと、僕はこのために昼夜の区別なくこのコンクリート製の建物のなかでモニターに表示される数字を見つめ、躍起になって作業を進めて来た。彼女を見送ったその日から、喪服を着替えもせずに出勤し、抹香の臭いを漂わせながら働いた。同僚達は何も言わなかったが、さぞかし軽蔑したろうと思う。僕だって、何というかその浅ましさに笑ってしまいたい気もする。しかしそれならば、笑えばいいだけの話だ。それで実験が成功し、彼女が戻って来るのならば、何を引き替えにしたっておつりが出る。
目がしょぼしょぼとしはじめた。疲れた目で変化のない同じ顔をじっと眺めているのが良くないのだろう。まぶたをこすり上げながら、彼女の顔を見つめる。
新しい彼女の肉体は、彼女が死んだその時よりも、だいぶ若い姿をしている。僕とはじめて会った頃と同じか、さらに若いくらいだ。見た目だけで言うならば、十代後半といったところが妥当だろう。健康上のリスクからこうなった。目覚めた慧は若返った自分の姿を発見することになるだろうが、それをうまく受け入れられるかどうかというのも、実験における一つの課題になっている。
もちろん課題はそれだけではない。知性の高いボノボで成功したからといって、さらに高度な知性を持った人間で同様の結果が出るとも限らない。何事もなければいいのだけれど。そう願いながら見つめていると、変化が起きた、ような気がした。
いま、微かに動かなかったろうか? それとも、疲れのせいで僕の目がかすんだのだろうか? いや、違う。確かに彼女の顔に動きが現れようとしている。
みるみるうちに彼女の額に小さなしわがよって、ウウウとうなり声を上げた。僕はトミタ先生を振り返る。先生は冷静なもので、銀縁眼鏡の縁を人差し指で押し上げつつ、僕に頷きを見せた。
衣擦れの音がして再び慧を振り返ると、彼女は体を傾けようとしており、黒い髪が頰の上でさらりと揺れた。あ、と見守る誰かが声をあげる。体を大きくねじったせいで、脳波を測定しているコードがベッドの縁に引っかかろうとしているのだ。僕は慌てて立ち上がって、外れぬようにコードをつまみ上げた。
そして彼女の顔を振り返ると、うっすらとまぶたが開いており、今度は僕が声を上げそうになった。
睫毛の間から現れた黒い瞳は、部屋の明かりで瞳孔が収縮し、そしてすぐに機敏な動作で周囲の状況の把握につとめた。目をきょろきょろとさせて、自分を取り囲む白衣の集団を、落ち着きなく見ている。すると彼女の顔に戸惑いの色が浮かぶ。やがて視線は僕の顔を見つけると、そこで固定された。
「……ユウジさん」
と、彼女は僕の名を呼ぶ。聞き間違いではない。若干かすれながらも、はっきりとそう言ったのだ! 培養液のなかでずっと眠りこけていた肉体が、目を覚まして最初の言葉で僕の名前を口にした。一年以上前に慧からすくい取った記憶が、装置を経て、この肉体のなかに確かに蘇っている。心臓が早鐘を打ち、顔がこわばるのを感じた。もう一度トミタ先生を振り返ると、さすがに緊張の面持ちだった。
「……これは?」
自分の手や顔に貼り付けられたコードを不思議そうに見ながら彼女は――慧は言う。
「取っちゃ駄目だよ。機械に繫がってるんだ」
「あ、すみません。……でも、病院ではないようですが……地下室?」
彼女はぎこちない愛想笑いを浮かべながらそう問い返す。
「そうだよ。ここは僕の研究所のなかだ。覚えていないか?」
「ああそういえば、そのような。覚えているんですが、なんだかちょっとぼんやりしていて、おかしな感じです。アハハ、どうしたんでしょうかね? まだ寝ぼけてるのかしら」
「仕方ないよ。覚えてることを、順番に話してごらん。この研究所には何の用事で来たのか、覚えているかい?」
「それは……あの、実験に協力させて頂くって話だったはずです。私の体組織を採取して、特別な装置で私の脳を見るって……あれ、なんで私寝ちゃったんですか? すみません、これも病気のせいなのかしら。薬の副作用なのかしら。お医者様から新しく頂いたお薬、少し眠くなるんです。……ああ、だから皆さんこんなに集まって、私が起きるのを待っていたんですね! すみませんでした。あの、もう大丈夫なんで、今からそれを……」
慌てて頭を下げる彼女を押しとどめ、
「いや、違うんだ。もうきみの協力は終わってるんだよ」
「え、そうなんですか? じゃあ、寝てる間に終わっちゃったんですね。すっ、すみません」
「ほら、頭を下げないで。謝る必要なんかないんだから」
「でも、なんだか悪くて……。皆さんもじっと私を見ていますし、不機嫌にさせてしまったんじゃないかと……」
「違うんだよ。みんなきみの状態を真剣に心配して、あんな顔になってるんだ」
「はあ……そうなんですか」彼女は居心地悪そうに頷きつつ「じゃあ、あの、私、もうそろそろ病院に帰ろうかと思うんですが……」と小声で口にする。
僕は首を横に振る。
「その必要はないよ。きみはもう病院に帰らない」
「え……それは……」
慧は混乱してしまったようで、目をぱちくりとさせている。
「だって、きみはもう健康だからさ」
「え?」
「あのね、きみは研究所に来たのをついさっきの出来事だと感じているかもしれないけれど、それは本当は、もう一年以上前のことになるんだよ。実験は全て終わったんだ。今みんながここに集まっているのは、その結果を見届けるためさ。どうやら成功の気配だよ。だってきみは、自分が実験の後だということも気づかず、あの日の続きだと信じている」
「え、あ、はい……でも……」
「きみは木原慧だよね?」
「はい、それは……」
「じゃあ大丈夫だ。それで間違いない。きみは木原慧で、新しい健康な体を手に入れた。今はそれだけ理解してくれればいい。他のことは、落ち着いてから順々に理解してゆこう」
僕が言葉を終えても、慧は驚きに目を丸くしたまま、微動だにしない。
「……実験が終わったってことは、じゃあ、ここにいる私は、クローンなんですか?」
「肉体はそうだと言えるね。でも精神は元のままだ」
「……ああ……」
彼女は目を見開いて僕の顔を見つめる。そしてしばらく放心したのちに、ぽろぽろと涙をこぼし、そしてしゃくり始めた。顔を両手で押さえ、肩をふるわせて泣く。コードが外れると、しゃらりとベッドの上を流れて床に落ちた。
まるで絶望に打ちひしがれでもしたかのような、身も世もない泣き方だ。目覚めたばかりで、脳の分泌物のバランスが悪いのだろうか? その辺りのケアはホリウチさんたちが十分に行ってから覚醒させてくれたはずだ。単に、驚いているだけだろうか?
「慧?」
呼びかけても彼女は泣くばかりだ。その嗚咽の声が実験室を満たすと、白衣の集団はざわつきはじめる。
予想外の慧の反応に、僕もすっかり余裕を失ってしまった。助けを求めるべく三度トミタ先生を振り返ると、小声でナグモさんに何か書き取らせている。少しも動揺する様子を見せないのは、さすが天才と呼ばれるだけのことはある。神経が常人とは違うのだろう。しかし僕はそうはいかない。致命的な失敗の恐怖が頭をかすめて、その場に凍り付くだけだ。
「ああ……こんな……こんな……」
慧は啜り泣きを続ける。僕はどうしたらいいのだろう? 彼女のなかで何が起こっているのか知りたくてモニターを見ても、計器は、ただ彼女が興奮しているとしか教えてくれない。
「落ち着くまで待ちましょう」と、そばに来ていたトミタ先生がささやいた。
そんなことはわかっているけれど、わかっていてもそうは出来ない。
部屋を見回すと、タナイさんが好奇心をむき出しにした面白そうな顔で、僕と慧の再会の場面を見守っているのが目に入る。ナグモさんがペンを走らせて何かを書き留めているのも見える。他の研究員たちは、小さく頷きあったり、咳払いをしたりしていた。観客がスポットライトの当たった舞台を見るように、みんなが僕たち二人を見つめている。まるで実験動物の反応を見守る科学者のようだ。いや実際それと大差ない状況なのだが。
僕は慧の手を取って握った。彼女はびくりと肩をふるわせ、そしておずおずと僕を見上げた。すっかり臆病になってしまっている。
「ユウジさん、ごめんなさい……」
慧は泣き声でそう言った。
「いいんだ、ただ少しだけ話してくれるかい? 僕にはちっとも理解出来なくて、だからほんの少し戸惑っているんだ。ねえ、どうしてそんなに激しく泣いているんだい? 泣くようなことは何もないだろう? これから少しは問題もあるかもしれないけれど、今はまだ目覚めたばっかりじゃないか。泣くようなことはないように思えるんだ」
問うと、慧はひっくとひとつしゃくり上げる。
「だって、前の私は死んでしまったんでしょう? 私がいまここでこうしているということは、そういうことなんでしょう?」
「それはまあ、なんというか……」
「違うんですか?」
「……その通りだよ」
僕の返事に、慧は顔をひきつらせ、また泣こうとする。
「泣かないで欲しい。確かにきみのもう一つの肉体は滅びたけれど、きみという存在自体は精神も記憶もそのままに、ここに残っているんだ。きみ自身、教えられるまで自分が変化したことに気づかなかったくらいじゃないか。だから何も悲しむことはないんだよ」
すると、慧はいやいやするように首を横に振る。
「すみません、せっかくの素晴らしい実験なのに、こんな、馬鹿みたいに泣いてしまって……。でも、どうしても涙がとまらないんです。おかしな話ですよね? 死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。嗚呼、一体何がどうなっているのか……。すみません、どうか泣かせてください……本当に、頭が、おかしくなりそうなんです……」
そう言って彼女は顔を覆った。