六本木少女地獄
原くくる Illustration/竹
信仰、怒り、そして「許し」。女性が女性であることの原罪……この世のあらゆる“地獄”を詰め切って演劇シーンの未来をノックする若き才能、原くくるが脚本・演出・出演のすべてを務めた衝撃作。
無機質な空間。
中央にベッド。眠っている少女。
寄り添って絵本を読んでいる姉。床には少年と男。
姉 あるところに幸せなお家がありました。そこには幸せなお父さんと、幸せなお母さんと、幸せな女の子が住んでいました。女の子は、鳥かごに小鳥を飼っていました。ある日、小鳥は卵を産みました。小鳥は嬉しくて嬉しくて、何日も何日も、何日も何日も何日も、卵を温めつづけました。
少女、目覚める。
姉 しっ! 起きちゃダメ。
少女 なぜ?
男 まだ早い。
姉 眠ってなさい。
少女 なぜ? 私、もう外に出たいの。
姉 だって、まだここは、
男 まだここは、
弟 まだここは、
少女 まだここは?
〔間〕
姉 神谷町だもの!
地下鉄のアナウンス。
「次は、六本木、六本木お出口は左側です……」
街の灯。
喧騒。
眼に染みるような人工の匂いを帯びた風が吹きつける。
その中を、目を輝かせて歩く女が一人。
六本木少女 でかっ! ヤバマジいかついんですけどお。ヤバクね? これが六本木の有名な…ギロッポンズルヒー! わ、東京タワー見える!
いいなあ、スカイツリーより全然色っぽいわあ。
少年が通りかかる。
弱々しい足どり。
何もかもに怯えたような目をして街を眺めている。
六本木少女、少年に目をつける。
六本木少女 あ、すいませーん。
少年 は、はい。
六本木少女 すいませーん、ちょっと六本木初めて来たんですけどお。
少年 あ、道ですか。
六本木少女 私と、デートしませんかぁ?
〔間〕
少年 え?
六本木少女 (笑顔)デート。ただとは言いませんよ。2万でいいんですよ。
少年 …僕が、払うんですか?
六本木少女 もちろん。
少年、逃げる。
六本木少女、すかさず捕まえて、
六本木少女 逃がすものか!
少年 急いでるんです!
六本木少女 急いでるわけねーだろ! 用事のある人間がなあ、夜の十時に六本木うろつかねーんだよ!
少年 え、え、(困る)
六本木少女 どうせアンタ、家出少年でしょ!
少年 (驚いて)ど、どうして分かったんですか?
六本木少女 アタシがそうだもん。嫌になっちゃったんでしょ? 慰めてあげるよお。お母さんと喧嘩したの? お父さん?
少年、突然真顔になり、
少年 …姉さんです。
六本木少女 え? 珍しい。
少年 姉さんから、逃げてきたんです。
六本木少女 へえ、ニュータイプだ。家出のニュータイプだあ。はい、聞き賃、一万。
少年 もっと大人に声かけて下さ…
六本木少女 怖ェだろーが! どっかアジアの方にドナドナされたらどーすんだ! アンタ、責任とってくれんの!?
少年 (土下座)すいませんでした!!
六本木少女 (通行人を気にしながら)ちょっと、人集まってきちゃうから…だから、二万でいいんだよ?
少年 ありませんよ。
六本木少女 え、いまどき金持たないで家出とかマジアウトローなんですけどお。カッコいいんですけどォ。惚れるかもー。
少年 …二万ですか?
六本木少女 三万。
少年 増えた!
六本木少女 …ねえ、あんたさあ知ってる? 綺麗でしょう? すごいでしょ、六本木。街が生きてるみたいでしょう!
少年 (必死で頷く)
六本木少女 道歩いてる人の四割が外国人! またたくネオン! あのね、この街のぜーんぶ、なにもかも、みーんな、死んでるのよ!
少年 えっ!?(ギョッとする)
六本木少女 岩を殺して砕いてビルを建てたの! 森を殺して引き千切って伸ばしてチラシを配るの!
川を殺して、下水道に流すのよ。すべてが街という化け物の養分よ。
少年 ……。
六本木少女 そんでもってね、心を殺して薬を売るの。
…女を、殺して、体を売るのよ。
少年 ……。
六本木少女 下手に生、上手には死、なにもかも、剝き出しにされて売りさばかれるの。けれどそれを笑ってやりすごす、そんな鈍感な街なのよ。
アタシはね、そんな鈍感な街の、鈍感な男の、敏感な部分に、触れたいのよ。
沈黙。
六本木少女、カラッとした笑顔で、
六本木少女 なーんてね。アタシさあ、女優目指してんだあ、家出して。売れたらアンタに恩返しするからさあ。
少年 い、いりません!!
少年、逃げる。六本木少女、追う。
六本木少女 じゃあ、三万五千! 四万! 五万! ちょっと、待ちなさいよ!
音楽。
舞台はリングに。
少年は弟に変わる。
姉 (実況)さあ、遂にこの日がやってまいりました!
イエス・キリトvs.ヘビライ・ハンの戦い!
間もなくゴングが鳴ろうとしています。会場はすでに異様な熱気に包まれております……
弟 最初は二人だった。最初から二人だった。
僕はなぜ、ここにいるのだろう…怖い、怖いよ、姉さん。
姉さん。そう、僕には姉がいるんです。
姉と弟の部屋。
弟がラジオ体操をしている。
弟 (いち、に、さん、し)
〔間〕
姉が部屋に入る。
大きな音をたて、ドアが閉まる。
姉 生理。
弟 ……。
姉 生理ってさあ。
弟 ……。
〔間〕
姉 感染る。
弟 ……。
姉 感染るって、よく言うじゃない。
弟 ……。
姉 あれ本当なんだって。
弟 ……。
姉 なんでか知ってる? 誰か一人が生理になるじゃない、そうするとね、その人がまき散らすホルモンで周りの女が気づくんだって。そうするとね、あ、あたしも生理にならなきゃ、って体が思うんだって。あたしも子供産める状態にしとかなきゃ、オトコ取られちゃうって。
弟 ……。
姉 女ってさあ、そういう生き物なのよ、お母さんもあたしも。
だから、あんたはお父さんみたいになってね。
〔間〕
姉 何番。
弟 え?
姉 何番。
〔間〕
弟 …二番。
姉 へえ。なんで、
弟 ?
姉 なんでラジオ体操なんかしてんの。
弟 う、運動不足だから。
姉 運動不足か。
姉、突然弟に摑みかかる。
弟は抵抗もむなしく背中を蹴り倒される。
姉、弟を押し倒す。
二人の目と目が合う。
〔間〕
姉 なら外に出ろよ!!
〔間〕
姉 今日も行かなかったんだって。
弟 …ごめん、
姉 謝らなくていいんだよ。明日は行くの、行かないの?
〔間〕
姉 それだけなの。
〔間〕
弟 …たぶん、行きます、
姉 たぶん!! へー、そうやってもう何度もあたしのこと騙したよね、あたしもさあ、考えることがあるわけよ。父さんはいなくてさあ、母さんも帰ってこれないし全然頼りにならないわけでしょ?
アンタとあたし二人だけじゃない。いつまでも引き込もってんじゃねェよ!!
…父さん。父さん、あたしだけを頼りにしてたのに。ああ! 情けない。情けないわあ。
弟 (沈黙)
〔間〕
姉 ここは謝れよ!
弟 (驚く)
姉 (泣き崩れて)あああお父さん、ごめんなさい、出来の悪い弟でごめんね。あたしが、あたしがなにもかも悪いんですう。ごめんなさい、ごめんなさい。
弟 (誰かに)ここから、姉の父さん自慢が始まります。僕には父さんの思い出が無いので、正直飽き飽きしてるんです。
姉 なんか言った!?
弟 いいえ!
写真も見たことがありません。母さんが燃やしてしまったそうです。僕は知ってます。僕らの母さんは少し、アレなんです。
姉 何が?
弟 なにも! 父さんはその日によって、
姉 みんなに慕われた人なのよ。
弟 人格者だったり、
姉 とにかくなんにでも懐かれるの。
弟 動物好きだったり、
姉 神楽坂をさあ、二人で歩いてたわけよ。で、ちょっと目を離したら、二秒後には下高井戸にいたのよ。
弟 …超能力者だったりします! たいがい結論は、
姉 父さんの期待を裏切っちゃダメだからね!
弟 だったり、
姉 その息子が…まさかさあ(ため息)
弟 だったり、
姉 あんたは全っ然似てないのね。
弟 だったりします!
姉 (弟に)さっきからなに!?
弟 いえ! なにも!
姉 まあ、とにかくあたし達の父さん、エバラナカノブ・タロウは、
瞬間、ヘビライとヘビコがどこからともなく現れる。
ヘビライ 見つけた!
ヘビコ 見つけた!
ヘビライヘビコ エバラナカノブの息子!
〔間〕
姉 ……きゃああああああ!
その叫びが雨音と一つになる。
雨の中、傘をさした男が現れる。
男、一軒家の呼び鈴を押す。
母と祖父、登場。
玄関で男を迎え入れる。
母 あらあらあら、まあ、まあ。(大喜び)
祖父 やあやあ。
男 こんにちは。お久しぶりです。
母 本当にお久しぶりねえ。
祖父 立派になったねえ。
男 ありがとうございます。
母 よくいらして下さったわね、湯田さん。あんらー、すごい雨。ごめんなさいね、こんな日にお呼びして。私もね、まさかここまでひどく降るなんて思ってもみなかったから、
男 (遮って)それであの、僕に用というのは…
母と祖父、目配せ。
母 …とりあえず、本人と会ってもらっていいかしら。
男 はあ。
少女の部屋。
男 (ノックしてから)マリちゃん、入るよ。
男、ドアを開ける。
窓際のベッドに少女が寝ている。
少女、男の存在に気付き、微笑む。
少女 湯田さあん!
男 お邪魔します。
男、少女に近づく。
少女、ベッドから起き上がる。
男 本当に久しぶりだねえ。
少女 ええ。
男 最近、教会には行かないの?
少女 …うん。湯田さんは?
男 僕は、青年会の集まりがあるから。それにしても…今日はうちの大学が無いからいいけど、どうしたのこんな昼間に。学校は?
少女 …しばらくお休みしてるの。
男 何かの病気? 具合でも悪いの?
少女 (首を振る)
男 そう? ならいいんだけど…あ、ありがとうございます。
母が部屋に入り、お茶を出す。
少女 あのね、湯田さんに聞いて欲しいことがあるの。
男 なんだい、改まって。いいよ、なんでも聞くよ。そのために来たんだから…悪い話?
少女 (笑って)ううん。嬉しい話。
男 そうか。そりゃよかった。(茶を飲む)
少女 あのね、できちゃったの!
男、盛大に吹く。
〔間〕
男 …で、で、ででででででできた!?
少女 うん。
男 魚の目が!?
少女 できたって言ったら、決まってるじゃないの。(笑う)
男 そうか、魚の目なんだね。よかった、魚の目で。
少女 赤ちゃんよ。
男、盛大に転ぶ。
〔間〕
男 …マリちゃん、お母さんには言った?
少女 ええ。(微笑む)
男 …相手は?
少女 相手って?
男 だから、その…相手だよ。
少女 ごめん、意味がよく…
男 だからさあ。…ひょっとして、本当に分からないの?
少女 (困る)
男 誰と…その…ナニしたって…ことだよ?
少女 したって?
男 (真剣に)いいんだよ、本当のことを言って!
少女 ……。
男 (優しく)お母さんには僕がうまくごまかすから、
少女 (沈黙)
男 なにもしてないってことは無いだろう?
少女 …悪いことはしてないと思うけど。
男 自分は悪いと思っていなくても、実は取り返しのつかないことっていうのは、世の中にいっぱいあるんだよ。
少女 そう言われると…あ、そういえば、
男 なに、いつ、誰と!?
少女 小学二年生のときに…
男 ええーっ!?
少女 友達のエミコちゃんが……
男 えええーっ?!
少女 万引きしたことはあるけど、私はやってないの。本当よ。
男 そんな細かいことはどうでもいいんだよおおおおおお。よく思い出してごらん、彼氏は!? 彼氏じゃなくても、ボーイフレンドとか、部活の先輩とか、
少女 (笑って)演劇部って女の子ばっかりよ。
男 なにもしてないのに妊娠…それじゃまるで……
少女 まるで?
男 (独り言)いや、そんな話信じるものか。
少女の家のリビングに。
男と母が向かい合い、話している。
男 …想像妊娠、ですか。
母 (半泣き)
男 …いつから?
母 …十日前、起きてきたと思ったらね、いきなり言い出して。最初は取り合わなかったんですけどね、心なしか膨らんでるのよ、
男 え?
母 …お腹が。
男 そんな、こんな短い期間でありえない…
母 もう私も訳分からなくなっちゃって、
男 分かります。
母 急いでお医者さん連れて行って、一応、超音波検査もしたの。
男 で、中身は?
母 (顔をしかめる)あら、やだ、そんな言い方しないでよ。
男 失礼しました。そのう…内容は?
母 あまり変わらないじゃないの。…空っぽよ、空っぽ!
(半狂乱に)…ねえ、湯田さん。うちの子、頭おかしくなっちゃったのかなあ。ねえ。戻らなかったらどうしよう。
男 落ち着きましょう、ね?
祖父 (いきなり顔を出して)よしえさん、お昼はなんですか?
母 さっき食べたでしょう! もう、ベタなボケしないで下さい!
…こんな家庭でしょ、父親は、(口をつぐむ)
〔間〕
母 知ってた?
男 …すみません。母から、聞きました。
母 …まったく、自分の親の介護放ったらかして、どこ行っちゃったのかしらねえ、半年も。…やっぱり育て方を間違えて…(大泣き)
男 そんなことありませんよ。
母 でも、自分が妊娠してるって思いこむなんて…
男 思春期には、よくあることですよ。
祖父 よしえさん、お昼…
母 よく無いでしょう! だって、アタシが十代の頃は妊娠なんて、
〔間〕
母 ま、とにかく! お医者さんの意見もあやふやで…
男 ほら、拒食症とか、リストカットとか、あのへんと変わりませんよ。マシなくらいです。
母 …うちの子、拒食症じゃないしリストカットもしてないわよ。
男 だから、それはもののたとえで、
祖父 よしえさんお昼!
母 おじいちゃん、いい加減にして!
ね、相談できるの湯田さんぐらいなのよ。
男 …はあ、
祖父 よしえさん!
母 遠くの親戚なんてアテにならないでしょう? 節目節目になったら電話してくるくらいで、言いたくないこと根ほり葉ほり聞いてきて、自分達が幸せなのを確認したいだけなんだわ。あんな人達は信用できません。かといって、マリの友達には死んでも知られたくないし…
祖父 よしえさん!
男 ですよねえ…。
母 ね、湯田さん、お願い、お願いよ、
祖父 よしえさんお昼は!
母 おじいちゃんっ!!
祖父 カレーライスでしたね。
〔間〕
母 …テメェじじい!!
祖父 親が親なら子も子だな。
母 (飛びかかる)てめーの息子だよお! 父親はてめーの息子だよお!
祖父 ふががーっ!
男 あの、
母 いいか、テメーのバカ息子はどこほっつき歩いてんだ! 吐け、じじい! 吐け!
祖父 う、つわりが……
母 そっちじゃねーよ! きゃああああああああああ。
母、狂う。
叫びはそのまま姉の叫びに変わる。
姉と弟の部屋に。
姉 なにこいつら!
姉に指さされた二人、慌てて隠れる。
姉 今さら遅いんだよ!(跳び蹴り)
二人、出てくる。
姉 (追う)ちょっと!
ヘビライ (真顔)…なんですか、あなた。
ヘビコ ちょっと、行きましょうよ。
〔間〕
姉 …通行人のフリをするな!
ヘビライ にゃー! にゃー!
姉 猫のフリもしない!
ヘビコ ワン! ワン!
姉 犬のフリもするな!
ヘビライ ぼえー、ぼえー。
姉 なんのフリだそれは…。
姉、弟に摑みかかり、
姉 どうして知らない人家にあげるの!
弟 ごめ……
ヘビライ お嬢さん! お嬢さん! よしてください!(止めに入る)
ヘビコ 私たちが無理を言ったんです!
弟 (かばうように)この人たち、父さんのことを知ってるって言うんだ!
〔間〕
姉 …取り乱してすみませんでした。どちら様ですか?
ヘビライ いやあ、こちらこそいきなりのご無礼お許しください。お姉さまですか?
姉 はいソウデスガどちら様ですか!?
ヘビライ これはこれはしっかりしたお嬢さんだ。さすがエバラナカノブの、
姉 父は死にました。
ヘビライ はい、大変惜しい人を亡くしました。本当に悔しい! 彼の死は業界にとって大きな損害、
姉 生前の父の仕事と私達とはなんの関係もありません、お引き取りください。
ヘビライ なんて謙虚なお言葉! 鋭い眼差し、さすがチャンピオンの血筋、
姉 お引き取りください!!
〔間〕
ヘビライ …これは日が悪かったようだ。お忙しいらしい。ヘビコ、行くぞ。
ヘビコ でも、兄貴ィ…。
ヘビライ 失礼しました。また、日を改めて…
弟 (大声で)待って下さい!
〔間〕
姉 あんた…。
ヘビライ まま、そう言わずにお姉さん。(弟に)ボクちん、どうちたの?
弟 聞かせてください! 父のことを。
姉 世間知らずな弟ですから。
弟 聞かせて下さい!
姉 (物凄い形相で睨む)
弟 だって! 僕は姉さんの話でしか父さんに会ったことがないんだよ! この人達は、僕の知らない父さんを知ってるって言うんだ! 会いたいんだよ、その父さんに!
姉は押し黙る。
ヘビライ なんて健気な息子さんなんだあ! 感動した! 安心しなさい。君のお父さんは、素晴らしい人だったんだよ。
弟 は、はい!
ヘビライ プロ・スポーツ選手だったんだ!
弟 えっ!
ヘビライ (姉に)そうですね? あなた達のお父様は、エバラナカノブ・ゴッド・タロウに間違いありませんね?
〔間〕
姉 ……ええ、そうですが。
ヘビライ しかも、それはそれは強い選手だったんだ。世界を股にかけ活躍した、チャンピオンなんだよ!
弟 それは初めて知りました…そうか、でも、姉さんの言ってた通りだったんだね!
姉 (沈黙)
ヘビライ タロウの前にタロウ無し、タロウの後ろにタロウ無し。その強さはまさに伝説。人間技とは思えない素早い動き、強靱な足腰…
弟 で、そのスポーツとは!?
ヘビライ 酸素を吸って二酸化炭素を吐いてる人間なら誰でも知ってるメジャーなスポーツだよ! 大人から子供まで、みんな大好き。あらゆる人に愛される…
弟 そのスポーツとは!?
ヘビライ よし、聞いて驚け、そのスポーツとは…
弟 そのスポーツとは!?
ヘビライ ボクケットミントン!
〔間〕
姉・弟 え?
弟 すいません、もう一度…
ヘビライ ボクケットミントン!
弟 え?
ヘビライ ボクケットミントン!
弟 え?
ヘビライ ボクケットミントン!
ヘビコ ボクケットミントン!
ヘビライ ボクケットミントン!
ヘビコ ボクケットミントン!
ヘビライヘビコ あ、そーれ、スイスイスーダララッタ……
ヘビライとヘビコ、踊り出す。
困惑する弟。冷ややかな姉。
弟 …あの、大変申し訳ないんですけど、
ヘビライ ん?
弟 聞いたことがありません…。
ヘビライヘビコ えーっ!?
ヘビライ ちょっと、聞きまして? 奥さん。
ヘビコ 聞きましてよ!
ヘビライ 遅れてるーっ!
ヘビコ 遅れてるーっ!
弟 ごめんなさい! ごめんなさい!(平謝り)
姉 なんですか、それ。
ヘビコ あれ? お姉さま、ご存じないんですかあ?
姉 …ルールまでは分からないわよ!
ヘビライ 仕方ない! そんな時代に取り残された君たちに、簡単な動きから説明しようじゃないか!(身を乗り出す)
弟 は、はい!
姉 ちょっと…!(止めに入るが、間に合わない)
ヘビライ まず、基本のルールです。持ち点10点の減点方式です。まず、リング、あ、この業界ではリングって呼ぶんですけどね、はこれぐらい(走り回る)の広さです。で、両手にグローブ、あ、この業界ではグローブっていうんだけどね、をはめます。で、この業界でいうマウスピースってヤツを付けて殴り合って、もし倒れたら頭がハゲてて眼帯のおじさんが「立て、立つんだジョー!」とか言ってくれます。
〔間〕
姉 …ボクシングじゃん!
ヘビライ え?
姉 それ、ボクシングじゃん!
ヘビライ いや、聞いたことありませんね。
姉 (ヘビコに)これ、ボクシングだよね?
ヘビコ なんですか、そのマイナースポーツ。
姉 マイナーじゃないよ!
ヘビライ たぶん、そっちのボクなんとかとはちょっと違いますわ。
姉 ……。
ヘビライ それでですね、両端にゴールがあります。
姉 ボクシングなのに!?
ヘビコ お姉さん、落ち着いて!
ヘビライ ボールを用意します。これを、先ほどの殴り合いで奪い合います。ボールを手に入れたら、この業界でいうドリブルで運びます。ボールを持ったら二歩までしか歩けません。自信のある距離から「左手はそえるだけ…」とか言いながら投げ入れて、入れば得点です。
〔間〕
姉 ……バスケットボールだよね!?
ヘビライ え?
姉 バスケットボール!
ヘビライ お前、聞いたことある?
ヘビコ さあ…?
姉 (弟に)ねえ、そうでしょ!?
弟 ごめん、僕、分からない。
姉 なんで!?
ヘビライ 続けますよ。そしてたまに成り行きで気分が乗ったときに、
姉 いい加減だな!
ヘビライ この業界でいうラケットを使って、
姉 分かった! 分かった、もういい! 羽根を打ったり打たなかったりするんでしょ!?
ヘビライ (驚く)さすが、チャンピオンの血筋…!
姉 なんであたししかツッコまないのー!?
ヘビライ 他にも様々なルールがあります。
姉 (ヤケになって)勝負がつかなかったらPKなんでしょ!
ヘビコ なぜそれを!?
姉 ここぞって時にバーに当てちゃって外したりするんでしょ!
ヘビライ お姉さん、それは!
ヘビコ それは責めないであげて!
弟 なんて奥深いスポーツなんだ!
姉 バカ!
弟、ヘビライの話を感慨深く聞き入る。
呆れてものも言えない姉。
ヘビライ 他にもたくさんのルールや技があってだな…(気付いて)そうだ、まだちゃんと自己紹介していなかったな。俺は、ヘビライ・ハン。
弟 ヘビ…?
ヘビライ 俺、フビライ・ハンに憧れてるんだ。で、ヘビ年だからヘビライ・ハン。リングネームだよ。そういや、お姉さんのお名前を伺ってないな。
姉 あたしは(いいのよ)……
弟 ランっていうんです。
姉 (睨む)
ヘビライ ラン姉ちゃん!
姉 絶対言うと思ったのよ!(うんざり)
ヘビライ こいつは、ヘビコ。ジャイアンの妹がジャイ子なのと同じ理屈でヘビコ。
弟 あなたも、選手ですか?
ヘビコ まっさかあ。アタシはジムの看板娘よ。
弟 ジム?
ヘビライ 俺たちは、ボクケットミントンのジムをやってるんだ。
ヘビコ 親父のを継いだだけだけどね。
ヘビライ しかし! 我がジムの伝統は崩壊の危機にある! それはなぜか! ボクケットミントンが廃れているからだ。
姉 誰も知らないもの。
ヘビライ それは、なぜか! 新しい世代がいないからだ! それはなぜか! イケメンスター選手がいないからだ! これからは、スポーツも肉食系でなければならない! 草食系とか、マジ勘弁!
ヘビコ よ、兄貴! 日本一!
ヘビライ そこで、歴史を深ーく掘り下げていき、君のお父さんに辿り着いた。
姉 …!
ヘビライ 天涯孤独の一匹オオカミと呼ばれた、伝説の選手だった。
弟 はい…!
ヘビライ 君にもその血が流れているに違いない!
弟 本当ですか!
ヘビライ 俺たちについて来てくれるかい!?
弟 はい! …あ、
弟、姉の存在に気が付く。
どこか遠くを見つめている姉。
弟 姉さん、
〔間〕
弟 ……。
姉 やりなさいよ。
弟 えっ!?
姉 やりなさい。キリト。
弟 うん。…ありがとう! 本当に、ありがとう!
ヘビコ よし、一緒に練習しよう!
弟 はい!
ヘビライと弟、位置につく。
ヘビコも横で練習に付き合う。
姉は一歩離れて見ている。
ヘビライ まず、この業界でいうジャブだ! シュッシュッ、シュッシュッ!
弟 シュ、シュッシュッ、
ヘビライ 右ストレート! 左ストレート!
フック! フック! アッパー! ボディーブロウ!
弟、真似をする。
ヘビライ いい感じだ! よし、ドリブル、ドリブル、シュート!
弟 はい!
ヘビライ ダンクシュート!
弟 はい!
ポジション変わって、
ヘビライ レシーブ!
弟 トス!
ヘビコ スパイク!
ヘビライ ワンツー! ワンツー!
姉以外 アタック! イナズマトルネード!
ビームが出る。
姉、驚く。
ヘビライ 連係技まで覚えるなんて…!
ヘビコ 兄貴! 天才よ! この子、天才よ!
ヘビライ 恐ろしい子…!
よし、もっと難しい技行くぞ! はい、しこ踏んでー。
しこ踏み。
ヘビライ しこ踏んでー。塩まいてー。はーい。両手を大きく広げてー
股関節の運動~
弟 やったよ、姉さん! 長年続けたラジオ体操が、ついに役に立つんだ!
姉 (無言)
ヘビライ うちのジムの合言葉を教えよう!
弟 はい!
ヘビライ 毎日が、エブリデイ!
弟 毎日が、エブリデイ!
姉以外 毎日が、エブリデイ!
姉 意味が一緒!!
と、音楽。
ヘビライ ここでダンス!
姉 ダンスまで?!
ヘビライ 表現力ももちろん点数に加算されます!
弟 なるほど!
姉 本当かよ…。
ヘビライ さあ、キリトくんも一緒に!!
激しいダンス!
気づけば姉だけが残される。
姉 こうしてキリトは、ボクケットミントンを始めました! あの怪しい二人をまんまと信用して。そしてキリトは、結局、やっぱり、なぜか知らないけど、困ったことに…勝ち続けました。
舞台、六本木に。
六本木少女と少年は路地裏の階段に、並んで腰かけている。
少し、冷めた街のざわめきが聞こえる。
六本木少女 へえ、そんなにお姉さんが怖いの。
少年 ……。
六本木少女 大丈夫だよ、聞き賃なんてとらないから。でも、お姉さんというよりは、うん。母親みたいだね。
少年 ……。
六本木少女 なんかうちと似てるなあ。うちね、おじいちゃんが結構えらい人なのね。だから、親父がめちゃくちゃ威張ってるのよ。おじいちゃんのコネで就職できたようなもんなのにね。
少年 はあ。
六本木少女 …ていうかさあ、まあもともと男の人にはなにやっても勝てないよね。
少年 そうですか?
六本木少女 うん。アタシ、兄貴にすら勝てないもん。
少年 お兄さん、ですか。
六本木少女の回想。
彼女が育ってきた家庭が浮かび上がる。
母(姉) 今日は遅くなるみたいね、お父さん。
祖父(弟) ふがふが。
兄(ヘビライ) ……。
六本木少女 ……。
祖父 ふがふが。
母 (祖父の耳元で大きく)おじいちゃん。お食事が終わったら、お部屋に戻りましょうね。
祖父 ふがふが。
母 はい、気を付けてー。
兄 うるせーよ。ナイター見てんだよ。
母 (無視して)おじいちゃん。
兄 (笑って)動物みてえなじじいだな。
〔間〕
母 (震える声で)ごめんね、
六本木少女 …なんで母さんが謝るのよ。
母 ……!
六本木少女 ばかおとこ。
兄 (はたく)
六本木少女 …お父さんがいなかったらなんにもできないくせに。
兄 あん?
六本木少女 お父さんがいなかったらなにも…
兄 (はたく)
六本木に戻る。
六本木少女 兄貴、最悪よ。親父にそっくり。もう、女ってだけで見下してる感じ。ビニール袋と一緒? みたいな。使い勝手のいいただの入れ物? みたいな。ま、これは兄貴に実際言われたんだけどね。
少年 ……。
六本木少女、大きく伸びをして、
六本木少女 だからさあ、アタシはそれを逆手にとって、こうして商売を始めたわけえ。あれ? なんでアタシこんなこと話してるんだろうねえ。
少年 はは。
二人、笑い合う。
〔間〕
突然、六本木少女が手を叩いて、
六本木少女 もうっ! やめやめ! 暗い話はやめ!
少年 …。
六本木少女 せっかくギロッポンに来たんだもん。遊ぼうよ。ブイブイいわせようよ!
少年 でも、僕…
六本木少女 決めた!
少年 ……。
六本木少女 鬼ごっこしよう! 六本木出ちゃダメだからね! はいタッチ。
少年 えっ!
六本木少女 捕まえてごらんなさーい!
六本木少女、逃げる。
少年、追う。
しばらく鬼ごっこが続く。
六本木少女はベッドの中に隠れて少年を撒く。
すると男が登場。
男 マリちゃん、起きてる?
少女の部屋に変わる。
少女、ベッドに寝たまま枕の下に何かを隠す。
男、少女のそばに座る。
男 ごめん、寝てた?
少女 ううん、大丈夫…
起き上がった少女の腹は、何倍にも膨れあがっている。
男、驚きを隠せない。
男 うわーっ!(後ずさり)
少女 ……。
男 (ハッとして)あ、ごめん、つい…。
〔間〕
男 …ず、随分大きくなったんだね。
少女 ええ。
男 …まだひと月も経ってないのに。
少女 ええ。
男 は、発育が、いいんだね!
少女 ええ。私の予想だとたぶん、双子。
男 はあ…。双子…?
少女 ええ。
男 そうか、うん…。そうか…。
〔間〕
男 …学校には、なんて言ってあるの?
少女 みんな不登校ぐらいに思ってるんじゃないかな?
男 ああ…。
少女 もともとそんなに行ってなかったの。だから、平気。何も変わらない。
男 うん…。お父さんは、
少女 (鋭く)あの人はどうでもいいのよ。
沈黙。
沈黙。
男、そっと視線をそらす。
少女は微笑みながら腹を撫でる。
〔間〕
男 あのさ…今度、どっか行こうよ。レンタカーでも借りて。軽井沢とか、山はいいよ。キレイな空気を吸うことができる。もちろん、海にも連れてってあげられるさ。…つわりもおさまって、その、調子がよくなったらさ。それまでに、免許、とるからさ。
〔間〕
男 ……聞いてる?
男、ベッドの上に一冊のノートを見つける。
男 なに、これ。
少女 あ…!
男 (ページをめくって)なに、これ。あ、すごい。ビッチリ書いてる。
少女 だめ! だめ!
男、少女の手が届かないよう逃げて、
男 妊婦さんがあんまり暴れちゃダメだよ。(まじまじと眺め)…脚本?
少女 ……。
男 「キリト、遂にお前の初試合だ!」「頑張って」「いままでの成果を見せてやれ!」
弟、現れる。
弟 はい!
男 「ほら、うちのジムのバンダナしめて」
弟 (受け取って)はい! ありがとうございます!
少女 「合言葉は?」
弟 毎日が、エブリデイ!
そこはボクケットミントンの試合会場。
リングに上がる弟。
姉がマイクを握り飛び込んでくる。
姉 さあ、遂に始まりました! エビフライ級タイトルマッチ、ゴングが鳴ろうとしております! 実況は私、ユウテンジ・ヨシコがお送りします!
弟 姉さん!?
姉 誰があなたの姉さんですか? 私は実況ですよ!
さあ、ご紹介しましょう! 赤コーナー、エバラナカノブ・キリト!
弟、アピール。
ブーイングの嵐。
姉 対するショッキングピンクコーナー…ひょっとこボンバー!
ひょっとこボンバー、登場。
サポートするギャルもついて来る。
ギャル ひょっとこ愛してるわー! 頑張って! ヒュー!
弟とひょっとこ、見合う。
姉 さあ、準備はいいか!? 見合って見合って…レディ……ファイト!
ゴングが鳴る。
姉 さあ、先に仕掛けたのは…ひょっとこボンバー選手! さあ、迎え撃つエバラナカノブ・キリト! 知ってる人は知っている、あの伝説の人物を父に持つルーキーだ! さあ、血は水よりも濃いか!? 流して証明して見せろ!
激しい戦い。
ギャル 頑張って! ボンバー!
姉 ボールを奪ったのはキリト! 走る走る! まるで獣だ! 草食系とは言わせない! ひょっとこ選手の激しいタックル!
審判、今のは反則では!? なに、ひょっとこがクッションになるからOK!?
弟、ゴール。
鳴り響くゴング。
姉 決まったあああ! 華麗な先制点! 後光が射して見える、しかし! 七光りとは言わせない!
1Rが終了。
互いに睨み合う両選手。
ギャル あきらめちゃだめーっ!
ゴングが鳴る。
姉 さあ、第二ラウンド。ひょっとこボンバー、どう巻き返すか!? おっと、激しいジャブの嵐だ、かわして、かわして…
ひょっとこが舞う。
姉 出た! 必殺奥義・火王神龍拳!
ひょっとこの右手から放たれる炎の渦。
弟、はじき返す。
ひょっとこに直撃。
姉 決まったあああああ。ひょっとこボンバー、起き上がれるか!? …ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ! KOです!
大型新人エバラナカノブ・キリト、驚異のKO勝ちです!
ギャル ふんっ! ふがいない男!(蹴りを入れて去る)
明転。
次の戦いへ。
向かい合う弟と対戦相手。
姉 さあ、デビュー戦にて衝撃の勝利を見せつけたキリト選手、ここでは実力を証明して見せろ!
ゴングが鳴る。
相手選手、ダンス。
弟、受けて立つ。
姉 むむ…、どうやら技術点を狙っているようですね。
…と、思いきや投げたー! 打った! ホームラン! ホームランです! キリト選手に3点! 私もルールがよく分からない!
弟の勝利。
うなだれる対戦相手。
歓声。
姉 キリト選手、辛くも勝利です!
控え室に変わる。
姉と弟が二人きり。
姉 (硬い表情で)なんだったの、今日の試合は。
弟 え、
姉 運がよかっただけ。あんた、動きに隙がありすぎるもの。表現力も弱い。
弟 ……。
姉 お父さんならあんな試合しない。
弟 …分かった。
姉 行ってらっしゃい。
次の試合が始まる。
完全試合。
姉の興奮した実況が響き渡る。
姉 キリト選手、またもKO! 完全試合だ!
いま、ここに伝説が作られました! 完全試合、完全試合です! ゲバラはキューバ革命を起こした!
エバラは焼き肉のタレに革命を起こした!
エバラナカノブは、ボクケットミントン界に革命を起こすぞ!
歓声。
リングの裏へ。
ヘビライ そういや君、そろそろリング・ネーム変えたらどうだ?
弟 え、そうですか?
ヘビライ うん、本名のままじゃ落ち着かないだろうし…お父さんの名前は、プレッシャーだろ?
弟 それもそうですね。
ヘビライ キリトボンバーというのはどうかな!?
ヘビコ よしたほうがいいと思う。
ヘビライ じゃあ、ボンバーキリトとか。
ヘビコ あまり変わらないじゃん。
ヘビライ マツモト…マツモトキリト!
ヘビコ 最悪。
ヘビライ ファイアーボンバー!!
ヘビコ やめろ!
ヘビライ そうだ! …イエス・ウィ・キャン!
イエス・ウィ・キャン! なんてキャッチフレーズ、いいんじゃないか?
ヘビコ どっかで聞いたことあるわね、それ。でも、いいんじゃない!!
ヘビライ イエス・ウィ・キャン!
ヘビコ イエス・ウィ・キャン!
弟 イエス・ウィ・キャン!
三人 (口笛)
弟 早速、使ってみます!
リングの上。
響き渡る弟への歓声。
マイクを手に取り、姉が立っている。
姉 キ・リ・ト! キ・リ・ト!
さあ、今夜もあいつを呼ぶ声がする!
色白の流れ星、ボクケットミントン最後の砦、イエス・ウィ・キャンの、イエス・キリトだ!
歓声。
と、少女の部屋に。
男 …あれ? まだ途中なんだ?(ノートを閉じる)
少女 ええ。半年前に書いたの。なんだか行き詰まっちゃって。
男 ふうん。
少女 そこからずっと、書き途中。
男 できあがったら、また読ませてよ。
〔間〕
少女 …あのね、
男 ?
少女 私、昔はすごく怒ってたの。
男 ……何に?
少女 なにもかもに。
男 ……。
少女 怒って怒って、全部の怒りをぶつけて書いてたの。そのときは書けたのよ。でもね、今はとても安らかな気分なの。(腹をさすり)たぶん、この子達がいるからだと思うけど。
男 ……。
〔間〕
少女 だからね、もう怒ってばかりじゃいけない、「許し」の話が書きたいと思ったの。
男 …許し?
少女 うん。なにもかもへの許しの話。でも、ダメ。私の腕では書けなくなっちゃった。怒ってた時のほうが、ずっといい文章が書けた。
男 ……。
少女 たぶんね、私の許しは妥協でしかないのよ。本当の許しは、心の底から怒っている最中の人間にしか生まれないものなんだと思う。だからこそ貴重で、怒りと同じくらいの力を持つの。でも、私の妥協に満ちた許しじゃ、あの子が許してくれない。あの子は、まだ怒り足りないみたい…、
男 え?
少女 あの子が…、
少女、体を強張らせて怯え、すがるように男の手をとる。
少女 (か細く)ねえ、聞いて。
男 なに、いきなり?
少女 もっと小さい声で話して。
男 なに? (小声で)…お母さんに聞かれちゃまずいの?
少女 違うの。…困ったことになった。
男 …いいよ、話して。
〔間〕
少女 …最近、いきなり暴れだしたの。
男 なにが?
少女 私が止めても聞かないの。
男 だから、何が?
少女 ランよ。
男 ラン?
少女 姉と弟の、姉の方。
男 え? どういうこと?
少女は震えだす。
その顔は歪み、視線は宙を彷徨っている。
少女 あの子は勝手…。私の言うことを全然聞かない。自分の世界を創り上げようとしてるのよ。自分の思い通りの世界を…だから、話の筋を勝手に変えるし、ずっと耳元で囁くのよ。私は、今はもう利用されてるだけ。
男 ……。
少女 (男に摑みかかり)ねえ、どうすればいいの。おかげで物語も私も滅茶苦茶よ。しかも、恐ろしいことに、あの子…
男 え?
少女、息を飲む。
姉が男の背後にいる。
〔間〕
姉 聞こえてますよお。
〔間〕
少女 (叫ぶ)
男 マリちゃん、
少女 どうしよう! どうしよう、湯田さ、
男 (すごい剣幕で)マリちゃん!!
〔間〕
男 ねえ、マリちゃん。いい加減にしよう。
少女 …?
男 マリちゃんは、ずっとこの部屋にいて、幸せかい?
少女 ?
男 そりゃあさ。僕もそんなに長く生きてないからエラそうなこと言えないよ? だけど、だけどさ、人間の人生にはそりゃ辛いこともあるよ。でも、みんながみんな病気になって閉じこもってたら…いや、違うんだ、病気っていうのはものの喩えで、だから、
少女 ……。
男 もう子供じゃないんだから…分かるだろう? 自分は騙せないはずだよ。僕は、君がこんなにちっちゃい頃から面倒見てるんだから間違いない。君はまともな人だ。だからさ、
少女 ……。
〔間〕
男 ごめん。ごめんよ、こんな話をしに来たんじゃない。
少女 ……。
男 僕が、僕がしたいのは…
少女 ……。
男 僕がしたいのは…こんな話じゃ…。
沈黙。
少女 男って弱いわね。
男 え?
少女 男ってやり方が汚いわね。
男 …気を悪くしたならごめん。
姉 聞こえない、あんたの言葉は何も聞こえない。
男 聞こえてるじゃないか!
姉 他の誰かに喋らせているあんたの言葉は、誰にも聞こえない!
男 え?
気付けば少女と向き合っているのは、弟である。
弟 とにかくいまは無理をしないで。…いい機会だ。心も休めるといいよ。
少女 うん、湯田さん。
姉 いままでずっと隠れてきたのね、「いい人」を盾にして。あたしにはお見通しなの。悪いわね。
男 ……!
姉 いやらしい男。
少女と姉弟の遊びが始まる。
凶々しい笑いが響きわたる。
男 誰だ!? マリちゃん、君は誰と遊んでいるんだ! そうか…ランと、ランとキリトなんだな!(叫ぶ)
走り回る三人。
追いかける男。
男 一体何が気に食わないんだよ!
姉 何もかもが!
男 これだから女は面倒くさいよな、
姉 それが決まり文句なのね、
男 頭がおかしいんじゃないか!?
姉 偽善者!
少女、姉と弟と縄跳び。
男は倒れ込む。
男 聞こえないのか? 僕の、僕の声は聞こえないのか?!
少女 どうしたの?
男 ずっと聞こえてなかったのか…。本当は、何も……。
少女 湯田さん、どうしたの?
姉 あんたは本当のことを話さない。この子も本当のことなんて、聞きたくないし。
少女 ねえ、湯田さん、どうしたの?
男 お前か! お前が、おかしくしたんだな!
姉 あんたはいりません。
男と姉、睨み合う。
男 僕はこの子の母親にも信頼されてる、僕しかこの子の味方はいない…
姉 白馬の王子様気取りか!
男 王子様でもなんでも、彼女には必要だ! 彼女は心に重い妄想を抱いている。このままじゃ、彼女は、
姉 涙が出るわ。でも、あたしが馬鹿な男は近づけないの。
男 君も、君だ! どうして男をそんなに憎む!
姉 憎んじゃいないわ。眼中にもない。
男 僕は心理学を専攻している。それも、彼女の母親に頼られた理由だ。君は弟に必要以上に辛く当たる。それは、君が自分の父親を弟に重ねているからだ! そうだろ!
姉 関係ないわ!
男 いつまでも、いつまでも、自分の内側を見つめてばかりいるんだ。たまには外に出たらどうだ!
姉 …母さんと同じことを言うね。
男 いいか、心理学での「いじめ」は「甘え」なんだ。父親への怒りを弟に向けている! くそ、どうして僕がキャラクターの精神分析なんてしなくちゃならないんだ! 君は依存している! アテにしながら拒絶している! 自分が誰からも認められない存在だと思い込んでいるから、自虐しながら傲慢を振りまく! どうだ、どれか一つは当たってるだろ!
姉 はいはいはいはい、なら、いい話を聞かせてあげようか? 心理学の大先生さぁん、生理! 生理って知ってる?
男 はあ?!
姉 あたし達さあ、いま生理なの。生理って辛いんだあ、だから機嫌悪いの、全部生理のせいなの、許して。ね、フェミニストさん!
男 妊娠中なのに、生理!? 頭大丈夫か!?
〔間〕
姉 なら、教えてくれよ、お前がいのちだと思っているものが、一体どこからいのちだったのか。人が意志を持って生まれてくるなら、卵子や精子にも意志があるのか? その意志すら許されないのだとしたら、一体いのちはどこからくるのか!
男 …狂ってる!
姉 なら、出てけ! 出てけよ! 入ってくるな! 二度とあたしの世界に入り込むんじゃない!
男は追い出される。
少女、正気を取り戻す。
少女 あたしの世界だなんて、よく言えるわね。
姉 あたしの世界だもの。
少女 …湯田さん。
姉 よしてよ。
少女 湯田さんにひどいことを…、
姉 言わない。
少女 うそ。
姉 言ってない!
少女 うそ、うそ! だからあの人いなくなっちゃったんだ!
姉 違う!
少女、姉に摑みかかる。
少女 うそつき! うそつき! 湯田さんに謝ってよう!
姉 やめてよ。
少女 あの人が、あの人がいないと…
姉 聞いて! …あんたはもう、空っぽじゃない。
少女 ……。
見つめ合う少女と姉。
少女 …そう。私は、空っぽだった。だから、なんでもかんでも詰め込んだの。だけど、いまはもうそうじゃない。これが、女の幸せってやつなんだわ。(微笑む)
姉 そうよ。
少女 ……でも、でも、
姉 あたし達にはキリトがいればいいのよ。
歓声。
姉は遠い客席を見ている。
姉 キリト、キリト。なんという観客の数でしょう。皆が彼に微笑みかけます。まるであの姿は、エバラナカノブ・ゴッド・タロウその人。父の憎しみは、彼の憎しみ。父の喜びは、彼の喜び。父の目的は、彼の目的なのです。
ボクケットミントンジムに。
ヘビライが登場。
ヘビライ ほんっ……
〔間〕
ヘビライ ……っとに面白くない!
ヘビコ はいはい。
ヘビライ なんだよ、アイツ! 調子に乗りやがって! エバラナカノブ・ゴッド・タロウは、ボクケットミントンの命だぞ! 神様だ! それを、自分と一緒くたにしやがって…!
ヘビコ でも、それを誘ったのは兄貴だからね。
〔間〕
ヘビライ、ため息。
ヘビライ まさかこうなるとは思わなかったんだよ。
ヘビコ 確かに、あのモヤシ小僧がね。
ヘビライ 最初は伝説のタロウの息子がいるっていうから、探し出してジムに連れ込んで、ひと儲けしてやろうと思ったんだ。そしたら、あんな弱っちいのが出てくるもんだから…。
ヘビコ うんうん。
ヘビライ あの、ゴッド・タロウの息子を、この俺が倒す! そして俺が伝説になる! …最ッ高の筋書きが思いついたんだよな。
ヘビコ 兄貴、弱いし人気ないもんね。
ヘビライ うるせえ、周りの奴らが強すぎるんだよ!
ヘビコ ジムで十人中十番目だもんね。
ヘビライ うるせえ! ナンバーテンと呼べ!
ヘビコ お掃除の人にすら負けてるし…
ヘビライ うるせえ、うるせえ、うるせえ! だからこそ、アイツを使おうとしたんじゃねえか! なのに……
ヘビコ …連戦連勝。
ヘビライ 予想外だ…。
ヘビコ やっぱり才能じゃ、
ヘビライ んなわけないだろ! あの姉ちゃんも姉ちゃんだよ、まんまと実況なんかに収まりやがって。なんか調子狂うんだよな、アレ聞いてると。身内贔屓だ、身内贔屓! やめさせろ!
ヘビコ 落ち着いてよ、もう!
〔間〕
ヘビライ ヘビコ。
ヘビコ なにさ。
ヘビライ あいつらには絶対裏がある。お前が探って突き止めろ。
ヘビコ そんな、嫌だよ! 面倒くさい。
ヘビライ お前は、うちのジムがどうなってもいいのか!
ヘビコ ……弱み握れってことでしょ、それ。要するに。
ヘビライ ……そうとも言う。
ヘビコ やだよ、そんな卑怯なこと。
ヘビライ 卑怯じゃねえ! 頭脳作戦だ! これからはスポーツ選手もな、頭使って生きてく時代なんだよ!
ヘビコ …あんたは使ってないくせに……。
ヘビライ なにも言うな!
〔間〕
ヘビライ ……いいか、ヘビコ。俺はなあ…あいつに試合を申し込む。
ヘビコ え、よしときなよ、
ヘビライ 次の試合であいつをこてんぱんにしてやるんだ。もちろん、ちょっとは汚い手を使ってな。
ヘビコ ……。
と、弟登場。
ヘビライ お、噂をすれば…、
弟 お疲れ様です。
ヘビライ お疲れ様! いやあ、すごいじゃないか、キリトくん! さすがだね! ジムの未来は君が背負ってるよ!(肩を組む)
ヘビコ ……。
弟 そんな、
ヘビライ じゃあ、あとは若い二人に任せて……
ヘビコ ええっ!? ちょっと、いきなり、
ヘビライ どうぞ、ごゆっくり!(去る)
〔間〕
ヘビコ、沈黙に耐え切れずに去る。
取り残される弟。
少女が現れる。
少女 ……。
弟 君は…
少女 あなたのファン。
弟 えっ(身構える)
沈黙。
弟 前に、
少女 え?
弟 前に、どこかで会いましたよね。
舞台、六本木に。
少年 …タッチ!
六本木少女 きゃー!
息切れしている二人。
走ることをやめ、道端に座り込む。
突然、六本木少女が笑いながら、
六本木少女 …ねえ、平気なの?
少年 え?
六本木少女 抵抗したくならない?
少年 姉さんのこと?
六本木少女 うん。
少年 全然。
六本木少女 噓よ。
からかうように六本木少女が少年を追いかける。
二人、小走りになり、
少年 どうしてそんなことを?
六本木少女 アタシは…家族に対してそうだもん。
六本木少女、止まる。
〔間〕
少年 …僕は、あきらめてるから。自分のことを。
六本木少女 どうして? 悩んでるの?
少年 悩んですらいない。僕は自分をどうだっていいと思っているんだよ。
六本木少女 どうだっていい? なんで?
少年 そんなに価値があると思えないからだよ。
六本木少女 …不思議。
少年 どうして?
六本木少女 普通じゃない。
少年 普通の人は、「自分はものすごく価値がある存在で、大切に、大切にしなきゃ」と思ってるのかな?
六本木少女 …たぶん。
少年 そうか。いいなあ。
六本木少女 なにそれ。
少年 …僕、学校は嫌いだよ。
六本木少女 私も。
少年 学校じゃ、「あなたはとっても大切です」「あなたはとてもいい人間です」って教えられるから。
六本木少女 教えられないわよ。
少年 直接は言わないよ。でも、それが学校のずるいところなんだよ。
六本木少女 そうなの?
少年 うん。自分を大切じゃない、と思うと楽だ。なにか嫌なことをされても、「あ、僕はそんなに大した存在じゃないから当たり前か」って思えるし。
六本木少女 ……。
少年 なに?
六本木少女、突然大声で、
六本木少女 それって、卑屈よ!
少年 そう?
六本木少女 うん。そういう人って、結局「あなたは大切です」って言われたいのよ。
少年 そうなの?
六本木少女 そうなのって…(困る)
少年 言われてもピンとこないなあ。これが当たり前だからかな。
六本木少女 …たぶんそれ、全部お姉さんのせいだよ。聞いて、あんた、お姉さんに抵抗しなきゃ。
少年 なんのために?
六本木少女 あんたのためよ。
少年 嫌だな。
六本木少女 お姉さんが、怖いの?
少年 怖いよ。
六本木少女 どうして。
少年 ……。
六本木少女 ねえ、アタシこういう話聞いたことあるのよ。象を小さいころから杭につないでおくんだって、そうするとね、大きくなっても自分が杭から逃げられないと思い込んで、抵抗する気すら起こらなくなるんですって。
少年 ……。
六本木少女 含んでるでしょう。すごく含んでると思わない、寓意。
少年 ……君、本当にただの家出少女?
六本木少女 (笑う)なに? そのわりに学があるって?
少年 う、うん。
六本木少女 おじいちゃんさ、心理学の教授なの。ボケてんだけどね。だから昔からおじいちゃんの本を漁って読んでたんだあ。あ、そうそう、アタシが上京してきたのも、じゃーん(ノートを出して)この脚本を、劇団に売り込みにきたんですー。
少年 脚本?
六本木少女 うん、引き出しの奥に入ってたんだ。たぶん、おじいちゃんの。
少年 心理学の先生が書いた、脚本?
六本木少女 ま、アタシは芝居のことなんてよく分かんないけどさー。とりあえず裸一貫よりは箔がつくと思って。
少年 君、名前は?
六本木少女 アタシ? 湯田。
少年 ……。
六本木少女 湯田マリア!
その瞬間、少年は老い始め、力なく崩れる。
母(姉)が現れる。
祖父(弟) ふがふが。
母 …なに? なに、おじいちゃん。
祖父 …んよ…マ……。
母 え? なに?
祖父 ご、め、ん、な、さ、
母 ああ…はいはい、今度買いにいきましょうね。(適当な相槌)
祖父 ご、めん、ね、
母 絵本でも読みましょうか。…あるところに幸せなお家がありました。そこには幸せなお父さんと、幸せなお母さんと、……。
祖父 ご、め、ん、…ご、め、ん、よ……マリ、ちゃん……。
母 幸せな女の子が住んでいました。女の子は、鳥かごに小鳥を飼っていました。ある日、小鳥は卵を産みました。小鳥は嬉しくて嬉しくて、何日も何日も、何日も何日も何日も、卵を温めつづけました。
母、深い感情を押し殺す。
母 しかし、卵は孵りませんでした。それもそのはずです。幸せな女の子は、小鳥がこれ以上卵を産まないように、本物の卵をプラスチックの卵と取り換えていたのです。永遠に、小鳥の卵は孵らないでしょう。それでも小鳥は、卵を温めつづけます。何日も何日も、何日も何日も何日も、何日も何日も……。
祖父 ごめん…マリちゃん…ご、め、ん、な、さ、い…
男とその姿が重なる。
男 ごめんよ…マリちゃん…ごめんなさい。ごめんなさい。
〔間〕
歓声。音楽。ライト。
リングに立つ姉。
押し寄せる熱気。
姉 さあ、遂にこの日がやってまいりました!
イエス・キリトvs.ヘビライ・ハンの戦い!
間もなくゴングが鳴ろうとしています。
会場はすでに異様な熱気に包まれております!
睨み合う両者。
ヘビライ お前みたいなポッと出に…いい顔なんてさせるかよぉ!
弟 僕には、と、父さんがいる!
ヘビライ むかつく、むかつくぜ、お前!
姉 裏切り者!
ヘビライ 裏切り者はどっちかな!
試合開始。
姉 ついにゴングが鳴りました! 二人は同じジムの出身。兄弟のような絆の二人、しかし勝者はたったの一人! まさに戦国! 下剋上だ! さあ、イエスとヘビライ、勝者はどちらか!?
姉が叫ぶ。
ヘビライが攻め込む。
弟が守る。
試合が白熱していき、観客は狂ったような声援を送る。
姉 大胆に攻め込んだのはヘビライ! かわして、かわして…おっと、かわせなかった。まだまだ、まだだ! イエス・キリト、踏ん張れ!
弟の形勢が不利に。
姉 キリト! あたし達には、お父さんがついてる!
ヘビライ なら、救ってもらえ!
と、一人の女性がリングに上がり込む。
ヘビコだ。
ヘビコ みなさん、聞いてください!
姉 ちょっとそこの人!(制止する)
ヘビコ 聞いてもらいたいんです!
姉 ちょっと!
ヘビコ イエス・キリトは、エバラナカノブの息子じゃありません!
一瞬の沈黙。
騒然となる。
弟 そんな…
ヘビライ (笑う)
弟 そんな…
ヘビライ (殴る)
ヘビコ エバラナカノブ・ゴッド・タロウに、家族はいません!
姉 やめて!(絶叫)
ヘビコ 悪いけど、全部調べさせてもらいました!
姉 ヘビはいつでも邪魔をするのね!
弟の劣勢で試合は続く。
ヘビコ 最初から嚙み合っていませんでしたね。天涯孤独の一匹オオカミに、子供がいるわけありません。
姉 試合を続けましょう!
ヘビコ それだけじゃありませんよ。あなた達のことも調べました。父親も母親も行方不明。どういうことですか?
姉 ……。
ヘビコ まあ、あなた達はたぶん、噓をついていたのではない。あなたは架空の素晴らしいお父さん、エバラナカノブ・タロウという名前をでっちあげて、キリトくんに教え込んでいた。しかし、思わぬ所から本人が現れたので、引くに引けなくなった。…そんなところですかね。
姉 邪魔しないで。
ヘビコ ただ、お願いがあるんです。
〔間〕
ヘビコ キリトくんを、解放してあげて下さい!
姉 おっと、これは効いた! しかし、立て! イエス・キリト!
ヘビコ 彼は苦しんでいます。そうでしょう? これ以上、苦しむ彼を見たくないんです!
姉 キリト!
ヘビコ それに、ランさん。
姉はひざまずき、両手を固く組む。
リングの上での争いが、二つの宗派が殺し合った「あの」争いと重なっていく。
姉 キリト! イエス・キリト! お願いします。勝って下さい。
ヘビコ (男の声が重なって)君はもう、お父さんを作ろうとしなくていいんじゃないか!?
姉 えっ!?
〔間〕
戦う弟(少年)に六本木少女(少女)が寄り添う。
六本木少女 逃げよう!
弟(少年) どこへ?
六本木少女 どこでもいいよ! 六本木でも、どこでも…
弟 でも、闘わなきゃ。
六本木少女 あんたが闘う相手はお姉さんだよ! アタシ、あんたの気持ちが分かるの!
弟 君も闘っているんだね。かわいそうに。姉さんと一緒だ。
六本木少女 あの人は、父親の代わりにあんたをいじめてるだけだよ!
弟 姉さんは、違うよ。ただ、父さんが欲しいだけなんだよ。
六本木少女 え?
弟 じゃないと、僕たちは無かったことになる。
六本木少女 …なによう。なによ、戦わなくたっていいのよ! 戦ってなんになるのよ! あんたなんか…あんたみたいに卑屈な人間、めったにいないわよ。あんたにしかない卑屈さよ! あんたにしかない考え方が、あんただけの世界が…だから、親なんて関係無いじゃないの! 自分が強くなれば!
姉 ねえ、
すべてが、止まる。
姉 あんた、誰?
襲い掛かる姉。
姉 マリアか! マリアが書いてるんだな!
少女(六本木少女) 離して!
姉 あたしの物語を無茶苦茶にしないで!
少女 私の物語よ! 私は、あなたの母親よ!
姉 あら、どっちがあんたのお母さんなのかしらね。
少女 ……!
姉 この試合で、キリトはきっと、チャンピオンになる。みんながキリトの前にひれ伏すわ。私は、キリトをお父さんのような神にしてみせる。私の、神に。
少女 あなたにお父さんはいない!
姉 だから、作るのよ。あんたは神を産むことになるの。
少女 ……あなた自身はどうするの。
姉 あたし? 自分の存在なんてどうだっていいのよ。私は汚らしい女だもの、お母さんのような。
少女 なら、私を操らないで。
姉 あなたが書いてるんじゃない!
少女 (弟に)逃げよう!
姉 させないわ!
少女 絶対助けたいの!
姉 やめろ!
少女 (弟に)あなたは、私だもの!
弟 えっ……、
少女 あなたは、私なの! 踏みにじられて、押さえつけられて、声が出なくなった私なのよ!
姉 勝手なことを吹き込まないで! キリト、こいつを信じてはダメ!
少女 怖いんでしょう! 怖くて怖くて仕方がないのよ! 自分が大切な存在になるのも、大切なものができることも!
姉 お前と一緒にするな!
少女 あなたも、私よ。
姉 えっ?
少女 大丈夫、もう大丈夫。ごめんね、私が空っぽだから、あなたにばかり喋らせて。(両手を広げ、姉に近寄る)
姉 …いらない! いらないわ、お母さんなんて!
あたしには、お父さんだけがいればいいんだもの!
少女 お父さんだけじゃダメよ! お父さんだけじゃ、子供は生まれない!
男が現れる。
男 そうだ、マリちゃん! やっと気づいたか!
少女 湯田さん!
姉 (男を指さして)キリト、敵はあいつよ! 本当の敵はあの男なの! あいつを倒して世界を手に入れるのよ!
少女 やめて!
弟、闘う。
姉 キ・リ・ト! キ・リ・ト! 今夜もあいつを呼ぶ声がします! さあ、白熱した戦いです。キリト、あなたが、あなたが世界を手に入れるのよ!
少女 それじゃ実況になってないわ!
姉 あたし達が世界を作るの!
少女 えっ!?
姉 あたし達の言葉が世界を作る!
言葉が波打つ。二人の少女の体がひとつにつながれる。
姉 …膨らんで萎んだ言葉が膜を張り子宮の中で波打ってもう脳みそのニューロンが焼き切れるくらいの力を持った後暴発する。そのかけらがお前達の胸に突き刺さった時、それがあたし達の勝利のときだ。だっていつだってあたしが向けているのはお前への遺言と売り言葉と語呂合わせ。重力も引力も権力も何もかもに逆らってお前達へと、あたしがこの世で一番嫌いなお前達の内臓が、ある日勝手に爆発するように祈っている。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ…
少女 …私の言葉が吸い込まれていく、六本木の汚い交差点に潰してまるめて捨てちゃったような残留思念が、風に乗り、どこか暖かい国へと溶けて仕舞いにはこの世から存在を消す。それは同じように私の存在を消していく。暖かい国の二酸化炭素を伝わってアスファルトから地面から足の裏から腰を伝って首元まで、そして唇から零れ落ちる怒りも、肯定も否定も何もかもが暖かい、暖かい国へと風に乗り、何も無かった最初の場所へと…
少女がリングに立たされる。
見つめあう姉と少女。
姉・少女 そうか。この人が…あんたが一番恐れている、母親なのね。
姉の姿は母に。
母親は少女を殴りつける。
少女 お母さん!
母(姉) 今日も行かなかったんだって?
少女 ごめん、
母 謝るなよ!(叩く)
少女 ごめ、
母 謝んなっつってんの! アタシは学校に行って欲しいのおおお。
少女 ごめん、
母 ああ、お父さんごめんなさい、出来の悪い娘でごめんね、
母は崩れるように倒れ伏す。
少女はゆらりと立ち上がる。
少女 お父さん…お父さんなんていないじゃない! お母さん、どうしていつまでも待ってるの!? ああ、せいせいした。あんな豚みたいな父親、いなくなってせいせいしてんのよ、アタシは! …でもね、お母さんがいくら待ったって、お祈りしたって、お金稼いだって、あの男は、あの男は、
少女、姉に殴りかかる。
少女 お母さんなんか、お母さんなんか、
姉 大丈夫、大丈夫。
少女 あんたなんか、あんたなんか、
姉、必死でなだめる。
幼子のような姉の姿。
彼女を殴りつづける少女。
姉 大丈夫だよ、お母さん!!
少女 どうしてあたしの思い通りにならないの! 弟の方がずっと、ずっといい子だわ。顔を見てるだけでむしゃくしゃする! 誰かを見てるみたいでむしゃくしゃする! アンタなんか、死んでしまえ!
少女、強く姉の首をしめる。
くずおれる二人。
〔間〕
少女 …分からない、分からないのよう、
姉、少女を抱きしめる。
姉 大丈夫、大丈夫。女なんか嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
少女 ……。
姉 女なんか、男がいればそれで満たされちゃうんだ。頭が悪くて汚くて醜い。子供を産むことでしか救われない。でも、それでもアタシ達思ったよね、お母さんになりたいって、思ったよね。
少女 ……。
姉 (立ち上がる)いまは試合中ですよ、皆さん集中して下さい。キリト選手、激しい追い込みだ。まだまだ勝負はついていない! あ…
〔間〕
男 マリちゃん。
弟(祖父) マリちゃん、ごめんねえ……マリちゃん、ごめん。
「声」が聞こえる。
少女 私は…、
姉 何も考えないで、もう何も考えないで。
少女 私は、なにと戦っていたんだろう。
姉 よして!
少女 湯田さん。
姉 だめ!
少女 湯田さん!
姉 だめ!
少女 湯田さん!
姉 あたしはあんたを守ったじゃない!
少女 湯田さん、どうして!?
追憶。
西日が射す少女の部屋。
ベッドに腰かけた少女。
両手で顔を覆い、立っている男。
男 もう子供じゃないんだから…分かるだろ? 自分は騙せないはずだよ。僕は、君がこんなにちっちゃい頃から面倒見てるんだから間違いない。君はまともな人だ。だからさ、
少女 ……。
〔間〕
男 ごめん。ごめんよ、こんな話をしに来たんじゃない。
少女 ……。
男 僕が、僕がしたいのは…
少女 ……。
男 僕がしたいのは…こんな話じゃ…。
〔間〕
男 一体何が気に食わないんだよ。
男が異様なまでに近づいてくる。
敵が異様なまでに近づいてくる。
少女 え、
男 これだから女は面倒くさいよなあ。
男が少女の肩にふれる。
敵が弟を追い詰める。
少女 ……!
男 頭がおかしいんじゃないのか。
ふれる。 ふれる。
あらがう。 あらがう。
おす。 おす。
逃げる。 闘う。
つかまる。 つかまる。
姉 やめて。
来ないで、お父さん! 触らないで、お父さん!
勝って! お父さん! お父さん、お父さん!
倒される。 殴られる。
乗る。 止まる。
見つめる。 動かない。
離れる。 動かない。
男 …こういうことをしないとさあ、子供はできないんだよ!
泣く。
泣く。
泣く。
少女 (泣く)
姉 (泣く)
少女 (腹を押さえる)
姉 ああ……
倒れた弟。
駆け寄る姉。
弟 姉さん、ごめん、負けた……。最低だ。ごめんなさい。ごめんなさい。
〔間〕
姉 謝らないで。
〔間〕
姉 よく、頑張ったね。
〔間〕
弟、笑う。
もう動かない。
二人の体から光が消えてゆく。
姉 ねえ、キリト、あんたはね、お父さんになるの。ただのお父さんじゃない。強くて、優しくて、すべてを包むお父さん。
見て!! 子供達は、この地上にある全てのものなの。みんながあなたを愛するわ。それは、あなたがみんなを愛しているからなの。あなたはすべての罪を背負う。そして、その罪のために死ぬことだってできる。だからあなたの子供たちは、絶対に争わない。闘わない。憎しみなんて持つわけない! だって、あなたに愛されてるんだもの。ねえ、お父さん、お父さん!
少女、歌う。
清らかな歌。祈りを捧げる歌。
姉 だから、お父さん。私があなたを許してあげる。もう一度生まれたら、きっと私があなたを産んであげる。私、お父さんのお母さんになってあげるからね。
姉、微笑み、目を閉じる。
男が現れ、姉と弟を葬る。
男 おじさん、おばさん。これなあに。…赤ちゃんだ! 可愛いねえ。 マリちゃんていうの? ぼくの妹にしなよー。
…君がいま、生まれた。それまでにたくさんの細胞たちが、君になろうとして死んでいったんだ。彼らは太古から君のお母さんまで、すべての意志と記憶を持っていたかもしれないのに。人になる夢を見た細胞もいただろう。だが、へその緒はもう切られたんだ。君を繫ぐものは、もうどこにもない。ふてぶてしく生きろ。伸び伸びと、生きろ。…おじさん、おばさん。なにか聞こえてくるね。街の音だ。街の、音。
遠い都会が浮かび上がる。
そこは六本木である。
六本木の少女、夜の街を行く。
六本木少女 ねえ、六本木って意外に狭いね。歩いたらすぐ麻布十番になっちゃうし。綺麗なのはヒルズまで。交差点は渋谷と変わらないね。狭い部屋、六本木、リング、お母さんのおなかの中、全部一緒だったんだ。ねえ。(振り返る)
…あたし、最初からひとりだったのかな。みんな、ひとりなのかな。誰もいなくなっちゃったのかな。
立ち止まる。
六本木少女 なに、おじさん。え、五万?! …あっち行ってよ。安くないわよ。
ああ、嫌だ、嫌だ。女は嫌だ。
少女は笑う。
そして、どこまでも歩き続ける。
朝が来る音を聞かないように。
―幕―