ブレイク君コア

第二回

小泉陽一朗 Illustration/きぬてん

「最前線」のフィクションズ。めまぐるしいまでの“人格”の交代劇をかぎりなくポップかつスピード感あふれる文体で描ききった、血みどろにして爽やかなラブストーリーが、たった今はじまる!記念すべき第1回星海社FICTIONS新人賞受賞作。ここが青春の最前線。

【入山優太】

トラックに轢かれた飯田は錯乱さくらん状態だったのだろう。

何故か自転車に跨がって学校へと引き返し、そして倒れた。

あれだけ血を流していたんだ当然だ。

飯田が学校へ引き返した道はレッドカーペットを敷かれたように赤く染まっていた。

トラックの運転手が呼んだ救急車に乗せられて飯田は病院へと運ばれた。僕も付き添いで一緒に乗った。救急車の中で飯田は血の入ったパックに半透明のチューブで繫がれて輸血された。僕は救急隊員に指示されて飯田の携帯電話で飯田の両親を病院に呼んだ。

病院へ駆けつけた飯田の両親は混乱して、母親は泣きじゃくり、父親は母親をはげますことを忘れて煙草ばかり吸っていて、夫婦仲危ないんじゃない? って空気が流れていたけれど、飯田は救急車内の処置で命に別状があるラインはクリアしていて、病院に運ばれてからは簡単な処置と検査を受けるだけだった。検査の結果、脳にダメージはなく、左足をねんして肌に痛々しい傷を作っただけで済んだと分かった。傷跡は残るらしいがそんなもの命と比べたらどうってことない。

本当によかった。

しかし、病院に運ばれてからも飯田の意識は戻らなかった。

「自然治癒ちゆにはとても体力が要りますからね、心配でしょうが脳にダメージはありませんし、二日三日もしたら目覚めると思います」

医者はそう言っていたけれど、やはり自分の目で動く飯田を見るまでは、もしかしたら飯田はこのままという不安はぬぐえそうになかった。

飯田の両親もそうだ。しばらくして落ち着いた飯田の両親は互いのことを励まし、絶対大丈夫だいじょうぶ、入山君も心配しないでくれ、みたいなことを言ってくれたけど、そういう励ましの言葉って実は自分自身を励ますために言っているのであって、本当は両親二人とも不安で不安でしょうがないのだ。

僕のせいでこんなことに。

僕は罪悪感で押しつぶされそうだった。

病院に運ばれたその日、飯田は目を覚まさなかった。

飯田のトレードマークであるポニーテールは解かれ、白いシーツの上で時の止まった川のようにたたずんでいた。

飯田が気を失ってから二日目、僕は学校をサボって飯田の隣にいることにした。

飯田の両親は共働きで普段は帰りが遅いらしいのだが、今日は定時で仕事を終わらせてすぐに病院に飛んで来るらしい。

僕は飯田の隣で何をしていいか分からず、読書するのも音楽を聴くのも、そんなんだったら家にいろよって気がして、でもずっと飯田の安らかな顔を見ているのも辛くて、なんとなく千羽鶴せんばづるを折り始めた。

鶴を折っている間は無心でいられた。いや違う、無心じゃない。飯田が目を覚ますことだけを祈る気持ちでいられた。

人はすべのない現実に直面したとき、なにもできない時間、なにもできない自分、それらをいとって祈る。

祈ることはなにもしないことと同義だが、なにもしないことに『祈る』という名前を与えることにより、祈りの力を信じることにより、人は幾許いくばくかの心の平穏を得る。

『折る』と『祈る』の字は似ている。

色紙で鶴を折る細かい作業をしている間、人は鶴を折る作業のみに精神を集中させる。その精神を集中させた状態はただ純粋に何かを祈るときの理想の精神状態で、だから昔の人は鶴を折っている自分を祈っている自分と認識したがり、二つに似通った漢字を当てたのだろう。

折ることは祈ることなのだ。

祈りのベクトルは天に向かう。神は天から僕たちのことを見守っている、ということになっている。僕たちを見守る神に祈りを届けるため、人は『祈り』の偶像として、空の生き物である鳥、例えば『鶴』を選んだのだろう。

祈りを鶴の形で飛ばしたからか、ただの偶然か、ただの必然か、まる一日深い眠りについていた飯田は僕の前で目を覚ました。

千羽鶴はまだ完成していなかった。

「うああ、よく寝はあ!? ここどこだよ!」

鶴を折ることに没頭していた僕は飯田が目を覚ます瞬間を見逃した。飯田のそんなとぼけた台詞で飯田の覚醒かくせいに気付いた。

今まで手を繫いだこともなかったが、僕はとっさに飯田に抱きついた。涙で視界がぼやけた。

「うわちょ、なになに、まだこれ夢なのか!? っていうかお前誰だし! 顔近いっつーの!」

飯田は僕のことを強引に引きはがそうとしたが、左手はまだ痛むのか上手く動かず、右手を身体の間にねじ込んで僕を引っぺがした。

「ごめん、その、嬉しくて。このまま目ぇ覚まさなかったらどうしようと思ってたから。そうだ、ナースコールしなきゃ」

ベッドで仰向あおむけに寝る飯田の頭上に垂れる、看護師を呼ぶためのボタンに手をかける。飯田は右手で僕の手をなす。「いっつー」と顔を歪めながら上半身を起こす。

「待てって! この意味分かんねえ状況でこれ以上キャストが増えんのはマジ勘弁。ちょっと待て、色々思い出すから。っだあ! なんも分かんねえ! 現状と繫がんねえ! なにこれ記憶喪失!? っていうかここ現世!? お前説明できんのかよ!」

事故のショックで記憶が飛んでいるのだろうか。

背筋を冷やっこいお化けに撫でられたようにぞっとする。

僕のせいで。

なるべくできるだけ客観的に、それでいて飯田が僕のことを嫌いにならないように、飯田が病室のベッドの上で丸一日眠るに至った経緯を、あの帰り道のことを話した。

飯田は右手で額を押さえてうつむき、上半身だけ考える人のようなポーズを取る。

「お前煙草持ってるか?」

「いや、持ってない。吸わないし、ここ病室だし飯田煙草吸うの?」

鼻から深く息を吐いて飯田はうな垂れる。

「まずはそっからだよな。その飯田が誰だって話だよ」

「え、自分だよ。君、あなた。思い出せない?」

「思い出せないっつーか、俺は飯田じゃねーよ」

「いや、君は飯田だよ」

「だって俺はあれ? だよなあ? 俺飯田じゃないよな?」

「飯田だってば」

「だから俺はってもしかして本当に俺飯田? 飯田って奴じゃない別の自分の記憶があんだけど」

「どういうこと?」

「言葉の通り、額面通り、その飯田って奴じゃない自分の記憶があんだよ。全然現状と繫がんねーけど」

「それどんな記憶? 夢とかじゃなくて?」

「夢あーそっか、夢って可能性もあんのか。俺の記憶の前に、その飯田って奴のこと教えてくれよ。何か思い出すかもしれないし」

俺? 飯田の一人称が? 飯田は自分のことを私と言っていたはずだ。夢の中での人格を現実での人格と勘違いしてしまうなんてことがあるだろうか。

僕は僕と飯田の今までの関係を素直に、目の前の飯田に話そうとするが、待てよ、と思いとどまる。

「君飯田と僕は付き合ってるんだ。雨の日に高校の駐輪場で自転車をガンガンに踏みつける飯田に一目惚れして僕は告白した。飯田も僕のことが前から気になっていたらしくて告白を受けてくれて、晴れて二人は恋人同士。しかしさっき説明した事故で飯田は意識をなくしてしまって哀しみの二日間、って感じ」

僕は噓をついた。

飯田は自分の記憶を探っているのか、何か思う所があるのか、少しだけ唇をとがらせて物思いにふけるような表情をつくる。

「なんで俺は自転車なんか踏みつけてたんだよ。俺は物に当たる奴とか許せねえんだけど」

「イラついたから、とか言ってたけど」

飯田が握りこぶしを作って肩の高さで構える。

ん? と思っていると、飯田は自分の頰を殴った。

鈍い肉の音が鳴った。

「うわっ! なにやってんの!?」

飯田は頰よりも拳のほうが痛むのか、顔を歪めて手首をふんふんと振る。

「記憶にないとは言え自分のルールに反する行動とっちまった自分への戒め。他人はムカつくけど自分は許すっつーんじゃ筋が通んねえだろ」

「はあ」飯田ってこんな子だっけ? 記憶喪失の弊害で錯乱しているのだろうか。

「俺とお前、付き合ってどのくらい経つんだ?」

「まだひと月も経たない」

「お前名前なんだっけ? 彼氏の名前だ」

「入山優太」

「優太、お前ちょっとこっち来い」

飯田は包帯ほうたいで堅牢にラッピングされた両腕を僕へ向けて突き出す。

僕は飯田の腕と腕の間に身体を入れる。

飯田の顔が目の前にある。

人好きのする飯田の顔がある。

僕の大好きな飯田の顔がある。

飯田が僕の背中を両手で強くぎゅっと締め付ける。

とても自然な流れだった。

あまりの急展開に僕の心臓は倍速になっているだろうが、メタ視線を持った極めて冷静なもう一人の自分がどこかにいて、僕の口はそのもう一人の自分が選んだ言葉を発する。

「身体痛くない?」

飯田は僕の言葉を無視して唇を合わせてくる。

え?

飯田の舌が僕の唇を割って閉じた歯をノックする。

ちょ待ってなになになになに!?

僕は飯田の肩を両手で押して唇ごと身体を剝がす。

飯田はこの世のものとは思えない切ない顔で僕を見つめる。

「だめなのかよ

下ろされた黒髪も新鮮で僕は激しくえる。

縦のテトリスが静かにはまるような、そんな自然さで僕の理性は消失した。

今度は自分から唇を合わせる。

飯田の舌を受け入れる。

歯の表面、裏面、歯茎はぐき、舌、手前、奥、上下左右。

僕の口の中の全てを飯田が犯す。

思っていたよりずっと生き物らしい舌のざらざらした質感。

頭と精神が痺れる。

お互いの唾液だえきの温度。

全身が快楽に満たされる。

僕は痛いくらいに勃起ぼっきした。

唇と唇の間の唾液が立てるいやらしい音が病室内に響き渡る。

飯田が僕から唇を離す。

「んっはー、はあ、はあ息ができねー。やっべなんだこれ、すっげー気持ちよかった。もっかいしてもいいか?」

口の周りをべとべとに汚して、荒く息をしながら飯田が言う。僕も荒く息をしながら、「もちろん」と飯田の提案を受け入れる。

もしも看護師さんが部屋に入ってきたら、看護師さんならまだしも飯田の両親が入ってきたら、そんな不安がよぎらないこともないが、僕はそんな全ての不安から完璧に目を背ける。気付いていないふりをする。

飯田と唾液を交換することに専念する。

僕の口の中で、飯田の口の中で、互いの存在の境界線が溶けて、どこまでが自分でどこまでが飯田か分からなくなるようなキスをした。

初キスだった。

『初キス』という言葉が持つ初々ういういしくさわやかで清潔な響きとは真逆に位置するような生々しい接吻せっぷんだったが、それでも僕にとっては初キスだった。

僕の口の中で互いの舌をへびのように絡ませながら、飯田は僕の股間こかんに手を這わせる。

ズボンの上から僕の性器を強くなで回すように弄る。

僕は性器を痙攣けいれんさせる。

飯田の手は僕のズボンの中に入り、今度は下着の上から性器を握る。

僕は再び性器を痙攣させる。

飯田と舌を絡ませながら、自分のベルトをカチャカチャと外す。

飯田の手の動きが大きくなる。

飯田は僕の口の中からゆっくりと舌を抜き、「れたい」と艶っぽく囁く。

僕は飯田を押し倒し、今度は飯田の口の中に自分の舌をねじ込む。

パジャマみたいな入院服の下を脱がせ、飯田の下着の中に手を入れる。

とろとろに濡れている。

初めて触る感触だ。

何にも形容し難い固形と液体の中間のような、すべりの良い柔らかな感触。

最初は外気に触れる部分を撫でるようにして、人差し指を第二関節まで中に入れる。

飯田の背筋がる。

飯田の口から殺しきれない声が漏れる。

飯田も僕の下着の中に手を入れ、性器をじかに触る。

扉の方からアルミラックが派手に倒れるような衝撃音が聞こえ、僕は現実に帰る。

扉は閉じたままだが、磨りガラスの小窓の向こうに人影が去っていくのが見えた。

飯田は眉根を寄せて心底鬱陶しそうな顔で舌打ちする。

僕の手は未だに飯田の下着の中で、飯田の手も僕の性器に触れている。

飯田の性器が乾いているのが分かって下着から手を抜く。こんな一瞬で乾くものなんだ。

僕の性器もいつのまにかえている。

飯田も僕の下着から手を出してずり下ろした入院服を着直す。

唾液で汚れた口の周りを右腕に巻かれた包帯で拭いながら飯田が言う。

「なんか萎えちまったな」

「ね。でも人が来る前に終わってよかったよ。あのままだったらいつ終わればいいのか全然分からなかっただろうし」

「男だったら出すもん出したら終わんだろうが。もしかしてお前童貞どうていとか?」冗談を言った後のように飯田が笑う。

「そうだけど飯田は初めてじゃないの?」

飯田から女の表情が消える。

目をまるくして口を小さくぽっかり開ける。 

「待て待て待て、じゃあ俺とするのも初めてってことか?」

「そう、なるね。そして初キス」

「え、もしかして俺も初めてとか!?」

「いや、知らないけど」

「付き合ってんだからそういう話すんじゃねーのかよ!」

「そういえば経験ないって言ってたかも」僕はまた噓をついた。

「うっわまじか! どおりで意味分かんねえくらい気持ちいいと思った。え、ちょ、これはごめんでいいのか? 俺はてっきり。いや、言い訳はいらねえよな。その、マジでごめん」

飯田が勢い良く頭を下げる。飯田の頭頂部が僕の胸にどすんとぶつかる。

僕は飯田の側頭部を両手で摑んで持ち上げる。

「いいよ謝んなくて、その僕も気持ちよかったし」

それに僕は君に噓をついているし、噓をついた結果あんなことをしたのだから。

しかし、不思議と罪悪感はなかった。

飯田が今までの飯田とは別人のような喋り方をしているから、記憶も飛んでいるから、僕は今の飯田を今までの飯田とは別人のように捉えている所があって、だから飯田に噓をついているという感覚が薄いのだろうか。だから罪悪感がないのだろうか。

走るような足音が聞こえて廊下に面した扉に目を向けると、勢い良くスライド式の扉が開いた。扉の向こうにいるのは看護師さんだ。

先ほどのアルミラックが倒れるような衝撃音を聞いて駆けつけてきたらしい。僕たちに音の出所を訊いてくるが何も知らない。

それから看護師さんによって医者が呼ばれ、しばらくして飯田の両親が飛んできて、両親によって飯田は強く抱きしめられ、記憶がちょっとおかしいということを告げるタイミングを得られないまま、念のためにと精密検査を受けて、何も異常は見つからず、その日のうちに飯田は家に帰ることになった。

僕はその日、飯田の両親が飯田を連れて帰るまで病院にいた。

飯田とできるだけ長い時間一緒にいたかった。

三日月が照らす真っ暗な駐車場、ヴィッツに乗り込む前の飯田が小声で僕に耳打ちした。

「明日ひまか?」

「そろそろ学校行こうと思ってたけど、まあ暇っちゃ暇かな」

「まだ色々お前に聞きたいことがあんだよ。明日相談させてくんねーかな」

「分かった。じゃあ九時に鬼公園でいい?」

「鬼公園が分からねえよ」

「えーと、どう説明したらいいんだろう」

「じゃあ家帰ったら電話するわ」

「じゃあ電話番号交換しよう」

俺たち付き合ってるんじゃねえのかよ」

飯田は目を細めて訝しげな表情をつくる。

「でも電話番号は交換してなかったんだよ。ほら早く携帯出して」

赤外線で互いのアドレスと電話番号を交換する。

「飯田の両親のことだけどさ、記憶がおかしくなってること言わないほうがいいかも」これ以上ボロが出ると困るから。「心配するだろうし」

「それもそうだな。じゃあまた明日」

飯田を乗せたヴィッツが病院の門を越えて見えなくなるまで、僕は立ち尽くして見送った。

街灯のない暗闇を文字通り月明かりのみを頼りに自転車を漕ぐ。

田んぼに張られた水の匂いが心地よい。

飯田の記憶喪失はどこかおかしい。いや、記憶喪失ではないんだ。記憶喪失とは以前の記憶の一部、または全てが忘却されてしまうことだが、飯田の場合は忘却で空いたスペースに別の記憶が腰を据えているらしい。

あたかも今までの記憶だったように。

今までの人生だったように。

これはどういうことだろう。

飯田は眠りについている間、夢の中で現実の何倍速ものスピードで今までの人生をやり直していて、その夢のあまりの容量の大きさに本当の記憶の方を捨ててしまったのだろうか。もしもそうなら飯田の人格が今までと変わってしまったように思えるのも納得がいく。しかし、人の脳にそんなことが起こりえるだろうか。

いや、それよりも僕にとって重要な問題がある。

飯田は失った記憶を取り戻すべきか否か。

僕にはそれほど飯田との間に積み重ねた記憶というものがない。だからゼロから始めていくことになんの不満もない。少しズルをしてしまったことに気が引けなくもないが、大きな罪悪感もないのだ。

今までの飯田を求める理由がない。

そりゃ飯田の両親が飯田の記憶に起こったことを知れば大層哀しむだろうが、それは僕が今までの飯田を求める理由にならない。

でも待てよ。

僕が惚れたのは今までの飯田だ。どこか閉じているような、それでいて雨の日に自転車を踏みつけるような、そんなミステリアスで破天荒はてんこうな飯田に惚れたのだ。そして、そんな飯田のことをもっと知りたいと思っていたのだ。

飯田の記憶が戻らなければ、僕は僕が知りたかった飯田のことを知ることができない。となると、やっぱり僕は飯田に記憶を取り戻して欲しいと願うべきなのだろうか。

しかし、昨日までの飯田に対する好意と今の飯田に対する好意とでは、今の方が断然勝っている。言い換えるなら、記憶を失う前の飯田より記憶を失った飯田の方が僕は好きっぽいのだ。

新しい飯田が男勝りな性格をしていることにも起因しているだろうが、それよりも大きな原因を思いつく。

あんな卑猥ひわいなことをしたから。

セックスはしてないにせよ、身体が触れ合ったせいで心まで繫がったように錯覚してしまったのだろうか。その錯覚が新しい飯田への好意を助長しているのだろうか。

飯田は記憶を取り戻すべきか否か。

そんなのは僕が決めることではない。

飯田が決めるのだ。

もしくは神様。

飯田が記憶の奪回を望まなくても、神様の気まぐれで飯田の記憶は戻るかもしれないし戻らないかもしれない。

飯田が記憶を取り戻したいと願うなら僕に自分の意思がないうちは手伝えばいい。

飯田がこのままでいいと言うなら放っておけばいい。

僕は自転車を家まで走らせながら、そんな楽観的な結論を採用することに決めた。

家に帰って風呂に入ってすぐ、飯田から画像の添付されたメールが届いた。画像は飯田の顔写真。画面の中の飯田は口をあんぐり開けてカメラを指差している。本文はない。メールを受信してすぐに飯田から電話がかかってきた。

『今送った写メ見たか?』

「見たよ。どうしたの?」

『その顔って俺の顔か?』

「そうだね。飯田の顔だ」

『やっぱりか。いや、俺好みの顔だから別に問題はないんだけどな』

「もしかして夢の中での自分の顔と違ってたとか?」

『そう! そうなんだよ! 車の窓に映る自分の顔見てびっくりしてな。あれ? 俺こんな顔だったっけ、って。うっかり声あげそうになったぜ。俺が今まで自分の顔だと思ってた顔は、もっとこう、尖った雰囲気だったんだ』

「新幹線顔ってこと?」

ちげーよ! 雰囲気だ雰囲気! オーラって言うのかな。もっとギラギラしてたんだ。それがこの今の俺の顔、どちらかと言ったらいやし系だろう? キャラじゃねーよ』

「僕は飯田の顔もギラギラしてると思うけど。目の奥の奥の方で何か光っているみたいな、意思のある目だよ」

『あまり自分のこと言われてる実感はないけど、まあ、悪い気もしねー』

「両親には記憶のことバレてない?」

『無口ちゃんで通してるからな。小声でぼそっと「ちょっと疲れた」って言ったら、気ぃ遣ってあまり喋りかけてこない。まあ良心が痛むけど、ってこれ別に両親とかけてねえからな!』

「分かってるよ」

『さみぃ奴だと思われて舐められたら困っからよ』

「そんなんで舐めないって」

『人生はうか喰われるか、舐められたら人生終わんだよ』

「そんなんで終わるほど人生って薄っぺらくないと思うけど、まあいいや。そうだ一人称だけど、両親の前では『私』でいた方がいいと思うよ。僕も飯田が自分のこと『俺』って言ってるの聞いて実は超驚いたから」

『大丈夫、きちんと私ちゃんでいるよ。虫酸むしずが走るけどな』

それから明日の待ち合わせ場所である鬼公園の場所を説明して電話を切った。

鬼公園は赤馬高校から自転車で十分ほど走った場所にあり、放課後はカップルのたまり場になっている。鬼公園というのは正式名称じゃなくて、赤鬼の顔を模した大きな滑り台があることからついた俗称だ。

電話越しに話した印象では、飯田は今までの自分に戻りたいというわけではないようだ。夢の中での飯田はどんな人生を送っていたのだろう。もう戻りたくないと思ってしまうような、そんな人生だったのだろうか。明日それを聞けるだろうか。そして、今日の続きセックスをできるだろうか。

妄想の中で飯田と交わろうかと股間に手を伸ばしたが、やたら虚しく感じられて手を止めた。

あたかも学校へ向かうかのように制服に着替え、親には今日から学校へ行くと噓をついて家を出た。

鬼公園に着いたのは朝のホームルームの十分前、八時三十分だった。

公園の隅に設置された自販機でコーラを買い、これ尺谷飲めないんだよなあ、などとどうでもいいことを思いつつ、ベンチに座って飯田が来るのを待つ。

ベンチの背もたれ側には大きな木が生えていて、青々と茂る葉の集合が直射日光を妨げてくれる。木漏こもが気持ちいい。時間がゆっくりと流れているように感じられる。

飯田が現れたのは僕が鬼公園に着いてから二十分後だった。十分の遅刻だ。

公園の敷地内へフルスピードの自転車で入ってきた。

事故に遭って以降の飯田はポニーテールが好かないのか、しばるのが面倒くさいのか、手入れの行き届いた黒髪をそのままなびかせながら、僕の座るベンチに自転車を横付けする。

両腕に巻かれた包帯は汗でたゆっている。制服の生地きじが所々汗で濡れていて、青のブラジャーが透けて見える。あの雨の日を思い出す。

「大体、この辺りだって、いうのは、分かった、んだけど、道一本、間違えた、みたいで、無駄に、ぐるぐる、してたわ」

肩で息をしながらとぎれとぎれに飯田が言う。僕を待たせては悪いと思ったのか、そもそも遅刻するのが嫌いなのか、とにかく急いで来たのだろう。

「電話くれれば良かったのに」

「遅刻して、マジで、ごめん」

飯田が肩の高さで拳を構える。

「もうそれはいいって! 見ててこっちまで痛いし、自分の身体大事にしなよ」

「いや、でも、自分で、決めた、ルール、だから」

僕は拳を作って飯田の頰にペチッとあてる。

「はい、じゃあもうこれでオッケー」

変な間を置いてから飯田は折れてくれた。

まあ、今回だけな」

「これ飲む?」

先ほど買ったコーラを差し出す。

「わりーな」

飯田はコーラを受け取り、自転車から降りて僕の隣に腰掛け、喉を鳴らしてそれを飲んだ。

「色々話したいこと、相談したいことは、あんだけど、汗引くまで、ちょっと、待ってな」

飯田は背もたれに寄りかかって天を仰ぎ、目をつむって顔に木漏れ日の模様を作りながら細く息をする。

まるで映画のワンカットのようだ。

こんな美少女が隣にいることを光栄に思う。

ほのかに赤く染まった頰に伝う汗を舐めたいと思う。

自分の変態的嗜好しこうに驚くとともに、昨日この美少女としたそれこそ変態的行為を想起したが、首を振って遠心力で振り切る。

飯田が猫みたいに背筋を伸ばす。

「おっしゃ! 俺復活! 負ける気がしねえ!」

「誰にだよ」

「昨日の自分に。ちょっとこれカッコイイだろ?」

「自分で言うのは格好かっこう悪いよ」

「いいんだよ、俺の格好良さ貯金はいつでも満額だから」

「また自分で言ってるし、意味分かんないよ」

飯田は愉快そうに破顔一笑して、もう一口飲んでからコーラを僕に返した。

「よし! じゃあ本題だ。お願いしますよ優太君」

「よろしくお願いします飯田さん」

「俺は今までの飯田いくみとしての記憶がなくて、その代わりに別の自分の記憶がある。その記憶は夢の中の記憶かもって昨日の俺は考えていたけど、もしかしたら夢じゃなくて現実の記憶かもしれない」

「どういうこと?」

「おれがあいつであいつがおれで、だっけ? そんなタイトルの小説だかドラマがあるだろ。それみたいに飯田いくみの人格、記憶、たましいと、俺のそれが身体だけそのままで入れ替わったのかもしれない」

そんな馬鹿なと隣を見やるが飯田は真顔だった。

「そんな可能性考えもしなかった。っていうかそれって可能性として成立するかな? あり得なくない?」

「俺もそう思うけど、俺の中の今までの記憶があまりにもリアルでさ。どうにも全部夢でした、では納得できないんだわな。いや、でも昨日、夢の説を裏付けるようなこともあったんだ」

「どんな?」

「飯田いくみの部屋にある小説やCDを見て驚いたんだ。趣味が俺と驚くぐらい似通ってた。俺の記憶の中の本棚やCDラックと見間違えるくらい、俺の知らない今までの飯田いくみと、今までの俺の趣味しゅみ嗜好がぴったり合致してるんだ。これはなかなかどうしてだろ?」

「だったらやっぱり僕は夢でした説が濃厚だと思うけど」

「もしも、この飯田いくみの身体とは別に俺の肉体がどこかに存在していて、その中に飯田いくみの魂が入っているとするだろ? そしたら俺たちは元に戻れんのかな」

「どうだろ。僕は今まで夢の記憶とごっちゃになってるんだと思ってたから、正直さっぱり」

「でもお前からしたら戻ってもらわないと困んだろ」

そう言った飯田の声は今までより少しだけ攻撃的で、怒気をはらんでいるように聞こえた。

「だってお前が好きなのはこの俺の魂じゃなくて、俺とは別の飯田いくみの魂ってことになんだろ。もし本当に魂の入れ替わりが起こってるなら、これは俺と飯田いくみだけの問題じゃなくてお前の問題でもあんだよ」

言ってることは分かるけど、僕は魂の入れ替わりなんてあり得ないと思うし、さっきから飯田はまるで本当に魂の入れ替わりが起こったみたいな話し方をしてるけど、ただの夢の記憶かもしれないだろ」

「だから今から確かめに行くんだよ」

「確かめるってどこに」

「決まってんだろ。夢の中へだ」

まるでコンビニにでも行くかのように、気楽な調子で飯田は言った。

正直意味が分からなかった。

もしも飯田が言う魂の入れ替わりが本当に起こっているのだとしたら、果たして僕は元の飯田の魂に帰ってきて欲しいだろうか。

自分の胸の内を探ってみるが、そんな感情は見当たらない。むしろ帰ってきて欲しくないかもしれない。

僕は昨日飯田と卑猥な行為をした。その相手が今までの飯田じゃなかったとしても僕はそこまでショックじゃない。今までの飯田のことは大好きだったけど、どこが好きだったかと訊かれると言葉に詰まる。僕の今までの飯田に対する好意なんて、あの雨の日の非現実的な光景が見せた錯覚だったのだろうか。自転車を踏みつける飯田が美しすぎて、美しいものを見た後の感動を、僕は『好き』と勘違いしたのだろうか。

僕は飯田と知り合ってまだ日が浅くて、飯田が自分のことをあまり語りたがらない性格だったこともあって、僕は飯田の内面を殆ど知らない。それで何故、僕は好きという感情に確証を持てていたのだろう。はなはだ疑問だ。

それこそ魂って奴だろうか。外見や内面とは別に人間にはオーラみたいなものがあって、僕は飯田のそれを好きになったのだろうか。そんなわけないと思うけど、そうであって欲しいとも思う。

僕たちは鬼公園を出て赤馬駅へ向かい、八田はたまち駅までの往復切符を買い、計ったようなタイミングでホームに入ってきた鈍行どんこう電車に乗った。

電車の中はいていて、殆ど、というか完全に貸し切り状態だ。

飯田の言う『夢の中』とはどうやら八田ノ町のことらしい。

「なんで八田ノ町が夢の中なわけ?」

「目を覚ます前の記憶ん中で、俺は八田ノ町に住んでたんだ。多分だけどな」

「そのときの記憶ってどんなだった?」

「んー」飯田が言いよどむ。「あんま幸せじゃなかったかもな」

飯田はそう言ったきり言葉を継ごうとしなかった。僕も無理矢理聞きたくはないので深追いしないことにした。

八田ノ町は赤馬から電車で三十分ほどの距離にある。赤馬より県庁所在地に近いこともあり、駅周辺はそれなりに栄えている。と言っても、東京から小さじ一杯文明をすくって殆どこぼしてしまったようなレベルだが、それでも赤馬よりは断然文化レベルが高い。カラオケもボウリングもある。自嘲じちょう

八田ノ町駅で電車を降りると、飯田は迷いの窺えない足取りで歩き始め、五分もしないうちにバス停の前で立ち止まった。僕もそれに続いた。色あせた水色のベンチに二人ならんで腰掛ける。

「バス乗るの?」

「ああ」

「行き先は?」

「行ってみたら分かるって。いいとこだ」

バスはすぐに来た。バスの中にはおばあさんが二人いるだけで、これまた殆ど貸し切り状態。

知らない町並みをバスが走る。

「次はホワイトキャッスル前。ネオンショッピングモールへお越しのお客様はこちらでお降り下さい」

運転手のアナウンス。飯田が降車ボタンを押す。降車ボタンが光り、「次、停まります」と今度は機械的な女性アナウンス。

運賃を支払ってバスを降りる。

バス停のすぐ後ろに白いお城が見える。

大きな看板にピンク色の電飾で『ホワイトキャッスル』の文字が躍っている。看板の下には料金表。

『御休息 三千八百円

御宿泊 五千八百円』

どこからどうみてもラブホテルだ。

「ここに住んでたの?」

「んなわけねえだろ。昨日の続きしようぜ」

飯田がいたずらっぽく笑う。

飯田の真意をみ取ろうといたずらな笑みを直視するが、冗談で終わらせるような雰囲気ではない。ふざけているわけではないようだ。

飯田が記憶の中で暮らしていた住居の存在を確認しに来たんじゃないのか。そんなのはただの方便で、赤馬にはラブホテルなんかないから八田ノ町へわざわざ一発ハメに来たのだろうか。いや、赤馬にラブホはないけれど、ただやるだけなら両親が共働きの飯田の家でいいじゃないか。飯田の部屋でやるのは何か思う所があって気がとがめるのだろうか。っていうか八田ノ町に来た理由なんて今はどうでもよくて、僕の目の前にある問題は飯田とやるかどうかだ。

いや! こんなの問題でもなんでもない! やるに決まってんだろ! やるに決まっているよ! やりたいと思ってたんだ! でもだがしかし、僕たちはそろいも揃って制服姿で、ザ・未成年って感じでってそんなことは本当にどうでもよくて、僕はさっき考えていたことを思い出す。

僕は飯田の外見が好きなだけなんじゃないのか。

身体が好きなだけなんじゃないのか。

顔が好きなだけなんじゃないのか。

飯田が僕の額をペシッと叩く。

「なに怖い顔してんだ、冗談だっつーの。本当はあっちだ」

飯田は道路を挟んでラブホテルの反対側を指差す。

飯田の指の先にあるのはネオンショッピングモールだ。

言葉が出ない。

ラブホテルに入るかどうかの葛藤を引きずっているのもあるし、ショッピングモールに住んでたわけないよね、なにしに八田ノ町まで来たの? 話が違うよ、と混乱しているからだ。

「ほれいくぞ」

飯田は包帯を巻いた手で僕の手を引っ張り、ネオンショッピングモールへと歩き出す。

信号を二つ渡って真っ直ぐな道を歩くと、ネオンショッピングモールはどんどん大きくなる。

僕は頭の中で自分の混乱を整理整頓して言語化し、やっと言葉を発する。

「何しに行くの?」

「思い出づくり」

はい?」

「言葉の通り思い出づくりだよ」

「記憶の中の家は?」

「この後行くってば」

少しふてくされたように飯田が言う。

飯田の可愛さに負けて素直にネオンショッピングモールへと向かう。

ネオンショッピングモールへ行くのは二度目だ。去年ネオンショッピングモールが開業した直後、どんなもんか見てみようと理数科の友達=尺谷と冷やかしにきた。ショッピングモールとは言っても名ばかりで、映画館も本屋も入っておらず、スーパーと雑貨屋と服屋とレストランの集合体みたいな場所だ。尺谷が「パルコみてー」と言ったのを覚えている。僕はパルコなんて行ったことないし知らないけど、それでもなんとなく、パルコに失礼なんじゃないかと思った。

ネオンショッピングモールの駐車場は平日の昼間ということもあるだろうが、二割も埋まっていなかった。そろそろ潰れるって噂だ。

飯田は確固とした意思を持っているような足取りで四階のとある服屋へ入った。

店内は狭いが商品と商品の間には十分な間隔が取られており、服の一枚一枚がまるで宝石のように陳列されている。

飯田はこの店に入るために八田ノ町まで来たのだろうか。まるで記憶の家の確認なんておまけで、こちらが本命であるかのように、飯田は目を輝かせて商品を見て回る。

意外だ。

事故に遭う前の飯田も、事故に遭ってからの飯田も、こういうお洒落しゃれとか流行みたいなものとは遠い位置にいる人間だと思っていた。そういう印象を受けていたことに今気付いた。まあ、女の子だもんね。いいんじゃん? 飯田の意外な一面を見れたことが嬉しい。

飯田は踊るように一通り商品を見てから、一枚のワンピースの前で立ち止まった。

形のきれいな、服単体で完成しているようなワンピース。色は黒で、蝶を模したボタンが胸元に三つ並んでいる。

飯田はそのワンピースを手に取り、様々な角度から眺めたり、ボタンの細部を鑑定するように目を細める。

店の入り口で傍観を決め込んでいた僕だったが、放っておくといつまでも終わらなそうなので飯田の元へ歩み寄る。

「それ欲しいの?」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけどな。なんか、こう、職人技だなーと思ったんですよ、あはは。結構可愛いよな? これ」

照れ隠しだろうか。照れる意味が分からない。

普段の自分のキャラクターから逸れる行動をとっていることに自覚的なのだろうか。自覚的でもなお、照れ隠しするほどの羞恥心を感じてもなお、このワンピースに心惹かれているのだろうか。

レジの奥の椅子に腰掛けて、平日の真昼間に堂々と制服姿の僕たちを咎めるように見ていた店員のお姉さんが、「着てみますー?」と飯田に声をかける。

「あ、はい、や、どうしようかな、あはは、なあ優太」

「着てみればいいじゃん」

「ですよー。着るだけならタダだし」

僕とお姉さんに促されて飯田が試着室に入る。

店内にはお姉さんと僕だけ。二人きり。

気まずい。

手持ち無沙汰ぶさたで目の前にあったTシャツを手に取る。何の気なしに値段の書かれたタグを見て驚いた。僕の二ヶ月分の小遣いでもちょっと手の届かない値段だ。Tシャツでこれなんだからワンピースなんてとんでもないだろう。

「彼女?」

レジカウンターにひじを置いて、頰杖をつきながら店員のお姉さんが話しかけてくる。

「そうですね。彼女です」

自分に言い聞かせるよう応える。

「あの子肌白いし、あのワンピースの黒にえると思うなー。絶対似合うよ」

「そうっすかねー」

「買ってあげるの?」

え? と疑問詞を発しそうになり、僕は口を塞ぐ。そっか。僕は飯田の彼氏だから彼女に何か買ってあげるのは全然不思議なことじゃないんだ。むしろそっちの方が自然なんだ。

財布の中身を思い出す。手持ちはさっきのTシャツがギリギリ買えるくらいしかないぞ。

僕は適当に笑ってごまかす。

お姉さんは僕との会話を切り上げ、試着室の中の飯田に声をかける。

「どんな感じですかー?」

「えーどうなんだろう

「開けて見てみてもいい?」

はい」

お姉さんが扉を開ける。

ワンピースを着た飯田を見て僕は息を吞む。

お姉さんの言った通り、肌の色素の薄い飯田に黒のワンピースはこれでもかってほど映えた。下ろした長髪もまるでこのワンピースを着るために伸ばしていたかのように調和している。ワンピースの魅力、飯田の魅力、互いが互いの魅力を相乗効果で押し上げている。まるで飯田とワンピースで純正品のワンセットかのように、ワンピースを着た飯田は完成していた。

「うわっ! 想像以上に可愛いよ!」

お姉さんが大きな声をあげる。

「そう、ですかねぇ

飯田は照れくさそうにして、感想を求めるように僕を見る。

「似合ってるよ。正直びっくりしてる」

「そっ、そうか」

飯田は口をあわあわさせて、僕から視線を逸らして目を泳がせる。

「ちょっと写真撮っていいかな。ブログに載せたいんだけど」

お姉さんのお願いに対して、飯田はもじもじしながら、「私なんかでよければ」とここに来るまでは想像もつかなかった謙虚さを見せる。一人称も『俺』から『私』に変わっている。まるで事故に遭う前の飯田みたいだ。

レジの下からデジカメを取り出してお姉さんが写真を撮る。

飯田は照れているのか顔を少しだけ赤らめて俯く。

「ほれほれもう一枚。彼氏くんも並んで」

お姉さんの勢いに押され、僕も飯田の隣に立って一緒に写真を撮られる。

撮り終わった写真を液晶画面で確認し、お姉さんはうんうんと満足気にうなずく。

「これこういう商法っていうわけじゃないからね? ブログもこの店のじゃなくて個人ブログだから。私可愛い子を撮るの好きなんだ」

お姉さんが白い歯を見せて笑う。

「「はあ」」

ハイテンションにあっけにとられる僕たちを無視してお姉さんは店の外に顔を出し、何やら確認するように通路を見てから声のトーンを落とす。

「これ本当は駄目なんだけど、いいもん撮らせてもらったし、特別に社割使っていいよ。私が買ったことにしてあげる」

社割でどのくらい安くなるのかたずねると、ワンピースの元の値段から五割引で、計算するとTシャツよりも少し安いくらいになった。

飯田は「いいって自分で買うから」と言ったけど、何故かお姉さんが「遠慮するなって」と言うので結局僕が払った。

財布には大打撃だったけど、なんだか僕は誇らしい気持ちになった。

ネオンショッピングモールを出て、再び八田ノ町駅へと向かうためにバスに乗った。

「いやー本当悪いね優太君。でもあんな似合ってる似合ってる言われたら、なあ? 買わない道理がないっすよ。でへへ。この借りはゼッテー返すから。とりあえず昼飯代は俺が出させてもらうわ」

ワンピースを買った店を出てから飯田はほくほく顔で、テンションも行きに比べたら段違いに上がっていた。僕はうっぜーなこいつみたいな態度を取りつつも、内心飯田が喜んでくれたことに悪い気はしてなくて、むしろご満悦で、何故か達成感に似た感情で満たされていた。

「お姉さんはああ言ってたけど、本当は毎回ああやって値引きしてんじゃないか? だったらお得感覚えてる俺たち超だっせーよな」

「そんなことないでしょ。お姉さんの言う通り、飯田あのワンピース異常なまでに似合ってたし、特別だよきっと」

「やっぱあ? だよなあ? 実は俺もそう思うんですよ、にゅふふ」

八田ノ町駅前のバス停で降りて、今度はネオンショッピングモールとラブホテルからは反対方向へ歩く。

そうだラブホテル。

あのとき、ラブホテルの前での飯田は冗談に見えなかった。もしかしたら本当に僕と一発やるためにあのバス停で降りたのかもしれない。いや、でもワンピースを買った店へ向かう飯田の足取りにも迷いはなかったから

どちらが本当の目的だったんだろう。どちらかじゃなくて両方かもしれない。自分からラブホテルに誘うのはさすがの飯田でも恥ずかしくて、恥ずかしすぎて冗談にしてしまったのかもしれない。まあ、どちらでもいい。そのうちまた飯田とは交わることになるだろう。そんな気がする。

そうだ!

気付いた。

僕はずっとこのままの飯田でいて欲しいんだ。

事故に遭う前の飯田じゃなくて、事故に遭って寝込んで目を覚ましてからの飯田。その飯田と僕はこれからも一緒にいたいのだ。だから『また交わることになるだろう』なんて思ったのだ。

もし本当に『今の飯田』と『今までの飯田』が別人で、『今までの飯田』なんてのが別個に存在するならば、もう僕は『今までの飯田』を好きではない。

だって僕は『今の飯田』が好きなのだ。

『そりゃないよ入山。余りにも人でなしが過ぎるって』

でも自分の気持ちに噓はつけないっていうか、つきたくないんだよ。

『罪悪感とかないわけ? たまにお前のこと怖くなるよ』

そりゃ『今までの飯田』なんてのが存在するんなら、『今までの飯田』には申し訳ないと思うし、自分でも死んだほうがいいと思うけど、僕のこの気持ちは本物だから。『今の飯田』への気持ちは本物だから。

『「今までの飯田」に対する気持ちは音速でリセットかよ。恋愛中毒のくそと変わんねえじゃん』

じゃあ僕は恋愛中毒の糞でいいよ。

『はーん。その気持ちもいつまでもつか見物だな』

捨て台詞を吐いてメタ僕は消えた。

『今の飯田』への気持ちに気づいた自分、そんな自分を咎めたい自分、相反する自分の心がウザったい。

でも僕の気持ちはクリアだ。

僕は『今の飯田』が好きだ。

そんな気持ちを抱いている自分を咎めたいってことは、自分の気持ちが反社会的であることを認め罪悪感を覚えているということだが、僕はそんな罪悪感を覚えてもなお、『今の飯田』への気持ちを放棄する気はない。

今から向かう飯田の家なんかなければいい。夢だったらいい。だったら意味分かんない入れ替わり論も否定される。『今までの飯田』も『今の飯田』もなくなる。

でも存在するかどうか分からない自分の家へ向かう飯田は、表情こそ曇ってきたものの歩調は知っている道を歩くときのそれで、やっぱり夢じゃないんだってことを僕に告げるようだ。

飯田の口数が少なくなる。

駅周辺の栄えた一角を抜けて、こぢんまりとした家が並ぶ住宅街を歩く。

「やっぱり俺の記憶、現実だ」

震える声に僕は言葉を返せない。

見覚えがある。確かな記憶があるんだ」

狭いT字路の前で飯田は立ち止まる。

ここを曲がったとこに、俺の家がある」

そっか」          

怖いんだけど」

うん」

手ぇ」

なに?」

こういうときって握んじゃねーの

おびえからか羞恥からか、しぼり出すような声だった。

気のかない自分を咎めながら飯田の手を握る。

飯田の手は冷たくて、手を伝わって身体が震えているのが分かる。

ここまで歩いてくる道中で飯田の記憶が現実であることが真実味を帯びてしまった。

僕は絶望している。

飯田の絶望が僕にも伝染してしまったのかもしれない。

飯田は今日ずっと絶望していたのかもしれない。

ラブホテルの前で飯田が言った『思い出づくり』という言葉は額面通り掛け値なしに言葉通りの意味だったのかもしれない。これから終わるであろう僕との関係に最後の彩りを添えようとしたのかもしれない。

僕は自分の絶望を、飯田の絶望を振り払うため、少しでもやわらげるため、現実と未来から目を逸らして口からでまかせを言う。

「僕も実際飯田の家がこの先にある気がしてきたけどさ、それが何だって言うの? だからって何が変わるわけじゃないよ。飯田の家がありました、はい確認終了。それでいいじゃん。もしも本当に今までの飯田と今の飯田が別人で、魂の入れ替わりが起こっていたとしてもしょうがないよ。どうしようもないよ。戻る方法なんて分からないし。感受性豊かなのは素敵すてきだけど、気に病んでもしょうがないこと気に病んでも、それは自分のことを自分で戒めて許してもらおうとしてるだけだよ。罪なんてないのにさ。だから飯田はもしこの先に記憶の家があったとしても、このままの飯田として生活すればいいよ」

うん、ありがとうな」

そう言った飯田の声に温度はなかった。

ただの平仮名ひらがなの羅列、音の連続、そんなありがとうだった。

僕の手から飯田の手がはらりと離れる。

冷たいながらも飯田の手に体温が宿っていたことに気付く。

不安を抱かせる足取りで飯田が歩き始める。

T字路を右に曲がり、僕の視界から消える。

僕は思い出したように飯田の後を追う。

T字路を曲がってすぐの、一軒の家と飯田は向き合っていた。

これが飯田の本当の家なんだろうか。

くすんだ藍色あいいろの屋根。経年劣化により塗装が剝げたクリーム色の外壁。おまけみたいに狭い庭。伸びっぱなしの雑草。ちゃ色の玄関扉の脇に表札。

『武藤』

これが飯田の本当の名字なのだろうか。

飯田が家に背を向けて歩き出す。

後を追う。

僕が飯田の隣へ位置すると、濡れた犬みたいにぶるぶると顔を振ってから、飯田は笑った。

怒りを隠すためでも、哀しみをごまかすためでもなく、喜びや楽しみを表すための、幸福を伝えるための、笑うために笑う純粋な意味での笑顔。

そのままの笑顔で飯田は言う。

「事実は小説よりも奇なりってな」

なんでそんな真っ直ぐ笑うんだろう。

なんでそんな真っ直ぐ笑えるんだろう。

引きつった笑みのほうが対応しやすい。

泣いてくれたほうが文脈が分かる。

純粋な笑顔を浮かべる一刹那ひとせつな前、確かに飯田の目は泣いていた。

哀しみの色を浮かべていた。

睫毛に涙を溜めていた。

別に僕は泣いてもいいと思うよ」

「俺が泣くわけねえだろ。泣く理由がねえよ」

あーもう反則だろ、そういう強さ。

涙は女の武器だなんて言うけれど、あれは噓だ。

泣かない強さがなにより愛おしい。

同時に飯田の強さが哀しくて、むしろこっちが泣き出しそうになってしまう。飯田の真似まねをして顔をぶるぶると振って、僕も哀しみを飛ばす。

できる限り平素に近い口調で、「家、やっぱあったんだ」と返す。

「あったよ。ありやがった。ちょっと今後のことについて考えたいから、なんかゆっくり食べながら話そうぜ。次は俺がおごっからさ。なんでも奢ってやんよ」

飯田は今までで一番いい笑顔を作る。

偽物だけど、今までで一番いい笑顔。

触れれば雪のように失くなりそうな、今までで一番いい笑顔。

飯田が僕にこう振る舞うってことは、湿っぽい空気を望んでいるわけではないのだろう。

僕も極力平常心で飯田との会話に臨むことを決める。

「あれが本当の家だってことは、飯田じゃなくて武藤って呼んだ方がいいのかな」

「そうだな。可愛らしくむとむとって呼んでくれていいぜ」

「むとむとー」

「それやっぱやめ。むずがゆいわ」

「むっとむと~♡」

「やめろっつってんだろ!」

飯田じゃなくて武藤が、僕の背中を手加減てかげんの窺えない力で叩く。僕を叩く武藤の顔は、やっぱり笑顔だった。

駅近くの喫茶店に入る。

喫茶店といってもスタバとかドトールとかそういうお洒落なのじゃなくて(スタバやドトールをお洒落だと思う感覚が恥ずかしいかどうかも分からない。そんなとこ入ったことないから)カレーライスや冷やし中華がメニューにでかでかと載っているような、半分定食屋みたいな喫茶店。

昼時ということもあって店内には僕らの他にサラリーマンが五人いて、それぞれ昼食をとっている。

小柄なおばちゃんがお冷やとメニューを運んでくる。平日の昼間から制服姿の僕たちを一瞬だけ目を細めて見るが、「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」とすぐに営業スマイルに切り替える。おばちゃんは注文を取り終えると天井の角に取り付けられたテレビがよく見える空席にどっかりと座った。

テレビはお昼のワイドショーを映している。

僕は日替わり定食のコーヒーセットを、飯田じゃなくて武藤は、オムライスのコーヒーセットを注文した。

入れ替わる以前の武藤の家は現実に存在していた。

魂の入れ替わりなんて素直に信じる奴の頭は客観的に見て確実におかしいけれど、あれだけの証拠を直に見て、それでも否定し続けるなんてのも馬鹿の極みだ。

だから僕は入れ替わりを信じたことにする。

お冷やを飲みながら武藤が言う。

「ぐうわあ、煙草吸いて~」

真っ直ぐな笑みを浮かべてから、武藤は一片たりとも弱気な面を見せない。僕も武藤の強がりに合わせてテンションを保つ。

「武藤今制服だし未成年だし、武藤って結構不良だったの?」

「んなことねーよ、クソまじめだった。兄貴が吸ってたからな」

「まじめな人はクソとか言わないよ」

「っるせーよ! 俺は言うんだよ」

「てかお兄ちゃんいるんだ?」

「まあな。んなことより本題はどこぞの飯田さんの魂のことだ」

「そうだね」

「俺な、現実に俺の家があったらこうするって決めてたんだけど、俺の身体に入った飯田いくみを捜すよ」

「会ってどうなるってもんでもないだろ。元に戻る方法が分からないんだから」

「元に戻れなくても、このままじゃ飯田いくみが可哀想かわいそうだろ。なにより筋が通らねえ。俺は別にこのままでも構わないっていうか、できることならこのままでいたいけど、飯田いくみもそう思っているとは限らないだろ。元に戻れなくても、身体だけ交換したまま元の生活に戻るとか、やりようはあるし」

「そうだけど

「なんだお前、元に戻って欲しくないのか? 恋人だぞ」

「僕の恋人は武藤がいいよ」

はい?」

水の入ったグラスから武藤が手を離す。グラスは上手いことテーブルに着地して水はこぼれない。ぐわんぐわんと円を描いてから静止する。こんなことってあるんだ。

「おおっ、すっげえ! じゃなくてっ! お前が好きなのは俺じゃなくて飯田いくみなんだろ?」

「僕は武藤の方が好きだよ」

不思議と照れずに、まるで当たり障りのない天気の話をするように、僕はこんなことを言った。

武藤は眉根を寄せて今にも嚙み付いてきそうな表情をつくる。

「ああん!? お前は俺と入れ替わる前の飯田いくみが好きで付き合ってたんだろうが! 俺といたのなんて昨日と今日だけじゃねーか! 俺のことを好きになる道理がねえよ!」

「だから恋に時間は関係ないんだなーと思っているのです」

武藤についた、飯田と僕が付き合っているという噓についてはスルーする。今言うと余計ややこしいことになる。

「そういうの男らしくねえよ

「武藤は僕のこと、どう思ってるんだよ」

武藤は口をぱくぱくさせて、まるで餌を食べる鯉のようだ。

「僕のこと好いてるんだろ?」

「だっ、それはお前、俺は俺のこと飯田いくみかもと思ってて、俺がお前を好きなのは前提みたいになってて、なんか好きなのが自然な状態だと思ってたから好きってことをうたがったりはしないこともなかったけど、なんだ、その急に言われてもよく分からねーよ!」

それもそうだ。

「それに、お前は本当に俺のことが好きなのか? お前が好きなのは飯田いくみの身体とセットの俺なんだろ? だったらもしも俺が元の身体に戻ったら、お前の気持ちがどうなるかなんて分かんねえだろ」

「でも多分元には戻れないだろ」

「そういうこと言ってんじゃねーんだよ! 気持ちの話をしてるんだ気持ちの!」

「僕が好きなのは武藤の魂、人格、そのものなのかってこと?」

「そうだ」

「そんなの分からないよ」

「だああ!」武藤は頭をかくみたいに髪の毛をくしゃくしゃにする。「この話おわりっ!」

さっきから非現実的な会話を交わす僕たちをサラリーマンが露骨に見ているけれど、僕も武藤も気にしない。

おばちゃんは僕たちに構うことなくワイドショーに釘付くぎづけだ。

何で僕は武藤にこんな強気な態度を取ったんだろう。武藤が僕のことを好いてくれていて当たり前みたいな態度。今までそんな風に思ったことは一度もなかったのに。

武藤が飯田じゃないと分かって、魂と身体がちぐはぐな目の前の女の子が急に不安定な存在に感じられて、言葉は悪いけど、きちんと純正の人間の僕より武藤が格下の存在に思えて、それで無意識に強い態度を取ってしまったのだろうか。だとしたら最低だ。人間として下なのは誰がどう見ても百パーセント僕だ。身体が同じだとはいえ簡単に想い人をくら替えして、自分の好きな女の子を自分より下だとか思って、マジで救えないゴミ=入山優太=僕。生まれ変わったら僕以外の人間になりたい。割と切実に。

奥の厨房から気の抜ける「できたよー」という声が聞こえて、それを受けておばちゃんは厨房に消え、すぐに料理を運んできた。

僕は武藤の顔を見て手を合わせる。

「どうも、いただきます」

「こんなんじゃ全然借り返せねーけどな。次会うときにでもちゃんとケリつけるわ」

「いいよ別に」

「全然よくねえよ、俺の気が済まねえ。これも出すし、残りも倍で返す」

「じゃあ期待して待ってる」

ワンピースの代わりにこれは武藤のおごりだ。あ、でも武藤のお金じゃなくて飯田のお金なのか。武藤も似たようなことを考えていたようで、こんなことを言う。

「ワンピース、お前に買ってもらっただろ? これって誰のものになんのかな」

「僕が武藤に買ったんだから、武藤のものだろ」

「ワンピースが似合ってたのは誰だ? 飯田いくみだろ? だったらこれは飯田いくみが持ってた方がいいんじゃないか?」

武藤が視線を下げる。

テーブルの下に置いたワンピースの袋を見ているのだろう。

つまらなそうな顔に影が差す。

「さっきから武藤間違えてるよ。雰囲気で喋ってる。このワンピースが似合ってたのは『飯田の身体』だ。『飯田の魂』じゃない。僕がこのワンピースを買ったとき、『飯田の身体』の中に入っていたのは武藤で、それはつまりあのときの『飯田の身体』の所有権は武藤にあったってことだ。だからそのワンピースは武藤のものでいいんだよ。僕はそのワンピースを買って武藤が喜んでくれて嬉しかったんだから」

一拍いっぱく、きょとんとした顔で武藤が間を置く。

俺頭ゆるいから優太の言ってること半分も分かんなかったけど、優太が俺に買ってくれたって言うんなら、これは俺のものでいいんだな。じゃあ、ありがたく受け取っとく」

そう言って柔らかに笑う。

その笑みは何よりも本物で、僕は少し照れる。

僕らの間の空気が少しだけ、強がりじゃなくて本当の意味でポジティブなものに変わったのを感じた。

「そんでこれからのことだけど、飯田いくみに会う前に、魂と身体をひっぺがして入れ替える方法、元に戻る方法を調べようと思う。なにも解決策が見つからないまま飯田いくみに会っても混乱させるだけだろうし、やっぱり俺はもうちょっとだけこのままの生活を送りたいんだ。飯田いくみには悪いけど、少しだけわがまま。な?」

「うん、それでいいと思う」

こくんとオムライスを飲み込んで、武藤が僕の目を真っ直ぐ見る。何故か、武藤の目には弱気な色が浮かんでいる。

また一緒に買い物したり、どっか遊びに行ったりしてくれるか?」

口ぶりもどこか懇願こんがんするようだった。

「そんなことわざわざ言わなくても当然行くつもりだったよ」

「そうか、俺こういうの初めてだったからさ」

照れくさそうに頭をかいて武藤がはにかむ。

なんだか胸の内が痒くなる。内側からむしりたくなる。

互いに半分ほど残った料理を胃袋へと片付けながら、飯田のことは忘れた振りをして、これから武藤が飯田として学校に通う際、気をつけるべきことなどについて話した。

二人とも料理を平らげて食後のコーヒーを待つが、おばちゃんはテレビに釘付けで僕らの完食に気付かない。催促しようとするが、僕はすんでの所で言葉を吞む。

テレビはいつの間にかワイドショーからお昼のニュース番組に切り替わっている。ブラウン管に映っているのは僕の知っている景色だ。

「武藤、あれ赤馬」

テレビを指差すと武藤も見覚えのある景色だったのか、テレビに釘付けになる。

国道から一本逸れた道路沿いの河川敷。

川にはコンクリートの橋が架かっていて、橋の下には僕の知らない小屋。こんな小屋あったんだ。この河川敷に下りたことはないので知らなかった。小屋の壁には蹴り空けたような穴が空いている。

目を凝らすと画面の左上に、血で書かれたようなおどろおどろしいフォントで『赤馬市を脅かす謎の変死体』の文字が置かれている。

それからリポーターが告げた内容はこうだ。

赤馬の河川敷、高架下の小屋で二つの死体が発見された。首から下の骨を全て折られ、皮を剝がれ、肉を削がれ、首から上だけが無傷の少女の死体が一つ。頭蓋骨をかち割られて脳が飛び散った、首から下が無傷の青年の死体が一つ。

今のところ被害者に共通点は見つかっておらず、なぜ同じ場所で殺されたのか、なぜ対照的な死体に仕上がっているのか、犯人の目的はなんなのか、このような謎が残っている。

そして映像はスタジオに切り替わる。

凶器と思われる鉄パイプから検出された指紋、それと同じものがべったり付いた携帯電話が現場近くに放置されており、青年の死亡推定時刻と重なる時間帯にその携帯電話で写真が撮影されていた。この写真に映った人物は事件となんらかの関わりがあるとして、ブラウン管にその写真が映し出される。大振りな猫目、金髪のショートヘア、耳に光るピアス、血まみれのシャツ。

おいおい絶対こいつ犯人だろう、っていうか赤馬でもこんな事件起きるんだ。

退屈で退屈でしょうがない場所だと思っていたけれど、こうやっていざセンセーショナルな事件が起きるとちっとも関わりたくないし、おまわりさん早く解決して下さいって感じだ。

この事件が起きたのっていつなんだろう。テレビで報道されるってことは最近起きた事件なんだろうけど、事件の起きた日にちを聞き逃してしまった。まあ、家に帰ってネットで検索すれば一発だ。

ニュースが終わって切りのいい所で「コーヒーお願いします」とおばちゃんに声をかける。

「なんか武藤も大変なことになっちゃってるし、今赤馬やばいね」

そんな軽口を叩きながら武藤に視線を移すと、まるでプールの授業で我慢がまんして我慢してそれでも具合が悪くて保健室に運ばれる女生徒みたいに、武藤は青ざめていた。

「なに? 具合悪いの?」

僕が尋ねると同時か、それよりも少し早いくらいのタイミングで、武藤はワンピースの袋を持って立ち上がり、逃げるように店の出口に向かって走りだした。

「おい!」

武藤の背中に声を投げるが、武藤は振り返らずにドアのベルを派手に鳴らして店の外へと消える。

サラリーマンの視線が僕に突き刺さる。

「おばちゃんお勘定!」

そう叫ぶも僕の手持ちでは代金を払うことができなくて、絶対後で払いますからと食い逃げのごとく店を出るが、武藤の姿は既に見えなくなっていた。

【飯田いくみ】

まるで東京みたいだ。

これが墓無の部屋に入って抱いた感想。

大きな薄型テレビ、コの字型に配置された革張りのソファ、センスの良い調度品、観葉植物、それら全てがここにこうあるのが正解って風に配置されている。いかにもお金かけてますって感じでいやらしくもある。これが私の東京のイメージだ。

東京なんて中学の修学旅行で行ったきりで、しかもそのときは浅草と秋葉原を観光してディズニーランドで遊んだだけだから、私は東京の一パーセントも見れていないんだろうけど、ネットやテレビで東京の広さや深さはなんとなく知っているつもりだ。

お茶とコーラの五百のペットボトルを持って、墓無がキッチンから戻ってくる。

「どっちがいい?」

入山君についた下らない噓を思い出して本当のことを言う。

炭酸飲めないんでお茶で」

別に炭酸が飲めないだなんて個人情報、知られてもどうってことないはずなのに、私は入山君にとっさに噓をついてしまった。私は人に本当の自分を知られるのが怖いのだろう。たとえそれがどんな些事さじでも。そういう人間なのだ。

私の向かいのソファにどっかり腰掛けて、墓無がお茶のペットボトルを投げてくる。空中でキャッチする。

「どうも」

墓無は部屋に入ってもスーツ姿のままだ。黒いネクタイを緩めることもしない。一体どんな仕事をしているんだろう。スーツ姿のくせにサラリーマンには見えない。

墓無は胸ポケットから見たことのないパッケージの煙草を取り出して火を点ける。

私と墓無の間にはガラス製のテーブルがあって、その上にはクリスタルの球体を半分にカットして中身をくり抜いたような灰皿が置かれている。

墓無は一口吸っただけの煙草をその中でもみ消す。もったいなくない?

「さて何から話そうか。僕は日本語が苦手なんだ」

墓無が怠そうな声で切り出す。

「じゃあまず普通にいくみんが一番聞きたそうなことから。えーと、君は今自分の身体が他人のものになってしまっているよね。それは突然変異じゃなくて、別の人間の身体にいくみんの魂が入ってしまったんだ。人のものだから大事にね。ここまで理解?」

あまりにも突飛な話で思考が停止する。

なんていうか、あ、そうですか、って感じ。

日本語は理解できたけど、信じられる信じられないじゃなくて、感想がなにも出てこなくて、まずそのことに驚いてる」

「案外そんなもんさ。いくみんが演技じみた悲鳴をあげたりしない子でよかったよ。ああいうの嫌いなんだ。自分で自分のこと演出してるみたいでさ。現実は見世物じゃないんだから。いくみんもそう思うだろう?」

そんなことはどうでもいい。私には知りたいこと、訊きたいことが沢山ある。この男、私をイラつかせるためにわざと話を逸らしているのかもしれない。

驚愕きょうがくから苛立いらだちに感情が移り変わると、質問がせきをきったように湧いてくる。

「あのチャラ男はなんなの?」

「『なんなの?』じゃなくて『誰なの?』だろう。若者の日本語の乱れ、なげかわしいねえ。本を読みな、本を。魂の食い物だ」

「いいから! あの男はなに!?」

「すぐに大きな声をあげる子は嫌いなんだって。彼はただのバイト。お金を払ってあの死体を捜してもらってたんだ。ただの雇用関係。それ以上でも以下でもない。情も糞もないからいくみんに復讐しようなんて気概は湧かない」

淡々と知り合いの死を受け流す墓無が怖いけど、私は人のことを言えない。あのチャラ男を殺したのは私なのだ。

「他に質問は?」

「私は誰の身体に入ってるの? 私の身体はどうなってるの? 誰かの魂が入ってるの? 私は知らない誰かと入れ替わってるの?」

「そんな一気にまくし立てないでくれよ。言っただろう? 僕は日本語が苦手なんだ」

墓無の飄々ひょうひょうとした話し方に苛立ちつつも、感情の発散より話の進行を優先して質問を減らす。

「この身体は誰のなの?」

「さっき訊いただろう、君は武藤ムツムじゃないのかって。前後の文脈で分かるはずだけど」

「じゃあその武藤さんはどこにいるの?」

「どうなんだろうね。武藤ムツムの魂は今どこにあるんだろう。一番可能性が高いのはやっぱりいくみんの身体の中かな、そうじゃなかったら魂の容器をさがしてどこかを浮遊しているか」

「なんでその武藤さんの中に私が入ってるの? それが一番訊きたいんだけど」

墓無は新しく煙草に火を点け、また一口だけ吸ってから灰皿の中でもみ消す。

いちいち火ぃ消す必要ないだろ。非喫煙者への気遣いか? そんなの今はいらない。副流煙でも何でも腹一杯吸ってやる。早く言えっての。

「なんでその武藤さんの中に私が入ってるの? か。ちょっとこっち来て」

墓無は立ち上がり、廊下に出て今まで私たちがいたリビングの向かいの部屋に入る。私もそれに続く。

「ひゃっ!」

私は驚いて反射的に身体を引き、足を滑らせてけそうになる。

「そういう声出す子嫌いなんだってば」

知らねーよ! 出るもんは出んだよ! っていうかこんなもん見せられて声の一つも出ない方が不自然だ。

そこはだだっ広い和室で、がらんとして物は殆どなく、部屋の中心に武藤ムツム今の私の魂の入れ物にそっくりの人形が正座して、目をつむり、祈るように胸の前で手を合わせている。

ぱっと見、生身の人間に見えて声を上げてしまった。肌や髪の質感は人間と変わりなくて、もしかしたら本物の人間の皮、髪を使っているのかもしれない。少女の死体を思い出す。

人形だと判断できたのは肘の関節部分からボールのようなパーツがむき出しになっているからだ。それがなかったら完全に今の私と判別できない。それほどの完成度だ。人形の作りの精巧せいこうさに入れ替わり説の現実味が増す。

その不気味ぶきみな人形がなんだか私に対して不吉な存在に感じられて、私は部屋に入らずに入り口で立ち尽くす。

「なんだい、怖いのかい?」

「怖いです。だから入りません」

「しょうがないなあ。まあ、これを見てもらっただけで大分説明しやすくなったよ。部屋に戻ろう」

リビングに戻り、ガラステーブルを挟んで墓無と向かい合うように、コの字型に配置されたソファに腰掛ける。

「どうだい? さっきの人形」

気味が悪い」

「そりゃまあ自分とそっくりだったらそうも思うか。なかなか可愛くできてると思うんだけど」

「なんなの? あの人形」

「あの人形に武藤ムツムの魂を入れるはずだったんだ」

へ?」

「あの人形に武藤ムツムの魂を入れるはずだったんだよ。それこそ入魂の作、ってね」

「なんで?」

「頼まれたから」

「誰が?」

「僕が」

「誰に?」

質問に答えないで墓無が続ける。

「だけど何故か失敗。なんかの拍子に君の身体の中に武藤ムツムの魂が入ってしまったんだろう。そして君の身体から君の魂が追い出されて武藤ムツムの中にストン。こういうわけ。普通はこんなこと起こりえないはずなんだけど、まあ偶然とか必然とか運命が上手い具合に絡み合って作用したんだろう。知らんけど」

頭に血が上っていくのが分かる。それに比例して視界が端の方からどんどん白けていく。

「それって私がこんな目に遭ってるのは全部あんたのせいってこと?」

こんな身体になっちゃったのも、人を一人殺しちゃったのも、全部全部この男のせい?

「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。んー、まあでも、偶然必然運命、それらの要素を抜いたら八割くらいは僕のせいってことになるのかな。まあ解釈によってはこの世の全ての不幸が僕のせいだとも言えるんだけどね。逆もまた然り」

「っざけんな!!」

私はガラステーブルに足をかけ、クリスタルの灰皿を右手で摑み、勢いをつけて墓無に飛びかかる。

「だから救ってあげるって」

墓無は取り乱した私を見ても狼狽することなく、ソファにどっかりと腰掛けたままそんなことを言う。

そうだこいつを殺しちゃったら私は元に戻れなくなる。こいつは私が元に戻る方法を知っているかもしれないのだ。

しかし、墓無の言葉が私の脳の中で意味を形成し終えた瞬間には、クリスタルの灰皿は勢いをつけて墓無の額に穴を空けようとしていた。私は墓無を殺そうとしていた。

すんでのところで灰皿の軌道をずらし、灰皿を振り下ろす手の速度を緩める。

それでも灰皿は墓無のこめかみを直撃した。

こめかみから血を噴水のように出しながら、ソファの背もたれに寄りかかるようにして墓無は倒れた。

気を失った。

もしくは死んだ。

やってしまった。

なんで、どうして、私ばっかり。

そんな言葉が込み上げて脳内を満たそうとするが、そんな非生産的な思考に支配されている場合じゃない。

応急処置だ。

こめかみからの出血を左手で押さえながら、右手と口を使ってスウェットの左腕部分を破り、それを包帯に見立てて墓無の額に巻き付ける。しかしスウェットはすぐに血で濡れてしまい止血効果は殆どない。空き巣みたいに手当たり次第に棚を開けて布のガムテープを見つけ出し、スウェットの包帯を外し、今度はガムテープできつくぐるぐる巻きにする。血は滲まないし漏れない。よし。

あとは

私は何をするべきだろう。救急車? 待て待て救急車なんて呼んだら当然犯人は誰だって話になって素直に捕まるわけにもいかないから私は逃げるけど、そしたら今後墓無に接触しにくくなる。それにこれだけしっかり止血してるんだから大丈夫じゃない? 墓無は気絶して目を覚まさないけど、きっと脳しんとうかなんかでしょ。もし脳に致命的なダメージを与えてしまったのだったらやっぱりすぐに救急車を呼ぶべきなんだろうけど、もう私は人を一人殺しているんだ。一人も二人も変わらない。

墓無沈。

死ぬなら死ね。

生きるなら私を救え。

もとはと言えば本当にこいつが全部悪いんだ。

天罰だ。

天誅てんちゅうだ。

生か死か。

裁かれろ。

墓無にみゃくがあることを確認して私は眠った。

今日一日で色んなことがありすぎた。

生死のさかいをさまよう男、私にそっくりの人形、私に似ても似つかない私。

同じ屋根の下で眠った。

あの祈る人形を脳裏に描きながら眠った。

起きると午前が終わりそうな時刻で、私はまず墓無の脈を確認した。

生きている。

念のため墓無の口の前に耳を寄せる。呼吸している。

眠っているのか、昨日の延長線上で気絶しているのか、分からないが生きている。

「朝だよ」と声をかけてみても反応がなかったので、手の甲で思いっ切りビンタしてみたがこれまた無反応。浴室で洗面器に水を注いで、それを頭からぶっかけてみたがやっぱり無反応。

もしかして墓無の魂もまた、どっかの誰かの身体に上手いことストンと入ってしまったのかもしれない。こう自然に考えたが、いやいやそんなのは普通あり得ないことなんだと可能性を否定する。もしそんなことが起こっていたら私には墓無の魂なんて捜しようがない。

墓無は魂の行方を捜すことができるのだろうか。

君のことを救ってあげる。

こんなことを言っていたのだからできても何ら不思議じゃない。何らかの異能がないとこんな滅茶苦茶な状況の私に救ってあげるなんて言えないだろう。

今の私にできることはなんだろう。

墓無が生きるか死ぬかするのを待つしかないのだろうか。

冷蔵庫から勝手に牛乳を取りだして適当なグラスに注ぎ、墓無と向かい合う位置のソファに腰掛ける。

墓無は死んだように眠るように穏やかな顔で気絶している。

現状に至るまでの経緯を整理してみる。なにか思いつくかもしれない。

入山君と一緒に駅まで帰ってたらトラックに轢かれてって待てよ! いきなりだけど待って下さい!

もしかして私の身体死んでるかも? うわ全然あり得るじゃんね。もしそうだったら武藤ムツムの魂はどこに? って疑問が浮かんでくるけどそんなのどうでもいい。天国にでも地獄にでも行けばいい。そうだ。私はトラックに轢かれたんだよね? 私の身体の生死を今すぐにでも確認したい。

もしも私の身体が死んでるんだったら、墓無が目を覚まそうが私を救うことなんて無理だ。今は墓無の生死よりも自分の身体の生死の方が先決だ。

タンスから適当なシャツとジーンズを取り出して着替える。サイズが大きいがしょうがない。すそそでをそれぞれ二回ずつ捲る。

気絶した墓無のポケットを弄って、車の鍵を見つけ、それを持ってマンションを出て、駐車場に止められた黒くて長い車(ベンツ?)の運転席に乗り込む。

大体の運転の仕方は分かると思う。

鍵を回してエンジンをかけ、バックするためのペダルを探すがそんな物はない。なるほど、バーをガコガコやって前進と後退を切り替えるんだな。駐車場で練習してから車道に出る。練習で縁石に二回乗り上げたけどあとは問題なし。こんな田舎では複雑な交通ルールもないだろう。スピードの調整も余裕。私には運転の才能があるのかもしれない。

向かうのは赤馬で一番大きく、事故現場からも一番近い小柳こやなぎ病院だ。今家に行っても私の身体はないだろう。あれだけ大きなトラックに轢かれたんだ。良くて入院、悪くて即死、良くも悪くもなくて意識不明だろう。

三十分も走ると小柳病院に着いた。

ここに着くまでクラクションを鳴らされるようなことも、自分で確認できるミスもなかった。なんで車の免許を取るのにあんなに時間がかかるんだろう。

駐車場に頭から車を入れて病院に入る。

受付で飯田いくみという人は入院していないか訊くと、「はい、いますよ。命に別状はないですが、今は意識不明の状態です」と告げられる。

よかったのか?

とりあえず死んではいない。

「わかりました、ありがとうございます」

エレベーターに乗り込み、病室を一室ずつ確認することにする。病室を看護師さんに尋ねてこちらの身元を訊かれると厄介だ。

丸一日自分の姿を見ない日なんて多分生まれて初めてで、正直不安だ。私の身体がこの世界に存在しているのを早く確認したい。

二階の病室は全て大部屋で、扉越しにテレビの音や談笑する声が聞こえてくる。意識不明ってことは大部屋ではないだろう。三階まで上がる。三階は全て個室のようで、しんと静まり返っている。生気が感じられなくてぞっとする。

スライド式の扉の脇に取り付けられたネームプレートを眺めながら廊下を歩く。七個目の部屋がビンゴ。

『飯田いくみ』

親や看護師さんやお医者さんとはち合わせしては困るので、いきなり開けたりせずに扉の隙間から中を覗く。

何が起きているのか理解するのに数秒かかった。

まず目に入ったのは見慣れた学生服を身に纏った男の後ろ姿。あれは多分入山君だ。そのすぐ向こうに水色の入院服の私の姿。

私は私のものとは思えないいやらしい声を漏らして身を反らせている。

二人は互いの下着の中に手を入れている。

性器を弄りあっている。

はい?

え、ちょ待ってなにそれ。

待て待て待て!

待てよおい!

現実に理解が追いつかない。

現実の意味が分からない。

入山君と身体を重ねているのは確かに私だ。

それを見ているこの私は私じゃない。

私の身体を動かしているのは武藤ムツムだろう。

あっはっはっは。

口を開けて空っぽの笑い声を上げようとするが声が出ない。

じゃあ、と涙腺に意識をやるが涙も出ない。

ただただ身体が震える。

私の身体じゃない、武藤ムツムの身体が震える。

胸の内に今まで感じたことのない感情を見つける。

怒りとも哀しみとも違う、色も密度も濃くて息が詰まるようなこれは嫉妬しっと

ふざけんな!

扉を思いっきり蹴っ飛ばす。

アルミラックを派手に横転させたような音が生気のない廊下に響き渡る。

走ってその場を去る。

いつの間にか自分が泣いていることに気付く。

入山君にも武藤ムツムにも怒りらしき感情は湧かない。あるのはただ胸の内の名前の分からない濃い感情だけ。むせ返るくらい濃いのに、それでいて何故かクリアだ。

すれ違う車全てからクラクションを鳴らされるような危ない運転で墓無のマンションに戻った。

ソファに墓無の姿はない。

目を覚ましてどこかに出かけたのだろうか。どうでもいい。

もしも世界の哀しみの総量が決まっているのなら、私以外の全ての人間は今やさぞかし晴れやかな気持ちだろう。今の私は世界中の哀しみを一人で引き受けているようなって哀しみ?

胸の内のこの得体の知れない感情は哀しみなのだろうか。

そうだけど、違う。

哀しみだけど哀しみじゃない。

哀しみの次の次の次の次の次の次の次の次の次の終着点。

絶望。

何に対する?

決まっている。

世界だ。

私にだけ意地悪な世界。

嫌いだ。

死んじまえ。

世界はどうやったら死ぬ?

どうやったら殺せる?

鉄パイプで脳天をかち割る? もしくは灰皿で?

こんな問答に意味がないのは分かっている。

世界は死なないし殺せない。

じゃあ世界を認識している私を殺せばいい。

でも今の私は完全な私じゃない。そんな些事はどうでもいい。世界を世界として捉えているのは身体じゃなくて精神だ。私の精神は私の手元にある。それを殺すのだ。武藤ムツムの身体と一緒に。

ベランダへ出る。

一面に広がる田園風景を横切る太い国道、枝分かれする小道、まばらに生える民家やスーパーマーケット。

色はあっても温度や匂いはない。

病院の三階の廊下のように生気もない。

ジオラマのような死んだ風景。

これから殺す殺風景。

手すりを摑み、腕力で身体を浮かせ、次に足をかける。

ティントーン、ティントーン、と上品なチャイムが二回鳴る。

墓無が帰ってきたのだろうか。

手すりの上で四つん這いになるようにして立つと、地面までの距離が倍ほども高くなったように感じられる。墓無の部屋はマンションの七階だから、十四階から飛び降りようとしている感覚ってことか。

足がすくむ。

生と死の境界線上にいることを自覚する。

死にたいんだか死にたくないんだか分からなくなる。

胸中に意識をやると、絶望だけ先に落下してしまったのか、なにも見つからずに空っぽだ。絶望以外の感情も全く見当たらない。過不足なく意味通りに空っぽ。

部屋の中から足音が聞こえて振り向くと、そこにいるのは墓無じゃなくて見知らぬおばさんだ。

童顔で肌もきめ細かいが、鼻の脇から口の両端にかけてくっきりと法令線が刻まれていて、目尻にはしわが寄っていて、歳にはあらがえないよねーって感じで三十歳くらい? 糸で吊るされた操り人形みたいに四肢をぶら下げて、背中は丸まっている。

顔には影がかかっていて、それこそ本当に絶望したような表情だ。目の下にはくまが浮かび、顔からは全く生気が感じられない。私と同じように死に場所としてここを選んだのかもしれない。

おばさんは部屋の中を幽霊みたいに見回している。墓無のことを捜しているのだろうか。

ベランダの手すりの上で四つん這いになっている私におばさんが気付く。

おばさんは私の顔を見て一瞬フリーズしたように固まり、眼球が溢れるんじゃないかってほどまぶたをひんき、私に向かって全速力で走ってきた。

えっ。

私はバランスを崩し、死が待っている側へと重心を傾けてしまう。

反射的に目をきつく閉じる。

ジェットコースターで頂上から落ちるときのような、耳の奥で何かが浮く感覚。

ぞわっ。

こんな終わり方あり?

ありとかなしじゃなくて嫌だ。

やっぱりまだ死にたくないんだ。

気付くのが遅かった。

さようなら私。

死んじゃう私。

愛してたぜ私。

ふざけんな私。

かわいそうな私。

死にたくない私。

「ェルゲッ!」

喉から汚い音が漏れる。

シャツのえりが何かに引っかかって宙づりになる。

助かった?

目を開けると、引っかかったんじゃなくておばさんに首根っこを摑まれたんだと分かる。

おばさんは私を引っ張り上げ、コンクリートのベランダの上に乱暴に落とす。

背中をしたたかに打って、痛みのせいか生の喜びからか、涙で視界が歪む。

「ありがとうございます」

震える声で私が言うと、おばさんは荒く息をして今度は私の胸ぐらを摑み、部屋の中へと引きずる。

もう大丈夫なんだけど、自分で歩けるんだけど、っていうかベランダと部屋の境の段差に当たって背中が痛いんだけど。

胸ぐらを解放されてフローリングに頭を打つ。

「いっつぅ」と声をあげるもつかの間、おばさんが私の脇腹に蹴りを入れる。

無様ぶざまな音と共に口から空気が漏れる。

脇腹をかばうため芋虫のように丸まった私の身体を無理矢理開き、おばさんは私の胸に馬乗りになる。

おばさんの顔は先ほどと変わらず絶望に塗られた無表情だ。

さっきまでの私の絶望が偽物だったことに気づく。

おばさんは過呼吸一歩手前みたいに全身で息をしながら、私の顔面に拳を入れる。

めびっ! と音がして鼻の軟骨が潰れる。

おばさんは私の顔面を殴り続ける。

殴る殴る殴る殴る。

痛い痛い痛い痛い。

「っあああああああ!」

私の上に乗った身体をはねのけようと、おばさんの肩を突き飛ばすように押すが、おばさんは少し後ろに身体を反らすだけで効果はない。

さっきよりペースを上げて顔面に拳の応酬。

おばさんが初めて声を上げる。

「なんでっ!」

鼻が潰れる。

「あの子がっ!」

口の端が切れる。

「あの子はぁっ!」

口の中が切れる。

「あの子はぁぁっ!」

前歯が折れる。

「お前みたいな奴がっ!」

目が開かない。

「殺していい子じゃぁっ!」

意識が遠のく。

っ!!」

おばさんが何か叫んでいるのが聞こえる。

おばさんの声は一週間泣き続けた後のようにかすれていて、言葉というよりも感情を直接浴びせられているような気になる。感情で殴られているような気になる。

身体が軽くなる感覚。

私の上からおばさんが退いていることに気付く。

本能は逃げろ逃げろと叫んでいるのに脳が上手いこと身体に繫がらない。身体を動かすことができない。

なぜ私はこんなリンチまがいのことをされなくてはいけないのだろう。自殺なんて考えたから? 自殺は罪でありその制裁? それとも私は既に手すりの上から落ちていてここは地獄?  

キッチンの方からカチャカチャと音がする。

おばさんが包丁ほうちょうでも探しているのだろうか。

殺されるんだと死を覚悟する。

カチャカチャという音が止んで、荒い呼吸と共に足音がゆっくり近づいてくる。

死ぬ直前には何を思おう。

足音がだんだんと大きくなる。

生気を振り絞って薄く目を開く。

顔を歪めて嗚咽おえつを漏らし、大粒の涙を零しながら、おばさんが震える手で包丁を振りかぶっている。刃の切っ先が光を受けて白の十字をつくる。

なんで泣いてんの?

馬鹿じゃん?

何故か私まで哀しくなってきてもらい泣きしそうになる。こんなの絶対おかしいのに。

死を覚悟して目をつむるが、おばさんの包丁はいつまでも振り下ろされない。

「はいカット~」

聞き覚えのある声がする。

気が抜けて意識を失う。

半覚醒の状態で目を開くと、額をガムテープでぐるぐる巻きにした男がオレンジ色の液体を飲んでいるのが見えた。野菜ジュース? 男は私の視線に気付き、グラスの中の液体を私にぶっかける。

なにすんだ!

目の中に入って痛い。冷たい。

「これでチャラにしてあげるよ。慈悲深さって言葉が存在することに感謝するんだね」

男の声を聞いて思い出す。

そうだこいつは墓無沈で、私は意味分かんないおばさんに自殺を止められて殺されかけて気を失ったのだ。そして何故かソファの上でこうして目を覚ました。

「あのおばさんは? っていうか私を殺そうとしたのは何故? 私はなんで生きてるの?」

「そんないっぺんに質問されても困るって言っただろう? 僕は日本語が苦手なんだ」

そう言って墓無はソファに腰掛けたままリモコンでテレビをつける。

「ナイスなタイミングだ」

テレビ画面には女の子の顔写真。

私はこの子を知っている。小屋の中で見た顔以外人外と化した死体。

女の子の顔写真の下に『佐藤静香さとうしずかちゃん』の文字が置かれている。この子の名前だろう。

「あのおばさん、って歳でもないか。あのお姉さんはこの子のお母さんだよ」 

少女の写真が消え、今度は見覚えなんてもんじゃないふざけた写真がテレビ画面に映し出される。

私が自分で撮った私の武藤ムツムの顔写真。

血まみれでレンズを睨みつけている。小屋の前で自分の顔を確認するために携帯電話で撮ったやつだ。そういえば携帯電話、あの河川敷に放置したままだった。

アナウンサーは武藤ムツムの顔写真について、事件の鍵を握る人物などと注釈を入れている。ほとんど犯人のような扱いだ。

さっきの暴力に説明がつく。

「娘を殺された復讐に私を殺そうとしたってこと?」

「そう。でも君の魂は武藤ムツムの魂じゃないと説明して帰ってもらった」

「それはありがとうだけど、そんなめちゃくちゃな話普通に言ってすんなり信じてもらえたの?」

墓無は煙草に火をつけて一口だけ吸って、すぐに空のグラスに放った。表面張力でグラスの側面に張り付いた水滴が音を立てて火を消した。

「あの人は依頼人だから」

「なんの?」

「訊く前に文脈を読みなよ。僕はあの人に頼まれて、あの人形に武藤ムツムの魂を入れようとしたんだ。その結果、何故か武藤ムツムの魂はいくみんの身体に。そしていくみんの魂は武藤ムツムの身体に。昨日僕は誰かさんのせいで意識が飛んでて連絡がつかなかったからね、心配してここまで見に来たんだ。そしたら丁度僕は煙草を買いに出かけたところで留守で、憎むべき殺すべき武藤ムツムが自殺しようとしていて、復讐の青い炎がめらりーんときたってわけ。自分の子どもが殺されたんだ。分からない話でもないだろう?」

ならしょうがない、というわけではないが、私はおばさんに同情する。実の娘があんな殺され方をしたら私だって犯人を殺そうとするはずだ。哀しみだけで終われるはずがない。

しかし、私はこんな風に思うべきじゃない。

私は勘違いで殺されかけたのだ。私は怒るべきだが、そんな感情は見当たらない。何故か哀しい気持ちになっている。

「あのお姉さん、佐藤静江しずえさんから伝言を預かっているんだけど聞きたいかい?」

「伝言だったら聞きたいも聞きたくないもないでしょ」

まるでスーパーの安売り情報でも伝えるように、退屈そうな声色で墓無が言う。

「三日以内に本物の武藤ムツムを見つけないと代わりに君を殺す、だってさ」

前言撤回だ糞ババア!