ブレイク君コア
第五回
小泉陽一朗 Illustration/きぬてん
「最前線」のフィクションズ。めまぐるしいまでの“人格”の交代劇をかぎりなくポップかつスピード感あふれる文体で描ききった、血みどろにして爽やかなラブストーリーが、たった今はじまる!記念すべき第1回星海社FICTIONS新人賞受賞作。ここが青春の最前線。
【入山優太】
現状が理解できない。
フローリング張りの部屋の中、手首足首をロープで拘束されて絶望に顔を歪める武藤。全身の骨を折られ、皮を剝がれ、肉を削がれた男の死体。鉄パイプを肩に担いだ黒髪ショートの女の子。
ここに来て新被害者と新キャラか。
鉄パイプの女の子の顔はどことなく、ニュースで報道された本来の武藤の顔に似ている。見覚えのある三白眼。
僕は今、武藤の身体に入っているはずだ。今まで飯田が入っていた武藤の身体に。
そして飯田は僕の身体に入っているだろう。
僕の身体で生き延びるだろう。
上半身を起こそうとして気付く。僕の手首足首も拘束されている。
左耳が熱い。いや違う。熱いのは左耳の付け根で、左耳は千切られたかのように消失している。それに気づくと急に激痛が僕を襲う。意識が遠くなるが奥歯を強く嚙んでこらえる。
僕と飯田が入れ替わる以前になにがあったのだろう。
分かるのは一つだけ。
……修羅場っぽい。
僕が死ねば武藤も飯田も死なないですむからと、僕は飯田の魂を追い出して武藤の身体に入ったけれど、この状況じゃ僕が死んでまるっと解決とはいかなそうだ。
黒髪ショートの女の子が鉄パイプを担いで悪魔的に笑っている。
もしかしてこの女の子が真犯人?
だとしたら武藤は犯人じゃない!
僕の好きな人は人殺しじゃない!
「じゃあどっちから逝こうかねえ」
どっちから殺そうかって意味だろうか。
肩に担がれた鉄パイプはきっと凶器だ。
今までの文脈と断絶するであろうことは百も承知だが、僕は現状の説明を求める。
「お前誰だよ」
自分の喉で鳴る僕じゃない男の声に違和感を覚える。
「無駄な時間稼ぎはやめましょう、キミから死にましょさようなら」
歌うように言って、鉄パイプの女の子が近づいてくる。
「録音は死んで叫ばなくなってからだかんね。さすがのボクも生きたまま喉にマイク突っ込んだりしないって。えずく音なんて汚くて聞いてらんないからさ。経験者は語る。爆笑」
女の子が僕に向けて鉄パイプを振りかぶる。
「やめろっ!」
武藤の悲痛な叫びを無視して女の子はカウントを始める。
「十、九、八、七、」
これじゃ無駄死にじゃないか。
どうにか抵抗しなければ。
でも具体的な案が浮かばない。
まだ死を受け入れる心構えもできていないはずなのに、僕は歯を食いしばり鉄パイプが振り下ろされる未来に備えている。
「六、五、四、」
三がカウントされるタイミングで僕の太ももに鉄パイプが振り下ろされる。
骨を直に殴られたような硬い音が鳴る。
「っがああああああああああああああああああああ!」
ダンゴムシのように蹲り身体を捻る。
「ほうら、叫び声でなんの音も聞こえない。だからマイク突っ込んでも意味ないんよね。それにしてもやっぱボクの顔かあいいなあ。もしかしてボクサドかも」
鉄パイプの女の子はパソコンデスクに備え付けられた棚を開けて大ぶりのナイフを取り出す。刃こぼれから生々しい使用感が窺えるが刃先は鋭く、十分に研がれているように見える。女の子は刃を下に向けてナイフの柄をつまみ、僕の太ももの真上で手を離す。まるですり抜けるかのようにジーンズを突き破り、刃は僕の太ももに深々と刺さる。刃が肉を断つ分かりやすい音がする。
激痛なんて言葉じゃ足りない痛みが脳を満たすが、歯を食いしばって叫び声を我慢する。こいつの思い通りになるのは嫌だ。
「あらあらあら強がっちゃって。ボクそういうの好きじゃないなー。逆に燃えちゃうってば」
女の子は僕の側にしゃがみ、僕の太ももに刺さるナイフの柄に手をかけ、自分の方へ勢い良く引く。
ブヂヂヂヂヂ!
燃えるような痛みと共に太ももの肉がぱっくり開く。
「っぐぁっぁぁああああああああああああああ!」
女の子はトロンとした目でニタリと微笑んでナイフをさらに深く刺し、切っ先を肉の向こうの骨につきたてる。骨に溝でも刻むように、ぎぎぎぎとナイフを前後させる。
ぱっくりと開いた傷口の中でナイフが行っては来てを繰り返す。
ぎぎぎぎ、ぎぎぎぎ、ぎぎぎぎ、ぎぎぎぎ。
ナイフが骨を走るたび、そういうスイッチを押されているかのように全身が痙攣する。薄白い脂肪と赤黒い血液の間でナイフがぶじゅぶじゅと音を立てる。
「あがっああああっあがあああああっあああああっがあああ!!」
絶叫と共に首をがくがくと痙攣させて毛穴という毛穴から脂汗を流しているとナイフの動きは止む。
女の子が満足気な顔で立ち上がり、鉄パイプを握り直す。
「ぎゃー萌え萌えだよ今のキミ。そうそう、そういうリアクション期待してたの。今のナイス悶絶でさっきの失言チャラにしてあげるよ、つっても殺すことには変わりないんだけどね。爆笑。なーんか飽きてきたかも。やっぱさっさと殺しちゃお」
女の子が思い切り鉄パイプを振りかぶる。
来たる死を覚悟する。
こいつは確実に僕を殺す。
好きな女の子を守れずに僕は死ぬ。
そんな僕にできることはたった一つだ。
「武藤! 僕は武藤が好きだった! 武藤と恋愛したかった! またあんな風にデートしたりして、もっと色んな武藤を見たかった! 武藤ともっと一緒にいたかった! 武藤と一緒に生きたかった!」
武藤は僕と飯田が入れ替わったことを知らないはずなのに、僕の告白を受けてくれる。
「俺も優太が好きだった! 優太ともっと一緒にいたかった! 好きだった! 大好きだった! 嬉しかった! 楽しかった! こんなに人を好きになるのなんて初めてだった! 優太に死んで欲しくない! 俺も優太と一緒に生きたかった!」
好きだった。
生きたかった。
互いに過去形。
僕たちの気持ちは死に備えて終わっている。
そして、僕たちの生も終わる。
「ボクの妹はレズビアンだったとかそんなオチ? ボクの身体で愛なんかほざくんじゃねーよ気分悪い。だ・か・ら・さようなり~。できれば来世でもよろしくネッ!」
僕めがけて鉄パイプが振り下ろされる。
武藤が顔を歪め大粒の涙を零す。
全然ハッピーエンドじゃない。
これじゃ武藤も助からない。
これじゃただの無駄死にだ。
これじゃただの犬死にだ。
鉄パイプが空を切る音。
頭蓋骨が割れる硬い音。
僕の恋愛が終わる音。
僕の生が終わる音。
さようなら武藤。
……おかしい。
なぜだろう。
痛くない。
僕の脳天からは既に脳味噌が飛び散っているのだろうか。
死に痛みは付随しないのだろうか。
これからやってくる死を予測して『はい僕もう死ぬー、痛覚シャットアウト~』と無意識が命令を出したのだろうか。
ここで僕の人生は終わるはずだった。
ここで僕の物語は終わるはずだった。
ここで僕の恋愛は終わるはずだった。
「いった~」
女の子の声が聞こえ、僕はいつの間にか閉じていた瞼を開く。
音を立てて鉄パイプがフローリングに転がる。
床が凹んでいる。
先ほどの頭蓋骨が割れる音は床が割れる音だったのだろうか。
こんな至近距離で殴り間違えるなんてことがあるだろうか。
恐る恐る顔をあげると、僕を殺そうとした女の子が膝から崩れ落ちる。
ぺたんと床に尻をつけて、声をあげて泣きだす。
「うああああああああん、間に合ってよかったああああああああうう、うううううううううううぅぅぅぅぅぅ」
【墓無沈】
トランクを開ける。
耳と太ももからの出血で内側から赤く濡れたズダ袋を持ち上げ、乱暴に地面に落とす。
手首足首を拘束され猿轡を嵌められているせいでろくな反抗もできないだろうに、ズダ袋の中の武藤ムツムは唸り声のようなものをあげ、身体を捩って暴れる。
あーウザったい。
死に際になって無駄な抵抗とか雑魚キャラが過ぎる。分かり易すぎる。薄っぺらすぎる。美学を持て。
ズダ袋の結び目を摑んで砂利のしかれた庭をひきずり、佐藤静江宅の玄関へ向かう。
庭師によって十分に手入れされているのであろう松の木やつるつるした庭石が彼女の家の裕福さを象徴している。庭の奥にはそこだけ周囲の景観から浮いている原色にまみれたスペースがあり、補助輪のついた自転車が寂しげに佇み、プラスチックの簡単なブランコが微かに揺れている。
暴れるズダ袋を押さえつけるように踏みつけてインターフォンを押す。
靴底の捉える感触から、僕が踏んでいるのは後頭部だと分かる。
しばらくして佐藤静江が出てきた。
相変わらず濃い隈を浮かべ、目は死んでいる。
開いた玄関扉の向こうに応接間が見える。
枯れかけの観葉植物は倒れ、カレンダーは床でへたり、分かりやすく荒れている。
無駄な感受性が働きそうになるが意識的に停止させる。
予定通り事務的に話を進める。
「これ、武藤ムツムです。どうします? 家の中まで運びましょうか?」
死んだ目でズダ袋を一瞥してから、ひたすら泣き続けたのであろう音を発するのが精一杯という声で佐藤静江が応える。
「いえ、ここまでで結構です。お金は、予定通り、振り込みますので」
「じゃあ僕はここで。なにかあったらまた連絡下さい」
「あの……」
「はい?」
「ありがとうございます、でいいんでしょうか……」
そんなの僕には分からない。しかし、彼女が求めている言葉は明瞭だ。
「いいんじゃないですか」
「……そうですか」
「よい復讐を」
庭の入り口付近に寄せた車へと踵を返す。
開けっ放しのトランクはきちんと空っぽだ。きちんと終われた。
解放感と共にトランクを勢い良く閉じ、玄関を振り返る。
暴れるズダ袋を無表情で見下ろす佐藤静江がいた。佐藤静江の目は相も変わらず死んでいて、何の色も浮かんでいない。
運転席に乗り込み、エンジンをふかし、佐藤静江の住居を去る。
佐藤静江は武藤ムツムをどんな風に殺すだろう。自らの手で殺す度胸が湧かず、ただただ餓死するのを待つだろうか。娘と同じように顔以外の全身の骨を折り、皮を剝ぎ、肉を削いで殺すだろうか。まあどうであれ武藤ムツムは殺される。あれはそういう目だ。
もしかしたら入山君が殺されるかもしれなかった。
ズダ袋に入っているのは入山君かもしれなかった。
僕は入山君を殺そうとした。
佐藤静江に殺させようとした。
武藤ムツムの身体に入山君の魂を入れ、そのちぐはぐな人間を佐藤静江に差し出すつもりだった。入山君は武藤ムツムの身体で武藤ムツムの人格を演じ、佐藤静江に殺されて終わるはずだった。そうすれば武藤ムツムもいくみんも死なないで済むからと、僕は入山君に『自殺』をけしかけた。
世の中の酸いも甘いもまだまだ知らない、大人が汚らわしい存在に思えてしょうがない、そんな美しい季節に身を置く高校生にけしかけて、自ら死を選択させるなんて気が引けたが、最終的に選んだのは入山君で、責任はいつだって選んだ者にある。
自分の命と引き換えに二人の命を救えることに価値を見出したのか、入山君は僕の策を受け入れてくれた。自ら死ぬことを選択してくれた。
武藤ムツムの身体に入山君の魂を入れる直前、僕は何故か入山君に訊いた。
「心変わりは?」
ここで「やっぱりやめます」なんて言われたら冗談にもならないのに、僕は入山君に再度、選択の余地を与えた。僕は飽くまでも入山君に自ら『自殺』を選んで欲しかったのだろう。
「ないです」
間髪容れずに男らしい返事が返ってきた。
ここで僕の決意も固まった。
「最後になにか伝言でもあるかい? 遺言だ。いくみんにでも、武藤ムツムにでも。いや、武藤ムツムには今から会うかも分からないんだったね。いくみんと武藤ムツムが一緒にいるのなら」
「飯田には、ごめんなさいと伝えて下さい。とにかくごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。それだけです」
「武藤ムツムには?」
「なにも」
「好きだったんだろう?」
「……僕が死んだこともできれば伝えないで下さい」
「殊勝だ」
「…………」
「じゃあ足早ながら始めようか」
入山君を三人がけ用のソファに仰向けに寝かせ、いつも通りの手順を踏んだ。
「目を閉じて、武藤ムツムの顔、身体を思い浮かべて」
「はい」
入山君の側頭部を挟むように両手を当て、左耳に口を寄せて呟く。
「ありがとうごめんなさい愛していますさようなら」
入山君の側頭部を潰すよう、グッと両手に力を込める。
痛みに一瞬顔を歪めた後、安らかな表情になった。空っぽになった。
確認のため入山君の頰を張るが反応はなかった。成功だ。
武藤ムツムの身体を借りた入山君がこのマンションに戻ってくれば殆ど終わったようなものだ。当然入山君が逃亡する可能性も考慮して「万が一、君が戻ってこなかったら君の魂を再び呼び戻して殺す。その結果、武藤ムツムといくみんのいずれかも佐藤静江に殺されるだろう」と脅しをかけておいたが、僕は入山君が裏切るとは思えなかった。入山君の言葉に裏があるとは思えなかった。
入山君の魂が入った武藤ムツムを佐藤静江に差し出せば、この物語は完結する――はずだった。
確かにそれでも終われた。
あのときの僕にとってはその結末こそが最善だった。
最善の獲得にはいつだって犠牲が付き物だ、というわけではないけれど、犠牲が必要なときに躊躇なく犠牲を払えるのがプロの資質だ。切るべき処は切らなければならない。甘ったれた良心と過剰な感受性はいつだって人を最善から遠ざける。そんなのは最低限でいい。共感はできないけど理解はできる。その程度でも十分過ぎる。
幾許かの罪悪感を燃やすように煙草に火をつけ、物思いに耽ると入山君が涙を流していることに気づいた。
この涙は入山君が流したものだろうか、それとも……。
入山君には表情が宿っていた。恐怖に顔を歪ませるような表情が。
「いくみん? いくみん?」
頰を張って呼びかけると、朝日が昇るくらいのスピードでゆっくりと瞼が開いた。
恐怖に歪んだ表情が一瞬で驚愕に染められた。それは絶望とも読めた。
「……墓無?」
「思ったより早かったね」
「え、待ってこれ、ちょっとなにがなんだかって、ここは墓無のマンション? だよね? っていうことは今までのは夢? いやそんなわけないっていうか、そんなわけあって欲しいけど今までの現実は現実で――」
「ちょっと落ち着いてくれよ」
混乱するのも無理はないが、いくみんの狼狽は度を越していた。
携帯電話で顔を撮影していくみんに今の自分を見せてやると、いくみんは僕に飛びかかろうとした。手錠をかけられているせいで僕の胸にどすんとぶつかって床に倒れるだけだった。
「戻して!」
「入山君が決めたんだ。恥かかせるなよ」
「入山君死んじゃうよ! ひかりも!」
「ひかり?」
「今まで私の身体に入ってたのは武藤ムツムじゃなくて武藤ムツムの妹の武藤ひかりだったの! 三人で魂の入れ替わりが起こってて、だから私たちは元に戻れなかった、二人だと思ってたから! それで私とひかりは武藤ムツムに殺されそうになってて、このままじゃ私だけが助かって二人が死んじゃう!」
いくみんと武藤ムツムの魂を元あるべき身体に戻せなかったのは、入れ替わりが三人で起こっているせいだった。
この物語の最善が更新された。
「早く! 早く戻してよ! 聞いてんの墓無! ねえ!」
僕には一筋の光が見えていた。
どうやら武藤ムツムは入山君と新キャラ武藤ひかりを殺そうとしているらしい。
ならば武藤ムツムを現場から退場させればいい。
僕にはそれができる。
それに伴い、僕の仕事に不都合が生じることもない。
佐藤静江を騙す必要も、入山君が殺される必要もなくなる。
僕の案に落ち度がないか確認している間、息の仕方を忘れるほどに胸が高鳴った。その興奮は自分の閃きに対する賞賛であり、僕の手腕に人の命がかかっていることに対する度を越した緊張でもあった。
自分の肝っ玉の小ささを今なら笑える。
確かにそこには最善があった。
「武藤ムツムの魂は妹ちゃんの身体の中に入っているんだよね」
「そう」
「妹ちゃんの顔はいくみん知っているよね」
「うん」
「君は今から武藤ムツムが魂を置く妹ちゃんの身体の中に入る。武藤ムツムの魂と入れ替わる」
「でもそしたら墓無が武藤ムツムに――」
「大丈夫。君は今手錠をしているじゃないか」
いくみんが不安気に手錠を見やる。
「じゃあ目を瞑って、妹ちゃんの顔、身体を思い浮かべて」
祈るような表情でいくみんが目を瞑る。
「いくみんクライマックスだ。君が一番おいしいよ」
いくみんの側頭部に手を当て、
「ありがとうごめんなさい愛していますさようなら」
グッと両手に力を込めた。
【飯田いくみ】
私は元の身体に戻ったけれど、元の私に戻れたわけじゃない。
変わらないためには変わり続けることだと昔の偉い人が言っていたけれど、なんか屁理屈臭いし、今の私にはしっくりこない。
なんだか元の私が懐かしい。
元の私と今の私はあの事件を境に断絶してしまった。
ほんの少し変わっただけかもしれないけれど、私は大きく変わってしまった気がしている。
いや、ほんの少しってことはないか。
私は生まれて初めて死体を見たし、生まれて初めて人を殺した。
元の身体に戻ってから、私が殺したバイトのチャラ男=伊東裕之が夢に出てくるようになった。
夢の中の私は、学校で町で家で、普通に生活している。その日常の中で伊東裕之を見つける。スーパーの通路の向こうに、学校の帰路に、私を追い抜く車の中に、伊東裕之はいる。私と同じように普通に生活している。夢の中の私は、あ、伊東裕之だ、と思うだけでなんの思考もしない。知っている人を見かけた、それだけの事実として受け止めてすぐに忘れる。
目覚めてから私は思う。思わされる。
あれは可能性だ。
伊東裕之が生きていた可能性。
私が殺さなければ、どんな人生かは知らないが、伊東裕之は生き続けていたはずなのだ。
私は伊東裕之の命を断ったのだ。
全ての未来を潰したのだ。
可能性を根こそぎ奪ったのだ。
私がしたのはそういうことだ。
殺したとはそういうことだ。
私はなんにも分かっていなかった。
浅薄なその場の判断で鉄パイプなんか握って、『いける』とか思って本当最悪だった。なにがいけるだよ、全然いけねーよマジでふざけんな。
非現実的な現実でも現実の私が知覚している限りそれは現実なのだ。現実を現実として捉えるまともな脳味噌が私には足りなかった。だから簡単に人殺しなんかしてしまった。
自首しようかとも考えたけど、伊東裕之を殺したとき、私は武藤ムツムの身体に入っていたから法では私のことを裁けない。それって私には罪がないってこと? とも考えたけど、それは違う。
私には罪悪感がある。罪を負った自覚がある。それはやっぱり罪を負ったということだ。でも罪と罰はセットじゃない。誰かが私を罰しようとしない限り私は罰せられない。
自傷でも自殺でもして自分で自分のことを罰しようかとも考えたけど、そんなのは自己の救済が目的で本当の意味での罰じゃない。なんてそれっぽい理論で自制したけれど、実のところ私はただ死にたくないだけだ。
どんだけ自分が可愛いんだよ。
マジで死ね自分。
とか言っても私は生きる。
表面上はなにもなかったみたいに生きる。
生きたいから。
でも生きていくことが怖くもある。
人も世も諸行無常だ。
あんな事件に巻き込まれて悟った気になって言ってるんじゃなくて、世界のルールとして、世の全て、人の全ては諸行無常なのだ。
生きていれば時間が流れて、時間の流れは人生そのもので、時間が流動的なものだから人生もまた然り。
人間は変わる。
良くも悪くも。
生まれたときから武藤ムツムは殺人犯だったわけじゃない。人を殺して初めて殺人犯になったのであって、その殺人の以前に動機の形成とか人格の形成とか殺人の素養の形成とか、その他諸々があったのだ。
生きていれば人は変わる。
私はそれが怖い。
私も人間だから時間の経過とともに変わっていく。
もしかしたら武藤ムツムみたいな殺人犯になるかもしれない、っていうかもう私は既に殺人犯だ。
なんていうか、夢にこそ見るものの、伊東裕之への殺人は私の中で不可抗力みたいなものとして片付けられている所があって、それとは別に何かの拍子に今度こそ自発的に殺人を犯してしまうんじゃないかと、そういう人間になってしまうんじゃないかと、私はそれが怖い。
人は生きている限り変わることから逃れられない。ということは、私が新たに殺人を犯さない保証はどこにもないということだ。いつかころっとそんな存在に変わってしまうかもしれない。それに私にはどうも殺人の素養があるっぽいのだ。あんなスマートに伊東裕之を殺したのに罪悪感はそれほど大きくない。
生き易いけど人として終わってる。
お詫びとお礼がしたいと呼び出され、墓無のマンションに来た。久しぶり。と言っても私たちが元の身体に戻ってからたったの一週間ぶり。
「これ、なんにも言わずに受け取って。要らなかったら寄付でも捨てるでもいいから」
墓無が一センチほど厚みのある茶封筒を渡してくる。
受け取って中を覗くと一万円札の束だ。
あらあらあら。
「これいくら?」
「百万円」
まあ断わる理由もないし、本当こいつには迷惑かけられたし、妥当な金額だと思うので素直に受け取っておく。
「武藤ムツムはもう佐藤静江さんに差し出したの?」
「君らを元に戻した次の日に」
「ていうことはもう死んでるよね」
「足の先から首の付け根まで二センチ刻みに骨を折って一晩放置して、皮を剝いでまた一晩放置して、ゆっくりと全身の肉を削いで、口の中から脳味噌にナイフを突っ込んでグチャグチャに搔き回して殺しました、ありがとうございます、って連絡があったよ」
「……ふーん」
「同情かい?」
「私もそんな風に復讐されたりするのかな、と思って」
「なんでいくみんが復讐されるんだい?」
「あのバイトのチャラ男、伊東裕之、私殺しちゃったじゃない。あの人の親族とかに復讐されるのかなって」
「それはないよ。いくみんが殺したと知っているのは僕と入山君だけだ。世間は武藤ムツムの仕業だと思っている。武藤ムツムは佐藤静江さんに殺されたから真相は永遠に闇の中だ。それにいくみんが殺しちゃったのはいくみんだけの責任じゃないんだよ」
「いや、私がもっと理性を持っていたらよかったってだけの話でしょ」
「これは言っとかなくちゃと思ってたんだけどさ、あのときいくみんは武藤ムツムの身体ん中に入っていただろう? そりゃそれだけって言ったら噓かもしれないけど、武藤ムツムの身体に殺人衝動とか殺人を犯してもどうってことないって感覚が染み付いていたんだと思う。だからいくみんが気に病むことはない」
この言葉で少しだけ救われるけど、墓無の言ったことは気休めで噓かもしれないし、墓無の言う通りそれだけが理由ってこともないだろう。
私の不安は少し和らいだけど、これからも私は自分が武藤ムツムみたいな人間になるかもしれない、という不安を抱きながら生きていく。
あ、でもその不安も悠久ってことはないのか。
とにかく私はこの不安が消えるまで、この不安とともに生きていく。
その不安を体現しないためには、どう生きていくかってことが大事なんだろう。
人は変わることから逃れられない。
それならできるだけいい方向に変わりたい。
自分の人生を全部自分で決められるはずないけれど、全部は無理ってだけで、それなりにだったら自分の意思で自分の人生の舵をきれる。
自分の意思だけじゃ不安だから、私の人生の舵を良い方向にきってくれる誰かが側にいてくれたらいいな、と思う。
それは墓無でも入山君でもひかりでもない気がする。
まだ私はそういう人に出会っていないのかもしれない。
そう思考を締めくくった次の日、ひかりが私の家に遊びに来た。
私の人生の舵をきるのは多分ひかりじゃないんだよなあ、と失礼なことを思いつつ、ひかりを部屋に招き入れる。
「パソコン借りてもいいか?」
「それ使って」
私のノートパソコンでひかりがネットを弄る。
ひかりの身体に入った武藤ムツムのことを思い出すが、ひかりに失礼だし早く記憶から抹消したいのですぐに脳内映像を停止させる。
「これ聴こうぜ、いい曲だからさ」
ひかりの開いたページはマイスペースで、マウスのカーソルはミュージックの再生ボタンに合わされている。
アーティスト名は『muto_muto』。
「誰これ?」
「黙って聴いてりゃ分かるって」
再生数はどの曲も一桁でどうやら素人っぽい。
ひかりの顔を見て気付く。
『muto_muto』ってひかりのことか。
今から再生されるのはひかりの作った曲だ。
だからひかりはどこか強張った表情なのだ。
自作の曲を聴かせるなんて自分の日記を見せるに等しい行為だ。
聴いてるこっちまで恥ずかしくなってしまいそうだ。
知らなかった。
こういうことされると嬉しいんだ。
【入山優太】
こうして一つ大きな事件が解決すると、なんだか物語と共に全てが終わったような気がしてしまうけど、物語っていうのはカメラで言うところのファインダーであって、ファインダーの外にも世界は広がっている。物語の外には物語以外の全てがあって、そこには当然僕の気持ちもある。
僕の気持ちについては全然解決していない。
事件の解決と共に、薄ぼんやりとしていた疑問が現実という名の輪郭と質量を得てグワアッと僕を襲った。
僕が好きなのは誰なんだろう。
小便臭いし鼻で笑って吹き飛ばしたくなるような糞みたいな疑問だけど、糞だからこそこびりついて取れないし目を逸らせない。
武藤ムツムは佐藤静江さんに殺されて、飯田もひかりも僕も元の身体に戻れてよかったんだけど、果たしてそれが僕にとってよかったかというと微妙で、そりゃ自分の好きな人の幸せは僕にとっての幸せであるって感覚もあるんだけど、それは表面的で薄っぺらい感覚な気がする。
僕は飯田いくみの身体に入った武藤ひかりのことが好きだった。
でももうそんな人間はいない。
僕の好きだった女の子は分解されてしまった。
頭の悪い僕は飯田に相談してぴしゃっと拒絶された。
「入山君が私のこと好きだったのは何となく分かってて、好かれると好いちゃうっていうか、入山君いいかもなーって思ったこともあったけど、やっぱりあれはまやかしで、今の私にそんな気持ちはないわよ」
「なんで?」と尋ねた僕はやっぱり馬鹿だ。
「だって入山君は私の魂っていうか人格は好きじゃないんでしょ? 顔がタイプなんでしょ? 悪い気はしないけど嬉しくもないわよ。私は私の魂を愛して欲しいもん。ルックスは導入部であっておまけみたいな、そんな少女漫画チックな恋愛に憧れているのです」
そりゃそうか。ごめんなさいと同時に飯田変わったなあと思う。口に出してみる。
「飯田なんか変わったよね。自分の気持ち喋るようになったっていうか、自信ついたっぽいっていうか」
「そりゃあんなんに巻き込まれたら変わるわよ」
自嘲気味に飯田が笑う。
こんな飯田だったら魂までまるっとまとめて愛せるかもと思うが、ふられたらショックだし、ふられそうだし、愛せそうだから告白するっていうのは違うので告白しない。
告白っていうのは告白なのだ。
自分の気持ちを伝えることだ。
打算や計算はそこにないはずだ。
飯田は少し遠い目をして、なんだか誇らしげでムカつくけれど、やっぱり可愛い顔で言う。
「あんなんに巻き込まれたからっていうのもあるけど、生きてればなんにもなくても変わるわよ。だから入山君も、入山君の気持ちも、ほんわーって変わるって」
「飯田のことちっとも好きじゃなくなるのかな」
「飯田の外見でしょ?」
「…………」言葉につまる。
「言葉だけでも否定してよ」
「悪い」
「んじゃもっかい言い直して」
「飯田のことちっとも好きじゃなくなるのかな」
「飯田の外見でしょ?」
「そんなことないよ」
「ずっと好きでいてくれても良いけどね」
「へ?」
「ずっと私のこと、私の外見、好きでいてくれてもいいよ。私も変わるかもしれないから。いつか入山君のこと好きになるかもしれないし、これからも嫌いかもしれないし」
「これからも?」
「だって私のこと超裏切ったじゃない。そりゃ嫌いになるわよ」
なになに告白されちゃう? とドッキーンってきてたのに、このタイミングで嫌い宣言ですか。まあそりゃそうか。嫌いって言われると好きでいるのが難しくなる。
こんな会話を一度学校で交わしてから飯田とはそれっきり。
偶然顔を合わせたら少し話したりするけれど、それだけ。一緒に帰ったりはしない。
僕と飯田の関係はこの延長線上で減速して薄くなって、きっと最後は記憶だけになって終わる。やっぱりそれは哀しいけれど、それほど終焉に抗いたい自分も見つからなくて、収束するべき場所に収束した感じ。ダサい言い方をするなら大人の階段を上ったような感覚。きっとこれからの人生でこんな感覚に何度も出会うだろう。そんな気がする。
もしかしてこれ失恋?
飯田に対する『好き』は既に終わっているけれど、『好きだった』まで終わってしまったような、そんな根源的な失恋。過去は過去で大事にしたい。消えてしまうのはやっぱり哀しい。飯田と並んで歩いた帰り道を思い出して、ちょっとだけセンチメンタル。
ひかりとは僕が電車で八田ノ町まで行ってちょくちょく会っている。
死に際、武藤ムツムに鉄パイプを振りかぶられて僕はひかりに告白したけれど、あのときの告白は本当に武藤ひかりという人間に向けられていただろうか。あのときのひかりの魂は飯田の身体に入っていたのだ。僕はあのちぐはぐな女の子に告白していたのではないだろうか。
今ではよく分からない。
ひかりは僕に恋愛関係の話をふってこない。
ひかりも僕の告白について思う所があるのかもしれないし、実の兄が殺人犯で、しかも被害者の母親にぶっ殺されたという現実に、少なからずショックを受けているのもあるだろう。
元のひかり、純正のひかりは黒髪ショートが似合っていて可愛いけれど、どうしても飯田と比べてしまう自分がいて、そんな自分は早く死んだほうがいいと切に思う。
飯田にピシャリと拒絶された次の日の放課後、八田ノ町のあの海岸で僕はひかりに訊く。
「僕のこと好き?」
驚いて照れくささを誤魔化すような態度を取るかと思ったけれど、すーっと一回深呼吸をして、落ち着いた調子でひかりは言う。
「俺は優太が好きだ」
その声は叫ぶでもなく、声量もいつものそれと変わらなかったけど、どこか震えているように聞こえて、自分の魂や大事なものを全て僕に晒すような、素っ裸の緊張に満ちた声だった。
自分の気持ちを再確認するかのように、少し晴れ晴れとした声をやっぱり震わせて、ひかりが続ける。
「俺は優太のことが好きだ。なんかもうわけ分かんねーけど、好きだから好きなんだ。やっとちゃんと言えた。……優太はどうだ? 俺のこと」
「僕もひかりが好きだよ」
自分に噓をついたような気持ちになる。
噓かもしれないし、噓じゃないかもしれないのに。
なんで噓かもしれないなんて思うんだろう。
胸をはって本当だって言いたいのに。
そんな自分に成れたらいいのに。
海水浴場の見える、僕と墓無がもみ合いになったコンクリートの踊り場の上で、僕の唇は塞がれる。ひかりがそっと唇をつけてすぐに離す。
「噓はやめろよな」
うっひょー! と思うが、色んな感情がゴチャ混ぜになって、同時に急に冷静になって、僕は泣きそうになる。
ひかりに抱きしめて欲しいと思う。
「ちょっと、こっちきて」
両手を広げてひかりを呼ぶ。
僕の両腕の間に身体を入れて、肩の上から背中に手を回し、ひかりは僕を抱きしめてくれる。
「ゆっくりでいいから」
そう言って僕の背中を優しく叩く。
なにがゆっくりでいいんだろう。
ひかりのことをゆっくり好きになればいいということだろうか。
ゆっくり自分の気持ちに答えを出せばいいということだろうか。
『ひかりのことをゆっくり好きになればいい』ということだといい。
僕はひかりのことが好きな自分でありたい。
僕はひかりのことが好きな自分に成りたい。
この想いは本物だ。
僕のこの想いそのものが、僕にとっての『好き』って気持ちなのかもしれない。
僕の気持ちなんだから、僕の気持ちの定義は僕が決めればいいってことにする。
信じたい自分を信じることにする。
「僕はひかりが好きだ」
ひかりの背中に手を回して、気持ちもろとも離さない。