ブレイク君コア
第四回
小泉陽一朗 Illustration/きぬてん
「最前線」のフィクションズ。めまぐるしいまでの“人格”の交代劇をかぎりなくポップかつスピード感あふれる文体で描ききった、血みどろにして爽やかなラブストーリーが、たった今はじまる!記念すべき第1回星海社FICTIONS新人賞受賞作。ここが青春の最前線。
【入山優太】
墓無が「おやすみなさい」と寝室に消える。
僕はソファに深く腰掛けて墓無の提案について考える。
『君が死ねばまるっと解決かも』
この提案は飯田が生きていることが前提だ。
墓無は飯田も武藤も生きていると言う。何故分かるのか尋ねると、「勘」の一文字を返された。
「勘って……」
「勘は勘でも霊感だよ。僕の勘は信頼してくれていい。百発百中、当たるからこその勘だ。だから探偵で飯が食える」
そう自信満々では言い返せないし、僕は墓無を信じるしかないのだから疑ってもしょうがない。
僕は武藤が好きだ。
僕は武藤と恋愛したい。
その願望の前提には武藤の生がある。
武藤と恋愛したい気持ちより、武藤に生きて欲しい気持ちの方が強い。
「墓無さんが依頼を断る。もしくは依頼人を殺すっていうのは解決にならないんですか?」
「無理」即答だ。「そんなことしたら僕が静江さんに殺されかねないからね。なにより僕は彼女からの依頼を遂行して報酬を貰いたいんだ。お金だよお金。彼女がいくら出すと言ってるか知ってるかい?」
「知りません」
「一億だよ一億。人の命はお金に代えられないとは言うけれど、それは人の命はお金にならないって意味だからね」
「人の命を差し出してお金を貰おうとしてるくせに」
「商品としての価値はあるけれど、命だけじゃ牛丼も喰えない」
「ベンツに乗ってるくせに」
「とにかくその案は却下。さっき言った通り君が死ねばまるっと解決、百点満点とはいかないけれど及第点は貰える。君以外はハッピーエンドを迎えられるよ。朝までに考えといてくれ」
「…………」
「おやすみなさい」
墓無が寝室に消える前にした会話を思い出してみたけれど、僕を救ってくれそうな光は見つけられなかった。
明日は武藤を依頼人である佐藤静江さんに差し出す約束の日だ。
このまま飯田も武藤も見つからなければ、二人の捜索を続けることになるだろう。
どちらかが死なないと二人とも永遠に追われる身だ。
僕が死ねば二人の命が助かる。
悪くないんじゃないだろうか。
僕の命に価値が与えられるようで、悪くない。
心身ともに疲れていた。
「悪くない」
わざと口に出し、疲労感に身をまかせ眠りについた。
【飯田いくみ】
もぞもぞと肩を回してみる。
おかしい。痛みはない。
骨が折れたのは小学校の四年生以来。タンスの角に小指をぶつけて泣きわめき、お母さんに病院へ運ばれて診察を受けたら粉砕骨折していた。身体の中で骨の折れる鈍くも鋭い音が鳴ったのを覚えている。昨晩聞いた音と酷似していた。
私の隣にはひかり。私と同じく手首を背中で縛られて足首も然り。私たちを縛っているのは昨日ひかりが準備していたロープだ。
目の前には男の真っ赤な死体。
パソコンデスクの向かいに置かれたベッドでは、ひかりの身体を借りた武藤ムツムが細くいびきをたてて眠っている。
昨晩の骨が折れる感覚は錯覚か? あんなにリアルだったのに。あんなに痛かったのに。皮を剝がれる感覚も、肉を削がれる感覚も、全て錯覚?
昨晩私を襲ったのは一体なんだったのだろう。仮説の一つも浮かばない。私は死んだんじゃなかったのか。
ここは天国で、とかとりあえず思ってみようとするけど絶対違う。腕にロープが食い込む感覚、血の臭い、つけっぱなしにされたパソコンが立てる低い音。私は生きている。これは現実だ。これが現実だ。
先に目を覚ました私は隣に寝転ぶひかりの尻に踵を乗せて、音を立てないように軽く叩く。
ひかりが目を覚ます。
小声で話しかけてくる。
「ここは?」
「見ての通り」
「……ムツムは?」
「ベッド」
ひかりが眉間に皺を寄せる。
「おい、痛くねーんだけど。お前は?」
「全然痛くない。夢だったみたいに」
「もしかしてここ天国かよ!」
ひかりの顔が明るくなる。
私はひかりの希望を早々と潰してやる。
「そういう惰性の思考はもう私済ませたから」
今現在に至るまでの過程なんかどうでもいい。
私たちが考えるべきことは一つだ。
「どうやって逃げよう」
「ほら、よくあんだろ? 背中合わせになってどっちかが相手のロープを手探りでほどくやつ。あれやろうぜ。俺がほどいてやんよ」
ひかりは首で反動をつけて身体を起こし、音を立てずに壁に寄りかかって体勢を保つ。私もそれに倣って壁に寄りかかる。もぞもぞと身体を動かしながら蟹みたいに互いへと近づく。二人の肩が触れ合った所で、「せーのっ」と合図をして、互いの肩に体重をかけながら背中を合わせる。ひかりの手の温度が嬉しい。
トゥルルルルルルルルル、トゥルルルルルルルルル、トゥルルルルルルルルル……
携帯電話の着信音が鳴り響く。
驚いてバランスを崩し私は倒れてしまう。両手首を縛られているせいで受け身もろくに取れなかった。ひかりも巻き添えを喰らい仰向けに倒れる。鈍い音が着信音に重なる。
床に頰をつけたままベッドに目をやる。
絶望。
目を閉じたままの武藤ムツムが手探りで携帯電話を探している。枕元から携帯電話を探し出し、画面も見ずに着信音を止め、むくりと上半身だけ起き上がる。
「んあーよく寝たー、っつーのはうっそーん。今後の展開に興奮してたら超寝付き悪かったっつー話。キミたちはどうだった?」
着信音は武藤ムツムの携帯のアラーム音だったらしい。
寝付きも糞もねーよ。こっちは気絶してたんだよ。
どうしよう。私たちこれからどうなるんだろう。
武藤ムツムが私を、私の入った自分の身体を、猫目で舐めるように見る。
「お目覚めフェラって憧れなかった? ってキミは女の子だっけ?」
……急になにを言い出すんだこいつ。
「ボクは憧れたなぁ。彼女持ちの奴に言ったったらAV脳って言われたよ。図星なだけにマジショックっつーね」
武藤ムツムがベッドから立ち上がり、私の目の前に立つ。
「なによ!」
私の威嚇を無視して、武藤ムツムは私の穿いているジーンズに手をかける。ベルトをカチャカチャと外す。
「ちょっ、なにすんの!」
私は身体を捻ってジーンズの前身頃を床に付けて抵抗する。
「よいではない――かっ!」
武藤ムツムが私の身体を乱暴にひっくり返す。
「やめろムツム!」ひかりが叫ぶ。
「冗談じゃんか、いや半ば本気だったけどさ。実の妹に見られながら自分のチンポ妹になってしゃぶるとか、やっぱ倫理的にね。でも逆にそれが背徳感? 萌え萌え? やっぱしゃぶっとこうかしら」
いやいやいやいややめてください!
お前がお前のチンポしゃぶるのは勝手だけど、お前のチンポは今私の脳味噌と繫がってんだよ。全然興奮しねーよ。ちんこ立たねーよ。気持ち悪い。
自分のチンポへのフェラチオにゴーサインを出すか否か考えている武藤ムツムに、ひかりが根幹について尋ねる。
「お前なにがしてえんだよ!」
「セルフフェラ」
「そうじゃねーよ! っていうかそれ俺の身体だろふざけんな! 女の子二人も殺してなにがしたいんだって訊いてんだボケ!」
「女の子二人と男一人ね」
武藤ムツムが関節のなくなった赤い死体を蹴っ飛ばす。
水気を含んだ生々しい音が鳴る。
「なにがしたいって屍姦。死体ぺろぺろ」
ぞっとすると同時に、実の兄からとんでもないカミングアウトを受けたひかりを見ると、瞳孔がグワッと開く瞬間が窺えた。
「そんな怖い顔すんなよー。噓噓、ボクもそこまでロリペド糞野郎じゃないって。まあ興味なくはなかったけどね。女の子ばっかり殺したのは単純に力がなくて殺しやすいから。こいつを殺したのは音楽性の違い。爆笑」
武藤ムツムの自嘲するような笑い声の後に沈黙が響く。
パソコンの唸る低い音が聞こえる。
「ツッコミとか間の手を入れてくれる所だろうがぁ。会話はキャッチボール。どんな球でも投げるのが大事。投げてくれないと投げ返せないよ。犯行動機とか気になるっしょ?」
「んなのどうでもいいんだ! お前が死ね!」
ひかりが喧嘩を売るような台詞を言う。やめといた方がいいんじゃないだろうか。
この男(ひかりの身体だけど)は人を三人も殺しているんだ。胸糞悪いし私もこいつは死ねば良いと思うけど、今は自分の命が心配だ。
武藤ムツムはひかりの投げたボールをキャッチせずに手持ちのボールを投げる。
「キミたち昨日の夜聴いたっしょ? 殺人コア、骨折コア、皮剝ぎコア、肉削ぎコア、DJムツム。あれを作るためだよ」
反射的に漫画みたいな考察が紡がれる。
昨晩私たちを襲った全身を蹂躙される感覚は武藤ムツムの言う殺人コアが作った錯覚だった? 殺人コアとは少女の骨が折れる音、皮が剝げる音、肉が削げる音をサンプリングしたもの? というのは物語然とし過ぎだろうか。
確認するため口を開こうとするが、武藤ムツムのニタリとした笑顔を見ると声が出ない。情けない掠れた音が漏れる。
「ん? キミは分かったの? さすがボクの脳を使っているだけあるね。ひかりっちは? どう?」
「聴きたくもねえよ! んなことよりこれ解け! したら速攻お前を殺してやるから!」
「じゃあこれでも聴いとけば?」
武藤ムツムはパソコンデスクへ向かい、パソコンにヘッドフォンの端子を差し込み、ヘッドフォンをひかりの頭に被せ、マウスを操作して昨晩と同じ青いアイコンを選択する。
「すいっちお~ん、ぴこ~ん」
「っっっあああああああああああああああああああああああああ!!」
ヘッドフォンをはめたひかりが絶叫をあげる。例の殺人コアを聴かされているのだろう。
「ふい~」
一仕事を終えた後に汗を拭うような仕草をしてから、武藤ムツムが語りだす。
「これね、なんで音だけで本当に痛くなるのかって思うじゃんね? ボクは人が痛みを感じる順序に着目したわけ。紙で手を切ったりすると今まで全然気付かなかったのに、切り傷を見てから急に痛くなったりするじゃん? ある種の痛みは視覚や聴覚に対応してやってくるものなんだな。でもただの音じゃ足りない」
武藤ムツムが死体の口に右足を突っ込む。蹴り飛ばすように、口の中の右足をガッと上に突き上げる。破裂音が響いて死体の頰から武藤ムツムの足の親指が顔を出す。
「こにゃにゃちは~」
死体の頰から顔を出した親指がひょこひょこと関節を曲げておじぎする。
なんなんだこいつマジでヤバいぞ……。
私の頭からサーッと血が引いていくのが分かる。
血でダラダラに濡れた右足を引きぬいて、武藤ムツムは演説を続ける。
「ただの頰を破る音じゃ素人に鳥肌を立たせるのが精一杯。素材を弄る必要があったんよねえ。モスキートーンくらい知ってるっしょ?」
私は黙って頷く。蚊が飛ぶ音と同じ周波数で鳴る、若い人にしか聞こえない音のことだ。
「人間には一定の期間にしか聞こえない音があるってこと。それと同じで痛みを感じた瞬間にしか聞こえない音があるって信じられる? まあ信じようが信じまいが実存してるんだから武藤ムツム完全勝利だけどね。痛みを感じた瞬間にしか聞こえない音、自分の身体の中で鳴る音。それをボクは再現したわけ。もうマジで大変だったよ。音圧実効値までちまちま計算してさ。それこそ血が滲む努力をして――って滲んだのはボクの血じゃないんだけどね。爆笑。痛みを感じた瞬間にしか聞こえない音を素面の状態でも聞けるようにしたわけ。んでその音を聞いたらどうなると思う? ってもうキミは体験してるんだっけ。逆説的に音と対応した痛覚が錯覚を起こすわけ。肉の削げる音で肉の削げる痛み、骨の折れる音で骨の折れる痛みを感じるようになんの。あれ素材を録音するとき死体の喉にマイク突っ込んでんのね。だから首から上は無傷に仕上がってるんすわ。頭いいっしょ? ドエムのボクにはたまらん音楽だったけど、そろそろ耐性がついてきちゃってね。新しい音を探していたとこだったんよ。んでんでどうだろう? 自分が死ぬ音なんてナイスじゃない? 今目の前に、自分の脳と繫がっていない自分の身体が、あ・る・わ・け・だ・が」
だ・が・じゃないよ!
可愛い言い方したって駄目だ!
いや、自分で自分殺すのは勝手にしてくれたらいいし、お前は死んだ方がいい人間ベストワンだけど、殺すならお前の身体と魂セットで殺せよふざけんな! なんで私が巻き添えを喰わないといけないんだ!
この状況を乗り越える機転の利いた切り返しなんて存在するのだろうか。とにかく何か言わなくちゃと思うが、歯が浮いてカタカタと鳴るだけだ。自分の怯えをさらけ出してしまったことを後悔して歯を嚙み締める。しかし遅かった。
「怯えるボクの顔かあいいなー。眼帯してんのも得点高いよね。萌えてブヒブヒ言っちゃうよ。とりあえずマイリス。だいじょぶだいじょぶ心配しないで。ボク憎くない奴の顔は潰さないから。まあこいつはグシャッたけど」
武藤ムツムが目をやるのは関節のなくなった赤い死体。
多分この死体はこの家の借り主? である西条洋一のものだ。
「やべーってとか、出てけとか、通報とかウルセーからさ、マジファックっすよ」
武藤ムツムが死体の真っ赤な腹部を踏みつける。先ほど蹴り空けた頰の穴から血が溢れる。
「で、どう?」
武藤ムツムが私の言葉を促すように悪魔的に笑う。
「……なにが」
「だからこのボクの功績をどう思うか聞いてるわけ」
「や、すごいと思うけど、こんなことのために人を殺すのは――」
腹部に衝撃。
「自分で自分のこと蹴るのって不思議な気分! 不思議な食感ですぅ、的な?」
武藤ムツムが下らないことを言いながら私の腹を踵で踏みつける。まるでそういうゲームみたいに一定のリズムで踏みつけ続ける。
いつだったか私が踏みつけた自転車になった気分、とか言ってる場合じゃない。
腹を踏まれるたびに口から無様な音が漏れる。口を閉じて我慢すると、気にくわないのかさっきよりも強い衝撃が私を襲う。素直に無様な音で鳴いても踵の応酬は止まない。最終的には私の腹に全体重を乗せて、そこで跳ねるようになる。
武藤ムツムが私の腹の上で跳ぶ度に口から胃液が溢れる。
抵抗する気も湧かない。
だらしなく無様に胃液と汚い音を漏らす。
無抵抗に腹を踏まれ胃液を零しながら、あー妊娠できなくなるかも、と的外れなことを思う。妊娠する前にこのままじゃ死ぬっつーの。なんで私はこんな暴力を受けなきゃいけないんだろう。骨が軋む音がする。
内臓の内側からも痛みを感じるようになったころ、武藤ムツムは私から下りた。
肩で息をしながら私を悪魔的に見下ろす。
「なんでこんなボコされてるんだろうとか思っちゃった?」
「……」
「キミは『こんなことのために』って言ったよね。マジで心外。ゼッテー殺すって思いました。そこ確実に褒めるとこじゃん。本心じゃなくてもさ、自分の立場分かってなさすぎ。普段温厚なムツムくんだけどブッチーンきちゃいました。ボクがどんだけ必死にあれ作ってたのか想像すりゃ分かんじゃん。想像するまでもなく分かるっしょ。ダメだ収まんない! マ・ジ・で・ムカつく! こりゃ殺意だわ」
知らないうちに地雷を踏んでいたらしい。最悪だ。私の言ったことは微塵も間違っていないはずなのに……。この部屋での法律は武藤ムツムなのだ。糞が。なんの抵抗もできない自分が悔しい。
「キミ聞いてんの?」
武藤ムツムが私の耳を摑んで思い切り持ち上げる。引っ張られるように私は上半身を起こす。無理に引っ張られた耳が熱い、痛い。
武藤ムツムが右足を上げ、私の頰に足の裏を添える。
なんだよ汚ねーな、と思った瞬間、私の耳を摑んだまま、武藤ムツムは私の頰を蹴り飛ばした。
ぶぢぢぢ!
厚手の布を裂いたような音。
突き飛ばされて床に頭を打ち付ける。
耳が痛い。
いや違う。
耳が付いているはずの場所が痛い。
痛いなんてもんじゃない、世界が終わるような激痛。
身体を捩り大口を開けるが、声の出し方を忘れてしまったように何の音も出ない。
武藤ムツムの手には血の滴る耳が握られている。
――耳を千切られた。
気が遠くなる。
激痛に顔を歪める。
空気に触れる傷口が燃えるように熱い。
「あーすっきりした。にぱー☆ って感じ。言論の自由の意味履き違えたらいかんよね。っていうかこれ聞こえてる? よね? まだ耳一個残ってるもんね。爆笑」
武藤ムツムが血の滴る耳を投げつけてくる。
ぺちっと間抜けな音を立てて私の頰に当たる。
「じゃあそろそろフィッナーレと洒落こもうかね。いいもん持ってくるから楽しみにしてて」
未だ絶叫するひかりの横っ腹に一発蹴りを入れてから、武藤ムツムは部屋を出て行った。陽気な足取りの後ろ姿が憎らしい。
ひかりの装着したヘッドフォンから嫌な音が漏れている。その音は私の痛覚を刺激しない。音漏れ程度の音量だったら大丈夫なのだろうか。
耳を千切られた箇所がそこから私を食い殺すように痛むけど、いつまで痛がってたって状況は好転しない。
舌を強く嚙んで気を引き締め直す。
耳のあった箇所から血をダラダラ零しながら芋虫のように移動して、顎をひかりのヘッドフォンに引っ掛けて外してやる。
口の周りが唾液で汚れているが気絶はしていない。
「大丈夫?」
肩で息をして呼吸を整えてからひかりが応える。
「どうしたんだよ! 耳! お前が大丈夫かよ!」
「ちょっとね。大したことないよ」
「大したことないわけねえだろ!」
「強がってるに決まってんでしょ。察してよ」
「…………ムツムは?」
「いいもの持ってくるって」
「どんな文脈で言ってた?」
「多分凶器だと思う」
「……………………」
「……………………」
「……時間稼ぎにしかなんねえけどこっち来い」
ひかりは這うように移動して、閉じかけのドアを肩で閉じてそのまま寄りかかる。
なるほど。私もひかりの隣でドアに体重をかける。人間バリケード。
「……ごめんな、昨日まで知りもしなかった赤の他人のお前を巻き込んで、しかもこんなことになっちまって……どう責任とればいいか……」
全然よくないけど私はひかりを責めない。ひかりは全然悪くない。むしろ私の次に可哀想だ。
「他人なんかじゃないよ。私の身体の中に入ってるじゃない。まさに一心同体」
「……ありがとうな」
「そんな終わりみたいな風に言わないでよ」
「俺、優太が好きだったんだ」
え? 今そんな話?
「会って一週間も経たないけど、俺なんかに優しくしてくれて、元の身体に戻っても一緒にいたいと思ってた。でも優太が優しくしてくれるのは俺がいくみの顔、身体をしてるからじゃないかと思うと不安でさ。……いくみには悪いけど、もう元に戻らなくてもいいかと思ってたんだ。だから薄々分かってた入れ替わりを否定したがって……。俺がすぐに入れ替わりを認めてお前のことを捜してたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。ごめん、本当に、ごめん。ごめんなさい……」
今まで強気だったひかりが見せた弱気で女性的な一面にうるっときたけれど、このひかりの台詞は私に向けられているようで、実際は入山君に謝っているように聞こえた。
もう会えなくてごめんなさい。
死んでしまってごめんなさい。
自分の身体で他人が恋愛している。
しかし悪い気はしない。応援したくなる。ひかりが入っているのが私の身体だから、私はいつも以上に異常に感情移入してしまっているのだろうか。
私はまだ生きたいけれど、じゃあ生きる理由ってなんだろう。ひかりの場合は入山君と一緒にいたいという明確で強い気持ちがある。私はぼんやりと今まで通りの緩い毎日を送りたいと思うだけだ。ひかりの人生の方が価値がある。私の中の天秤はひかりに傾く。
「どうにかしてひかりだけでも逃げられないかな」
「なに言ってんだよ! 俺なんかよりお前が逃げたほうがいいに決まってんだろ!」
私たちが寄りかかるドアの向かいの壁にカーテンがかけられている。きっとカーテンの向こうにはガラスのスライド式のドアがある。私は顎でカーテンを指す。
「そこから逃げれるかも。私が時間稼ぎするから」
「お前が逃げろよ! もとはと言えば――」
ゴッ! とひかりの側頭部に頭突きする。
「いいから早く逃げてよ! 私の身体で私の分まで生きろ!」
「そんな……無理に決まってんだろ!」
もう一度頭突き。
「うるさい! こんな人殺しの身体で生きたってしょうがねえんだよ! 私の可愛い顔と身体で可愛く生きろ!」
「だって――」
「うるせえ! これ以上やんやん言ったら殺すぞ!」
私のキャラってこんなだっけ? 武藤ムツムの身体に入ったことで暴力的な気質を引き継いだのだろうか。それともこういう危機的状況で男気を見せるキャラクターに私は無意識下で憧れていて、それを演じて自己陶酔しているのだろうか。
ひかりが頭を地べたにゴンとつける。
なんだよ早くしろよと思うが、それは土下座だった。
震える声でひかりが言う。
「……ありがとうございます」
「いいから早く」
顔をあげたひかりの目には涙が溜まっている。
本来の私の顔、私の目に涙が溜まっている。
私は自分が誰なのか分からなくなる。
私は魂と身体がちぐはぐなのに、ちぐはぐなはずなのに、魂と身体が正常にリンクしている錯覚を起こす。
ひかりは這いつくばるようにカーテンへ向かって進み出す。
寄りかかったドアの向こうから鈍い金属音が聞こえる。武藤ムツムが凶器を手にしたのだろうか。背中にグッと力を入れ直す。
芋虫のようなひかりの、自分の姿を見て、生きて欲しいと強く思う。
私の魂が死んでも私の身体は生き続ける。私の魂が死んだら私は完全に死んだことになるのだろうか。私の魂が死んでも私は死なない。そういうことにしとこう。そっちの方が頑張れる。
ひかりが部屋の真ん中まで進んだところで、ドア越しに武藤ムツムの足音と、カーン、カーンという金属音が聞こえてくる。
早く行け。
ドア越しの足音が大きくなる。
分針のようなひかりの速度がじれったい。
「カウントダウンティービーをご覧の皆様こんばんは。おはようからおやすみまでさようなら~」
意味の分からない台詞とともに私の背中がドアに押される。
ンチャ、ンチャ、とノブが空回りする音がする。
「お約束の悪あがき。でもそれが自分の首を締めるって分かってる? 抵抗した分だけ酷い殺され方するに決まってんじゃん。爆笑」
武藤ムツムがノブを回した状態でドアを蹴っ飛ばしたのだろう。
身体が前に十センチほどずれる。
その分だけドアが開く。
すぐに身体を反らして再びドアを閉める。
開いたドアの隙き間に足を挟むなどして、閉められるのを防ぐこともできたはずだ。武藤ムツムはこの状況を楽しんでいる。
「今から鉄パイプでドアをぶち破りまーす。大破しちゃうぞ♡ とか言ってみたりしちゃったり。なんか興奮してきた! いつドアが破けてキミらの頭をかち割るか、絶望しながら待っててネッ!」
鉄パイプでドアが軋む音。
一発目、二発目、三発目。
ドアの軋む音が徐々に大きくなる。
あと少しって所まで進んだひかりが停止する。
醜く、鈍く、方向転換する。
後ろ髪が床にJの字をつくる。
「ふざけんな!!」
私の怒声を無視してひかりが這い戻って来る。
そんなつまらない行動になんの意味があるんだ。
なんの希望もない。
私がバリケードとして頑張っている意味がない。
最悪だ。
ひかりを見たくなくてうな垂れる。
私の頭上から鉄パイプがドアを突き抜ける音が聞こえる。
「あるえ~?」
武藤ムツムのとぼけた声。
穴から鉄パイプが引き抜かれる。
続いて背中がドアに強く押され、力の抜けた私は突き飛ばされる。
関節のなくなった死体に顎が刺さる。
生ぬるい内臓か皮膚か分からない赤色に口元まで沈む。
涙が溜まり視界が潤む。
死体から顎を引き抜いてドアを振り返る。
鉄パイプを肩に担いだ武藤ムツムが笑っている。
終わった。
目をつむると涙が頰を伝う。
頰をはられる感覚。
肉が肉を打つ音。
どんな風に殺されるのだろう。
そうだった。
顔以外の全身の骨を折られ、皮を剝がれ、肉を削がれ、その音を録音されながら殺されるんだった。
この頰をはる音も録音されているのだろうか。
「いくみん? いくみん?」
墓無の声が聞こえる。
なんでここで墓無?
今まで築いてきた、築けなかった人間関係の希薄さを後悔する。
死ぬ直前に聞こえる幻聴が墓無の声だなんて。
再び頰をはられて目を開くと、本当に墓無がいた。