ロジック・ロック・フェスティバル
第三回
中村あき Illustration/CLAMP
新人×CLAMP 「新本格」推理小説(ミステリ)の正統後継者・中村あきのデビュー作! まだあった「新本格」推理小説(ミステリ)! 全ミステリファン注目の新人登場、星海社FICTIONS新人賞受賞作。
7 女バス班室写真消失事件 前編
ちょっとした冒険の後で。
僕の心の中にはりり子のことを今までより少しでも知れたらな、と思う気持ちが芽生えていた。彼女の持つ何か大きな闇を共有しようなんておこがましいことじゃなくても、もっと普段の日々の中で彼女のいろんな表情が引き出せたら、というようなことを思ったのだ。
なるべく一緒に帰って話をしたり、一人で食事をとることの味気なさに鑑みて、実行補佐の仕事で遅くなったついでにみんなで外で夕食を食べようと提案したり、まあ僕が起こせる変化なんてその程度のものだったけれど。それでも後者のアイデアは特に功を奏し、時折りり子が感情を表に出すような場面にも出くわすようになった。
いつかみんなでファミレスに行き、喫煙席でないのに煙草を吸っている性質の悪い客のせいで近くにいた千鶴が気を失ってしまった時(彼女は極度に煙草に敏感な体質のようだ)、客の口から煙草を引っこ抜いて、相手の目の前に突き付けるりり子は静かに、しかし確かに激昂していた。一度だけ回転寿司に行った時は、傍目にも分かるほどやけにそわそわと落ち着かないりり子が見られた。もしかして育ちの良さそうな彼女にとっては、それが回る寿司屋の初体験だったのかもしれない。
しかし、彼女の家庭環境は未だ謎に包まれたままだったし、そこから来るのであろう彼女が取ろうとする微妙な距離感は、依然として払拭されそうな気配がなかった。
また、いよいよ実行補佐の仕事が多端を極め、それに忙殺されるようになると、僕自身もりり子の変化や鋸家の事情について、思いを馳せる余裕も中々なくなっていってしまったのだ。
独白が湿っぽいのは季節のせい? ――と誤魔化したいところだけど、六月も既に半ばに差し掛かったというのに、僕らの住む地域は梅雨もなんのそのという連日好晴の中にあった。校内の活気溢れる文化祭のムードにお天道様も引きずられているのだろうか。生徒たちも心なしか浮き足立っているようだ。
僕ら実行補佐四人衆にも、こまごまとした職務横断的な仕事が増えてきた。よりフレキシブルな対応が要求されるようになり、最近では固まって動くというよりも、それぞれに別々の仕事を任されることが多くなっていた。
いよいよ鷹松祭本番まで二週間を切った六月十九日。
本日、僕は単独で文化祭直前期間の体育館使用に係るスケジュール組みに参加していた。
この時期には運動班はもちろんのこと、それ以外にも間を縫って有志の団体や、前夜祭・後夜祭といった係がリハーサルのために体育館を使用する。当事者が集まって議論しても私意がぶつかり合ってしまうだけなので、実行委員が着地点を模索、提示し、各々が納得できる形に執り成してあげるわけだ。
各団体から事前に出してもらった希望スケジュールを突き合わせながら、放課後の時間いっぱい協議した末、ようやく大まかな日程案が出来上がった。あとは希望スケジュールを若干動かすことになってしまった、後夜祭係の係長に了承を得に行くだけとなった。
後夜祭係長は三年生で、女子バスケットボール班の班長でもある。強豪チームを主将として率いながら、文化祭の有終の美を飾る後夜祭をも先頭に立って作り上げている彼女。会長には及ばないかもしれないけれど、文武に長けた模範的鷹松学園生の一人であると言って間違いないだろう。
了承を得るのは明日でいいと言われ解散になったものの、そろそろ班活も終わる時間だったし、せっかくなので僕は今日のうちに自主的に仕事を済ませてしまうことにした。
一階の渡り廊下を横切り、えっちらおっちら班室棟へ赴くと、近づいていくにつれて、班室棟の二階ががやがやと騒がしいことに気付いた。
あれ? もう班活終わってる班があるのかな。でも、どことなく楽しげなお喋りとは違った響きを帯びているような。
気になった僕は早速班室棟の階段に足を掛けた。すると、
「ちょっと恩っ!」
二階から一際大きな声が降ってきた。
前後して階段をものすごいスピードで一人の女の子が駆け下りてくる。一瞬で僕の横をすれ違うと、彼女はそのまま校舎の方へと簀の子の上を疾走していった(校舎―班室棟―体育館は上履きで移動できるように簀の子を敷いてある)。
振り返って見やると、着ているTシャツの背中には『限界を超えろ!』、そして『鷹松学園女子籠球班』の文字。女バスの子である。バスパンのポケットからは、ブランドのロゴをモチーフにしたプラスチックの携帯ストラップがぴょこっと飛び出てぶんぶんと揺れていた。
「あーあ、行っちゃったよ、あいつ」
「まだ何もはっきりしてないのに……」
「顧問に報告に行くって? それはまあいいけど、そこから先輩に知れたりしたら……」
「でもあの顧問なら恩が訴えたところで右から左だし」
口々に何か言う声が聞こえて、班室棟二階に目を戻した時だった。
「……あ! 誰だお前!」
階段に足を掛けたところでストップモーションしていた僕に、柵を乗り出すようにして人さし指を突き立てる女の子がいた。彼女も先ほどの子と同じTシャツを着ている。そしてその後ろにも、もう何人かいるらしい様子だ。
二階でがやがやしていたのはこの子たち、女バスの方々のようである。僕は階下から声を上げた。
「実行補佐の用事で来ました、中村といいます。班長さんはいらっしゃいますか?」
「班長はいねーぞ。今日は三年生みんな大学見学に行ってるからな」
え、そうだったの。なんという凡ミス。だから明日でいいって言われたのか。そういえば今日は会長や副会長の姿も見ていない。なるほど、大学見学ね――進学校らしい催しだこと。
「怪しいやつだな! もしかしてお前が犯人か!?」
一人で納得していた僕に指を突き付けたまま、その子は大声を出し続けている。どうやら興奮しているみたいだが、こっちは全く話が吞み込めない。柵から落ちそうなほど身を乗り出すので、それをもう一人が引っ張り上げるようにして宥めていた。
「犯人がこんなところにのこのことどまってるわけないでしょ。落ち着きなさいって」
「ホシは必ず現場に戻るって言うぞ! いいからそこのお前、こっち上がってこい! そんでもってさっさとお縄につきやがれ!」
じたばたしながら騒ぐもんだからそれを羽交い絞めにするために、もう一人二人が加勢し出した。
班長がいなければ僕としてはもう女バスの皆さんに特に用事もないのだけれど、おそらく興奮した彼女には通じまい。仕方なく二階に上がって事情を訊くことにした。
そこにいたのは四人。全員女バスの二年生ということだった。
錯乱状態にあった一人を落ち着かせた後、先輩たちから訊き出した話をまとめるとこうだ。
三年生不在で人数が少ないこともあり、いつもより少し早めに練習を終えて、班室に戻ってきた女バスの二年生一同(全五人)は、班室で着替えなり、お喋りなり、帰り支度なりをしていた。すると誰かがふと班室の壁に貼ってある写真が何枚か失くなっていることに気付いた。女バスの班室の壁には何十枚もの思い出の写真がぺたぺたと貼られているのだという。しかしどうみても数が減っているようなのだ。今日の練習前にはこんなことはなく、全ての写真がきちんとあったのに。他に部屋が荒らされたような様子もないから班員のいたずらだろうか。しかしもしかしたら練習中に部外者が侵入したのかもしれない。そう思うと気味が悪くなってしまい、みんな揃ってぞろぞろと外の通路に出てきたというわけだった。
「話は大体分かりました」一連の流れを聞き終えた僕はそう答えた後、すぐに思い出すことがあって付け加える。「あ、で、さっき階段を下りていったのは……」
「あれは恩。あいつも二年。顧問の先生に報告に行くんだって走っていっちまったんだ。うちの顧問なんてほとんどお飾りだっつーのに」
質問に答えたのは、先ほどまで僕を指さして喚いていた彼女である。透先輩というらしい。なんとか僕が犯人という誤解を解くことには成功していたが、口の悪いこの先輩、千鶴とどっこいの小柄な背格好の癖にやたら威勢がいい。
「まだ事がはっきりしてなかったから、あんまり大騒ぎしたくなくて止めたんだけど……間に合わなかったわ。あ、大騒ぎといえば、さっきは透が失礼なこと言ってごめんなさい」
そう言って深々と頭を下げてくれたのは深月先輩だ。ちょこんとくくった短めのポニーテールが可愛い。
「そもそも彼が犯人なわけないし」銀縁眼鏡をずり上げながら言う、ミステリアスな雰囲気の彼女は椎奈先輩。「放課後ずっと実行補佐の仕事してたならアリバイも鉄壁。潔白だし」
「やー、ほんと。透の早とちりはひどいからなあ」
そんな風に零したくるみ先輩はこの中で一際背が高い。深月・椎奈両先輩は女の子の平均くらいの背丈だが、彼女の場合、身長百七十センチちょいの僕を目算だが完全に越している。
「それはだから悪かったっての。でも、それじゃあ一体誰が犯人だってんだよ」
透先輩が相変わらず淑やかとは言い難い口調でがなっている。深月先輩も首を傾げた。
「確かにそうよね。どんな理由があって、写真なんかこっそり持っていったのかな」
僕はこの時、また自らの内に起こる衝動を感じていた。
それは謎解きを欲し、探偵行為を欲するリビドー……無自覚でなどいられない、まして抗うことなど――。
気付くと僕は、こほんと咳払いをして一同の注意を集めていた。
「確認しますけど……体育館で練習中、班室に鍵は掛けないんですか?」
僕の言葉に答えたのはくるみ先輩だった。
「いや、もちろん掛ける。今日は私が掛けた。練習後に帰ってきて一番に開けたのもたまたま私だったけど、きちんと鍵は掛かったままだった」
ポケットから班室の鍵を取り出して見せてくれる。シンプルな形状で持ち手にキーリングが取り付けてあった。この鍵自体に不自然な点はない。ということは第三者にとってこの班室は密室ということになる。
「鍵はいつもどうしてるんですか? 誰かが持ち歩いてたり?」
今度は深月先輩が答えた。
「それだと持ってる人以外自由に使えないでしょ。だから班員なら一応いつでも開けられるように通路の柵に引っ掛けてあるのよ。自転車の鍵でね」
示した方を見ると、柵には確かに輪っか状の自転車の鍵が引っ掛かっていた。四ケタの数字を合わせてドラム型の錠のロックを解除する一般的なタイプである。通常、自転車のフレームと車輪とを繫いでおき、盗難を防ぐための物だが、女バスではこれに班室の鍵のキーリングを通して、柵に繫いでおくといった形で使われていた。そのままの状態ではどうしたって鍵は扉の鍵穴まで届かないという仕組みだ。もちろんこれが壊されたり、挿げ替えられている様子はない。
「なるほど。その自転車の鍵の番号を班員は把握している、と」
「一年から三年までみんな知ってるし」
椎奈先輩の言葉を聞いて、大事なことを素通りしている自分に今頃気が付いた。
「そういえば三年生はいいとして、一年生は今日どうしたんですか?」
「体育館の更衣室にいるわ」と深月先輩。「班室の使用権は年功序列なの。今日私たちが我が物顔で班室を使えるのも三年生がいないからだし……一年が本格的に班室を使えるようになるのはまだまだ先ね。今日は休みの子もいなかったし、全員揃ってそこにいるはずよ」
「ということは」僕は声に出して整理してみる。「鍵の番号を教えられて知ってはいても班室自体を使用する機会がほとんどない、ということですか」
まだまだこうした基本的な情報を見落としているかもしれない。効率的に質問していかないと陽が暮れてしまう。
班活を終えた生徒たちが戻り始め、班室棟も徐々に賑やかになってきた。「それにしても今年の一年はやたら実力派揃いだよなー」とかぼやいてる透先輩によって、話を逸らされたりしてる場合ではない。邪魔にならないように通路の脇に寄りながら、僕は班室前での口頭試問を続行する。
「近隣の部屋に誰かいなかったんですかね? 彼あるいは彼女が不審な人物を見ていたり、物音を聞いたりしているかもしれません」
「班活の時間中ずっと班室棟にいたって人が、別の班だけど四、五人ほど見つかったな。怪我してるってことでスコア整理任されてたり、あとはマネージャーが部屋を掃除してたり。さっき簡単に話を聞きにいったけど、誰も思い当たることはないって」
くるみ先輩が端的に聞き込みの成果をレポートしてくれた。さすがにこれだけの人数が関係し、示し合わせて黙ってるってことはないだろう。彼らの証言は信用できるものだと判断する。
「なるほど」と僕。「班活の時間中、班室棟に取り立てて気を引く事項、不自然に思われるような事象はなかったと考えていいですね」
これも論理を組み立てる前提にしよう。
「では次は班室から失くなった写真について訊かせてください。何枚失くなっているか、そしてそれがどんな写真だったか覚えがありますか?」
「なんか探偵みてーだな、お前」透先輩が面白そうに言った後、少し考える素振り。「えーと、全部で三枚だ」
「どんな写真か、ねえ……。なんとなくなんだけど、今年の新入生歓迎会の時の写真が少なくなってる気がしたからそれかも……でも、ごめんなさい、詳しくは思い出せないわ」
写真の内容に関しては、みんなでうんうん唸って思い出そうとはしてくれたものの、最終的に深月先輩のこの証言にとどまった。
「いえ、ありがとうございます。ではもう一つ、失くなったものは本当に写真だけですか? 他に何か失くなっているものとか……」
「ちょっとタンマ」
僕の言葉を途中で遮ったのはくるみ先輩だった。五本の指をぴんと伸ばし、まるで手刀のような形にした両手を組み合わせて、胸の前でTの字を作っている。タイムアウトのジェスチャーのつもりだろうか。
「詰問もいいけど百聞は一見にしかず。実際に部屋の中を見てみればいいよ」
「え」
「ああ、それいいな。そうしろよ、探偵。こっちもいろいろ訊かれて疲れちまったからさ」
透先輩がくるみ先輩の提案に安易に乗っかった。
いや、でもそれってどうなの? 確かに現場の状況はこの目で見た方がよりはっきりするだろうけど、本来男子禁制の聖域ということもあって、そこに多少の抵抗があるのもまた事実。ていうか、普通女子の側がこういうの嫌がるイメージなんだけど。
しかし深月先輩と椎奈先輩のゴーサインも案外すんなりと出て、結局すぐに班室内の実況見分が行われる手はずとなった。
促されるままに僕はノブに手を掛けて。そのままゆっくりと金属製のドアを開く――。
ぎぎぃぃ、ぎぎぎぎぃぃぃぃーーっっ!!
突如、耳をつんざくような鋭く不快な音が響いた。騒々しいというよりも、もはや禍々しいとすら形容できるほどのそれは、しかし確かに目の前のドアが発した音のようだった。
「あっははは! 驚いたか? すげーだろ。錆びついてたって普通こんな音出ねーよな。ははははっ! てかその顔!」
透先輩、爆笑。まさかこんなドッキリがあるなんて。
「班室棟でここのドアだけこんな音が鳴るの。原因はよく分かんないんだけど、何度も開けてるとコツがつかめて静かに開けられるようになるのよ。私たちもそれができるようになったのは最近かな」
解説してくれる深月先輩までもが若干笑いを堪えているように見えるのは気のせいだろうか。
いやはや、それにしても驚いた。しかも班室棟にいる皆さんの注目を一手に集めてしまっているし。は、恥ずかしい……。さりとて頰を赤らめている場合ではない。
僕は気を取り直して女バスの班室に足を踏み入れると、室内を検めた。
班室の中は綺麗に整頓されていた。ほぼ正方形の間取り。ドアを入って正面に当たる奥の壁に唯一の窓がある。向かって右の壁際には奥の方から雑誌の収まったカラーボックス、扇風機、ラジカセ、左手の壁際には奥の方から大小のぬいぐるみ、姿見と並んでいた。
カーペットが敷かれた床の中央部に二年生らの鞄が固めて置かれている。話に聞いていた通り、荒らされた様子も大きくものが動かされた形跡も微塵もない。
写真が盗られたという箇所は、壁の陽焼け具合がいくらか違っているので分かった。窓のカーテンの裏、ぬいぐるみの脇、そしてドアの上部と確かに三ヵ所。最後のは僕も手を伸ばしてやっと届くくらいの位置から剝がされていた。
よく見るとテープの跡が多少残っているのが分かるが、剝がされ方は三ヵ所とも随分丁寧といえるのではないか。ちょこちょこ置かれた小物の類いも含め改めて調べてもらったものの、やはり盗まれたのは写真だけだったことがはっきりしたところで、先ほど階段を駆け下りて行った先輩が戻ってきた。
「はあ、はあ……先生いなかった……って、あれ?」
「あ、お邪魔してます。恩先輩、ですね。実行補佐の中村です」
「探偵さんだし」
そんな風に椎奈先輩に紹介された。違うけど。いや、違くないのかな。
「え、あ、あの……どうも」
先ほどはすぐにすれ違ってしまったので、まじまじと彼女を見るのはこれが初めてだった。背丈は僕と同じくらいあるのに、おどおどとした雰囲気に加えて声も弱々しいのでなんだかギャップを感じる。
ポケットから飛び出しているプラスチックの携帯ストラップが、さっき見た時よりもなんだかいやにひしゃげている気がした。ふと目を落とすと、彼女の上履きが少し濡れているのも分かった。僕は少しだけ首を捻る。
「おい、現場検証はもういいのか」
透先輩が耳元で大きな声を出してくる。一度思索を中断して応じた。
「すみません、もう大丈夫です。ところで三年生はいつ頃帰ってくるんですかね」
「まだかかるよ。予定では学校到着は確か七時過ぎだったかな」
くるみ先輩の言葉に僕は黙って頷いた。目を閉じて一度深く息を吸い込む。これまでの情報をまとめ上げ、足りないピースを洗い出す――。
「他に何か調べることある?」
深月先輩が優しく尋ねてくれた。
僕は目を開け、人さし指を顔の前に立てる。
「最後に一つだけ質問させてください。女バスの皆さんの中で今日の練習中、確固たるアリバイがある方はいますか」
「アリバイ? みんなあるんじゃないのか? 練習は体育館で全員揃ってやってたぞ」と透先輩。
「だけど、今日は三年生の先輩が目を光らせてるわけじゃなかったし。一人くらい体育館からちょっといなくなっても見落としたかもしれない」と椎奈先輩。
「普段の監視があれは異常だからな。私はこの前、隠れて給水してたとこ見つかってどやされたよ。水くらい自由に飲ませてくれたっていいのに」とくるみ先輩。
「椎奈とは練習中よく組むからけっこう一緒にいたつもりでいたんだけど……でもそれも『確固たる』ものかと言われたらなんだか自信なくなってきちゃった。休憩中はみんな一度は外に出てた気がするしね」と深月先輩。
恩先輩は押し黙ったままである。
「つまり完璧なアリバイを持つ人はいない、ということですね。ありがとうございました」
僕は改めて女バスの一同を見回した。
「さて、ここに女バスの二年生が勢揃いしたわけですが、奇しくもこの瞬間、事件を解決するために必要な全ての証拠も提示されました」
声にならない声が驚きを表すのを確かに聞いた。
「僕はこれから犯人を指摘します」
8 女バス班室写真消失事件 後編
「班室を引き続き借りてしまいますがお許し願います。場所を移すのも手間ですし」
「そんなのはいいって。で、犯人は誰なんだよ」
驚愕による絶句からいち早く立ち直ったのはやはり透先輩で。そのくりくりとした目を輝かせながら真相の提示を急かした。
「では、最低限必要な段階と手続きだけ踏んで手短にやりましょう。疑問点があれば都度挙げてください。では、いきます。まず外部犯の可能性ですが、これは難なく排除できますね」
「待って」
早速、誰かの手が挙がった。深月先輩だ。
「自転車の鍵の番号を知ることができれば自由に班室の鍵を使えるのよ。この点考慮して、それでも部外者の可能性があり得ないってこと、順を追って説明してくれるんだよね?」
「ええ、これからその説明をしていくつもりです」
「そっか、ならいいの。割り込んでごめんなさい」
「では――」
「あ、ちょっといいかな」今度はくるみ先輩が考えを整理するようにして話し出した。「鍵の番号は0000から9999までの高が一万通り。ってことは夜中とかにこっそり学校にやってきて何度も試行すれば、正しい番号を誰だって見つけられるんじゃないかって思うんだけど」
「それならもっと簡単な方法があるし」これには椎奈先輩が応戦した。「例えば女バスの誰かが共犯で番号をリークしたのかもしれない」
眼鏡を直すのと同時に言い終えると、班室には静かに疑心の雰囲気が垂れ込めた。
「えーと……そうですね」僕は状況を見て、ややアプローチの仕方を修正する。「せっかく意見が出されたのでそれを検討しながら展開していくことにしましょう。ではまず、くるみ先輩の意見。これは理論的には可能でしょうが、やるとなったらそれはまた別問題ですよ。しかもそんな労力をかけて鍵を開けたとして、盗んだものが写真三枚こっきりというのも割に合いません。財布の一つも持っていかずに退散するなんてやはり考えにくいです。また椎奈先輩の意見ですが、女バスの誰かが一見無関係な共犯者を置いて犯行を任せる場合、自分はその間アリバイ作りに徹し、容疑から逃れようとするのが絶対条件です。女バスの誰にもアリバイがないのなら共犯も意味を成しません」
「あ! 三年生の先輩はどう? あの人たちには現在完璧なアリバイがあるでしょ。疑うのは気分のいいことではないけれど……あの人たちなら誰か外部の人間を操って犯行を任せることに意味があるんじゃない?」
深月先輩の言葉に誰ともなく息を漏らした。僕自身、大きく頷く。
「着眼点はいいですね。しかし班室の鍵がなんとかなったとしても、外部犯を排除できる決定的な証拠があるんですよ。班活の時間中ずっと班室棟にいた人たちの証言があるじゃないですか。彼らは不審な人物を見ていないばかりか、不審な物音一つ聞かなかった――ここから部外者の犯行ではないことが容易に明らかなんです」
「おいおい、探偵、もったいぶってんじゃ……あ!」
「気付きましたか、透先輩。そう、女バスの班室のドアは開閉時にものすごく大きな音が鳴るんです。静かに開けるには一朝一夕では身に付かないテクニックを要するようなので、班室の鍵を使用できた部外者でもこちらは習得のしようがありません。女バスの班室は部外者にとっていわば二重の密室! あんな音が鳴っていれば、その時班室棟にいた全ての人がそれを聞いているはずです。しかしそういった証言がなかったということは、つまりあのドアが静かに開けられたということ。それができる者が犯人ということになります」
「なるほど。筋は通ってるし」と椎奈先輩。
「このことから外部犯の可能性は排除できますね。故に犯人は女バスの班員、しかも大学見学に出ている三年生を除く二年生及び一年生に限定されるわけです。さらに一年生はまだ班室を数えるほどしか利用していないらしいので、彼女らもあのドアを静かに開けるのは難しいでしょう。二年生ですらこのドアを静かに開けられるようになったのは最近だと深月先輩が言っていました。こうして消去法によりあっという間に犯人は女バスの二年生の内に絞られるのです」
一同に緊張が走るのが伝わる。まさか自分たちの仲間を本気で疑うことになろうとは思っていなかったようだ。時間はかけない方がいいな。僕は淡々と論証を重ねていくことに集中する。
「次に盗まれた写真の位置によってさらに犯人像を絞り込みます。写真は計三ヵ所から盗られていましたが、一ヵ所僕が手を伸ばしてやっとのような所から持ち去られていました。そう、あのドアの上部です」僕はその位置を指し示し、聴衆がそれぞれ確認と納得を済ませたのを見計らってから続けた。「班室には踏み台になるような物はありませんでした。扇風機やぬいぐるみ、ラジカセといった物ではいくら皆さんがスマートでも足場としては頼りなさ過ぎるし、カラーボックス等を動かした形跡もない。脚立みたいな物を持ち込むのはさすがに骨が折れる上に何より目立ちます。何か棒のような物で写真を引っ掛けて盗ったわけでもなさそうです。テープはとても丁寧に剝がされていましたから。よって犯人は僕と同程度の身長を持つ者に限られます。それは――くるみ先輩と恩先輩の二名ですね」
「待ってくれ!」
そう声を上げたのはくるみ先輩だった。しかし僕はそれを片手で制する。
「ただしくるみ先輩、あなたの潔白を僕は知っています。あなたは第一の条件で実はふるい落とされていい人物だ。あなたは女子バスケットボール班に入班してまだ間もないですよね?」
「な……私が二年生から入班したのを知ってたのか……」
「いいえ。でも先刻のジェスチャーでもしやと思ったんです。僕、実はこれでも中学時代にバスケやってまして。あなたは『タンマ』と言いながら両手をこう、チョップするときみたいに全ての指を伸ばした状態で、Tの字に組み合わせましたよね。みんなこういう雰囲気だから気付かなかったのか、それともスルーしたのか分かりませんが……それ、バスケでは『タイムアウト』じゃなくて『テクニカルファウル』のジェスチャーじゃないですか」
はっとした様子のくるみ先輩。
「ちなみにタイムアウトのジェスチャーは、右手は人さし指だけを立てた所に、五本の指をぴんと伸ばした左手を乗せます。これは些細なミスですがバスケを一年くらいみっちりやっていた人だったら赤面ものの勘違いです。だからくるみ先輩はまだちゃんとバスケをやり始めて日が浅いんだと分かりました。そうなると班室のドアを音もなく開けるスキルもまだ身に付いているとは考えにくい。以上の根拠によってくるみ先輩は犯人足り得ず、消去法で最後に残った恩先輩こそが班室から写真を持ち去った犯人ということになります」
みんなの意外そうな視線が恩先輩に集まる。彼女は震える肩を自らかき抱きながら俯いたままだ。
「じゃあ恩……お前、今も写真持ってんのか?」
透先輩の問いに恩先輩は、
「……写真なんて持ってない」と、か細い声ながらも言い切った。
ここは虚勢を張るようなところじゃない。これは本当のことを言っているとみていいのだろう。思った通りだ。
「多分その写真が決定的な証拠になってしまうと気付いたんでしょう。恩先輩はもう写真を持っていないはずですよ」
僕の推理を聞いて、くるみ先輩は得心がいったというように声を発した。
「そうか、だから先生に知らせてくるって一目散に駆けだした――その時に写真をどこかに置いてくるか隠したかしたんだ」
「でもなんで写真なんか黙って……言ってくれたら別に……」
深月先輩が気遣うような口調で恩先輩の顔を覗き込む。
「違う……私は……」
空中分解に終わる恩先輩の呟き。
僕はうっすら予感していた。この事件の肝はここからだということを。
つまり恩先輩の動機の解明だ。しかし実際、犯人の心の機微を理詰めで追っていくのは難しい。そもそも感情とか情動とかいったものは論理の対岸にある概念だから。ただこの理由付けを欠いては誰も納得し得ない。動機を汲み取れない以上、女バスの誰も恩先輩の罪を許す気にもならないはずだ。
僕の告発が彼女らの友情の亀裂になったとあっては寝覚めがよくない。恩先輩が自分からそれを吐露するのが期待し難い以上、ある程度形になったものを僕の口から語らねばならないのだ。僕はあえてひたすら優しい声音で恩先輩に迫った。
「では恩先輩、罪を認めろとか洗いざらい白状しろとか言いませんから、一つだけ僕の質問に答えてください。なぜ、あなたの上履きは濡れているんですか?」
一瞬強い電流が流れたように恩先輩の体がわななく。僕は穏やかな声音を崩さない。
「梅雨入りが発表されたにもかかわらず最近は連日の快晴、今日もほら、雲一つないぴーかん照りです。なぜこんな天気で上履きが濡れるんでしょう?」
「う……そ、それは、あの……校内で水を飲んできたから……」
「校内の水道って蛇口から足元にそのまま水が落ちたりしませんよね。服やなんかが先に濡れそうですが」
「え、えーと……あ、トイレの床に水が撒かれてて……」
「掃除はもう二時間ほど前ですよ。さすがに床も乾いているでしょう」
「………………」
「沈黙はやましいことがあるという証拠ですよね」
またもびくりと恩先輩の肩が震える。僕は一時、視線を彼女から他の聴衆へと移した。
「『写真を盗む者の動機』といった時、一般的に考えがちなものは、例えば写真を自分だけの持ち物として大切に保存するためとか、あるいは強く写真を欲する第三者に売りさばくためとか、そういったことじゃないですか? さっきくるみ先輩は、恩先輩が口実を作って飛び出した時間で写真を置いてくるか隠したかしたんだと言いました。今、挙げたような動機であれば、盗んだままの綺麗な状態で写真を保持したいと望むはずですから、その考えは自然な流れです。
僕も最初はそうした論理の道筋を辿りました。しかし写真を置いてくるか隠したかしたところで普通上履きは濡れない。僕は現実に起きている事象を基礎にして、考えを根本から改めることにしました。濡れた上履きだけだと根拠は薄弱ですが、さらに僕にはもう一つ気になった点がありまして……恩先輩のポケットから出ている、そのひしゃげたプラスチックの携帯ストラップです」
「そういえば……」と椎奈先輩。「それ前から付けてたやつだけど、今日の練習終わりまではそんな風になってなかったし」
「上履きの濡れ色、プラスチック素材の変形――それらの証拠を組み合わせて僕は、恩先輩が飛び出して行った時間で何をしていたのかを推測しました。もはやこれらを同時に満たす行為は一つしかありません。恩先輩はあの時間において火を使用し、写真を焼却していたのです」
「なーる」透先輩がぽんと手を叩いて頷く。「それくらいの高温でなきゃプラスチックはひしゃげたりしない。上履きが濡れたのは消火するために水を撒いたからってわけか」
そこで深月先輩がおずおずといった感じで再び挙手をした。
「ねえ、それでいくと……恩は初めから写真を処分するために盗んだってこと?」
「確かにそれだけ聞くと少々納得し難い動機かもしれませんね……しかしその写真に恩先輩にとって都合の悪いものが写りこんでいたとしたらどうでしょう?」
「都合の悪いもの?」
くるみ先輩が発問するので、僕は一例を挙げた。
「例えば……恩先輩が風邪だと言って欠席した日の練習風景を収めた写真なのに、体育館の窓の外にはおめかしした恩先輩が小さく写っている――とか」
「おお、そりゃ」透先輩が苦笑する。「バレたらただじゃ済まないな」
「ただしここで重要なのは写真をわざわざ燃やしたということです。ただ処分するだけなら細かく破いてどこかごみ箱の奥にでも突っ込むか、トイレに流してしまえばそれで済むでしょう。それなのになぜ、恩先輩は格段に面倒な焼却という方法を取ったのか」
「………………」
恩先輩は頑なに黙秘を貫いていた。
仕方ない。論説を続ける。
「僕はここでもう一段階論理を飛躍させました。先ほど深月先輩は最終的に写真を処分することが、恩先輩が写真を盗んだ動機なのかと僕に尋ねましたね。実はこれ、厳密にはノーです。恩先輩にとって写真を燃やすという行為は処分とは性質の違うものだったんですよ。写真に写っていた恩先輩にとって都合の悪いもの――これが例に述べたような類いのものではなく、もっと得体の知れない、つかみどころのない何かだったのだと考えてみてください。恩先輩がしようとしたことがはっきりしてきます。彼女が写真を盗んだ動機、それはつまり――心霊写真をお焚き上げ供養するためだったんです」
はっとしたように俯いていた恩先輩が顔を上げ、僕の方をじっと見つめた。僕は意に介さず口を動かす。
「恩先輩はいつからか班室の写真によくないものが交ざっていることに気付いていた。しかしそれをどうしても班員に相談できなかったんです。高校生にもなって心霊写真で騒ぎ、挙げ句きちんと供養しようなどと持ち掛けて、はたして理解してもらえるだろうか。何か目に見えるものでも写りこんでいたら話は別だけれど、一見して何もおかしなところがなければ、思い出の写真を燃やそうなどという提案は決して良くは思われないはず。オカルト少女なんて陰でお笑い種になるかもしれない。
迷った末に恩先輩は自分一人で黙って実行することにしました。まずこっそり練習中に抜け出し、班室の写真を回収しておいた。何十枚も壁に貼り付けてある内の高が三枚なら、失くなったところで簡単には気付かれないだろうし、発覚してもそこまで大事にはならないだろうと、恩先輩は踏んでいたんでしょう。
しかしすぐに犯行は露見し、さらに思いがけずみんなが怯えてしまった。身体検査でもされたらまずいと、恩先輩は早いうちに目的を果たすことにしたんです。先生に知らせてくると適当に理由を付けて飛び出しました。校内の方に走っていったと見せ掛けて、どこか人目に付かないところで引き返し、用意しておいたライターやらマッチやらで写真に火を付けた。お焚き上げ供養の作法について僕は詳しくは存じ上げませんが、そんな仰々しいものでなければ写真三枚くらいすぐに終えられたでしょう。これが今回の事件の真相です」
僕が言い終えると同時に、透先輩が気抜けしたように脱力した。
「なーんだ。はは、そんなことだったのかよ」
「心霊写真か……。私は霊感全くないから分からないけど、体質によってはやっぱり深刻な問題なのかな」
深月先輩が零すと、椎奈先輩がそれに答えた。
「割と笑い事じゃないかも。班室にいる間、ずっと落ち着かない気持ちだっただろうし」
「いやあ、でもやっと溜飲が下がったよ。恩もそんな抱えずに言ってくれればよかったのに」
くるみ先輩が恩先輩の肩をぽんぽんと叩くが、恩先輩はまだ伏し目がちに貝になったまま。僕の方をちらちらと見ているようだけれど、気付かないふりをする。
きーんこーん、かーんこーん。
完全下校時刻を告げるチャイムの音が見計らったように響いて、そろそろ退散しようとしていた僕は胸を撫で下ろした。
「さ、とりあえず今日はお開きにして帰り支度をしましょう。校門が閉められてはたまりませんから」僕はそう促して、恩先輩が突っ立っている上がり口で靴を履くと、一同の方へ頭を下げた。「では僕も失礼します。部外者なのに長々と居座って、余計な口をきいてしまい申し訳ありませんでした」
「いいのよ、また遊びに来て」「ありがとう、探偵さん」「さんきゅーな」
各々から投げ掛けられるそんな言葉を背に、僕は女バスの班室を後にしたのだった。
一応断っておこう。
僕は今回、故意に虚構の推理を組み立てたりはしていない。だから僕の述べた事件の全容は、事実起こっていた真相とそう大きく違わないはずだと自負している。
ただ後半、動機の解明の一番最後の部分にだけ恣意的な操作を入れさせてもらった。写真を燃やしたことに対する理由付けの部分だ。実を言うと、僕には写真を焼却したことに対する解釈が、二つのベクトルで思い浮かんでいた。
一つは実際に班員の前で提示した、善意や厚意とまでは言えないながら、少なくとも行為者の悪意や害意が発露したものではないという見方。心霊写真の悪い影響を危惧したから、お焚き上げという方法で供養したんだという解釈。
しかし、可能性として着想を得ていながらも、意図して隠蔽した解釈がもう一つあった。それは前者の逆、つまりその行為は行為者の悪意が発露したものだと見る見方。
供養という概念も今やかなり抽象化していて、様々な宗派でそれぞれのある程度定まった様式があるものの、本来の意義に照らし合わせれば、そうした形式的なものよりも実際は行為者の心持ちの方が大事だという。対象となる霊に真摯な思いを込めることが一番の供養になるということだ。裏を返せば、それが全く同じ行為だとしても込める思いが異なれば、正反対の作用をそこに現出させることになる。
写真は元々藁人形の代替にもなるようなその人物の型。それに悪意を込め、呪詛を念じて燃やせば、簡単に行為の本質は裏返る。
恩先輩は心霊写真を供養しようとしたのではなく、実は写真の相手に呪いをかけようとしたのではないか。
盗まれた写真は今年の新入生歓迎会の時のものだった気がするという証言があった。また、女子バスケットボール班に入班した今年の一年生はみんな有能だとも。ということは、三年生引退後のレギュラー争いは熾烈を極めることになるだろう。そうなると容易に成り立つ推測がある。後輩に負けてはいられないと努力に努力を重ねた二年生が、それでも圧倒的なレベルの差を見せつけられてしまったとする。さらには体格の良い選手の途中入班というプレッシャー。心が折れ、自信を喪失し、それでも現状を打破したいと考えたとき、頼ってはいけないものに頼ってしまった――そんな因縁譚。
しかしこれについての真実は既に闇の中である。僕には今後どうにもしようがない。人の心を完全に理解することなど到底できはしないのだから。
ただ、一つだけ確かなこと。それは僕自身があの時あの場で、悪意による動機なんてつまらないことを口に出したくなかっただけのことなのだ。
ただ、それだけ――そして、それが全てだった。
翌日。
僕は昼休みを使って昨日できなかった報告を後夜祭係の係長、つまり女バスの班長に伝えに行った。
射抜かれそうな狐目に少しどぎまぎしたものの、彼女はスケジュール調整の上で期待に添えなかった部分をさっと確認すると、独特のハスキーボイスですぐに快諾してくれた。魅力的な声だけど、いつもはその声で体育館の外まで優に届く叱咤を飛ばしているらしい。その標的にならずに済んだことにほっとして、僕は安堵の溜め息を漏らした。
帰り際、一つだけ気に掛かっていたことを、少し迷ったけれど訊いてみることにする。
「あの……今日の二年生の練習の感じ、どうでした?」
「ん? 女バスの二年? どうって朝練は別にいつも通りだったけど……いや、待って。そういえば、恩が妙に気合入れて練習に臨んでたかも。ものすごく集中してた。心機一転っていうか、人が変わったっていうか、目の輝きが違うっていうか……と、なんでこんなこと訊くの?」
「いえ、こっちの話です。そうですか――あ、スケジュール承諾ありがとうございました」
「うん、ご苦労様」
踵を返しながら思った。それはいい予兆に違いない、と。
真相は未だ闇の中。
それでも僕は一―Aの教室に戻る道すがら、自分の心に掛かっていた靄が少しずつ晴れていくのを感じていた。
幕間 前夜祭を終えて
「皆、お疲れ。とても素晴らしい前夜祭だった。これなら明日からの一般公開もきっと最高のものになるだろう。……こほん、挨拶は短めにしよう。どうかここでしっかりと英気を養ってくれ。まあ、騒ぎ疲れては元も子もないから、ほどほどにな。では、鷹松祭の成功を祈念して――乾杯!」
「乾杯!!」
前夜祭の余韻残る体育館の一画。
敷かれた青々としたビニールシート。
その上で鷹松祭実行委員会による、前夜祭の二次会ともいえる宴会が行われていた。学校に宿泊するのは文化祭の準備とはいっても基本的に禁止されているのだが、この会だけは例外的に毎年実施されている。
「あーあ。前夜祭は『The Babies Are NakeD』の演奏がちゃんと聴けなかったのだけが心残りだー」
宴の片隅で僕ら実行補佐四人衆はまとまって座っていたのだが、不意に千鶴が紙コップ片手に呻いた。コップの中身は当然ジュースである。我ら鷹松学園生たるもの、法外な方向に羽目を外したりはしないのだ。
「え、あのバンドのライブの時間はみんな体育館にいたじゃん。聴いてなかったの?」
線太郎のもっともな指摘だったが、千鶴は分かってないなあとばかりに溜め息をつくと、ジュースを一気に呷ってから言った。
「最前列で聴きたかったの!」
「へえ、千鶴、軽音興味あったんだ。意外だね。なんか楽器やんの?」僕が尋ねると、
「んー」千鶴はしばし思案顔。「あんましじょうずくないけど……ディジュリドゥとかダラブッカとかマトリョミンあたりを少し」
「なんでアボリジニの管楽器やら、エジプト発祥の打楽器やら、マトリョーシカに入ったテルミンやらが演奏できるんだよ!」
「さすがあき君! ぱーぺきなツッコミありがと」
いやいや、ボケがめちゃくちゃ過ぎるっちゅーねん。なんとか拾いきれたけどさ。
「軽音班は一般公開中も演奏するはずよ」
こんな時にも穏やかな湖面のように一定のテンションでりり子が言う。
「あ、そっか」千鶴の顔が綻んだ。「よーし、時間チェックしとこ」
「皆さん、楽しんでますか」
一段落したところに声が掛けられた。柔和な声の雰囲気で大体察せられたが、やはり副会長である。飲み物を注いで回っているようだ。仮にも、いや、正規に副会長であるのだから、そんな甲斐甲斐しく働かなくてもいいのに。堪えかねて僕は言った。
「副会長こそ。お酌なんて僕が代わりますから、輪に加わってきてくださいよ」
「いや、いいんです。実行補佐の皆さんは本当に精力的に動き回ってくれましたから。僕なんか体力有り余ってるくらいですよ」
そんな風にはてんで見えない。このところ目の下の隈がすっかり濃くなっている副会長なのであった。これは会長にもいえることだけれど。その激務、推して知るべしといったところだ。本当は自宅でしっかり休むべきなんだろう。ただ、この『前夜祭からそのまま体育館貸し切ってお泊り』というのは、もはや恒例行事となってしまっているらしく、そうなると責任者として会長が不在というのは許されないのである。
「それでも本番前に体を壊されてはどうにもなりません」りり子が察して副会長に労りの言葉を掛けた。「今日は早めにお休みになってください。後のことは私たちがやりますから」
「……そうですね。ではもう一杯だけ頂いて皆さんに挨拶したら、一足先に休ませて頂きます」
「それがいいですね」
線太郎が言うのに続いて、千鶴が立ち上がる。
「じゃあ、あたし注ぎますよ」
「ああ、すみません。では、お願いします」
副会長がペットボトルを千鶴に手渡し、自分の紙コップを構えた時、ステージの方から大音声が飛んできた。
「みんなー、注目!」
見ると壇上に上がった一人の先輩がマイクを構えている。
「エントリーナンバー一番、歌います!」
「おう、やれやれー」「よっ! 待ってました」
体育館のあちこちから拍手や指笛、はやし立てる声が響いた。
「休むには少し賑やか過ぎるようですが」
副会長は困ったような顔をしてみせたが、会場の雰囲気を心底楽しんでいるようだった。
「まあ、横になるだけでも随分違うっていいますからね。会長も疲れてるはずですから、副会長の方からお休みの進言をお願いします」線太郎はそう言った後、いたずらっぽく付け加えた。「僕らはもうちょっと楽しみますけど」
こうして、祭の前夜は更けていった――。