ロジック・ロック・フェスティバル
第五回
中村あき Illustration/CLAMP
新人×CLAMP 「新本格」推理小説(ミステリ)の正統後継者・中村あきのデビュー作! まだあった「新本格」推理小説(ミステリ)! 全ミステリファン注目の新人登場、星海社FICTIONS新人賞受賞作。
14 さよならコージー
凄惨な流血の巷を目の当たりにして、入室した一同は立ち尽くすしかなかった。
「灘瀬先生っ!」と叫んで駆け寄ることさえ躊躇わせる血塊の結界。
想像していた最悪の事態よりも、さらに悪い、それは悪夢だった。
しばらく誰もがその光景に圧倒され、驚愕の表情で静止する石柱と化してしまう。
永遠とも思われる間、それは続いた。
誰かがこの場に下りた呪縛を打破しなければならなかった。
僕はなんとか自分自身を奮い立たせる。
――いつまでぼーっと突っ立ってるつもりだ? 怖気づいてる場合じゃないだろ。ほら、覚悟決めろって!
ようやく僕は足の震えを押し殺し、意を決してみんなより一歩前に出た。
応接机を迂回する。灘瀬はちょうど部屋の中央近くにうつ伏せに倒れていた。事務用のキャスターチェアが壁の方へひっくり返っている。
現場を荒らさないよう慎重に血溜まりを避けながら近づいた。
僕はハンカチを取り出して、灘瀬の右手首をつかみ――左腕は自らの胸の下敷きになっていたからだ――、確認程度に脈をみてみた。
反応なし。
研究室に入った時、既にここにいる全員が予見していたことであった。人間は感覚で魂のない肉体を見抜いてしまうのだ。
左脇腹の辺りをざっくりと切り裂かれている。血液の広がり具合から見ても、そこが源流とみてまず間違いない。べっとりと血糊の付いたカッターナイフが目の端に入る。これが凶器だろうか。『灘瀬』と記名がしてあるということはこれは本人のもの?
「……死んでいるのか?」
会長が震える声で訊いた。
「完全に、そうみたいです」僕は答えて、灘瀬の顎部に触れながら続ける。「死因は失血性ショックでしょうか。血も乾ききっていないし、死後硬直も始まっていないようです。素人目に見ても死後二時間以内と判断して間違いないと思います」
知見を述べながら、時計を確認した。ただ今の時刻、三時四十分。
「……密室」
ぼそりと言ったりり子の言葉に僕は哀しいかな反応してしまう。
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
現場は完全なる密室だと認めざるを得ない。
こうした状況だけを見ると、灘瀬本人による自殺の可能性も大いに検討して然るべきだが、嫌でも目に入るのが灘瀬が腕をいっぱいに伸ばして自らの血で描きなぐったと思しき図形だ。
円とも楕円ともつかない直径二十~二十五センチほどのそれは、もしかしたら何かの文字を表しているのかもしれない。そうなるとこれはダイイング・メッセージというやつだろうか。断定はできないが、普通の自殺者であればこんなものを遺すはずがない。それならきちんと遺書を書いておけという話だから。
このふざけた要素の連鎖。
それはまるで出来損ないの推理小説を思わせた。
「あのー、すみませーん」
そこにいきなり部屋の外から能天気な声が響いて、研究室にいた全員をびくりとさせた。僕はしかしすぐに空気を読まないその調子で、それが金牛事務員のものであると確信する。
僕の今いる位置からでは本棚に隠れて入り口近くの様子は見えないけれど、立ち尽くす人々を不思議に思って、入室してくる気配が伝わった。人垣をかき分けて姿を現した彼だったが、部屋の惨状を目にすると、すぐにひっと息を吞んでその場にくずおれてしまった。
「うわあ、血!? こんなにたくさん……も、もしかして、その人、し、しし死んで……?」
金牛事務員の譫言のような呟き。一応、僕は答えておいた。
「ええ。今、脈を確認しましたが……手遅れのようです」
「早く警察を……」
線太郎が常識的な判断の下、当座に必要な処置を的確に提案しようとする。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
「……頼む! 文化祭が終わるまで通報を待ってくれないか」
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
総員、言葉を失ってしまった。
会長の言っていることは支離滅裂だ。そんなことは分かりきっている。しかし今まで間近でずっと会長の苦闘を見てきた者、さらに自らも鷹松祭成功に尽力してきた者にとって、その言葉は無下に突っぱねるにしてはあまりにも心憂い。
そんな中で、りり子が一歩、会長に歩み寄った。
「会長が鷹松祭に懸けてきた思いは痛いほど分かっています。だから会長、土下座はやめてください。それでは満足にお話もできません」
そう言って差し伸べられた手を前に、会長はしばし逡巡した。見合う両者。しかしりり子に退くような気配は一切なく。このままでは無為に時間が過ぎるだけだと判断したのだろう、会長はやがて根負けしたようにその手をつかんで立ち上がった。
りり子は穏やかな声音で言葉を重ねた。もっともその中には、最後の審判を告げるガブリエルのごとき決然さをも含んでいたが。
「先ほども申しましたが、会長の心境には私自身強い同情を感じています。ただ……人が一人死んでいるという状況、命を落としたという事実に対して応じることは、やはり何にも増して優先されるべきだと思います。どんな信念、心情を差し置いても、です」
これに会長が返答をする前にある人物によって言葉が差し挟まれた。
「そ、その通りです……!」
金牛事務員だった。彼は周りを窺いながらもごもごと続ける。
「……会長さん、でしたっけ? お気持ちは分からないでもないですが、これはやっぱり一刻も早く警察を呼ぶべきです。議論をしている間にも、ほら、時間経過と共に重要な手掛かりが失われているかもしれないですし……」
しかしその話す内容とは別のところで、金牛事務員はもの問いたげな視線の的となっていた。
そうか。僕と線太郎以外はなぜ彼がここにいるかも知らないのか。
「すみません、一つお尋ねしますが……あなたはこの学校の職員の方、ですか?」
そう疑問を口にしたのは副会長だった。
「ええ、そうです」ここでようやく自分が認知されていないことに気付いたらしい。「あ、申し遅れました。僕、鷹松学園事務員の金牛遥と申します。社会科研究室の鍵が紛失しているためマスターキーを貸し出したんですが、それには事務員の同伴が決まりになっておりまして……」
「なるほど。で、ここへ来てみたらこんなことに、というわけですか。お気の毒だと思いますし、無関係の方を巻き込んでしまうのは本意ではありませんが……」副会長は顎にやっていた手をすっと下ろすと、深い決意の色を眼に浮かべた。「僕は会長の鷹松祭に懸ける思いを汲みたいと思います」
「な、どういう……」
「一時沈黙、に一票ということです。鋸さんとも対立することになってしまいますね。しかしここはどうか目を瞑っていただきたい」
「――いいえ、速やかに通報するべきですよ」
そう言い切って、副会長の前に颯爽と立ちはだかったのは線太郎だった。一瞬、二人の男の正義がぶつかり合う音が聞こえた気がした。
「会長の鷹松祭への熱意も、それを慮る副会長の誠意も、最大限に斟酌したいと思います。でもやはりそれとこれとは別問題と言わざるを得ない。通報を保留し、再度この部屋に鍵を掛けて、知らぬ存ぜぬでさあ鷹松祭ですか? 死者を前に失礼ですが、僕は生前、灘瀬先生のことをあまり快く思ってはいませんでした。そんな僕でもこんな所業はあんまりだと思います」
「あたしは……」今度は千鶴が控えめに会話に入った。「黙ってるの、アリだと思う」
意外な意見の表明だった。線太郎も目を丸くする。
「ごめんね、りりちゃん、線太郎君……でも、あたしちょっと気付いたことがあって。皆さん、少しの間、あたしの考え聞いてくれますか?」
一同は頷くしかなかった。
「あたし、線太郎君とあき君が鍵を取りに行ってる時、三階にある生徒会室にビデオカメラを届けに行きました」
そういえば、りり子の手にあったビデオカメラはいつの間にか消えていた。
「で、帰ってくる時に東側の階段で会長に会ったの。足を怪我した女の子二人組――多分二年生の先輩だと思う――と話してた。そうですよね、会長」
「ああ」と会長。「彼女たちは女バスの子なんだが顔見知りなんだ。可哀想に、先日足を故障してしまって、最近までずっと車椅子に頼りきりだったのを、せっかくのお祭りだからと今日は松葉杖で登校してきたらしい。しかし階段を死にもの狂いで上ってきたはいいが、下りるのが億劫になってしまった。だから二時間以上ずっとあそこで駄弁っていたらしい。だから私はなんの気なしにその間、誰がここを通ったのか訊いてみたんだ。そんなことをしていたら万亀が後ろに……」
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
「そうだな、そう言っていた。間違いない」
階段の女の子二人組とは女バスの透先輩と深月先輩のことだろう。彼女らは僕以外の三人の実行補佐メンバーまで知っていたのか。僕らもすっかり有名になったもんだ――なんて感慨はしかしすぐさま放擲した。千鶴の言いたいことが見えてきたからだ。
「それでね、不安になったのはこういうことなんです。
あき君が言った灘瀬先生の死亡推定時刻は今から二時間以内。今、西側の階段は工事中で通れなくて、東側の階段が新館四階に来られる唯一の通路だよね。女バスの先輩たちの証言だと、ここ二時間強の間に東側の階段を通ったのはあたしたちしかいない。東階段を通って、その先輩たちに目撃されなかったなんてことは有り得ないと考えていいよね。
そもそも新館四階に来なかった人は灘瀬先生をこんな風にできないんだから、松葉杖突いて普通に歩くことがやっと、いや、それすらままならないあの先輩たちを論外としたら、ここ二時間のうちに新館四階に来た会長、副会長、そしてあたしたち実行補佐四人の中に、灘瀬先生をこんな目に遭わせた犯人がいるってことにならないかな……?」
千鶴の発した言葉はまたも誰もが予期しないものだった。
みんな一様に押し黙って千鶴の示唆したことを検討している。
しかし本人はすぐに慌てたみたく両手を顔の前で振った。
「ま、まあ、そんなこと絶対ないと思うんだけどさ! ……でも、一度考え出したらどうしても頭から離れなくなっちゃって……だからできれば、あたしはこの懸念を自分の手で晴らしたいなって思ったの。そしてこうも――もし万が一自分の親しい人が過ちを犯していたのなら、傍にいる自分がそれを正してあげたいって。警察呼ぶ前にみんなで考えたら、もしかしたらあたしたちだけで事件解決できちゃうかもしれないでしょ。そしたらその後でも、あるいは過程ででも自白を促してあげられる。それがあたしが沈黙を推す理由」
「そんな、有り得ない……」
金牛事務員のぼやきも圧倒的な沈黙の圧力に押しつぶされた。
なんてったってこれで三対三、通報か否かを巡る決議はもつれにもつれていた。本来、人様の死に対し、こんなやり方で接することなんて許されない。そんなのは分かっている――分かりきっているけれど、今はそんな採決の図式を思い描かないわけにはいかなかった。
事実、僕以外の全員の目がこちらに向けられている。
「僕は――」集まる注目の中、僕はおもむろに口を開いた。「沈黙を支持します」
どこからともなく漏れる溜め息。
「理由を」線太郎が静かに反発する。「訊こうか、あき」
「会長の志操への共感及び千鶴の指摘した推理が引っ掛かるから。よって一通り意見が出揃った今、僕が提案するのは多数派の意見を取って通報を保留すると共に、速やかに情報を集め千鶴の推理を検討するということ」
束の間の沈黙。
その後――。
「異議なし」と会長が同意を示した。
「僕もです」副会長も右に倣う。
「多数決が必ずしも民主的な方法ではないはずだけど」
線太郎が揶揄するところを僕は穏当に受ける。
「そんな取り違えはしてないよ。ただ行動の選択に時間を取られていてはいつまでたっても行動自体を起こせない。今は総意をある程度一致させてとにかく動き出すべきだと思う」
線太郎はじっと僕の目を見つめる。鋭利な眼差しに視線を逸らせない。
やがていつもの調子で肩をすくめてくれたのを見て、僕は心底ほっとした。
「……オーケー、分かった。あきがそう言うなら」
あとは事の流れに放心状態になっていた金牛事務員を説得し、千鶴がりり子に話をつけると、ようやく全体の方針が定まろうとしていた。
「ではまず、手早く研究室内の様相を検めようか。その後、施錠したら私たちも粛々とここを立ち去るべきだ。いまでさえグレーだというのにここで長居していたら、余計に捜査が入った時に疑われる」
会長の提案に僕は補足する。
「それなんですが、二手に分かれようと思うんです。千鶴のさっきの推論には実は幾つかの致命的な穴があるんですけど……その一つとして、女バスの先輩たちが階段に居座る以前に四階に来ていて、そして今も四階に潜伏したままの第三者が考慮外なんですね。だから研究室を捜査する組と新館四階を隅々まで洗い出す組に分かれましょう」
ここは適当にグーとパーをせーので出し合って分かれた。
会長、りり子、そして僕が研究室捜査組、副会長、線太郎、千鶴、金牛事務員が潜伏者洗い出し組となった。
「一応、洗い出し組は二人一組で動いてください」
僕がそう釘を刺すと、副会長からカウンターが飛んできた。
「捜査組もお互いに目を光らせるようにお願いします」
情報収集の機会を犯人の現場介入の機会にしてはならないということだ。
「終わったらどこに集まります?」と千鶴。
「生徒会室は」言いかけて会長は首を振った。「役員がいるな」
「音楽室はどうでしょう?」と副会長。「今は誰もいないはずです」
音楽室は鷹松学園の新館でも旧館でもない、別館にあった。吹奏楽班や合唱班には別に練習室が設けられている関係上、入っていくのを見られたら何をしに行くのかと怪しまれるかもしれないものの、それさえ注意すれば後夜祭以後のイベントの間、ほぼ百パーセント誰も入ってこないような場所である。
こうして音楽室で落ち合うことに満場一致で決まり、すぐにそれぞれの組で行動を開始した。
15 現場検証
研究室に残った僕たちはまず扉、窓周りから検めた。
「窓はクレセント錠。半円形の留め金が受け金に嵌まる機構のやつだ。ドアの鍵はディスクシリンダーとかいったかな。アパートとかで最も一般的に普及してる鍵がギザギザのアレ。内側からはツマミを回してロックする」
会長が持っていたデジカメでぱしゃぱしゃと写真を撮りながら言う。
「入ってきた時もぱっと確認しましたが、やっぱどこもがっちり施錠されてますね。糸とか針とかで外からやれますか?」
僕が訊くと会長は吹き出した。
「おいおい、ミステリの読み過ぎだ。そんな隙間ないと思うぞ。それに中庭に面した窓からの侵入・脱出は輪をかけて不可能だな。地上四階だし、手足を引っ掛けられそうな場所もない上に、常に人の目に晒されることになるんだから。ただディスクシリンダーってタイプの鍵はピッキング被害で騒がれてたような……」
「このドアの鍵は正確にはロータリーディスクシリンダー。別名U9」
呪文のように呟くりり子。
「なんだって?」
「鍵穴が縦じゃなくて横でしょう」
確認する。その通りだった。
「その鍵は中々簡単にピッキングできなかったはず。目立った痕跡も見当たらないし」
なるほど。施錠も解錠も外側からでは至難の業のよう。密室はより堅固に構成されたといえる。
遺体もいろんな角度から写真を撮ってもらった。
僕は指紋に注意しながら灘瀬の衣服のポケットを探ってみる。しかしここからは何も発見できなかった。近づいたついでだ、気分のいいものではなかったけれど、僕はもう一度灘瀬の傷口を観察してみた。
「傍に転がっているカッターがやはり凶器のようですね。傷口と刃の形状が一致しています」僕は言いながら、カッターの方も注視する。「割と大振りなカッターですね。持って逃げるのは危険だと判断して放っていったんでしょう。まあ当然そうなれば指紋は拭き取ってあるはずです。カッターには『灘瀬』とマジックで記名がしてあるようですが――」
その時、会長が灘瀬のデスクの上を指さして声を上げた。
「うわ! 筆記用具のどれにも自分の名前が付いてるぞ」
デスクには筆箱が開けたまま置いてあった。見ると、万年筆に名前が彫ってあるくらいは洒落てるにしても、カッターと同じくじかに名前が書いてあるハサミや、テプラかなんかで名前シールを作ってわざわざ貼っ付けてあるペンまである。それらは中身全てに徹底されていて、ここまでやられると何だかその執念が空恐ろしい。もしかしたら灘瀬には強迫性障害の疑いがあったのかも。
「直接記名がなされているものに関しては……」シャッターのぱしゃぱしゃ音に埋もれながら会長。「筆跡は同一のようだな。カッターは被害者の持ち物でほぼ確定できそうだ」
流れで今度はデスク上や引き出し、鞄の中の物品を僕とりり子で検分してみた。当然指紋に気を配りながら。興味深い品は適宜写真に収めた。
そこでは様々な発見があったが、特にスケジュール帳に今夜の予定(飲食店らしき店の予約を済ませた旨)が書き込まれていたことや財布から宅配便の不在票が見つかったこと、そしてぼろぼろになるまで読み込まれた聖書が見つかったこと等は大きかった。
「実は千鶴の推理は灘瀬先生が他殺であるという暗黙の前提の下に進められていましたが、僕は自殺の可能性をまだ検討していました」
僕の言葉に会長が床の一点を示して言う。そこには血で描かれた円形の代物があった。
「でもあれはダイイング・メッセージじゃないのか」
「それだけでは根拠が乏しかったんです。しかし今日このタイミングで死のうとしている人物が今夜の予定、店の予約を入れるのは不自然ですよね。宅配便の不在票を大事にとってあったことも然りです。さらにあのぼろぼろの聖書からは、灘瀬が実は熱心なクリスチャンであったらしいということが窺えます。キリスト教には四世紀の聖アウグスティヌスの時代に端を発するといわれる自殺に対しての否定的な道徳評価があります。以上のことから鑑みて、灘瀬先生は殺されたのだという事実を、僕はかなりの蓋然性をもって受け入れざるを得なくなりました」
他にも、財布には数万円の所持金が手付かずの様子で残っていたことから物盗りの線は薄いとか、保険証から灘瀬のフルネームが『灘瀬朝臣』であることとか(『朝臣』といえば、元は天皇より賜る非常に位の高い称号の一つだったはず――随分仰々しい名前だ)、生年から逆算して現在四十三歳であることとかも分かったが、犯人特定の手掛かりになるかは疑問だ。
一応、免許証、クレジットカードに始まって、市立図書館の貸出カード、献血カード、果ては電気店のポイントカードまで写真は撮っておく。
しゃがんで首を傾げながらじっとダイイング・メッセージを見つめているりり子に「スカート汚れるよ」なんて声を掛けつつ、僕は最後に研究室の全体を歩いてみた。会長が後ろからカメラを構えて付いてきたが、特にぴんと来るようなものはなかった。
「そろそろいいんじゃないですか」
僕は会長を振り返る。会長は撮った写真とデジカメの容量をチェックしながら言った。
「荒らされた形跡は全くといっていいほどなかったな」
「ええ、確かに」と答えた僕の体がぶるっと震えた。「にしても、もう凍えそうです。この親の敵かってくらいにがんがんつけっぱのエアコン、なんとかなりませんかね。エコだエコだと騒がれて久しい世の中だっていうのに」
「現場保存、遺体保存の意味でもこのままにしておく他ないだろう。よし、そろそろ行こうか。四時十分を回った」
「そうですね。りり子行くよー」
りり子の姿が見えないと思ったら、本棚の向かいにある教員デスクの下に頭を突っ込んでいた。
「……どしたのりり子? 何か見つけた?」
「……いいえ」
くぐもった答え。何やってたんすか。
出てきたりり子は立ち上がるとスカートをぱたぱたと払った。
僕らはドアの鍵を元通りに施錠し研究室を後にする。
人目に付かぬように気を付けながら速やかに音楽室へと向かった。
16 見捨ていくプリコンディション
四階洗い出し組は既に音楽室に集結していた。適当に出してきた椅子に各人が腰を下ろすと、副会長が報告に先立って自分の携帯電話を指さしながら言った。
「会長は体調を崩して後夜祭に出られないことにしておきました。僕も傍に付いていますが、その後の行事も参加は危ぶまれる、と。まあ昨日の話し合いもあるので、係長を中心に滞りなく鷹松祭は最後まで行われると思います。実行補佐は特に何も任されていないんですよね?」
「ふらふらしてたら何かしら頼まれていたでしょうが」
そう線太郎は苦笑した。
「ありがとう。では早速お互いに調べてきたことを報告し合おうか」
会長の開会宣言を合図に、音楽室に漲る静寂と緊張感。それはまるで一つの演奏が始まる直前に横溢する、あの厳粛な空気のようで。
「では」メゾピアノで、しかし確かな芯のある第一音を奏でたのは千鶴だった。「四階洗い出し組から報告します。結果から言うと四階にあたしたち以外の人間はいませんでした」
「……確かなんだな」
会長の質問に心外だとばかりに副会長が答える。
「トイレの個室、掃除用具箱、机の引き出しまで見ましたよ。確かです」
「犯人が南くんの恋人やなんかでない限り、潜伏は不可能ですね」
線太郎が面白くもなさそうに付け加えた。
つまりどういうことか。この中に犯人のいる可能性が高まったのだ。
僕は一つ質問をぶつける。厳密な定理は一つでも多い方がいい。
「でも空白の時間があるよね。僕たちが社会科研究室で灘瀬先生の遺体を発見して茫然としていた間、その時に階段を下りてった人がいたのかも」
「それもないよ」異議を見越していたかのように千鶴は言ってのけた。「四階を見終わって音楽室に向かおうって時に、まだ階段にあの先輩たちがいたの。ちょうど片付けに向かおうとしてるとこだった。だから金牛さんに会長がしたのと同じ質問をしてきてもらったの」
「『君たちがここにいる間、ここを通った人は?』ですね。答えは一緒でした。……今さっき上ってきた奴として、登場人物に僕が追加されましたけど。まあ、下りた人はいないということですね。誰がいつ、というところまで訊いてみましたが、そこまではさすがに覚えていないそうです」
金牛事務員が体を縮こませながら締めくくった。線太郎が唸る。
「あきの死亡推定時刻の見解が正しければ、部外者の線は消えるな。こうもとんとん拍子に容疑の輪が狭まってくとは」
いいや、まだだ。たとえ僕の見立てが正しくともこの論の基盤はまだ決定的に緩い。そう考えていたら意を体したかのように響く声があった。
「――いいえ」それはりり子だった。「その二人組が噓の証言をしている可能性がある」
その通り、さすがは元『名探偵』。血が騒いできたのだろうか。彼女自身はそんなつもりはないのかもしれないけれど。周りが当惑している様子なので僕が引き継いだ。
「そうなんですよ。僕の方から順に説明しましょう。千鶴が提起した推論――犯人はこの中にいる!――には実は決定的な三つの穴があったんです。四階に潜む第三者の可能性が検討されていなかったこともそのうちの一つですが、あと二つ。まず、自殺の可能性が検討されていないこと」
ただしこれについては先ほど自分たちが調べてきた成果を、デジカメの写真を見せながら発表して、結果として無視して構わないことを証明した。
「次に今りり子が示唆したことですが、共犯の可能性が検討されていないことです。足を怪我した女バスの先輩たち自身を容疑に入れることも最初は考えたんですが――」
「それはないでしょう」と副会長。「実は先刻、三階で出し物をやっていたクラスから証言を得ておきました。彼女たちがあそこで二時間以上、張り付いたようにずっと駄弁っていたのは事実です」
「そうでなくてもあの怪我だ」と会長も加勢した。「狂言では有り得ない。私は女バスの班長が彼女らの診断書を預かっているのを見たからな。両手の松葉杖にすがってようやく痛みに堪えながら足を踏み出せるかどうかといった彼女たちが、松葉杖をカッターに持ち替えて大の男相手に切りつけるなんてことが本気で可能だと思って――」
「いえ、あの、そう、そうですよね」僕は集中砲火を両手で制して答えた。「僕も既にそういった理由から、女バスの先輩二人組を当然容疑者リストから除外しています。さらにだめ押しをすると、松葉杖のゴムの跡が四階の床には見当たりませんでした。ここから彼女たちが一度たりとも四階に上っていないことが分かります。しかしですよ、犯行自体が不可能だとしても、まだ彼女たちが噓の証言をして犯人を庇っている可能性を否定できないんですよ」
これがはっきりしないことには彼女たちの証言を基に四階を捜索した意味もない。足元から全てが崩れていくのだ。
「噓をついている風には見えなかったが……」
会長はすかさず言ったが、さすがにそれは論理的根拠に乏しかった。この疑念をある程度確証を持った決着に導く道筋は、現時点では僕にも組み上げきれていなかった。図らずも論理の脆弱性を突き付けられる形になった千鶴も、やはり意気消沈としているようで。
「あの、話の腰を折ってすみません……」ここで金牛事務員が訥々と話しだした。「度々話題に出てるんですけど……死亡推定時刻っていうのは?」
ああ、あれは入室してすぐに僕が割り出したんだった。金牛事務員はまだ居合わせていない時分にだ。そういうこともあって僕の口から説明した。
「僕が診ました。推理小説が好きで、自分でも何か書く時に使えないかなって色々調べたことがあるんです。そんなわけで素人所見ですが……首・顎等にまだ死後硬直がないこと、死斑は出ているけれど融合していないこと、体幹がまだ温かいこと、血液の凝固の具合などから死後二時間以内と当たりを付けたんです。あと死因も失血性ショックだと判断をしました。遺体の写真もあるんで見ますか?」
金牛事務員が頷いたので、会長がデジカメを渡した。彼は真剣な面持ちで写真を検める。
やがて存外なことを口にした。
「なるほど……死亡推定時刻の判定には概ね同意します。ただ、えーと、おそらく失血性ショックの前に心臓の発作が来ている気がするんです。心臓に持病を持たれていたという話でしたし……もしかしたら急性心筋梗塞等を発症したのかもしれません」
金牛事務員は気付いているだろうか。今この瞬間、周囲の彼を見る目が百八十度変わったということに。静まり返った一同が思っていることは一つだろう。代表して僕が訊いた。
「……医学の知識をお持ちなんですか?」
「ええ、実は……医療系の専門出てるんですよ。なので少しくらいならお話しできます。ただどうしても僕、血を見るのがだめで、それが克服できなかったんです。事務員をやってるのはそういったわけなんですけど……」
そうだったのか。そんな経緯が。確かに今も顔面蒼白である。
「まさかこんなことになるとは……でも皆さん、真剣にこの件に取り組んでいらっしゃいますし、せっかく自分の知識が役に立つ場面なんですから、お力添えしない手はないと思って。あの、考察を述べてもいいですか?」
「もちろんです。ぜひともお願いします」
僕が促すと、金牛事務員は唇を舌で湿らせてから話し出した。
「見たところカッターで切り裂かれた左脇腹の傷は、深いには深いですが急所を外れています。これなら失血で意識を失うまでに余裕もあったはずですから、被害者はまだ反撃するなり助けを呼ぶなり、しばらくじたばたと暴れることも可能だったはずなんです。でも写真からはそんな形跡は窺えない。右手でかろうじてダイイング・メッセージと思しきものを残す程度。代わりに被害者の左手は自身の胸の下にあって、その辺りの衣服をつかんでいるように見えます。……つまり切りつけられたのと前後して心臓に強烈な発作が起きたんじゃないでしょうか。外傷や精神的混乱が心疾患の引き金になるとは考えにくいですが、急性心筋梗塞等は発病因子を持つ人ならいつ発症してもおかしくありませんから」
写真を示しながらの解説は分かりやすかった。一拍おいて彼は続ける。
「ここから導けることがさらに重要なんですが……ということは犯人は急所を狙い損ねているし、相手にとどめを刺すどころか、ダイイング・メッセージにも気付かずにさっさと逃げてしまっていることが分かるんです。言い方は悪いですが、急な心臓発作に助けられているわけですね。これが殺人を決意している人のすることでしょうか」
なるほど。整合性のある理論だった。話の腰を折るとか謙遜していたがとんでもない。
「言いたいことが分かりました」と僕。「つまりこれは突発的な犯行だということですね。元々殺す気なんてなかったけれど、つい瞬間的にかっとなってそこにあったカッターを振り回してしまったというような。カッターは灘瀬先生の私物と思しき物品でした。前もって構想を練った犯行なら凶器の現地調達なんてナンセンス過ぎます」
計画犯であれば、他に殺傷性の高い凶器を持ち込むなり、最低限急所を調べるくらいのことはやってくるはずなのだ。カッター程度の小さく軽い刃物で人を殺そうと思ったら、頸動脈等の重要な循環器官や、延髄等の生命活動を司る中枢機能を的確に刺突するくらいしかない――と、これはどこかで聞いた受け売りだが。相手の人生を終わらせるのだ。自分の人生を終わらせるくらいの覚悟で挑むものだろう。僕は続ける。
「そう考えると先に述べていた共犯の可能性も考えにくくなりますね。特に事前共犯は犯行を実行に移す前にかなり緻密な計画を練るはずです。こんな杜撰な犯行は、ほぼ間違いなく単独で突発的に行われたと言っていいですね。
また、犯行を行った後で初めて、犯人が階段にいた先輩方に噓の証言、例えば『自分はここを通らなかったことにしてほしい』等と要求する事後共犯のパターンもありますが、これはもっと考えにくいです。彼女たちは足を怪我してますし、何よりこの方策では彼女たちを階段の番人にしようとしているわけですから、あの場所から動かすことができません。よってあの階段口で経緯を説明し、口止めの算段を練らなければならないのです。その現場を別の誰かに見られていたらそれでもうアウト。そんな危うい手法が取られるはずありません。それに往々にして協力者に自身の罪を告白する必要に迫られる共犯の要求は、よほど決定的な効果が得られない限り取られ得ない選択肢と考えていいでしょう。
また、階段にいた先輩方の側から自主的に一方的に犯人を庇おうと噓の証言をすることも考えられません。なぜなら四階に訪れていない彼女たちは僕たちが黙っている以上、未だ事件が起きていることを知らず、また察することもできないからです。
以上のことから階段にいた先輩方は共犯の関係にはなく、噓の証言も、偽りの証言もしていないということになります。つまり――」
嫌な役目を買って出ようとした僕を慮るように、だめ押しを会長が攫った。
「――犯人はこの中にいるということ」
そして場には重すぎる静寂の帳が下りた。
千鶴の虫の知らせを、不吉な予感を、奇しくもかき集めた全ての情報が肯定する形になった。
「これでもまだ……自分がやったと名乗り出る気はありませんか」
千鶴が静かに問い掛ける。
沈黙。
「これから研究室捜査組の報告もあるし、審議は続く。容赦はしない。逃げられないぞ」
会長の警告。
依然、沈黙。
「……仕方ありませんね」と副会長。
「あぶり出し、か」線太郎も独り言のように呟く。
「たった今、論証の方向は『誰が犯人か』を指摘することに変わった」会長が場を仕切り直す。「証拠が出揃い、一通り意見交換した上で、それぞれにまとめた考えを提出してもらう。それが手っ取り早くかつ合理的に議論を進展できる方法のはずだ」
「じゃあ私的裁判を再開します。研究室捜査組の報告をさせてもらいますね」
僕はそう口火を切り、研究室の密室状況及び鍵の機構の説明から始めた。半分は会長とりり子の受け売りだったけれど。
「……というわけですから、ドアの鍵のピッキングは少々骨が折れるらしいです。どの出入り口にも細工の跡は見られませんでした。かなり鉄壁な密室といえます」
「中村の持ってきたマスターキーを受け取って鍵を開けたのは私だった。確かに開錠の手応えを感じた」
会長は持っていたマスターキーの現物を取り出すと、それを他の人が観察できるように順次回していった。副会長がそれを仔細に眺める。
「タグが付いてますね。マスターキーだから『マス』と書いてあるようです」
「あれ、そもそもなんで研究室の鍵じゃなくてマスターキーなんか借りてきたんだっけ?」
千鶴の質問には線太郎が答えた。
「社会科研究室の鍵は五、六年前に紛失してるらしいんだ。ね、金牛さん」
話を振られた金牛事務員は首を縦に振る。
「そうなんです。五、六年前だと僕もまだ赴任していないんで、菊池さん――先輩事務員の方です――から聞いた話ですけど。特に不便もないのでそのままにしているらしいです」
副会長はマスターキーを掌で転がすのを一旦止め、疑惑の目を金牛事務員に向けた。
「……噓、じゃありませんよね。実は研究室の鍵、金牛さん自身が持ってるとか」
「も、持ってないですよ! そんな菊池さんとか社会科の先生に訊いたらすぐ分かるような噓つくはずないじゃないですか」
狼狽する事務員の言い分はしかしもっともで。さらに会長の援護もあった。
「それに金牛氏は鍵の類いを一番自由に扱えた人物と言っていい。密室を作ったらわざわざ自分を疑えと言ってるようなものだろう」
「……その通りですね。疑ってすみません」
副会長は素直に頭を下げた。
「五、六年前か……今になってひょっこり出てくる可能性は薄いな」
思議する線太郎を横目に僕は自分の中で検討した説を紹介しておいた。
「密室を穏当に解釈するために僕は遠隔装置も考えてみたんです。ゴムやバネなんかで仕組んでおいて、引き出しを開けたら中からカッターが飛び出すようなやつですね。これなら加害者の出入りがいりません。しかし細工の跡はまったくありませんでした」
とりあえずここらで密室講義は切り上げ。
自殺の可能性の消去は先ほど済ませたので、次は引き続きデジカメの写真を見てもらいながら、研究室内の全体像を把握してもらうことにした。説明の担当は僕が留任した。
「……まあ犯人をずばり特定できるようなものは見つけられなかったんですが。さすがに指紋を残さないくらいの努力はしているでしょうし――こんなところですかね。りり子はどう? 何か補足があれば」
「……特には」
「そうだな。あとは気になる点を出してもらえばいいんじゃないか。答えられる範囲で私たちが答える」
会長は提案したが、みんな写真に見入って黙考している様子だった。
しばらくして金牛事務員がぼそっと言った。
「……やっぱりダイイング・メッセージが不可解ですね」
「何かおかしな点でも?」と僕。
「いえ、不自然ということではないんですよ。加害者が遺した可能性も排除しきれないとはいえ、筋肉の具合から見ても被害者が遺したもののように見えますし……ただちょっと引っ掛かるんです」
「普通に読んだらO?」千鶴が定番ともいえるような思考を披露した。「まさかこの中で頭文字が……!」
「それは考えてみたけどいないよ」
線太郎があっさり袈裟懸けに切る。
「では数字の0でしょうか?」と副会長。
「どういう意味ですか?」
金牛事務員の問いに副会長は肩をすくめた。
「さあ、見当も付きません」
「まあ、推理に加えるかどうかは各自の裁量ということで」僕は頃合いと見て、閉幕の辞を述べた。「では研究室捜査組の報告は以上とさせていただきます」
「順番が前後してしまった感もあるが……次に死亡推定時刻周りの各人の行動について細かく訊いておくべきかと思う。女バスの二人組の証言では、誰がいつ四階へ立ち寄ったかまでは分からなかったからな」
時を移さずして会長から提言がなされた。これはさもありなんといったところ。事実、誰かが言い出しそうな雰囲気であった。異議はもちろん唱えられず。彼女は場の承認を見て取った。
「遺体の発見が確か三時四十分頃。灘瀬はそれ以前の二時間のうちに殺害されたと見られるから……余裕を見て一時半くらいからの行動を訊こうか。
よし、では言い出した本人からいこう。一時半というと、私は本部で簡単な昼食を済ませた頃だったか。今日私は午後からずっと本部に根を生やしてなくちゃいけなかったんだが……一時四十分頃、一度だけ新館四階に上がった。パソコン室へ用があったんだ。というのも昨日、自分の鷹松祭関係のバインダーをそこに置いたままにしてしまった気がしてな。取りに行ったんだ」
僕と交代して一時間後くらいか……いや、待てよ。これはおかしい。しかし違和感を覚えたのは僕だけではなかったようで。
「おかしいですよ、会長」いち早く物言いをつけたのは線太郎だった。「後で述べると思いますが、その時間には僕とあきが既にパソコン室にいたんです。しかし僕ら会長の姿を一瞬たりとも見ていません」
それを聞いた会長は自虐的な笑みを湛えていた。反論する気はさらさらないようだ。
「そうなんだ。パソコン室の前まで来た時に、私ははっとそれが生徒会室にあることを思い出した。だからパソコン室へは寄らず、工事中の西側階段に異常がないことだけ確認して、そのまま引き返したんだ。そして私は東側階段にいた二人にしっかり目撃されることになり、見るからに怪しまれるような時間を自ら作り出すことになったんだ。ただそれ以外は前述の通り、ずっと本部にいた。その間は証人もいる。三時半になろうという時分に、動き回っていた成宮を捕まえる必要が生じた。居場所を訊き、社会科研究室に向かったところで事件に遭遇した」
「今回の犯行は二、三分もあれば理論上可能です。四階に訪れた空白の時間は疑いをもって接さざるを得ません」
僕が一応、念を押すと、
「分かっているさ」会長は決まりきったことだ、というように頷いた。「では次は誰が……」
「じゃあ僕が。もう半分喋ったようなもんですしね」そう線太郎が買って出て、記憶を捻出するように側頭部をとんとんと指でつついた。「僕はあきに呼ばれて十二時半には既にパソコン室にいましたから……一時半というとばっちり作業中でしたね。後夜祭係長に頼まれたタイムテーブルの修正をしてました。それ以降もずっと僕とあきはパソコンにかじりついていて、パソコン室を出た後はすぐに社会科研究室の前の副会長と遭遇しています。つまり僕とあきは犯行があったと推測される時間中、互いが互いの証人という意味ではアリバイが存在することになります。まあ、友人同士の証言をどこまで信用するかという話になりますが」
僕が続けてここに肉付けする形で補完した。
「ただし僕は一度、二時頃に一階のドリンクコーナーにジュースを買いに行きました。ここでりり子に会いましたが、行き帰りは一人なのでこの間はアリバイを証明できません。そしてつまりこの時間は線太郎も唯一の証人を失っている時間になるので、同時にアリバイがないということになりますね」
「あたしたちもおんなじ感じ」千鶴は言って同意を求める。「ね、りりちゃん」
「そうね。一時半はちょうど四階に上がってきた時間で、そこから私と千鶴はずっと一緒に屋上から特設ステージを撮影していました。ただ中村君の言う通り、私は一度ドリンクコーナーへ下りました。その場では中村君と、あと葉桜仮名先輩と一緒だったのですが、行き帰りは私も一人きりです」
りり子の陳述に千鶴は付け加えた。
「あと、別々のタイミングで二人ともお手洗いに行ってるし、そういう間は友人同士のアリバイも証明できないね。三時半頃、屋上から下りてきて、みんなと合流したのは言うまでもありません」
ここで多少の間が空いた。まだアリバイを述べていない二人が顔を見合わせる。副会長が手を胸に当て、自分に先に話させてくれ、と金牛事務員に向かってジェスチャーした。
「あの、金牛事務員は確か階段に座っていた二人組に目撃されていませんでしたよね。彼は考慮外でいいんじゃないでしょうか」
そうだった。今まで被害者の一員みたいな考えでいたが、彼がここにいるのはマスターキー貸し出しの同伴のためだ。会長が透・深月先輩に通行人を訪ねた時、彼女らの返答はこうだった。
――私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です。
つまり彼を疑う場合、これまでの前提のどこかを崩さなければならない。副会長の意見はもっともで、みんなもそれに納得しているようだ。しかし金牛事務員は首を横に振った。
「せっかくなので僕も一通りお話ししますよ」金牛事務員は神経質に眼鏡をずり上げてから律儀に供述しだした。「といっても一時半からの行動は『ずっと事務室にいた』の一言で終わってしまいますが。手の空き始めた正面玄関の受付の生徒さんと代わる代わるお喋りしてたので、証言も得られると思います。実は今日、学校に来ている事務員が僕と先輩の菊池さん二人だけなんです。菊池さんはふらふらと用もなく出ていってしまうので、僕が事務室に常駐してるしかなかったんです。よって鍵の管理も僕が担当してました。
今回の事件にマスターキーが関わっている可能性がありますが、これを借りにきた人は皆無でした。えーと……中村さんと山手さんでしたか、あなたたちが社会科研究室に異常があると駆け込んできたのが最初で最後ですね。ちなみに鍵は壁に収まるようにして設置された金属製の箱に保管されているのですが、これは事務室のちょっと奥まったところにあります。事務室に入るには窓口横のドアしかありませんし、ここから誰かがこっそり侵入してきたとしても、窓口にいる僕が気付かないはずありません」
アリバイというよりは鍵の状況が整理された感じだった。しかしそれはそれで重要だ。
「ありがとうございました」僕は軽く頷いてから副会長にバトンを回した。「じゃあ最後、副会長お願いします」
「はい。僕はできるだけ病み上がりの会長の傍にいるつもりでしたが、結局走り回る羽目になってしまいました。どこで何をしていたか証言を得られる場面も点々としています。ただ新館四階に立ち入ったのは、三時二十分頃、灘瀬先生に備品の片付け場所を聞きに行った一度だけです。その時はもう研究室の鍵は掛かっており、僕は十分近くひたすらドアを叩いて呼び掛けてを繰り返すしかありませんでした。ほどなくして中村さん・山手さんペア、鋸さん・万亀さんペア、そして会長という順に合流しましたが……それ以前の一人でいた時間はことごとく疑われても仕方ないと思います」
「――そうだ」
副会長が口をつぐむと同時に、会長が立ち上がって黒板に近づいていった。低いステージに上がり、白いチョークを持ってこちらを振り返る。指揮棒をかざす指揮者を思わせる、それは気品だった。
「ここで一つ、今まで出揃った情報で確実なもの、推理の前提として使えそうなものを列挙し、まとめてみよう。たった今明らかになったことも含めてだ。頭の整理にもなる」
「そうですね。賛成です」と副会長。
五線譜の書かれた黒板をスライドして除けると、無地の黒板が現れた。かつかつと小気味良い音を立てて、会長は手を動かしていく。
そして黒板に書かれたのは以下の事項。
〈前提一 灘瀬朝臣は他殺である(最終的な死因は急性心筋梗塞による心原性ショックと推察されるが、彼に加えられた危害には殺意が多分に認められる)〉
〈前提二 凶器はカッターナイフ(灘瀬私物)である〉
〈前提三 突発的犯行である〉
〈前提四 単独犯行である〉
〈前提五 死亡推定時刻から判断し、犯行が行われたとされる時刻は遺体発見(午後三時四十分)から逆算して二時間以内である〉
〈前提六 階段に座っていた女バスの二人組の証言によると、前提五の時間中に新館四階を訪れたのは、衿井、中村、成宮、鋸、万亀、山手(五十音順)の六人である〉
〈前提七 階段に座っていた女バスの二人組は噓をついていない〉
〈前提八 前提五の時間中、前提六の人物は、程度の差こそあれ誰もが犯行のチャンスを有している〉
「――と、こんなところか」会長はチョークの粉を払いながら、ステージを降りてきた。「どうだ、何か見えてくるものはあるか? 時間もないからそろそろ考えがまとまった者から披露していってもらいたいと思う。順番は決めないから任意で……」
会長が言い終わらないうちに、凜と響く声があった。
「私は降ります」鋸りり子だ。「やはり不毛に思えてなりません。通報派は一度譲歩しているわけですし、探偵ごっこへの参加を棄権するぐらいは認めてもらってもいいはずです」
皮肉たっぷりの言い草に会長はやや眉をひそめたが、それでも認めないわけにはいかなかった。りり子はここにおいても頑なに探偵を拒否することを選んだのだ。
「僕も棄権でいいですか」線太郎が続いて意見を表した。「証拠に基づいて僕なりに考えようとはしてみたんです……でも、どうしてもこの中に殺人犯がいるなんて思えなかった」
「ぼ、僕もです」金牛事務員も同調した。「オブザーバーとしてここにいさせてもらえたらと思います」
「……分かった。オブザーバーは意見の欠陥を指摘する等の行為は自由のはずだ。できれば諸君らも協力的な姿勢を見せてほしいと思う」
「善処します」と線太郎が代表して答えた。
「それでは残りの三人は自論を展開することに異議はないな」
不言をもって承ける副会長、千鶴、そして僕。
「当然私もだ。さて、では名乗り出る者がいなければ私からでもいいが……」
そこですかさず、小さな手が虚空を裂いた。
当座の注目を一身に集めたのは、他でもない万亀千鶴だった。