ロジック・ロック・フェスティバル
第二回
中村あき Illustration/CLAMP
新人×CLAMP 「新本格」推理小説(ミステリ)の正統後継者・中村あきのデビュー作! まだあった「新本格」推理小説(ミステリ)! 全ミステリファン注目の新人登場、星海社FICTIONS新人賞受賞作。
6 大脱出
二人の息遣いだけが響く密室。
僕は今、鋸りり子に覆い被さるような体勢になっていた。
スカートから伸びる脚はどきりとするほど細く、埃臭い床を這う乱れた髪は、部屋の隅にうずくまる闇にそのまま溶け込んでしまいそうだ。白く透き通る肌にそこだけ鮮烈に浮かび上がった唇は、小さな炎が閃くように時折小刻みに震えている。
ああ、仮名先輩という人がありながら僕は――って、落ち着け、中村あき。
一体、何故こんなことになってしまってるんだっけ。
***
話はその日の放課後まで遡る。
いつの間にか六月に突入していたカレンダーに驚きつつ、僕たち実行補佐はいよいよ本格的に仕事をこなしていた。最近の放課後の主な過ごし方は、文化祭各係の間を渡り歩き、進捗状況を調査しつつ、場合によっては派遣社員のようにそのままお手伝いというもの。
しかし今日はというと、そんな毎日の中に突如ぽっかりと出現した空き日であった。
衣替え時期だというのに未だしぶとくブレザーを着こんでいる僕は、既に教室の中に千鶴の姿が見えないことに気付いた。
「千鶴はベルサですか?」
線太郎に尋ねてみる。
「そうみたいだね。バイトは結局採用されてやってるし、二輪免許の教習も受け始めたでしょ。あれで案外、忙しいんだよ」
「ふむ。って、そう言う線太郎も荷物まとめてますけど」
「ちょっと調べものをね。今日は足を延ばしてあちこち回るチャンスだから」
彼の机の上には、付箋の挟まれた生徒会月報が山と積まれていた。
「あ、学校の地下軍事施設関連でしょ? もう、せっかく放課後何もないんだから、足じゃなくて羽を伸ばそうよ。地底探検もいいけどさ」
「そんなSF染みたもんじゃないよ。もちろんファンタジーや、あきの偏愛するミステリなんかとも違う。現に実在した歴史の一部分、地に足の着いたノンフィクションなんだ。だからこそロマンはつきないわけだけど」
「はいはい、分かりました分かりました。あ、りり子ももう帰るの?」
彼女は手すさびでぱらぱらと捲っていたらしき生徒会月報(表紙には『祝・全国大会出場! 女バスに意気込みを聞く!』とある。前年度の七月号のようだ)を線太郎の机にぽんと戻し、鞄を担ぎ上げたところだった。
「そうね、そうするつもり」
「はあ……。じゃあ僕もおとなしく帰るとしますか」
そんなわけで僕とりり子は一緒に学校を出て、駅に到着したと同時に折よくやって来た電車に乗り込んだ。
そこまでは何の変哲もなかったのだ。
しかし乗車中、窓の外をなんとなしに眺めていると、さっきまで陽が出ていたはずの空がみるみる不穏当な灰色で塗り固められていく。ぽつぽつとガラスに水滴が付き始めたと思ったら、あれよあれよという間にそれは激しさを増し、気付けば辺りはバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになっていた。
電車組の僕とりり子は降りる駅も一緒だ。といっても降りてからはそれぞれ反対方向に別れる。彼女の家は駅のほど近く、街の境を流れる川の方向に少し下っていったところにあった。一度もお邪魔したことはないけれど、そのお屋敷がどデカいことで界隈では有名だから、場所だけならなんとなく知っている。一方、僕の家は駅から一時間近く延々と上り坂を踏破した末にようやく辿り着けるような場所にあった。
さて、降車後、当然傘など持ち合わせていない僕はしばらく雨空とにらめっこ。どうせ通り雨だと高をくくっていたものの、それは一向に衰える様子を見せない。
りり子も僕の隣で黙って空を見上げている。やっぱり立ち往生か、と思っていると、ふうと溜め息一つついた彼女はやがて鞄から何やら取り出した。
りり子の手には――一本の折り畳み傘。
「……さすが、準備がいいですね」
用意周到というべきかもしれない。しかししばらく待ってもりり子はそれを開こうとはしなかった。挙げ句、感心している僕の方に向かって、傘の取っ手を差し出してきたのだ。
「貸すわ。私の家はすぐ近くだし」
おお。願ってもない申し出。
これは、でも……男の子が女の子から受けてよい類いの申し出ではないぞ。ジェンダーバイアスではなく、男のプライド、突き詰めれば見栄の問題だ。彼女を濡れ鼠で帰す訳にはいかない。
「いや、いいよ。もうちょっと待ってみるし」
りり子は少し考える素振りを見せて。
「……それじゃ、家にある傘を貸すわ。うちまで一緒に来てもらうことにはなるけれど、大した距離じゃないから」
「ああ、なるほど。うー……ん」
もちろんこの辺りは駅近にコンビニがあるほど気の利いた土地ではない。正直この雨が止んでくれずに陽が暮れたら、僕は途方に暮れるしかない状況ではあった。
「あー……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
りり子は傘を広げた。しかし歩きだすでもなく、少し高めにそれを掲げるような体勢で止まったまま。僕が訝しんでいると、彼女は顔だけこちらに向けて言う。
「……早く。入らなきゃ濡れるわ」
「え……ああ、うん」
そうか、そうだよな。考えるまでもなく一つの傘で二人の人間が一緒に目的地へ行こうとしたら、よほどどちらかが鬼畜でない限りこうする他ない。
しかし、これは。世にいう相合い傘というやつではないか。
ただ迷ってる暇はなかった。僕にはその傘に入る以外の選択肢はないのだから。ぎこちないながらも二人は歩きだす。
「……傘、持とうか」
「いいわ」
少しでも男らしいところを見せようと提案した申し出は、あえなく却下された。
もちろん高校生にもなって、相合い傘ごときでドキがムネムネなんてするわけがない。するわけがないのだけれど、密着する体や水気を吸った髪から漂う甘ったるい香りにはなんとなくむず痒い気持ちになってしまう。
雨が傘を叩く音。
無言のまま黙々と歩みを進める二人。
りり子の家までの短い道中、僕の理性は彼岸を漂っていた。
「着いたわよ」
りり子の言葉で我に返る。いつの間にか僕は閉ざされた門の前までやって来ていた。
ここが音に聞く鋸邸か。いや、それにしても――これは本当に大きいぞ。眼前の門で内部の全貌を把握できないながら、その門構えや左右にいつ果てるともなく連なる塀を見ているだけで既に圧倒されてしまう。
りり子が鍵を取り出し、門の脇の扉を開ける。彼女が促すようにするので、僕が先にそこから敷地に入った。
目に飛び込んできたのは圧巻の庭園だった。手入れの行き届いた生け垣。刈り込まれた木々。配置を整えられた岩。雨粒を受けてなお静謐を湛える池。その中を悠然と泳ぐ色とりどりの錦鯉。そしてそれらを統べるかのように鎮座する絵に描いたような日本家屋。その向こうには立派な蔵も見えた。
道なりに設置された飛び石を歩きながら息を吞む。家柄でここまで住む世界が違うものなのか。自身の境遇と比較すると、少しばかり悲しい気持ちになってしまう。
玄関に到着すると、りり子が再び鍵を取り出して差し込む。扉を開け、彼女はまた先に入るのを促すように手を出すので僕は慌てて言った。
「僕は外にいるよ。傘を借りに来ただけだから」
「傘が小さかったから濡れたでしょう。タオルを持ってくるから上がってて」
「いや、でも、あれだよ。りり子が鍵を開けたってことは親御さんは留守ってことでしょ。勝手に上がり込んでても失礼だし」
「私一人暮らしだから」
「え」
「だから遠慮はいらないわ」
こんなお屋敷に高校生が一人暮らしだって?
どんな事情があったらそんなことになるのだろう。
啞然としているうちに僕は言われるがまま三和土で靴を脱ぎ、板張りの廊下を彼女に説明された通りに進んでいた。思索に気を奪われていたとはいえ、結局は雰囲気に流されて図々しくも人様のお家に上がり込むことになっている。我ながら少々情けない体たらくであった。
あ、ここかな? りり子の言ってた客間。
敷居を跨ぎ、僕は適当に場所を見繕って腰を下ろした。目の前のどっしりとした座卓は木彫りの意匠が洒落ていて、見るからに高級そうだ。
いや、吞気にしてる場合じゃないぞ。
愉快なお話じゃなさそうだから、とりあえず家庭事情の詮索は措こう。としたらすべきことは一つしかない。さっさと傘をお借りして帰るのだ。女の子の一人暮らしの家と分かっていながら、なおも居座るなんて真摯な紳士の態度ではない。間違いなんか起きるわけないけれど、一般常識的にそうするべきなのだ。
そんな風に思いを巡らせていたら不意に後ろの襖が開かれた。
「はい、タオル。あとこんなものしか出せないけれど」
なんとりり子はタオルを持ってきてくれただけでなく、お茶まで淹れてお盆で運んできてくれたようだ。
僕はタオルを受け取って、髪と肩の水気を拭き取りながら再検討する。せっかく手間をかけてくださったのだから、お茶は頂くことにしよう。うん、飲み終えたらすぐ帰ればいいのだ。そうだ、それでいい。
「タオルありがとう。じゃあ、これ、いただきます」
自分でもその切り替えの早さに半ば感心し、半ば呆れながらも、お茶に手を伸ばそうとテーブルににじり寄る。すると正座していた僕の膝にこつんと当たるものがあった。
「これは……」
テーブルの下から出てきたのは一冊の本。
それは中井英夫著『虚無への供物』だった。
『ドグラ・マグラ』、『黒死館殺人事件』、『匣の中の失楽』と共に日本推理小説四大奇書の一角を成すそれは、『探偵小説の墓碑銘』なんて称され絶賛される名著である。僕も大好きな一冊だ。
「あら、失くしたと思ったらそんなところにあったのね。普段はこの部屋、滅多に使わないから」
「意外だね。りり子も推理小説なんて読むんだ」
「悪いかしら」
「いや、変な意味じゃなく。ずっと気になってたんだよ、りり子ってどんな本読んでんのかなって。入学してすぐに一度、何読んでるのって訊いたんだけど、その時は『言葉、言葉、言葉』なんてはぐらかされたじゃない? 仕方ないからどんな作家が好きなのって訊いたら、今度はデレク・ハートフィールドなんて突き放すし、それきり――」
「あれは私なりのジョークだったんだけれど」
「分かりづらいよ!」
これはツッコまずにはいられなかった。真顔でのジョークは今後控えてもらうようにしよう。気を取り直すために咳払いを一つ。
「……まあ、同志が近くにいたことは収穫かな。また折に触れて推理小説談義に花を咲かそうよ。僕の好みはやっぱりロジカルな本格もの。でも心に残ってるのって案外ドラマティックでドラスティックな変化球が多いかも。メジャーなのだとクリスティの『オリエント急行』、チェスタトンの短編「飛ぶ星」なんかがお気に入り。りり子は『供物』が?」
「ええ、フェイバリットといってもいいわ。探偵たちの立ち居振る舞いがいやに滑稽でしょう? そのおかしみを本人たちが一番自覚しているようなところが」
僕はりり子の微妙な語調の変化を聞き逃さなかった。
それと同時に天啓ともいえるようなアイデアが頭に閃いたのだ。
僕には何にも増して彼女に問い質したい事柄があった。
それは中学時代の探偵行為の意味。
そして挫折の理由。
掘り起こしていいものだろうかと悩んで今まで触れてこなかったけれど、今なら推理小説談義という形式で真相に肉薄できるかもしれない。
「りり子はさ、『名探偵』についてどう思う?」
我ながら卑怯だけれど、この単語にりり子が反応しないわけがない。唐突にこの言葉が出れば、元小原ヶ丘中学生の間では一時期のりり子を意味すると認識される(僕が『名探偵』と呼ばれていた期間もあったとはいえ、その場合の『名探偵』という呼称は所詮便宜的な意味に過ぎなかった)。ただし殊にこの場においては、推理小説の話題という体裁に落とし込みながら水を向けられるのだ。
鋸りり子は顔色を微塵も変えず、しかし一つ一つの言葉を丁寧に審議しながら返答した。
「……探偵という名詞に優れている、評判が高い、といった意味の『名』が付いた形ね」
「それは字面の説明。僕が聞いているのはそこに内在する本質だよ」
彼女は怯むことなく、すぐに詩でも誦するかのように朗々と述べた。
「探偵とは――偏に卑しき存在、かしら。いかなる問題にだって首を突っ込んでは、関係者の秘部も恥部も手当たり次第に白日の下に晒す、エゴイズムとナルシシズムの権化よ。――これで満足かしら? 少なくとも私は名探偵だろうが、これ以上でもこれ以下でもない存在と認識しているわ」
これは。
中々に散々な言いようだな。
しかし彼女自身が『名探偵』であったことを考えると、やはり単に推理小説に関する持論と捉えるわけにはいかない。その立ち位置について彼女も葛藤を抱えていたということか。
ここまで来たら今さら黙って引き返すわけにはいかない。それではあまりに惜しいではないか。僕は真実への知的欲求に身を委ねることにした。
「それは探偵の成す行為に対する懐疑かな。それならこういう議論もあるよね。
――探偵は作中において自分の語る最終的な論理を客観的に証明できない。
――また自分が事件に関係することで少なからずの影響をそこに与えることになる。
もはや説明も不要なほど高名な推理小説作家、エラリー・クイーンの後期作品群より抽出された、探偵の存在そのものに疑問を投げ掛ける二つの命題だけど」
僕は平然と、あくまで推理小説という地平でものを言っている、というアピールをしておいた。隠れ蓑にさせてもらうのは後期クイーン問題なんて総称される手垢の付いた議論だ。これはでも、この場においては単なる目くらまし。
りり子は間髪を容れず言葉を返してくる。
「そんな小難しいものに依らなくたって少し考えれば分かるのよ。探偵が所詮不完全で不自然な存在だってこと。探偵が探偵を降りたらそれが一番平和的だと思わないかしら? そうなったら小さないざこざは当事者間で望む形に収束されるだろうし、大きな案件は法治国家のあるべき手続きの下、警察と裁判所によって終息されるじゃない?」
彼女の返答には僅かながら感情の影が見え隠れしていた。こんなことは初めてといってもいいくらいだ。こんな簡単で単純で稚拙な、僕ごときの話術に心乱されるなんて、らしくない。
彼女の言葉をそのままの意味で取るのは安直に過ぎるかもしれないけれど、やはりそれが探偵を辞めた理由なのだろうか。
推理小説においてはどうしたって広義の探偵役を排除することはできない。その世界では物語自体を終結させるためにも、どんなにその基盤の危うさを指摘されようが謎解き係が必要不可欠なのである。
しかしこの現実においては探偵が存続し続けなければならない理由など一つもない。それは倫理的支柱を欠く上に、社会を維持するのに必需なシステムとも言い難く、世界が要請するに足り得ない存在だから。
そうなるとつまるところ現実における探偵の存続条件は探偵自身の一存にのみよる。だから彼女は自身の意思でそれを降りた。ただそれだけのことなのだろうか――。
決定的な質問でりり子の口から最後の答えを引き出すつもりだったが、素早く体勢を立て直した彼女に先手を取られてしまった。
「推理小説がお好きなら外の蔵が書庫になっているわ。せっかく来たんだし、覗いてみる?」
そんな風に話を逸らされてしまう。
追及もここまでか。こんな提案を出されたら推理小説好きとしての当然の反応をしなければならない。いや、実際興味深くはあったのだけれど。
「そうだね……じゃあ、ちょっとだけ覗いて行こうかな」
「私は鍵を持ってくるから、先に行っててもらえる? 迷うことはないと思うから。玄関を出たら、左手から裏の方に回って」
僕は応じながらのろのろと立ち上がる。少し考えたけれど荷物になると思い、鞄も携帯も置いていくことにした。
蔵までは一本道で難なく辿り着いた。しかしこれまた立派な造りである。骨董品がしまってあったり、でなければ酒蔵にでもしてあるのかと思ったら、まさか書庫になっているとは。
軒で雨を除けながら待っていると、ほどなくしてりり子が現れた。彼女の持ってきた鍵で頑丈そうな錠前はかちりと音を立てて外れた。
重い扉がゆっくり押し開けられる。
そこには濃密な空気が充満していた。そんな中に外の光が強引に分け入ろうとするもんだから、それに押し出されるかのようにしてむっと黴臭い匂いが溢れ出して鼻を突いた。
扉は開け放したまま蔵に足を踏み入れる。中は天気の悪いせいもあってかなり暗かった。
出入り口はここにしかなく、あとはかなり高い位置に四角く開けられた穴が一つあるだけ。窓と呼ぶにはあまりに簡素な造りであり、申し訳程度に三本ほど格子が取り付けられている。梯子でもあれば、あそこから格子の間をすり抜けて侵入できてしまいそうだ。
外に比べると、ここは空気がかなり冷え冷えとしている。ブレザーを着ていてよかったと思った。
目が慣れてくると、そこは本当に本の山だった。本しかないといってもいいくらい。備え付けの本棚に、そこらに積まれたボール箱に、ぎっしりと詰められた本、本、本――今すぐ古本屋が何件だって始められそうだ。
りり子に案内され、その後ろに付いていく形で奥の方に歩いていく。中はそれほどの広さでもないようだったが、薄暗さと障害物のように設置された本棚のせいで、なんだか迷路に迷い込んだような眩暈感があった。
「推理ものは確か……」
一応分類されているのだろうか。背表紙を見流す限りでは全く統一感がないような気がするぞ。
と、その時。
ぎぎぎ、と何か引きずるような音がして、室内の明度が明らかに落ちた。
なんだろう?
りり子も一度こっちに振り返り、異変があったことを確かめ合う。
そして二人同時に思い当たった。
扉が閉まったのだ。そんな当たり前の結論に到達するのにいやに時間がかかった。
慌てて扉の方に引き返す僕ら。見るとやはり扉はぴっちりと閉められていた。風やなんかであの重い扉が閉まるだろうか。疑問に思いながらも、とりあえず僕は扉に近づいて手を掛けてみる。
「……あれ?」
開かない。まさか。
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
扉の外側から響く、金属が打ち付けられるような硬質な音。
いやいや、冗談でしょ?
「鍵が……閉められてる……?」
強く揺さぶってみると扉はほんの薄くだけ開いた。その間からは無慈悲にも完全に閉じられた錠が覗けて。
これで決定だ。石や木が挟まって開かないわけではない。
しかしこんなことはあり得ない。錠は外にぶら下げたままだったが、鍵はりり子がずっと持っていたはずではないか。これは思い付きのいたずらでできる範疇を超えている。
いよいよもって不可解な状況だ。しかしそれに動じることなく、僕の隣にいたりり子は一人納得したように呟いた。
「――叔母が来ていたんだわ」
「……叔母?」
「母方のね。この家及び蔵の鍵は私の持っているのとは別にもう一つあって、それを母の妹夫婦が所有しているのよ」
鍵の予備があったのか。疑問の一つは氷解した。
「でもなぜ叔母さんは中を確認することもせず蔵の鍵を閉めたの?」
僕の問い掛けにりり子はほんの一瞬だけ視線を彷徨わせた。
「特殊な家庭であるのは察してくれてると思うから手短に話すけれど……まず叔父の方からね。叔父は月に一度、私が生きているかどうかだけを確認しにこの家にやって来る。でも私との接触を極端に恐れているから、いつも車を路地に停めて門の前を見張っているの。私が学校から帰ってくるのを見るとそのまま逃げるようにして帰っていくわ。敷地には入ろうともしない」
説明口調でりり子は淡々と述べていく。しかしこちらは到底理解が追い付かない状態だった。
生存を確認しに?
接触を恐れている?
どんな家庭事情があったらそんなことになるのだ。一体どんな……。
「でも叔母の方はもっとひどいといえるかもしれない。彼女は私のことを認識しようともしないから。庭の手入れのために月に一度くらいの頻度でこの家にやって来て、彼女の場合は敷地にも入ってくるのだけれど、私の姿も、声も、まるで見えていないし聞こえてもいない。あり得ないと思うでしょう。でも事実そうなんだから受け入れるしかない。中村君はチェスタトンを読むって言ってたわね。それならさしずめ私は『見えない女』かしら。アイリッシュの『幻の女』――とはちょっと違うものね。叔母は今日、この家に手入れにやってきた。庭を見回っていると蔵の鍵が開いていた。だから持っていた鍵で閉めた。ただそれだけのことだったのよ。伸びていた木の枝を切るように、彼女にとっては自然なことなの」
おかしい。普通じゃない。
彼女が淡々と並べ立てる言葉は圧倒的な現実味を持って押し寄せてくるものの、頭が理解を拒絶している。
それは普通の女子高生の日常にあっていいような光景ではない。あるべき実状ではない。
この馬鹿げた現実は彼女が『名探偵』であったことに由来するのか。
りり子、君には一体どんな過去が――。
僕は気が遠くなりそうになりながらも、必死に足を踏ん張り、今すべきことを考えようと頭を切り替える。
とりあえず内側から遮二無二扉を叩いた。
「すみません! 開けてください! まだ中に人がいます!」
拳が痛んでもしばらくは叩いて叫んでを続けた。そんな僕をまるで興味のない政党の街頭演説でも見るような目でぼんやりとりり子は眺めていた。さすが修羅場をくぐってきた元『名探偵』さんだな。大したもんだよ。
五分ほど続けていただろうか。さすがに僕も疲れてへたり込む。これだけやって駄目なら叔母さんはもう早々に立ち去ったのだろう。その事実にはすぐに行き着いていた。ただ認めたくなかっただけだ。
一度呼吸を整える。深く息を吸って、吐き出す。何度か繰り返すと、頭も段々クールダウンしてきた。彼女の話を受け入れて整理し、とりあえずは現状の打開策を探らなければ。
「……さっきの話だと、叔母さんは月に一度くらいの割合でやって来るんだっけ」
「ええ」
りり子は何食わぬ調子で答える。ここでこのままこうしていたら一ヵ月は飲まず食わずか。さすがに厳しいな。りり子は霞でも食べながらなんとか乗り切れそうで怖いけど。
「りり子、携帯は?」
「置いてきたわ」
だよね。まさかこんなことになると思わない僕もそうだった。
となると、今度は脱出の手立てを考えるしかない。
しかしそうなると僕はそこまで困ってはいなかった。
方法はあったからだ。
光を取り込むために開けられた四角い穴。格子は嵌まっていても人ひとり通れる余裕は十分にある。あとはあの高ささえクリアすれば。
「脱出の方法を検討しようか。扉は無理。外部の手助けも期待できない。こうなったら残されてる手段があの小窓しかないのは一目瞭然だよね。ただあの高さがネックだ。肩車しても届かないようだし、どうやってあそこに手を掛け、足を掛けるか」
彼女は黙ったまま。
「やっぱりこの蔵の中にあるものを最大限に利用するしかないよね。本棚は動かせないにしてもここにある大量の本、それらの入ったボール箱なんかを積み上げていけばなんとかなりそうだ」
先人たちの知識の結晶を踏み台にするのは気が引けるけれど、命には代えられない。
「待って」僕が早速動き出そうとした段になってりり子はようやく口を開いた。「あの高い小窓に手を掛け、足を掛けしたところでどうなるの。そこから外に出る段階になったら、そこには足場も何もない。ロープになりそうなものもここにはないわ。二階より高い位置から飛び降りたら中村君の運動神経じゃ無事では済まない」
おうおう、言ってくれるじゃないか。でも確かに正論だ。最悪骨折くらいなら覚悟していたのだけれど。
とはいえこれも対策は練ってあった。僕はブレザーを脱いで広げながら答える。
「あとはYシャツにネクタイだってある。中のカットソーや下のスラックスは着とかないと脱出した後帰れないけど、まあベルトも使えるかな。こいつらをうまく結び合わせればかなりの長さ稼げるよ。僕が鍵を持って本を足掛かりに小窓まで登ったら、あとはこれでするすると外に降りていく。んで外から錠前を開ければ見事二人とも脱出成功というわけ」
ブレザーはもう秋口まで使わないし、それまでならお小遣いも貯まるはず。Yシャツやネクタイやベルトなら替えもあるし、大した痛手じゃない。強引ではあるが決定的な不備もない、そんな僕の脱出作戦はしかし信じられない表情でりり子に迎えられた。
彼女はくすりと笑ったのだ。
僕の方が面喰らってしまった。初めて見るかもしれない楽しげな表情。しかもこんな状況で。
りり子はまっすぐに僕の目を見て答えた。
「……無茶苦茶ね。でもそれ、乗ったわ」
それから二人は黙々と作業に没頭した。土台には本を一杯に詰めたボール箱を幾段か設置することにした。その後は僕ができるだけ丈夫そうな装丁の本を選びながら、小窓のところまでそれらを抱えて運び、りり子がバランスを見て積み上げる。
屋根を打つ音から察するに雨はまだ収まっていないよう。
しばらくすると彼女の身長では積み上げるのが大変そうな高さに差し掛かった。
「次持ってきたら僕が代わるよ」
「ええ、お願いするわ」
僕は本を取りに行く。りり子は背伸びして本を少しでも高く積み上げようとしていた。
そんな背中に僕はぽつりと語り掛けた。踏み込むべき話題ではないのかもしれない。彼女も多くを語りたくはないはずだ。
だけど。
「一人で暮らすのは――寂しくない?」
たかだか十数年生きてきただけの少女の心が、それを負担に感じていないはずはないと思ったから。
彼女は手持ちの本を山に載せて。
「私には」そしてこちらに振り返って答えた。「寂しがる権利なんてないから」
瞳の奥には、心が締めつけられるような暗い光があった。
「りり子――」
僕は臆病だ。掛けるべき言葉を知っていながら、それを発する勇気がないのだから。
それでも僕がなんとか口を開こうとした、その瞬間だった。
ぐらりと彼女の背後の本の山が大きく傾いたのだ。
「危ないっ!」
どんがらがっしゃーん!
***
はい、長らくの追体験お疲れ様でした。
章冒頭の有様はこのおかげなのであった。
見たところ、りり子に怪我はないようである。僕の背中や後頭部が鈍く痛むのはなんとか盾になれた証拠だろう。
僕は理性を総動員して立ち上がった。そうしないとりり子も立ち上がれないという当然のことに気が付いたからだった。
「……ありがとう。大丈夫だった?」
りり子が気遣うように声を掛けてくれる。
「うん、なんとか」
本の足場の方も大した崩れ方はしていないみたいだった。
時を移さず作業に戻る二人。ただその後は先ほどより余計に黙々と作業が行われることとなった。僕が急に密室に二人きりという状況を意識してしまったせいでもあったが、しかし実際に急がねばならなかったのだ。徐々に陽が落ちてきていたのである。視界が悪くなる前に脱出したい。かといって焦るわけにもいかない。慎重かつ性急に――ジレンマに折り合いをつけながら、それでもほどなくして足場は完成した。
制服をロープ状に結び終える頃には雨もすっかり止んで、昇り始めた月が格子窓からはっきり見えるほどに雲も去っていた。
「さて、急ごうか」
尻込みしている暇はなかった。深呼吸一つ、僕は本の山に手を掛ける。足を掛けたのは恐る恐るだったけれど、かっちり組まれた足場は予想以上に頼もしい感触で応えた。
崩れた後、しっかり補強した甲斐があったみたいだ。不安感が和らげばそこからはすいすい登って行ける。苦労することもなく小窓に辿り着くことができた。
格子に手を掛け、ぐいと体を持ち上げる。窓枠に腰掛けたら休憩の暇もなく、今度は体に巻き付けて持ってきた制服ロープの端を格子に結び付けた。念入りに引っ張って外側に垂らす。準備は完了だ。
いくよ、と下のりり子に目配せする。格子の間をすり抜けた僕は、蔵の外壁に寄り添うようにして慎重にロープに体重を預けていく。最後に引っ掛けてあった足を投げ出した。
緊張の一瞬。
結び目たちがきゅうと絞られていき、僕の体は完全に宙ぶらりんになった。
――よし、しっかり支えてくれている。
壁をとんとんと足で蹴るようにして降りて行き、最後の一メートル足らずは一気に飛び降りた。ぬかるんだ地面に足を取られながらもしっかりと着地する。
ほっと一安心。浮かぶ月を見上げて無事を感謝してから、
「着地成功ー」と蔵中のりり子に報告した。
急いで扉の方に回る。ポケットから鍵を取り出すと、やはり完全に閉じられていた忌々しい錠前を開けた。
「助けに来ましたよ、お姫様」
やっと冗談も言えるようになる。差し伸べた僕の手をりり子がつかんだ。
その時。
僕は心が揺さぶられるような感覚を覚えた。それはあることに気付いたから。
月明かりに照らされたりり子の顔に浮かんでいたのは、あからさまな安堵の表情だったのだ。
蔵の薄暗闇の中で、僕は彼女がずっと冷静でいたかのように思い込んでいた。
そんなこと、あるわけないのに。
彼女の平然とした佇まいに僕自身、大いに助けられていたのだ。
りり子の気丈さがなければ、僕はいつまで取り乱したままでいたか分からない。
「……ありがとう」
二人で月を見上げながら大脱出劇の感慨に浸っていた時、僕が呟いたその言葉は、りり子の耳に届いていただろうか。