ブレイク君コア
第三回
小泉陽一朗 Illustration/きぬてん
「最前線」のフィクションズ。めまぐるしいまでの“人格”の交代劇をかぎりなくポップかつスピード感あふれる文体で描ききった、血みどろにして爽やかなラブストーリーが、たった今はじまる!記念すべき第1回星海社FICTIONS新人賞受賞作。ここが青春の最前線。
【入山優太】
夢を見ていたのは僕の方なのかもしれない。
喫茶店で見失って武藤は消えた。
武藤の家へ引き返したのかと思い確認しに行ったが留守だった。じゃあ、と飯田の家に行ってみたがそちらも留守。携帯電話も繫がらなかった。
明日になったら何事もなかったような顔で登校してくる、という気も全然しない。
終わってしまったような予感、というより実感。
飯田がトラックに轢かれた所から全部まとめて夢で創作でした。そう言ってもらえた方が幾分か納得できる。
焚き火の中で薪がバチッと鳴るように突然、ふいに消えてしまいそうな、そんな刹那的な雰囲気が武藤にはあった。刹那的な笑顔。完璧であるが故にその存在がこれからも続くかどうかは永遠に保証されないような、そんな笑顔。
僕は一人で八田ノ町から赤馬へ帰り、自室のベッドで横になって武藤に想いを馳せる。
武藤武藤武藤武藤武藤武藤。
下の名前も聞いていなかった。
そりゃ消えても不思議じゃない。
なんで名前を知らないことが消えても不思議じゃないって言葉に繫がるんだろう。
名前を知らないってことは関係の希薄さを表すのだろうか。でもそんなこと言ったら名前は知っているけど話したことない人なんてこの世には沢山いて、そういう名前だけ知っている人との関係と比べて、僕と武藤の関係の方が希薄ってことはないだろう。名前を知っているかどうかなんて関係の親密度には直接に関係ない。
名前っていうのは人を現実につなぎ止めるための鎖で、だから偽名を使っている犯罪者やペンネームを使っている作家からは浮世離れした印象を受けるのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
今僕が考えるべきは武藤がどこにいるのかってことだ。僕はもう一度武藤に会いたいのだから。
武藤は喫茶店で消えた。
武藤が消える前、喫茶店のテレビでは赤馬で起きた殺人事件が報道されていた。それを見て武藤は顔色を変えた、ような気がする。赤馬で起きたあの殺人事件が何か武藤の失踪と関係しているのだろうか。
僕はベッドから腰を上げ、一階の居間に置かれたパソコンで例の事件について検索する。ニュースサイトが引っかかる。
事件が起きたのは二日前。事件現場は大雑把な住所で記されていて、どこのことを言っているのかそれだけじゃ分からないけど、さっき喫茶店で見たニュースでは宇奈川に架けられた橋の下の小屋が映されていた。そこで間違いないだろう。
被害者は二人で、二人の殺され方はてんでバラバラだ。佐藤静香(十歳)は首から下の骨という骨をこれでもかと折られ、皮を剝がれ、骨が見えるまで肉を削がれ殺された。もう一人の被害者の伊東裕之(二十二歳)は頭をバールのような物で殴打され殺された。
二つの死体を首の上から交換したら、きれいな無傷の死体と全身を蹂躙された死体が出来上がるけど、それが? でっていう。思想的なメッセージや意図が死体に込められているのだろうか。もしかして見立て殺人? ……って今はそんなことどうでもいいんだって!
考えるべきは武藤とこの殺人事件の関連性だ。
さっきから僕は思考がブレ過ぎている。
武藤のことなんて本当はどうでもいいのだろうか。
そんなことはない。僕は武藤と再会して恋愛したいのだ。飯田よりも武藤だ。
……飯田?
僕は再びニュースサイトを確認する。事件が起きたのは二日前、飯田と武藤が入れ替わったのも二日前。
この符合は偶然だろうか。いや、武藤はこの事件の報道を見てから失踪したのだ。なにか関連性があるのではないか。
関連性、関連性、関連性……。
僕は何も見つけられないまま眠りについた。
何事もなかったような平和な顔で武藤は登校して来るかもしれない。
そんな信じられない希望に縋るように僕は重い身体を起こし、簡単な準備をして自転車で学校へ向かう。
家を出てすぐの道路を走っていると、道を塞ぐように黒くて長い車が停まっているのが見えた。
もしかしてベンツ? 赤馬で?
ボンネットに尻だけ乗せるように寄りかかり、糸目でスーツ姿の男が煙草を吸っている。長身で不自然に手足が長い。頭にはグルグル巻きのガムテープ。変人だ。
極力関わり合いたくなかったが、今から道を引き返したのでは遅刻してしまう。
ここ通りたいんですけど。
この一言で常人なら車を移動させてくれるだろう。常人なら。
嫌な予感がした。
最近の僕の周囲では脈絡のない非日常的なことばかりが起こっていて、今回もまたそんな展開か? って不安があるのだ。
車に近づくにつれ自転車のスピードを落とすが、僕に気付いていないはずはないのに、男は車をどけようとする仕草を一ミリも見せずに煙草を吸い続けている。
車の前で地面に足をつけて自転車を停め、「ここ通りたいんですけど」と声をかける。
スーツの男は煙草を一口吸ってから、放り投げて革靴で火をもみ消し、また新しい煙草に火をつける。
「通りたいんですけど、で、なんだい? 僕は日本語が苦手なんだ」
なんだこいつ。普通に分かるだろ。舐められてる。
「だから車どけろって」
「言葉遣いが悪いな。そういうの感心しないよ。荒い言葉遣いがかっこいいのは中学生までだ。ちょっと質問させてくれるかい? どけるかどうかはそれから決めよう」
主導権握られてる臭い。関わりたくない。遅刻してもいいか。道を引き返すことにして、自転車を持ち上げて前輪と後輪の向きを交換する。
「君は入山優太君?」
「…………」
なんで僕の名前を知っているんだろう。やっぱりこの男おかしい。
「飯田いくみを知っているかい?」
「…………」
「武藤ムツムという名前に聞き覚えは?」
武藤の下の名前を初めて知る。
「……あなた一体何者なんですか」
漫画みたいな台詞を吐いている自分に恥ずかしさを覚えるが、この状況にはふざけたくらいに合った台詞だ。
「武藤ムツムの居場所は分かるかい?」
「分かりません」
むしろこっちが聞きたい。
「居場所じゃなくてもなにか知っていることはあるだろう。話を聞かせて欲しいんだ。僕と一緒に来てくれないかい?」
「今から学校なんですけど」
「人の命と学校、どっちが大切だよ」
なんで武藤の情報が人の命に繫がるんだろう。やっぱり武藤はあの殺人事件に関与しているのだろうか。
「飯田いくみの命だ。彼女のことを知っているだろう?」
話は全く見えてこないが、男に従うことに決めた。
「これってベンツですか?」
「君はベンツしか車を知らないのかい?」
「詳しくはないです」
「まあベンツだけどね」
当たってんじゃねーか!
僕は助手席に座り、男の運転に身を任せている。
自転車は道路の脇に寄せて放置してきた。人通りが多い道じゃないので撤去されるかどうかは五分五分の賭けだが、人の命が懸かっていると言われては仕方がない。
でも僕がこの男に従った本当の理由は、飯田の命が懸かっているからじゃなくて、武藤の情報を知りたいからだ。この男は武藤について何か知っているかと訊いてきたが、この男もまた、僕の知らない武藤の情報を知っているはずだ。
「なんで飯田の命と武藤が関係あるんですか?」
「武藤? やけに馴れ馴れしく呼ぶんだね」
「まあ、そうですかね」
「飯田いくみと武藤ムツムの魂が入れ替わったことは知っているかい?」
「完璧に信じたわけじゃないですけど」
「じゃあ完璧に信じてくれ。大雑把に言うと彼女らを元に戻さないと飯田いくみは死ぬ」
魂の入れ替わりに伴う副作用でってことか?
「武藤もですか?」
「武藤ムツムは逆で元に戻ったら死ぬ」
「……はい?」意味が分からない。
「言葉の通りだよ。いや、違うか。元に戻ったら武藤ムツムは殺される」
「車止めて下さい!」
「どうしたんだい急に。停車してからのスタートは一番ガソリン喰うって知ってるかい?」
ベンツ乗ってるくせにしょぼいこと言ってんじゃねーよ!
元に戻ったら武藤が殺される!? そんなの協力できるわけないだろ! っていうか誰に殺されるんだよ!? 誰が武藤を殺すんだよ!? そんな奴僕が殺してやる! 殺さなくてはいけない! ……おーい待て待て待て冷静になれ。ここでこの男から離れてもなにも状況は進展しない。この男から武藤の情報や武藤を殺そうとしている奴の情報を聞き出して、そしてこれからの動向を決めよう。それでも遅くないはずだ。それが一番いいはずだ。
「……なんでもないです」
「最近の若い子は分かんないね。おじさん疲れちゃうよ。まあ誰かさんみたいに暴力主義じゃないだけマシかな」
「おじさんは誰なんですか? なんで武藤を捜してるんですか?」
「おいおいおじさんはやめてくれよ。僕は墓無沈。お墓が無いに沈黙の沈で墓無沈。なんでって探偵だから」
探偵って探偵の探偵か? 冗談だろうかと墓無さんの顔を覗くが、これといって特別なことを言ったような顔はしておらず、僕の視線に気付いて「なんだい?」と首を傾げる。
探偵という言葉の持つふざけた響きに無自覚なのだろうか。そのくらい浮世離れした感覚を持っていないと探偵なんてふざけた肩書きを名乗れないのかもしれない。名探偵じゃないだけまだマシか。
赤馬でこんなとこ誰が住むんだよって僕と尺谷が馬鹿にしていた高層マンションの駐車場でベンツは停まった。
墓無さんの後に続いてエレベーターに乗って七階の部屋に入る。
「取りあえず適当にくつろいでくれ」
墓無さんの言葉に従って、コの字型に配置された黒い革のソファに腰掛ける。
「あれ? いくみんがいない。いくみーん!」
墓無さんが部屋中に響き渡る声で叫ぶがレスポンスはない。いくみんとは飯田のことだろうか。仲いいな。別にいいけど。
「ちょっと待ってて」
そう言って墓無さんは廊下に消えて、一分ほど経ってから戻ってきた。
「君に顔を見られたくないんだと。甚だめんどくさいね乙女心って奴は」
そうか、武藤と入れ替わっているから今の飯田は自分の顔じゃないんだ……って待てよ。ということは今の飯田の顔は本来の武藤の顔ってことだ。それは結構見たいぞ。
「会いたいんですけど」
「まあいつまでも隠れているわけにもいかないだろう。いくみんにここに来てもらわないと進まない話もあるからね。まあまずは入山君と僕とでできる話をしよう」
「はあ」
「最初に言った通り武藤ムツムについて知っていることを全部話してもらいたい」
「その前になんで武藤の情報が必要なのか。武藤と飯田の間で何が起こったのか、それを説明して下さい。僕は墓無さんのことを完璧に信用したわけじゃないですから」
「無駄に懐疑的なのは停滞に繫がるよ。停滞は消滅に繫がる。面倒くさい。えーと、長い話になるんだよな面倒くさい」
煙草を一口吸ってから、墓無さんがまどろっこしく冗長に説明した。
まとめるとこうだ。
墓無さんは探偵って言ってもホームズとか金田一的な頭脳派の探偵じゃなくて、霊能力(!?)に頼って依頼を遂行する探偵で、佐藤静江から娘がいなくなったので捜して欲しいという依頼を受けた。
霊感を頼りに依頼人の娘=佐藤静香を捜していたが、墓無さんの霊感的にどうやら佐藤静香は殺されている臭くて、それを依頼人の佐藤静江に伝えると、娘を捜すと同時にもし娘が殺されているようだったら犯人も捜してくれという追加の依頼を受けた。
バイトの伊東裕之を使って佐藤静香と犯人を捜していたのだが、めんどくさいから霊能力で地道な捜査をスキップしてしまおうと犯人の姿を霊視して犯人に見立てた人形を作り、その中に犯人=武藤の魂を入れようとした。
しかし何故か失敗して、おまけに飯田と武藤の魂が入れ替わってしまった。
その失敗の後に、伊東裕之が佐藤静香の死体と犯人(武藤の身体に入った飯田)を例の橋の下の小屋で見つけた。
気が動転した飯田に伊東裕之は殺されてしまった。
墓無さんが駆けつけて飯田を保護した。
それでとりあえず武藤の魂を捜すかーと思っていると、墓無さんは飯田にぶん殴られて気を失った。
墓無さんが目を覚まして飯田の側から離れている間に依頼人の佐藤静江は娘を殺された復讐心から飯田を殺しかけて、それを墓無さんが止めた。
佐藤静江は三日以内に武藤の魂を見つけ出さないと飯田を殺すと宣言してきた。
意味が分からない。
いくつか引っかかったことがある。
気が動転していたにしろ、飯田いくみがバイトの伊東裕之を殺したということ。
武藤が佐藤静香を殺した犯人だということ。
僕が惚れたのは両方殺人犯?
いや、僕が惚れた時点で飯田は人を殺めていなかった。しかし、それでも気が動転したくらいで人を殺すような奴だったということに変わりはない。
この話が本当ならば。
霊能力? ふざけたことを言うな。しかしそれさえ認めてしまえば僕を取り巻く非現実的な現実にも理詰めの説明が可能になる。いや、霊能力の時点で理詰めって言葉は矛盾するか――って正しい日本語なんて今はどうでもよくて、大切なのは現実の解釈だ。確かに飯田と武藤は入れ替わっている。それは間違いない。夢でした説を捨てて入れ替わり説を信じたように、解釈の取捨選択をするべきだ。この男を信じるかどうか判断するべきだ。
「なんだい穿ったような目をしているね。なんなら色々証拠を見せてあげたっていいんだよ」
「じゃあ……お願いします」
なにか見落としている気がする。なんだろうこのもやっとした感じは。
「いくみーん! そろそろ出てきてもいいんじゃないかー?」
再度墓無さんが叫ぶが、やはり飯田からのレスポンスはない。
「まあしょうがないか。じゃあまずは別の証拠から」
墓無さんは立ち上がり、廊下に出て別の部屋に入る。僕もそれに続く。
その部屋はがらんとした和室で、カーテンが閉め切られていて薄暗い。その中に一体の精巧な作りの人形が正座している。墓無さんの話に現実味が増す。
武藤の魂を入れるために作った、武藤そっくりの人形ってやつだろう。
作りものとは言え、やっと武藤の顔が拝める。
「これがさっき言ってた人形ですか?」
「上手いもんだろう? 君はあの事件の報道を見たかい?」
「テレビとネットで」
「じゃあ武藤ムツムの顔は知っているわけだ。こいつの顔を見てみなよ」
「はい?」
墓無さんが天井から吊るされた電灯の紐を引っ張る。
人形の顔が見える。
見覚えのある顔。
ニュースで重要参考人として報道されていた男の顔。
見落としていた何かに気付く。
比喩ではなく本当に目の前が真っ白になる。
僕はその場で膝から崩れ落ちる。
「なにもそんなに驚くことはないだろう」
真っ白で何もない世界に墓無さんの声だけが響く。
男?
男。
おとこおとこおとこおとこおとこ?
おとこおとこおとこおとこおとこ。
喫茶店でニュースを見た途端に武藤が消えた理由が分かる。
自分の顔が殺人事件の重要参考人として、ほとんど犯人扱いで報道されたのだ。
そりゃ消えたくなる。逃げたくなる。
僕は男とあんな卑猥なことをしたのか。
身体は飯田いくみの女性としてのものでも魂は男。
僕は男に惚れていたのか。
そうだそういうことだ。
あはははははははは。
意味が分からない。
いや意味は分かる。
分かりたくない。
信じたくない。
笑えない。
きもちわるい。
きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい。
なにが?
むとうが?
ぼくが?
ぼくとむとうのあいだでおこなわれたこういが?
ぼくのこういが?
「っるおええええええええええええええええ!!」
僕は武藤を模した人形の脇に嘔吐して吐瀉物で自分の顔を濡らす。
「あーもーこんなに汚して。ここ人んちだって覚えてるかい?」
僕の背中をさすっているのは墓無さんの手だろう。
「いくみーん! 緊急事態!」
飯田を呼ぶ声が聞こえる。
今呼ぶんじゃない。
来ないでくれ。
見たくない。
大丈夫ですからと声を出そうとするが、喉が言うことを聞かない。
言葉にならないなら態度で示そうと、無理して身体を起こす。
ドアから顔を覗かせている今一番見たくない顔に気付く。
人形とそっくりの、武藤の、男の、顔。
「っろおううえええええええええええええ!!」
暗転。
終了。
そうはいかないのが人生だ。
これからは人生と書いて最悪と読もう。
どのくらい気を失っていたのだろう。
黒いソファの上で目を覚ました僕の向かいに飯田が座っている。
中性的だが完全に男の顔。武藤の顔。
男の身体。武藤の身体。
左目を眼帯で覆っているが、先ほど見た人形と瓜二つであることは間違いない。ショートヘアの金髪に大ぶりな猫目。
ニュースで報道されていた重要参考人の顔であることは間違いない。
男の顔をした飯田が言う。
「久しぶり、ホモ山君」
「ホモって……」
僕と武藤の関係を飯田は知っているのだろうか。
そんな口ぶりだ。
ていうかこいつは人殺しなんだよな。
バイトの伊東裕之さんを殺したんだ。
武藤の顔をした飯田はつまらなそうな表情をしているが、殺人を気に病んでいるようには見えない。
自分の身体じゃないから自分が殺したことにはならないとでも思っているのだろうか。だとしたら馬鹿だ。馬鹿は怖い。何をしでかすか分からない。こいつは人を一人殺したんだ。
確信する。
人の好意のベクトルが向かう先、もしそれが身体じゃなくて魂ならば、やっぱり僕はもう飯田のことを好きではない。どれだけ胸の内を探っても、好意の片鱗さえ見当たらない。残骸さえ見当たらない。元から存在しなかったかのように消失している。好きだった。過去形だ。
「なんか言ってよ、入山ホモ優太君」
「……ミドルネームみたいに言うなよ」
リビングと一続きになっているキッチンから墓無さんが割って入る。
「まあまあまあ、そんな最初っから喧嘩腰じゃ進む物語も停滞するってば。落ち着いて行こうじゃないか」
お前のせいでこんなことになってんだろうが! そう悪態をつきたい気持ちは大いにあるが、それでもこのわけの分からない糞みたいな状況の中で自分より落ち着いた存在がいるというのはそれだけで安心材料になる。
人数分のカフェオレを載せたお盆をリビングへと運びながら墓無さんが続ける。
「んで君はなんでさっき倒れたんだい? キャパオーバー? 器の小さい男なのかな?」
なんで人の神経を逆撫でするような言い方をするんだろう。
僕だけはまともでいないと。ホモ疑惑が掛かっている僕だけど、まずはその誤解を解かないと。
「女だと思ってたんですよ」
「はあ?」と言ったのは飯田。
「だから武藤は女だと思ってたんですよ。勘違いしてたんです。今思えば武藤が自分から女だと言ったことはなかった気がしますけど、女としての振る舞いをしてきたし……あ、でも一人称は『俺』だったか……でも、なんていうか言うまでもない前提条件として女だと思ってたんです」
墓無さんはどうでもいいよって風にソファの上でカフェオレを飲んでいる。
また口を開くのは飯田だ。僕は墓無さんに向けて喋っているつもりだったのに。だから敬語だったのに。
「そりゃあんなエロエロ~なことした相手が男だとは思わないわよね」
「…………」
なんで飯田がそんなことを知っているんだ。
「見たわよ。病院で入山君と私の身体がまぐわってたの」
飯田の身体、飯田の性器に触れていたときに、扉の方から派手な音がしたのを思い出す。あれは僕たちを止めるために飯田が立てた音だったのかもしれない。
「その……悪い……」
「謝るのはまだいいわよ。一つ聞きたいのはさ、あのとき、私の身体を触っていたとき、私だと思って触ってた? 武藤ムツムという女だと思って触ってた?」
記憶をたぐる。
武藤の入った飯田の身体に触る前に、武藤から記憶がおかしいという話は聞いていた。でも僕は事故のショックで起きた一時的な記憶障害みたいなものだと思って、武藤の記憶の話を信じていなかった。ということは、僕が触っていたつもりだったのは純正の飯田いくみ、その人間だったはずだ。
「飯田だと思って触ってたよ」
「……あっそ」
この質問の意図はなんだろう。
女だったら誰でもいいのかよ、みたいなことが言いたいのだろうか。
ん? あのときの僕に愛はあっただろうか。好奇心と性欲に踊らされただけのような気がする。しかし、飯田の身体の中に武藤の魂が入っていると知っていたら、身体を触りあったりはしなかっただろう。
男と女が身体を重ねるとき、相手の身体に誰の魂が入っているというのは一体どれだけ重要なことなのだろう。身体を合わせるということは心を合わせるということでもあるのだろうか。だとしたらあのとき、飯田の身体に入った武藤と身体を合わせていたとき、僕の心は誰の心と合わさっていたのだろう。
とりあえず。
「ごめん……」
「いいわよ別に。人ごとじゃないけど人ごとって感じだし」
一旦切りがついたと判断したのか、墓無さんが司会のように話を進める。
「他に聞きたいことは?」
「墓無さんの力で飯田と武藤の魂を元に戻すことってできないんですか?」
「できるよ」
「じゃあ――」
なんでそうしないんですか、と続くはずだった僕の言葉を墓無さんが遮る。
「できるはずなんだ。できるはずってことはできなかったってことだ。そんなに魂と身体の相性がいいのか、他に別の原因があるのか、とにかくなんでか今回に限ってはそれができないんだ。おかしい。世界のバグだよ。昨日静江さんが帰ってから何回も何回も何回も何回も試したんだ。世界の気が違っちまってる」
「はあ……」
単なる力不足? それともこの人はペテン師なのかもしれない。
「ということで武藤ムツムを見つけ出して原因解明に励まなくちゃいけない。さてさて入山君、武藤ムツムについて知っていることを全部話そう」
「えーと」と言葉を紡ごうとするが、何かが僕の口をつぐませる。
僕は未だに武藤の情報を吐露することに躊躇があるのだろうか。
僕は未だに武藤の身柄を売ることに戸惑いがあるのだろうか。
男なのに。
武藤はきっと、僕が武藤のことを女だと信じきっていたことに気付いていただろう。それでもなお、俺男だけど? とネタばらしすることなく僕の前から消えたのだ。武藤が僕の前から消えたのは、自分の顔が殺人犯としてテレビで報道されているのを見てやっべーと思ったからだろうけど、もしもあの報道を見ることなく僕の側にいたならば、いつか自分の魂の性別を正直に告げてくれただろうか。きっとそうだったろうし、そうであって欲しい。
多分、僕は武藤に期待しているのだ。
僕と武藤との間に、友情とも恋慕とも称し難い、厚く大きくて濃い関係があったことを信じたいのだ。僕はまだどこかで武藤を諦めきれないのだ。
男なのに?
それって自分が同性愛者であることを認めるに他ならないのではないだろうか。
それはちょっと……。
とかこうして僕が武藤の情報をゲロしない理由を考えても、僕は武藤の身柄の確保に繫がるような情報を何一つ持っていない。
武藤ムツムという名前が分かっているのなら武藤の家の住所など既に調べ終えているだろう。僕が知っている武藤の情報と言えば、八田ノ町のネオンショッピングモールに行ったこと、武藤の連絡先、それくらいだ。武藤の連絡先と言っても、それは飯田の携帯電話の番号だから既に墓無さんたちも分かっているはずだ。
気付く。
僕が武藤の連絡先を知っていることに意味があるのだ。他の誰かからの電話には出なくても、僕からの電話になら出てくれるかもしれない。
昨日、武藤が消えた直後に電話したときは出てくれなかったけど、そのときは気分の問題とか、なにか手が離せなかったとかで電話を取れなかっただけで、もう一度連絡したら電話に出てくれるかもしれない。もしかしたら武藤の方から連絡があるかもしれない。
「……なんにも、知らないです」
僕は未だに武藤のことが好きなのだ。
男なのに?
殺人犯なのに?
やっぱりそれは嫌だ……。
こんな風に考えずにサッパリ武藤のことを切れたら楽だろうが、そんなことはできない。
僕は武藤の魂が好きなのだ。
武藤の身体、顔、性別、それらの物質性と切り離された武藤の魂が好きなのだ。
武藤は男だけど、この気持ちは確かだ。
同性に抱くこういう感情はなんと呼べばいいのだろう。
恋心と呼ぶのは躊躇がある。
やはり男が恋愛的に好きだというのは自分でも信じたくない。
しかし、飯田の身体に武藤の魂が入ったちぐはぐな女の子、それならば好きだと声を大にして言える。
僕は武藤に、飯田に、自分の本来の身体を取り戻して欲しくないのだ。このままのちぐはぐを継続して欲しいのだ。
僕は入山ホモ優太じゃないけれど、やっぱり武藤が好きなのだ。
「身体を合わせといてなんにもってことはないだろう。契りの事後には会話という後戯があるもんだよ。どうでもいいことでもとりあえず話してくれ。そこから何か糸口が摑めるかもしれない」
僕はどうするべきだろう。
僕と墓無さんの目的は一致している。
武藤を見つけ出したい。
違うのはその先の目的だ。
僕は武藤と恋愛がしたい。
墓無さんは依頼人に武藤を差し出したい。
その結果武藤は殺される。
僕に人を出し抜くなんてことができるだろうか。人を利用するなんてことができるだろうか。探偵である墓無さんよりも先に武藤を見つけ出すなんてことができるだろうか。
僕は自分に自信がなくて閉口したままだ。
「ああ面倒くさい。入山君、これが現実だなんて思わない方がいい。一つおかしなことが起こってしまった時点で今までの日常と地続きの現実は終わったと認識した方がいい。そうだな、映画や小説、そんな世界の中に自分がいると思ってくれて構わない。つまらない抵抗はやめよう。僕は探偵って言ってもただの探偵じゃないんだ。霊能力で捜査をスキップが売りの、格好いい言い方をするなら霊能探偵だ。アブノーマルな拷問の仕方なんていくつでもある。なんならどこぞの死に損ない浮浪者と君の魂を入れ替えることだってできるんだ」
墓無さんがまくしたてるように、とっとと吐けよこのダボが! といった内容のことを言う。
それでも僕が口をつぐんでいると、次に飯田が口を開いた。
「いや意味分かんないんだけど! 意味分かんない! なんで武藤ムツムのこと庇うの!? 入山君がなんにも知らないわけないじゃない! なんにも役に立たないような情報でも今の私には必要なの! 私の命が懸かってるんだよ!? 私なんにも悪くないのに、こんなわけ分かんないことに巻き込まれちゃって、男になってるし、おまけにそいつ殺人犯だし、知らないおばさんに殺されかけるし、本当勘弁! お願いだよ!」
そんなこと言われても。
知らねーよ。
僕が僕の意思で僕の据えた目標を達成するために口を閉ざしているのだ。それを飯田がやんやん言う権利はない。
飯田の命は今、僕の意思に委ねられていると言っても過言ではない。そして飯田の命と同時に武藤の命までもが僕の意思に委ねられている。重要で重大な役割だ。
重い。
流れに身を任せて口を割れば楽だろうが、それでは武藤が殺されてしまう。僕の意思に背くことになる。だから僕は濁流に足を突っ込んでもなお、踏ん張り続けなければならない。
「だから本当に何も知らないって」
「っざけんなっ!!」
頰に衝撃。
じんわりと血の味。
強制的に横を向かされた顔を前に向け直す。
予想通り目の前には拳を振り上げた飯田の姿。
泣いているのは飯田だけど飯田じゃない中性的な男の顔。
武藤の顔。
殴りたければ殴ればいい。
殴られる。
殴られる殴られる。
好きだった女の子に殴られる。
僕は飯田のことが好きだった。
好きだった女の子が泣きながら懇願している。
助けてくれ、と。
しかし僕には関係ない。
飯田より武藤だ。
僕は飯田のことが好きだった。
過去形だ。
今の僕にそんな気持ちはないのだ。
好きなだけ殴ればいい。
殴られる殴られる殴られる。
まるで全ての諸悪の根源が僕であるかのように、一発一発に怨念や恨みを練り込んだような、暴力的で攻撃的で、それでいて丁寧な殴打だった。
殴っているのは飯田だけど飯田じゃない男の――武藤の拳。
武藤が殺されないために僕は殴られているのに、僕を殴っているのが武藤の拳だなんて皮肉な話だ。
「いっけーいくみーん!」
最悪な外野の声。
お前が死ね!
さん付けなんて止めだ糞墓無!
なんで顔を中心に殴ってくるんだろう。喋る気になっても喋れないような怪我を負ったらどうするつもりだろう。自分の象徴である顔が男のものになってしまったことに対する怒りを、僕の顔を殴ることで晴らしているのかもしれない。
所謂やつあたり。
低俗な代替行為。
顔が熱を持って大分サイズアップしているのが自分で分かるようになったころ、飯田の拳は止んだ。これ以上やると本当に喋れなくなると判断したのかもしれない。
僕の頭は冴えているけれど、身体へのダメージは当然尋常じゃない。頭の中の声を停止させたら二秒で眠りにつけそうだ。
「殺すぞ……」
男の涙声。
飯田の声。
出来もしないくせに、やってみろ、と思うがそれは間違いだ。飯田は、飯田の魂は、既に人を一人殺しているのだ。
「…………………」
「言ってよ」
飯田の声はやはり震えており、目の上が腫れて正常に開かない僕の薄目からでも、眼帯で隠れていない方の飯田の目が潤んでいるのが確認できる。
「言えってぇぇぇ」
飯田が僕の胸をぽこすかと女みたいに叩く。
全く痛みは感じない。
「……言ってよぉぉぉ」
幼い兄弟がじゃれあっているような、そんな暴力とも呼べない殴打。
なんか……。
なんだこれ。
気持ち悪い。
生に必死すぎて気持ち悪い。
性別が分からなくて気持ち悪い。
人間と呼べるかどうかも分からない。
そんな気がしてくる。
僕の胸で泣く飯田を冷めた目で俯瞰するように眺めていると、制服のズボンの右ポケットの中で携帯電話が震えていることに気付いた。
ヴーヴー、ヴーヴー、ヴーヴー、ヴーヴー、ヴーヴー……
最悪の展開を予想して早く止まってくれと気付かない振りで祈るが、僕の胸に縋るような姿勢を取っている飯田が気付いてしまう。
「電話」
「……そんな場合じゃないだろ」
一度音が鳴っていることを意識してしまうと、その音は平素より何倍も大きく聞こえる。
沈黙に携帯のバイブ音だけが響く。
ソファで煙草を吸っていた墓無が灰皿で火をもみ消して立ち上がり、僕の胸ぐらを摑んで強制的に立たせる。僕のポケットに手を突っ込んで振動を続ける携帯電話を取り出す。墓無が僕の携帯電話を開いた所でバイブ音は止まった。胸をなで下ろす。
「事実は小説よりも奇なりとかいう安い言葉が僕は大嫌いだから、それに代わるナイスな言い回しを考えて欲しいよね」
墓無が開きっぱなしの携帯電話を渡してくる。小さな液晶画面に表示されているのは僕にとっての死刑宣告。
『発信中 飯田いくみ』
墓無に視線をやる。
「気付いた時点でかけ直すのが現代人のマナーだろう?」
……最悪だ。
僕は反射的に終話ボタンを押して発信を切る。
墓無は額に手を当てて身体を後ろに反らせ、やれやれという文字が見えそうなポーズをとり、スーツの内ポケットから艶消しの拳銃を取り出した。
……マジすか。
霊能力の次は銃かよ。なんでもありだなこいつ。
「大人パワー炸裂」
墓無がガッチャッ、と音を立てて拳銃の安全装置を外す。
「かけ直せよ。寒いことさせんな」
拳銃は僕の眉間に照準を合わせている。
怖気づくな入山。
ここで墓無が撃つはずないのだ。
僕を殺しては武藤とコンタクトを取れる者は誰もいなくなるのだ。
「殺せるはずないなんて思わないでくれよ。君の死体に他の魂を入れて、君の声で武藤ムツムと話させることができないでもないんだ。ただ僕は金にならない殺生が嫌いなんだよ。弾が勿体ない。そこんところよろしく哀愁」
「…………」
手の中の携帯電話に視線を移す。
少しもそんなこと願っていないのに、計ったようなタイミングで再び震え出す。
ヴーヴー、ヴーヴー、ヴーヴー……
折り返しの折り返しの電話。飯田の携帯で武藤から。
「出ろよ」
先ほどまでのふざけた調子とは正反対の、威圧的な声で墓無が言う。
飯田は上目遣いで僕を睨みつけている。
僕は受話ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。
「耳から離せ」
墓無に言われるまま携帯電話を耳から離す。
受話口から武藤の声が漏れる。
『俺だけど』
平素通りの声色だ。
「……うん」
『分かるか?』
「……うん」
『今休み時間だろ、少し時間大丈夫か?』
そうだ僕は本来なら今、学校で昼ご飯を食べているはずなのだ。
「……うん」
『なんだよテンション低ーな。この前のこと怒ってるなら謝るって。ちょっと急用ができちゃって電話も出れなくてさ』
「……うん」
『さっきから「うん」ばっかだなお前。本当に優太君っすか?』
「……入山優太だよ」
『だよなあ? 声そうだもんな。やっぱ怒ってんだろ? あれは俺が悪かったって。反省してっから許せよな』
武藤が自分の頰を殴る鈍い肉の音が聞こえる。
とっとと用件だけ聞いて通話を終えてしまいたい気になるが、それと同時に武藤の用件を聞くのが怖くもある。
武藤の身柄に関わるような内容だったら最悪だ。
さっきから墓無は僕の額に拳銃の照準を合わせ、黙って僕らの会話を聞いている。飯田は僕の胸から離れてソファに腰掛け、祈るような表情に鋭い目つきで僕を睨みつけている。
僕はまた「……うん」とだけ返す。
僕の様子から武藤がこの状況を察してくれたらいいのだが、それは無理な話だろう。
『やっぱ怒ってんのかよ、反省してるってば。許してくれなきゃむとむと泣いちゃうぞ? ひぃーん、優太君が許してくれないよ~』
「……うん」
『んだよ! ツッコめよ! 俺がさみーだろうが!』
「……うん」
『次会ったとき絶対シバくかんな!』
「……うん」
『なんだよ、ホント調子狂うわ今日のお前。まあいいや、今日学校終わってから暇か?』
墓無と飯田の視線が僕に刺さる。
「……うん」
『よかった。八田ノ町の海岸分かるか? 放課後、そこで待ってっから』
「……うん」
『積もる話もあるけど、あとで嫌になるほどたっぷり話そうぜ』
「……うん」
『優太』武藤の声色が真面目なそれに切り替わる。
「……なに?」
『やっぱなんでもないわ。頼みたいことがあったんだけど、電話越しにするような話でもねーや。じゃあ、またあとでな』
武藤の頼みたいこととはなんだろう。気になったが、墓無たちに要らぬ情報を漏らしてもことだ。
「……うん……じゃあ」
通話を切る。
墓無が拳銃の照準を僕から外す。僕を射貫くような飯田の視線も外される。
「飛んで火に入る夏の虫、よりは棚からぼた餅だ。ナイス棚ぼた入山君」
墓無が僕に向けて親指をグッと立てる。
最悪だ。
最悪の中で僕はどうすればいい。
このまま反抗を続けても相手に拳銃がある時点で勝算は薄い。あちらの懐に入り込んで勝機を待つべきだ。しかし、この状況で勝機なんて存在するのだろうか。
それから武藤との約束の時間まで僕は諦めた風を装って、はいはい協力しますよって態度で墓無と飯田に接した。僕の持っている実のなさそうな武藤の情報は全て話した。
墓無も飯田も僕のことを信頼していないだろうが、それはこっちも一緒だ。形だけの同盟、騙しあい、腹の探り合い。
墓無は煙草を吸い、僕と飯田は墓無の用意したカフェオレをちびちび飲み、無為に時間を経過させた。
今日会ったばかりの探偵を名乗る不思議おっさん、魂と身体がちぐはぐになった以前惚れていた同級生、僕。こんな三人で学校が終わるまでの五時間、一体なにを喋ればいいのだろう。
当然、部屋は早いうちから沈黙に包まれた。
飯田が何も言わずにリモコンでテレビのスイッチを入れる。
ワイドショーが例の同時殺人事件(実際は同時じゃないけど)を報道していた。飯田はすぐに興味もないであろうドラマの再放送にチャンネルを替える。僕たちは惰性でそれを見る。ドラマの再放送はニュース番組になり情報番組になり再びドラマの再放送になる。
ドラマの内容は全然頭に入ってこない。頭に入れようとも思わない。僕は墓無と飯田を出し抜いて武藤を救う方法を考える。
ドラマで場違いな背景音楽が鳴ったと思ったら、それは携帯電話の着信音だった。僕のではない。墓無の携帯の着信音。墓無が背広のポケットから黒い携帯電話を取り出す。一瞬拳銃に見えてぎょっとする。
「はいもしもし……え? …………いや見てないです、今から見てみます。……はい、じゃあまた」
電話を切った墓無はリモコンでチャンネルをニュース番組に替えた。
そこに映っているのは八田ノ町の景色だ。
被害者は斉藤ひなのちゃん六歳。車が一台通れるほどの細い道路の脇には民家と道路を隔てるように雑草と背の低い竹が茂っており、そこで少女の死体が発見された。死体は顔以外の全身の骨をこれでもかと折られ、皮を剝がれ、肉を削がれていた。先日の同時殺人事件の被害者の少女と殺害方法が一致することから、同一犯の犯行である可能性が極めて高い。死亡推定時刻から犯行が起きたのは今日の午前十時から正午の間。
また武藤が……。
僕は目眩がして膝に顔をつけて視界を暗闇で満たす。
「あちゃあ、武藤ムツムテンション高いな~。依頼を受けてなきゃ僕はこういうの嫌いじゃないんだけどね」墓無の軽口。
「……今から現場行く?」飯田の不安がる声。
飯田は自分の身体がまた人を殺めたことに思う所があるのかもしれない。自分だって人殺しのくせに。
「いや、今行っても警察やら報道陣やら野次馬で捜査っていう捜査もできないだろうし、なによりこの子に関してはなにも依頼を受けていない。僕が動く理由がない。来るべき自分の身体との邂逅に備えて温存しておきなよ。それより腹が空かないかい? そういえば朝から何も食べていないじゃないか」
電子音が聞こえる。膝で作った暗闇のせいで確認できないが、おそらく携帯電話のボタン音だ。
「十五秒で決めて。ちゅうかね」
なんのことだか分からない。十五をカウントしてから墓無が言う。
「もしもし、えーと酢豚定食一つと……君たちは?」
「いらない」と飯田の声。
僕はやっと墓無が出前のことを言っているんだと理解する。
「僕もいりません」
名前と住所を告げて墓無が電話を切る。
「まあしょうがないか。でも空腹で動けなくなるなんてこの世で一番無様なことの一つだからね。体調管理は自己管理でよろしく哀愁」
飯田が「十五秒って……」と愚痴る。
「十五秒で決めた選択と一時間かけて決めた選択が一緒だったら、五十九分と四十五秒が無駄だろう? 生きているんだったら生き急がなきゃ、時間は悠久じゃないんだから。全ての人生は選択の物語だよ」
それから墓無の出前が来るまで、テレビの音を除けば無音だった。
出前が来ると、テレビを見ながら食事をするのは失礼だと墓無が意味の分からないことを言い出してテレビを消して、墓無が酢豚定食を食べる音以外は静寂だった。墓無が酢豚定食を食べ終えてからは耳鳴りがリアリティを持って聞こえるような沈黙だった。
沈黙の裏でそれぞれがそれぞれの思考に耽っているのが分かった。
そんな噓っぽい時間を過ごしてから、僕たちは墓無のベンツに乗り込んだ。
墓無が運転席に、僕が助手席に、飯田が後部座席に座る。
目的地は八田ノ町の海岸だ。
赤馬市から八田ノ町へは車で四十分ほどかかる。
車中はシートのほっこり癒し具合とは裏腹に、固い緊張感に満ちていた。少なくとも僕にはそう感じられた。僕は緊張していた。
僕は武藤と会ったらどうするべきだろう。武藤を連れて墓無と飯田から逃走するのが最善だが、それは難しい。二人は当然僕らの逃走を阻止するだろう。
僕はもしものチャンスに備え、運転の仕方を目で盗むように運転席の墓無を凝視する。
逃げるには車を使うしか手だてはない。足で走るのでは車に勝てるはずがないし、どうにか駅まで逃げ切って電車に乗り込んだとしても行き先の駅で待ち伏せされたら終わりだ。どこの駅で降りるかの賭けになる。やはり車を奪うのが一番いい。
そろそろ八田ノ町の海岸に着くというころ、墓無がこれからの手順を説明した。
「入山君が武藤ムツムのもとへ向かい、武藤ムツムが逃げぬようその場に留めておく。僕は離れたところから入山君と武藤ムツムに銃の照準を合わせる。だから入山君は下手な真似できない。いくみんが武藤ムツムを確保。理解?」
「そんなまどろっこしいことしないで、遠くから撃ち殺しちゃえばいいじゃない」
飯田がしれっと冗談にならないことを言う。お前が死ね。
「依頼人は生け捕りをご所望なんだ。それに武藤ムツムが入っているのはいくみんの身体だろう? いいのかい? 殺しちゃって」
「……」飯田の顔から表情が剝げ落ちる。
「そろそろ本当の自分って奴が分からなくなってるんだね。意識が身体に馴染んでしまっている。自分の概念が融解している。傍から見ている分には愉快だけれど。もういっそ、このままでもいい感じかい?」
飯田は自分じゃない自分を自分として認め始めている。ちぐはぐを無意識下で許容し始めている。それでいいんだ。お前らはちぐはぐでいるのがいいんだ。
自分の失言をなかったことにするかのよう、感情と表情を再び宿して飯田が話を逸らす。
「……それって私が一番危ないじゃない」
墓無が言っていた『これからの手順』についてだろう。確かに飯田が一番危険だ。武藤は午前中にまた一つ殺人を終えたばかりなのだ。確保の途中で飯田が殺されてもなんら不思議じゃない。
「んー、でも僕は拳銃で二人を牽制しておくっていう重要な役割があるからね。入山君は信用ならないし、武藤ムツムの確保はいくみんにしかできない役割だろう?」
「墓無が照準を合わせながら確保も手伝ってくれればいいじゃない」
すねるように飯田が言う。
全然可愛くない。
気分が悪い。
「……なるほど哀愁」
「じゃあそういうことで」
墓無がたまに語尾につける『哀愁』って一体なんなんだろう。まあどうでもいい。きっと伏線でもなんでもない。
八田ノ町の海岸は八田ノ町駅からネオンショッピングモールとは反対方向に十分ほど歩いた所にある。電車の窓から海が見えることはないので印象は薄いが、八田ノ町は海辺の町なのだ。
僕たちを乗せたベンツが八田ノ町の海水浴場の駐車場に止まる。
駐車場から海水浴場は見えない。低い階段を上ってコンクリートの踊り場に出て、さらに階段を下った所に海水浴場はある。
「まずは入山君が武藤ムツムのもとへ向かい、武藤ムツムが逃げぬようその場に留めておく。それからすぐに僕といくみんが階段を上り、僕は武藤ムツムと入山君に拳銃の照準を合わせる。いくみんと僕の二人で武藤ムツムを確保」
墓無が確認するように言う。
僕と飯田は揃ってうなずく。
タイミングが合っていても胸の内はバラバラだろう。
ベンツの鍵は墓無の背広のポケットの中だ。一対一ならなんとかなるかもしれないが飯田もいる。墓無から鍵を奪うことは難しそうだ。
後がない。時間がない。どうすればいい。
階段を上って見える景色に武藤の姿がないことを祈る。
墓無に背中を叩かれて僕は階段へと歩き出す。
階段に足をかけた所で背中に飯田の声が掛かる。
「裏切らないでよね」
「分かってる」
僕は噓をついて階段を上る。
墓無が拳銃の安全装置を外したのであろうガッチャッという硬い音が聞こえる。
階段を上りきり、すぐに海水浴場を見やる。
武藤の姿はない。
胸を撫で下ろすもつかの間、「こっちだ」と明るい声が聞こえた。
声の方に目をやると、僕から一メートルも離れない位置、海水浴場へと下る階段に武藤が腰掛けていた。
武藤は昨日僕が買った黒のワンピースに身を包んでいる。
まるで喪服だ。
とっさに叫ぶ。
「逃げろ!」
大口を開けて武藤が惚けた顔をする。
吞気な殺人犯だ、なんて言ってる場合じゃない。
僕は武藤の脇まで駆け寄り、武藤の腕を摑んで立たせようとするが、「待てってなんだよ急に」と言って武藤は僕の焦りに気付いてくれない。
「そうやって君はまたいくみんのことを裏切って。いい加減にしろ」
墓無の声に振り返ると、予想通り拳銃を僕らに向けている墓無と飯田の姿が見えた。
「逃げろ!」
再び叫び、墓無にタックルをきめる。
墓無はバランスを崩してコンクリートの踊り場に背中から倒れる。
拳銃は未だ墓無の手の中だ。
僕が墓無の上に乗る形で取っ組み合いになる。
拳銃を奪おうとするがうまくいかない。
「いくみん! 武藤ムツムを頼む!」
そう墓無が叫ぶのが先か、叫ぶ以前に走り出していたのか、飯田はもう僕の見える位置にいない。
誰の声か「ムツム!」と武藤を呼ぶ声が聞こえた。
墓無から拳銃を奪い取ろうとするが、それを握る手は固く閉じられていてこじ開けられない。
僕は片手で墓無の額を押さえ、後頭部をコンクリートに叩き付ける。額越しにコンクリートの硬さが伝わってくる。それでも墓無は僕を睨みつけて意識を保っている。もう一度墓無の額に手をかけた所で、ッキャヌァァァァァァァァァン!!!! と耳をつんざくような銃声が鳴り響き、僕は反射的に上半身を大きく反らす。墓無はその隙を見逃さず、マウントポジションをひっくり返すために身体を起こそうとする。僕はとっさに墓無の両手首を押さえてそれを制す。拳銃を持つ右の手首を強く握って、僕へ銃口が向かないようにする。
ッキャヌァァァァァァァァァン!!!!
ッキャヌァァァァァァァァァン!!!!
墓無の右手首とそれを摑んだ僕の左手が銃口の向く反対方向に勢い良く押されるが、僕は墓無の手首を離さない。
それからは膠着状態が続いた。
両手首を摑んで墓無を地面に押さえつける僕。
僕を睨みつけ、腕に力を込めて反抗を試みる墓無。
五分か、十分か、三十分か、時間の感覚がなくなるほどの緊張下でずっとこのままだった。飯田は戻ってこなかった。武藤に殺されたのだろうか。
先に墓無が口を開いた。
「……もういくみんたちの間でもなんらかの決着がついているだろう。僕たちもそろそろ止めにしないかい? 君の裏切り、君の暴力、僕はまるっと許す。大人の優しさだ」
「だったらその拳銃を離して下さい」
「君が僕を撃ち殺すかもしれないだろう。僕は許すとは言ったけど、信じるとは言っていない」
「信じていないのは僕も一緒です。僕が手を離したら墓無さんは僕を撃ち殺すかもしれない」
ッキャヌァァッキャヌァァッキャヌァァァァァァァァァン!!!!
空に向けて立て続けに三回発砲し、トリガーを引いて残弾がなくなったことを確認してから、墓無は銃を地面に落とした。
僕はその銃を拾い上げ、駐車場とも海水浴場とも別の方向に目ぇ一杯の力で投げ、墓無の上から下りる。
「ふぅ」と溜め息をついて墓無が立ち上がる。
墓無の今後の動向を窺う僕を無視して、墓無は海水浴場へと視線をやる。僕も真似るように海水浴場を見やる。
武藤も飯田もいなかった。
墓無が背広に付いた砂を払い落とす。
「行こうか」
「え?」
僕はこれでもかと惚けた顔をしていただろう。
「え? じゃないよ。ここに二人はもういないんだ。車で二人を捜そう」
この男の『君の裏切り、君の暴力、僕はまるっと許す』という台詞は本心だったのだろうか。なにを考えているか分からない男だとは思っていたけれど、それにしてもこれは予想外だ。少なからず何かしらの制裁があると思っていた。
「銃、拾ってかなくていいんですか?」
「家に替えがあるから」
あっそ……。
やっぱりこの男は信用ならない……ってそれは僕も一緒か。
ベンツの助手席に乗り込み、墓無の運転で海からそう距離のない地点をぐるぐると徘徊したが、二人の姿は見当たらなかった。
武藤と飯田は生きているだろうか。
二人とも死んでいるかもしれない。
そんな不安が頭をよぎる。
できればどちらにも死んで欲しくない。
しかし、どちらかが死ななければ二人は永遠に追われる身だ。
どちらかが佐藤静江さんに殺されなければこの物語は幕を下ろさない。
ならば申し訳ないけれど飯田に死んでもらいたい。
僕がこんな風に思うのは、武藤のことが『好き』で飯田のことが『好きだった』からだけど、ちょっと待てよ。
『好き』と『好きだった』の間に優劣はあるのだろうか。
何故過去の気持ちよりも今の気持ちを優先させようとしているのだろう。
人間は今現在を更新し続ける生き物だから、厳密な意味での自分は今にしか存在し得なくて、今の自分の気持ち以外は全て偽りでしかないのだろうか。いや、そんなことはない。飯田への『好きだった』も僕にとっては本物だ。『好き』であったからこその『好きだった』なのだ。少なくとも本物であった瞬間はあった。
過去と未来、それぞれの性質は違うがどちらが尊いということもないように、『好き』と『好きだった』にも異なる種類の価値がある。あるはずだ。
しかし、人間を突き動かすのは今の気持ちだ。過去の気持ちじゃない。
過去の気持ちで動いているつもりの人がいるならば、その人は過去の気持ちを今でも引きずっているだけだ。
僕は飯田への気持ちを今に引きずらない。
クリアな今の気持ちで動く。
武藤への『好き』を優先させる。
望むのは武藤の生で飯田の死だ。
武藤と飯田なら、断然飯田に死んで欲しい。
最低だ。
好きだった女の子の死を望む男が最低以外のなにと言えるだろう。
しかし、僕は飯田の死を望まずにはいられない。
だって飯田の死は武藤の生だから。
分かっている。
一番に死ぬべきは僕だ。
僕が死んで二人の命が助かるならば、僕は自分の死をもって二人を救いたい。
僕は飯田のことが嫌いなわけではないのだ。
ただ『好きだった』よりも『好き』を優先したいだけなのだ。
犯人は現場へ戻ってくる法則に期待して僕たちは海水浴場に入り、その周辺を確認する。
やはり二人の姿はない。
海水浴場はひらけており見晴らしがいい。
パッと見で見つからないということは、ここにいる確率は著しく低い。砂に埋まるでもしないと隠れることは困難だろう。
「いないね」
「ですね」
ベンツの中で武藤の持つ携帯に何回も電話をかけたが繫がらなかった。
僕はだめ押しでもう一度、武藤の持つ携帯に電話をかける。
やはり呼び出し音は鳴るが出る気配はない。
呼び出し音を八回聞いてから電話を切る。
「入山君、もっかいかけて」
墓無が糸目をさらに細くして浜辺を見る。
墓無に従って電話をかけ直すと、墓無は早足で歩き出した。砂に革靴が沈んで歩きにくそうだ。
墓無の歩みの先にはかすかな光があった。
ピンク色の光が短い間隔で明滅している。
僕も光へ向かい走り出す。
やっぱり。
墓無が砂を払ってそれを拾う。
携帯電話だ。
二人で画面を確認すると、『着信中 入山優太』の文字が愉快に躍っていた。
武藤が逃げている間に落としたのだろう。
僕たちの収穫はそれだけだった。収穫と呼べるかどうかも危うい。
一つ希望が消えたと言うこともできる。飯田と武藤にこちらから連絡がつかないことの証明を拾ったのだ。
物語の中で『光』は『希望』の暗喩として使われることが多いが、その光が僕たちの希望を潰すとは皮肉な話だ。
そりゃ今この現実は物語じゃないのだから当然と言えば当然なのだが、それでも僕はここ三日間の非現実的な現実をどこかで物語のようだと感じていた。物語のような現実なのだから、物語のように光が救いとして機能しても不思議じゃないだろう。そう思っていた。
僕の物語を統括する神の不在を呪った。
墓無のマンションに戻ったら手錠をかけられた。
「ちょっと手ぇ見せて」という墓無の言葉に従ったらガチャリ。
「え?」
「え? じゃないよ。僕は君の暴力と裏切りは許すけど、君を信用したわけじゃないんだ。本当に死ぬかと思ったよ。二度とあんなのはごめんだ。ということで手錠。理解?」
「納得はできません」
「そんなのしなくていい」
もしかしたらと淡い期待を抱いていたけれど、墓無のマンションにも二人の姿はなかった。
ソファにどっかりと腰掛けて、墓無が煙草をくわえて火をつける。
「吸う?」
「吸いません」
条件反射で断わってから吸ってみるのも悪くないかなと思う。一回の喫煙で僕らの状況が何も変わるはずがないのは分かっているけれど、僕個人だったら少しは変われるんじゃないだろうか。大人に近づくとか、そんな安い暗喩……っておいおい、さっきから現実逃避が過ぎる。無意味な感傷で現実から逃避しているのかもしれない。それはよくない。
自分の両頰を叩いて気合いを入れ直そうとするが、ジャラッと音を立てて手錠が邪魔をする。
墓無の口から煙が広がる。
「なーんか僕は疲れたよ。ここまで僕が頑張る必要ないんじゃないかな。突き詰めればなんだって他人事だ。運が悪かったいくみんに非があると言えなくもない」
お前という存在がなければ飯田も僕もこんな事件に巻き込まれなかったんだぞ、という怒りの感情ももちろん湧くが、墓無がこんなことを言うのも分からなくはない。
僕も疲れた。
しかし疲れたからといって、墓無の言っていることが分かるからといって、諦めちゃ駄目だろう。
「そんな弱気なこと言ってないでできることを探しましょうよ。真っ暗だからもう今日は無理だけど、明日はここを捜してみようとか。あと墓無さんの能力でなにかできることはないかとか」
煙が散っていく。
「まあね、僕も考えがないわけではないんだよ」
「聞かせて下さい」
「君が死ねばまるっと解決かも」
【飯田いくみ】
墓無が入山君ともみ合いになった直後、私は武藤ムツムに向かって走り出した。
裏切りやがって糞ホモ野郎。
久しぶりに自分の顔を見てなんだか泣きそうになった。
武藤ムツムも久しぶりに自分の顔を見て思う所があったのか、私の顔を見た途端、表情を険しくして男みたいな声で、「ムツム!」と自分の名前を叫んで私に向かって走ってきた。
……逃げないの?
私は混乱して踵を返し、墓無と入山君の方へ走った。何故か武藤ムツムから逃げてしまった。
直後、銃声が聞こえて銃弾が私の右耳の上をかすめた。
頭の中が空洞になった。
本当に驚くと声なんて出ないんだ。
私は方向転換して速度を上げる。背後から武藤ムツムの足音が聞こえる。いつの間にか武藤ムツムに追われる形になっている。
海水浴場を出て海沿いの国道を走る。
日は暮れ始めていたが、七月の西日が頰を刺して、汗が滝のように溢れ出る。そう長く走ってもいられなそうだ。しかしそれは武藤ムツムも同じだろう。
武藤ムツムは私の身体を借りて女なのだ。そして私の身体は男。一般的には男の方がスタミナがある。だがしかし、私が借りたくもないのに借りている武藤ムツムの身体は線が細くて女の子みたいだ。男の中では体力のない方に属するだろう。こんなことを考えている私にメタ視線の私がツッコむ。
『おいおいおいおいなんで逃げ切れるかどうか考えてんだよ。お前の役割は武藤ムツムの確保だろう。なんで確保される側の気分になってんだよ』
それは分かる。
分かるけど怖い。
武藤ムツムは人殺しなのだ。もしかしたら凶器を持っているかもしれないし、体術の類いも学んでいるかもしれない。だとしたら私を殺すのなんて赤子の手を捻るよりも簡単だろう。
『そんなことないって、お前は今男で武藤ムツムは今女なんだ。さっき糞ホモ入山は拳銃を持つ墓無と五分でやっていたじゃないか。お前ならできるよ』
そうかな。
そうだよね。
振り返る。
瞳に刺し殺すような鋭さを湛えて武藤ムツムが私を追いかけている。右手にはクシャクシャの紙袋が握られている。きっとあの中には私を殺す凶器が入っているのだろう。
やっぱ無理!
十分ほど全速力で走り続けると息が上がってきた。それは武藤ムツムも同じようで、背後からバタバタという足音と共に、必死に酸素を取り込もうとする荒い呼吸が聞こえてくる。こんな状態ではさすがに武藤ムツムでも私を殺すことはできないだろう。しかし、今ここで武藤ムツムを確保できたとしても、すんなり墓無のもとへ連れて行くことは困難だ。一度立ち止まったら一歩でも歩ける気がしない。
今後の動向の目星がつかぬまま走り続けていると、「わかっ、たあ、はあ、はな、しを、しよ、う」と途切れ途切れの声で武藤ムツムが背中に声をかけてきた。
一体なにが分かったというのだろう。
酸素の足りないこの頭ではこれ以上走り続けてもなんのアイディアも浮かばないだろうという判断、とにかく足を止めて休みたいという本能、それに準じて私は段々と速度を落としてから停止し、膝に手を置いて立ち止まった。
「……んっはあ、っはあ、っはあ、っはあ」
脳に酸素を送っていると汗で濡れた両肩を誰かにガッシと摑まれた。ここで『誰か』などと曖昧な語句を選んだのは神様の慈悲深さに期待したからだ。
恐る恐る振り返る。
私の両肩を摑んでいるのはやはり武藤ムツムだった。
神はいない。
武藤ムツムが私を睨みつける。
「……抵抗、しねえ、のかよ」
私は息が上がって返答できない。
まるで抵抗するのが当たり前みたいな口ぶりだ。私が来たる死に恐怖を覚え絶望し、泣き叫ぶことを期待しているのだろうか。そういうのに萌える癖なのだろうか。
「……そこに、水道が、ある」
そう言って武藤ムツムは私の肩をガッシと摑んだまま、灯台の入り口に備え付けられた水道へと歩き出す。私は押される形で武藤ムツムの前を歩く。
「あの、手ぇ、放して、もら、える?」
「放し、たら、逃げるな、り、暴れ、るなり、すんだ、ろが」
逃げも暴れもしねーよ。確かに私は逃げたいし、ブレイクコア爆音で聴いて全部忘れて暴れるように踊りたいけど、逃げんのも暴れんのもお前の役割だろ。いや、逃げて欲しいわけでも暴れて欲しいわけでもないけれど、それでもなんだか私と武藤ムツムの会話は嚙み合っていない。
私の肩から私のシャツの袖へと手を移動させ、再びガッシと摑んでから、武藤ムツムは私をきつく睨む。
逃げたら殺すぞ。
そう言っているようだ。
武藤ムツムは私のシャツの袖をつかんだまま、蛇口に直接口をつけ、まっ平らな喉を鳴らしながら水を飲む。
私は鏡を介さず直に自分の姿を見る。
入れ替わる以前は後ろで一つに縛っていたけれど、髪を解いた私も中々可愛い。汗で湿った髪に繊細な色気がある。早く元の私に戻りたい。
蛇口から流れる水をそのままにして、武藤ムツムが蛇口から退く。私はよろめきながら蛇口に近づき、武藤ムツムに倣うように、蛇口に直接口をつけて水を飲む。生き返る。
摑まれているのとは逆の袖で口元を拭ってから武藤ムツムを見る。呼吸と共に胸を上下させながらも、刺すような視線で私を見張っている。
武藤ムツムは私の袖を引っ張って灯台の入り口へと向かい、鉄扉を開けて中に入る。リードで繫がれた犬のように私も続く。
灯台の中には冷気が充満していて、汗が一瞬にして引く。
振り返って私と開けっ放しの鉄扉を同時に見ながら武藤ムツムが言う。
「閉めろ」
なんでさっきからお前ん中で上下関係確立させてんだよ! なんで命令口調だよ! 気分わりーな!
でも私は自分のプライドなんかより自分の命の方が大事だから、びくついた声で「分かったわよ」と従順に鉄扉に手をかける。
なんだかさっきからおかしい。
違和感の正体を探る。
私たちは追う者と追われる者の関係であったはずだ。本来ならば私が追う立場で武藤ムツムは追われる立場だった。何故武藤ムツムは私を追ったのだろう。私を追って捕まえてどうするつもりだったのだろう。今からどうするつもりなのだろう。やっぱりあの二人の少女みたいに――
鉄扉に手をかけたまま思考に耽る私に、武藤ムツムが苛ついたように声をあげる。
「んだよやっぱ逃げるつもりかよ! 閉めろって!」
気の強い言い方にカチンときて、私も同じ強い調子で言葉を返す。
「ちょっとぼーっとしてただけ! 閉めるわよ!」
鉄扉を閉めると灯台の中はぐっと暗くなった。灯台の中には円形の窓が一つと最上階まで続いているであろう螺旋状の階段があるだけだ。
やっと武藤ムツムは手を放してくれる。
私と武藤ムツムは地べたと変わらないコンクリートの床に腰を下ろす。
武藤ムツムは自分の隣にくしゃくしゃの紙袋を置いて、値踏みするように私を見る。
「……さっきからなんだよその喋り方、気持ちわりーな。まあいつもの胸糞悪いのよりはマシだけど」
いつもの?
「あなたと話すのは今日が初めてだけど」
武藤ムツムが訝しげな表情をつくる。
「わけ分かんねえ芝居を打って襲ってくるつもりじゃねえだろうな!」
なんでさっきから武藤ムツムは必要以上に私のことを警戒しているのだろう。強い口調も私を威嚇するために無理に出しているように聞こえる。
「まあ演技だとしても、そうやって落ち着いてくれてた方がやりやすいか」
なにを言っているんだ。適切な解釈が浮かばない。
「で、なんでこんなとこにいんだよ」
「ちょっと待って、話が見えてこないんだけど」
「この身体だもんな、そりゃ意味不明か。信じられないけど俺、この前どういうわけか飯田いくみって奴と魂が入れ替わっ――」
「それは知ってるわよ」
「なんで知ってんだよ」
「だって私が飯田いくみだもん」
武藤ムツムの目に怒りの色が宿る。
「……やっぱふざけてんだろ」
「ふざけてない! 私は飯田いくみ!」
自分に言い聞かせるよう、声色で可能な限りの真実味を演出した。
私は飯田いくみだ。
武藤ムツムは未だ訝しんでいるのか、威圧的に言い放つ。
「証拠は」
家族構成、両親の出身地、高校のクラスと出席番号、自宅の住所を諳んじてみせる。
「これでいいでしょ」
武藤ムツムは納得したのか、私を見る目から怒りと警戒を解除して考えごとに耽るような沈黙を置いてから顔を驚愕に染める。
「……え、ちょっと待て……」
武藤ムツムは顔を伏せて側頭部の髪の毛をかきむしる。ボサボサになる。
「ちょっとそれ私の身体なんだからもう少し丁寧に扱ってよ」
「……えーと、俺の魂が飯田いくみの身体に入ってて、飯田いくみの魂がムツムの身体に入ってるんだから……っだああ、ややこしい! ………えー、俺の身体にはムツムの魂が入ってるってことか?」
私の注意を無視して武藤ムツムは意味の分からないことを言う。全然要領を得ない。
「あなたが武藤ムツムでしょ」
「違ーよ! 俺は武藤ひかりだ! あんな奴と一緒にすんな!」
「意味分かんないこと言わないでよ」
「意味分かんなくねーよ! 俺は武藤ひかりだ!」
そう言った武藤ムツムの声にも、さっきの私と同じ真実味が宿っているように聞こえた。
「武藤ムツムじゃなくて?」
「同じこと言わせんなっつーの」
「男だよね?」
「女だ」
「でも、これ今私の身体男だし」
「だからそれ俺の身体じゃないって! ムツムのだ!」
「はあ!?」
「だああ! しっつけえな! 武藤ムツムは俺の兄貴で、俺は武藤ひかりで妹だ!」
「女ってこと?」
「だ! か! ら! 女だって言ってんだろ! わざとかよ! さっきお前優太と一緒にいただろ! 聞いてないのか!? なんで俺が男になるんだよ!」
聞いてねーよ。
あ、でも入山君は武藤ムツムのことを女だと勘違いしていたんだっけ。いやいや違う。勘違いじゃなくて武藤ムツムは本当に女で……ってこれも違う。入山君が武藤ムツムだと思っていたのは武藤ムツムじゃなくて武藤ひかりで、武藤ひかりは女なのだ。
ということは……。
「入れ替わりが三人で起こってる?」
「っぽいな……」
トラックに轢かれる前の私なら絶対に信じなかったけど、ここまで支離滅裂な現実が続いているんだ、三人目の入れ替わりも信じられなくはない。
混乱した頭で現状を整理してみる。
武藤ムツム(男)の身体に私(女)の魂が入っていて、
私(女)の身体に武藤ひかり(女)の魂が入っていて、
武藤ひかり(女)の身体に武藤ムツム(男)の魂が入っている。
「ってことはあなたの身体に入ったお兄ちゃんが、今日新しく女の子を殺したってことだよね」
「……いや、いやいやいやいやいやいや! なんだよ『今日新しく』って、聞いてねえぞ!」
「ニュースでやってたわよ。この前に殺された女の子と同じ風に別の女の子が八田ノ町で殺されたって。あなたは犯人じゃないんだよね?」
「だから俺は武藤ひかりで、少女殺しのロリペド野郎はムツムだっつの……マジかあいつ、また……」
顔を伏せて表情は見えないけれど、落ち込んでいる雰囲気のこの子を、とりあえず武藤ひかりだと信じる。
ひかりは私のことを純正の武藤ムツムだと勘違いして、だからあんな風に追ってきたのだ。
ひかりが「クソッ!」と自分の頰を殴る。
鈍い肉の音が鳴る。
見ているこっちが痛い、っていうかそれ私の顔なんですけど、と文句を言いたいけれど、ひかりの顔は痛みのせいだけじゃない悲痛さに満ちていて、私は言葉を吞み込まざるをえない。
沈黙が満ちる。
寄せては返す波の音と、私たちが走っていた道路を車が通り過ぎる音が聞こえる。墓無が私を捜している車の音だといい。
そうだ、墓無に連絡しないと。入れ替わりは三人で起こっていて、この子は犯人じゃないんだと伝えなきゃいけない。しかし今私は携帯電話を持っていない。
「落ち込んでいる所悪いけど携帯持ってる? 連絡したい人がいるの」
「ああ、持ってるよ。お前の可愛い携帯」
そう言ってひかりは黒いワンピースのポケットに手を突っ込むが、いつまでも出さないでもぞもぞやっている。
「どうしたの?」
「……わりい、走ってるときに落とした臭い」
「私のなのに!」
これで墓無と連絡がつかなくなった。
墓無は入山君に殺されていないだろうか。確かめたい。墓無が死んでしまっては私たちが元に戻る術はなくなる。
「早く赤馬に帰らないと」
それとも墓無たちはまだ海水浴場にいるだろうか。
「いや、帰らない。行かなきゃいけない所があんだよ」
「私たちを元に戻してくれる人がいるの。あ、でも三人揃わないと無理なのかな。とりあえずその人に状況を説明しなきゃ」
「それ明日じゃ駄目か? 本当は優太に頼むつもりだったけど、いくみ、手伝ってくれねーかな」
「手伝うってなにを?」
「ムツムを捕まえんだよ」
武藤ムツムは大学の二回生で、隣県の大学に通ってそっちで一人暮らしをしている。その大学には赤馬市や八田ノ町から通っている学生も多く、その一人に西条洋一という男がいて、西条洋一は八田ノ町に住んでいる。自分の顔がテレビで報道されてから武藤ムツムは大学にぱったり顔を出さなくなり、西条洋一の家に入り浸っているらしい。
ひかりが教えてくれた武藤ムツムの情報だ。
ひかりは入山君の前から姿を消してから、武藤ムツムが籍を置く大学で聞き込み捜査を行ってこの情報を聞き出したそうだ。墓無よりよっぽど探偵っぽい。
なぜ今日じゃなくちゃ駄目なのか尋ねると、いつ武藤ムツムは別の所に姿をくらますか分からないし、なにより新しい殺人が起こらないように、とのこと。ごもっとも。
それでも女二人で殺人犯の潜む家に乗り込むのは不安だった。
私たちを乗せたタクシーはひかりの告げた西条洋一の住所へと闇を切り裂いて走る。
駅でタクシーを拾う前に海水浴場を確認したけれど、墓無と入山君の姿はなかった。墓無は無事だろうか。
「これ持っとけ」
ひかりが紙袋からスタンガンを取り出して渡してきた。パッと見電動ひげ剃りに見えて、「なんでひげ剃り?」と首を傾げたけど、「いいから持っとけって」と言ってひかりは詳しい説明をしてくれなかった。渡されたスタンガンをジーンズのポケットに突っ込んだ所で、あ、スタンガンか、と気付いた。ポケットから再度それを取り出して見てみると、なるほど電動ひげ剃りみたいにスイッチが一つ付いているだけで操作に難儀はしなそうだ。
西条洋一の家には八田ノ町駅からタクシーで十五分位で到着した。
広がる田園風景にぽつんと平屋が建っている。
「その西条洋一は家族と住んでるの?」
「いんや、一人暮らしらしい。田舎だから家賃安いんじゃねーの? それか親の使ってない持ち家とか」
蛙と蟬が忙しなく鳴いている。こんな牧歌的な雰囲気の平屋に本当に殺人犯が身を隠しているのだろうか。
ひかりがタクシーのおじさんに料金を払い、私たちはタクシーを降りる。
平屋の窓から光が漏れている。
私は肝心なことを訊き忘れていたことに気付く。
「もしも本当に武藤ムツムがいて捕まえられたとしたら、その後どうするの?」
「捕まえられたらじゃねーよ、捕まえんだ。んな弱気でどうすんだっつーの!」
「あ、うん」言葉のあやだって。
「警察に突き出すつもりだったけど、ムツムは俺の身体ん中に入ってるだろ? それじゃ警察に突き出しても意味ないから、とりあえずこれで拘束する。んでその後のことはそのときに考える。さっきのスーツの兄ちゃんに迎え来てもらうのがいいんじゃね?」
ひかりが紙袋の中からロープをちらりと出して見せる。
「俺もスタンガン持ってるから、バジッとやってグルグルな」
「武藤ムツムってどんな奴なの?」
「歩くたびに頭のネジがボロボロ零れ落ちるような、ギリギリ人間やってられるような、そんな終わってる奴だよ」
私が魂を置いている身体の出自について初めて知る。嫌悪感しか湧かない。武藤ムツムの説明をしたひかりは奥歯を強く嚙んで何らかの感情を押し殺しているように見える。
ひかりが西条洋一の家の庭へと足を踏み入れる。心の準備ができていないまま私も続く。
家の光に近づくにつれ、蟬と蛙の鳴き声に混じって聞こえないはずの音が聞こえてくる。音というより音楽。
私は立ち止まり耳を澄ます。
「どした? 怖くなったか?」
「いや、なんか聞こえない?」
ひかりも耳の後ろに手を添えて耳を澄ます。
「幻聴じゃないよね」
「兄貴いるな」
なんでこの音楽が聞こえることが武藤ムツムの在宅に繫がるんだろう。
「ブレイクコアって知ってるか?」
どうせ知らないだろうってニュアンスでひかりが尋ねてくる。馬鹿にすんな。
「知ってるよ。好きなジャンルだもん」
「え、マジでか! お前の言ってるブレイクコアってスネアズとかのブレイクコアだよな!?」
「それ以外にブレイクコアってあるの?」
「うおマジか! ブレイクコアっつっても色々あんだろ、どんなの聴くんだよ」
「マルオサとか」
「マルオサ! あれやっべえよな! 他は!?」
「んーなんでも聴くけど、ミディサイらへんとか。割と雑食かも。ひかりもブレイクコア聴くんだ?」
「あとはナードコアとかな、昔兄貴に教えてもらって聴くようになったんだ。お前曲作ったりはしねーの?」
「そうだね、聴き専。ひかりは作ったりするの?」
「作るっつーか既存の曲ツギハギしたり打ち込み入れたりな。やっぱ一回自分で曲弄ってみると全然ちげーよ。なんつーか、今まで聴いてなかったとこに耳がいく感じ、っつーのかな。ああ、上手く言えねえ!」
「まあ、なんとなく分かるけど」
「今度俺の弄った曲聴いてくれよ。ネットにあげたりしてるんだけど反応なくて淋しいんだわ」
「うん、全然聴くよ」
「うーわっ! なんだこの感じ、超テンション上がった! こんな田舎でブレイクコア知ってる奴に会えるとは思ってなかったからな、もう運命だろ! これ上手くいったらユニット組もうぜ! 優太でも誘ってさ」
「入山君誘わないなら組んでもいいわよ」
自分の好きな音楽で興奮するひかりが可愛く見える。自分を取り繕うことをしないひかりが羨ましい。また話す機会があったらこれでもかってほど語ってやろう。
そうか。
点と点が繫がり線を紡ぐ。
私たち三人が入れ替わった原因はブレイクコアだ。
墓無は私と武藤ムツム(本当はひかりも)の魂が入れ替わった原因を、魂の構造が似ているからだろうと言っていた。
音楽の趣味嗜好が似ていることが魂の構造の類似に起因するかは分からないけれど、逆に考えたら魂の構造が似ていたからこそ音楽の趣味嗜好が似通っていたと言えるのではないだろうか。
なんだか気が抜けた。
こんなことで私は巻き込まれたのか。
確かに私はブレイクコアが好きだ。雑音とも取れる音楽かどうかも危うい、そんな音楽が好きだ。雨の日の放課後に自転車をガンガン踏みつけて奏でるくらいに好きだ。しかしブレイクコアが好きだという趣味嗜好のせいでこんなことに巻き込まれるなんて分かっていたら、クソどうでもいいジェイポップでも聴いていた。
バタフライ・エフェクトだっけ?
蝶の羽ばたきの一回が地球の裏側で大きなサイクロンを引き起こすって現象。今回私に起こったのはそういう類いの偶然だ。思いがけない要因が馬鹿げた事態の原因となった。運命ってやつがあるのなら、こういうことを言うのかもしれない。
平屋の窓から漏れる光に向かってひかりが歩き出す。後を追う。
玄関の前で立ちどまり、改まった口調でひかりが言う。
「今訊くことじゃないとは思ってたんだけど、やっぱ気になるわ。一個だけ訊いてもいいか?」
「なに?」
このタイミングで訊きたいことってなんだろう。次のひかりの言葉に身構える。
「……いくみ、優太と付き合ってねえよな?」
なんだそれ。
「付き合ってるわけないじゃん。どうしたの急に」
ひかりはふいーと息を吐いて力を抜くように肩の角度を下げる。
「あはは、なんだ、やっぱそうか。これ終わったら優太マジでボコさねーとな、あはは」
ひかりの身体が軽くなったのが見て取れる。
「何の話?」
「いや、なんでもねーよ。気になることがあると集中できねえからさ。これでやっと負ける気がしねえ!」
そうですか。
よく分からないけどそれはよかった。
何故か今の話で決心が付いたのか、ひかりはチャイムを鳴らすこともせずにスライド式の玄関扉をガラガラと開けた。鍵は掛かっていなかった。ブレイクコアがさっきよりも大音量で聞こえるようになる。高速ブレイクビーツが蟬と蛙の鳴き声をかき消す。
三和土から土足のまま廊下に上がる。
ひかりの手にはスタンガンが握られている。
私も真似してポケットからスタンガンを取り出す。
ブレイクコアは廊下の突き当たりの部屋から流れている。
真っ直ぐ歩くに連れて音量が大きくなる。
自分の足音も聞こえなくなる。
奥の部屋のドアに手をかけて、ひかりが眼で「いくぞ」と声をかけてくる。
ゆっくりと深く頷く。
ひかりが首で、せーのっ! のタイミングをとってドアを開ける。
聞こえたのはブレイクコア。
眼に飛び込んできたのは赤色。
見るのは二度目。
むせ返るほど濃い血の臭い。
今度は少女じゃない。
男の死体。
体格から辛うじて男だと分かる死体。
全身の皮を剝がれた死体。
全身の肉を削がれた死体。
頭蓋骨も含めた全身の骨を折られた死体。
死体の向こうに見えるのはパソコンデスクに向かって座る黒髪ショートの女の子。
硬い音を立てて私の手からスタンガンが落ちる。
女の子が振り返り私たちに気づく。
あれが元のひかりの顔。
あれが武藤ムツム。
三白眼が今の私の目=本来の武藤ムツムの目に似ている。
兄妹だから当たり前か。
武藤ムツムが白い歯を見せて悪魔的に笑う。
部屋に一歩分だけ入ったひかりがスタンガンを顔の前で構え、ジッ! ジッ! ジッ! と威嚇するように音を立てる。
「久しぶり。その身体俺のだから返してくんねーかな。そんでその後自首してくれよ」
ひかりの声色は虚勢に充ち、その裏の怯えが滲み出ている。
「あり? その感じだとこっちがひかり? てっきりボクはひかりと二人で入れ替わったんだと思ってたけど、三人でトライアングルって感じ? んじゃボクの身体に入ってるのは誰かしら?」
「大人しくするなら痛い目には――とか常套句を言ってみるけど、ムツムが大人しくするわけねえもんな」
ひかりはにじり寄るように武藤ムツムヘと歩き出す。
ひかりと武藤ムツムの間には真っ赤な死体が横たわっている。
武藤ムツムはパソコンに向き直ってブレイクコアを消す。
静寂。
武藤ムツムがマウスを操作する。
ディスプレイで青いアイコンが選択される。
武藤ムツムが再び悪魔的な笑みを浮かべる。
死体を大股で飛び越えるようにひかりが走り出し、そのまま減速することなくスタンガンを掲げて武藤ムツムヘと突っ込む。
「ギャッ!」
声をあげたのは私だ。
右肩の関節が外される激痛激痛激痛激痛右上腕の骨が折られる激痛激痛激痛意味が分からない激痛激痛皮が剝がされる痛い痛い痛いやめろやめろやめろ激痛激痛激痛激痛激痛マジでなんなの激痛激痛激痛むき出しの筋肉がちぎられる激痛激痛激痛激痛ごめんなさいごめんなさい許してください激痛激痛激痛激痛激痛筋肉の間を刃物が走る激痛激痛激痛激痛激痛激痛げきつうげきつう右太ももの骨が折られるやめてやめて激痛激痛激痛痛痛痛骨が砕かれる激痛激痛激痛無理無理無理無理肉が潰される激痛激痛死にたくない死にたくない死にたくない激痛激痛激痛激痛痛い痛い痛い激痛激痛激痛痛い痛い痛い痛い痛い痛い筋肉が刻まれる死にたくない死にたくない激痛激痛ごめんなさいごめんなさい激痛激痛激痛激痛許してください左脹脛の激痛激痛皮と肉の間を刃物が泳ぐ痛い痛い痛い痛い痛い皮が剝がされる痛い痛い痛い痛い左くるぶしが砕かれる激痛激痛激痛痛痛痛痛痛痛痛痛右手首の肉が開かれる激痛激痛激痛激痛激痛激痛刃物がむきだしの骨を撫でる激痛激痛激痛激痛痛い痛い痛い右手親指の爪が剝がされる激痛激痛激痛激痛爪の剝げた指が骨ごと潰される激痛激痛激痛死にたくない死にたくない激痛激痛右手人差し指の激痛激痛爪と肉の間に刃物がめり込む激痛激痛肉を切る激痛激痛激痛本当ごめんなさい激痛激痛激痛激痛激痛左上腕の骨が折られる激痛激痛痛い痛い関節を刃物が断つ激痛激痛激痛激痛関節が砕かれる激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛胸の肉を刃物が走る激痛激痛激痛激痛激痛激痛メリメリと皮が剝がされる激痛激痛激痛激痛激痛刃物に肉をえぐられる激痛激痛激痛激痛激激痛激痛激痛痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛。
私はその場に倒れ身を捩っている。
さっき落としたスタンガンが目の前に見える。
スタンガンの向こうには関節を失った真っ赤な男の死体。
その向こうには床に頰をつけて痙攣するひかりの姿。
ひかりを見下ろしている武藤ムツムの悪魔的笑顔。
こうして現実を知覚している間にも私への蹂躙は続く。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
激痛に身体を捩るがちっとも和らがない。
全身の骨を折られ、皮を剝がれ、肉を削がれ、私は死んだ。