ブレイク君コア
第一回
小泉陽一朗 Illustration/きぬてん
「最前線」のフィクションズ。めまぐるしいまでの“人格”の交代劇をかぎりなくポップかつスピード感あふれる文体で描ききった、血みどろにして爽やかなラブストーリーが、たった今はじまる!記念すべき第1回星海社FICTIONS新人賞受賞作。ここが青春の最前線。
【入山優太】
人が天気に未来の暗示を見るのは何故だろう。
抜けるような晴天だと今日は何か良いことが起きる気がする。強風に豪雨だと何か悪いことが起きる気がする。そりゃここ日本だもん。晴れの日も雨の日もある。じゃあなんだ? 梅雨の時季は嫌なことが起こる確率が高いのか? んなわけない。実際この世には良いことも悪いこともなくて、それを良いとか悪いとか個人が勝手に判断しているだけだ。だから天気なんかに未来の暗示を見る奴は、光度や湿度に自分の気分を揺るがされている無意識に対し無自覚な人間だ。天気に未来の暗示を見るなんて全然意味がない。
土砂降りの日にだっていいことはある。
少なくとも僕にはあった。
一週間前からゲリラ豪雨が続いていて、その日も放課後になる直前にひたひたのスポンジを絞ったような雨が音を立てて降り始めた。
いつも通りその内止むだろうとクラスで友達としばし談笑した後、図書室で適当な小説を読んで雨が止むまで時間を潰すことにした。
図書室は僕と同じように雨宿り目的で訪れた生徒が多く、平素より込み合っていたが、時折聞こえてくる女生徒の押し殺した笑い声、ページを捲るしゅるりという音、窓の外の雨音、それぞれがクリアに聞こえるくらいしんとしていた。
「もう閉めるよ」
司書のお姉さんの声で目を覚ました。小説を読んでいたはずがいつのまにか眠ってしまったらしい。
図書室の中には僕とお姉さんだけだ。窓の外では未だに先ほどと変わらない強い雨が降り続いている。一時的に雨が止んだか弱まったタイミングで皆帰ったんだろう。
貸し出しの手続きをするのが億劫だったので、お姉さんが背中を向けている間に読みかけの小説を無断で鞄に入れて、「さようなら」と図書室を出た。
図書室同様に静まり返った廊下を通って階段を下りて正面玄関から外に出ると、僕は眠ってしまったことを深く後悔した。
雨やばい……。
傘は持っていない。二秒でも屋根の外に出たら全身ぐしょ濡れだろう。もう少しここで雨宿りしていようか。なんで眠っちゃったんだろう。
雨の壁の前で立ち尽くす僕を一人の女生徒が追い抜いた。正面玄関から十メートルほど先の駐輪場へ傘もささずに歩いて行く。
彼女は既に全身ぐしょ濡れで、しかし彼女の足取りは急ぐでもなく余裕ぶっている雰囲気もなく、少し怠そうないつも通りの歩調だった。
いつも通りとか言うと僕が普段の彼女を知っているみたいだけど、僕は彼女の顔を確認できていない。彼女が誰なのかも分からない。何故か、いつもこんな感じなんだろうと思ったのだ。そう思わせる足取りだった。
セーラー服から濃い青のブラジャーが透けて見えた。
駐輪場にはトタンの屋根がついていて、屋根の下に置かれた自転車はまばらで少ない。
彼女はその内の一台に歩み寄り、後輪の側面を思い切り蹴っ飛ばした。
えっ?
自転車は一メートルほど飛んで倒れた。
倒れた自転車を彼女は一心不乱に踏みつけた。踏みつけ続けた。
彼女の横顔が見えた。柔和な顔つきの中でギラリと意思のある目が光っている。見覚えのある顔だけど名前は出てこない。名前も知らないくらいに僕と彼女は他人なのだろう。廊下ですれ違うだけの、そんな関係。
彼女の濡れた前髪が額に張り付いている。雨に濡れたポニーテールが重そうに揺れて水滴を飛ばしている。プリーツスカートが太ももの輪郭をあらわにしている。
あの美しさは本物だ。
雨が止みそうな雲行きじゃない。立体的で真っ黒な雲が低く空を覆っている。
彼女が蹴っているのは一体誰の自転車なんだろう。その誰かに対する怒りを自転車にぶつけているのだろうか。
彼女は僕の存在に気付いているだろうか。僕が今から駐輪場へ行ったら彼女どんな顔をするだろう。驚くだろうか。いや、僕に気付いていないわけない。彼女は僕の脇をすーっと後ろから追い抜いたのだ。彼女は僕の視線があることを理解してもなお、自転車を踏みつけ続けているのだ。彼女に羞恥心というものはないのか。それとも彼女にとって僕は羞恥心を感じるような対象ではないのだろうか。そう思うと何故か哀しくなった。
駐輪場へ行って彼女に接近してみよう。
僕が雨の壁に足を踏み入れると、彼女は視界の端に僕を捉えていたのか、今まで踏みつけていた自転車を起こし、それに跨がり正門へと消えた。
え?
自分の自転車だったの?
僕は雨の中で立ち尽くした。
意味が分からなかった。
家に帰ってからも彼女のことが頭から離れなかった。
自転車を一心不乱に踏みつけ続ける彼女の横顔が。
生き物みたいに揺れる濡れたポニーテールが。
自分の自転車を踏みつけるという奇行が。
帰宅後一番にシャワーを浴びているときも、夕飯を食べているときも、寝付くまでの時間も、ずーっと僕の頭の中には彼女がいた。
夢の中にまで彼女は出てきた。
どんな夢でどんな風に彼女が出てきたのかは覚えていない。
確かなのは悪夢を見た後にも似た興奮と、それを素晴らしいものだと捉えている確固たる自分。
胸の内を探るまでもなく全身を支配するこの感情。
他の何物にも当て嵌まらないこの感情。
これが恋以外のなんだっていうんだ。
うちの高校には普通科と理数科があって、普通科は一組から五組、理数科は六組の教室を使っている。理数科と言っても理数を勉強したい生徒が入る学科じゃなくて、身も蓋もなく言えば特進クラスだ。しかしこれまた特進クラスとは言っても生徒の三分の一が地元の国公立に入れば御の字という底辺なレベル。まあ面積の広さしか取り柄のない福島県の、周りに田んぼしかない高校であることを加味すれば不思議な話ではない。
僕は普通科の二組に属しているが、二組に昨日の彼女は在籍していない。
同じ学年ならば一組から六組までシラミつぶしに覗けば簡単に見つかるだろうし、それで彼女が見つからなければ次は一年と二年の教室を覗くだけだ。
僕は何故彼女を捜そうとしているのだろう。
『彼女と付き合いたいの?』
どーだろ、そう言われると……。
『ほんとパッとしねーな入山。話したいってことは知りたい知ってもらいたいってことだろ。知って知られて何が生まれるんだよ』
……関係?
『そう関係。知って知られた人と人との間には関係が生まれるんだよ。他人じゃなくなんの。そんでお前は彼女に惚れている。じゃあお前が彼女との間に望む関係は一つだろ』
自己との対話終了。
とりあえず僕は彼女の存在を認識したい。昨日の非現実的な光景が今日と地続きにあることを確認したい。
僕は彼女を夢の中で見てしまったから、本当に彼女が現実に存在しているのか少し訝しんでいるのだ。全部夢だったという可能性がゼロじゃないと言い切れない心持ちなのだ。
だから彼女を視認したい。
今はその動機だけで十分だ。変な自己肯定も自己恫喝も要らない。クリアな感情に正直に。
二時間目と三時間目の間の休み時間、僕はまず理数科である三年六組の教室を訪ねた。
普通科は学年が変わるたびにクラス替えがあるが、理数科は入学当初のままメンバーチェンジなしで三年間同じ顔ぶれだ。もしも彼女が僕と同じ三年なら、彼女の顔をあまり見たことがない、イコール、理数科クラスの生徒である可能性が一番高い。そう考えたのだ。
ビンゴでした。
僕の友達の中で唯一理数科に通う尺谷の机へ、「おう、久しぶり」と歩み寄っていく途中で彼女を見つけた。
見覚えのあるポニーテール。艶っぽい光沢が窺えるが当然昨日みたいに濡れてはいない。教卓の真ん前の席に一人腰掛けて、イヤフォンを耳に挿してぼーっとしている。昨日の意思が宿る瞳とは対照的に寝惚け眼だが、彼女が美しいことには変わりない。
「どうした?」
「あの子の名前」
「あの子って飯田?」
「いや知らんけど。あの教卓の前のポニテ」
「ああ、飯田だよ飯田」
「下は?」
「いくみ。どうした急に」
「いや、友達に頼まれて。なんかあの子のこと気になるらしい」噓だけど。
「まあ飛び抜けて可愛いからな。でもそいつきっと望みないぜ」
「なんで?」
「自分以外の世界に興味なさそうなんだよな、あいつ。浮ついた話も全然聞かんよ」
「あとは? 彼女の情報」
「知らん」
「知らんことないだろ。三年間一緒なのに」
「本当知らねえって。友達とへらへらしてることもあるけど上っ面だけに見えるし、私今人と話す気分じゃないっす、ってときはああしてイヤフォンしてATフィールド張ってる」
「変わってんね」
「変わってる」
一体どんな音楽を聴いているのだろう。尺谷に訊けば分かるかもしれないが、そこまで詮索を入れると本当はお前が気になってるんじゃねーの? って勘づかれそうなのでやめておく。
僕は恋愛に関しては秘密主義者なのだ。友達に「あの子のこと好きかも」と言ってしまったが最後、人に話す前と後では恋心のリアリティが段違いだ。そういう自己暗示みたいなのは噓っぽい気がする。
好きだったら人に話さなくてもずっと好きだし、その内冷める運命にあるのなら自分でも気付かないうちに、もしくはとある瞬間に、ジュッと水をかけられた火のように消えてしまうものなのだ恋心なんて。それでいい。
今回の僕の恋心はまだ消えていない。
実際にこうして改めて彼女の顔を見たら、名前を知ったら、存在を確認したら、昨日以上に彼女への恋心が燃えている自分に気付いた。
尺谷にお礼を言い、今度遊ぶ約束をして自分の教室へ戻った。それから放課後までの時間、授業中も休み時間も、僕はどうやって彼女とコンタクトをとろうか考えた。
共通の趣味? 僕は彼女のことをなんにも知らない。
共通の友人? 尺谷は彼女と別に仲良くないっぽいしダメだ。
共通のコミュニティ? 学校と学年が一緒です。だからどうした。
失礼になるかもしれないけど、嫌われるかもしれないけど、昨日の自転車ガンガンについて直接訊いてみるしかないかな。それしかないってことはないけれど、それが一番いいんじゃないだろうか。いきなり何の話題もなしにお話しましょじゃ会話にならないし不自然だ。ファーストコンタクトは相手のパーソナルゾーンにグイッと踏み込むぐらいで丁度良いのかもしれない。
放課後のショートホームルームを終えて理数科の教室を廊下から覗くと、こちらも既にショートホームルームは終わっているらしく、教室の中は雑談や部活の準備でがやついていた。
教卓の真ん前の席を確認する。鞄に教科書を詰めている飯田いくみの背中を発見。可愛らしいポニーテール。
ついでに尺谷の姿も捜すが、あいつは既に部活へと向かったらしい。よかった。夏の大会へ向けて精進して下さい。目指せ甲子園!
そのまま廊下で彼女を待ち伏せる。ドアから出てきた女生徒が僕のことを訝しげにチラ見するけど気にしない。普通科の生徒が珍しいのだ、と思うことにする。僕は何も怪しくない、と思うことにする。
二分ほどして飯田いくみが出てきた。こちらを見向きもしない。彼女の世界に僕がいないことを暗に告げられているようで胸の内に煙がたまる。
「すいません」と声をかけるが反応はない。彼女の耳にはイヤフォンが挿さっている。僕の声が聞こえていないのだ。後ろから右肩を叩く。
「すいません」
また声は聞こえていないだろうけど、彼女は驚いた表情で振り返り、僕の顔を確認してイヤフォンを外してくれた。
「昨日のこと?」
え? こっちから訊こうと思ってたのに先手を打たれてしまった。
そうそう昨日の自転車ガンガンについて訊きたいんです。あ、でもそれは僕にとってはただのきっかけに過ぎなくて、これを機にお近づきになりたいんです。というのが僕の本当の気持ちだけど、言葉が出てこない。あ、あ、とどもってしまう。口は何か言葉を発する気満々なのに頭の中が空っぽだ。ハードは正常だけどソフトが故障している。
彼女は可愛気に首をかしげて僕を見ている。
僕の視線も当然彼女に固定されている。
こうして正面から彼女を見ると、なるほど確かに一目惚れするのも当然って感じの整った顔立ちをしている。美人の模範解答みたいな顔をしている。完成している。
とりあえず、面白いことなんて言う必要ないから言葉を返さないと。
「そう。なんであんな自転車ガンガン蹴ってたのかなって」
「いや別に、なんか学校でイライラしちゃって、雨も滅茶苦茶ふってて振り切れちゃって。君に見られてたの分かってたんだけどね。えーいままよー、って」
「ままよー、って。でもわざわざ自分の自転車じゃなくてもさ。他に、なんか、柱とかあるじゃん」
「何か壊したい気分だったから。さすがに人の物を壊すのはあれでしょ」
どんな気分だよそれ。どんな嫌なことがあったのか、どんな音楽を聴いているのか、いろいろ訊きたいことはあったけど、この場でこれ以上訊くのは失礼な気がした。
「で、君なにくん?」
「二組の入山優太」
「そっか、なんかごめんね、変なとこ見して。じゃーね」
そう言って僕に背中を向けて彼女は歩き出した。
こんな別れ方じゃ次に繫がらない。これじゃ結局次もゼロからのスタートだ。
彼女と話せて脳が真っ白に漂白されたようでほんわーとして、これで満足しちゃいそうな自分もいるけれど、こんな満足絶対に一時的なものだし、これで会話が終わってしまうのを拒もうとしている自分が確かにいる。
これじゃ本当に彼女の存在を確認しただけだ。後で絶対後悔する。
「お茶しませんか!?」
僕はこう叫んでいた。
彼女は振り返って一瞬呆けたような顔をしてから、っぷすーーーっと吹き出して腹を抱えて笑った。
「あははははっ、はははっ、はははっは、はっ、はっ、ひー苦しー」
ひき笑いを続ける彼女と向きあって僕は棒立ち。
「あーお腹痛い。面白いね君。なんだっけ、入山君? おもしろいわよ。お茶? なんてする場所ないじゃない。ジャスコでも行く? あーお腹痛い、涙出てきた」
別に失念してたわけじゃない。デカさしか取り柄のない福島県の端っこの、デカさしか取り柄のない赤馬市に喫茶店なんかあるわけない。
僕は無意識のうちにボケたのだ。笑いを取りに行ったのだ。でもさすがにここまで笑われるとイラッとしないでもない。しかし、昨日の自転車を一心不乱に踏みつける彼女の冷たい表情と対比されて、今の彼女の笑顔はあまりにも魅力的だった。心臓をそっと指で撫でられたようにゾクゾクした。
お茶は断わられたけど、っていうか物理的に無理だけど、その代わりに自転車を押しながら駅まで一緒に帰ることになった。
彼女の自転車の後輪は歪んでいて、回転するたびに波打った。歪んだタイヤが一周するたび、横の金具にガッ……ガッ……ガッ……と当たった。
「自転車蹴ってたの、なんかイライラしてたからって本当?」
「他に理由が考えられる?」
「入学祝にもらったんだけど、今頃になって色が気に食わないとか」
「普通の銀色だけどね。まあ、もうちょっと可愛い色でも良かったかな。じゃあその理由採用します」
「じゃあ、って」
「入山君は何色の自転車が好き?」
「好きってわけじゃないけど、まあ普通に銀かな」
「安定志向の堅実主義?」
「自転車ごときで主義も主張もないよ」
「まあ私もやっぱりシンプルがいいけどね」
自転車を蹴る飯田の目には何か意思が宿っていたように見えたのだが、あれは気のせいだったのだろうか。それとも何か僕に言いたくない理由があるのだろうか。
彼女には他にも訊きたいことが沢山あったのに、彼女は自分のことを話すのが嫌いなのか、僕に興味を抱いてくれたのか、とにかく僕に質問してくるばかりで、僕は自分のことを喋るばかりだった。だから駅で別れるまでに彼女についての情報は何一つ増えなかった。
でもよし!
彼女は別れ際に「また話そうよ」と言ってくれた。
二人の間に関係が生まれた。
その関係が育つのか、育つとしたらどのように育つのか、定かじゃないけれど、今日は取りあえず白星だ。
駅前で彼女と別れてから今まで押していた自転車に跨がって、駅を越えて田んぼ道を通って自分の家へと帰った。
僕の彼女に対する感情は、やっぱり確かに恋愛のそれだ。
そう気付けて嬉しくて、彼女への想いを嚙み締めながら自転車を漕いだ。
勉強なんて机の前に座ったら半分終わったようなもんだ。
これは担任の中川が言っていたことで、僕は中川のことがあまり好きじゃないけれど、これに関しては畜生なるほどって感じだ。
勉強するため机の前に座るまではしんどいけれど、一旦椅子に座ってノートを開いてシャーペンを握ってしまえばあとは勉強するのもなかなか楽しいかもって気持ちになって案外すらすら進む。
一番大変なのは最初の一歩ってことだ。
これがすべての人に言えるかどうかは分からないけれど、僕はこの言葉とシンクロ率百パーセントで、勉強だけじゃなく、飯田いくみとの関係にもこれは言えた。
一回勇気を出して話しかけてしまえば、あとはあれよあれよと僕らの関係は進んだ。関係が進むとか言うと何故かセックスを連想してしまうけど、残念ながらそこまではいっていない。キスもしていない。手も繫いでいない。彼女のことを「飯田」と名字で呼べるようになるまで、たったそこまで。
たったそこまでだけど、今まで女性と親密な仲になったことのない僕には、とても遠い所まで来たように感じられる『たったそこまで』だった。
放課後、駅までの道を二人で自転車を押しながら帰る。
七月初旬まで長引いた梅雨がやっと明けて、空は青とオレンジのグラデーションだというのに気温は三十度を超えていた。夏だった。
気温を考慮したのか、飯田はいつもより高い位置でポニーテールを結っていて、見ていてくすぐったい赤ん坊のようなうなじが顔を覗かせている。うなじには汗が浮かんできらめいて、とても眩しかった。
「入山君ってどういう音楽聴くの?」
「青春パンクとか」
「青春パンクって?」
「青春をパンクで歌ってるやつ」
「分からーん」
「だから恋愛とか友情とか、青春臭い歌詞をパンクロックで歌ってんの」
「キャラにハマり過ぎだね。青春キャラ。クールぶってるけど実はそういうの好きなのバレバレ愉快だよ」
「別にぶってないって」
「噓だあ。クラスの女子オカズにして超オナニーとかしてそうだもん」
「……それ青春と関係なくない?」
「十分青春臭いわよ。そして青臭い」
「もういいよ僕の話は、っていうか飯田こそそのキャラなんなの? そういうこと言うんだ?」
「そう? 下ネタは耐性あるわよ」
「兄弟がいるとか?」
「ううん、一人っ子」
「そういえば飯田の家族構成とか全然知らなかった」
「入山君は一人っ子でしょ?」
「一人っ子っぽい?」
「うん、大事に育てられてそう」
「兄弟がいても大事に育てられる人は大事に育てられるでしょ」
「んー、まあそっか」
「飯田は大事にされてないの?」
「蝶よ花よと大事にされてるよ」
なんだかいまいち嚙み合わない。
多分、飯田と僕の距離は近づいている。心の距離。
僕と飯田の関係をずっとドキュメントとして映像に記録していたら、視聴者も僕と飯田の距離が近づいていることを否定しないだろう。
しかし、飯田いくみという人間が全然見えてこない。
心の距離の接近と人間性の露見度は比例すると思っていたけれど、それはすべての関係に言えることではないのかもしれない。少なくとも、飯田いくみと入山優太の関係には言えないことなのだろう。現状では。
僕は飯田のことをもっと知りたいので質問する。
「休みの日ってなにしてる?」
「そんなのその日によって違うわよ。毎回違うことしてる」
「だから例えばだよ」
「一つ適当なこと言っちゃうと、まるで私がそればっかりしてるそれ大好き人間みたいになっちゃうじゃない。そういうキャラ付けみたいなの嫌なの」
「そんなことないって」
「じゃあ読書かな」
どんなの読むの? と更に質問を重ねたいけれど、めんどくさい奴だと嫌われるのが怖いので、質問に対する答えに質問で返すことはしない。
自分について話すことをよしとしない飯田だけど、かといって喋るのが嫌いだったり苦手だったりはしないようだ。
学校であった面白い話とか、ラジオで聞いた怖い話とか、飯田が自発的に話してくれることもあって、飯田は話し方も話の構成も抜群に上手くて、飯田の話を聞くのは楽しかった。
話し上手は聞き上手ってやつか、飯田は僕の話を聞くのも上手かった。笑い声もツッコミも飯田のリアクションはどれも可愛くて、僕はそんな飯田を見るために自分のことをペラペラと話した。だから飯田は僕のことをよく知っている。僕が飯田のことを知っている九倍くらい、飯田は僕のことを知っているんじゃないだろうか。それが少し悔しい。
『お前勝手に自分で自分のことぺらぺら喋ってんだろうが。それで悔しいとかただのマッチポンプだろ』
こんなセルフツッコミをしないでもないが、僕が一方的に飯田のことを好きで、飯田は僕のことをなんとも思っていない、そういうことを証明されているみたいで悔しいのだ。
そりゃ片思いだから僕が一方的に飯田のことを好きなのはそりゃそうなんだけど、人間と人間が並んで歩いて会話をしていたら、そこには少なからず相互から出ている好意のベクトルが存在するはずだ。嫌いな奴とわざわざ一緒に帰らないだろう。飯田から僕へ向いている好意はどれだけのものだろう。本当にそんなベクトルが存在するのだろうか。飯田も僕のことを恋愛的に好きだといいのに。
駅で飯田と別れて一人になると毎回そんな思慮が渦巻いて苦しかった。息苦しかった。生き苦しかった。
そんな苦しさを同時に楽しんでいる自分もいて、僕はそれにも気付いていたけれど、苦しさを楽しむだなんて変だ。
何故だ。
苦しみは苦しみ。嬉しみは嬉しみ。怒りは怒り。哀しみは哀しみ。楽しみは楽しみ。
それでいいじゃないか。何故苦しみを楽しむなんてことが起きるんだろう。
苦しみを苦しみとしてしか認識できなかったら本当に生きるのが辛くなってしまうから、自己防衛本能みたいなものが働いて、『苦しんでいる今も実は楽しいんだよ』って戯れ言を別の自分が囁いているのだろうか。もしくは喜怒哀楽や嫌悪、そういう感情を抱くってことはそれすなわち生きるってことで、生きること自体が人間の楽しみである、とかそういう綺麗事っぽい刷り込みが僕の認識を歪めているのだろうか。
僕が考えた結果たどり着いたのは、『苦しみと同時に訪れる楽しみは純粋な楽しみじゃない。そんな薄い楽しみを享受して満足してはいけない。もっと真っ直ぐで濃くてどこからどう見ても『楽しみ』っていう楽しみを求めて獲得するべきだ』という真っ当な結論だ。
僕にとっての純粋な楽しみは、僕のことを僕と同じくらいに、僕よりも強く多く飯田が好いて愛してくれることで、そんな飯田と同じ時間を過ごすことで、だから僕は飯田に告白することを決めた。
飯田と一緒に帰るのは大体週に三回で、いつも僕が理数科クラスまで飯田を迎えに行く。
最初のうちは毎回「駅まで一緒に帰らない?」と僕が声をかけていたけれど、最近は『僕と飯田が放課後に顔を合わす=駅まで一緒に帰る』という図式が飯田の中でも確立されているようで、放課後に理数科クラスへ立ち寄る僕の顔を見るだけで、「じゃあ行こっか」と飯田から声をかけてくれるようになった。
そんな僕らを見た他の生徒が僕らの関係を邪推しているようだけど、飯田はそんな質問に対して「ないない、ただの友達だから」と答えているらしい。っていうのは尺谷からの情報。
今日も放課後に理数科クラスへと立ち寄る。教卓前の飯田の机へ行くと、「ちょっと待ってね」と言いながら、飯田は机の中の教科書を鞄に移し替える。
教室内はがやついているけれど、放課後の理数科クラスに僕がいるのは今やそんなにおかしなことではないので、僕を珍しがるような視線で見る生徒はいない。尺谷の姿もない。あいつは部活人間だから放課後になるとすぐに教室から消えてしまう。
「お待たせー」と飯田がイヤフォンを耳から外してポケットにしまう。飯田が立ち上がるとポケットからイヤフォンのコードが垂れているのが見えた。
「飯田、それ」
僕がポケットから垂れたコードを指差すと、飯田は危ない危ないと言いながらアイポッドを取り出し、本体にコードをぐるぐる巻き付けて再びポケットの中に戻した。
僕が理数科クラスまで迎えに行くと飯田は大体イヤフォンを耳にはめているけれど、そういえば僕は飯田がどんな音楽を聴くのか知らない。今日にでも訊いてみよう。
教室を出て校門を出て、自転車を押しながら並んで歩く。
飯田に告白することを決めたのは昨日だけど、できれば今日にでも告白したい。告白はタイミングだと誰かが言っていたし僕もそう思う。
僕と飯田の距離はあの雨の日以来急速に近くなっているけれど、二人の関係性が急速と呼べるほどのスピードでどこへ向かっているのかは不明だ。
僕がなにも切り出さずに放っておけば、それは『親友』という関係へ進んでいくかもしれないし、もしくはその関係性の向かう先は高くて硬い壁で、ぶち当たった瞬間に粉々に砕け散って二人の関係なんて元からなかったかのようにぶっ壊れてしまうかもしれない。
だから僕は僕の意思と行動で僕らの関係の舵をきるべきだ。舵をきりたいのだ。舵がきれる今のうちに。恋愛方面へ。
「飯田さあ」
「んー?」
「どんな音楽聴くの?」
「あんま聴かないかなあ」
「いつもイヤフォンしてんのに?」
「あーあれね。実は何にも聴いてないの」
「へ?」
「一人でいたいときってあるじゃない? そういうときにイヤフォンで一人の時間演出してるっていうか。話しかけんなよー、って牽制してるの。性格悪いよね、私」
少し照れくさそうに、なにかを誤魔化すように飯田が笑う。
飯田が自分の秘密を打ち明けてくれたようで嬉しくて、やっぱり好きだなあ、と思う。
だから、だから言わなきゃ。
「あのさ、飯田」
「なに?」
「……炭酸飲める?」
「飲めるけど、入山君飲めないの?」
「飲めるよ」
「なんの話?」
「飯田の同じクラスの尺谷っているじゃん。あいつ炭酸飲めないんだって」
「あー、でもなんか分かる気がする」
「まあそれだけなんだけど」
「会話下手だなあ」
「返す言葉さえ思い浮かびません」
「あははは、馬鹿ちんだわ」
「否定できーん」
「そこは否定しとこうよ」
いやいや尺谷とか本当どうでもいいっつーの。なに照れてんだよ僕。腹を決めろ。
声のトーンを落として自己演出をはかる。
「……あの、飯田さ」
「んー?」
身長差による上目遣いで飯田が僕を見つめる。それはあの雨の日とは違う凜とした女の子の顔で、潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。
「……なんでもない」
「なんじゃそりゃ」
駄目だ、こいつ可愛すぎる。
いつにも増してどうでも良い話ばかりしてしまう。むしろいつもより雰囲気が恋愛方面から遠のいている気がする。
真っ直ぐな鼻筋。すっきりした顎のライン。ふぁっさりと詰まった睫毛。潤った眼球。艶のあるポニーテール。
飯田の横でこの美しさを享受しているだけで十分な気がしてしまう。しかし、それだけでは駄目なのだ。今はそれだけでよくても、これからのために、今はそれだけでは駄目なのだ。これからも飯田の横にいるために、僕らの関係に恋人という名前を与えなければならない。これからも飯田の側にいる権利を貰わなければならない。勝ち取らなければならない。契約を結ばなければならない。
もしも告白が失敗してしまったときのことを考えないでもないが、そうなったらそうなったで何もしようがないわけではない。ふった者、ふられた者としての二人の関係の舵をまた恋愛方面へときれば良い。
とかなんとか自分を鼓舞するためにポジティブなことばかり言ってるけれど、さっきから僕の声は要所要所でひっくり返って足取りもぎくしゃくしてしまって、飯田が人の好意に対してどれだけ敏感かは分からないけれど、少しでも勘がいい方ならば僕の好意に気付いているだろう。
いつも通りいつも通り平常心平常心。
頭の中でいくら唱えてもどうにも変わらない。自分の無意識に干渉できない。でもいいんだ。それでもいいんだ。今日言うんだから、僕が飯田を好きだということは今から自分でばらすんだから、飯田にそうかもって気付かれるくらいどうってことないんだ。
「なにぼけっとしてんのよー」
飯田が肩にパンチしてくる。
「ああ、ごめん飛んでた」
「なにが?」
「意識が」
「じゃあ私の話聞いてなかった?」
「え、ごめんマジで聞いてなかった」
「じゃあなんでもなーい」
「いや言ってよ」
「言えないよ……」
飯田が切なげな表情を見せる。
「……なんで?」
まさか。
胸が高鳴る。
「だって本当は何も言ってないもーん」
ぷーっと吹き出して、僕から顔を背けてくすくす笑う。
ぷーっ! くすくすくすくす。
可愛いけどイラッとしないでもない。
「だから人と一緒にいるときに意識飛んでるとか罪なんだよ。それを私は教えてあげようとね。分かる?」
「はいはい」
憎らしくも可愛い飯田の顔に少し照れて視線を前に移すと、何かが不自然だった。
速度だ。
あまりにもゆっくり、スローモーションのように、一台のトラックが歩道に乗り上げてこちらへ近づいてくる。
え?
再び飯田の顔に視線を移す。
口角を上げて笑っている。
トラックには気付いていないようだ。
あのトラックは僕の見間違いだろうか。もしも見間違いじゃなくても、あれだけゆっくりなら避けられるだろう。
やけに冷静にそんなことを思いながら視線を前に戻すと、トラックは加速した。
スローモーションが終わった。
普通の、普通以上のスピードで僕たちに突っ込んでくるトラックが目の前にあった。
ギャン!
飯田の声とも自転車がひしゃげる音とも判別できない声だか音だかが聞こえて、飯田は僕の隣から消えた。
飛んだ。
こういうときどうすればいいんだろう。まずそう思った。
地面に叩きつけられる肉の音が聞こえた。
十秒くらいだろうか。僕は今まで通りの速度で歩き続けた。
今振り返ったらすごいことになってるんだろうな。
……っておいおいおいおいおいおいおい!
ギュッとスニーカーで地面を踏みしめて踵を返し、十秒前まで自分がいた現場へ駆け戻る。そこには血溜まりの中立ち尽くすトラックの運転手らしきおっさんがいるだけで、飯田の姿はない。
血溜まりから一本赤い線が延びていて、その線は僕たちが学校から歩いてきた道のりへと続き、その先にはセーラー服を真っ赤に染めて自転車を漕ぐ飯田の背中が見える。
え? なんで学校戻ってんの? 忘れ物? それともなんか僕気に障るようなこと言った? いやいやそんなわけないっていうか身体大丈夫なの? 大丈夫なわけないだろ超血ぃ出てるし、っていうか飯田立ち漕ぎしてない?
意味が分からない!
現場に怪我人はいないけど、とりあえずトラックのおっさんに救急車を呼ばせ、自転車に跨がり飯田を追いかける。
【飯田いくみ】
目の前にトラックの顔があって、あ、終わったと思って私は目をつむった。
すぐに衝撃が私を襲って自転車ごと宙にぶっ飛ばされて、無意識下で地面に叩き付けられる未来を予想してたんだけどいつまでもそれっぽい衝撃はやってこなくて、あれ? と思ってたら宙に浮いている感覚もないことに気付いて、その上何故か地面に足をつけて確かに立っている感覚があって、恐る恐る目を開けると死体が見えた。
え、ちょ、待って。
待て待て待て! 待て現実! 待て私!
死体が目の前にあるのも変だけど、私が立ってるこの場所もおかしい。
私がいるのは高校から赤馬駅へ向かう道中じゃなくて、薄暗く狭い部屋の中だ。
その真ん中に死体がある。
顔から判断するに殺される以前は女の子だったのだろう。歳は多分小学校高学年くらい。顔から判断するに、っていうのは死体が子供特有の中性的な体付きをしているからじゃなくて、顔以外に人間だと認識できる箇所が殆ど残っていないからだ。
腕と脚は関節が幾つも増やされてタコの足みたいに人間の設計上曲がらないように曲がっていて、胸、腰、胴体も骨という骨をこれでもかと折られ、ひしゃげて平たくなっている。真っ赤に染まったTシャツとズボンから伸びる骨の折れた腕と脚は皮を剝がれ、肉を削がれ、血の向こうで白い骨と筋細胞が露出している。
顔だけが無傷。口周りは吐血で赤く濡れているけれど、それ以外は無事だ。
多分犯人は金属バットか木刀かバールか、とにかく硬い凶器で少女の顔以外の骨を折って折って折りまくって、刃物で皮を剝いで肉を削いで、これでもかと痛めつけたのだ。そういう死体だ。
死体のすぐ脇には赤い小山があり、その小山を形成しているのは少女の身体の一部であっただろう皮と肉と血管のクズだ。
部屋の角に血にまみれた鉄パイプが立てかけてある。あれが骨を折った凶器だろう。
っていうかやっぱりまずここどこなの!?
意味分かんない!
なんかもう泣きそう!
再び死体に視線を移す。不思議と嫌悪感は湧かない。
初めて死体を見る女子高生って、おうええええ、と嘔吐するもんじゃないっけ? 私がそういうパターンからズレてるってだけ? それとも目を開けたらわけ分かんない場所わけ分かんない状況で脳が現状を整理できなくて感情がフリーズしちゃってる? これ時差で泣けてくるパターン?
とにかく外に出よう。
死体を避けて扉まで歩いて、それを開けると外だった。私が今までいたのはワンルームの小屋の中だったのだ。
小屋が建てられているのは河川敷の高架下だ。小屋の真上にはコンクリートの橋が架かっている。車が通れる道路の一部みたいな橋。小屋のすぐ脇には川が流れている。これ宇奈川? だよね? だったらここは赤馬だ。宇奈川は赤馬に流れる二級河川だ。
空の色と気温から判断するに、時間は私がトラックに轢かれてからあまり経っていないようだ。
河川敷を上って車道に出る。知らない場所だ。でも赤馬っぽい。夕日で田んぼが赤く染まっていて、田んぼの向こうには建設中の高速道路とジャスコが小さく見える。
私はまだあまり赤馬を知らない。
中学二年生の春に宮城から福島県赤馬市に引っ越してきて、休日に遊ぶような友達もいなかったから学校と家の往復しかしたことがないのだ。何もないくせに赤馬市は広い。そりゃ知らない場所もある。同級生はこの小屋のことを知っているだろうか。
警察呼んだ方が良いよね? あと私も事故ったわけだから救急車も呼んだ方がいいかな。でも私に痛みはない。怪我も、と思って自分の身体に視線を下ろすと白いシャツが血に染まっている。え、なにこれ意味分かんない! 落ち着け私! 事故ったんだから血が出てるのは当たり前だ。いやでも下半身もおかしい。細いジーンズを穿いている。こんなの持ってたっけ? っていうか私が事故ったのは学校からの帰り道だから制服のスカートを穿いているはずなんだけど……ってよく見たら白いシャツも制服のじゃない。左手には見覚えのない腕時計をしている。腕時計はデジタル式で日付も確認できる。
七月十日、十七時八分。タイムリープはしてないっぽい。
誰かに制服を脱がされてこの服を着せられた? なんのために? 事故で服が使い物にならなくなったから? でも私に怪我はない。なのにシャツは血で染まっている。もしかして濡れ衣着せられた!? 私があの女の子を殺したことにされそう!? シャツを染めている血は私の血じゃなくてさっきの死体の血!? とりあえず隠れなきゃ。何も悪いことしてないのに。むしろ被害者なのに。
そうだ家に電話をかけよう。
小屋の外側の壁に寄りかかって学生鞄から携帯電話を取り出そうとするが鞄がない! もうなんなの! 死ね! ああもうマジで泣く!
その場で蹲るように座るとお尻に違和感。尻ポケットに何か入っているみたいだ。携帯カモンと念じつつポケットを弄ると右のポケットからは煙草と百円ライターが、左のポケットからは携帯電話が出てくる。ありがとう神様! もうここまでくるとなるほど当然携帯は私のものじゃないけど構わない。家の番号は覚えている。
祈るように発信ボタンを押す。
TRRRRR、TRRRRR、TRRRR――
「はいもしもし」
「わたし! い……」
「はい? 誰で――」
お母さんの言葉を最後まで聞かずに通話を切る。
携帯のカメラを起動して自分の顔を撮る。
頭ん中真っ白。
私じゃない。
液晶画面には私じゃない知らない顔が映っている。
何かの間違いかもしれない。
左手で頭頂部と側頭部の丁度間ぐらいの髪の毛をわしゃっと握って再び写メを撮る。
ぞっとする。
液晶画面には私と同じポーズを取った知らない顔が映っている。
携帯をぶん投げて膝の間に顔を埋める。
意味分かんない。
泣きたいけど泣けない。心は泣いてるのに。
非現実的過ぎる現実の理解に涙腺が追いつかない。
私の心は今までにないくらい哀しんでいる。怒っている。絶望している。
家に電話をかけて自分の声色に驚いた。私の声じゃなかった。写メを見て驚いた。私の顔じゃなかった。目は猫みたいな三白眼で大きくてぎょろっとして口も大きい癖のある顔。こんなの私じゃない。髪もだ。触ってみて感触に驚いた。写メを見て血の気が引いた。色素を抜いた金髪だった。金髪で隠れていない耳には銀色のピアスが左右五個ずつ着いていた。軟骨にまで。
私は今どんな顔をして哀しんでいるんだろう。そんなことさえも分からない。私のこの顔は哀しみの色を浮かべているだろうか。私の感情と連動しているだろうか。
ああ……もうマジでなんなの!?
寄りかかる壁の裏側には少女の死体があるし、私は私じゃないし、ここどこだか分からないし、どうやって人に説明したらいいんだろう。
全部なかったことにして爆音で音楽を聴きたい、とか言っても無駄なのはもう分かってて、当然アイポッドもない。クソが!
これから私どうなるんだろう。
私として生活できるんだろうか。
元の私に戻れるんだろうか。
元の私はどこ?
もしかしてこれが元の私?
トラックに轢かれて殺人現場に吹っ飛ばされて、その不可抗力かなんかで身体と顔が別人みたいに突然変異しちゃった? 服も? おまけに不良みたいなピアス穴まで空いてるし。こんなことあり得る? いやいやあり得ないんだけど、あり得ないなりにでも説明して欲しい。理解させて欲しい。納得は……できそうにないけど、とにかく誰かに教えて欲しい。理詰めで説明して欲しい。誰がそんなことできんだよ。神か? 神様ならできんのか? ああ!? おい説明してみろよ! どうしたよほら! ……噓です。説明しないでいいから元に戻して下さい。夢から覚まして下さい。……夢? そうかこれは夢か。それなら納得できる。これは夢なのだ。悪夢なのだ。
頰を思い切りつねる。普通に痛い。ええ!? 夢じゃない? 夢だけど、夢じゃなかったあ! って何でここでトトロだよ! いらねーんだよそんなユーモア! 何にも繫がんねーんだよ! マジで、誰か、ううううううううう。
立ち上がり小屋の壁を思いっ切り蹴っ飛ばす。
ミシィッと音がする。
同じ場所を蹴り続けていたら穴が空きそうだ。
壁を蹴る。
蹴る、蹴る、蹴る蹴る、蹴る蹴る蹴る!
ダガッ、ダガッ、ダガッダギッ、ダガシイギャッ!
見覚えのないスキニージーンズを穿いた私の右足が木造の壁を突き破る。
ビックリしたけどリアクションは特にしない。
私は人の視線がないと静かな女の子なのだ。
穴から足を引き抜くと、穴の向こうに顔以外人外と化した死体が見える。
反射的に顔を逸らす。
死体に背中を向けて蹲る。
もう全部入山君のせいだ。
あいつが私に恋なんてするからだ。
私は入山君の好意に気付いていた。好きじゃなかったら一緒に帰ろうなんて積極的に誘ってくるはずない。私を好いてくれる人と一緒にいるのは悪い気がしなかったから、入山君の誘いを毎回受けた。なんだかいつの間にかそれが日常になっちゃって、あれ? もしかして私入山君のこと受け入れちゃってる? 好きになっちゃってる? とか思ってたけど噓噓撤回。私がそんな簡単に人のこと受け入れるはずない。今までそうやって生きてきたのに、自分を好いてくれる一人の男の子が私の価値観を揺るがせるわけない。人のことを受け入れるってことは、受け入れた分だけ自分を殺すことなのだ。私は私を殺したくないのだ。私は私が好きで、私は私の好きなものが好きなのだ。それで完璧だったのだ。完成していたのだ。
例えば音楽。
「なに聴いてるの?」とよく人に訊かれるが、ついさっきも入山君に訊かれたが、正直に答えた記憶はない。言ってもどうせ誰も分かるはずない。
私はブレイクコアが好きだ。
無秩序で滅茶苦茶なブレイクコアが好きだ。
サンプリング元が分からないほどに細かく素材を裁断して複雑に再構築した奇形の音楽。脳を揺らすような、高密度に圧縮された高速ブレイクビーツ。音楽として成立しているかも危うい、聞く人によっては雑音以外の何物でもない、そんなブレイクコアを好んで聴く。
ブレイクコアを聴いているとなんだか安心する。ヒーリング的な安心じゃなくて、背筋がビッと伸びるような、自分の存在を自覚できるような、そんな安心。こんな赤馬なんてど田舎に吞まれることなく、私はきちんと自分で選んで自分の意思で生きてるぞって実感できる。私は他の誰でもない私だぞって自己暗示をかけられる。マイノリティに属することで逆に安心してる、っていうちょっとイタいパターンに陥っている、っていうのも自分で分かっているけれど、それを分かった上で私は今の私を選んでいる。
ラジオのノイズ、工事現場のボーリング音、都会の喧噪、感度を上げたマイクが拾う割れた風の音。そういう日常の奏でる音も私にとってはブレイクコアだ。
入山君と会ったのもそれがきっかけだった。
あの日は大粒の雨が良い音を立てながら降っていて、私は放課後に教室でそれをずっと聴いていて、気分が乗ってしまって、衝動で自転車を蹴っ飛ばして踏みつけて音楽を奏でていた。
知らない男子がこっちを見ていることには気付いていたけれど、全然気にならなかった。変な噂がたっても何も構いやしない。減って困るような友達もいない。そう思っていた。まさかあれを見ていた男に惚れられるとは。
私は私の噓に気付く。
私が入山君の誘いを毎回受けていたのは、入山君が私を好いていたからってだけじゃなくて、入山君が私のことを受け入れてくれたのが嬉しかったからだ。私が本当の自分をさらけ出して奇行に走っている姿を見てもなお、私を好いてくれた入山君の気持ちが嬉しかったのだ。
私が他人を受け入れないのは、本当の自分を受け入れてもらえるはずないという被害妄想があるからで、私を受け入れてくれた入山君のことが私はちょっと好きだったのだ。受け入れたいと思っていたのだ。
気付いた。気付いてしまった。
ああ、なんかすごい入山君に会いたい。
やっぱ好きかも私。
入山君に本当のことを言いたい。
ブレイクコアが好きですって言いたい。
無意味に噓をついていたことを謝りたい。
って今はそんなセンチメンタルしてる場合じゃない。
今の私は私じゃないんだから、入山君に会ってもお互いに困る。
元に戻りたい。元に戻る方法を考えないと。
「この辺とか怪しいっすけどね。そうっす、宇奈川の……はい、はいはい、オッケーっす。……はーい失礼しまーす」
河川敷に面した道路から男の声が聞こえる。会話相手の声は聞こえないから多分電話だろう。何かを捜しているらしい。もしくは誰か。
もしかして今の私はお尋ね者で、男は私を捜している? 全然あり得る。むしろ文脈的にそれしか考えられない。
死体と二人っきりになるのは嫌だけど、この血まみれの格好でそこら辺をうろついていたらどっからどうみても不審者だし、誰かに通報されかねないので小屋の中に隠れる。
きぃぃぃぃぃぃぃ……。
扉を開けるとお化け屋敷のSEみたいな音が鳴る。
扉を閉めるとまたお化け屋敷の音。
さっきは気付かなかったけど死体がうっすらと臭う。腐臭。
殺されてまだそんなに日は経っていないのだろう。目に見える腐敗はないが、シンクの脇の夏の生ごみみたいな臭いがうっすらと鼻をつく。
男の足音が近づいてくる。
息を殺す。
確固とした意思を持って足音はこの小屋に近づいてくる。
私はまた勘違いをしたのかもしれない。
男が捜しているのは私じゃなくてこの小屋かもしれない。それかこの死体。
被害妄想が強すぎた。自意識が過剰だった。
トラックに轢かれて目を開けたら知らない小屋の中にいて、目の前に死体があって、顔も服装も変わっていた。こんなに酷いことが続いているんだ、また酷いことが続くに違いないという変な確信があった。その確信が、男が捜しているのは私に違いないという勘違いをさせたのだ。
あまり遠くまで移動しないでも、小屋の側から見えない場所に身を隠すくらいはできたはずだ。何でわざわざ小屋の中なんて密室に入ったのだろう。ここじゃ逃げ場がない。
こうなったら私には祈るしかない。
すべて私の勘違いでありますように。本当にすべて。トラックに轢かれたのも顔が変わってしまったのも、まるごと全部まとめてすべて。
祈りは届かなかった。
誰に?
神に。
神なんていない。
きぃぃぃぃぃぃぃ……。
扉からチャラそうな男の顔が覗く。
ワックスとヘアスプレーで鳥みたいな髪型をしたチャラ男。苦手なタイプだ。
顔以外軟体動物の死体と血まみれの私を見てチャラ男はフリーズする。
私はチャラ男を睨みつける。
「……おいおいマヂかよ、弾んでくれっかなハカナシさん。お前痛い目あいたくなかったらそのままじっとしてろ」
チャラ男は死体を挟んで私と対峙して、ポケットから携帯電話を取り出す。きっと仲間を呼ぶつもりだ。警察かもしれない。チャラ男は私と携帯の液晶を同時に見ながらニヤニヤ笑ってわざとらしく余裕を演出する。
私の背中側の壁、私の斜め後ろにはさっき蹴り空けた穴があるが、それはそこから逃げられるようなサイズじゃない。
穴と反対側の私の斜め後ろには、部屋の角に立てかけられた鉄パイプがある。少女の骨を折った凶器。
出口を塞ぐように立つチャラ男と私の距離は二メートルもない。
いける。
私はふらりとバランスを崩すように斜め後ろに移動して、血に染まった鉄パイプを摑み、突進するようにチャラ男との距離を詰め、脳天を思い切り殴る。
鉄パイプが細かく震えて手が痺れる。
鉄パイプを握った両手が色んなことを知る。
頭部の肉の薄さ、頭蓋骨の硬さ、脳味噌の柔らかさ。
頭蓋骨と一緒に脳味噌まで潰れた。
脳天から噴き出る血で天井に線を引きながら、チャラ男は仰向けに倒れた。上半身だけが扉の外に出た。
日光を浴びて血がぬらりと光る。
頭蓋骨と一緒に潰れた脳味噌はピンクとグレーの中間色で、初めて見るその色に神々しさに近いものを感じる。
目と耳から溢れる血はきちんと赤色で、何故か私はほっとする。
確認するまでもなくチャラ男は死んでいる。
深呼吸。
私がここにいるのは誰にもバレていないことになった。
振り出しに戻った……わけじゃない。
死体が一つ増えた。増やした。
今度は本当に私が殺した。
人ってこんな簡単に死ぬんだ。
人ってこんな簡単に殺せるんだ。
「あーあ、また面倒くさいことしてくれちゃって。想像力の欠如は生の実感の欠如だって気付いてる?」
私が殺したチャラ男とは別の、ふざけた男の声が聞こえて振り返る。
さっき私が蹴り空けた穴から、狐みたいな顔をした男が顔を覗かせている。
私は鉄パイプを握り直し、男の顔に向けて思い切り突く。
「どわっ!」
鉄パイプが男の額を潰す直前、穴から顔が消えた。避けられた。
どうしよう。見られてしまった。
警察にチクられたらもう私の人生終わりだ。
私じゃないのに。いや、チャラ男を殺したのは私だけど、女の子を殺したのは私じゃないのに。もっと言ったら誰かが女の子を殺さなければ私はチャラ男を殺さないですんだのに。私がいつもの私、本当の私のままだったらこんなわけ分かんない状況になることもなかったのに。
男は逃げたか? まだ小屋の側にいるか? 追いかければ間に合うか? 殺せるか?
なんでさっきから私は暴力や殺しを選択肢としてあげて、しかもそれを選択しているんだろう。本当の私じゃないから? 本当の私の身体じゃないから自分の手を汚すことに抵抗がないのだろうか。
今こんなことを考えても無駄だ。もう私は人を一人殺してしまった。
鉄パイプを強く握りしめ、「ふぃぃぃぃぃぃ」と細長く息を吐き、少女の死体を跨ぎ、チャラ男の死体を踏みつけて小屋の外に出る。
「自分から出て来てくれるとはこれ幸いだ」
狐っぽい男は小屋から三メートルほど距離を取って立っていた。
これだけ距離を取られては殺しにかかれない。鉄パイプの長さは私の身長より少し短いくらいだ。男と私の間には鉄パイプの長さの約二倍の距離がある。
ひょろりとした長身に細くて長い手足。黒のスーツに黒のネクタイ。まるで喪服だ。狐みたいな切れ長の目をしている。神社の境内に腰掛ける狐の姿が脳裏に浮かぶ。
男が鉄パイプを指差す。
「それ捨ててくれないかな。とりあえず話がしたいんだ」
「こんだけ離れてるんだから持ってようが持ってなかろうが関係ないでしょ」
まただ。私の声じゃない。
「気分の問題だよ。穏やかじゃないものを持つ人と穏やかな話はできないからね。人を殺すのはいつだって人間じゃなくて凶器なんだ」
「…………」
私は鉄パイプを離さない。
この男の意図が分からないうちは『殺す』という選択肢を放棄するわけにはいかない。
「いやまあこれだけ離れていれば本当に気分の問題だからどっちでもいいんだけどさ。大人の話は素直に聞くべき……だとは思わないな。思想のない反抗こそが青春の美しさかもね」
男はこれだけ距離が離れているというのにちっとも声を張らない。まるでひとり言を言っているみたいだ。ちょっとした風でも吹けばすぐに男の声は聞こえなくなってしまうだろう。
「ちょっと質問が続くけど穏やかに答えてくれるかい? 質問に答えるだけでいいからさ」
「質問されるのは好きじゃないんだけど」
男は大袈裟に溜め息をつく。
「やっぱりさっきの撤回だ。思想のない反抗はただただ大人にとっては面倒くさいだけだ。美しくもなんともない。うざいだけだ。じゃあいいよ質問を減らそう。一つでいい。君の名前は?」
「飯田いくみ」
「武藤ムツムじゃなくて?」
「飯田いくみ」
「悪いね、二回質問しちゃった。いくみん、君のことを救ってあげる」
男の脈絡のない台詞に言葉をなくす。
男は薄ら笑いを浮かべながら私を見ている。まるで公園で遊ぶ孫を見守る好々爺のような表情だ。
この男、舐めている。
「そんなの……どうやって。あなた私のこと騙そうとしてるのかもしれないでしょ。私に何が起こってるか分かって言ってる? 説明できる?」
男は額に右手を当て、やれやれって文字が見えそうなポーズを取り、スーツの内ポケットに左手を入れ、銃を取り出した。
銃?
ずっしりと重そうな艶消しの黒い銃。
照準が私の額にピタリと合わされているのが分かる。
「はーい、いくみん、鉄パイプ捨ててー」
男を睨みつける私の目は潤んでいるかもしれない。
男の糸目には薄ら笑いが浮かんでいる。
銃の照準は私の額に合っている。
右手を開く。
鉄パイプがカランと音を立てて落ちる。
「ね? 穏やかじゃないものを持つ人と穏やかな話はできないだろう? はい、じゃあ僕の指示に従って歩ーく。回れ右して前進。いっちにっ、いっちに、いっちにっ……ストーップ。はいそこ睨みつけなーい。また回れ右して前進、河川敷を上って下さーい……いっちにっ、いっちにっ……はいストーップ。銃口はまだ君のこと狙ってますよー。逃げないで下さいねー」
不本意ながら男の指示に従って河川敷を上ると、コンクリートで舗装された、車が一台通れるくらいの幅の道路に出た。道路の真ん中に銃と似た黒色の長い車が止まっている。もしかしてベンツ?
私の横顔に銃の照準を合わせたまま男も河川敷を上ってくる。
「鍵は開いてるから適当に座ってくれ」
指示に従う振りをして運転席に乗り込んでこの男を轢き殺してやろうか。そんな突拍子もない策が浮かんだが、ドアの鍵が開いているからと言って鍵が挿しっぱなしだとは限らない。
男の指示に従っておとなしく後部座席に乗り込む。
ふかふかのシートに広い座席。乗り心地が良くてムカつく。
男が運転席に乗り込み、ダッシュボードに銃をしまう。
「今僕は銃をしまった。この車という密室の中、穏やかじゃないものを持つ者は一人もいない。お互いに丸腰だ。これでやっと穏やかに話ができる」
男は挿しっぱなしになっていた鍵を回してエンジンをふかす。
「僕は今本当に丸腰だから、君がその気になって後ろから首を絞めようとすればさくっと殺せるかもしれない。いや、でもその前に事故って二人してあぼんかな。まあそんなのはどうでもよくて、僕が何を言いたいかって言うと、信用してくれってことだ」
さっきまで銃口を私に向けていた人間を信用しろっていうのが無理だけど、とりあえずこの男には今、私を殺そうという意思はないように見える。さっきだって殺そうと思えば私の額を撃ち抜いて何度でも殺せたのだ。この男には何らかの目的があり、その目的の達成のために私は車に乗せられたのだろう。
控えめにエンジン音をたてながら車が走り出す。
「これどこに向かってるの?」
「僕んち」
「何のために?」
「心配してる? 大丈夫、そういう趣味はないから襲ったりしないよ」
「じゃなくて、なんで私があなたの家に行かなくちゃいけないのかって」
「だって君、行く宛でもあるのかい?」
そうだ。私には行く宛がない。血まみれの服を纏って歩き回るわけにもいかない。今はこの男に従うしかないのだ。
「帰ったら全部教えてあげるよ。今は、そうだな、世間話でもしようじゃないか」
「……はあ」
「その声には慣れたかい?」
私の声じゃないのに、私の喉から出る声。
この男は私の身に起こったことを本当に全部説明できるのかもしれない。
「……慣れないわよ。自分の声じゃないみたいっていうか、本当に自分の声なのかどうか、これが自分なのかどうか」
「なるほど、自分の現状はあらかた理解してるんだね。理論づけられていないだけで。一人じゃ前進できないパターンだ」
「あなたはどれだけ知ってるの? 本当に全部説明してくれるの?」
「どれだけって、九割くらいかな。だから全部とはいかないけど後でまるっと説明してあげるって」
やはりさっきの小屋は赤馬だったらしい。
後部座席から車窓が切り取る景色を眺めていると、十分ほどで見覚えのある道に出た。親の買い物を手伝うときに車でいつも通る国道六号線。
あの小屋は学校と五キロくらいしか離れていないことになる。
そしてさらに二十分ほど景色を眺めていると、周囲の景観から一つだけ浮いている高層マンションの前に到着した。赤馬にも高層マンションなんてあったんだ。また知らない場所だ。
「ちょっと待ってて、部屋から適当に着れるもの持ってくるから。そんな血まみれの格好で歩かれたんじゃご近所付き合いに支障が出るからね」
そう言って男は私を一人残して車を出た。
男の名前を聞いていないことに気付く。
男は私のことを救ってくれると言ったけど、今の私を救うってどういう意味だろう。私の殺しをなかったことにしてくれるんだろうか。私を元の身体に戻してくれるんだろうか。
しばらくして男はユニクロの紙袋を持って戻ってきた。
「これ多分、君でも着れるから」
「ありがとう。あの、名前まだ聞いてなかった」
「ハカナシシズム。お墓が無いに沈黙の沈で墓無沈」
「変な名前」
「親がくれた大事な名前だ、っていうのは噓だけど。君はなんだっけ? 一回聞いたけど忘れちゃった」
「飯田いくみ」
「そうだったそうだった。いくみんだね。武藤ムツムじゃなくて」
「その武藤ムツムって誰なの?」
「まあ今は取りあえず着替えてくれよ。僕は喉が渇いたんだ」
墓無沈。
ハカナシさん。
私が殺したチャラ男がその名前を呼んでいた気がする。
墓無とあのチャラ男は知り合いなのだろうか。
私が死体にしたチャラ男は墓無の名前を口にしたとき、どんな文脈のことを言っていたっけ? 思い出せない。
墓無は仲間を殺された復讐を果たすため、自宅で私を酷い目に遭わすつもりだろうか。いや、多分それはない。それならあの小屋の前、河川敷で、私の額を銃で撃ち抜けばよかったのだ。いやでも待てよ。本当はあれは偽物で、モデルガンかなにかで、脅しにしか使えない模造品で、模造品じゃ私を殺せないから、自宅に連れ込み十分な凶器の準備のもとで私を殺すつもりかもしれない。いや、でも、そんなややこしいことする必要があるだろうか。それに自宅でわざわざ人を殺したくはないだろう。
「早くしてくれないかな。僕は乾燥肌なんだ」
車窓の向こうで墓無がリップクリームを塗っている。
この男は多分大丈夫だ、と思うことにする。