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第2巻 人形使いのペトルーシュカ 第二回

野中美里 Illustration/えいひ

“すべてを支配する女”VS.“オカルト部”——!ネットにアップされた、黒戸(くろと)サツキの超常(ちょうじょう)の身体能力を捉(とら)えた動画が上代雪介(かみしろ・ゆきすけ)ら“オカルト部”を新たなる大事件に巻き込んでゆく——!星海社FICTIONS新人賞から飛び出した俊英・野中美里、満を持しての受賞後第一作!

一九〇八年

あれから五日が過ぎた。

夏休みが始まってからというもの、僕は部屋のなかからほとんど出ることがなくなっていた。ご飯の買い出しだけみぞれとスーパーにいくくらいで、それ以外は部屋にクーラーをきかせて動かない。もしかして養殖ようしょくされている魚はこんな生活を送っているのかもしれない。魚になりたい。金魚がうらやましい。そんな風に僕は、夏休みを自堕落じだらくに、でも十分に満喫していた。

その日の朝に、岡田さんから電話があった。

「もしもし上代君、元気?」

岡田さんの声は、なんだか張りがなかった。

「元気だよ。どうしたの?」

「今からうちに来られる?」

「いけるけど、なにかあったの? 部活?」

「そんなとこ。みんなはもう来ているから、できるだけ急いで」

電話が切れる。僕はみぞれを連れていこうか迷ったけど、まだ寝ていたので留守番をしてもらうことにした。岡田さんの家にいくとメモを残して、僕はアパートを出た。

岡田さんの家について部屋にあげてもらうと、黒戸と姫髪さんも来ていて、小型のテーブルを囲むように座っていた。会話もなく、ちょっと雰囲気ふんいきが重いと思っていると、姫髪さんと目が合った。微笑を浮かべてくれて、なんだか安心する。ただ黒戸の様子がすこし変だった。こちらを向こうともしない。

「久しぶり」と僕は黒戸に声をかけた。

黒戸は不機嫌ふきげんそうに「なに?」とだけ返事をした。まゆ一つ動かさない無感情ぶりだ。黒戸が不機嫌な理由が分からなかったので、僕は黙っていることにした。適当に腰掛けると、岡田さんが渋い表情で言った。

「その様子だと、上代君は知らないか。トラックの横転事故のことなんだけど」

「黒戸が親子を助けたときの?」

「そう、それのこと」

岡田さんは、なぜみんなを集めたのかを話し始めた。

トラックの横転事故そのものはたいしたことはなかったらしい。運転手の居眠り運転が原因だったけど、横転後の怪我もり傷と打撲だぼくですんだそうだ。黒戸の蹴り飛ばしたトラックはもう使い物にならないだろうけど、人をくよりも軽い代償ですんだはずだ。

黒戸はすぐにその場から逃げたはずだけど、偶然にもそのとき、携帯電話の動画撮影機能で黒戸の姿を撮っていた人がいた。その動画はインターネットの動画サイトに投稿されて、事故から五日が経った現在も閲覧えつらん数を伸ばしている。

この動画を岡田さんは見つけて、僕らを呼んだ。

僕は動画を映しているPC画面をのぞく。

画質はあらく、ほんの数秒黒戸らしき女性が映っているだけだ。後ろ姿だし、トラックを蹴り飛ばしたあとの黒戸が、歩道に立っているだけの映像だった。映像はすぐに横転したトラックの方へと向きを変えた。

あまり心配ないのではないかと思ったけど、トラックの事故は新聞に取り上げられ、記事のなかに女子高校生の目撃談が載っていた。

内容は、女子高校生がトラックを蹴り飛ばしたように見えた、といったものや、目を離したらすぐに消えてしまっていたといったものなど。トラックに轢かれそうになった子供も、女の人が助けてくれたと話しているのだそうだ。

この動画と新聞の記事が黒戸の不機嫌の原因だった。

インターネットの掲示板サイトでは、この事件に盛り上がりを見せていて、黒戸の着ていた制服から学校名が割り出されている。

僕らは岡田さんの話を聞きながら、自家製のペパーミントを使ったお茶をれてもらった。うっすらと、目の下にクマを作っている岡田さんが口を開いた。

「動画がなければ、都市伝説ですんだかもしれないんだけど」

黒戸は怒りが治まらないのか、なにも言わずカップに口をつけていた。

きっとこの動画で騒いでいるのは一部の人だけだ。放っておいてもきれば忘れると思うけど。

「この動画だけじゃ黒戸かどうか分からないし、みんなすぐに忘れるんじゃない?」と僕は岡田さんに訊いた。

「なんか嫌な予感がするんだよね。ちょっと言いにくいんだけどさぁ

先を話しづらそうに岡田さんは表情を歪める。

「どうぞ」

「三ヶ月くらい前、黒戸さんはヤクザの組織を壊滅させたんだよね。その事件を警察が捜査しているとき、黒戸さんの格闘能力を知っている人が、黒戸さんのことを警察に話していてもおかしくないと思うんだよ。疑いはかからなかったみたいだけど」

「女子高校生が、ヤクザの組織を壊滅させたなんて誰も信じないだろうから」

「それはそうなんだけど。上代君、不能犯ふのうはんって言葉聞いたことある?」

ちらりと黒戸の様子を見ると、無表情でお茶を飲み干していた。自分の話をされるのは、不愉快ふゆかいなのかもしれない。姫髪さんが気を遣ってポットからおかわりを注いでいた。

僕は岡田さんに視線をもどして訊いた。

「不能犯って? 聞いたことないよ」

「たとえば、私がわら人形で誰かを呪い殺しても、呪いなんてものを現代の科学では証明できないわけだよね。裁判になっても証拠を出せないから、法律で罰せられないわけ」

「僕が能力を使って誰かを消したりするとか、黒戸がヤクザの組織を壊滅させたことは犯罪にならないってこと?」

「そういうことになるかな。超能力で犯罪を犯しても、立証できないだろうから」

じゃあ罪に問われないのは、僕らの能力が世の中に知られていないからってことになる。岡田さんは話を続けた。

「上代君や黒戸さんの能力って、法律とかもう適用できないレベルだと思うんだよ。もし能力が世間に認知されちゃったら、色々とその、パニックになるというか、問題になるよね」

岡田さんは話しづらそうに、シャープペンシルで頭をかいて言葉を続けた。

「もし国が黒戸さんの格闘能力を知ったら、政府のどこかの機関に連れていかれて、体をいじくり回されたり、格闘能力を政治的なことに利用されるかもしれないよ。もし拒めば、命を狙われることもあるかもしれない。上代君の能力なら、世界中にいる医学で治せない患者を救うこともできるわけだけど、そんな奇跡を世の中が知ったら、宗教的な組織が黙っていないかもしれないよね」

「まさか」

「管理しきれない力とか、常識から外れた存在って、怖がられるものじゃないかな」

「能力を悪用したいとは思っていないけど」

「上代君はのんきだね」

「不死身だからかも」

「私たちの能力を、世のため人のためと役立てることはできるかもしれないけど、簡単にはいかないわけだよ。だからとりあえず、能力を世間に隠しているわけだよね」

僕は頷いて、岡田さんに言う。

「でもこの動画が原因で僕らの能力が世の中に知られてしまうなんてことあるのかな。僕にはインターネットの動画サイトに、ちょこっと黒戸の姿がアップされただけって考える方が現実的に思えるんだけど」

「一概にはいえないけど、目撃者がいるわけだからさ。いちおう認識を改めておいた方がいいと思ったんだよね」

「認識を改める?」

そういえば、僕が黒戸に出会ったとき、黒戸はもう死ぬ気でいた。そのせいか黒戸は、自分の能力をあまり隠すことをしなかった。ヤクザの世界では、もしかしたら黒戸の顔は有名なのかもしれない。もしそうなら、いずれ警察が黒戸に接触してくることもあるのかもしれない。

この三ヶ月間は黒戸の身になにか起こったことはないし、僕らは普通に学校生活を送っていた。試験に苦しんだり、人間関係に悩んだりした。

でも僕らには奇妙な能力があり、罪を犯している。

僕らは色々と、世の中を軽視しているのかもしれない。僕らの能力に気づいている人はいるのかもしれない。

こんなときに妙生がいたらなんて言うだろう。

「気づいてなかったの?」とか言うかもしれない。それか「襲われても黒戸ちゃんなら平気だろ?」といった台詞せりふだろうか。

僕は考えをさえぎるように首を振った。

妙生はもう染谷先輩のなかにいる。ハムスターのときみたく相談を持ちかけるなんてできない。

僕は黙ってぼそぼそと考えをまとめようとしていたのだけど、ふとインターホンが鳴ったことで思考をとめた。

岡田さんが「ちょっと出てくるねー」と腰を上げて、パタパタと部屋を出ていき、しばらくして玄関から「いやぁぁぁ!」と岡田さんの悲鳴が響いた。黒戸がすぐに部屋を飛び出していき、僕と姫髪さんも黒戸に続いて部屋を出る。

玄関を見ると、目出めだぼうで顔を隠している長身の男が立っていた。

岡田さんは悲鳴を上げたまま黒戸のそばにより、腕にしがみつく。

目出し帽で顔を隠している男は、その上から野球帽を頭にのせて、デニムパンツに白いTシャツを着ている。黙ったまま僕らを見ていた。

黒戸の後ろから、岡田さんが叫んだ。

「出ていかないと警察呼ぶから!」

覆面男はじっとこちらをうかがっていた。岡田さんから僕に視線を移して、右手をあげて言った。

「調子はどうだ!」

僕はハッとした。黒戸の機嫌も悪いのに、すごいタイミングで現れたな。

「もしかして妙生か?」

「お邪魔します」

と覆面男は靴をぽんぽんと脱ぎ捨てると、玄関に上がった。岡田さんも姫髪さんも啞然あぜんとしている。妙生は二階にある岡田さんの部屋へと進んでいった。

「追い出そうか?」

と心配そうに黒戸が言った。

岡田さんは不安そうに「どうしよう」と呟く。

なんとなく、みんな怖がっているみたいだ。

「僕が話してくるから、一階で待っていれば?」

そう言うと、岡田さんはため息混じりに言った。

「嫌だよぉ。それもなんか気持ち悪い」

勝手に自分の部屋に上がり込まれるのは、岡田さんじゃなくても嫌なものだ。だからといって、用件を聞かないままというのもモヤモヤするし。

「妙生が、ハムスターだったころが懐かしい」

「ちょっと待ってて」

そう言うと、岡田さんはなにか思いついたようにキッチンに走っていった。持ってきたのは包丁だった。それからアイスピックを姫髪さんに渡していた。

「気持ちの問題だけど。ないより落ち着く」

岡田さんは武器を片手にそう言った。

部屋にもどると、目出し帽を被った妙生は退屈そうにベッドに腰掛けていた。岡田さんの右手にある包丁をチラリと見て言った。

「とにかく落ち着きなって。そのお茶飲んでていいよ」

岡田さんたちは顔を見合わせて、しぶしぶその場に腰をおろした。僕はとりあえず妙生の格好が気になったので、腰をおろすと訊いた。

「その覆面はなんだ?」

「なかなかいいだろ?」

「驚くだろ」

「染谷君の顔だと、みんなが話しづらいかと思ったんだよ。気を遣ったんだ。そもそもこれ暑いんだ。俺だって好きで被ってるんじゃねえよ」

「いいけど」

「でだな、黒戸ちゃんはまた目立ったことしたね。なんで自分を追い込むようなことしたのか知らないけど、あれはまずいっしょ」

黒戸は眉をひそめた。その話題を振るのは危険がともなう。

「親子を助けたんだ。黒戸にしか助けられなかった」

「いいことだな」

「まあ」

「って染谷君は思ってるよ」

どうして僕らのところに来たんだ?」

妙生は真剣そうな様子で言った。

「なにかがささやいたんだよ」

「嫌な予感がする」

妙生は両手で目出し帽のズレを直して落ち着くと、言った。

「ツングースカ大爆発って知ってる?」

突然、話を変えてきたな。知らない、と言おうとしたら岡田さんが口を開いた。

「ロシアで起きた隕石いんせきの爆発でしょ?」

「あれは隕石じゃないよ、岡田ちゃん」

「えっと、ちょっと待って」

そう呟いて、岡田さんはPCで『ツングースカ大爆発』を検索する。妙生はその間、自分で持ってきていたコーラを飲んでいた。

岡田さんが画面を見ながら話した。

「ええと、ツングースカ大爆発、一九〇八年六月三〇日午前七時二分ごろ、ロシア帝国領中央シベリア、エニセイ川支流のポドカメンナヤ・ツングースカ川上流の上空で起こった爆発である。なんか思い出してきた。このときの爆発の影響で、千キロ離れた家の窓ガラスが割れたり、真夜中だったロンドンの方まで新聞が読めるくらい空が明るくなったみたい。原因は隕石が上空で爆発したって説が有力だけど、まだはっきりしたことは分かっていない。爆発があったのがロシアの森林地方だったから、人的被害は出ていなかったみたいだけど」

妙生はペットボトルから口を離して「それそれ」と言った。

岡田さんはまだ、PCでツングースカ大爆発について検索している。僕は妙生に言った。

「この事件は、今から百年以上も前のものだろ」

妙生が僕を見る。僕は続ける。

「今更、そんな昔の事件がどうしたんだ?」

「このツングースカ大爆発は、宇宙船の爆発だったんだよ。こっちの世界に飛ばされたショックで、運悪く爆発しちまったんだな」

「宇宙船って、妙生が乗ってきたものと同じものなのか?」

「そうだな」

「じゃあ、ツングースカ級の爆発がこの町で起きていてもおかしくなかったってことじゃないか」

岡田さんも僕らの方を向いて、補足するように言った。

「広島に投下された原子爆弾の、千倍に匹敵する爆発ってあるけど。宇宙船が爆発していたら町どころか日本列島が大ダメージを受けていたんじゃないの?」

「すごくない?」

と妙生は覆面のなかから言った。

呆れるだけだ」

「とっさに回避できてよかったよ」

岡田さんは小さなあごに手を添えて、なにか考えていた。

黒戸と姫髪さんはハーブティに口をつけていて、この話には進んで入りたくはなさそうだ。僕も黙っていた。妙生は話を続ける。

「ツングースカ大爆発では、宇宙船は跡形あとかたもなく飛び散ったわけだな。衝撃波しょうげきはは地球を一周した。爆心地じゃ火柱ひばしらが上がり、キノコ雲ができて灰が飛び散った。太陽を隠して、森を火の海に変えた。くまやリスや虫やトナカイを吹っ飛ばして、地面にでかいクレーターを作ったんだ。そのクレーターは湖になってるらしいよ」

僕は疑問をずらずらと口に出した。

「その宇宙船はどうなったんだ、もう元の世界に帰れたのか? 乗っていた宇宙人はどうなった?」

「気になるところだな」

お前も知らないのか」

れているのか、妙生はもう一回両手で目出し帽の位置を直していた。

僕はツングースカ大爆発について考えてみるけど、規模が大きすぎて上手うまく想像できなかった。原子爆弾の千倍の威力ってどんなものだろう。爆心地の近くにいたら、一瞬で跡形もなくなるのだろうか。生き物は影しか残らないと聞いたことがあるけど。

「このツングースカ大爆発の話に、妙生のなにかがささやいたわけか」

「とくには」

いまいち目的が分からないけど、こんな話をしてくるってことは、妙生は僕らを敵と思っていないのかもしれない。染谷先輩もあまり僕を嫌っていないようだったけど、本当になにを考えているのか分からなかった。なにか僕らに、クイズのヒントを与えて話しているように感じるけど。

そんな風に考えていると、妙生は覆面のなかからチラッと僕の目を見た。その視線に、僕はなにか胸がモヤモヤとする。自分の考えはなにか違う気がした。

「じゃあ俺は帰るよ。お邪魔しました」

そう言って、妙生はベッドから立ち上がった。

「帰るって、それだけ?」

と僕は呼びとめた。もどかしさを覚えてしまう。妙生は僕を見て言った。

「こういった話って、誰かにしたくならない?」

「なにか、ここに来た目的があるんじゃないのか?」

「俺はこの話をしたいから来たんだ」

それだけ言うと、妙生はすたすたと部屋を出ていこうとする。僕は呆気にとられる。岡田さんが突然、妙生の後ろ姿に声をかけた。

「ちょっと待った妙生君!」

妙生は「どうしたの?」と岡田さんを振り向いた。

岡田さんは妙生をにらんで、ゆっくりと口を開いた。

「すこし気になったんだけど、家に入ってどうしてすぐに私の部屋が分かったの? 来たことないよね

「染谷君の記憶に残ってたんだよ」

「染谷先輩も私の部屋に入ったことないよ!」

「え、あるよ?」

「ないってば!」

妙生は黙って、じっとしていた。なにか脳細胞を探ってでもいるような間だった。岡田さんは静かな口調で言った。

「もしかして染谷先輩、透明化して私の家に入り込んだことあるの?」

岡田さんの顔から耳まで赤くなっていく。包丁を握る手が震えて、力が込められていた。妙生は感情のない声色で言った。

「そんなことないよ」

うそでしょ!」

「俺は宇宙人だからよく分からないよ」 

「ハムスターのときは可愛かったのに!」

「今でも可愛くない?」

「どこが!? 可愛くないよ」

黒戸と姫髪さんはこのやりとりが聞こえていないかのように、お茶を飲んでいた。妙生は両手をあげて首を振り言った。

「岡田ちゃんでも言っていいことと悪いことがあるんじゃないのかな」

じゃあ可愛いことしてみて?」

妙生は腰をかがめると、ハムスターのときによくしていた動きをした。低い姿勢で腕を上下させている。部屋が揺れる。岡田さんは口を結んで瞬きをやめて、次の瞬間に叫んだ。

「ぜんっぜん可愛くないよ! なんなのその動き!?」

「可愛いじゃん! ほらほら!」

そう言って妙生は動きを続ける。

「気持ち悪いよ! 変態!」

妙生はピタリと動きをとめて岡田さんを見ると、叫ぶように言った。

「そうだよ岡田ちゃん! 全裸ぜんらで家のなかを歩き回る岡田ちゃんにビビって染谷君はすぐに出ていったけどね! なんで全裸で家うろついてるの? 風邪かぜ引くなよ!」

岡田さんが包丁ほうちょうを手に飛びかかるのと、人格が染谷先輩に切り替わるのは同時だった。「話せば分かる!」と染谷先輩は叫んだけど、もう染谷先輩の頰をニット帽越しに包丁がかすめていた。岡田さんは妖気をただよわせたまま、包丁をななめに構えている。

染谷先輩はあわてて「その件については誤解がある」と言って、部屋を出ていった。

その後ろ姿は、僕の見たことのない染谷先輩だった。

岡田さんは顔をにして呼吸を荒げ、染谷先輩の後ろ姿に「最低!」と叫ぶ。それから玄関の鍵を閉めにいった。部屋にもどると岡田さんはイスに座り、真剣な様子にもどって口を開いた。

「今はこんなことしている場合じゃなかったね」

本当にあいつはなにしに来たんだ。 

「なに話してたっけ?」

「忘れちゃったよ! なんだったのあいつら?」

岡田さんは悪夢でも振り払うように首を振った。僕は話を思い出した。

「妙生の言っていたツングースカ大爆発が宇宙船の爆発だったなら、世界中にネクタールの入っている人間がいるかもしれないよ」

「ツングースカ大爆発はもう百年以上も前だし、生きている人がいてもお年寄りでしょ」

「でもネクタールが寄生している人がいれば、僕らの味方になってくれるかも」

「上代君は楽観的だよねぇ」

と岡田さんにため息混じりに言われてしまう。僕は楽観的かもしれない。でもまじめなつもりなのだけど。姫髪さんがカップを置いて、そろそろと口を開いた。

「あの、すこし話が変わるのですが」

「うん、いいよ」

と岡田さんは姫髪さんに笑顔を向けた。

「ツングースカ大爆発では、ネクタールが広範囲に飛び散ったわけですよね」

「そうだと思うよ。爆発はロシアの森林地帯で起きてるけど、ロンドンの方まで爆発の明かりが見えたらしいから」

姫髪さんはふわふわと視線を宙に向けて言った。

「ツングースカ大爆発が起きたのが一九〇八年で、第一次世界大戦が始まったのは一九一四年です。第二次世界大戦は一九三九年、ロシアでは革命も起こっています」

激動の一世紀だったんだろうな。戦争や革命で多くの人が死んだはずだ。第一次世界大戦のころは、スペイン風邪なんかも流行はやっている。姫髪さんは言葉を続ける。

「その戦争や革命は、宇宙船の自己修復プログラムが働いたことが一因だったりしないかと思うんです。自己修復プログラムは人間の感情に影響を与えて、殺し合いをさせますから、広範囲に飛んだネクタールの影響で、世界中で戦争や革命が起きた」

自己修復プログラムが働いて、世界中の人が憎しみあった。そんなことあり得るのだろうか。起きた事件が悲惨な分、あまり考えたくはないのだけど。

僕らは各々おのおの姫髪さんの言葉について考えていた。

「もしそうなら、僕らのような能力を持っている人間が、もっとたくさん知られていてもいいような気がするんだけど」と僕は言った。

姫髪さんを見ると、恥ずかしそうにうつむいて「えぇと」と考えてくれていた。眼鏡を膝元に置いて、姫髪さんは口を開いた。

「ネクタールの分散が激しくて、多くの人に入った分、巨大な能力を持った人があまり生まれなかったのではないでしょうか」

「ネクタールの入った人間はいたけど、一般人とあまり見分けがつかない程度の能力しかなかったのか。それでも、人よりすこし直感がすぐれていたり肉体が強ければ、戦争では英雄になれたかもしれない」

岡田さんは机に頰杖ほおづえをついて言った。

「もしかしたら、ヒトラーなんてネクタールが入っていたのかもよ」

「どうしてそう思うの?」と僕は訊く。

「すぐれた直感とかカリスマ性があったから、暴走しながらも国をまとめることができたわけだよ」

うぅん」

ヒトラーに関わる逸話いつわはたくさんあるけど。あまりいいイメージじゃない気がする。

岡田さんはイスを回転させて、僕らの方を向いて言った。

「六〇年代の旧ソ連じゃ、本気で超能力の研究がおこなわれていたなんて言われているけど、たいした成果を挙げていないんだよね。ソ連がネクタールの研究をしようとしたころには、もうネクタールの入った能力者はすべて死んでいたのかも」

「じゃあそのころいた宇宙人は、ネクタールの世界にもどることができたのかな?」

「一世紀も前だから、そう考える方が無理ないかな」

「そういえば、染谷先輩は現人類の代わりにネクタールの寄生している人間が繁栄するって言っていたけど」

岡田さんは僕を睨む。僕は言ったあとで、染谷先輩の名前は出さない方がよさそうだと気づいた。

「繁栄するにしたって、能力は子供に遺伝しなさそうだよ。もし遺伝するなら、もっと世の中に超能力者がいてもいいと思う」

「なんていうか、わざわざ妙生がツングースカ大爆発の話を今のタイミングでしてきたのって、染谷先輩が僕らを染谷先輩理論に引き込もうとしているんじゃないかと思えてきて」

岡田さんは顔の前で手を振って、苦笑しながら言った。

「いやいや、妙生君はこの話をしたいからしただけだよ」

「そうかな」

「黒戸さんの事件に話をもどすけど、つねに頭に入れておいてね。私たちの能力は世界に影響力があるってこと」

「分かった」

話している間、黒戸はずっと黙っていた。

責められているような気持ちになっているのかもしれない。親子を救ったのにさらし者にされているのだから、怒りたくもなるはずだ。

僕はみんなより先に岡田さんの家から出ることにした。女性の輪に男一人は肩身の狭いものがあるし、なんとなく出た方がいいような雰囲気になっていた。

時刻はまだ午後三時、日差しが強い。

夏の暑さは好きじゃない。

鬱々うつうつとしながら自転車で中井公園を通りかかると、印象的なバイカーが道路を横切っていった。外国製の真っ赤な大型バイクに乗り、ピタリとしたライダースウエアの上下を着ている女性で、フルフェイスのヘルメットからは金色の髪が伸びていた。スタイルがよくて外国製のバイクが似合っている。映画のワンシーンを観ているような気持ちになって、僕はバイクが見えなくなるまで自転車をとめてぼうっと眺めていた。

「雪介君、一人か?」

声をかけられて振り返ると、電柱に身をひそめる染谷先輩がいた。目出し帽は取っていて、ズボンのポケットにねじ込んでいる。頰からは血は出ていないけど、傷が残っていた。

「そうです」

「さっきは驚かせて悪かったな」

「僕は構いませんけど」

「岡田は怒っていたか?」

僕が頷くと、染谷先輩はため息をついた。それから「ちょっと話がしたい」と言って僕を見た。

僕らは中井公園に入り、中央にある噴水のへりに腰掛けた。汗をかいている僕を見て、染谷先輩は缶ジュースをおごってくれた。恐縮しながら僕は受け取り、飲みながら話を聞いた。

「まず聞いてほしいことがあるんだが、俺が岡田の家に忍び込んだのは事実だ。でもあいつの裸が見たくて忍び込んだわけじゃない」

「それはなんとなく分かりますけど、本当に忍び込んだんですね」

「ちょっとした過去の過ちだ。もう昔のことだよ」

「やっぱり、それも自己修復プログラムの影響ですか?」

「なるほどな。そうかもしれない」

と頷き、染谷先輩は話を続けた。

「俺は岡田がオカルト研究部に入部したときに、あいつの家庭のことを聞いたことがある」

「岡田さんの家庭ですか」

「岡田のお父さんは酒癖さけぐせが悪いんだよ。酔うとお母さんをなぐるらしい。四つ上のお兄さんがいるんだが、岡田が高校に上がる前に父親と喧嘩けんかをして家を出ている」

あの、まったく知りませんでした」

ショックを受けてしまう。それは家庭内暴力じゃないか。岡田さんは辛そうな様子を一度も見せたことはなかったが、すこしくらい相談をしてほしかった。

染谷先輩は僕の様子を見て頷き、言った。

「そして俺は、透明化の能力を得たときにまっさきに岡田の家に上がり込んだ」

「どうしてですか?」

「岡田のお父さんをちょっと驚かすつもりだったんだ。酒を飲もうとすると、ポルターガイスト現象が起きる。ちょっとしたイタズラ心だ」

ポルターガイスト現象が起きただけで、お酒をやめられるものでしょうか」

「俺は酒を飲まないから分からない。だが、ポルターガイスト現象だぞ」

「驚きはするでしょうけど」

「酒を飲むどころじゃなくなるだろう。酔いも覚める」

「あの、岡田さんの家庭の状況はそんなに酷いんですか?」

「いや、お兄さんが出ていってから落ち着いたらしい。それに岡田が怪我をしているところは見たことがないから、岡田は暴力を振るわれていないはずだ。岡田自身も気にしないでほしいと言っている。でも聞いてしまった以上、俺はなにかしたかったんだよ」

「なんだか、先輩らしくないような」

染谷先輩は、感情よりも理性を優先して動くイメージがあった。でももしかして、行動的な染谷先輩にとって、岡田さんのために動くのは自然なことなのだろうか。僕にはなかなか踏み出せないことだから、すこし尻込しりごみしてしまうのだけど。ただ強引だけど、それは染谷先輩のかっこよさのような気もした。

「今考えると、俺も家に忍び込むのはやり過ぎたと思う。岡田も家のことに触れてほしくないみたいだからな。話を聞いたときは興奮していたんだ」

「岡田さんは、人に辛いところを見せるの嫌がりますから」

「そうかもしれない。それに結局、俺が忍び込んだときにお父さんを驚かすことはできなかった」

染谷先輩は本当に岡田さんが心配だったんだ。だけど不覚にもそのとき、裸を見てしまったのか。

「あの。すみません、つかぬ事をお訊きしたいのですが」

「つかぬ事か」

「はい。岡田さんは本当に全裸でいたんですか?」

染谷先輩は缶ジュースに口をつけて、どこか遠くを見て言った。

「どうして、全裸だったんだろうな?」

「開放的な性格だから、とかでしょうか?」

「ふむ」

透明化の能力って羨ましい。いやそんなこと考えちゃ駄目だ。

染谷先輩は咳払せきばらいをして続けた。

「雪介君にも岡田の家庭のことを知っておいてほしいと思っていた。岡田のそばにいるのは君だからな。俺は嫌われている」

そんなことないと思います」

「いいんだ、嫌われていても気にならない」

僕が言葉を探していると、染谷先輩は「ところで」と言って僕の方を向いた。

「はい?」

「あれから、体は鍛えているか?」

「いえ、運動は苦手で」

「すこしずつでも鍛えておいた方がいい。とくに格闘技をやっておくことを勧める」

「努力します」

染谷先輩は頷くと立ち上がり「じゃあ、いくところがあるから」と言って、いってしまった。染谷先輩は、やっぱり悪い人じゃない。一途に岡田さんのことを想っていなければ、染谷先輩のように行動できないはずだ。

僕も缶を屑籠くずかごに放り投げて、公園を出て自転車に乗った。

次の日、僕は待ちに待った新日しんにちのプロレス公演を観にいった。地方興行なので料金も安く、選手を近くで見ることもできる。一緒に写真を撮れるかもしれないと思い、僕は色紙しきしとカメラを用意して出かけていた。みぞれと一緒にいって、選手の技について熱く語るつもりだったのだけど、みぞれは寝ていて起きなかった。

体育館に入ると、ステージの周りにはもう人が集まっている。席についてパンフレットを見ながら試合を待っていると、後ろから声がかかった。

「あれ、上代君?」

振り返ると私服姿の岡田さんがいて、僕は驚いてしまう。

「岡田さんもプロレス好きだったの?」

「まあね、兄貴に勧められたのがきっかけでさ。好きな選手が出るから観に来たんだ。血湧ちわ肉躍にくおどる感じがいいよね」

「そうだね」

試合が始まり、体育館ホールはレスラーがマットに叩きつけられる音や絶叫ぜっきょうが響いていた。僕は選手の技のキレや、受けの美学びがくに一人頷いたり声をあげていたけど、となりで観ていた岡田さんは終始無言だった。

プロレス観戦を終えると、もう六時だった。これからすぐに暗くなる、一日がとても早いとつくづく感じてしまう。自転車に乗って二人で帰る途中、岡田さんが思い出したように言った。

「そうだ、上代君これからちょっと付き合ってよ」

「いいけど、なにするの?」

岡田さんは「それはだね」と僕の顔を見て「UMA探しだ!」と言った。

「本気?」

岡田さんは楽しそうに頷いた。話を聞くと、どうやら岡田さんは夏休みに入ってから、一人でずっとUMA探しをしていたそうだ。中井公園にある林で、怪しいところがあるのだと話していた。といっても、怪しいと思うのはかんらしいけど。

中井公園のやぶのなかに入り、僕らはヤツデの茂るなかを探ってみたり、ケヤキを見上げて目をらしていく。「なんでもいいから手がかりを感じ取って」と言われていたけど、どんな生き物にネクタールが入り込んだのかも分からないので、やはり手がかりになるものはなにも見つからなかった。暗くなってくると、僕らはふたたび自転車で帰路についた。

「残念だったね」と岡田さんの横顔に声をかける。

「まだ夏休みは残ってるしさ、暇なら上代君も昼間から手伝って」

「考えておくよ」

岡田さんと二人になることが最近なかったとふと思う。改めて訊きたいことがあった。

「岡田さんは、染谷先輩が嫌い?」

岡田さんはピクリと肩を動かした。視線を真っ直ぐ前に向けたままで言った。

「大嫌いだよ」

「でもかっこいいって言ってたのに」

「なんでそんなこと訊くの?」

「あの時期に、僕らは自己修復プログラムの影響を受けて、色々と混乱していたから。今どう思っているのか知りたいと思った」

岡田さんに視線を向けられて、僕はうつむいてしまう。岡田さんは、難しい問題に悩むように口を開いた。

「かっこいいのは認めるよ。頭もいいし、性格も一般的に見れば魅力的なんじゃない」

「じゃあ、どうして染谷先輩の告白を断ったの」

岡田さんは首をひねって言った。

「ええと、それは恋愛相談のようなもの?」

「いや、そうじゃないんだけど」

岡田さんは怒っているのかもしれない。岡田さんの前で染谷先輩の話を出すのは、やっぱり軽率だったと後悔する。二人の関係は、僕が口を出すことじゃなかった。

黙っていると、岡田さんは迷うような口調で言った。

「染谷先輩ねぇ、あの人もなんで私みたいなのに構うのかな。モテんだから、他の人といくらでも付き合えるだろうに」

「染谷先輩ってそんなにモテるの? 話には聞くけど」

「人気あるよ。でも誰とも付き合わないんだよ」

「それだけ岡田さんが好きなんだと思うけど」

「困るよっ」

「好きになることに理由はないんだよ」

「なにそれ」

「言ってみただけ。ごめん」

「上代君さ、染谷先輩とあれから二人で話したりした?」

僕は頷いて、言った。

「この前、二人で話したよ」

「なに話したの?」

「体を鍛えておくこととか」

「どーでもよくないかい?」

「うん」

岡田さんは僕の顔をじっと見た。僕は真顔になってしまう。

「もしかして染谷先輩、私の家庭の話とかしなかった?」

僕は驚いて息がとまった。なんで分かったんだ。

岡田さんは僕の表情を見て、ため息をついて言った。

「先輩、余計なこと! 染谷先輩がどんな風に上代君に話したか分からないけど、私の家庭のことは気にしなくていいからね。私もべつに気にしていないし、そんなに大げさなものじゃないから」

「染谷先輩は、岡田さんのことが心配なんだと思うけど」

「馬鹿みたい。それで人の家に忍び込む? 普通」

「私の家庭のことはみんなには黙っていてね。そういったこと気にされるの嫌だよ」

「ごめん」

「しっかし、暑いわぁ。アイス食べない?」

僕らは近くのコンビニに寄った。ソフトクリームを二つ買って、岡田さんに渡し、コンビニの駐車場で二人で食べた。

家庭の話とか、染谷先輩の話とか、やっぱり岡田さんにとってはあまり踏み込んでほしくない領域だ。まずいことを訊いてしまったと思い、僕は黙ってソフトクリームを食べていた。

岡田さんを見ると、舌ですくうようにソフトクリームをめている。その様子は子猫のようで、なんだかとても可愛らしかった。岡田さんはちょっと変わったところがあるけど、やっぱり魅力的だと思う。

「上代君は、染谷先輩と私の仲を気にしてるの?」

ふいにそう訊かれて、僕は口ごもった。

僕のせいで、二人の仲が悪くなったと思ってしまうことがあった。もともと岡田さんと染谷先輩はそんなに仲は悪くなかった。僕のことを染谷先輩がうらんでいることで、岡田さんは僕をかばうように染谷先輩と敵対しているんじゃないかと思うことがある。でもそれを岡田さんに言ってしまうのは、岡田さんの気持ちを裏切るようなものかもしれない。

「どうしても、染谷先輩が悪い人とは思えないときがあるんだ」と僕は言った。

「へえ、上代君は他人に興味がないと思ってた」

「どうして? 他人に興味はあるよ」

「じゃあ問題。いい?」

「いいよ」

小さなところから信頼を得るよ。

「黒戸さんの誕生日や、二人が付き合い始めた記念日はいつでしょうか?」

五月ごろだけど、日にちまでは分からない。黒戸の誕生日は知らない。

「黒戸さんはちゃんと覚えているよ。上代君の誕生日も記念日もさ」

そうなんだ」

「あとで記念日と誕生日教えるから、ちゃんとメモを取るんだよ」

僕は頭を下げた。

岡田さんはソフトクリームのコーンをパリパリと食べる。僕は半分くらい食べたところで捨てていた。岡田さんは言った。

「なんていうか、私さ、お父さんってそんなに嫌いじゃないんだよね。お母さんを殴っているときは殺したくなるけど。でも染谷先輩はなんか苦手。男性的というかさ。ちょっと怖い」

「男性的? 染谷先輩のこと怖いって感じていたの?」

岡田さんは「むー」と宙を睨み言う。「なんかさ、やること兄貴に似ているんだよ。あの人」

お父さんと喧嘩して出ていったお兄さんのこと? たしか歳も染谷先輩と近いみたいだけど。

「上代君なら怖くないんだけど」

そうなんだふうん」

その言葉になんとなく照れていると、岡田さんは言った。

「上代君てあんまり男っぽくないし、こっちの言うことなんでもハイハイ言って聞いてくれそうじゃん」

「それは誤解があるよ。そんなことはない」

岡田さんはソフトクリームを食べ終えて、包装容器をゴミ箱に捨てた。

「あとさ、上代君」

「はい?」

「今の話、後ろで染谷先輩が全部聞いてたよ」

「噓!?」

僕はとっさに振り返った。

岡田さんが「上代君、噓だよー」と笑ったのと同時に、透明化していた染谷先輩が現れた。

染谷先輩はポロシャツにジーパンといったラフな姿で立っている。先輩はどうしてここにいるんだと、僕は混乱する。染谷先輩は無言のまま、岡田さんを見て表情を引きつらせている。

岡田さんも染谷先輩を見て、顔を引きつらせていた。

二人の間に不穏ふおんな空気を感じて、僕も気がついた。岡田さんは僕を驚かすために、染谷先輩が後ろにいると噓を言ったんだ。それが本当に後ろにいた染谷先輩を驚かせて、透明化を解かせてしまった。

岡田さんは引きつっていた表情を、徐々に怒りの色に変えた。

染谷先輩は顔面にぷつぷつと汗を浮かべていた。

岡田さんは静かな声色で言った。

「いつから、ついてきてました?」

染谷先輩は顔をそらして言った。

「俺はただ、コンビニに寄っただけだ」

染谷先輩は負けず嫌いなので、簡単に謝ったりしない。それは魅力的な気質なのだけど、今は岡田さんの怒りをあおってしまうのでは

岡田さんの怒りは、表情を見なくても伝わってきた。僕もあしふるえた。

「このに及んで、まだそんなこと言うんですか?」

「岡田、お前は勘違いをしている。俺は

「うるっさいです! 透明人間!」

と岡田さんが叫んだ。染谷先輩は顔面を硬直させた。僕も全身が震えた。

「今度こそ染谷先輩を見損ないました! もう絶対に私たちに近づかないで下さい! 絶対にですよ! 分かりました!?」

「聞いてくれ、俺はただ

「完全にストーキングですよ! 能力まで使うなんて最低です!」

染谷先輩の呼吸が、追い詰められているように短くなった。でも岡田さんの言葉は正しかった。それは染谷先輩も認めているのか、岡田さんの気迫に押されていた。

僕はそろそろと口を挟んだ。

「岡田さん、染谷先輩に悪気はないよ」

そう言うと、岡田さんはこちらを睨んで激怒した。

「なんで上代君は染谷先輩の味方なのさ! 今の状況なら私をかばってくれるところでしょ! 意味がさっぱり分からないんだけど!」

僕は自分の判断が間違っていたことを悟った。

染谷先輩がうつむいたまま言う。

「お前が心配で、つい」

「なによそれ!」

岡田さんは自転車のスタンドを外す。

「待て、岡田!」

染谷先輩は一歩踏みだし、自転車に乗ろうとする岡田さんの肩を摑む。岡田さんは染谷先輩の行動にビクリとして、表情が固まっていた。

岡田さんは自転車を離して、染谷先輩を思いきり突き飛ばした。染谷先輩は驚いたように岡田さんを見た。

「触らないで下さい!」

岡田さんはそう叫んで、逃げるように自転車に乗り、いってしまった。僕もあわてて岡田さんを追いかけた。自宅までいったけど、岡田さんが出てくることはなかった。

岡田さんの家から自転車で帰るとき、一悶着ひともんちゃくあったコンビニを通りかかったのだけど、駐車スペースにはまだ染谷先輩がたたずんでいた。ブロックに座って肩を落とし、落ち込んでいるように見える。

「先輩、大丈夫ですか?」僕は染谷先輩に近づき声をかけた。

染谷先輩はゆっくりと顔を上げる。その表情は山ごもりをしたかのようにコケて見えた。

「ちょっと具合が悪いが大丈夫だ。いや、大丈夫じゃない」

僕にも大丈夫そうには見えなかった。

「なにか買ってきます。飲み物とか」

「いいや、平気だ」と首を振って、先輩は言葉を続けた。「夏休みの前にも訊いたと思うんだが、俺たちを囲むような視線に気がついたか?」

「いえ、すみません。僕にはやっぱり分からないです」

「どうしてだ。岡田や君の仲間も気がついてないんだろ?」

「たぶんですけど、そんな話はしていないので」僕はそう言って悩む。「あの、もうすこし教えていただくことはできませんか? どんな人が僕らのことを見ているのか」

「教えたくても、俺にも正体がよく分かっていないんだよ」

もし僕らを襲うような人物がいれば、黒戸や姫髪さんが真っ先に気がつくはずだ。それなのに、いまだに染谷先輩だけしかその視線に気がついていないのはどうしてだ。

もしかして、その視線に不安を感じて岡田さんのことを見ていたんですか? たぶんこの一週間。岡田さんが一人でUMA探しをしていたので」

染谷先輩が近づけば岡田さんは嫌がるだろうから、透明化していた。

染谷先輩は深いため息をついた。

「あのトラックの事故は、偶然起きたと思うか?」

「居眠り運転だったそうですけど。先輩は誰かが故意に起こした事故だと考えているんですか?」

「可能性の一つとしてだ」

トラック事故で轢かれそうになったのは僕らじゃなかった。でも、僕らにとって避けたいことは世の中に能力が知られてしまうことだ。あの動画撮影は偶然じゃなかった

「トラック事故が偶然じゃないなら、僕らの能力を世の中に広く知らしめようとしている人がいるのかもしれないってことですか?」

染谷先輩は首を振った。

「それは違うな。前もって準備をしていたのなら、もっとしっかりとした映像が撮れているはずだ」

そうですね」

動画は黒戸の後ろ姿しか撮れていなかったし、すぐに横転したトラックに映像が移っていた。動画は偶然撮られたものだ。

僕が考えていると、染谷先輩は口元くちもとを歪めて言った。

「それに、あいつはなんで聞く耳をもたないんだ?」

「無邪気な性格だから、とかでしょうか」

「馬鹿だからということか?」

「いえ、その、話は変わるんですが、染谷先輩は僕らを狙っている人がいるとして、その人の目的をどう考えているんですか?」

「それが分かれば教えている」

すみません、変なことを訊きました」

「俺はもう岡田には近づけないし、たぶんなにを言っても信用しないと思う。君が注意していてくれないか?」

「はい。分かりました」

染谷先輩は「そろそろいこう」と言って、歩いていってしまった。

帰りにスーパーに寄って夕飯の食材を買った。

アパートに帰ってくると、みぞれがテレビを見ていた。ニュース番組だ。その内容に、僕もテレビに視線が向いてしまう。黒戸がトラックを蹴り飛ばした事故を、コメンテーターが話していた。内容の焦点はどうして歩道に突っ込んだトラックが、道路中央で横転したかだ。目撃者のコメントも話していた。

なんでニュースでこんなくだらないことを取り上げているんだ。笑っているコメンテーターに腹が立った。この事件は一週間も前のものなのに。

事故の話題が終わると、自宅に電話がかかってきた。

「上代君?」

電話は黒戸からだ。

「どうしたんだ? 電話かけてくるなんて珍しいけど」

「なんか家の周りに不審者がいるみたい」

「え? それってどんな人か分かるか? 今テレビにトラック事故のこと取り上げられていたけど」

「たぶん動画を見た人がイタズラで私のこと探してるんだと思うけど」

「とりあえず、うちのアパートに来られるか?」

「いけるけど、いいの?」

「もちろんだよ。見つからないように来られるだろ?」

「うん、いける」

「イタズラなら、黒戸が家に出入りする姿がなければすぐに諦めるよ」

「私もそう思う」

電話が切れたあと、染谷先輩の話をふと思い出していた。