ロジック・ロック・フェスティバル
第一回
中村あき Illustration/CLAMP
新人×CLAMP 「新本格」推理小説(ミステリ)の正統後継者・中村あきのデビュー作! まだあった「新本格」推理小説(ミステリ)! 全ミステリファン注目の新人登場、星海社FICTIONS新人賞受賞作。
1 四人の申し分なき閑人
「あなたたち、ちょっと文化祭の実行委員やってみない?」
――放課後。
教室の一角に溜まっていた僕たちがよっぽど暇そうに見えたのだろう。担任の火垂池蛍子先生がにこにこしながら提案しにやってきた。
先生は茫然としている僕たちにプリントを差し出し、一番近くにいた千鶴がそれを反射で受け取ったのを見てから話を続けた。
「班活やってる人はこの時期忙しいみたいだし、あなたたち四人ってすっごく仲が良いでしょう? 中々頼まれてくれる人がいなくて先生困ってたの。ねえ、お願いできないかしら?」
そう小首を傾げる先生の目は微かに潤み、陰り始めた陽の光を反射している。こんな庇護欲をそそる視線を真っ向から受けて、拒絶の言葉など誰が出せようか。
そうやって交渉は成立した。少なくとも先生はそう判断なさったらしい。
「がんばってね」と手を振りながら足取り軽やかに職員会議へと向かわれる先生をぼんやり見送ると、がらんとした教室に残るのは僕ら四人だけ。
「仲が良いだって。よかったねー」
僕の斜め前の席に座る万亀千鶴が、今しがた受け取ったプリントをひらひらさせながら言った。同じリズムでショートボブに切り揃えた髪が揺れている。
「体よく押し付けられただけでしょーが。いや、案外皮肉なのかも」
僕は千鶴からプリントを渡してもらいながら答える。
なになに、『鷹松祭実行委員会設置について』……鷹松祭は前夜祭を含め六月三十日から七月二日までの三日間執り行われる……各クラス二~四名選出のこと……第一回委員会の日程は……。
「どうかな、火垂池先生は天然だからさ。本気で僕らが仲良しだと思ってるんだよ」山手線太郎が他人事のように言い、僕の手からプリントを奪った。「ね、りり子さん」
線太郎よ、そこで彼女に振るか。
当の鋸りり子は僕の隣の席でさっきからペーパーバックを捲っている。推理小説なら僕も一席ぶてるんだけど、彼女はそんなもの読んでそうにないな。装丁から中身は窺えないけれど、何語の本を読んでいても驚くには値しない。そんな雰囲気が彼女にはある。現に英語はペラペラだ。彼女が本気を出せばエスペラントだってナッドサットだってハナモゲラだってお手の物だろう、なんてね。
ページを繰りながら、ようやっと目線を上げてこちらに向けた。
「……『仲良し』の定義による、かしら」
わお。鋸りり子、平常運転。
彼女は誤解されがちだが、別に冷たいわけでも何かに怒っているわけでもない。ただ人より少し表情が乏しいのだ。そもそもそれを引き起こす感情の起伏が少ない、といった感じ。通常の生活を送るのに困らないレベル、最小限にそれを抑えているイメージ。
「えー、仲良しだよ。りりちゃん、あき君、線太郎君、あたし、みんな仲良し。CCさくらの連載誌も『なかよし』だったしね」
千鶴の小ボケに苦笑いするのは僕と線太郎。
りり子はまた涼しい顔でペーパーバックを捲っている。
僕がこの四月に晴れて鷹松学園に入学してから早一ヵ月余りが過ぎた。
中学時代、それなりに研鑽を積んできたから自慢させてもらうけれど、この白亜の公立高校は県下に名立たる名門校である。
優れた進学実績もさることながら、藩校を前身とする歴史の深さがその威光を高めるのに一役買っており、藩校の時代も含めれば二百年にも及ぶという沿革に逸話は尽きない。明治時代、領主の城跡に今の原型となる鷹松中学校が竣工、太平洋戦争中には軍の戦略拠点としても利用されたが、戦後に全面改修を経て再び高等学校として生まれ変わったのだという。ユニーク。
鷹松学園の校訓は『自主自律の確立』と『心身の鍛錬』。故に学芸特化のガリ勉集団というわけではなく、各種班活動(いわゆる部活動を伝統的にこう呼んでいる)も非常に盛んである。特に近年目覚ましい活躍を見せているのがラグビー班と女子バスケットボール班、そしてお琴を演奏する邦楽班だ。
制服は男女共にブレザー。その左胸には松に止まる鷹がデザインされたエンブレムが縫い付けられている。鷹松学園生はそれに、連綿と続く伝統と誇りの受け継ぎ手となることを誓うのである。
そんな我が校は、三年生の受験勉強との兼ね合いからその文化祭を例年、六月の終わりから七月の初めにかけて開催する。僕たちがこの時期に実行委員の依頼を受けたのはそうした理由からだった。
「ところでさ、今日って何日だっけ?」
線太郎が今度はそんなことを言い出した。もう放課後だってのに今さらだな。これには僕が答えた。
「今日は五月十五日。僕、出席番号二十五番だから五、十五、二十五と来て数学当てられたし」
「ああ、あのずたぼろだったやつ」
「りり子さん、言葉が過ぎます」
「あき君、数学だめだめだもんね。他はばっちりなのに。あと……ぷぷ、名前女の子みたいだし」
「いや、千鶴、最後のは関係ないでしょ! てか、この面子で名前ツッコみ始めたらキリないですし!」
「身を削って教えてくれてありがとう、あき。嗚呼、ゴールデンウィークの残り香も既にして遠く――」
「って線太郎、こんなタイミングでこんなこと訊くって、なんか用事でも思い出したの?」
線太郎に聞いたのに、ずばっと割り込んできて千鶴が言った。
「あ、もしかして:『TPIQ』の新装開店セール? でもそれなら来週だよ。あたしは金曜日狙って行くんだ――」
「トピック?」耳慣れないワードに好奇心の矛先を逸らされた。「何それ?」
「駅前のセレクトショップだっけ」と線太郎。「T・P・I・Qでトピック。外観はスタイリッシュだけど、レディース中心だし、残念ながら僕は系統が好みじゃないよ」
身なりに気を遣う男前だけあって、なるほどこうした話題も反応が早い。まあ、彼の内面の気質は軟派とは対極にあるのだけど。
「お洒落な会話でございますね。僕にはよく分かんない。金曜狙うってどゆこと?」
僕が若干卑屈になって尋ねると、答えたのはりり子だった。
「日によって物が変わったり、限定の商品があったりするんじゃなかったかしら。まるで店内が戦場のようになる日もあるとか」
「………………」
「中村君、どうかした?」
「いえ!」
へえ、彼女こういう話題も押さえてるんだ。ちょっと意外。思わず見つめちゃったよ。
そんな僕の感慨も置き去りにして、切り替えの早い千鶴が線太郎に詰め寄った。
「むむ、『TPIQ』はお気に召さない、と。他にセールやってるお店もないし……じゃあ、もうデートしかないじゃん! アフターファイブにアベックでランデブー!?」
死語のちゃんぽんに酩酊しそうになりながら、まさかと思いつつ線太郎を見やると、彼はにやりと笑って。
「当たらずとも遠からず? まあ、まさに時間はきっかり今日の五時からだよ」そう言って先ほどのプリントをこちらに差し出す。「ほら、第一回鷹松祭実行委員会」
うーらら。ただ今の時刻、午後四時五十八分。
2 実行補佐
さすが火垂池先生といったところ、僕らが引き受けなければどうしていたのだろうか。
一同は取るものも取りあえず、大急ぎで委員会の教室を目指した。
目的の教室は教室番号から察するにどうやら新館らしい。僕たち一年生のHR教室は旧館に固まっているので、二、三年生の教室が並ぶ新館に赴く際にはいささか緊張してしまう。
「はあ、やっぱり、はあ、こっちの、校舎は、アウェーな、感じ」
「あき、息上がりすぎ」線太郎がフォームも軽やかに揶揄して。「あ、あの教室だね」
廊下の奥の方に目当ての教室番号のプレートが見えた。最後のストレートを全力で駆け抜け、僕らは勢いよく教室に飛び込む。
「すみません、遅れました」
先陣を切って入室し、ぺこりと丁寧にお辞儀をしたのは鋸りり子。僕も続いて頭を下げたものの、その典雅な所作は容易に真似できるものではなく。よく見たら息も切れてないよ、この娘。
定刻を二分ほど回ってしまっただろうか。室内の席はほとんど埋まっている。四人は低い姿勢のまま、そろそろと手近な空席へと移動した。
「――全員揃ったみたいだな」
やはり僕らがしんがりだったようだ。着席して一息つくと、ようやく教壇に仁王立ちしている人物が誰だか気付く。
衿井雪。
鷹松学園における完全無欠の生徒会長。
端麗な容姿もさることながら、それに似合わぬ圧倒的な統率力と指導力を持ち、絶大な支持を得る会長様である。また文武両道を地でいく彼女は陸上班に所属し、短・中・長距離ものともせず、跳躍に投擲、果てはトライアスロンに至るまで何でもこなす、まさにオールラウンダーとして活躍している。
彼女はぐるりと教室を見渡した。――あれ、なんか今一瞬目が合ったような……? 遅刻を咎められるのかとひやひやしたけれど、彼女はなんら気にする風もなく話し始めた。
「こんにちは、諸君。今年度鷹松祭実行委員長を任された衿井だ。どうか楽にして聞いてくれ。まずは初回からこれだけびしっと集まってくれたことに礼を言おう。全クラス必選出だからな。やる気に満ち溢れたやつばかりではないのだろう。押し付けられて出てきた者だっているはずだ。しかし私はここで一つ約束をしようと思う。
絶対に損はさせない。
鷹松祭を百パーセント楽しめるのは鷹松祭実行委員である諸君だ。ばか騒ぎするだけなら誰だってできる。しかし本当の楽しみとは人をもてなし、楽しんでもらおうと腐心する気持ちに宿るものだ。
実行委員の仕事は本当に刺激的で、責任も伴うがそれ故にやり甲斐もある。初めてやる者も臆することはない。強く自分たちの心に刻まれ、そして来場する方々にも心地よく過ごしてもらえるような素晴らしい鷹松祭を一緒に作り上げよう。
私からは以上だ。引き続き成宮、説明を頼む」
会長が一礼し、降壇する時にはどこからか拍手が湧いていた。人徳という目に見えぬものを肌で感じている気分だ。
拍手が収まるのを待って、成宮鳴海副会長が教壇に上がった。すらりとした優男である。
「それでは今後の大まかなスケジュールを黒板にまとめていきます」
彼は黒板を適当に区切ると、てきぱきと上品な文字を書き付けていく。
僕は高校の文化祭というものを体験したことがなかったので(お客さんとして出掛けていったこともなかった)、実行委員が具体的に何をするのかについて実はまだ何のビジョンも浮かんでいなかった。会長の演説に少しばかりのやる気も湧いてきていたけれど、それだけあってもどうにもならない。黒板の内容を確認してちょっとでもイメージを膨らますのが先決だ。
そんなことを考えながら首を伸ばしていると、不意に肩を叩かれた。
「やあ」
なんと。
誰かと思えば、先ほどまで教壇でお話しされていた会長様ではないか。
「君たちは一年だろう。A組――で合ってたか?」
「はい、そうですけど……」と僕。
「一、二、三、四人か。ふむ。ちょっと話したいことがあるんだが、一緒に来てくれないか」
衿井会長はそのまま僕の右腕をぐいと引いて体を持ち上げるようにした。いきなりのことに何が何やらでされるがままの僕。そのままずるずると廊下に引っ張られていく。他のクラスの実行委員は黒板に夢中なので、このなんとも情けない姿は見られずに済んでいるようだけど……。
僕を除く一――Aの三人もはっと気付いたようになると、磁石に吸い付けられるクリップのごとくぞろぞろと慌てて付いてきた。
「あ、あの、会長? 自分で歩けますっ」
「ん、ああ、そうか。すまんすまん」悠々と廊下を闊歩していた会長はようやく手を放し、そこで初めて後方も確認した。「皆いるな。それではそのまま付いてきてくれ」
そして再び歩き出す。スカートはワンテンポ、否、半テンポ遅れて翻った。一本に束ねられた髪が凜然と風を断つ。その様は進行というより侵攻で。
会長の背中を盗み見ながら、千鶴が小声で僕に耳打ちする。
「なになに、会長さんなんて言ってたの? もしかして怒られちゃうのかな、あたしたち……」
「んー、なんか話したいことがあるって言ってたけど……でも結局定刻に間に合ってなかったし、その折檻かもね。廊下全力疾走も考慮するにお尻ぺんぺんは堅いんじゃないかな。甘んじて受ける覚悟だよ、僕は」
「どMなんだね」
「ど、は余計」
「Mであることは否定しないんだ」間抜けた問答に線太郎の鋭いツッコミが入った。
そんなくだらない会話をしている間にも、某国民的RPGみたいに一列に並んだ僕たちは階段を上がり新館三階の廊下へと差し掛かっていた。どこまで行くのかと思ったけれど、隊列にはまもなく「全体止まれ」の号令が掛けられる。
どうやら学生ホールが目的地だったよう。
会長は一角に設置されているテーブルを指し、
「あそこに座ろうか」と言った。
僕たちはまだはっきりと状況も吞み込めぬまま、言われた通りテーブルを取り囲む椅子に腰を下ろした。
「急ですまなかったな。君たちには皆と少し別の仕事を頼みたかったんで連れ出させてもらった」
どうやらお尻ぺんぺんのお仕置きは執行されないらしい。ちょっと残念、いや、そんなわけないけれど。
僕たち一人ひとりの顔を順に見渡した会長は、こほんと咳払いをすると話を続けた。
「その仕事というのは他でもない――『実行補佐』だ」
「……『実行補佐』?」と鸚鵡返ししたのは僕。
「なんかカッコイイ響きですね」これは千鶴だ。
「簡単に言えば、実行本部直属の少数精鋭部隊だ。非公式なんだが毎年伝統みたいになっていてな。これからの忙しくなってくる時期に、レスポンスが速くて小回りの利く部署が一つあると非常に有用なんだ。具体的に話をさせてもらってもいいかな」
会長は制服の胸ポケットからペンと濃紺の生徒手帳とを取り出すと、重要な語句や要点を書き出しながら説明を始めた。
「まず通常の実行委員の仕事について触れておくと、これは各クラスにおいて鷹松祭推進の原動力となるイメージだ。鷹松祭の準備・運営を行っていく上で生徒は必ずなんらかの係に所属することになるんだが、その選出と割り当てを行ってもらう。クラス出し物をやる場合は当然、計画と実行の中心となる。
実行補佐はそういった業務と並行して仕事をしてもらうことになる。仕事の幅は正直現時点でははっきり言い切れないところもあるんだが……今考えているのは主に係間の横の繫がりや、教師――生徒間の縦の繫がりを調整するパイプ役になってもらうことだ。随時、私と情報を共有することで、全体の運営指針を司ることになる。鷹松祭の成否を占う重要なポジションになることは間違いない。
ただやはり負担も大きくなってしまうだろう。班活等で時間が割けず無理そうだったら遠慮なく断ってくれ。こちらに押し付けるつもりは毛頭ない。しかし正直な気持ち――君たちに頼みたいと強く思っているのも事実だ。仕事を通じて得るものも普通に実行委員をやるのに比べたら段違いのはず、きっと何にも代え難い経験になるだろう。
――さて、一気に話させてもらったが大要としては以上だ。何か疑問・質問等あれば聞こう」
そう締めくくると、会長は手帳に落としていた視線を改めて僕らに向けた。
ふむ。息を吐きながら僕は頭の中で内容を整理してみる。説明も分かりやすかったし、話としては理解できた。しかし腑に落ちない点もある。そう思っていたら視界の端にすっと動くもの。
「一つ質問があります」律儀に挙手をしながら発言したのはりり子だった。「会長はなぜ私たちを選んだんでしょうか。まだ知識も浅く経験もない一年生である私たちに、実行補佐を任せようと思った動機を聞かせてください」
そう、僕も気になっていたことだ。どんな答えが返ってくるかと思ったらそれは僕の予想の斜め上を掠めた。
「ぴんと来たんだよ」なんでもないという風に、しかしそこに多分に確信めいたものも含ませて会長は言った。「実行補佐ってのは非公式な組織だから、過去には阿呆な生徒会長がお友達引き込んで馴れ合いの会にしたり、班活の後輩引き込んでパシリの集まりみたいにしたこともあったんだ。私はそんな風には絶対したくなかった。だから私情を排して直感で決めたんだ。先刻教室をぐるりと見渡した時、私と目が合った者がいるんじゃないかな? 理由といえる理由はそんなものさ。それに知識や経験があるっていうのも善し悪しなんだ。二、三年生は勝手が分かる分、どうしてもサボり癖が出てしまうし、逆に一年生の先入観のなさは武器になるともいえる。根拠が薄弱か? 心配いらない。私の勘は当たる。君たちは絶対に向いているよ」
その圧倒的な自信に圧倒される。矜持に裏打ちされた説得力。やはり彼女は傑出しているのだ。ていうか、目が合ったの気のせいじゃなかったのね。まさかの決め手だったし。
「他にあるかな」
続く質問タイム。せっかくなので僕はもう一つ気になっていることを尋ねることにした。
「会長」
「はい、君、どうぞ」
「先ほどの説明によると、僕たちは実行補佐という学校とは切り離されたごく私的な組織の人員になることを内々に依頼されているわけですよね。つまり教育倫理的な観点から無償で行われている生徒会の各種業務とは区別されることになり、これにおいてなんらかの手当あるいは待遇を所望することは、なんらの論理的整合性を欠くこともない当然の権利で――」
「おい、あき、くどいぞ」
線太郎に遮られてしまった。やはり少しやり過ぎだったか。しかし会長は破顔している。
「なるほど」というかにやにや。「タダでは動かんということだな」
まあ、一言で言うとそうなるけれど。ニュアンスってものがあるのだ。
「もちろん考えよう。しかし高校生らしい健全なものがいいな。購買の割引券とか期末試験の過去問とかでどうだ」
おお、中々魅力的。だめ元だったが言ってみるものだ。
「どうだ、他に質問があれば」
訊きたいことはそのくらいだった。他のみんなも同じようなものだったらしい。
さあ、あとは決断だが。誰からともなく目を合わせる四人。
「やるやらないの返事も別に今すぐじゃなくていい。じっくり考えて決めてくれ。それぞれの都合もあるだろうからな」
うーん、そうですねえ、なんてとりあえず作ってみる思案顔――と、なんだろう。どこからか深く息を吸う音が聞こえてくる。
「あたしやりますっ!」
一瞬間の後、クラッカーが弾けるようにして千鶴が立ち上がった。目を爛々と輝かせて、右手を高々と上げて。ちっこい千鶴の高々なんて知れているけれど、気合は十分に伝わってくる。
「楽しそうだもんっ。みんなもやるよね。一年生からこんな大役、あたしたちにしかできないよ!」
顔を見合わせる他三人。まあ――気持ちは大方決まっていた。
「僕もやります」続く線太郎。
「僕も」「私も引き受けます」
僕にりり子と賛同の意を表明し、会長はその様子を嬉しそうに見て取った。
「そうか。ありがとう。それじゃ正式に君たち四人を実行補佐に任命しよう」
そう言って会長は立ち上がるとなんの儀式かそれぞれに握手を求めだした。その後、一人ひとりの名前と連絡先を確認する。
今日のところはそれで解散となった。実行委員会ももう終わっているだろうから先ほどの教室へも戻らなくていいということだった。
去り際会長は、
「あ、遅刻の件だが今回は不問だ。すぐに何かしら仕事を頼んでいくことになると思うから、その中で挽回して見せてくれ」と、冗談めかして言いながらとても魅力的なウインクを見せてくれた。
「怒濤の放課後だったね」
昇降口を出たところでそう呟いたのは線太郎で。荷物を取りに旧館のHR教室へ戻った僕らは、完全下校の時間も近くなっていたということでそのまま帰宅の流れとなった。
「あー! 忘れてた!」
並んで歩いていると、千鶴が不意に素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの、千鶴」
隣にいたりり子が尋ねる。
「今日、バイトの面接があったんだった! りりちゃーん、どうしよー」
うわーん、なんて言ってりり子の胸に飛び込む千鶴。りり子はりり子でそんな千鶴の頭を撫で始めた。
なんだこの図。この子たち、いつからそんな関係に。
「あれ、バイトって学校から許可証もらわなきゃでしょ? いつの間にもらったの?」
僕の聞きたかったことを線太郎が代弁してくれた。
「もらってないよー」千鶴はけろりとした顔でそんな風に返す。「でもこっそりやってる子けっこういるんだって。だからあたしもこっそりと、ね。お金貯めて原チャ買うの」
「通学用かしら? バイク通学にも許可証がいるのよ」りり子が我が子に言い聞かせるように。「事故のときのこととかあるから、そっちはちゃんと申請した方がいいわ」
あれ? 大事なこと忘れてない? 僕は口を挟む。
「千鶴、免許はいつ取ったの?」
「これからだよ」
「それ第一じゃない!?」安全より第一、むしろ安全のために第一である。
「今の第一はねー、まず面接先に謝りにいかなきゃ。ということでお先っす」
「僕もチャリだからここで」
千鶴に線太郎が別々の方向へ去って。
それに手を振りながら。正門前でりり子と二人。
「じゃあ僕らは駅までデートだね」
「お相手したいところだけれど、私も今日寄っていくところがあるから」
あっさり振られてしまった。がっくし。
しかし彼女にこんな軽口を叩けるようになるとはね。高校に入学した頃は思いもしなかったな。
僕は少しだけ手を上げて。
彼女は静かに髪を払って。
そしてそのまま僕たちは別れた。
歩き出した歩道の端っこには、茶色く変色した桜の花びらがまるで記憶の断片のように引っ掛かっていた。
3 回想と回送
一人、電車に揺られながら。
僕は市内の老舗和菓子屋『実松屋』の車内広告に吸い付けられていた。大福、羊羹、鹿の子、そして夏季限定の涼やかなメニュー――甘党の僕に対するなんという嫌がらせか。今こんなものとにらめっこしていてもただただお腹が空くばかり。諦めをつけてえいやっと無理矢理目線をはがす。
と、今度はドア付近に立つ男の子が視界に飛び込んできた。ちんまりと学ランに着られているような、中学生と思しき彼。その詰め襟の校章に僕ははっとする。それは僕がつい最近まで通っていた中学校の制服だった――。
今でこそ教室の窓際最後列に座る僕と鋸りり子、そしてその一つ前の席に並ぶ山手線太郎と万亀千鶴をまとめて『一――Aの四人組』なんて呼んだりする奴らもいるほど、僕らはなんだかんだとつるんでいたりするのだけれど、こんな付き合いが始まったのも高校から、正確に言えば第一回席替え大会においてこのような席の配置が確定してからだった。
このメンバーの中で中学から一緒だったのは僕と鋸りり子だけ。それも決してその頃から親しかったわけではない。
僕らの母校、小原ヶ丘中学校において、彼女は少々特殊な存在だったのだ。
中学時代、鋸りり子は『名探偵』だった。
それは厳正なる言葉の意味に則してそうであったと言っていい。
いつからそんな風に呼ばれていたかなんてことは今となってはもうよく覚えていないけれど、その非現実的な響きは驚くほどすんなりと周囲に浸透していた。
僕は噂でしか彼女を知らない。それでも実際、彼女は依頼された事件を一つ残らず解決したらしい。あらゆる謎とあらゆる問題を完膚なきまでに解き明かし、話をつけてしまったのだという。
面白がる風でもない。謝礼を要求するでもない。だしにして付け入るでもない。そうなるとますます真実味を帯びた噂は広がり、依頼者の数は増え、信頼は絶大なものになっていった。
そんな風にしてりり子は『名探偵』という時代錯誤的な称号を獲得することとなり、その地位を確実なものにしていったのだ。それは教職員の知るところにまでなったもののそのまま黙殺され、あろうことか彼女に事件を依頼した教職員まで出たという噂もあった。
いつも事件の渦中に、人々の中心にいるようで、しかし彼女はいつも一人だった。彼女を神のように崇める者もいれば、悪魔のように蔑む者もいたので、孤高の態度を固く貫くしかなかったのもむべなるかな。中学入学当初の彼女は今とは随分雰囲気が違った気もするのだけれど。生憎、僕と彼女は中学時代一度も同じクラスにはならなかったので、接点もほとんどなかった。
そんなりり子がある時、中三のちょうどこの時期だっただろうか、突然『名探偵』であることを辞めたのである。依頼の引き受けを頑なに拒むようになり、卒業までその理由を一切語ることもなかった。
学校中が騒然となった。様々な憶測が流れたけれど、結局誰一人として真相をつかむことはできなかった。そもそも小原ヶ丘中学校の生徒(教職員も含まれていたのかもしれないが)にとって、そんなきっかけや理由などどうでもよかったのだ。
『名探偵』の不在。
彼ら彼女らは遅ればせながらその事実を認識し、そして狼狽した。鋸りり子に好意的であった者はもちろん、彼女を疎み、妬み、嫉んでいた者までもが『名探偵』の回帰を切望した。もはやそれなしでは小原ヶ丘中学校という一つの社会が回らなくなっていたのだ。
そこで、だ。
僕はごく個人的に『名探偵』を引き継ぐことを思い付いた。
元々推理小説にかなり入れ込んでいるところがあったし、自分の脳細胞が灰色なのかどうか試してみたい気持ちも常々持っていた。つまりあの時、謎解きへの欲求とそれを望む人々の存在がまるで需要と供給の関係のように配されていたのだ。大義名分などなくてよかった。これに背くことは市場の原理に反するのだから――なんて理屈をこねてみても、結局は『名探偵』という甘美な響きに釣られただけのようなものだったりしたんだけど。
早速僕はこっそり二台目の携帯電話を持つと、そのアドレスと共にある噂を学校中に拡散させた。
「鋸りり子の後継者が現れた。新たな『名探偵』に依頼のある者はそのアドレスに用件を打ち込んで送信したらいい」――と。
そうして僕は表の顔と一切隔絶された裏の顔を持つようになったのだ。
しかし堂々と事件の渦中に首を突っ込んでいけない僕は、探偵としてのスタイルもりり子とは異なる方向へ徐々にシフトしていくことになる。推理はするものの自分では直接手を下さず、情報を駆使しながら事件の外堀から埋めていくイメージ。わりかし現実的な探偵業みたいな感じだ。
真実に忠実であり続け、臆せず厳然と全てを暴き立てる――そんな『名探偵』のイメージとは懸け離れた小手先のやり方。問題を収束させられるのなら、時には証拠と矛盾しない別の真相だって構築してみせた。偽りの真実だって説得し、納得させ、受け入れさせることができればそれが真実となる。
最初は胡散臭い『名探偵』を訝しむ者もいたけれど反響は上々だった。やはり誰もがどういった形であれ、『名探偵』を欲していたのだ。僕は重大な破綻を来すことも、誰かに正体を看破されることもなく、『名探偵』を演じ切った。
僕はそのまま卒業して、いい機会だったし第二の携帯電話も解約してしまった。必要に迫られれば、きっとまた新たな『名探偵』がどこからか現れ出るのだろう。
鷹松学園で再び看板を掲げるつもりも僕にはなかった。今になって振り返ってみると、小原ヶ丘中学校のあの雰囲気だからこそ成立していた気もするのだ。謎解きへの欲求は尽きないし、本格推理の『名探偵』への憧憬も尽きないけれど、それはまあその辺に転がっている謎でも弄びながら気分に浸れることもあるからね。
そういった事情から僕は高校で鋸りり子と同じクラスになった時、少し気が引けてしまったのだ。純粋に『名探偵』時代の彼女には敬意を持っていたし、フツーに美人さんだし、お近づきになる分には全然構わないのだけれど、黙って『名探偵』を引き継いで好き勝手やってた負い目もあるし、かといって中学時代のことを今さら掘り起こすのも考えものだよなあ、といったような複雑な気持ち。
しかし距離感を測る云々の間もなく第一回席替え大会で見事隣同士になってしまい、こうなるとくじ引きにメタレベルの意志を感じないでもなかったけれど、まあ据え膳食わぬはT4ファージともいうので適当に休み時間にでもお声を掛けてみた。すると別に無視されたりもせず、そっけない物言いは『名探偵』時代に染み付いたものとはいえ、発散しているオーラほど取っ付きにくくもなく、他人を拒絶している感もなかった。
だから別に構えたりせず、普通に付き合っていけそうだと思ったのだ。案外深い仲に発展しちゃうかもなんて考えたりして。いやいや、僕には心に決めた人がいるからこれは冗談。
ただ彼女の場合、デフォルトである無表情、無感動の下に何か大きな感情のうねりを抑圧してる風にも僕には感じられて、それが少し引っ掛かるといえば引っ掛かるのだ。僕の精神分析なんて毛ほどもあてにならないから多分気のせいなのだろうけど。
さて、そんな一種独特なりり子の雰囲気を意にも介さなかった二人の人物がいる。線太郎と千鶴だ。
このぱっと見好青年とおとぼけ少女(ひどい言い様? これも愛故だ)は、あろうことか席替え直後のりり子に「ねえねえ、鋸さんの推しメンは誰?」と問い質したのだ。どうやら流行りのアイドルグループの話をしていたらしいが、突然のフリに軽く面食らったりり子の姿は非常に珍しいものだった。しばしの沈黙の末、「推しメンって何?」と訊き返したりり子に二人は負けず劣らずショックを受けたようだったが、その後、事の重大さを三十分近くにわたって説くという暴挙に出る。高見沢の見物を決め込もうとしていた僕もほどなくセンターの娘のフルネームすら言えないことがバレて、結局巻き込まれることとなったのだ。まったく、あれは大変だった。
なんだかんだと一緒にいることが多い癖に、僕たち四人には班活動に所属せずちゃらんぽらんしているという以外にこれといった共通点がない。それでもこんな短期間で胸襟を開くとまではいかなくても、こうしてあれやこれやとつるんでいる理由はなんだろう。本人たちにも不思議でならない。鷹松学園七不思議の一つに申請しようかしら。
まあ、今はそんな毎日をそれなりに楽しんでたりするんだけどね。
「この電車は回送電車となります」
よしなしごとをつらつらと考えていた僕は、そのアナウンスで我に返った。
どうやら乗り過ごしてしまったらしい。慌てて鞄を引っつかんで降車した。
しかし一体ここはどこ?
駅名にも覚えがない。嫌な予感がする。
恐る恐る路線図を確認して愕然とした。思えば遠くへ来たもんだ。
次の電車は一時間後だった。田舎の受難。
その日の帰宅は午後九時を回った。
4 モバイル・コード
〈近隣住民への挨拶回りに人手が足りないんだ。手伝いを頼まれてくれないか〉
電撃的な抜擢の翌週、僕たち実行補佐はそんな会長からのメールで初仕事に駆り出されていた。
「こっちだって言ってるじゃん! 線太郎君のわからず屋!」
「わからず屋は千鶴だろ! どう考えてもこっちだ!」
って、あれ? いきなり雲行きが怪しいんですけど?
意気揚々と挨拶回りに出掛けた実行補佐の四人組は、校門を出たところでいきなり二の足を踏んでいた。担当区域をどのように巡回するかで千鶴と線太郎の意見がぶつかっていたのだ。
道端では迷惑になるのでとりあえず学校の向かいにある商店『やまきや』の駐車場まで二人を誘導してきたものの、大声で言い合うもんだから既に店員さんからマークされてるっぽい。いくら『やまきや』が鷹松学園生御用達の商店とはいえ、許容の心に限度もあろう。僕とりり子でなんとか二人を宥めようとするけれど、僕らも挨拶回りの勝手が分かるわけではないから、適切な代替案も出せず。議論は泥沼である。
そこへ。
「おや、皆さん」
隣の区域を回る副会長が通りかかった。ここぞとばかりに泣きつくと、下級生にも敬語という腰の低さで的確なアドバイスをくれた。
「なるほど。それなら、結局最後は学校に帰ってくることになるので、遠方から順々にこちらに戻ってくるように回ると漏れがありませんよ。この、葉桜さんのところから伺うのはどうでしょう」
「……葉桜?」
そう声に出したのはりり子だったけれど、その耳馴染んだ苗字に僕の心臓も一際高く鼓動を打っていた。
傍らの線太郎が意味ありげな視線を送ってくる。
「あれだね、あき、先輩のうちかも」
「おや、お知り合いですか?」
副会長が尋ねたのに対し、僕が渋々、
「えーと、中学から僕がお世話になってる先輩に、そういう名前の人がいまして……」
と答えると、千鶴が先走った。
「あき君のお熱の先輩だよね」
「こら! 余計なこと言わない!」
しかしまあ……実際その通りなのだった。
僕が鷹松学園を志望した理由であり、そして三年にわたる片想いの相手――葉桜仮名先輩。
同じ中学で、歳は僕の一個上。僕は極度の運動音痴にもかかわらず、中学時代バスケ部に所属していたのだけれど、それはバスケ部で活躍する仮名先輩に一目惚れしたことに由来する。吹き荒れるフライトⅤ旋風の中、僕が頑なにジャパンを履いていたのも彼女の影響だ。
鷹松学園に進学すると同時にこっちの市に引っ越したって話だったし、珍しい苗字でもあるから、副会長の言う葉桜さん宅とはおそらく仮名先輩の家だろう。
ちなみに実行補佐のメンバーがなぜ僕の淡い想いを知ってるのかというと、高校に入学して久々に先輩にお会いし、念願の連絡先を交換してにやにやしていたところを根掘り葉掘り詮索されたからだった。
「それならもう決まりですね」柔らかな微笑を湛えて副会長は決議を下す。「運がよければ意中のご本人がご在宅かもしれませんし」
そうして第一の行き先が決定した。
最も学校から離れたお宅を選択したとはいえ、そもそもが近隣住民を対象とした挨拶回りである。『やまきや』から出発後、十分足らずで目的地に到着した。
表札を確認し、インターホンの前に立つ僕。なんとも言えない緊張感の中、ボタンを押し込んだ。
ぴーんぽーん。
インターホンは玄関子機と室内の親機で会話ができるようになっているタイプらしかったが、扉越しの問答はなく、すぐにドアは開かれた。
「どちらさま……あら! もしかして鷹松祭の挨拶回りかしら?」
陽気な感じの奥様が現れた。どこか仮名先輩の面影が見て取れて、僕が少しまごまごしている間に、りり子が深々と腰を折った。
「こんにちは、毎度ご迷惑おかけします」慌てて倣う僕と互い違いになるように顔を上げたりり子は、今度はすっと宣伝用のチラシをお渡しする。「期間中は騒がしくなるかもしれませんがどうかご了承ください。ご都合がよろしければ、ぜひ足を運んで頂きたく存じます」
「そんなご丁寧に。今日はお陽様が濃いから暑かったでしょう。ご苦労様。麦茶持ってくるから待ってて頂戴」
「あ、どうかお構いなく――」
線太郎が言うが早いか奥様は奥に引っ込んでしまい、すぐにお盆に四つのグラスを載せて戻ってきた。こうなったら無下に断る方が失礼だと判断し、素直にご馳走になることに。
そしてほどなく始まる世間話。
「あら、仮名の知り合いだったの! もう、あの子には全く困っちゃうわ。今いないから言っちゃうけど、あの子ね、この前服やらアクセサリーやらもうたくさん買い込んできたわけ。興味本位でこっそり値札見てみたら……ここだけの話よ……全部で何万円ってするの! もうびっくりしちゃって! きっと『可愛い服!』って思った瞬間にもうそれしか頭になくなっちゃって、値段なんてアウトオブ眼中なのよ。というか、不必要だと判断された回路が勝手に遮断されちゃうって感じかしら。あの子そういうとこあるから。前に部活で体中痣だらけにして帰ってきたことがあるんだけど、どうやら練習に集中してると、ちょっとくらいどっかぶつけてようが全然気付かないらしいのよ。まあ、一所懸命とか、一つのことに没頭できるとかって言い換えれば、それはあの子の長所なのかもしれないけど……それが浪費癖に向かっちゃうのは見過ごせないでしょ? で、私も今回の買い物の件はちょっとしつこく叱ったの。そうしたら本人はへそ曲げちゃって……恥ずかしい話だけど、未だに喧嘩中なのよ。やだわあ」
本人は不在だったとはいえ、ここはやはり仮名先輩のご自宅だった。面会が叶わなかったのは心残りだけど、代わりに彼女の楽屋話を拝聴することができたのは思わぬ収穫で。ちょっと残念な先輩も可愛いなあ、なんて本気で思っている僕は中々に重症だ。
そういえば部活の話が出てきたけど、これって中学の頃の話だろうか? 班活のことを言ってるのかもしれないけれど、先輩って高校でもバスケ続けてたんだっけ。実はこの辺、まだけっこう聞きそびれているので、今度本人に尋ねてみよう。仮名先輩のお母さんには質問を差し挟む余地がなかった。マシンガントークはとどまるところを知らず。
「そうそう、さっきもひどいのよ。今日は放課後何も予定ないって言ってたのに一向に帰ってくる様子がないから、〈どこにいるの?〉ってメールしたの。そしたら〈市内〉なんてふざけたメールを返してきて! 〈市内のどこよ!〉って送り返したら今度はこんな意味不明なメールが……」
そう言って仮名先輩のお母さんは携帯の画面をこちらに向けた。
「えーと……や、ま、つ、み?」
千鶴が声に出して読んだ通り、そこには確かに〈やまつみ〉とだけ書かれたメール画面があった。
「まったく、何が〈やまつみ〉よ。さっぱりだわ」
暗号染みたそのメール。
僕は無自覚であろうとしたが、体の奥から湧き立つ衝動を否定できなかった。
僕は若干の期待を込めて、横のりり子をちらと見やった。
中学時代、『名探偵』だった彼女――しかし今、その瞳は無関心を体現していて。
まあ、分かってたことだけどさ。僕は微量の失意を押し殺して、右手を前に差し向けた。
「ちょっと……貸していただけますか」
「ええ、いいけど……」
僕は仮名先輩のお母さんから携帯を受け取った。両側から線太郎と千鶴が覗き込んでくる。画面を検めてみたけれど、それは本当に〈やまつみ〉と打ってあるだけだった。十分ほど前に確かに仮名先輩から送られたメール。無題であり、スクロールの先があるわけでもない。
とりあえず僕は〈やまつみ〉のままで該当する単語を思い浮かべようとしたけれど思い付かなかった。一応、携帯の辞書でさっと検索をかけてみたところ、山祇という言葉が引っ掛かった。山の霊や神様、という意味らしい。しかしそれを皆に報告しても反応は鈍かった。そりゃそうか。そんな地名やお店もなかったはずだ。
ということは常識的に考えていい。〈やまつみ〉という文面から真の意味を汲み取るためには、補助線を引いてこれを読み解く必要がある。
「やまつみ――やまづみ――山積み、とか?」
線太郎が呟いた。
「山積み……何が山積みなの?」千鶴が応じる。しかし彼女にはすぐに別に閃いたものがあったらしい。「分かった! これ、『やまきや』って打とうとしたんだよ!」
「『やまきや』といえば、鷹松学園前の商店よね。んー、でもどうかしら。普通〈市内〉って、中央駅から下ってくるあの銀座周辺を指して言わない?」
即座に仮名先輩のお母さんから反対意見が上がる。
そう、仮名先輩は直前のメールで〈市内〉にいると送ってきたのだ。厳密に言えば、当然ここらだって市内ではあるのだが、一般的に僕らが市内と言った場合、それは市の中心地、市役所等の集まっている市街地を指す用法であると取ってまず間違いない。鷹松学園はそこからはやや外れた立地となるので、つまりそれにほど近い『やまきや』を市内というのは無理がある。
「どのみち市内にいるのは分かっているんですから、もう少し待ってみてはどうですか」どこか上の空で言ったのはりり子だった。「遅くなるようなら、直接電話をして居場所を聞くこともできますし」
しかし仮名先輩のお母さんはその申し出をすっぱりと却下した。
「そんなの、なんだか降参したみたいで癪じゃない!」
「そうですか」
無表情のまま肩をすくめると、りり子は再び人形となった。
「やまみち――山道……も違うだろうな」第二案を提出する線太郎はその時点で既に自信なさげだった。「この街が山に囲まれてるといっても、さすがに市内に山道は……」
お母さんは娘にコケにされているようで段々腹が立ってきたらしく、終いにはこんなことを言い出した。
「こうなったら市内で思い当たる場所、手当たり次第に挙げていったらどうかしら!」
「あー、えーとですね、あたし駅前のデパートとか、ちっこいけど市営の動物園にはよく行きます」
仮名先輩のお母さんの勢いに気圧されるようにして千鶴が言うと、線太郎もなんとか続けて捻り出そうとする。
「んー、僕は映画館によく行きますね。でも飲食店や美容室なんかも含めるとさすがにちょっとお店が多過ぎます。挙げていくには骨が折れますよ」
そんな風にやんわりとお母さんをいなすように言葉を締めくくる努力がいじらしかった。
さて、各人は悩んでいるようだけれど。
僕としては既に見えている結論があった。
しかしこれには少し開示の仕方を工夫する必要があったのだ。
順序付けて一つ一つのピースを組み上げていくように仕立てなければならない。
道筋の構築を滞りなく完了させてから――僕は口を開いた。
「すみません。いいですか」それぞれ沈思黙考を始めていたらしく、静かになってしまっていた一同に呼び掛けて注意を集める。「この暗号メールを解くに当たっては、まず正しく場合分けを行う必要があると思うんです」
「バアイワケ?」
やはり意表を突くような言葉だったらしい。千鶴が外国人留学生のようなたどたどしいイントネーションで繰り返した。
「紙に書いて整理しましょう」
僕はブレザーのポケットに挟んだボールペンを取り出し、鷹松祭宣伝用チラシの束から一枚引き抜くと、裏の余白に以下の場合分けを書き込んだ。
〈やまつみ〉という文面は、
- 1.未完成である。
- 2.完成はしているが瑕疵を含む。
- a.打鍵の時点での瑕疵
- b.認識の時点での瑕疵
- (c.aとbの複合)
興味深げに覗き込む四人。僕は一呼吸おいて彼らが文面を理解したのをみとめてから説明を始めた。
「順に検討します。まず、1の場合とは、『文章が完成まで至っていないが故に意味が取りづらくなってしまっている』という場合です。しかしこの可能性は、十分以上経っても続きとなるメールが届かないところから否定できます。つまりこれは途中経過が送られてきたわけではない、〈やまつみ〉という文面はそれだけで完結し、何かを意味していることが分かります。
それを踏まえて次に2のパターンを説明します。瑕疵というのは欠陥とかミスとかそういった意味の言葉です。つまりこのパターンとは『明確な意味が込められていた文書が瑕疵というフィルターを経たことによって、一見なんの意味も持たない文字の羅列になってしまった』という場合です。1が除外された今、可能性は2の場合のみに収斂していきます。
では中身を詳しく見ていきましょう。皆さんはこのaのパターン、携帯のキーを打ち間違えた可能性について主に検討していました。正しい文書は打ち間違いというフィルターを経たことで〈やまつみ〉と変換され出力されることとなった、これも一つです。しかし考えうるフィルターはこれだけではありません。もう一つ、認識の時点で誤るといった可能性がありますよね。例えば、対象の読み間違い等です」
ほう、と納得するような吐息が線太郎の口から零れた。
「この場合に立脚して何度か試行を繰り返したら、僕は存外簡単に正答と思しき解に辿り着きました。はっきり言いましょう。彼女は『実松屋』にいます」
「――『実松屋』?」
聞き返したのはりり子だった。
「どうかした? りり子?」
「いえ……」
他三人はまだ黙ったままだった。しかし僕が助け舟で『実松屋』とチラシの余白に書き込んであげると、すぐに気付いた仮名先輩のお母さんが悲鳴のような声を上げた。
「……もしかしてあの子、みまつやって読んだのかしら!」
「「……ああ!」」やや遅れて千鶴と線太郎も納得の表情を見せて。
ふう、ようやく一つ目の山まで誘導し終えた。
しかしここで線太郎が至極もっともな疑問を呈する。
「なるほど……いや、でもあき、確かにみまつやは〈やまつみ〉の変綴法みたいになってるけど……葉桜先輩はみまつやと読み間違えた上に、さらにこれを打ち間違えたって言うのか? ちょっと無理があるような……」
ただこれも予想していた範疇のものだった。
「確かに」と受けて、僕はもう一度聴衆に向けてチラシの場合分けを掲げる。「今までの話だと、暗号メールはこの2のcのパターン――読み間違いと打ち間違いの複合――によって生じたように思えます。しかしそもそもこのパターンが成立する状況というのは線太郎の言う通り極めて稀と言わざるを得ません。確率はゼロではないにせよ、それが限りなくゼロに近ければ数学やなんかでもゼロと同義とみなされます。だからこのcのパターンはカッコ付けで一応書いてあるだけだって考えてください。今、線太郎が提出した疑問も実はbのパターンの枠組みで説明がつくんです。この暗号はいわばbのパターンのフィルターが二重に掛かることによって生じてしまったんです」
僕の煙に巻くような口振りに場はまたも静まり返ってしまった。冷蔵庫が出すようなうーんという低い呻きが、時折誰ともない口の隙間から漏れるくらい。さすがにもったいつけ過ぎかしら。
「ではヒントです」僕は人差し指を立てて。「『実松屋』はどんなお店でしたっけ」
僕のこの言葉に仮名先輩のお母さんが欲しかったそのままの返答をくれた。
「老舗の和菓子屋さんよねえ」
「そうです。では、老舗のお店の看板を思い浮かべてみてください」ここで第二ヒント。
「立派な木でできてるっぽいよね」的外れな千鶴。
「旧字体とかになってるってこと?」またもポイントを突くお母さん。
「いい線いってます。でも『実松屋』の旧字体はこうです」僕はチラシの余白に『實松屋』と書き込んだ。「こうなっていたからといって〈やまつみ〉には繫がらないですよね」
「……ああ、そうか!」ここで線太郎がいち早くゴールに辿り着いた。「右から左に書いてあるんだ」
「ご明答」僕は言って、チラシの余白に横書きでこう書き込んだ。
屋実
松松
実屋
「仮名先輩が見たのは下のような状態だったんです」
「確かに屋松実を左からそのまま読むと〈やまつみ〉だ!」千鶴はぽんと手を叩いて楽しげだったけれど、
「普通そのまま読むかねえ……まったく、あの子は」と、仮名先輩のお母さんは溜め息交じりだった。
二つ目の山を越えて。あとは仕上げに一言。
「来る夏に向けて『実松屋』は水饅頭やゼリーなんかの冷製のお菓子を出し始めましたから、仮名先輩はそれに惹かれたんじゃないですか。気持ちは非常に分かりますし、何万円もする買い物はここじゃできませんよね。今日は大目に見てあげましょう」
「……うん、まあ、そうね。それじゃあ、あなたたちに免じて」
不承不承という感じながら仮名先輩のお母さんも納得してくれたようだ。暗号解読に伴って下りていた微妙な緊張感は去り、一仕事終えたような充実感と心地よい疲労感が辺りを包んだ。
「……では、私たちもそろそろお暇させていただきます。まだ訪問するお宅が残っているので。ご馳走様でした」
ここを好機と切り出すりり子。結局かなりの長居になってしまったけれど。
「あらあら、ごめんなさいね。すっかり話し込んで引き止めちゃって」
「いえいえ、麦茶美味しかったです。それに謎解きも楽しませてもらってお腹いっぱいですよ。それでは、お邪魔しました」
線太郎が言って、僕たちは葉桜邸を後にした。
ぱたん。
扉が閉まってほっと一息。
「いやあ、あき君、見直しちゃった。今までただ理屈っぽいだけの推理小説マニアだと思ってたけど」
玄関口から延びる葉桜家の私道と思しき小道を歩きながら、千鶴がそんな声を掛けてくれる。あれ、それ褒めてる? ……うん、きっと彼女なりに褒めてるつもりなんだろう。素直に嬉しいことではあったけれど、少々心苦しくもあって。
「いや、まだ仕事は残ってるから」
そんな風にはぐらかした。
「ああ、残りの挨拶回りだろ。次は――」
「……ごめん、線太郎。その前にもう一個あるんだ」
僕は葉桜邸から十分距離をとったと思われる地点で足を止めた。当然三人も立ち止まる。
僕は自身の携帯電話を取り出した。無言の視線が刺さる中、僕は電話帳の操作をして、耳に当てた。
ぷるるる、ぷるるる――。
受話口から聞こえる電子音。ぶっちゃけ出るかどうかも賭けだったのだけれど。
「はい、もしもし」
かかった!
「もしもしっ」送話口に呼び掛ける。「仮名先輩ですか。僕です。あきです。中村あき」
「名前出てるから分かるよー。あきちゃんからかけてくれるなんて珍しいからびっくりしちゃった。でも嬉しいっ。どしたの? あ、でも私、今ちょっと忙しくて――」
「それは分かってます。先輩、今、『TPIQ』にいるんでしょう?」
――『TPIQ』。前に千鶴が話していたセレクトショップ。
「……え? なんであきちゃんがそれを……」
「僕、今まで仮名先輩んちにいたんです。あ、文化祭の挨拶回りでですよ? そうして仮名先輩のお母さんとも話すことになったんですけど……仮名先輩、さっきのメールちゃんと届いてませんでしたから。文字入力をかなに設定したまま『TPIQ』って打ちませんでした?」
「……あ」
仮名先輩だけに――とはさすがに言わなかったけれど。
これこそが暗号の真相。
手元に携帯電話がある方は確認してほしい。文字入力をかなに設定したままT・P・I・Qと打つのだ。画面には〈やまつみ〉と表示されるはず。
『実松屋』云々は全てでっちあげだった。そもそも仮名先輩だってちょっと天然なところがあるとはいえ、そこまでアホの子じゃないだろうし、屋松実を〈やまつみ〉と読んだなら読んだとして、漢字に変換していないのも不自然ではないか。そんなに焦って送信するだろうか。メールも満足に打ち返せない状況を想像したり、あえて暗号にする必要性に鑑み、何か事件に巻き込まれたのかとも疑ったけれど、『TPIQ』にいるのなら説明がつく。
そう、『TPIQ』は今週セールを実施していたはずだ。ごった返す店内で、自分の目当ての商品に心奪われながらでは、打ち間違う心情も分からないではない。ミステリでよくあるのはダイイング・メッセージ(dying message)だが、言うなれば今回のはバイイング・メッセージ(buying message)といったところか。
「あと仮名先輩、こんなこと言うのはおこがましいかもしれませんが、仮名先輩のお母さん、先輩の買い物に大変ご立腹みたいでした。考えもなしに『TPIQ』なんて打ち返したらまた大喧嘩ですよ」
「あ、そうだった……ってお母さん! また喋ったのね!?」
母親との論争の件は仮名先輩自身も反省しているようである。しかしまたとは、いやはやお喋り好きのお母さんだ。あまり他人に聞かれて嬉しい話ではないだろうから、不可抗力だったにせよ一旦謝ってから説得を続ける。
「ごめんなさい、内輪の話を聞いてしまって……。でも、暗号みたいになったメールは結果オーライだったかもしれません。僕が詭弁を弄することができましたから。先輩は今『実松屋』にいることになってます。だから今日はショッピングは諦めて、『実松屋』で箱詰めの水饅頭でも買って帰りましょう。『お母さんいつもありがとう』なんて言ってそれを渡す、そんな日があってもいいと思います。ね?」
余計なお世話と言われればそれまでだった。その覚悟もできていたし。しかし自分の探偵趣味のためにこの件に関わってしまった以上、せめて事態が穏便に済むように尽力させてもらってもバチは当たらないのではないか。
受話口はしばらくの間、沈黙だけをこちら側に届けていた。厳密に言えばそれは完全なものではなく、雑踏であったり思案気な仮名先輩の吐息であったりを含んでいたのだけれど。
ややあって言葉は唐突に返ってきた。
「……ありがとう」
「え?」僕は携帯を持ち直す。
「気付かせてくれてありがとう。いろいろ考えたの。欲しい服もあるし、バッグもある……でもね、やっぱりあきちゃんの言う通りだなって思ったの。大事なことに気付けたなって思ったから。だから……ありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどのことは……」
「ううん、あきちゃんはいっつも私のこと考えてくれて、事態が最善になるようにって行動してくれる。ほんとに感謝してるんだ。じゃあ、あきちゃんの言うように『実松屋』でお土産見て、できるだけ早く帰ります」
「うん、きっと喜びますよ。はい……それじゃあ」
ぷつん。つー、つー。
「……とまあ、そういうわけです」
呆気にとられた風な三人。大方は通話中の僕の言葉で理解してもらえただろうけれど、どこか吞み込めないというか腑に落ちないという感じかな。
「噓も方便と言いますか、敵を欺くにはまずなんとやらと言いますか……『実松屋』の推理はそういったことでご理解ください」
僕が頭を下げて弁解すると、少しの間千鶴と顔を見合わせていた線太郎は、
「あきがすこぶる先輩思いなのはわかったよ。けど……ちょっと、狐にでもつままれたような気分だな」とぽつりと漏らした。
これで本当に一段落だった。
仕切り直して次の訪問先に足を向ける一行。地図を持つ千鶴に線太郎が続き、さて、僕もと歩きだそうとした時、りり子が隣に並んできて言った。
「――一つだけいいかしら」
顔は前方に向けたまま。声は低く、いつも以上に抑え気味だった。
「ん?」僕は踏み出しかけた足を引いて。「どしたの?」
「中村君は……いつもこんなことをしているの?」
「えーと……」僕はりり子の横顔を見やって問い返す。「こんなこと、とは?」
表情は読めない。
垂れ込める沈黙。
静止する二人の間を一陣の風が吹き抜け、立て続けに防災無線の定時チャイムが鳴り響いた。
どちらが止んでも、しばらく彼女は動かなかった。僕も固定させた視線を外さない。
やがて彼女は軽く髪を整えながら、短く溜め息をついた。
「……行きましょう。こんな調子じゃ日が暮れちゃうから」
そして僕を置き去りにして歩きだす。
僕は呆として取り残された格好のまま、少しの間、りり子の背中を見つめていた。
彼女の問い掛けを反芻しながら。
そして、その背中に、彼女が負っているものを思いながら――。
残りの挨拶回りは平穏無事に終了した。数をこなす度に確実に慣れていった手応えも感じた。
報告のため学校へ戻ると、タイミングよく校門の前で会長に出会った。
「お疲れ様ですっ」
千鶴が言い、四人揃って頭を下げる。
「やあ、お疲れ」
僕はふと会長が小脇に数冊の本を抱えているのに気付いた。
「会長……それは?」
「ああ、挨拶回りの帰りに市立図書館に寄ってきたんだ。私は生徒会月報に連載記事を持っていてな、そのための資料だよ。忙しい時期だから休載も提案したんだが中々好評らしくて……」
そこで線太郎が目を輝かせ、ずいと一歩前に進み出た。
「鷹松学園の地下軍事施設に迫る連載ですよね! 僕、バックナンバー遡って読み漁りましたよ。実は僕も施設現存説には肯定派で、一度お話を伺いたいと思っていたんです」
「おお、こんな身近に同好の士がいたとはな」そう返す会長の声のトーンも一段階上がっていた。「我が校は戦時中、軍事拠点として利用され、その後再び高等学校として蘇った特異な変遷を持つ。当時増設された施設は戦後の校舎全面改修の際に解体されたという話もあるが、資金が限られていたこともあるしな。特に地下の施設は簡単に埋め立てる処理をしただけで、来る有事に備えて現在もまるっと残されている可能性は否定できない」
学園の地下軍事施設だって? 会長がそんな記事を? しかも線太郎の食いつきがすごい。意外な趣味で意気投合する二人……。
「前号は熱かったですね。施設の予想全体図!」
「ありがとう。読み込んでくれていて嬉しいよ」
「非常に興味深かったです。中枢部は今の事務室の真下くらいにあったと……会長、僕の仮説を言っていいですか」
「なんだ?」
「新館の事務室付近、あるいは階上に当たる部分には、デッドスペースらしき空間や意味もなく立入禁止の箇所もあったはずです。さきほどの司令室との位置関係を考えると、会長、それが示すものは――」
「まさか、山手……君はこう考えているのか。有事の際に学区と残されている地下の施設とを繫ぐアレが、現在の新館に組み込まれていると――」
「そう、つまり――」
「「極秘緊急エレベーター!!」」
「……あの、挨拶回りの報告をさせてもらってもよろしいですか?」
グッジョブりり子。誰かが楔を打ち込まないと延々と続きそうな雰囲気だった。
会長は僕たち三人の視線に気づいた。
「こほん、少々熱くなってしまったな。すまない。山手、熱い討論の方はまたゆっくりと……それでは報告を聞こうか」
かいつまんで成果を話すと会長はうんうんと満足そうに頷いた。
「ご苦労、初めてにしては上出来だ。私はこれから原稿を仕上げなきゃならんが、君たちは帰り支度をして家路に就くといい。学校という閉鎖的な環境にいると実感することは少ないかもしれないが、我々も社会の一員だ。そこにあるルールや礼節を忘れてはいけない。では、今後もよろしく頼むぞ」
四人の返事は打ち合わせもないのに重なって。
うむ、と会長は嬉しそうにもう一度頷いた。
その日の夜、仮名先輩からメールが届いた。
熱があるんじゃないかと疑われたそうだけど、『実松屋』のお土産はとても喜んでもらえたらしい。可愛らしい絵文字がほどよく配されたメールの最後は、こんな風に締めくくられていた。
〈P.S.そういえばもっと漢字の勉強をしろって言われたんだよね。いきなりなんでかなあ〉
5 葉桜の季節
翌日。昼休み。
実行委員会の集まりがあり、各クラスの出し物の検討が行われた。
うちのクラスは話し合いの結果、休憩所が第一希望になっていた。なんとも締まらないけれどクラスの総意なのだから仕方ない。
ただそんなやる気のないクラスはうちくらいのものなのだそうだ。文化祭当日にはこの出し物全てを対象とした来場者による人気投票が実施され、これに威信を懸けているクラスも多いらしい。よって毎年この議題は紛糾するとのこと。
しかし恐る恐るといった感じで蓋を開けてみると、今年は驚くことにそれぞれの団体が自主的に調整し合ったのでは、と思うほど会議で手を入れるようなところが見当たらなかった。教室にはやや拍子抜けの感すら漂ったほどで。
結局、お化け屋敷で被った二年生の二クラスに合同で行う要請をすること、ある班の模擬店のメニューに多少の変更の余地があること、調整箇所は以上の二点くらいだった。大きな問題もなく全ての出し物に正式に許可が下り、一――Aの休憩所もこれで正式決定だ。
かくして会議は終了。
その後、実行補佐は教室にとどまって放課後のちょっとした打ち合わせを会長としていたのだけれど、不意に副会長に呼び掛けられた。
「中村さん、お客さんです」
「え?」
誰だろう? 思案しいしい廊下に出ると――。
「やっほー、あきちゃん!」
右方向、超至近距離からのご挨拶に僕は大きく体を仰け反らせた。それは驚きと喜びがないまぜになって起こった動作だった。
「か、仮名先輩!? どうしてここに?」
体の後ろで手を組んで微笑む彼女がそこにいた。茶がかった髪は中学の頃より少し伸びて、風と戯れていなければもう肩まで優に届いているだろう。
「あきちゃんには昨日、親子の危機を救ってもらったからね。直接お礼を言いたくて」
「そんなわざわざいいのに……セール品の誘惑に打ち勝ったのは先輩自身なんですから」
「え? セール? ……ああ、なんかすごかったみたいだね。っていうか、すごいのはあきちゃんだよ! 実行補佐なんだって? 一――AのHR教室行ってもいないから探しちゃった。だから挨拶回りもしてたんだね」
「いえいえ、すごいことなんかなんもないですよ。班活もやらずにふらふらしてたのが発端といえば発端で……」と、そこで僕は一つ聞きそびれていたことを尋ねてみることに。「ときに班活といえば先輩、バスケは高校でも続けられてるんでしたっけ?」
「んーん。今はなーんにも。勉強も疎かにできないって思ってね」
「そうなんですか」
やっぱり。答えはなんとなく予想していた通りだった。だって僕、高校入学してすぐバスケ班の見学に行ったもん。一週間通って、男バスそっちのけで女バス見てたもん。結果として、昨年度県大会を制覇した女バスの練習が評判通り気迫あふれる厳しいものだってことは確認できたけど、どうしてもその中に先輩の姿を発見することはできなかったから、半分感づいていたことではあったのだ。
先輩めちゃめちゃバスケ上手かったのに。ちょっと抜けてるとはいえ、学校の勉強の方は相当できたから、多少班活がキツいくらいで疎かになっちゃうことないと思うのだけど。
「あきちゃんは中学時代、伝説残したもんねー。男女合同バスケ部シャトルラン大会で、三十回いかずに泡吹いて倒れるという」
うあ。苦い思い出。
「先輩の卒業後、これでも少しはマシになったんですよ。まあ中学で一生分走ったので、もうこれ以上はいいかなって感じですけどね」
「あはは」
「でも、先輩が続けてたら分からなかったかも……」
「え?」
「あ、いえ、こっちの話です」
「そっかそっか。……あ、みっちゃーん!」
会話が途切れかけた時、先輩がいきなり僕の後方に向かって手を振りながら大きな声で呼び掛けた。どうやら友達を見つけたらしい。僕は振り向いたけれど、小さな背中が角に消える前に一瞬見えただけだった。
「あれ、聞こえなかったかなー。それじゃ、あきちゃん、私行くね」
「はいっ、また」
先輩は何事もなかったように角を曲がっていった友達を追って走り去った。
ああ、先輩――相変わらず可愛かったなー。思い出すだけで自然と口が端の方へ引っ張られてしまう。
午後の授業の予鈴で我に返るまで、僕はそうして廊下に立ち尽くし、一人でにやけていたのだった。
「ストラーイク! バッターアウト!」
大声で言わなくたって分かってるから。傷口を抉るのはやめてください。
所変わって、陽光煌めくグラウンド。
五時間目は体育。男子の種目はソフトボール。
「もっとボールをよく見なきゃ。目瞑ってるじゃん」
バットを引きずってベンチに戻ると、タオルを首に掛けた線太郎がありがたいアドバイスをくれた。運動神経に恵まれた人間の余裕が滲み出ている。
「あんなちっこいボール、打ち返せる方が異常なんだ。ソフト? どこが? ハードだよ! はあ……チームのみんなの視線が痛い。女子はバドミントンだっけ。あれなら自分のミスは自分のせいでまだ気が楽なのに」
「体育なんて教室で受ける授業より大方気楽じゃない。灘瀬の社会とかに比べたらさ」
「あれ、線太郎、社会苦手だっけ?」
「あきほど点取れないけど苦手でもないよ。僕が苦手なのはどっちかっていうと先生の方」
「ああ。あれ得意な人なんていないでしょ」
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
「それに比べて古典の曳船先生は優雅で見目よいよね。溢れる大人の気品。火垂池先生はちょっとまだお若すぎるかな」
「何その唐突な熟女好き設定。それどうせキャラ付けの性癖でしょ。同い年の彼女いるじゃん、線太郎」
「こほん、僕の話はいいとして……それよりほら、葉桜先輩とはどこまでいったんだよ」
「話の逸らし方へたくそだね」
「うるさいな。で、どうなんだよ。今日の昼休みもなんかいい感じだったじゃん」
「見てたの!?」
「うん、ドアの隙間から。僕と千鶴とりり子さんと、あと会長に副会長で」
「何やってんのさ! それに会長や副会長まで!?」ふう、油断も隙もない。「別にどうも。付き合ってるわけでもないし。……メールはしてるけど」
「どんな?」
「……好きな人の話とか」
「おお!」
「……先輩、好きな人いるらしいんだよね」
「なんだ! もうそこまで突っ込んでるんだ。誰だって? って、それはさすがに無理か」
「うん。でも、ヒントもらった」
「と、言いますと?」
「先輩の想い人、名前に『季節』が入ってるんだって」
「ほう。なんか学年とかイニシャルじゃないのが洒落てるね……って、あ!」
「気付いた?」
「あき! すごいじゃん! ばっちり集合の中に入ってる」
「でもさあ、こんなこと本人に言うかなあ……」
「遠回しな告白かも」
「まさか。ラブコメの見過ぎです」
「そんなこと言って。期待してるくせに」
「………………」期待しない人、いないでしょ。
「なんだなんだー、あきにも春が到来か、ってダジャレみたいだけど。そんで、そのメールにはなんて返したの?」
「実は……なんて返したらいいか分かんなくなっちゃって……」
「返してないの!? それはだめだって。今日にでも話題見繕って返しなよ。そうだな……鷹松祭一緒に回ろうってお誘いするとかは?」
「あ、それいいかも」
そこで大きな歓声が上がった。いつの間にやら我がチーム、ツーアウト満塁のチャンス。次のバッターは――。
「お。僕か」
線太郎は気負う風もなく、ひょいとキャップを被ってベンチを出ていった。
やはり持っている奴は持っているのだ。
バッターボックスに入った線太郎は初球から豪快にフルスイング。
集中線さえ幻視させるほどの勢いで青空に吸い込まれた白球は、やがてグラウンドのフェンスを軽々と越えていった。