竜騎士07 ロングインタビュー
2005年、文芸誌『ファウスト』に掲載された伝説のインタビューが、6年半の時を経て蘇る!
解題
2005年5月、文芸誌『ファウスト vol.5』(講談社)に竜騎士07氏のロングインタビューが掲載された。各方面から注目を浴びていた『ひぐらしのなく頃に』が、目明し編の発表でいよいよ解答編に突入した時期である。
「なぜ文芸誌が竜騎士07氏を取り上げるのか?」
「ゲームと文芸は相容れないのではないか?」
中にはこのような疑問を抱く読者もいたようだ。しかし単に「話題作だから」という理由で特集が組まれることは決してない。これは「文芸誌『ファウスト』に掲載する確たる理由」があったことを意味する。
――答えはすべて、このインタビューの中にある。
インタビュアーは『ファウスト』編集長・太田克史氏。そして作家でありゲームのプロフェッショナルでもある渡辺浩弐氏だ。竜騎士07氏のバックボーンと創作のルーツ、そして『ひぐらし』が持つ構造に、両氏ならではの切り口で迫っていく。
竜騎士07氏は半年後の『ファウスト vol.6 Side-A』および『Side-B』において、小説『怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る』を発表する。〈竜騎士07という人物の個性とその行き先〉をテーマにしたこの特集は、「同人ゲーム作家」にとどまらない「小説家・竜騎士07」のプロローグと言える。
6年半の時を経て蘇る、貴重なインタビューの再掲である。
KEIYA
―― 竜騎士07さん、『ひぐらしのなく頃に解』「目明し編」の完成、そしてリリース、本当におめでとうございます。竜騎士07さんのこの一連の作品は僕が言葉にするまでもなく、まぎれもない傑作です。最高に楽しませていただきました。
竜騎士07(以下、竜) ありがとうございます。ホッとしますね。
―― 「目明し編」を解答編だと位置づけると、『ひぐらしのなく頃に』の「綿流し編」がその問題編と位置づけられるわけですけど、僕は文芸の編集者になって初めて、ノベルゲームの文章のみをそっくりそのまま抜き出して講談社ノベルスにしてみたいと思いました。
竜 よろしいんでしょうか(笑)?
―― もちろん、僕はふだんはこんなことは間違っても思いついたりはしないんです。芸のないノベライズは嫌いですし、僕はノベルゲームとは小説そのものではなく、小説を主たる一要素として利用した新しい表現の様式だと考えていますから、そのような行為は本来は表現に対する大きな勘違いであり冒瀆です。でも、『ひぐらしのなく頃に』は特別なんですね。この作品は従来の小説やノベルゲームの表現の次元を拡げた、物語の新しい語り方の可能性を提示する「発明」だと思います。この「発明」のすごさは、小説という様式にコンバートしたとしてもなんら損なわれるものではないと思います。ですから、『ひぐらしのなく頃に』全編の完結後に、改めて竜騎士07さん宛てに正式に企画書を送らせていただきたいと思っています。
竜 たいへん嬉しいお話ですけれど、なんだか怖いです。でもその前に私が『ひぐらしのなく頃に』を完結させることが先かもしれませんね。がんばります(笑)。
―― 全編完結は来年の夏の予定だと伺っていますから、これからが真の勝負どころですね。この楽しみがあと一年以上もつづくかと思うと焦らされるとともに本当に嬉しいかぎりです。さて、このたびの『ファウスト』Vol.5では、竜騎士07さんの『ひぐらしのなく頃に』を特集させていただくわけですが、その契機についてまず初めに編集長の僕から簡単に述べておきたいと思います。僕は昨年の夏の終わりに『ひぐらしのなく頃に』を初めてプレイさせていただいたんですが、本当に強く驚きました。というのは、僕は『ファウスト』の編集長としてその夏に刊行した『ファウスト』Vol.3では奈須きのこ、原田宇陀児、元長柾木の三氏の競作企画という切り口で「新伝綺」特集を行ったのですが、その特集の巻頭言で僕が述べた「日常と非日常」をめぐる境界を物語で描くということを、奈須さんたちが出てきた美少女ゲームというジャンルで行っている人が他にも同時に存在していたんだというシンクロニシティに衝撃を感じたんですね。そこで、これは是が非でもこの才能に『ファウスト』で新作を書いてもらわないと! と思って、竜騎士07さんに連絡をお取りして馳せ参じたわけです。
竜 太田さんと初めてお会いした当時は、『ひぐらし』以外でも何か頑張ってみたいという情熱があったので、タイミング的にはとても興味深いお話でした。あいにく私はほとんど活字を読まない人間ですので、『ファウスト』のことは失礼ながら存じ上げなかったのですが、尊敬する奈須さんが小説をお書きになられていたので、この雑誌は注目しておかないと、と思いました。
―― ありがとうございます。さて、『ファウスト』はゲーム雑誌ではないので、『ひぐらしのなく頃に』を特集するにあたってゲーム攻略をしてみてもしょうがないと思います。そこで、『ファウスト』では竜騎士07という人物の個性とその行き先に着目してみたいと思います。本日は後日に予定している竜騎士07さんと奈須きのこさんとのトークセッションに先駆けて、竜騎士07さんにロング・インタビューを行わせていただきたいと思うわけですが、そのインタビュアーには渡辺浩弐さんを指名させていただきました。ご存知のように、渡辺さんは日本ゲーム界の黎明期からシーンと伴走しつづけてきた日本ゲーム界の生き証人のような方です。また、『「ひらきこもり」のすすめ』(講談社現代新書)などの著作活動を通じて、「個」が世界に対して発信していくための状況を後押ししようともしていらっしゃる。このように渡辺さんは竜騎士07さんが出現してきたバックボーンをつくってきた一人でもあるわけで、『ファウスト』でのインタビュアーとしてはこれ以上適任な方はいないと思います。
渡辺浩弐(以下、渡) よろしくお願いします。
―― 竜騎士07さんと最初にお会いしたときのことですが、僕が思わず言葉を失った衝撃の事実があります。それは竜騎士07さんはノベルゲームの世界から純粋培養的に出てきた才能だということに気づいたときのことなんです。僕は『ひぐらしのなく頃に』をプレイしている最中からずっと、竜騎士07という人は新本格ミステリ以降のミステリ・シーンにどっぷり浸かっている人にちがいない、横溝正史も大好きにちがいない! と勝手に確信していたのですが、全然そうではなかった(笑)。講談社ノベルスの編集者として、これは困ったなあ、と思いましたね。たとえばあの奈須きのこさんにしても、明らかに新本格ミステリの流れのなかから出てきた才能で、編集者としての僕の文脈にきわめて近いところに位置している才能だったんですね。でも、竜騎士07さんはその点で奈須さんとはあきらかに違う。なにしろ初対面のとき、「京極夏彦」の名前もつい最近までご存知なかったと仰るわけなんです。これはどういうことだ? と。
竜 京極さんのお名前は、ファンの方から伺ってはじめて知りました。その方も「竜騎士07さんはきっと京極さんを好きでしょう」と仰っていたのですけれど……(苦笑)。今にして思うと京極さんほどの方のお名前を存じ上げていなかったことがとても恥ずかしいです……。
―― しかし、僕はその後コペルニクス的に考え方が変わったんです。どういうことかというと、竜騎士07さんが出現してきたノベルゲームという世界は現時点で我孫子武丸さんがシナリオを担当されたあの『かまいたちの夜』(注1)から考えてすでに十年以上もの歴史があるんです。つまり、“そこ”からのみで才能が出てくるだけの豊かな土壌がもうノベルゲームという世界には長い時間とともに蓄積されてきたんだ、ということに気づいたんです。それに、僕の愛する新本格ミステリのエッセンスは我孫子さんを通じてノベルゲームの出発点にきちんと存在しているじゃないか、と。そういうわけで、このインタビュアーはゲームとミステリの両方がわかる人でなければいけないと思って、昨年暮れに渡辺さんに『ひぐらしのなく頃に』を送りつけて、「すごくおもしろいですから、ひとつ太田にだまされたと思ってプレイしてみてください!」、と。たぶん渡辺さんは半信半疑だったと思うんですけど(笑)。
渡 いやあ、実際にプレイしてみたら画面の前で拍手ですよ、スタンディング・オべーション!(笑)この正月は『ひぐらしのなく頃に』三昧でした。「綿流し編」と「目明し編」の緻密に対応する構成には本当に感心しましたしね。とにかく今日はよろしくお願いします。
竜 こちらこそよろしくお願いいたします。
ものをつくる飢餓感
渡 竜騎士07さんは、奈須きのこさんと同じ世代なんですよね。
竜 そうですね。ちょうど任天堂のファミコン世代ですね。私が小学生のころにファミコンが大流行したわけなんですけど、私の父はゲームというものが大嫌いで、私の家にはファミコンがなかったんです。その当時に感じたゲームに対する飢餓感が今に繫がっているという部分は確実にあります(笑)。
渡 深刻ですね(笑)。
竜 その一方で、なぜかパソコンは持っていたんですよ。NECのPC-8001(注2)が全盛の時代で、『ベーマガ』(注3)に載っていたBASICで書かれたゲームのプログラムを打ち込んで遊んでいましたね。完全に自給自足の世界でした。だから『インベーダー』や『ブロック崩し』にも満たないようなすごく簡単なゲームしか自宅では遊べなかったわけなんですけど、プログラムのソースがわかっているので、自分の気に入らない部分を自由に改造できるんですよね。「UFOの形を変な形にしてみよう」とか(笑)。そうやって自分なりに改造したものはある意味では自分の作品になるんですけど、それを友だちに見せてみても誰も遊んでくれないんですよ。当たり前なんですけど、ファミコンで発売されているゲームのほうがよっぽどおもしろかったですからね。だけど、曲がりなりにも自分が工夫した部分があるゲームだから愛着があって、なんで私の作ったゲームをやってくれないんだ、と思って、悔しくて。自分の世界を他人に見てもらいたい、という欲求がそのころから強烈にありましたね。
渡 クリエイターとしてはある意味では理想的なスタートですね。
竜 そうでしょうか(苦笑)。その後、中学に入学したあたりから、そんな「自分の世界を他人に見てもらいたい」という欲求がマンガを描くことに向けられるようになったんです。当時、私のまわりでは絵を描ける奴なんてほとんどいなかったし、いわゆる今のオタク文化なんてまったくなかった。だから自分の世界を他人に見てもらうにはちょうどマンガが手ごろな媒体だったんです。なにしろマンガならゲームとはちがって、誰もが気軽に見てくれますからね。でも、高校に入学したあたりくらいから、自分よりも絵が抜群にうまい人が頭角を現してきてめげてしまうわけですけど(苦笑)。ちょうどそのころですかね、コミケの会場が晴海から有明に移った(注4)あたりで、いわゆる同人活動に興味を持ちはじめるんです。だけどまだ自分のサークルとかはなくって、他人のサークルに出入りしてイラストの色塗りだけをちょこちょこ手伝ってみたりとか。たまにゲームのシナリオを書いてみても、サークルの上の人にあっさりダメ出しをされたりして、結局はフラストレーションが溜まってましたね。
渡 それが高校のころなんですよね。社会人になってからはどうされていたんですか。
竜 高校卒業以降、しばらくは同人活動の空白期間があるんです。「07th Expansion」という今のサークルをつくったのは五年くらいまえです。
渡 マンガを描かなくなってしまったのはどうしてなんですか。
竜 自分のマンガの技量では自分の頭のなかの四次元の世界を描けなくなってしまったからですね。たとえば、「銀座のどまんなかに怪獣が!」というシーンを描こうとしてみても、私のマンガの技量では肝心の銀座の街並みが描けないんですよ。自分の描きたいことが描けない。つらかったですね。自分の技量で描ける低いレベルに発想を合わせないと、表現というものができなくなってしまっていたんです。でも、文章なら表現できるんです。だけど同人活動だとそれが簡単ではなくて。
渡 それはどうして簡単ではなかったんですか?
竜 同人活動ではマンガやゲームのジャンルとは違って、文章という表現では他人に注目してもらえなかったんです。コミケでも小説系のサークルのある場所は「高速道路」なんて陰口をたたかれていましたから。
―― 「高速道路」? それはどういう意味なんですか?
渡 他の場所が混んでいるから、迂回路に使うっていう意味ですね。他には「アウトバーン」なんてひどいこともいわれていました。
―― なるほど!(笑)ひどいなあ。でも、奈須さんの『空の境界』の原型となった小説もコミケで売れたのはわずか六部のみと伺っていますから、そういった蔑称が存在することじたいはさもありなんといった感じですね。
竜 そのころの私は、他人に見てもらえない限りは作品を発表する意味がないと思っていました。それで自分のサークルの最初の作品にはカードゲームというジャンルを選んだんです。当時は『リーフファイト』というカードゲームがたいへん流行っていまして、これのオリジナルカードをつくってみんなに遊んでもらおう、と。そのころの同人活動はいわゆる二次創作じゃないと他人に相手にされない時代だと思われていたし、私自身もそう思い込んでいたんです。でも、ちょうどその瞬間ですよね、武内崇さん、奈須きのこさんが主宰しているTYPE-MOONさんの『月姫』がオリジナルの同人作品として大ヒットして、同人活動の世界にどがーんと風穴を開けたんです。
―― ものすごい盛り上がりがありましたからね。僕のような同人活動の外側にいる人間にもその熱さが伝わってきましたから。
竜 (頷いて)で、私が『月姫』ってすごいなあ、と感心していると、現07th Expansionスタッフの八咫桜さんが「今、『月姫』が使っているノベルゲームのソフトの勉強をしているんだよ」って私に教えてくれたんですね。「『NScripter』っていうんだけど、これ、おもしろいよ」って。それで、じゃあ次はそのソフトを使ってサウンドノベルをやってみようか、という話になったんです。それが『ひぐらしのなく頃に』なんです。シナリオのメイン部分は、以前演劇の脚本をやりたいな、と思っていたときに書いた『雛見沢停留所』という作品が元になっています。
渡 今ちょっと思ったんですけど、竜騎士07さんのなかで、ゲームのシステムと、物語というのは一緒のものとして頭のなかにあるんですか。
竜 システムにしても、物語にしても、それこそゲームのパッケージにしても、すべての要素は私の頭のなかの世界を表現するためのものだと思ってます。すべては一緒のものですね。
渡 やっぱりそうなんですね。ゲームって、本来はそういうものだと僕も思うんですよ。ゲームのパッケージというのは閉じていますよね。プログラムによって時間と空間とがパッケージの内部に静止していて、それがスタートボタンをポンと押すと同時に時間が動きはじめて、プレイヤーの色々な対応に反応して物語が展開していく。ゲームっていうのは本来はそういう一連のシステムでできているんですけど、『ひぐらし』の物語構造はそれをすごく強く意識していると思うんですよ。つまり、「システム=物語」になっているんです。今、ゲームをつくっている人はみんなその両者の関係性で悩んでいるんですよね。システムを充実させれば物語性は低くなるんじゃないかとか、物語を中心にするとゲームじゃなくて映画になっちゃうんじゃないか、とかって。とくに大手のお金を持っているメーカーが苦心していて、ノベルゲームでフラグ(注5)を尋常ではないくらいにつくり込んでいったときに、選択肢をしらみ潰しにしていくおもしろさがゲーム的には受け入れられているけれど、それはもういわゆる物語ではなくなっていたりもする。逆に、RPGでフルCGのムービーを長大につくり込んでしまって、とうとう『ファイナルファンタジー』みたいに映画そのものになってしまう場合もあるわけです。
竜 『ひぐらしのなく頃に』がノベルゲームという形になったのは、たまたまなんですよ。もし八咫桜さんが「今度ビデオカメラを買ったんだけど、なかなかおもしろいよ」なんて言っていたら、『ひぐらしのなく頃に』は映画になっていたかもしれない。私にとっては、どういう方法で表現するか、というのは実は微細な問題だったんです。もちろんゲームが好きだったので、私自身が理解しやすかった、というのもありますけど。
渡 竜騎士07さんにとっては「物語=世界観」を表現すること自体が一番大切なことであり、それを乗せる場所がたまたまノベルゲームだったということですか。
竜 そうですね。ノベルゲームは文章がメインの表現でありながら非常にグラフィカルで、また音楽という強力な演出があるから、たまたまその方法を選んでいるだけです。私はそれほど国語力がないので、音楽の支援はありがたいですし。
渡 いや、国語力はありますよ(笑)。なんらかの文章修業を一定期間はされていないと、こういう文章はなかなか書けないと思うんですけど。以前に文章は書いていたんですか。
竜 『ひぐらしのなく頃に』以前に途中で企画が潰れてしまったノベルゲームがありまして、そのシナリオを書いたりはしていましたね。そういうものだけで、本にしてだいたい五、六冊分の文章は書いていますね。
渡 そのゲームの企画はどうして潰れたんですか。
竜 絵描きの人が途中でサークルから抜けてしまいまして……。せっかく苦労してシナリオを書いたのに、絵描きがいないというだけでゲームが出ないのが悔しくて……。じゃあ今度は自分で絵も描いてしまえ、という想いでつくったのが『ひぐらしのなく頃に』なんです。
渡 じゃあそのゲームのシナリオじたいは完成していたんですか。
竜 一応はできていますね。
渡 読みたいなあ。
竜 今見るとありふれたシナリオで、恥ずかしいので出せないです(笑)。
渡 本当ですか? いつか見せてください(笑)。次の質問ですが、太田さんから伺ったところによると、竜騎士07さんは本はあまりお読みにならない――ということは、文章も小説からは直接に影響を受けていないわけですよね。純粋にノベルゲームをやったり自分でシナリオを書いてつくり上げていったものだと。それでは、他になにか影響を受けたものとか、感動したものってありますか。たとえば映画はお好きなんですか。
竜 (即答する)よく見ますよ。感動というと、スピルバーグ監督の出世作に『激突!』という作品があって、あれには衝撃を受けました。『激突!』は実はテレビ用の作品なんですよね。それもデビュー当時はまったくの無名だったんです。あのスピルバーグ監督にして最初から華々しいデビューではないというのを聞いて、まったく苦労しない天才はいないんだ、と思いましたね。そのエピソードに勇気づけられている部分は大きいと思います。
渡 そのほかには?
竜 『ひぐらしのなく頃に』に影響を与えたという意味でいうと、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』ですね。あの映画からは作品の内部と外部がつながって作品を盛り上げていくやり方を学ぶうえで強い影響を受けています。TIPSで物語の外枠を語る、という演出も『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』から引っ張ってきていますね。あの映画のパンフレットは本当に良くできていて、あれは映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のTIPSそのものだったんです。
怖くとらえる能力
―― それにしても『ひぐらしのなく頃に』は怖いですよね。あの「怖さ」って、どこからやってきているんでしょうか?
竜 世のなかには色々と怖いことがありますけど、その元になっているのは結局、「誤解」ということにつきると思うんです。『ひぐらしのなく頃に』の原型になった演劇の脚本、『雛見沢停留所』は、たった一つの誤解から言い知れない恐怖が生まれる、というプロットの作品だったんです。誤解とか勘違いって、本当に怖いんですよ。たとえば、太田さんがこの応接室を出るときにドアノブを右手で触ろうとして、途中で急に左手に変えたとしますよね。それを見た私は、「講談社の二十六階の応接室のドアノブは右手で触るとなにかヤバいことが起こるのか? ついさっき私は右手で触ってしまったのに!」って考えると思うんです(笑)。でも太田さんは、実は右手にちょっとした切り傷があったことにそのとき気がついただけかもしれない。でも、それは私にはわからないから、色々と悪いほうへ悪いほうへとだけ考えてしまう。そこに恐怖が生まれる。これが誤解することによるホラーの誕生です。さらに、私がその話を他の人に伝えたとしますよね。それが世のなかを回り回って私自身のところに「講談社の二十六階の応接室のドアノブはヤバいらしい」なんて返ってきたら、より信憑性を増すわけです。
渡 自分が言いだしたことなのに(笑)。
竜 でもそれが本人にはわからないんですよね。こういうことが『ひぐらしのなく頃に』のなかには、いろいろと起こっているんです。それをできるだけ効果的に演出しているだけなんです。
渡 竜騎士07さんって、怖がりなほうですか?
竜 怖がりというより、なんでも怖くとらえることのできる能力があるんですね(笑)。
渡 どういうものが一番怖いんですか。
竜 人が一番怖いですよ。たとえば相手の返事が一瞬遅れただけで、「この人はきっとなにか理由があって躊躇したんだ――」って思ってしまう。本当はきっとなんでもないことなんですけど、その一瞬の瞬間に私はホラーを感じるんです。
渡 まさにホラー製造マシンですね(笑)。そんな感じだと、たとえばエスカレーターでみんなが左側に寄るのとかっていうのも怖くないですか。
竜 いやあ、怖いですよ。エスカレーターって、東京だと左側に並びますけど、大阪だと右側なんですよね。大阪から旅行にきた人が、いつものように右側に乗った。それでふっと前後を見たら、みんな左側に寄っている。奇異に感じて思わず周りを見渡すと、その周りの人の目が、自分を非難してるように見えるんです。でも、この人は「東京ではエスカレーターに乗るときは左側に寄る」というルールを知らないだけなんです。しかもそのルールは全世界共通でもなんでもない、局地的なものなんですよ。それでもルールは破れない。そしてルールを破ったときにはそれに応じた報復がある。『ひぐらしのなく頃に』では雛見沢というムラ社会の恐怖を描いていますけど、あの恐怖はこの局地的なルールに由来する問題が非常に大きいんですね。
渡 「思いこみ」っていう問題ですね。ほとんどの人間は実は思いこみだけで行動しているんですよ。本当の世界の実像が全然ちゃんと見えていない。たとえば今僕たちの目のまえには烏龍茶がありますけど、これ、中身が麦茶でもきっと僕たちは気がつかないと思います。
―― そういえば、これはついこのあいだ知ったニュースですけど、「さくらんぼジュース」と称して「りんごジュース」を売っていた詐欺的事件が実際に日本でありまして、でも現実にはジュースを飲んだ人は告発があるまでほとんど誰も味の違いに気がつかなかったそうですよ。
渡 みんなシャットアウトしてる部分があるんですよ、意識を。そのおかげで恐怖にも気づかないんですけど……竜騎士07さんの場合は常時意識が覚醒しているんでしょうね。
竜 決してそれで得はしてないと思いますけど(笑)。私とは真反対で、いつもポジティブに、楽しく物事を考えられる人のほうがきっといい人生を送れると思います。私のようなタイプだと、心の修行をしないと引きこもりになる可能性がありますから。
渡 できるだけ楽な見方を心がけて精神状態をフラットにしていくことが、社会的な生活を円満に送れるトレーニングになる部分はありますよね。
竜 そうですね。よく「鈍感になれ」っていいますよね。あまり細かいことを気にしないでいるほうが人生は楽なんです。逆に「自殺する人には、よく気がつくいい人が多い」ともいいますよ。他人に迷惑かけないように自己世界で一生懸命完結しちゃおうとするのが精神に悪いんでしょうね。
本当に「怖い」ものとは?
竜 『ひぐらしのなく頃に』をプレイしてくれた方から「鉈を持った女の子から追いかけられるのは本当に怖いですね」っていうことをよく聞くんですけど、『ひぐらしのなく頃に』で本当に怖いのはそこじゃないと思うんです。あの雛見沢という村で起こる怖さは、別にゲームのなかだけのことじゃないんです。あれは身近な世界にある怖さなんです。この大都会の東京にもあの怖さは至るところにあります。それが、私の文章力のなさのせいか伝わってない部分が多くって。
渡 いや、十分に伝わってきますよ。現実の向こう側にある別世界は時間と空間を閉鎖することによって、無限になるんです。その無限の世界は楽しいんだけど、実はすごく怖いものなんだ、っていうことを日本人全員が忘れたふりをして、見ないようにしているのが今の日本の社会構造なんですよ。こういった日本の社会構造を、『ひぐらしのなく頃に』ではゲームという閉じた空間と、雛見沢の閉じた空間とを一体化することによって表現しているんです。
竜 (頷いて)日本自体が閉じているんですよ。今の日本って本当に怖いところなんです。人間と人間は本来、威嚇しあって生きている。刃物をお互いに持っていて、その刃が届く間合いには決して近寄らないようにして人間は本来生きているんですけど、日本人はいつの間にか、お互いが刃物を持っているということを忘れてしまっているんですよ。世界は怖くないと思いこんじゃっている。
渡 ふだんは怖くない一面を見てるんだけど、実はその一面の薄皮を一枚剝いだら恐ろしい世界で。『ひぐらしのなく頃に』ではその世界がときどきめくれて見えている。
竜 昔はお互いが腹を割って許し合える時間と場所が共同体で用意されていたんですけどね。たとえば酒宴の席ってそうなんですよ。
渡 ムラ社会では、一年に一度の祭りのときに人間関係をリセットできるようになっていたみたいですね。村八分になっていても、祭りの日をきっかけにムラに戻ってこれるチャンスがあったんですね。
竜 なにかタブーを犯すようなことをやってしまっていても、例えば隣人に理不尽にキレて制裁を受けていたとしても、どこかで許される仕掛けが用意されてあったんですよね。もちろん日本人のほとんどはキレること自体をとても恥ずかしいことだと思っているので、ふつうはそうはならないですけど。そういえば一時期、主人公がキレるマンガが流行りましたよね。あれは「キレられない日本」という背景があったからこそおもしろさが成立していたんです。でも、今の若い世代はそういったキレるマンガの影響もあると思いますけど、キレることがタブーじゃないんです。これも怖いですよね。
日常に溶け込んだ狂気の世界
渡 竜騎士07さんがホラーにはまるきっかけになった、人生で最初に「怖い」と思ったことってなんですか。
竜 小学校のころなんですけど、友だちの家に遊びに行ったときは必ず「〜ちゃん、あーそーぼ」っていうじゃないですか。あれは魔法の言葉で、それに対して「いーいーよ」って返すのが定型文なんです。それは絶対に起こることだったんです。ところが私はあるときに、「やーだーよ」っていわれたんですよ。定型文が裏切られたんですね。だから息が止まって動けなくなるくらいビックリしてしまって。そのとき、本当に「怖い」と思いました。決まりきったはずのことが、突然、まったく違うものになる恐怖。それが私が人生で最初に感じた「恐怖」です。私は当時、最初にお話したようにファミコンを持っていなかったこともあって、学校社会でだんだん孤立してきていたんですね。だって、私はゲームのカセットを一本も持っていないわけで、いつも他人の家に行って他人のゲームを遊ばせてもらっている。自分のカセットを手みやげにしたことはない。一度や二度なら許してもらえるんでしょうけど、私の場合はいつもでしたから、ある日、「やーだーよ」といわれてしまったわけです。その後も、私はしばらくのあいだ学校でいじめられていた時期があったんです。それはまた別の理由があったんですけど、問題だったのは、私がいじめられていた理由を知らない奴までがいじめる側に回るようになったんです。みんないじめられる側は嫌だから、いじめる側に必死で立とうとするんですね。
渡 怖いですね。学校も雛見沢同様に小さな閉じたムラ社会なんですね。
竜 そうなんです。学校ほど怖い社会も世のなかにないんです。掃除の時間に、一緒に掃除していた女の子が「突然ほうきで殴られた」っていうんですね。で、近くにいた私に「殴ったでしょ!」って怒るんですけど、私はなにもしていない。先生がやってきて、両者の話を聞いているときに、違う女の子が「あたし、叩いているところを見ました!!」っていうんです。それだけで、もう先生のなかでは私が加害者で噓つきだと決まっちゃうんですね。それは本当に「怖い」と思いました。実際の社会だったら、裁判とか訴訟とか、人を罪人にする際にはそれなりに慎重になるはずなのに、学校という閉じた世界では簡単に判決が出てしまう。怖いですよ。私、機会があればそのうち小学校を舞台にしたホラーをやりたいと思っています。
渡 そういった閉鎖的な空間というのは怖いんですけど、学校のなかにしても、山奥の村にしても、ぬるま湯的な表面だけとつき合っていくかぎりは幸せなんですよ。
竜 そうですね。
渡 それって、村とか学校だけじゃなくて、ふつうの会社とか、友だち関係もなんですよね。
竜 結局日本人は「見て見ぬふりの文化」なんですよ。
渡 島国だから、みんながルールを知ってさえいれば、すべてをなあなあにできるっていう前提がある。
竜 たとえばアメリカだと自由に個性を主張できるけれど、日本だとそれこそ他人と肩がぶつかるのをいつも気にしてないといけないんですよね。でもそこさえ気にしていれば、ぬるま湯の生活を暮らすことができるんです。
渡 一般的なギャルゲーって、そのぬるま湯的な時間がほとんどじゃないですか。なにも起こらないだらだらした状態が続く状態を楽しむんですよね。『ひぐらしのなく頃に』はそのギャルゲーのフォーマットをメタ的に利用しているんですよ。そういう使い方をできる竜騎士07さんが一番悪意があって怖いなあって思います(笑)。
竜 ギャルゲーって、人生の有頂天を楽しむものなんですよね。女の子と親密になるのって仮想空間であっても楽しいですよ(笑)。
渡 でもその状態って、本当は有限なものなんです。それをゲームというパッケージに閉じこめることによって、無限のループにする。だからどんな人間でも、その世界に閉じこもってしまえば無条件に楽しいんですよ。ところがそういう幸せな人間が、実はその楽しい時間は有限でした、っていうことを知ったときはものすごい衝撃になる。
竜 そうなんですよ。今の日本人は楽しい時間しか知らないんです。昔は世界に存在している恐ろしい一面をお互いによく知っているからこそ、「親しき仲にも礼儀あり」だったんです。でも親しくあれる時間があまりにも長つづきしすぎて、日本人は恐ろしさを忘れてしまった。なあなあになっているそもそもの理由を忘れてしまったんです。だから暖かな時間が世界のすべてと信じるようになってしまった。
―― そこで生じてくるのが竜騎士07さんの仰っている「誤解」の恐怖ですよね。
竜 (頷いて)たとえばギャルゲーでも、女の子が主人公に他人の悪口を絶対に言ったりしないのは、他のライバルの女の子に悪評が拡がるのを恐れているだけだからかもしれない。『To Heart』(注6)でヒロインの神岸あかりが主人公にべったりくっついているのは、主人公を他の女の子からガードしているからかもしれない。あのシチュエーションは、絶対ホラーですよ!(笑)ただ、ゲームではあのシチュエーションを主人公の目線だけで描いているから、主人公がちやほやされているように見えるんです。もっとも、『To Heart』は制作者サイドがそこまで十分にわかって意識的につくってるから、うまいと思いますけど。どうも最近のギャルゲーはそうじゃない気がします。
渡 ぬるま湯状態だけが一人歩きしてますよね。なにも起こらない時間を無理矢理つくっているような。
竜 アメリカ的な権利主張型社会に日本がなってきているのはそのせいもあると思うんです。みんなぬるま湯しか知らないから、いざとなると先に手を出そうとする。これもある意味ホラーですよね。
渡 どろどろしたものを、たまに見せないといけないとは思うんですよ。それって本来はメディアの役割なんですけど、日本のメディアにはそれがまったくないんですよ。
竜 今の若い人たちはそういう部分を知らない。そんなふうに真実の部分を知らないままでいると、それでもたまに垣間見える世界の狂気に対して、怖がりすぎちゃうんです。だから周りの変化にうまく対応できなくて引きこもりになったりするんです。
渡 今まではすべてがぬるま湯であるようにごまかしてきたんですよね。でもごまかす時間が長すぎたせいで、このまま永遠にぬるま湯がつづくんだ、っていう勘違いが蔓延していますよね。
竜 永遠なんてないんですよ。だからこそ憧れる部分があるわけで。有限であることに気づけた人じゃないと、社会の恐ろしさはわからないんです。
―― 現実はものすごく恐ろしい世界……。
竜 そうなんですよ。なぜみんなルールに従うかというと、破ると恐ろしい目に遭うからです。一皮剝けばなにが起こるかわからないのが現実の世界なんです。
渡 今の日本のような平和な世界は噓の世界ですからね。この先ずっと戦争が起こらない、誰も飢え死にすることはないなんて、基本的にはあり得ないですから。
竜 戦後の日本は、必死に努力して理想に、平和に近づけようとしてきたわけですけど、それは成功といえば成功だった。でも誤算だったのは、あまりにも満たされ過ぎちゃって、世界は本当は恐ろしいということを忘れてしまった。すると、十満たされたとしても、たった一満たされないだけでものすごく不満に思ってしまうんです。昔なら、恐ろしい現実を知っているから、十満たされなくてたった一満たされただけでもありがたいと思うわけですよ。そんなふうに一満たされないだけでキレるような、そういう人間になって欲しくない。そのために現実にある怖さを知ってほしい、というのが『ひぐらしのなく頃に』に隠したメッセージのひとつですね。基本的にはエンターテイメントなんですけど、そのあたりのメッセージに気づいてくれれば嬉しいです。
渡 『ひぐらしのなく頃に』が最後まで完結して、『ひぐらしのなく頃に』の世界が日本じゅうに浸透して、竜騎士07さんの頭のなかの世界を共有できる人がいっぱい出てくるんじゃないかな、という期待がありますよ。そこまで行くと、寝てるときも恐怖でうなされそうですけど(笑)。でも世界を理解させる、っていうのはそういうことなんですよ。今の日本の教育は世界を理解させない方向にだけ進んでいるのが問題なんですよ。本当は表だけじゃなくて横とか裏とか、世界を構成している色々な側面を立体的に見せないといけないのに、表にある理想的な世界だけを教えている。
―― 表だけを教えて、全員がそれに従えばうまくいく、っていうことですよね。
渡 でもそれは幻想なんですよ。本当はそうじゃない。
竜 大人は苦労して今の世界を作ってきたから、子どもだけは理想的に育てたい、と思ったんでしょうね。でも、理想のなかだけで育った子どもからすると、それはただの標準なんですよ。
―― 『ひぐらしのなく頃に』の「鬼隠し編」の前半、だらだらとした日常が延々とつづくところって、ひどい言いかたをすると、ものすごくつまらないんですよ、微温的すぎて(笑)。でも、その微温的な日常の部分の構築がしっかりしていないと、綿流しの夜以降の後半があれだけ怖くならないと思うんです。僕が好きな映画にマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』っていうロバート・デ・ニーロとクリストファー・ウォーケンが主演したベトナム戦争の映画があるんですけど、『ひぐらしのなく頃に』の構造はその映画にすごく近いんです。どういう構造の映画かというと、アメリカの田舎町に住む、これからベトナム戦争に出征していく男たちを中心に彼らの一人の結婚式のパーティーの場面を映画の最初の一時間くらいをかけて延々と映してるんですね。正直、ベトナム戦争の映画を観ようと思って映画を観ているのに、アメリカのどうでもいい田舎の日常をじっと一時間観つづけるのって退屈ですよ(笑)。で、「そんなのはいいから早く戦争シーンを見せろよ!」なんて物騒なことを思わず思ってしまうんですけど、ちょうどそう思ったあたりで、すべてをすっ飛ばして、デ・ニーロたちがベトナムの敵地でベトコンに捕虜にされて彼らのギャンブルのために仲間どうしでロシアン・ルーレットを強制されるという戦場のギリギリの極限状態にいきなり場面が切り替わるんです。その切り替えがうまいんですよ。そこが『ひぐらしのなく頃に』の構造と似ているところで――前半のだらだらした日常の世界の場面をしっかり構築しておかないと、後半の狂気の世界はうまく描けないんですね。
竜 よくわかりますね。スティーブン・キングが「もしも私がホームドラマをつくるなら、最後の一話以外はふつうのホームドラマにするだろう」っていうようなことを発言しているんですよ。ものすごく共感しますね。もっとも、キングみたいな巨匠じゃないと、途中で放映を止められちゃう場合もあるはずなので、実際にはなかなかできないと思うんですけど(笑)。『ひぐらしのなく頃に』もそのあたりの日常と非日常の切り替えのタイミングのさじ加減はすごく悩みました。
渡 そのあたりは本当に計算しつくされてますよね。しかも前半は、ギャルゲーユーザーが喜ぶように、しっかり仕上げてあるじゃないですか。
―― それが竜騎士07さんの底なしの悪意なんですけどね(笑)。その悪意にみんなやられてしまうんです。
竜 一番最初のオープニングだけは摑みのために残酷にしておいて、前半はあえてまったりとした日常の時間だけをプレイヤーに届けているんです。すると後半でコロッとひっくり返る瞬間が物語の最高の醍醐味になるんです。本当はジャケットもギャルゲーっぽくしたかったんですけど(笑)。
渡 偽のジャケットをつくればいいんじゃないですか。『ひぐらしのなく頃に♡』みたいにハートマークをつけてみたりして(笑)。
頭のなかに広がる四次元の世界
渡 『ひぐらしのなく頃に』の「目明し編」をプレイしてみると、「綿流し編」との緻密な呼応に驚きます。個々のキャラクターの設定だとか、マップだとか、時代的なシチュエーションなんかのすごく多面的な『ひぐらしのなく頃に』の世界が竜騎士07さんの頭のなかに完全にないとこういうものはつくれないと思うんですよ。
竜 そういう世界は確かにありますね。『ひぐらしのなく頃に』のストーリーは、起承転結からつくったんじゃないんです。まずはあの雛見沢という舞台の環境や歴史からつくっていったんですね。それができたら、今度はキャラクターという駒をつくった。そして各キャラクターに目的を与えたんですね。するとそれぞれのキャラクターは、自分の目的にそって舞台となる雛見沢を動くんです。これ、実はTRPG(注7)的な物語構築の手法なんですね。登場するキャラクターはみんなNPC(注8)で、自分の勝利条件に従って勝手に動く。で、そんなふうにキャラクターが自律的に動いている世界を、主人公である前原圭一視点にそって切り取っていくと、最初の「鬼隠し編」ができる。でも、実際には圭一に見えていないところで色々なキャラクターが自由に動いているんですよ。だけど圭一にはその結果しか見えないから、彼にとっては不思議なことが次々に起こっているように見える。それが「鬼隠し編」のからくりです。次に、いったん時間をまっさらの初期段階に巻き戻して、スタート地点の駒の立っている位置を少しだけ動かしたんですね。すると今度はそれが「綿流し編」になる。そんな感じで、物語のルールは一切変えずに、最初のキャラクターの立ち位置の設定を少しだけ変えるとまったく違う物語になるんです。『ひぐらしのなく頃に』の三つのシナリオは、スタート地点でのキャラクターの駒の配置がちょっと違うだけなんです。
渡 共通ルールがあるんですね。
竜 そうです。実は私が推理してほしいのは、事件の犯人じゃなくて、この物語のルールがどんなものかを推理してほしいんですよ。各シナリオの最大公約数的な設定、舞台裏の仕掛けをみんなに見つけてほしい。もしそれがわかれば、私じゃなくても『ひぐらしのなく頃に』の新シナリオはつくれるんですよ。
渡 これはゲームじゃなくて人生観っぽい話になっちゃうんですけど、物理学者の究極の命題として、「宇宙を構成している理論を一行の数式に表せるか」っていう命題があるんですよ。物理学者はそれが解き明かせればこの宇宙そのものを再構成できるはずだ、っていうんです。今の竜騎士07さんのお話と似てますよね。竜騎士07さんは、頭のなかに数学的で立体的な盤面をつくって、その盤面に立つ駒にパラメータとベクトルを与えるということをナチュラルに行われているんですよ。こういうのは、紙の上には書き出せないんじゃないですか。
竜 書けないですね。渡辺さんの仰るとおりです。全部頭のなかにはあるんだけど、文章化できない状態です。よく取材元の方になにか紙資料はありませんか、って聞かれるんですけど、あまりにも少なくて。「レナは『〜かな、かな?』と二回しゃべる」みたいな、自分が忘れないためのメモしかなくって(笑)。
渡 それはすごいことなんです。立体的でありながら、しかも静止していない構造を描くことってなかなかできないんです。立体って三次元ですよね。それに時間の流れを加えると四次元になる。その四次元の世界が、竜騎士07さんの頭のなかに、それも完全な形で存在するんですよ。だからこそ、様々な形の物語が生まれてくるし、「綿流し編」と「目明し編」のように、おなじ時間軸だけど別の視点から、という物語が書けるわけですね。
竜 今渡辺さんに指摘されてみて初めてしっくりくるんですけど、確かに頭のなかにありますよ。なにか、もやもやとした……。
渡 空中に浮いて隔絶された、四次元空間のようなものですよね。
竜 そうです、口では言い表せないものなんです。それが四次元の存在のままでは人に伝えられないので、一部だけ引っ張ってきて、三次元に直して表現しているだけなんですね。
渡 物語にするときに、リニアな、まっすぐな三次元のものに変換せざるをえないというところで、さっきの「誤解のトリック」が出てくるんですね。真実は多面体なのに、その一面だけしか見ないことによって、怖さが表れてくる。
竜 本当は、頭のなかにある四次元空間をそのまま作品にしたいんです。でも四次元空間のままでは他人には見えないままだから、三次元にして、脚色、演出をする必要がある。でも私は文章が下手なので、私が意図した本当の怖さが他人にきちんと伝わっているのかな、って思うときもありますね。
渡 いや、あのテンションはいじらないほうがいいと思うなあ。これから太田さんは講談社の編集者として、小説家・竜騎士07のデビューっていうものを本気で考えていくと思うんですよ。でも『ひぐらしのなく頃に』の画面上で並んでいる文字の羅列そのものが怖く感じられる、そんな竜騎士07さんの特異な才能の現れを、紙の上でどう表現していくか、という点が重要ですよ。それは『ファウスト』でのマルチフォントの試みの一歩先を行くものになると思います。
竜 私のはすごく軽い文章ですけど。
渡 違いますよ、あれだから良いんです。
竜 ありがとうございます。でも軽い文章だからこそ、ぬるま湯だと勘違いしている世間に訴える力があるのかなとも思います。その意味においては、意識的に作った文章なのかもしれません。
渡 きわめて意識的な文章だと思います。
竜 綺麗な文章が書けないから作品はつくれない、なんて今の若い人は思わないでほしいとは思っています。そう、さっき渡辺さんが私の考えにピッタリはまる言葉を仰ったんですけど、一番大切なのは頭のなかにある四次元空間なんですよ。この四次元空間こそが真の意味での作品なんです。でも、そのままでは表現はできないから、なんらかの三次元媒体に落とさなければならない。そのときの落とす手さばきが劣っているからといって、元の四次元の作品が劣っていることにはならないと思うんです。
渡 まさにそうですよ! その四次元空間というか、作家の情念というか、それが一番大事なことだというのは間違いないんです。でも大手のゲームメーカーは個人のなかにあるものをコントロールできないがゆえに、そのあとの作業に力を入れるしかない。それは仕方ないんです。どういう体制でプログラミングするかとか、販売マーケティングをするかとか、そういうことをがんばるしかない。でも不幸なのは、そこだけが独走してしまっていることなんです。物語の枝分かれをどれだけ複雑にしていくかとか、どういう販売促進のキャンペーンを打つかとか、そっちにばかり力がいっちゃって、気づいたときには肝心のメーカーのなかに四次元空間を持った人間があまりいなくなっちゃったんです。
竜 ゲームづくりのうまさっていうのが、三次元化する手法のうまさというレベルにすり替わっちゃったんですよね。その結果、いいゲームをつくる会社っていうのは技術力のある会社だ、っていうことになっちゃって、本当の作品は個人の頭のなかにある四次元の部分のはずなのに、なぜか変換する技術のほうがゲームづくりの本質であるかのように勘違いされちゃっている。元のほうが大切なのに。本来なら、センスのある読者は三次元の部分をジャンプして、四次元の部分を勝手に読みに行くんですよ。「行間を読む」っていうやつですよね。「この人、文章は下手だけど書いてることはすごい」っていう作品がきっとあるはずなんです。
渡 情念がある作品なら、元が百ある作品なら、読者は絶対気づくんですよ。
竜 それが今のゲームなら、たとえば秋葉原のゲームショップの店頭に行けばすぐにわかるんですけど、ゲームの評価のポイントが、CGが何枚収録されていますとか、有名なイラストレーターを起用していますとか、そっちにばかり行ってしまっているんですよね。
渡 立ち絵が何パターンあるかだとかムービーシーンがどれだけ長いかだとか、そういうのはメーカーの勝手な事情というか、もっといえば企業の機動力にすぎないんですよ。そういうものしか評価されなくなってきているから瘦せ細っていくんです。
竜 そうなんですよね。多くの人たちは、どこかで勘違いして、四次元の世界を三次元化する手法だけをひたすら磨いてきた。そして四次元の世界を持っている人は、その世界を三次元化するためには大きな組織に入るしかなかった。唯一私が誇れるのは、三次元化する手法だけを磨くということを考えずに直接四次元を読者にぶつけようとすることができた、というところかもしれません。
渡 それはあの文体のおかげだっていうふうに、僕は感じるんですよ。あの文体はまさに血で書いたものですよ。誰かの真似をしてトレーニングしたりとか、システムに頼ったりしなくても作品はできるということを証明しているんですよね。竜騎士07さんが仰ったように、今の若い人は四次元の世界をいかに手に入れてそれを輝かせるかを考えるよりも、三次元化の技術をいかに学べるか、っていうことだけに心血を注いでいるんですよ。そうすると、たとえばゲームスクールに入ってみたりとか、大きなメーカーに入ってみたりとかっていうコースに行きがちになってしまうと思うんですけど、本当はそれだけじゃないんですよ。
竜 三次元への変換技術は「掛け数」でしかないんですよね。でもそれは違うんですよ! もっと原点の部分が大切なんです。確かに、変換率を百パーセントに近づけることができる体制や資金を持っている大きな会社は素晴らしい会社だと思うんです。でも、元の四次元の部分が駄目だったら、いくら変換率が高くても駄目な作品になっちゃいますよ。読んでいる人の側も、「これは元は百の作品なのに絵が下手だから十しか伝わってこないなあ」というふうに元の部分まで読み込んでみてほしい。こういうと、なんだか自分の作品のつたなさの言い訳を必死にしてるみたいですけど(笑)。
渡 不思議なのは、四次元の世界とか情念のようなものって、たとえばここに太田さんから頂いた『ひぐらしのなく頃に』のチラシがあるんですけど、これ一枚だけを見てもしっかり伝わってくるんです。このチラシはきっと『ひぐらしのなく頃に』のことなんてなに一つ知らない人でも「なんかよくわからないけどすごい」って思いますよ。
竜 (唸って)うーん、実は色々なチラシのなかで、このチラシだけ純粋に私一人でつくったんです。だから、このチラシにはなにか念のようなものが詰まっているのかもしれないですね。
渡 竜騎士07さんがほとんど一人で『ひぐらしのなく頃に』の制作をやりとげたっていうことは、今の若い人を勇気づけていると思います。今の若い人たちが十年前の若い人たちと違うのは、高性能なパソコンとかソフトとかっていう武器が簡単に手に入るところなんです。竜騎士07さんの成功で、若い人たちが一斉にそれに気づいてきている。昔なら企業に入って、組織の一員としてつくるしかないという困難を、環境的に乗り越えることができるようになっているんです。
―― IT化によって、ものづくりをする上での新しい環境が急速に構築されてきているということですね。
竜 よく人から、「竜騎士07さんって、一人で色々できてすごいですね」っていわれるんですけど、それは違うんです。四次元の世界を、いかにそのまま伝えるかを考えていたら、必然的に自分一人で色々なことをしないといけなかっただけなんです。今がフロンティアスピリッツがない時代だとか、夢のない時代だとかいうのは逆ですよ、逆。今ほどチャンスにあふれた時代はかつてないんですから。『ひぐらしのなく頃に』をつくるにはほどほどの性能のパソコンが一台あればいい、しかもそのパソコンもちょっとバイトして稼げる程度のお金で楽に手に入るんですから。あとはお金をパチンコとかタバコに消さない勇気だけ(笑)。
渡 真剣にやれば、バイトして一ヵ月で揃うんですよね、最低限の環境は。
竜 そう、環境さえあればあとは一人でだってできるんですよ。もちろん私の作品も、稚拙な部分はあります。企業から見たら「同人だから許してもらえてる」って突っ込まれる部分ばかりかもしれないですけど、それでも一人で創作の大部分が可能になることの意義は大きいと思います。しかも今は、同人でつくったものがある程度は簡単に世間に届くんです。たとえば、ジャケットの印刷なんかも昔はノウハウがなくって厳しかったですよ。でも今は同人専門の印刷会社まであって、こっちが初めてなら親切に細かく教えてくれたりもする。流通も、同人を置いてくれるお店が秋葉原を中心に増えたり、通販があったり、受け手のほうもインターネットによって作品の情報が簡単に手に入るようになった。本当にいい環境が整ってきたんですよ。
渡 しかも下手したら、企業のつくったものより同人のつくったもののほうが売れている(笑)。今の日本ゲーム界は、就職活動を一生懸命がんばって有名企業に入って、苦節十数年、上司のいうことをひたすら聞いて耐えてさらにがんばって、やっとつくったゲームをメジャーの流通に流しても、ほんの数万本しか売れなくて、それでもチャートのトップに入っちゃうような寒い状況ですから。
竜 だから一人でやるには本当にいい時代なんですよ。時間がないからできないとか、なにか理由をつけてやらない人は、ちょっとだけでいいからがんばって欲しい。寝る前の二時間だけでもいいんです。朝九時に出勤だとしても、夜中の二十四時から二十六時までなら空いているはずなんです。その時間にパソコンに向かって、マイクロソフトのWordでもアドビのPhotoshopでもなんでもいいから開発ソフトを開いてみればいい。『ひぐらしのなく頃に』はそういう時間から生まれてきたんです。
―― 今の竜騎士07さんのお話を聞いていたら、『ひぐらしのなく頃に』と『ファウスト』の設計思想はまったくおなじなんだな、と思っておもしろかったですよ。まるで兄弟みたい。なにしろ僕は『ファウスト』の企画書には「これからのものづくりは大人数・大資本ではなく、小人数・小資本だからこそ成功する」って書いたんですから。
渡 そうですよね。『ファウスト』と『ひぐらしのなく頃に』、僕もすごく似てると思います。文芸雑誌の『ファウスト』がジャンルの違う『ひぐらしのなく頃に』を捉えたのもそういうところかもしれないですね。
同人で表現するということ
竜 同人活動のやりかたがわからない、という人でも、今はインターネットで簡単にノウハウを調べられます。昔はそういう情報が一切なかったから、自分たちで見つけていくしかなかった。たとえばあの『月姫』のTYPE-MOONさんにしたって、『月姫』が発表されてからブレイクするまでには少しタイムラグがあるんですよ。その時間こそ、TYPE-MOONの武内さん、奈須さんが味わったご苦労だと思うんですが、その彼らのご苦労のおかげで今の私たちに新しい道ができたんです。少なくとも、私の『ひぐらしのなく頃に』はそのTYPE-MOONさんが敷いてくれたレールの上を歩んできました。もし順番が逆だったら、『ひぐらしのなく頃に』はこうはスムーズに行かなかったです。同人活動シーンには大きな流れが確実にあって、まず渡辺製作所(現・フランスパン)さんがアクションゲームの世界で同人でもメジャーに負けないすごいゲームがつくれる、ということを示した。次にTYPE-MOONさんの『月姫』ですよね。二次創作じゃなくて、同人でもオリジナルのものでいける、という道を切り開いてくれた。『ひぐらしのなく頃に』はそういう先達の敷いてくれたレールの上にあるわけですけど、うちが新しくなにができたかというと……まあ、絵が下手でも大丈夫とか(笑)。あとは、十八禁じゃなくてもいい、というのは初めてかもしれませんね。以前のノベルゲームは、十八禁でなければ勝負できない状態でしたから。
渡 『月姫』でさえ、その呪縛から逃れられなかったわけですよね。
竜 TYPE-MOONさんは、今は商業のほうに行きましたけど、もし同人のままだったとしたら、ひょっとしたら『Fate/stay night』には十八禁シーンは一切なかったんじゃないかと思うこともありますね。今度こっそり奈須さんに聞いてみたいです(笑)。
渡 エロゲーの原点っていうのは、やっぱりエロシーンを見せるものだったわけですけど、今は物語性とか、もしくは萌えなんかの独特の感性のほうがメインになっちゃっている。ある意味ではノベルゲームの母屋を乗っ取っちゃったんですよ。
竜 『AIR』(注9)みたいな作品などはそうですよね。
渡 あとはノベルゲームっていうのはゲームという場所を借りて文学をやっているんですが、ゲームだから物語に枝分かれがあるわけですよね。チュンソフトの『かまいたちの夜』とか『街』とか、一生懸命枝分かれをつくっていった。でも『ひぐらしのなく頃に』は、意図的に枝分かれを一切排除しているんだけど、それでも、というか、それだからこそおもしろい。これは文学という母屋も乗っ取っちゃったわけです。『ひぐらしのなく頃に』という作品は、この二つの逆転現象の象徴的な位置づけとなる作品になりますよね。
竜 狙ってやったわけじゃなくて、結果的にそうなってしまっただけなんですけど。
―― 『ひぐらしのなく頃に』以降に発表されるであろう新作で、選択肢を入れる、ということは考えてらっしゃるんですか。
竜 物語を表現するための仕掛けとして、入る可能性はあります。でも必要性のない、単なる「枝分かれ」ならやりたくない。最初は『ひぐらしのなく頃に』もずいぶん叩かれました。「おもしろい作品ですが、選択肢がないのが悔やまれます」とか。選択肢がないと、未完成に見えるらしいんです。「完成版では選択肢が入りますよね?」なんていう意見もありました。十八禁シーンがないことよりも致命的だと思っている人が多かったです(笑)。でも選択肢にゲーム性を求めた場合、その本質っていうのは、選択の優劣を決定するということなんですよ。プレイヤーに試してるんです。どっちが正しいでしょう? 残念、こっちが正解でした、っていう感じで。でも、これって、本当の意味での「選択肢」じゃないんです。たんなるゲームですよ。アクション・ゲームとまったくおなじです。真の選択肢とは正解とか不正解とか、そういう概念がもっと薄まった世界じゃないと意味を持ちえないんです。『ひぐらしのなく頃に』ではTIPSで一つだけ選択肢を用意していて(注10)、それは赤い箱と青い箱があって、どっちを選んでもくだらないものが出てきて、結局は正解も不正解もないっていう他愛もないものなんですけど、せいぜいそんな程度なんですよ。でも実は、『ひぐらしのなく頃に』のなかで主人公の前原圭一は山ほどの選択肢を通過してるはずなんです。独走気味ですけど、彼のなかでは最善の選択肢をつねに選び続けてるんです。「祟殺し編」なんかわかりやすいですよ。「沙都子を救うにはどうすればいいか」っていうところで、普通のノベルゲームなら選択肢が絶対入りますよ。「1 叔父を殺すしかない/2 もっと悩む/3 誰かに相談する」っていう感じに。でもそこで選択肢を入れて、物語の速度を損なう必要なんかないんですよ。人間の思考っていうのは、もっと駆け抜けているものなんですから。
渡 それがなかなかできないことなんですよ。竜騎士07さんの文章には、「選択肢を駆け抜ける主人公」に感情移入させるだけの吸引力があるんです。僕なんかも息を止めながら読んでますよ。
―― 『ひぐらしのなく頃に』をやっているときって、呼吸が浅くなりますよね(笑)。
渡 物語の持っている流れの速さのようなものが、竜騎士07さんの頭のなかにある四次元の世界を引き出しているんですよ。そのテンションをつづけられるのが、ふつうは難しいんですけれど。
竜 誤字脱字が多いのはそのせいかもしれませんね(笑)。とりあえず感情でひたすらキーボードを打っているんです。自分が圭一くんになったつもりで、アドレナリンで頭痛がするぐらいに。だからあの圭一くんの行動は、ある意味ですごく「竜騎士07的」です。
渡 そこでゲームだと、普通は選択肢に逃げるんですよ。「殺しますか、やめますか。殺すを選択したのなら、あんたがその気持ちになったってことでしょ?」って、システムによって、情念を代用しようとするんですよ。さらにいえば、これは太田さんとも話していることなんですけど、『ひぐらしのなく頃に』は選択肢を排除したことによって、ゲームの外側にゲームをつくったところが新しいんです。ホームページなんかで色んな人が『ひぐらしのなく頃に』について考えていますよね。そういう副次的な産物まで含めて、『ひぐらしのなく頃に』というゲームなんですよ。そのあたりは結果論なのか、それとも情念の延長なのか。
竜 もちろん自分で「答えのない物語」を描いているわけですから、たんに「わかりませんでした」で終わられると悲しいんですよ。それも犯人が誰か、っていうだけじゃなくて、色々なことを考えてほしい。
渡 チュンソフトのゲームって僕は大好きなんですけど、『かまいたちの夜』にしてもなんにしても、ゲームの外側で話題が盛り上がることってまずないんですよね。ゲームの選択肢を一つずつ潰していくのがゲーマー的には偉い人になってるんですよ。ゲームの構造を解明するのがゲームじゃなくて、手をひたすら動かしていくのがゲームになってしまっている。『ひぐらしのなく頃に』の場合、手を動かすんじゃなくて、脳を動かすほうが大事なんですよね。
竜 そうなんです。みんなに頭を動かしてもらいたい、そのために「お疲れさま会」をつけて、推理をうながすような寸劇をキャラクターたちが演じているんです。たんにゲームをやって終わり、にされてしまうと、私の持っている四次元の世界が伝わりきらないと思うんです。色々考えてもらって、初めて本当に楽しめるはずなんです。
―― その瞬間、『ひぐらしのなく頃に』はまさに「ノベル」から「ゲーム」になるわけです。『ひぐらしのなく頃に』は既存のコンピュータ・ゲーム性を否定した結果、人間どうしで展開される無限のゲーム性を獲得しているんです。そういう意味でも、インターネットでブログとか掲示板が発達している今の時代に出てきた、っていうのは運がいいんですよ。一人で考えて盛り上がるのは当然限界がありますからね。
竜 本当に、ネット上で議論ができるというのは大切なことですよね。どんなに田舎でも、ネットに繫がれば『ひぐらしのなく頃に』の話ができるんです。
―― それは、実は「文芸する」っていうことでもあるんですよ。いい古典となる作品は、必ずその外部にいい批評が存在していて、その作品と批評との応酬を踏まえた上で、また新たな作品と批評がオーバーライトされることによって、文芸の歴史は駆動していくんです。今、竜騎士07さんが半年に一回のペースで『ひぐらしのなく頃に』の新作シナリオを発表して、その新作の発表を踏まえてプレイヤーたちがネット上で活発な議論を行っている状況は、それは平易なレベルではあるのかもしれないですけど、文芸の歴史がたどってきた道とまったくおなじことをやっているんです。
渡 ネットを見ていると、みんな相当にしっかり読み込んでいて、ときどき僕ではとても考えつかないようなすごい発想とかが出てきているんですよ。
竜 私が読んでいても、ひょっとしてこれで新しいシナリオを書けるんじゃないか、っていうくらい興味深い書き込みがありますよ(笑)。
渡 それでちょっと悩んでたんですけど、『ひぐらしのなく頃に』に関しては、実はプロの評論家って必要ないんじゃないかと思うんですね。『ひぐらしのなく頃に』の良さに関しては、ネット上に「鬼隠し編」がフリーで公開されているから、あれをやりさえすれば十分に伝わるし、どれだけ盛り上がっているかは掲示板の議論を見ればこれもまた十分に分かる。評論家がああだこうだ述べてみても、ちっともありがたくない(笑)。
―― 『ひぐらしのなく頃に』は新しい概念を産み出したんですよ。これは「発明」なんです。あらゆる既存のシステムはその前提となる状況というものが変化することが確実な以上、どこかで必ず頭打ちがくるんです。『ひぐらしのなく頃に』は、コンピュータ・ネットワークの拡がりという新しい状況に対応し、ゲームの選択肢を完全になくすことによってそれまでのコンピュータ・ゲーム性を否定した結果、人間どうしで展開される無限のゲーム性を獲得した最初のゲームだと思うんです。これはコロンブスの卵なんです。
渡 大手のメーカーは大勢の集団作業によってコンピュータ・ゲーム性を高めていくということが彼らの仕事なんだから、その停滞はある意味では仕方なかったんです。だからこそ、竜騎士07さんがインディーズで出発してきたことに意味があるんです。
竜 『ひぐらしのなく頃に』はあの『新世紀エヴァンゲリオン』に近い部分があると私は思うんですよ。当時の私たちは「マルドゥック機関ってなんだよ!」とか、「人類補完計画の全貌は――」とかそういうのを仲間内で必死で話し合った、あれが楽しかったんです。
―― いってみれば、あれもひとつの文芸だったんですよ。
竜 もっとも、『ひぐらしのなく頃に』以外のゲームでも、そういう楽しみ方っていうのはできるんですよね。私は『Kanon』を遊んでいるときも色々と『ひぐらしのなく頃に』的に裏読みして考えながらプレイしてましたよ。だから『ひぐらしのなく頃に』を遊んでみることによって、みんなにそういう種類の楽しみ方があることを知って欲しい。お仕着せがましいですけど、「お疲れさま会」はそういう意味でのプレゼンテーションだったんです。
渡 「お疲れさま会」はそれだけじゃなくて、プレイヤーの心の平静を取り戻すためでも重要だったと思うんですけどね(笑)。あれがなかったら打ちのめされて、現実に戻ってこようという気にならないですよ。
竜 キャラクターを広げるためにもあって良かったかな、とは思います。『痕』でゲームの後におまけシナリオがありましたよね。あれのせいで、千鶴さんが偽善者だって分かったり(笑)。そういう情報がキャラクターの魅力を増大させるというところもありますね。
―― 「目明し編」には「お疲れさま会」がなかったですよね。
竜 今回は雰囲気的にないほうがいいかな、と思ったんですよ。余韻を一番大事にしたかったんです。立ち絵のお披露目会としてつけてみても良かったんですけどね。
―― あ、立ち絵といえば、僕は最後の仕掛けに気づきましたよ。
渡 え、なんですか、それ。
竜 実は、最後の最後にTIPSが二つ増えているんですよ。ゲームが終わってから改めて見に行かないと見ることができないんです。
―― 驚愕のキャラクターの立ち絵が初めて出てくるんですよね。
渡 それ本当に知らない。まだ言わないでくださいよ!
竜 みんな気がついていないんですね(笑)。
―― とにかく、『ひぐらしのなく頃に』はこんな楽しみがあと三作つづくわけですね。
渡 半年に一回の発表ペースは守られるんですか。
竜 ペースアップも一度は考えたんですけれど、ゆとりがないと、いいものをつくれないと思いますので、今までの発表ペースは守ることにしました。あと一年半、がんばりたいと思います。
渡 本当にがんばってください。近い将来に『ファウスト』に載るであろう新作も楽しみにしています。
―― 何枚書いてくださっても結構ですよ。
竜 いや、私、書いているときは本当に何枚とか気にしてないんですよね。ちょっと危ない書き手かもしれないです(笑)。
―― そういう危なさなら『ファウスト』は大歓迎です。今日はお二方とも、ありがとうございました。
(二〇〇五年一月 講談社二十六階応接室にて)
(注1) 『かまいたちの夜』 ^
チュンソフトから九四年に発売されたサウンドノベル。『弟切草』(九二年)に続きサウンドノベルという新しいゲームのかたちをつくり出した。シナリオは我孫子武丸。『街』(九八年)も含めてサウンドノベル三部作と呼ばれることも。
(注2) PC-8001 ^
七九年発売のパソコン。記録媒体はフロッピーではなくカセットテープだった。
(注3) 『ベーマガ』 ^
電波新聞社から八二年に創刊されたプログラミング入門誌『マイコンBASICマガジン』のこと。もっとも平易なプログラム言語であるBASICを中心に様々なプログラムが掲載されており、実際にパソコンに打ち込むことによりソフトを動かすことができた。〇三年に休刊。
(注4) 晴海から有明に移った ^
九六年に有明に東京ビッグサイトが開業されるとともに移転。
(注5) フラグ ^
どの選択肢を選んだか、という情報。または、選択肢そのもの。メモリまたはセーブデータに記録され、フラグに従ってシナリオが分岐する。
(注6) 『To Heart』 ^
Leafが九七年に発表したビジュアルノベルで、『雫』『痕』(どちらも九六年)に続く三部作。それまでのサウンドノベルの手法にギャルゲーを組み合わせ、後のゲームに多大な影響を及ぼした。前二作が伝奇テイストの作品だったのに対して『To Heart』は恋愛に特化し、その後のギャルゲーのフォーマットをつくり上げた。
(注7) TRPG ^
テーブルトーク・ロールプレイングゲームの略。ゲームマスターと何人かのプレイヤーの会話とサイコロの出目によって展開するゲーム。このゲームマスターとサイコロの働きをコンピュータに任せたものが、現在のRPG。
(注8) NPC ^
ノン・プレイヤー・キャラクターの略。プレイヤーが自由に操作できないキャラクターのこと。
(注9) 『AIR』 ^
Keyから〇一年に発表されたビジュアルノベル。九九年の『Kanon』に続き「泣き」を前面に押し出し、ギャルゲーの方向転換を決定づける。十八禁版と全年齢対象版がほとんど間を置かずに発売されたのも特徴的。
(注10) 一つだけ選択肢を用意していて ^
「暇潰し編」のTIPS、「箱選びゲーム」のこと。