アリス・エクス・マキナ
第五回
伊吹契 Illustration/大槍葦人
伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!
Chapter.5 反転
1
制限速度一杯で街を走り抜け、やがて辿り着いた工房の敷地内へと、ミニバンを進入させる。飛び降りるように降車すれば、一拍遅れて、助手席側のドアから不満げな顔の後輩。唇を尖らせ、じっとりとした目つきでこちらを見つめている。
「駐車場でこっち見てたのがロザって子じゃないかって疑ってるんですよね? 先輩は」
車中で、莉子から投げかけられた言葉が脳裏を巡る。明哲な指摘に惑いながらも肯定した俺に、彼女はこう言った。先輩にとって、アリスって何です?
答えられなかった。真剣な顔で問うた後輩に、示してやれる答えを俺は持っていなかった。
アリスは道具。調律師としての俺の飯の種。そう答えることは簡単だった。だがその言葉が、一面的な愚答であることもまた、容易に得られる実相だった。
アリスとは何なのか。日々の生活において何体ものアリスと触れあう中で、俺には幾度も、その疑問を突き詰める機会が与えられた。そのたびに考え、悩み、そして答えを模索する作業を放棄してきた。だから押し黙った。莉子もまた、それ以上は何も口にしなかった。
「ロザ、戻ったぞ」
鉄扉を押し開け、少女がいるであろう居間に向かって声を掛ける。恐々といった様子で玄関に入ってきた莉子が、俺の様子を気遣ってか、音を立てぬようゆっくりとドアを閉めた。
「済まん、上がってくれ長谷川」
靴を脱ぎ、莉子にそう言いながら居間へ向かう。ロザからの返事はないが、だからといって居ないとは限らない。何かしらの理由でスリープモードにでもなっていれば、返事などできようはずもないからだ。
居間へ入り莉子をソファに掛けさせる。そのまま少し待つように言い、俺は一人で工房内を闊歩する。寝室、研究室、浴室。いずれの部屋にも、少女の姿はない。待っているように言ったのに、留守番を頼むと告げたのに、少女の姿はない。
暗く淀んでいく心情と反比例するように、その明度を増していく一つの確信。莉子の見かけた人影は、やはりロザなのだ。俺の命を破って工房から姿を消しているのが何よりの証拠。
全身から力が抜けていくのを感じる。どうしてだ。どうして居てくれないのだ。信じたかったのに。昨日の笑顔を、涙を、信じたかったのに。
俺は一つ溜息を漏らし、それからゆるりと頭を振る。考えていても仕方がないと自身を奮い立たせ、再び居間へと足を向けた。
「済まん。待たせたな」
居間へ戻り、珈琲メーカーのスイッチに触れる。ソファに浅く座った莉子は、緊張でもしているのか妙に縮こまった印象だ。俺が何を確認したかったか、具体的に説明はしていないものの、彼女には見当がついているのだろう。無論、確認の結果がどうであったかも。
「ここって、先輩のお家なんですよね?」
辺りを見回しながら、莉子は問う。ロザに関連しない話題で場を繫ごうとしているのが見え見えだ。先刻からの俺の振る舞いは、どうやら後輩に威圧感を与えてしまっているらしい。
「ああ。そうだ」
「意外と綺麗にしてますね。わたしの部屋よりずっと綺麗かも」
「ロザが片付けてくれてるからな」
そう答え、押し黙ってしまった莉子の表情に軽い自己嫌悪を覚える。何をやっているんだ俺は。莉子を苛めてどうする。無理やりに工房へまで連れてきて、貴重な休日の時間を奪い、そのうえ気を遣って話題を選んでくれている後輩に嫌みったらしい台詞を投げつける。最悪の先輩じゃないか。
「済まん。どうにも苛立っているみたいだ」
言って、食事用に使用しているチェアに腰掛けた。ソファの莉子と向かい合う。
「あ、先輩……」
話題を探していたらしい莉子が、無理やりといった印象で口を開いた時だった。玄関から物音が響いたかと思うと、直ぐに甲高い声が飛んでくる。俺達に遅れること15分。姫君のご帰還のようだった。
「申し訳ございません先生。ちょっとお買い物に出ておりました」
慌しい足音が廊下から聞こえ、開け放していた居間の入り口ドアの隙間から、小さな身体を滑り込ませるようにして、ロザが姿を現した。オフホワイトのタートルネックのセーターと細身のデニムパンツに身を包み、小さな手からはジャンクショップの袋を提げている。そういえば今日はこんな格好をしていたなと、その姿を見、俺はぼんやりと考える。
「あ、お客様がいらっしゃっていたのですね。えっと、長谷川様でよろしいでしょうか?」
腰を屈めて足元に袋を置き、ロザは莉子を真っ直ぐに見つめる。ソファから立ち上がった莉子が、何だか妙な様子で少女に頭を下げた。俺に気を遣ってか、あるいは単に、自社の製品であるアリスに頭を下げることに慣れていないためか、理由は分からない。
「初めまして。不在にしておりまして大変失礼致しました。ALICEXタイプ7055、ロザと申します。調律のため、朝倉先生の工房に9日前からお世話になっております」
随分と長ったらしい挨拶を、少女は丁寧に、滑舌よく口にする。俺がまだ一言も口をきいていないことには、ロザは気がついていないらしい。にこにこと柔らかな笑みを浮かべ、俺と莉子とを交互に見つめている。漂う雰囲気に居心地を悪くしたのか、莉子が非難するような視線を俺に送ってきているのが分かる。
「先生、それじゃわたし、お夕食の準備を致しますね。温かいシチューにしようと思うのですけれど、よろしいでしょうか。長谷川様は、お夕食は召し上がっていかれますか?」
何故だろう。華やいだ空気を小さな身体から撒き散らし、楽しそうに語るロザの姿が、嫌に癪に障る。ここには莉子もいる。苛立ってはいけないと思いながらも、どうにも胸がざわめく。少女の質問には答えず、代わりに問いかけた。
「ロザ、どこに行っていた?」
意図した以上に、随分と冷たい口調になった。ロザは一瞬驚いたような表情を作ったあと、おずおずと答える。
「えと、ジャンクショップに食材を買いに行っておりました」
想定内の回答だ。足元に置いてある袋は確かにジャンクショップのものだ。アリバイ作りなのか何なのか知らんが、ジャンクショップへ立ち寄ったのは確かだろうと思う。
「一人で勝手に外に出るなと、俺は以前お前に言わなかったか?」
焙煎豆を買いにカフェへ出向いた際のことだ。一人で買いに行けると主張したロザに、一度俺は調律中のアリスを一人で外出させるわけにはいかないと、理由含め説明したことがあった。ロザは視線を伏せ、深々と頭を下げてみせる。
「申し訳ございません先生。お夕食の食材のストックがあまりございませんで、近くのジャンクショップまでですし、問題ないかと勝手な判断を致しました」
近くのジャンクショップまで。ロザはあくまでそう口にする。俺を馬鹿にしているのかと、気持ちが昂ぶるのを感じる。
「ジャンクショップまで行って来たのか。本当にそれだけか?」
重ねて問い、脅えたように揺らぎ始めた少女の瞳を見つめる。噓をつけロザ。お前はPhysical Illusion社まで足を向けたはずだ。何が目的かは知らないが、駐車場に身を潜め、俺の様子を監視していたはずだ。果たして少女は、怪訝そうな表情で俺を見つめ返した。
「はい。ジャンクショップまでですが。あ、勿論、それでも先生とのお約束を破ったのは事実ですし、もう二度とこのようなことは……」
「そうじゃないっ」
俺は声を荒らげ、ロザを睨み付ける。どうして自分はこうにも餓鬼なのだろうと、ふがいない思いに駆られながら。
「Physical Illusion社の駐車場で、お前を見た。俺だけじゃない、長谷川も確認してる。いいかロザ、よく聞け。一人で外出するなという指示を破ったことについては、こうして無事に帰ってきてくれている以上、もう責める気はない。今後控えてくれればそれでいい。お前がPhysical Illusion社まで行ったことについても、その行為自体を責めたいわけじゃない。何かしらの事情があって、Physical Illusion社にまで足を向ける必要があったのなら、それはそれでいい。だが、何故それを隠すんだ。何故こそこそと陰で動きまわるようなまねをするんだ?」
長い言葉を一気に紡ぎ、それから俺は大きく息をついた。無論、ロザを駐車場で見たなどというのは噓だ。鎌をかけてみたわけだが、上手くいったかは分からない。少なくとも、器用なやり口ではなかったと思う。
視線の隅で莉子が、巻き込まれた、と不満そうに呟いている。俺の言葉を受けたロザは悲痛な表情で、やや前かがみになって答えた。
「先生、何か誤解していらっしゃいます。わたし、Physical Illusion社へ行ったりなんてしていません。お夕食の食材を買いに、ジャンクショップまで行ってきただけです。それまではずっとここでお掃除をしておりました」
信じてください、とそう付け足し、ロザは瞳を伏せる。端正な顔が歪み、何だか泣き出してしまいそうにも見える。
「そうか。俺の誤解か。あまり馬鹿にするなよロザ」
「先生っ」
ひどい言葉を吐くものだと、自分でも思う。だが止まらなかった。俺はいつから、こんなにも感情的な人間になったのだろう。小さな声でもう一度先生と呟いたロザが両手で自身の顔を覆う様を、視線を伏せた俺は視界の端に捉える。泣かせてしまったらしい。確かユニークエレメントと言っていたか。Physical Illusion社も何とも余計な機能を付けてくれたものだ。
室内に響き渡るロザの嗚咽。胸が痛い。俺とて、こんな展開を望んでいたわけではなかった。いや、こんなのは言い訳だ。ロザの言葉を信じず、代わりに酷い台詞を投げつけて、何をほざくか。
嫌になる。この状況も、何かを隠したままのロザも、自身を正当化することに必死な俺という卑劣漢も。頭を振り、何度目か分からぬ溜息を一つ、漏らした時だった。
「こらいい加減にしろっ。アホかお前は」
言葉と共に、脳天を衝撃が貫いた。慌てて顔を上げれば、立ち上がり俺を見下ろす莉子の姿。右の手を胸元で握り締め、表情をゆがませている。どうやら俺はあの右手で殴られたらしい。
「何だよ長谷川。ていうか殴るなお前、先輩だぞ」
「知るかっ。女の子を泣かせて楽しんでるような奴は先輩じゃないですっ」
相も変わらず敬体常体ごちゃ混ぜの台詞を吐く後輩は、鼻息荒くそう告げる。楽しんではいないと言いたいところだが、下手な反論はやぶへびになりそうだ。
突然の出来事に驚いたのか、あるいはオイルのストックが切れでもしたのか、泣き止んだロザが駆け寄ってきた。俺と莉子との間に身体を滑り込ませ、しかし何を言うでも無くただおろおろとしている。
「兎に角、先輩の気持ちも分かりますけど、ちょっと落ち着いて話してあげてください。ロザちゃんの言うことを端から信用しないんじゃ、まともな会話なんてできないじゃないですか」
「まあ、そうかもしれないが……」
情けない。だが莉子の言う通りだ。昨日も年若い女性から叱責を受けたが、こういうことがある度に、俺は本当に餓鬼なのだと再認識させられる。クールでスマートな朝倉先生は一体どこへ行ってしまったのか。
「はい。じゃあご飯でも食べながらゆっくり話をしましょうね。先輩はそこで少し反省する。ロザちゃんはわたしと一緒に夕食の準備。あ、わたしも食べていくからよろしくね」
唐突に仕切り始めた莉子と、戸惑うようにしながらも指示に従うロザを一瞥し、それから俺は目を閉じる。どうにもこうにも、気まずくてならない。
2
漂うビーフシチューの濃厚な香り。中央のテーブルを強引にソファに寄せ、莉子と向かい合ってスプーンを握り締める。
俺を殴ったことで緊張が解れでもしたのか、後輩は先程から楽しそうな笑い声を狭い室内に響かせている。ロザは俺の後ろ。腰元に手を組んで屹立し、口を開こうとはしない。
正直なところ、どうしてこうなったのだろうと思う。多分に乱暴な手法になろうと、ロザの真意を、行動の目的を、俺は問い詰めたいというのに。妙にロザの肩を持とうとする後輩を工房にまで引っ張ってきたのは失敗だったのかもしれない。
「ロザ……」
振り向くことなく少女に声を掛け、俺は裏返したスプーンを器の縁に立てかけた。
「はい、先生」
小声での返事と共に数歩足を進め、少女は俺の視界に姿を現す。視線を伏せ、僅かに身体を縮こまらせ、俺の口から紡がれるのが叱責の言葉であると確信しているかのような態度で、続く台詞を待っている。
「俺が工房を出た後、お前はここの掃除をし、それから食材のストックが不足していることに気がついて、ジャンクショップへ買い物へでた。Physical Illusion社などへは当然行っていないし、それ以外に、俺が今述べた以上の行動をとってもいない。そういうことでいいんだな?」
莉子の目もある。できるだけ穏やかな口調を心がけ、俺は少女にそう問うた。ロザは頷き、特有の惑うような表情で、俺を見つめる。行儀悪く頰杖をついた莉子が、監視するようにこちらに視線を送っている。俺が声を荒らげるようなことがあれば、恐らくはまた拳が飛んでくるのだろう。
「分かった。であれば、とりあえずは信用する。さっきは済まなかった」
そう告げ、俺は再びスプーンを手に取る。シチューに添えられているのは、米ではなく焼き上げられたパンだ。俺のこれまでの生活習慣に照らし合わせれば、夕食にパンを食すのは珍しいことだった。
「良かった。ありがとうございます先生」
目尻を下げ、心底安堵したといった表情で、ロザは自身の小さな胸に重ねた両手を押し当てた。相も変わらず古風な仕草だ。
実際のところ、俺にロザを全面的に信用する気は毛頭なかった。と言うより、彼女のこれまでの言動を思い返せば、そのような安穏とした判断などできようはずもない。
さりとて、これ以上お前は信用できないなどとぬかすことに意味もない。ロザがどれ程に不審な行動をとろうとも、依頼された調律を放棄することは俺の調律師としてのプライドが許さない。そしてそのプライドがある以上、俺とロザとの共同生活はあと5日、確実に続くことになる。剣吞とした関係性を保ったまま残期間を過ごし、残りの調律作業にも影響を与えるよりは、表面的にでも仲睦まじく過ごすほうが遥かに建設的と言えるだろう。
「礼を言うようなことじゃないさ。ただ……。いや、止めておこう」
そう述べ、小さく息を吐く。食卓には莉子もいる。あくまで俺とロザとで話し合われるべき事柄を話題に据え続けるのはよろしくない。
無茶な頼みごとをした挙句、工房まで連れ帰り、見苦しい揉め事をいつまでも見せ付け続ける。今日莉子と会ったのは彼女からの誘いが元とはいえ、さすがに無礼だろう。
「もしかしてわたしに気を遣ってます? 構いませんよ別に。まあ、三人で楽しい話ができるのなら、それはその方が嬉しいですけど」
恐らく意図的にだろう、莉子はからからと笑って見せ、それから俺とロザを交互に見ながら姿勢を正した。
「ロザ、話の続きはまた後でしよう。いいか?」
言えば、少女は穏やかながらも、しかし真剣な面持ちで頷いてみせた。意識して話しているのでそうでなくては困るが、ロザの落ち着いた様子を見るに、俺の口調や態度からもう威圧感の類は消えているようだ。
「そういえばお前の簪、孝一に預かってもらったよ。直してくれるらしい。あいつは俺と違って不細工だが、腕はいいからな。2、3日できっと、綺麗に元通りになる」
話題を変え、俺はロザに笑顔を向ける。つられてか、あるいは気を遣ってか、ロザも華やいだ表情を見せた。ありがとうございます先生と、丁寧に頭を下げる。
「簪かぁ。ロザちゃん随分と風情のあるもの持ってるんだねぇ。わたし持ってないや。もう歳だし、一つくらい持ってた方がいいのかな。どう思います先輩?」
これは莉子。場を和ませるのに協力してくれているのだろうか。あり難いが、簪の実用性については正直良く分からない。知らんと答え、珈琲を一口。
「それに、歳ってわけでもないだろう。お前まだ20代だよな?」
「まあそうですけど、もう直ぐ30ですよ。あれ、ロザちゃんって何歳?」
ころころと表情を変えながら、莉子はしかし妙なことを聞く。アリスに年齢は無いはずだ。
「お答えするのは製造年月日でよろしいでしょうか、長谷川様?」
「うんうん。何となく気になっちゃって。別に意味はないよ」
一瞬何かと思ったが、後輩の表情から判断するに、本当にただの雑談のようだ。折角食卓が良い雰囲気になったところだ。会話を途切れさせまいと努力してくれているのだろう。
「素体の製造日は3年前の8月10日。カスタムを終了しての出荷日は同8月の29日になります。ユニークエレメントの実装がありましたので、通常よりややカスタムに時間を要しました」
莉子の質問に、笑顔ではきはきと答える少女。その回答に俺は少し安堵する。あきらの誕生日は2月の11日。アリスの製造日を人間で言うところの誕生日と捉えるならば、ロザとあきらとの間で、一致もしくは相似しない要素が一つ増えたこととなる。
「じゃあロザちゃんは3歳か。うんうん、可愛いねぇ」
ロザと視線を合わせ、僅か程も意味の分からぬ感想を口にする後輩の横顔を眺めながら、俺はまた一つ息をつく。
食事を終えたら研究室に戻り、初回の接続時に端末に保存したロザの個体識別番号を確認しなければならない。それを莉子に伝え、それから彼女を自宅まで送り届け、ロザと話の続きをする。全て終わったら、今日の分の調律作業も少しは進める必要がある。大体は自ら招いたものとはいえ、何とも忙しい。
シチューの最後の一口を味わいながら、テーブル上に置かれたタブレットにそっと指を伸ばした。19時5分。調律作業に取り掛かるのは何時になるだろう。ぼんやりと、そんなことを考えた。
3
莉子を自宅まで送り届け、ミニバンを操って工房へと向かう。後部座席にはロザ。今日は一日中ハンドルを握っているような気がする。
「先生、お疲れではないですか? 今日はお忙しかったようですし」
重ねた両の手を自身の股間付近に置いた上品な姿勢で、ロザが口を開いた。
「いや、問題ない。あちらこちら行きはしたが、遊びみたいなもんだったしな」
前方に目を向けたまま答酬する。バックミラーに刹那視線をやり、背後の少女の表情を覗き見た。細い眉を寄せた、俺の身を心底案じているかのような悲痛な面持ち。どこまでが本心なのか、深い疑いの目をもってしても、推し量るのは難しい。
「話の続きをしようか、ロザ。俺がそもそも何故、お前に疑念を抱くに至ったかだ」
言えば、ハンドルを握る掌に、僅かに汗がにじむのを感じる。俺は一体何に緊張を覚えているのか。少女の言の通り、自覚には至らずとも身体は疲労を訴えているのかもしれない。鏡の中のロザは頷き、それから小さな声で、はい先生、と応じた。
「時系列に沿って話すぞ。まず、アリサと一緒にショッピングモールに行った時のことだ」
一つ唾を飲み込んで、それから俺は改めて口を開く。顔を真っ直ぐに前に向けたロザの視線を、項の辺りに強く感じる。
「シアターの前で何やら考えこんでいるアリサの背に、お前は酷く冷たい視線を向けていた。お前は考え事をしていただのと誤魔化したが、俺は見ていた。親の敵でも見るかのような、憎悪に満ちた視線だった」
今でもはっきりと覚えている。俺がロザに対し疑念を抱くきっかけになったのは確かにあの出来事だったように思う。ロザは小さく息をつき、しかし何も答えない。
「その後、俺達はトイショップに寄ったな。お前はその場でも感情を露にした。俺とアリサを置いて、一人でどこかへ行ってしまった。追いかけていった俺に対して、お前はその行動をアリサへの嫉妬と説明した。本当に嫉妬が原因だったのなら、あの時のお前の行動には筋が通らないこともない。だが、その嫉妬と言うのがそもそも疑わしい。あれがお前が工房にきて何日目のことだったか、ちょっと思い出せないが、少なくとも俺とお前の間に、嫉妬などという感情が芽生えるだけの関係性はできあがっちゃいなかった」
喉が渇く。長い台詞を口にしているからだろうか。少女は何も言わず、ただ俺の言葉に耳を傾けている。
「ショッピングモールから帰ってきて、お前は祭りに行きたいと言い出した。あろうことか、あきらが昔俺に対し口にしたのと、ほぼ同じ文言でだ。こいつはもしかしたら、ただの偶然なのかもしれない。だが俺にとっちゃ、疑いの念を増幅させるのに充分たる要素だ」
何を思い出しておられたんです、と少女はあの時俺に問うた。それはまるで、少女があきらを知っているかのような口ぶりでさえあった。無論、少女があきらを知らぬことはプロパティファイルから確認できている。
「今にして思えば、お前が何故あれ程祭りに固執したのかもよく分からない。浴衣一式、お前は工房へ持ってきていたな。祭りに行くことを、お前が工房へ来る前から既に決めていたってことだ。俺が断ったらどうするつもりだった。一人ででも行ったのか?」
変わらず、少女は何も話さない。俺は構わずに続ける。
「それに加えて、今日のことだ。誰かがPhysical Illusion社の駐車場で、俺と長谷川のことを観察していたらしい。噓をついて済まなかったが、俺はそいつを見てはいない。長谷川が、こちらを真っ直ぐに見つめる人影を見たというだけだ。これはお前じゃないということだったが、何にせよ、不審な出来事には違いない」
俺は一度言葉を切った。信号待ちの停車を機に、振り返ってロザの顔を眺め見る。少女は瞳を閉じていた。
「ひとつひとつは、そりゃ大したことじゃない。だがこれらに加えて、あきらにそっくりなお前の容姿、声。細かいところまで言えば、身長までも同じなんだ。俺がお前と、お前のオーナーに対して疑いの目を向けるのも、仕方がないとは言えないか?」
信号が変わった。視線を前方に戻し、アクセルペダルを踏みつける。少しして、バックミラーに再び目をやる。ロザがゆっくりと瞳を開くのが見えた。
「先生がお疑いになるのも、仕方がないかなと、そう思います」
済んだソプラノが狭苦しい車内に響く。ロザは寂しそうに、しかしはっきりとした口調で、そう答えた。
「勿論、だからと言ってお前の調律に関して手を抜いたり、あるいは調律そのものを中断したり、そういうつまらないことをする気はない。だが余程のことがない限り、例えばお前が本当に何らかの目的を持って工房へ来ていて、その目的を包み隠さず話してくれたりな、まあそういうことでもない限り、俺はこれからも幾らかの疑いの目をお前に向けてしまうと思う。もし今言ったようなことが全てただの偶然であったり、単に俺の気にしすぎであったりするならば、そりゃ申し訳ないとは思うが、まあ、どうしてもそうなってしまうことを、お前には許してほしい。話はそれだけだ。いいか? ロザ」
はっきりと疑われていると認識したことで、少女が何か話してはくれまいか。そう期待を込めた問いではあった。だが、果たして希みは果たされなかった。少女は小さく頷き、それから少し、笑った。
「疑われついでに、一つおかしなことをお聞きしてもよろしいですか? 先生」
「何だ? 言ってみろ」
失望を胸の奥に押し隠し、俺は言葉の続きを促す。バックミラーにその端正な顔を映すアリスは暫し沈黙し、それから静かに、口を開いた。
「もしわたしが……」
少女は言葉を切る。後頭部にまで押し迫る、冷たい吐息。何故だろう。まるで少女と俺とが別の世界にでも属しているかのような、妙な錯覚を覚える。俺の困惑を知ってか知らずか、鏡の国のアリスは小さく嗤い、薄桃色の唇を震わせた。
「もしわたしが、抱いてくださいとお願いしたのなら、先生はわたしを、抱いてくださいますか?」
一瞬、思考が止まりそうになった。何を言い出すかと思えば、抱いてくれとは。いや、少し違うか。もしそう言ったならば、俺はどうするか、問われているのはそれだ。
「念のために聞くが、抱きしめて欲しいという意味ではないんだよな?」
言っていて、自分の馬鹿さ加減に少し呆れる。どこの中学生だ。そんな意味であるはずがない。少女は笑い、またこちらに視線を向ける。
「勿論違います。わたしを相手に、性交渉を行っていただくという意味です。もっとはっきり申し上げましょうか?」
台詞のせいだろうか。バックミラー越しに見える少女の笑みが、随分と妖艶に映る。
「結構だ。答える前に一つ教えてくれ。そいつはオーナーの指示か?」
「さあ、どうでしょう」
「答える気は無しか。だがいずれにしろノーだ。アリスを抱く気は一切無い。相手がお前だろうと、他のアリスだろうとな」
答え、意識して唇を固く結んだ。ふざけた問答は終わりだ。
アクセルペダルを乱暴に踏みつけ、スピードを上げる。回答に納得したのか何なのか、同じように押し黙ったロザの気配を車内に息づかせ、ミニバンは夜の街を走り抜ける。ポケットのタブレットが、唐突に呼び出し音を響かせた。
「先生、お電話です」
浮かべた笑みをそのままに、ロザはしっとりとした口調で告げる。耳朶を撫ぜるその音色にどこかこそばゆいような感覚を覚えながら、俺は頷いた。
「運転中だ。代わりに出てくれ」
ハンドルから片手を離し、デニムパンツのポケットからタブレットを取り出す。狭苦しい空間から解放されたことを喜ぶかのように、掌サイズの電子機器がホログラムを吐き出した。見覚えのある数字の羅列と共に、ロングヘアのにやけ面が中空に映し出される。アリサからだ。ネットワークへの情報登録は済ませたらしい。
「また馬鹿な写真を登録したもんだな。ロザ、頼む」
タブレットを後部座席に放り投げ、直ぐに視線を前方に戻した。バックミラーを覗き見て、ロザの小さな手がタブレットに触れるのを確認する。数秒置いて、タブレット越しに二体のアリスが会話を始める。
「ロザです。ごめんなさい、先生は今運転中で……」
背後からの少女の声を聞きながら、ハンドルを切る。工房まではあと10分程度だ。今日分の調律作業こそ残っているが、漸くと少し、腰を落ち着けることができる。ふと、ロザの語調が強まっていることに気がついた。
「わかった。直ぐに代わるね。大丈夫だから。落ち着いて」
「どうした?」
少女の勢い込んだ口調に、一瞬二人が喧嘩でも始めたのかと考えた。だがどうやら違うようだ。タブレットを両手で包むようにして胸に抱いたロザが、ミラー越しに真っ直ぐな視線を向けてくる。
「先生申し訳ありません。どこかに停車して、アリサちゃんと話してあげてください」
「緊急の用件か?」
工房はもう目と鼻の先だ。着いてから掛けなおすのでは駄目なのだろうか。そう問えば、ロザは哀しそうな表情で首を振る。そして、お願いします先生、と先程の妖艶さからは想像もできぬ必死な口調で言い添えた。
「アリサちゃん、少し混乱しています。先生とお話できれば、落ち着けるかもしれません」
鏡の中でロザのほっそりとした腕が前方へ伸び、俺に向けタブレットが差し出される。一つ溜息を漏らし、俺は小さくハンドルを切った。路肩に停車し、タブレットを受け取る。
「朝倉だ。どうした?」
電話の向こうのはねっかえりに対して投げた第一声。言葉と一緒に吐息が漏れた。何の用事かは知らぬが、精神的に磨耗した今夜に相手を務めるには、少女は少々辛い相手だった。
「先生……助けて」
電話の向こうから、弱々しい声が響く。一瞬誰かと間違えているのではと、そんな考えが脳裏を過ぎった。口調も、また俺に対して用いられる呼称も、記憶の中のアリサとは相似しない。だが確かに、声そのものはクソ生意気な姫君のものだ。
「アリサか? どうした、何があった」
俺に電話を代わる際、ロザは随分と深刻な様子だった。だが元より心配性の気のある娘だ。実際のところ大した用件でもないのだろうと高をくくっていたが、どうやらそうでもないらしい。嗚咽じみた、震える息遣いが、タブレットの向こうから断続的に聞こえてきている。
「アリサ。何があったか、落ち着いて、順を追って話してみろ。急がなくていい。俺にできることは、何だってしてやるから」
ロザのように、大丈夫だから、とは言えなかった。
通話時間を鑑みるに、ロザとて事情の全てを聞けたわけではないだろう。とすれば大丈夫だからなど、無責任な発言とは言えなかろうか。
胸の奥に、アリサに対してどうにか誠実に接してやりたいと考える自分を感じる。はた迷惑な娘だが、裏を感じさせる言動がない分接しやすい。
無論、この考えはロザとの対比に基づくものだ。気を落ち着けようとするかのような沈黙があった後、アリサはまだ震える声で、たどたどしく話し始めた。
「お父さんがね、倒れたって。会社の人から、電話があって。救急車で病院に行って、でもまだ連絡が来なくて。わたしどうしたらいいか分からなくて。それで、先生に電話して。ねえ、どうしたらいい……?」
アリサの声は、話すにしたがって震えを増す。少女が人間の娘であったなら、とうに泣き崩れているのかもしれない。であるならば、泣く事のできないアリスの身体を少女が持っていることを、少し不憫に思う。ロザのユニークエレメントも有用な機能なのだと思い知る。
「分かったアリサ。手を貸してやるから安心しろ。まず、一つ確認させてくれ。お父さんというのは誰のことだ?」
アリサは、お父さんが倒れたとそう言った。無論アリスに父などいるはずもない。オーナーの元村のことを家ではそう呼んでいると考えるのが妥当だろうか。
「旦那様のこと。お父さんなの。会社で倒れたって。部下の人がね、電話くれてね、一緒に救急車で病院に行ってくれたはずなの。それで、連絡くれるって。でもまだ連絡こないの」
「成る程。大体分かった」
お父さんとは、やはり元村のことだった。なぜそのような呼び方をするのか仔細は不明だが、今はどうでもいい。事情としては、オーナーの元村が仕事中に倒れ、彼の部下からアリサに連絡があった。収容先の病院が判明し次第再度連絡を寄越すという手はずで、アリサは現在その連絡を待っているということらしい。となると俺が手を貸してやるようなことは何もない気もするが、少女は単に不安だったのかもしれない。俺に連絡してきたのは、周囲に大人の知り合いが他にいないためだろうか。
「アリサ、取り敢えずそっちに行ってやるから、住所を教えろ。ロザも一緒に連れて行くが、構わないな?」
応諾した少女から住所を聞きだし、そのまま連絡を待つように伝えて電話を切った。シフトレバーを握り、ミニバンを発進させる。手近なジャンクショップの駐車場を利用して進路を変えた。バックミラー越しに表情を見ながら、ロザに告げる。
「アリサの家に向かう。悪いが付き合ってもらうぞ」
「勿論です先生。急ぎましょう」
必死な面持ちのロザに少し不思議な印象を抱きながら、アクセルペダルを踏みつける。時刻は21時30分。ネオンに彩られた町は、まだ賑やかだ。
4
アリサから聞いた住所をナビに登録し、誘導の声に従ってミニバンを駆る。20分程して辿りついたその場所は、古ぼけた小さなアパートの前だった。駐車場が見当たらないので、逡巡の後、近くの路上に停車する。ロザを促し、アパートの前に降り立った。
「本当にここか?」
目的地の入力ミスか、あるいはナビの誤作動があったかもしれない。そう考え、誰にとも無く呟く。隣のロザがきょろきょろと辺りを見回し、それから、やはりここのようですと応じる。少女の視線の先には、番地を表したステンレス製の看板がある。
「意外だな」
目の前のアパートは、一体築何十年なのだろう。旧時代的な構造を露に、今にも崩れ落ちてしまいそうな様相を呈している。住所が一致している以上、先刻の電話がいたずらの類ででも無い限りここが元村の自宅なのだろうが、アリスオーナーの居宅としてはどうにも不自然な印象が拭いきれない。耐久性は大丈夫なのだろうか。この国には地震も多い。
「先生はご存知無いかもしれませんが……」
俺に先立ってアパートの外階段に足を掛けながら、ロザが口を開く。
「アリスのオーナーが皆、裕福な方というわけではないのです。わたしがこういうのも何ですが、アリスは有用な道具です。必死に働いてお金を蓄え、足りない分は借金で補って、そうやってアリスを購入する方も中にはいます。とても失礼な予想ですが、アリサちゃんのオーナー様も、もしかしたらそういった方なのかもしれません」
「そうは見えなかったがな」
ロザに続いて階段を上りながら答酬する。元村は工房へ二度来たが、どちらの来訪時においても、裕福そうな身なりをしていた。趣味が悪いのはご愛嬌だったが、少なくとも金に困っているようには見えなかった。というより、本当に経済的に困窮しているのなら、調律工房など使うまい。人格改修など、結局のところ道楽に過ぎないからだ。
「まあ何でもいいさ。で、元村さんの部屋は何号室だったか」
「204です。あそこですね」
答えたロザが、二階の最奥に見える金属ドアを指差す。角部屋か。何かと喧しい小娘が住まうにはいい部屋だ。騒音の被害を被るのが二世帯で済む。
足を進め、204号室の前に立った。ロザは俺の後ろに控え、金属ドアの表面を真っ直ぐに見つめている。旧式のインターホンに指を伸ばしながら、表札を確認。筆書きの二つの名を見て、少し驚いた。
元村惣一郎、有紗。真っ白な門標には、確かにそう記されている。アリサの名は、どうやら本来漢字で表記されるものらしい。おかしなことではないが、珍しい。アリスには一般的にカタカナの名が与えられるからだ。とはいえ、カタカナ名でなくてはいけないというルールがあるわけでもない。いつの間にか出来上がった社会習慣のようなものだ。
何とは無しに背後の少女と一度視線を合わせ、それからインターホンを指先で押し込んだ。控えめな呼び出し音が響き、ドアの向こうから、てくてくと歩み寄る足音が聞こえる。少しして、僅かに開いたドアの隙間から、アリサが顔を覗かせた。疲弊しきったような、どこか虚ろな表情を浮かべている。
「遅くなった。大丈夫か? アリサ」
できるだけ柔らかな語調を心がけ、俺は少女に微笑みかける。アリサは頷き、ゆっくりとドアを押し開いた。小さな手で、俺達を室内に招き入れる。
「夜遅くにごめんね。さっき電話があって、病院の場所、教えてくれた。5分くらい前」
小さな声で、アリサは訥々と語る。声には勢いが無く、辛そうだ。いつものワンピースにいつものリボン。見慣れた二つの青が、どちらも何故だかくすんで見える。
「オーナー様は、大丈夫なんですか……?」
哀しそうな表情のロザが、遠慮がちに尋ねる。アリサは力なく笑い、答えた。
「ただの脳震盪みたい。仕事中に眩暈起こして倒れて、その拍子に頭打ったんだって。今は意識ないらしいけど、直ぐに目を覚ますだろうって」
「そうか。取り敢えず、大事に至らなさそうで良かった。病院の場所は聞けたか? 送っていくよ」
問えば、少女はゆっくりと首を振った。
「今日はもう遅いし。部下の人、川本さんって言うんだけど、今晩は川本さんが付き添ってくれるから、わたしには明日の朝来て欲しいって。朝には気がついてるはずだから。呼びつけたのに、ごめん」
言って、アリサは俺達に向かって頭を下げた。ロザと一度顔を見合わせ、それから俺は小さく息をつく。この娘に、こんなにも素直に謝罪されたのは初めてではないか。元村に大事なかったとはいえ、随分と気を揉んだのだろう。強がる気力も残っていないようだ。まあ厳密には、そういった言動を維持するための行動論理定数が、プログラム的に破棄されてしまっているだけだが。
タブレットを取り出し、久方ぶりに時刻を確認する。22時10分。確かにもう遅い。
「あ、ごめんね。立たせたままで。座って」
では今日のところはここを辞そうかとロザに声を掛けようとした瞬間、アリサにそう言われる。目の前にはライトブラウンの小テーブル。形状としては卓袱台に近い。テーブルを挟んで二枚、ややくたびれた座布団が配されている。うち一枚に遠慮も無く座り込みながら、俺は室内を見回した。ロザも直ぐ隣に腰を下ろす。
元村の居所は、1DKの、恐らくは単身者向けのアパートだった。俺達が今いる部屋がダイニング。8畳程のフローリングとなっていて、部屋隅に俺の部屋にあるものより一回り大きいキッチンが設置されている。壁には見覚えのあるダブルボタンのスーツ。元村が俺の工房へ訪れた際、身に纏っていたものだ。
もう一室は寝室だろうか。半開きのスライドドアの隙間から、こちらもフローリングの床が覗いているが、灯りが落とされているため室内の様子までは窺えない。
建物の外貌から受けた今にも砕け散りそうな印象とは違って、内装は比較的綺麗だった。予想するに、ここ数年内にリノベーションされたのだろう。
「珈琲でいいんだよね?」
キッチンに立ったアリサから、そう声が掛かる。この部屋に人間は俺一人。質問は当然、俺に向けられたものだろう。
「ああ、お気遣い無く」
答え、アリサ相手に何をやっているのかと自問する。少女がいつもの調子だったならば、さっさと寄越せと言ってやるところだ。少しして、カップを持ったアリサがテーブルに戻ってきた。残った一枚の座布団をロザに進め、自身は敷かれたカーペットに直接座り込む。テーブルの上に、湯気の立つ珈琲カップが丁寧に置かれた。
「どうぞ。あんたみたいに拘ってないけど」
余計な一言には何も返さず、勧められた茶褐色の液体を口に含む。少女の俺に対する呼称があんたに戻った。先生と呼ばれる期間はどうやら終わったらしい。
「父だと、言ってたな」
鼻先で揺らぐ液体の表面を見つめながら、俺はアリサに問うた。カップをテーブルに戻せば、見えたのは瞳を伏せたアリサの顔。ロザもまた真剣な面持ちで、少女を見つめている。
「うん、そう。娘なんだ。わたし。元村有紗。アリスが何言ってんだって思う?」
言って、どこか儚げに少女は笑う。その笑みが自嘲気味に映るのは、事実を疎んじているからではなく、俺達に笑われるのを恐れてのことだろう。
「そんなことないよ。全然変なんかじゃない」
答えたのはロザ。俺もまた否定の言葉を吐こうとしたが、先を越されてしまった。先刻からの言動を見るに、ロザにもまた、アリスとして思うところがあるのだろう。
「俺もそう思うよ。子宝に恵まれなかった夫婦への究極的な癒しとして。アリスの存在目的のひとつじゃないか」
ロザの発言に乗じ、俺もまたそう述べる。元村は妻帯者ではないはずなので、少し違うかもしれないが。しかしアリサは、再び小さく首を振ってみせた。顔を上げ、俺の目をひたと見つめる。それから少し躊躇するような素振りを見せた後、口を開いた。
「お父さんはさ、少し違うんだ。子供に恵まれなかったとか、そういうんじゃなくて……」
そこで言葉を切り、少女は俺とロザの顔を交互に見つめる。ロザが何かに気がついたかのように、僅かに身体を震わせた。
「あの、わたし外しましょうか?」
どうやらアリサに気を遣ったらしい。少女のその行動が正解かは分からないが、アリサが何も言わないところを見ると、俺一人を相手にしたほうが話しやすいのは事実のようだ。
「済まないな、ロザ」
行動に疑わしいところは多分にあれど、やはりロザは基本的に良く気の付く、優しい娘であるのだと思う。そう考えると何だか悲しくなる。このような少女に疑いの目しか向けられぬ自身と、全てを話してはくれず、また俺の疑いの言葉を完全に否定してもくれぬ彼女を、恨めしく思う。
「それじゃ、少ししたら起こすよ。ロザ、SleepDownだ」
告げて、少女の大きな瞳が光を失うのを確認する。
席を外すとは言っても、実際にこの場から離れる必要はない。スリープモードに入ったアリスは外部からの情報を一切認識しないからだ。
座ったままに動きを止めたロザを抱き上げ、部屋の隅にそっと寝かせる。体重にして70㎏超の少女は、1m程度移動させるだけとはいえさすがに重い。
「さて。で、何が違うって?」
尋ねれば、アリサはそれには答えず立ち上がり、隣の寝室へと姿を消す。少しして、タブレットを片手に戻ってきた。俺の隣、先刻までロザの座っていた位置に腰を下ろすと、指先でタブレットの画面に触れ、そのままそれを俺に向かって差し出す。促されるままに、俺は画面を覗き見た。
「いつの写真だ? もうちょっと楽しそうにしてやればいいのに」
画面に表示されているのは一枚の写真。テーマパークかどこかだろうか。元村とアリサとが花壇を背後に並んで立ち、それぞれ対照的な表情を浮かべている。片手でピースサインをつくる元村は満面の笑み。隣のアリサは恥ずかしいのか視線を伏せ、唇を尖らせている。
「4年前だよ。楽しそうでしょ? お父さん」
「4年前?」
妙だ。親しい者に対する程、高い印象値を設定した相手に対する程、つっけんどんで反発的な態度をとるのがアリサの性質。行動論理。10日程前に俺がインストールした新しい人格プログラムが導くベクトルだ。写真のアリサの態度はまさにそれに準じたものに映る。
俺の工房で人格改修を受ける前のアリサは、どこまでも素直で優しげな娘だった。
当時の少女のソースコードから読み取れる行動基準に照らし合わせれば、行楽地にてオーナーと記念写真に写るというシチュエーションにおいては、少女は朗らかな笑みを浮かべているのが正しい。
となると、アリサが不快そうな面持ちであることに説明がつかない。いや、そもそも3年前、少女は既に製造されていただろうか。調律に関係のない要素ゆえに記憶が定かでないが、確か少女の製造年月日は1年程前ではなかったか。
「気付いた? それ、わたしじゃないよ」
変わらず自嘲的に笑うアリサは、少し俯いてそう告げる。俺はもう一度写真に目を落とす。写っているのはどうみても目の前の少女だ。
「お前じゃない? ではこれは誰だ」
薄々と、これから語られる内容に想像がついてしまった。恐らく気軽に聞ける話ではあるまい。が、さりとて聞かぬ訳にもいかない。アリサはまた少し、笑った。
「元村有紗ちゃん。お父さんの本当の娘。わたしの、モデルになった人」
やはりかと、そう思う。元村には娘がいた。アリサは、その少女をモデルに作られた。容姿を似せ、声を似せ、元村はアリスを使って娘を再現した。ということは、その元村有紗は、もう。
「3年前にね、亡くなったの。だからわたしは、彼女の分身。容姿も、好みも、それからあんたの所に行ってからは人格も。本物の有紗ちゃんに似せてつくられてる」
訥々と語る少女の言葉に、思い出す。調律の完了したアリサを連れ、孝一のアトリエへ向かった時のことを。
行きの車内で好みの音楽を俺に尋ねられ、少女は幾つかのアイドルグループの名を挙げた。2、3年前に人気絶頂だった、今ではやや古臭くも感じる連中の名を。それも当然だ。アリサの好みは、3年前に亡くなった元村有紗の好み。止まっているのだ。元村有紗の時間は。3年前に、短い生涯を閉じたその日を最後に、止まっているのだ。
「事故だったの。お父さんは、奥さんも随分前に亡くしてるんだ。だから今日、すごく怖かった。奥さんを亡くして、有紗ちゃんも失って、そのうえお父さん自身まで死んじゃったら、そんなの、幾らなんでも酷すぎるから。幾らなんでも、可哀想すぎるでしょう?」
話し続けるアリサの声が、少しずつ、少しずつ上ずっていく。昂ぶった感情が、その声量を徐々に大きくしていく。
「お父さん、優しいんだ。いつだって、わたしにすごく優しくしてくれる。わたしが間違ったことしたら、ちゃんと怒ってくれる。わたしが何か頑張ったら、すごく喜んでくれる。沢山褒めてくれる。あんたのところに行ったときだってそう。うちお金あんまりないのに、わたしが恥かかないようにって、無理して高いスーツ買ってさ……」
アリサの言葉を受け、壁に掛けられたスーツへ視線を遣る。
成金趣味丸出しのセンスの悪い服装。自身が過去に下した評価を恥じ入らずにはいられない。大切な一人娘を思い、元村なりに精一杯に洒落込んだのだろう。
「わたし、本当に怖かった。お父さんが死んじゃったら、偽物の娘一人が残されたら、どうしたらいいんだろうって。怖くて、怖くて仕方が無かった。わたしはアリスなんだから、こんなんじゃ駄目だって思っても、どうしたらいいのか分からなくて。それで、それであんたに連絡して。わたし、わたし本当に……」
元村が大事に至らなかったことも分かり、安堵と、それでもという不安とで、もう何を言っていいのかも分からないのだろう。震える声で言葉を切ったアリサの顔は酷く歪んでいて、その瞳から涙が零れてこないのが不思議な程だ。何か、俺自身にも何か分からぬが、胸に迫りくる悲痛を感じる。
俯いた少女に手を伸ばし、優しく、できるだけ優しく、小さな頭を引き寄せる。そのまま胸に抱きとめ、両腕で静かに包み込んだ。
「もう大丈夫だ、アリサ。元村さんは無事だ。明日にはまた笑顔で話ができる」
言って、腕に少し、力を込めた。俺の胸にしがみつくようにするアリサは、何も答えない。押し黙ったまま、強く、額を胸に押し当ててくる。
形はどうあれ、アリスを抱擁するなど初めてのことだ。
故に、今まで気が付かなかった。アリスがこんなにも、儚いものだということに。アリスがこんなにも、苦しみ悶えるのだということに。
指先に絡みつく、すべらかな髪の感触。俺の胸に身を預け、アリサは暫くの間、震える吐息を漏らしつづけた。
5
脳天を衝撃が貫く。心臓が止まるような思いと共に目を開けば、オフホワイトの壁紙に覆われた見慣れぬ天井。半身を起こし、視界に捉えた白い足首に、状況を把握する。
ここは元村宅のダイニング。昨夜アリサの許を訪れ、震える少女から話を聞き、そしてそのまま眠ってしまったらしい。
視線を上げれば、いつものワンピースに身を包んだアリサが、二つに折った座布団を両手で振りかざした姿勢で、仁王立ちしている。どうやら前頭部から顎に向けて、あの座布団を思い切り振り下ろされたらしい。
「起きろうんこたれ。朝だぞっ」
無意味に大きな声で、無駄に元気なアリサが、無闇に眉を吊り上げて叫ぶ。数日前まで何度も目にしていたこの娘特有の表情を視界に収め、俺は少し、笑った。
「お前、親父さんにも毎朝こんなことしてるんじゃないだろうな?」
言えば、アリサは気になる沈黙の後、ふるふると首を振ってみせた。やってないもんなどとのたまうが、怪しいものだ。
「ご飯出来てるよっ。さっさと食べて、それから病院までわたしを送って、ついでに看護師さんでも口説けばいいさっ」
どうやらある程度元気を取り戻しはしたらしい。乱暴で、捻くれていて、しかし俺の良く知るアリサが今目の前にいる。大したことはしちゃいないが、それでもどこか、肩の荷が下りたような心持になる。
良い匂いに誘われ、テーブルに目を向ける。白米に焼き鮭、味噌汁。準備された定番の朝食メニューを一瞥し、それから俺は、茶を淹れにキッチンに向かおうとしていた少女に向き直る。声を掛けた。
「アリサ、おはよう」
立ち止まった少女は振り返り、一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、楽しそうに笑った。
「うん。おはようっ」
セラミックの白い歯を見せ、目尻を下げ。少女がいつもの調子に戻ったのは面倒を避ける意味でも喜ばしいことだが、それにしても昨晩の様子との差が激しい。何か良い知らせでもあったのだろうか。尋ねれば、元気良く頷いて答えた。
「さっきね、お父さんから連絡があったの。結構派手に頭うったらしいから、検査やら何やらで、もう一日だけ入院するって。で、明日退院」
成る程。それが原因か。はねっかえりが元気を取り戻すには確かに充分な情報だ。俺も少し、良い気分になる。元村という男に別段の思いはないが、身体を壊して苦しまれるよりは、元気でいてくれたほうが良いことは確かだ。
「ところで、ロザはどうした?」
「後ろにおりますよ、先生」
俺の台詞を断ち切るように、背を撫でるソプラノ。首を回して振り返れば、正座をしたロザが微笑んでいる。どうやらアリサが既に起こしていたようだ。
「ああ、昨日は悪かったな。飯を食ったらアリサを連れて病院に向かうが、問題ないか?」
「勿論、問題などございません。ところで、今の謝罪は何についてのものでしょう?」
答え、ロザは悪戯っぽく笑う。相変わらずつかみどころの無い娘だ。
「お前をスリープモードにしたまま、起こしもせずに寝ちまったことについてだ。疑ったことじゃねえぞ。そっちはまだそのままだ」
「あら。それは残念です。先生がごめんねって仰って、キスでもして下さったのなら、ちゃんと許して差し上げようと思っていましたのに」
「馬鹿言え。お前が全部話をするのが先だ」
下らぬ遣り取りに時間を使いながらも、テーブル前の座布団に座り込み、茶碗をとる。湯気をたてる湯飲みを持ってきたアリサがテーブルを挟んだ正面に座り、じっとりとした視線を送ってきた。
「何かあんた、ロザちゃんといい感じになってない? もてないからってお客さんのアリスに手を出すなんて。変態だ変態」
「うるせえよ。馬鹿なこと言ってんな」
身を乗り出してアリサの頭をこづき、それから少しペースを上げて白米を搔き込む。
本当に馬鹿なことを言うものだ。俺とロザとの関係は、以前にアリサが目にした時よりも実際のところ悪化している。少女が何かを隠していることは、俺の胸のうちでは既に確定事項だった。
「そういやアリサ、前は変なことを聞いて済まなかったな」
工房でキリカを拾った夜、俺はアリサにオーナーとの性交渉の有無を問うた。少女はその問いに強い否定の言葉を返したが、今となってみればそれも当然のこと。自身の娘に欲情する父など居はしない。一部の愚か者を除いては、だが。曖昧な謝罪の意味を把握しかねたらしく、首を傾げるアリサを一瞥し、俺は残りの食事を平らげた。
茶を啜り、思い切り背を伸ばし。それから直ぐに出れるかと二体のアリスに尋ね、肯定の返事を得る。
「よし二人とも。それじゃ出かけるぞ」
声を掛け、自身の膝を一叩き。立ち上がった。
6
病院に辿り着き、受付で聞いた病室へと、アリサの誤った誘導のせいで散々に迷いながら足を進める。元村と面識のないロザは受付ロビーで待機中。アリサに誘われ、俺は一応ついてきた。
回り道の果てに建物五階に位置する病室へ到着し、半開きになっていたスライドドアから中を覗き込む。
四人収容の広い部屋の隅、やや簡素なパイプベッドの上に、呆けた表情で窓の外を見つめている元村の姿があった。ベッドの縁に腰掛け、窓枠に向かって身を乗り出すようにしている。見ているのは駐車場だろうか。アリサが来るのを待っているのかもしれない。だとしたら思い切り見落としているが。
「お父さん、面倒臭かったけど仕方ないから来てあげたよー」
憎まれ口をたたきながら室内に足を踏み入れるアリサに追従し、俺も入室を果たす。驚いたように背を震わせてこちらを振り返る元村。アリサの姿を視界に収め一瞬満面の笑みを浮かべ、それから直ぐに、仰け反りながら目を見開いた。俺と視線が合う。
「朝倉先生っ、どうされたんですか?」
案の上、驚愕の原因は俺の来訪のようだ。元村から連絡をもらった際、どうやらアリサは俺を呼びつけたことを話さなかったらしい。勘弁してもらいたいと思う。
「車を走らせておりましたら、アリサさんが歩いているのがたまたま目に入りまして。丁度この近くに用があったものですから、送迎ついでに立ち寄らせていただきました」
答え、元村に分からぬよう息をつく。方便だが、アリサに夜中に呼びつけられたうえにここまで送らされましたとはさすがに言えない。元村は恐縮しきった様子で身を縮こまらせ、俺に向かって頭を下げた。
「どうもご迷惑をお掛けしまして。申し訳ありません」
「どうかお気になさらず。体調のほうはいかがです?」
尋ねてから、俺が中心に話をしてどうするのだと思い至る。
元村に対しては馬鹿なことを口にしているが、本当はアリサはわが事のように主人を心配していた。誘われるがままに病室まで着いてきたのは失敗だった。親子水入らずで会話をさせてやらねばならない。元村は少し微笑み、答えた。
「検査が少々残ってますが、もうすっかり元気です。ご心配をお掛けいたしました」
「本当だよ。コケて救急車で運ばれるとかさ、ダサいことしないでよね」
これはアリサ。お父さんお父さんとオロオロしていた奴がよく言う。まあこの台詞を捻り出しているのが俺の書いたプログラムである以上、偉そうなことが言えた立場でもないが。
元村は相好を崩し、そうかそうかごめんなと、アリサに応じる。見舞いに病室へアリサが訪れたことが嬉しくて仕方がないようだ。ただの親ばかに見えなくも無いが、一度娘を失っている以上、アリサに注ぐ愛情も一入なのだろう。
「ちょっと失礼」
デニムパンツのポケットで、タブレットが小さな振動を起こす。病院へ入った時点で音は出ないようにしたが、考えてみれば、電源そのものを切る必要があったのかもしれない。
ズボンの布越しに電子機器に手をやりながら、俺は病室を出た。そのまま急ぎ足で非常階段へと向かう。
廊下の突き当たりの鉄扉を押し開けると、強い風が頰を撫でた。風音がやや煩いが、ここなら、通話する分に問題もないだろう。タブレットを取り出し、Accessと呟いた。
「あ、先輩ですか。今大丈夫?」
吐き出されたホログラムを確認しないままに通話を開始したが、相手は声で直ぐに分かった。莉子だ。頼んでいた調査の結果が出たのかもしれない。
「大丈夫だ。もしかしてもう調べてくれたか?」
尋ねれば、タブレット越しに肯定の返事。だが気になる。莉子はどこか浮かない様子だ。
「昨日聞いた個体識別番号から販売記録を漁ってみたんですけど、先輩、このナンバー間違ってません?」
「いや、そんなことは無いはずだが。何故だ?」
莉子に教えた個体識別番号は、ロザの人格プログラムへアクセスした際に大型端末に保存したものを呼び出し、オートマティックシールでタブレットに写しとったものだ。ロザへのアクセスに成功した実績のある番号だけに、間違っていることはあり得ない。いや、とはいえ莉子には口頭で伝えた。俺が読み間違えたか、莉子が聞き間違えたか。
「無いんですよ。その番号を持つ個体の販売記録が無いんです。閲覧しているのが統一データベースですから、どこの支店で販売されたものも、必ずあるはずなんです」
確かに妙だ。莉子はきちんと探してくれたのだろうし、かといってPhysical Illusion社のデータがそもそも誤っているとも考えづらい。
「ナンバーを言ってみてくれ。伝える際に間違いがあったかもしれん」
タブレットを一瞬耳から話して画面に触れ、通話音声をスピーカによる外部出力に切り替える。続いて保存していた識別番号を呼び出した。ナンバーを読み上げる莉子の声に合わせ、一文字ずつ確認した。
「X7055_54985113。いや、やはり合っている。これがロザの個体識別番号で間違いない」
「そうですかぁ。だとしたら、ちょっと分からないかも。販売記録がない番号を持っているアリスって、んー、どういうケースで発生するんだろ」
莉子はうめき声を漏らしながら、電話口で何か考え始めてしまった。だが彼女の言う通り、現実に顧客に販売され、活動しているアリスの識別番号がPhysical Illusion社に保存されていないというのはおかしい。田宮晴彦がロザを購入してから俺がこの番号を莉子に伝えるまでのどこかのフェーズで、何かしらの誤りが発生している。だが、それがどの時点かを特定するのは難しい。
「とりあえず、調べてくれてありがとう長谷川。まずはここまでで充分だ。俺の方で何か分かったら、また頼まれてもらうかもしれないが、構わないか?」
莉子は仕事中の貴重な時間を割いて、俺の要望に応えてくれている。これ以上俺の私的なことで悩ませるわけにはいかない。言えば、莉子は笑い、応諾してくれた。会社的にもクレームに発生する可能性のある事案ですからと、そう言い添えて。再度礼を言って電話を切り、非常階段にとどまって少し考える。
結果として、ロザへの疑いがまた少し、増してしまった。あの娘は何もかもが、不自然に過ぎるのだ。
工房へ戻ったら再度端末を確認し、ロザへのアクセスも再試行してみなければ。兎角そう決め、俺は元村の病室へと戻った。
病室へ再度足を踏み入れ、アリサの姿が無いことに気がつく。俺と目の合った元村が、軽く会釈をしてきた。先刻から服装が変わっている。アリサが持ってきたパジャマに着替えたようだ。至るところに例のこあらがプリントされている幼稚なデザインのものだ。実際に使っている男を目の前に何だが、メーカーは何を思って成人男性向けのサイズでこの商品を出したのか。
コアラ男に対し同じように頭を下げ、歩み寄る。はねっかえりはどこへ消えたのか。尋ねようとしたが、元村が口を開くほうが早かった。
「朝倉先生、返す返すもこの度はご迷惑をお掛けいたしました。先生はお優しいからああ仰いましたが、本当はあの子が呼びつけたのでしょう?」
言われ、言葉に詰まる。事実はコアラ男の言の通りだが、はいそうですとも言い辛い。ゆっくりとした穏やかな口調で、元村は続ける。
「あの子は、随分と先生を慕っているようです。よくね、先生の所へ行きたがるんですよ。何でも、アリスの友達もできたとかで」
ロザとキリカのことだろうか。キリカは確かにそうかもしれない。顔を合わせる機会は、この先そうそう無いだろうが。
対してロザはどうだろう。ロザがアリサに向ける想いがどのようなものか、正直なところ俺には摑めない。
数日前に連れ立って映画鑑賞に出かけたショッピングモールで、彼女はアリサに冷酷な情を向けた。反して昨夜は、父の容態に気を揉み取り乱すアリサに優しく接してみせた。どちらが今現在の少女の本心だろうか。後者であればいい。ならばロザは、確かにアリサの友達だ。元村は続ける。
「私と二人暮らしのものですから、日中はいつも、あの子は一人だ。私はね先生、本当はあの子に、それこそ人間のような生活を、毎日を、送らせてやりたいのです。できることなら、学校へだって行かせてやりたいし、同年代の友人と遊びにだって行かせてやりたい。いや勿論、そんなのは難しい話ですがね」
悲しげな面持ちを浮かべ、元村は言う。本人の言の通り、学校はさすがに難しい。どれ程に人間に近似した外貌を持とうともアリスはアリス。結局のところ、偽りの情を与えられた機巧人形に過ぎぬのだ。
一昨日、祭事の場で出会った青年を思い出す。アリスは道具。何の権利も持たぬし、慮る要もない。彼ははっきりとした口調でそう言った。決して同意はできぬ言葉だが、残念なことに理解は及ぶ。あの場での彼の行動が正しかったかは別として、考えの根幹は、一つ真実の的を射たものとして認められるべきものなのだ。恐らくは、だが。
「娘さんだそうですね」
この状況で持ち出すに適切な話題か否か、少し迷った。だが結局、俺は尋ねることにした。アリサは確かに、目の前の男を父と話した。ならば躊躇う必要はない。下手をすればそれこそ無礼にあたるだろう。
元村は何かを思い出すように、窓の外へ目を向ける。
「2年半程前になりますか。一人娘を亡くしましてね。まあ、よくある交通事故でした。信号待ちをしていたところへ突っ込まれましてね。娘はまだ13だった」
俺と視線を合わせることなく語る元村は、どこか淡々としている。
2年半という時は、愛娘の死を思い出という器に落とし込むに充分なものなのだろうか。子を持たぬ俺には推し量るのも憚られる事柄だが、想像するに、到底足りたものではなかろう。だからこそ、足りぬからこそ、男は淡々と語るのだ。娘の死が、過ぎ去った過去の出来事の一つであるかのように。自分の心は、もう痛まぬとでも言うかのように。
「1年前にね、貯金をはたいてあの子を買ったのです。もう一度、娘に会いたくて。もう一度だけでいいから、お父さんと呼んでほしくて。あの子は正に、娘そのものだった。先生に調律をお願いしてからは、本当に瓜二つになった」
言葉を切り、元村は目を伏せる。どこか虚ろなその様に、言葉を挟むのが躊躇われる。この部屋にいるのは自分一人であるかのような、眼前に立つ調律師などまるで見えていないかのようなその様に、まともな相づち一つ、俺は返すことができないでいる。
「この1週間ね、本当に幸せでしたよ。昔と変わらぬ有紗が、私を見てくれているのだから。でもね、今は少し、迷ってもいるんです」
「迷っている? 何に関してです」
問えば、元村は久方振りにこちらへ顔を向けた。目尻は僅かに下がり、笑っているような、泣いているような、何とも形容しがたい面差しを浮かべている。
「本当にこれで良かったのかって、少し思うんですよ。先生がほら、外面改修のサンプルを下さったでしょう? お気付きかもしれませんが、アレもまだ、行けていないのです。決めていたことだったんですがね。何だか急に、本当にそうすべきなのかどうか、分からなくなってしまった」
弱々しい笑みと共に向けられた元村の視線が、俺の鼻先をゆっくりとなぞり、少しして足元に落ちる。男の言はいまひとつ要領を得ない。だが、その意の催促には二の足を踏んでしまう。察するにこれは独白に近い。怪我をし、僅かに心を脆くした男が、思いの丈を機械的に言葉に変えているに過ぎない。
「いや、先生。つまらぬことを言いました。先程も申し上げましたが、あの子は先生をとても慕っているようです。調律師の先生にこのようなお願いをして良いものかどうか分かりませんが、よろしければこれからも、時々相手をしてやってください」
言葉を返せずにいた俺に爽やかに笑いかけ、元村は言った。無理につくったようなその表情に、どうにも痛々しい印象を抱く。元村には、元村の葛藤がある。それでも彼は、娘を、己に仕えるアリスを、精一杯に愛そうとしている。
初めて工房を訪れた彼に対し、俺はあの時どのような思いを抱いたか。気難しそうな、けち臭そうな、率直に言えば相手をするのに面倒臭そうな男。そんな評価を下しはしなかったか。一つ息をつき、それから俺は自嘲的に嗤う。人を評するという点において、自身の目は、あまり信用できたものではないようだ。
ロザに対し、俺が今現在下す評、感ずる想い。こちらはどうだろう。果たして的を射たものであろうか。彼女が俺の工房にいるのは今日を含めあと5日。これ程に気の良い娘を疑ってかかるなど、馬鹿なことをしたものだ。そんな風に思える日は、その間に来るのだろうか。
受付ロビーにて俺の帰りを待つ娘に思いを馳せながら、真っ直ぐにこちらを見つめる男に対し、俺は小さく頷いてみせた。
7
研究室のプレジデントチェアに腰掛け、デスクの大型液晶に表示させたソース群に目を向ける。工房へ戻り、研究室へと籠って2時間。キーボードに手を遣ることもなく、俺はただ口を閉じ、液晶と顔を突き合せている。
1時間程前には、孝一から連絡があった。タブレットが吐き出したホログラムに期待して通話に応じれば、さすがは日比野孝一。簪の補修が終わったので、散歩ついでに工房まで届けに来てくれるとのことだった。
吉報に少々気を良くしはしたものの、さりとて思案すべき事象に変化が訪れる訳でもない。考えを巡らせるべき事案は、まだ多く残っている。言うまでもなく、それらはロザに懸かる事柄だ。
少女の調律に使える期間は、残すところあと5日。だがそれは、刻限ぎりぎりまで粘った場合の話だ。最終日はインストールと調律結果の確認に使用するのが俺の普段のやり方。とすれば、今日を含めて実質4日だ。
今朝方、病院の非常階段で聞いた莉子の言葉を思い出す。ロザの個体識別番号は、Physical Illusion社の販売記録上に存在しなかった。そのままに捉えれば、これはロザがPhysical Illusion社の窓口を通じた正規のルートで販売されたアリスではないということを意味する。だが、そんなことはあるはずもないのだ。
仮に以前キリカの行く末を考察した際に俺が想起したような中古業者や、あるいは個人からアリスを購入したとしても、そのことでアリスに元々付与されていた個体識別番号が変わったりはしない。
では、ロザを販売したその店舗や、或いは店舗からデータを送付されたPhysical Illusion社本社が、ロザとそのオーナーの情報を販売記録として送付し忘れた、保存し忘れたといった可能性はあるだろうか。
残念だがこれもあり得ない。アリスの販売時には、電子キーを使用してのオーナー情報のロックが行われる。以前キリカと浦田青年に説明したあの作業だ。この手順は各社でほぼ共通。そして俺の記憶が正しければ、作業は以下のような手順で行われていたはずだ。
まず、オーナー情報を当該のアリスに登録する。これは各アリス販売店舗にて行われ、登録後、その対象となったオーナー情報はPhysical Illusion社本社へとデータにて送付される。
次に、アリスに登録した情報、すなわち販売店舗から送付された情報に販売金額などを追加した詳細情報を、Physical Illusion社本社にてデータベースに登録する。莉子に当たってもらった販売記録がこれに該当する。
最後に、各販売店舗にてアリスのプロパティファイル内に存在するオーナー情報にロックを掛けるのだが、このロック時に使用される電子キーには、Physical Illusion社本社にて販売記録登録を行った際に自動発番される数字が使用される。これはCUSTOMER_SEQと呼ばれる12桁のナンバーで、この数字と各販売店舗がそれぞれ持つ店舗コードを組み合わせ、さらにそれをある規則に従って並び替えたものが、電子キーとして使用されるわけだ。
言葉にすると何だか複雑だが、では、結論として何を是とできるか。まず、これだ。
アリス販売時に行われるオーナー情報登録及びそのロック作業が先の手順で行われる以上、Physical Illusion社本社にて販売記録登録が行われなかった場合、該当のアリスのオーナー情報にはロックが掛からない。ロック時には販売記録登録が行われることによって初めて発行される番号が必要なのだから、当然だ。
では、販売記録の登録が何らかの理由で行われず、さらにはオーナー情報のロックもまた偶然に実行されることなく顧客の手に渡るアリスが存在し得るか。答えは否。現実的にまず考えられない。
販売記録の登録は、あくまでPhysical Illusion社本社のデータベースを対象としたものだが、オーナー情報のロックはアリス本体に対して行われる作業だ。これが行われずに自身が販売されれば、アリスは気付く。定型の文句でもってこう言うだろう。旦那様、販売時の手続きに不備があったようです。恐れ入りますが、販売店舗までご連絡いただけますでしょうか。
「わからない……」
デスク上に転がしたオートマティックシールの銀筒を眺めながら、俺は呟く。Physical Illusion社本社のデータベースにロザの販売記録は見当たらなかった。だが、それはやはり、通常起こり得ないことだ。莉子も口にしていたが、どういったケースで発生する事案なのか皆目見当がつかない。
やはり、可能性として考えられるのは人的ミスだろう。つまりは、莉子の検索ミス、あるいは俺から莉子への固体識別番号の伝達ミス。何度も確認した以上は無意味かもしれないが、同識別番号を使用してのロザへの再アクセスを試みてみる必要があるかもしれない。では、どう切り出すか。
どうにも停滞する思考。目を閉じ、プレジデントチェアに体重を預けて天を仰ぐ。
丁度そのタイミングだった。工房内に、来訪者の存在を知らせるインターホンの音色が響き渡った。どうやら友人のご到着のようだ。タブレットをデスク上に捜し、見つからないことに気付く。記憶が定かでないが、ジャケットの胸ポケットに入れっぱなしだったかもしれない。だとすれば、居間のクローゼットの中だ。来訪者の姿を捉えた画像は今頃タブレットに送信されているはずだが、態々取りに行って友人を待たせるのも申し訳ない。
研究室を出て、ロザに一声掛ける。そのまま一人で玄関へ向かった。
「待たせて済まない、今開ける」
昨日訪ねた時、孝一は随分と忙しそうにしていた。美優が体調不良で戦線離脱していたこともあるだろう。にも拘わらず、簪の補修を随分と早く終えてくれた。ロザを思ってのことだろう。不細工だが優しい男だ。
金属製のドアノブに手を伸ばし、握り、ゆっくりと鉄扉を押し開く。正午間近の陽光が明かりを落とした廊下へと勢い良く飛び込んできた。
「孝一?」
訝しげな声が、意図せず喉から漏れ出た。開いた鉄扉の向こうには、何者の影もなかった。不思議に思い、外へ出る。待たせすぎたかとも一瞬考えたが、直ぐに否定する。不在と考えた来訪者が踵を返してしまう程の時間は経っていないはずだ。
軋むような音を立て、押し開かれていた鉄扉が手の支えを失い、ドア枠へと戻り行く。外へ出た俺とすれ違うかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。そして。
「動くな」
唐突に掛けられた低い声と共に、鉄扉の陰となっていた場所から突き出されたライトグリーンの発光体が、俺の喉元に収まる。背後で、静かに、玄関ドアが閉まった。
8
黒い髪。細い眉。鋭い目付きに、俺を僅かに上回る程度の体軀。
扉の陰から姿を現したその人物を横目に見やり、俺は小さく息をつく。一昨日、鵬村神社で出会った若年の男。ロザに買い与えた簪を踏み壊し、その結果俺と口論になった青年。人物は、現場から去る俺達を恨みがましく見つめていたあの彼だった。
正直、あんな程度のトラブルでこんな行為に及ぶとは信じがたい。また、何とも狭量なことだと、そう思わないでもない。とはいえ、そんな思いを口に出せば余計な窮地を招くだろう。全く、随分と恨みを買ったものだ。
「これが何だか分かるよな? 黙って、必要最小限の動きで、ドアを開けろ。家の中に入るんだ」
バリトンを響かせ、青年は言う。俺の喉から2㎝程の距離を保って中空に固定された発光体が、発せられた言葉に相槌でも打つかのように、ちりりと音を立てた。
レイザーナイフ。青年が携える発光体は、俗にそう呼ばれている。武器というよりは工具に近く、形状は名の通りナイフに似ている。正式名称は確か、荷電粒子滞留式短機刀。発振器を内蔵した大振りの柄からは刀身の代わりに鉄製の増幅器が伸び、厚さ1㎝、長さ15㎝程の増幅器の片側、通常のナイフであれば刃付けの行われる箇所に、ライトグリーンの発光体を纏っている。
ナイフのように振るうのではなく、切断対象に押し当てるように使用され、荷電粒子の高振動がもたらす瞬間的な発熱により、切り裂くと言うよりは焼き切るような効果を対象にもたらす。実際に使用した経験は俺にはないが、金属バット程度なら容易に両断すると聞く。人間の皮膚など言わずもがなだろう。
「もしかして、俺のせいで彼女に振られたか?」
適当なことを口にしながら、どうするべきかと考える。外の様子に気付いたロザが警察に通報でもしてくれれば、そんな風に思いもしたが、それは無理な願いだろう。ロザは恐らくまだキッチンにいる。居間の窓から、俺達の立つ玄関前は死角に当たる。
「中に入れ。殺されたいのか」
一瞬の沈黙の後、青年は俺の問いを無視してそう答えた。もしかしたら、彼がとったこの行動の理由として、俺の言は的を射ていたのかもしれない。人生を棒に振る行為の動機としてはあまりにもくだらないが、生まれた怒りが自身を振った女性でなく俺に向いたとするのなら、まだ救いようがあるのかもしれない。
「そうは言うがな、こいつをどけてくれないことには、動けない。動いた拍子に喉がばっさりいっちまったら、ほら、恐いだろう?」
喉元のナイフを顎で指し示し、俺は言う。青年の顔は見ないようにした。この状況で、あの睨み付けるような表情はあまり視界に収めたくない。恐怖のあまり失禁しそうだ。
「後ろ手にドアノブを捜せ。摑んだら引きあけろ。早くしろ」
青年にとって、工房の敷地内とはいえ、屋外でこの行為に及ぶのは不都合なはずだ。人通りの少ない住宅街とはいえ、いつ誰か歩いてくるやも分からない。ノーマルなナイフでなくレイザーナイフを携えてきたのも、恐らくはそのため。俺が屋外に出てこなかった場合、ドアを焼き切ってでも進入する心積もりだったのだろう。
「分かった。言う通りにするから、こいつを動かさないように頼む」
言いながら、さてどうしたものかと考える。中にはロザがいる。クライアントからの預かり物のアリスを傷物にするわけには絶対にいかない。とはいえ、アリスを守って人間の俺が死にましたというのもいただけない。というか、死にたくない。
必要以上に時間を掛け、言われた通りに後ろ手でノブを握る。
先刻の電話で、孝一はこれから家を出ると言っていた。孝一のアトリエから俺の工房までは車で30分程。寄り道などしておらず、また道中混雑にも巻き込まれなければ、そろそろ到着してもおかしくない。
孝一が到着すれば、それを見たこの男が逃げ出す可能性もある。あるいは工房の異変に孝一が早い段階で気がつけば、警察への通報を行ってくれるかもしれない。どちらにせよ、道は拓ける。
「早くしろ」
冷たい声が、耳朶を撫でる。一つ一つの動作に殊更に時間を掛けていることに気が付かれたかもしれない。巻き込んでしまうことをロザに対し申し訳なく思いながら、ノブを引いた。孝一はまだ来ない。室内に入ってしまえば、孝一が事態に早く気の付く可能性は薄まる。それどころか最悪の場合、襲撃者の待つ室内へと、友人が無防備に足を踏み入れてしまうかもしれない。
「入れ」
喉元に寄せられていたレイザーナイフが、ゆっくりと俺の肩口を回り、背へと移る。背後にぴったりと付いた青年に押し込まれるようにして、俺は工房内へと再び足を踏み入れた。孝一はまだ来ない。叶わぬ願いだった。
「ゆっくり歩け。あのクソアリスはどこにいる?」
時間の経過とともに鋭さを増す青年の声に背を押されながら、俺は廊下を進む。タイミングが良いのか悪いのか、数m先の居間の出入り口から、ロザが顔を出した。
「先生、お客様ですか?」
少女の華やいだ笑みは、一瞬で消失した。角度的にレイザーナイフはロザから見えないはずだが、俺の背後に立つ人物が人物だ。ロザは即座に状況を理解したらしかった。
「先生を、放してください」
声量を抑え、ロザが言う。驚嘆の表情を浮かべはしたが、そのことで人間のように硬直し、思考停止したりはしない。このあたりはアリスの強みだ。
「うるせえ黙ってろ。大好きな彼を殺されたいのか?」
言葉と共に、レイザーナイフが数㎜、俺との距離を縮めた。刃先がシャツに触れ、じりりと音を立てる。恐らく穴が開いたに違いない。割と値の張る服なんだがなと、埒も無いことを考える。
「悪いな、ロザ。巻き込んじまった」
言って、俺は少女に微笑んで見せる。だが自分でも頰が引きつっているのが分かる。兎角冷静に努めようとする意識とは裏腹に、俺の身体は相当に脅えているらしい。
「入れ。早くしろ」
青年の言葉を受け、俺とロザは並んで居間の中へ。続く指示を受けてロザが動き、ソファと食事用のチェアを移動させる。暫くの間、籠城でもするつもりなのだろうか。
一人がけのソファに俺が腰掛け、その背後に置かれた食事用のチェアに青年が座る。ロザは俺と向かい合う形で床に正座している。俺からは見えないが、恐らく首の後ろ、項の辺りにレイザーナイフがあるのだろう。
ちなみに入り口ドアは青年の背後。一人で二人を監視するには、残念ながら良い形だ。テーブルの上では、ロザが昼食用に用意していたらしい珈琲が湯気を立てている。
「良かったら聞かせて欲しいんだが、俺達はどうしてこんな目にあってるのかな?」
青年を刺激しないよう、ゆっくりとした口調を心がけ、俺は問うた。ロザはこちらを真っ直ぐに見つめている。状況を打開する方法を必死に考えているに違いない。青年は薄く笑い、それから妙に大きな声で話し始めた。
「てめえと、そこのクソアリスがふざけたことしやがったせいで、俺はひでえ目にあったんだ。だったらてめえらも同じように苦しまねえといけねえだろ。不公平は良くねえよな? そうだろ」
意図せずしてか、或いは恐怖感をあおろうとでもしているのか、青年はどこか狂気じみた様子で声を荒らげる。要領を得ない話に惑いながらも慎重に尋ねれば、どうやらこういうことらしかった。
一昨日の祭事の場で俺と揉めた後、青年は苛々としながら境内をうろついていた。そこでまた別の人間とトラブルになり、苛立ちからか今度は手をだしてしまった。トラブルは警察沙汰となり、留置所行きは免れたものの通学先には連絡が行き、翌朝早速停学処分を科された。変わらず苛立ちながら向かったアルバイト先で偶然俺を見つけ、後をつけ、そしてこの工房を知った。
「その、アルバイト先と言うのは?」
青年が真っ当な学生であったことにも少し驚いたが、それ以上に気になる点があった。青年の言う、俺の姿を偶然に見かけたアルバイト先とやらだ。
「てめえの大好きなPhysical Illusion社だよっ。馬鹿面さらして寝やがって、人のはぶっ壊しておいて、てめえは女といちゃついてやがった。いちいちむかつくんだよクソがっ」
ソファの背を、立ち上がった青年に背後から勢い良く蹴られた。バランスを崩し、俺はつんのめるようにして床に身を投げ出す。ソファが倒れ、大きな音を立てた。
「先生っ」
悲痛な声で、ロザが叫んだその時だった。研究所の敷地内に、待ち望んでいた駆動音が聞こえたのは。孝一だ。漸くとご到着のようだ。
「何でこうなるんだクソがっ」
乱暴な台詞と共に、青年の意識が窓の外へ向く。立ち上がる俺。そのタイミングを見逃さぬロザ。少女はテーブル上のカップを小さな手ですばやく摑み、青年の顔に向かって勢い良くその内容物をぶちまけた。
「このクソ共がっ」
悲鳴とも怒声とも付かぬ叫び声を上げ、湯気立つ茶褐色の液体を浴びた青年はレイザーナイフを取り落とす。やるべきことをロザが理解していることを願い、俺は少女を顧みることなく、青年の脇をすり抜けて出入り口へと駆け出した。廊下を走り、玄関を飛び出す。ドアを開け、ロザが続いて飛び出してくるのを待ってから、すばやくドアを閉めた。外からでも鍵を掛けられれば時間が稼げるが、その余裕は無さそうだ。
「朝倉っ、なんだ。何があった?」
俺のミニバンの手前に、かなり強引な形で止められたセダン。その前に、孝一と美優が立っている。ついてない。危ないってのに美優まで連れて来やがった。
「逃げろ孝一っ。ナイフ持ったやつがいる。車に乗って、はやくっ」
友人の許へ駆け寄り、焦りからか上手く回らぬ舌でもって必死に状況を伝える。俺の言葉の意味が理解できなかったのか、眉を顰める熊面。取り敢えず落ち着いて話せとずれたことを言い、俺を説き伏せようとする。
「てめえら、マジでぶっ殺してやる」
玄関の鉄扉が勢い良く押し開かれ、目を血走らせた青年が飛び出してきた。手には再びレイザーナイフが握られている。襲撃者と俺達との距離は凡そ10m。全員が車に乗り込むのは無理そうだ。本当に殺す気であのまま突っ込んでこられたら、誰かしらが犠牲になる。
「また女か。クソがクソがクソがっ」
激昂しながらも、じりじりと横に足を進め、工房の敷地を取り囲む塀の開口部、すなわち出入り口への逃走ルートをふさごうとする青年。状況を理解したらしく、友人は硬直して目を見開いている。
「美優ちゃん、ロザ、俺達の後ろに」
美優とロザを庇うように立ち、俺は青年と向かい合う。じりじりと距離を詰めてくる激昂の襲撃者。俺達の背後には孝一のセダン。ドアにはロックが掛かっている。もうとてもではないが全員が乗り込む暇はない。
「まいったな……」
吐息交じりの言葉を零し、孝一は目を閉じる。友人は何かを、何かを逡巡している。
「駄目ですよ冬治さん。刺されたりしたら大変ですから。わたしの後ろにいてくださいね」
妙な台詞と共に、美優が一歩、前に進み出た。目を疑う。美優は一体、何を言っている。
「何言ってるんだ美優ちゃん。危ないから下がってくれ」
自分も前に出ようとするロザを左手で強引に押さえつけながら、俺は声を絞る。孝一も何をやっているんだ。美優を守るのはお前の仕事だろう。
「状況が状況だし、もういいよね? 孝一さん」
俺の言葉を意に介さず、美優は夫へと何かを問いかける。孝一は黙って溜息を漏らす。それから暫しの沈黙のあと一言、駄目だと、そう言った。美優は人差し指を自身の顎に当てる可愛らしい仕草で、真っ直ぐに夫の顔を見つめる。襲撃者はゆっくりと一歩一歩、距離を詰めてきている。孝一がもう一度、駄目だと繰り返す。
「でもそうしないと、冬治さんやロザちゃんが、怪我しちゃうかもしれないじゃない。孝一さんはそれでいいの?」
あくまで落ち着いた口調で、美優は変わらず真っ直ぐに夫の目を見つめる。小首を傾げ、美しいその顔には笑みすら浮かんでいる。口を真一文字に結んだまま、孝一は言葉を発しようとはしない。
「孝一さん、お願い。早くしないと間に合わなくなる」
僅かに、美優の口調が力を帯びた。懇願。請願。美優は何かを、孝一に強く求めている。
「分かったよ。今から少しの間だけ、君に俺の妻でなくなることを、許可する」
何度目かの溜息を漏らし、孝一は言う。悲しそうな目で、辛そうな面差しで。その様を見、美優が少し、笑った。夫に、安心してと言うように。ありがとうと、そう言うように。
「朝倉を、ロザちゃんを、俺を。そして何より、お前自身を守るために……」
孝一の表情が、訥々と語る友人の視線が、鋭さを増す。そしてその言葉は、唐突に、余りにも唐突に、言い放たれた。
「制圧しろ。XD707」
意味の分からぬ、本当に、僅か程も理解のできぬ、その言葉。その呼び名。だがその台詞を受けた当人は、親友の妻であり、俺の大切な女友達でもある美優は、どこまでも優しく柔らかな笑みをそのままに、頷いた。
「Yes Master」
工房の敷地内に小さく響いた、美優の甘いソプラノ。何だ。二人とも一体、何を言っている。孝一、XD707だなんて、そんな型番みたいなあだ名で妻を呼ぶやつがどこにいる。美優、君もだ。何だってそんな無礼な呼び名に頷いてみせる。大体マスターって何だ。君はさっきまであいつの事を、孝一さんと、そう呼んでいたじゃないか。
「二人とも、何の話をしているんだ……?」
呟き、前に立つ美優の背をじっと見つめる。彼女は答えない。純白のセーターに包まれた小さな背も、黒のホットパンツと同色のトレンカに包まれた細い足も、微動だにしない。
やめてくれ。答えてくれ。これじゃまるで、これじゃまるで、美優がアリスみたいじゃないか。そんなわけはないんだ。そんなのは駄目なんだ。お前達二人と、俺が何年付き合ってきたと思っている。美優の美しさに、優しさに、俺はずっと尊敬の念を抱いていた。そしてそんな女性に誰よりも愛される親友を、誇りにも思ってきた。美優がアリスだなんて、そんなことは、あっていいはずがないんだ。
「お前、お前アリスかっ」
青年は叫ぶ。当然だ。俺にも、この青年にも分かるのだ。目の前の人物がアリスか人間か、一目で分かるのだ。雰囲気で、仕草で、視線で、立ち姿で。
祭事の晩、青年はロザを一目でアリスと見抜いた。2週間前俺は、夜道で見つけたキリカを即座にアリスと判断した。分かるものなのだ。そういうものなのだ。だが、いや、だからこそ美優がアリスと言われても、にわかには信じがたいのだ。どのように見ても、どのように考察しても、美優は確かに、人間と見做されるのだ。
青年の戸惑いと、俺の困惑と、その双方を見て取り、美優は言う。不敵に笑う。
「アリス? 残念だけど少し違う。もっとずっと、素敵なもの」
その言葉に、俺は孝一に視線を投げる。親友は変わらず目を閉じ、何をも思わせない表情を浮かべている。
「沖自工製MORGIANAXD707。日比野美優。安心して。殺したりはしないから」
全身から、力が抜けた。美優の口から、俺ははっきりと聞いてしまった。彼女は自らを、今確かにMORGIANAと名乗った。自らを、沖自動車製の、高い軀体性能を誇るアンドロイドだと、そう口にした。憤りと共に、悲しみと共に、これまでのことが思い出される。
美優はロザを見、あきらとの外貌の類似を指摘してみせた。数年前に一度写真で見ただけのあきらの姿をよく覚えているものだと、俺は彼女に感心した。だが当然だ。アリスは、一度記憶したものを忘れない。
10日前俺は、アリス達を連れ立って出かけたショッピングモールで孝一に出会った。彼は美優と共にそこへ来ていたにも拘わらず、一人で夕食を取っていた。当然だ。アリスは、食物を摂取しない。
何故なのだ。どうして教えてくれなかったのだ。美優、君は俺の友人ではなかったのか。孝一、俺達は親友ではなかったのか。
「じゃ、話はお仕舞いね」
美優が浮かべた微笑は、制圧開始の合図。唐突に俺達の前へと降り立った戦女神は、静かに、地を蹴った。
「美優ちゃん……」
疾走する。細身の身体を撓らせ、低い姿勢で、美優は走る。レイザーナイフを構えた青年に向かい、凄まじい速度で。咄嗟のことに戸惑い、しかし即座に状況を理解したか、ナイフを突き出す青年。風切り音と共に振るわれた発光体は、しかし美優に届かない。地に食い込ませた左足をブレーキに青年の眼前1mで急停止した親友の妻は、軸としたその足に体重を乗せ、対の足を跳ね上げる。
真っ直ぐに突き出された青年の右腕。その手首にクロスする美優の右足首。何かが砕けるような、鈍い音が敷地内に響き渡った。
「うわぁああっ」
絶叫と共に、力を失い、だらりと垂れ下がる青年の腕。零れ落ちるレイザーナイフ。振りぬかれた美優の細い右足は、青年の手首を破砕し、なおも勢いを失うことなく、すばやく地を目指す。そしてアスファルトに接触すると同時に、その足は直ぐさま軸足となる。代わって跳ね上げられた左足が、踵でもって青年の顎先をしっかりと、捉えた。
「すご……」
背後で、呆気に取られたロザが呟く。右の上段回し蹴りから、左の上段後ろ回し蹴りへと繫ぐ二連撃。確かに凄まじい。だが、惑う。窮地を脱した安堵感もあってか、余計な思考が頭を巡る。許されるのか。いや、そもそも何故起こり得るのか。アリスが人間を攻撃するなど、そんなことが、何故起こり得るのか。
顎を蹴り抜かれ、意識が途切れたのだろう。傍目にも分かる程膝が震え、青年はゆっくりと崩れ落ちた。だが危険だ。青年が崩れ落ちようとする先には、先刻その手から取り落としたレイザーナイフがある。刃の上に落ちれば、ただでは済まない。咄嗟に叫ぼうとし、しかし後れをとる。状況に気付いた美優が、軸足をすばやく回転させて青年に背を向け、今しがた彼の顎を蹴りぬいたばかりの左足の踵で、もう一度顎を撃ち抜いた。
言葉にならぬ声をその口腔から逬らせ、顎を下から上へ垂直に蹴り上げられた青年は、宙に浮き上がるようにして背後へと倒れこむ。アスファルトに寝そべり、そのまま動かなくなった。
「孝一……」
親友の顔を見上げ、俺は意味も無くつぶやく。恐らく俺は今、さぞかし呆けた顔をしているのだろう。静かな足音。レイザーナイフを拾いあげた美優が戻ってくる。
「彼、暫くは目を覚まさないと思う。今のうちに縛り上げておきましょう」
美しい面差しに浮かんだ笑み。悲しげに頷く孝一。分からない。何もかも。目の前で何が起き、友人が何を思うのか。
膝を突き、俺はきつく目を閉じる。背に触れるロザの柔らかな手。慈しむようなその仕草に、胸が震える。自分でも理由の知れぬ涙が、ゆっくりと、頰を伝って流れた。
9
「今日ここで起きたことは全て忘れる。冬治さんにも、わたし達にも、二度と近づかない。そう誓うことが、貴方の犯した罪に目を瞑ってあげる条件。さあ、どうする?」
目を覚ました青年の目を覗き込んだ美優が最初に告げたのは、そんな言葉だった。
工房の玄関。ポリプロピレンの紐で手足を縛られ、壁に背を預けて座り込む青年。屈み込んで視線を同じ高さに固定し、しかし表情は緩めずに親友の妻は淡々と語った。
「お財布の中は改めさせてもらったよ。名前と住所は控えたし、わたしは一度見たものを決して忘れない。どこかで貴方を見かければ、必ず気付く。貴方だって、真っ当な人生を送りたいでしょう?」
眼前のアリスの視線に、或いは面差しに、何かを感じ取ったのだろう。やがては頷いた襲撃者の耳元で小さく何かを囁き、それから美優は少し笑った。
一刻も早く目の前の女から離れたいとでも言うかのように、落ち着かない挙動で工房を去った青年。珈琲が入ったとキッチンから告げにきたロザの言葉を切っ掛けに、俺たちはそろそろと居間へと足を向けた。
孝一にも美優にも、まだ何も話を聞けていない。屋外での格闘の後、皆で協力して青年を縛り上げ、ロザと共に黙って部屋を片付け、それから青年の処遇について話をする親友夫妻の姿をぼんやりと見つめていた俺は、全身を襲う虚脱感からいつまでも抜け出せず、口を開こうという気にも、まるでなれずにいた。
孝一と美優の判断は、恐らく適当なものであったのだろう。青年の耳元で美優が最後に発した言葉は不明なれど、その後の彼の様子を見るに、再度の襲撃に遭う可能性は低く思えた。
警察に通報して、青年を引き渡す。口から出掛かった、真っ当な対応であろうと思われる提案を、俺は飲み込んだ。言うまでもなく、青年を撃退したのが、美優であったからだ。
美優は先刻、自らをアリスだと、そう名乗った。沖自動車製の、MORGIANAであると。ならば、警察への連絡は、彼女に良い結果を齎さない。
アリスは、人間に危害を加えてはいけない。悪意でもって、人間に損失を与えてはいけない。当然のごとく社会に根付き、いつしか条文となった倫理観は、孝一を害するだろう。その妻を悲しませるだろう。二人が共に生きることを、今後許しはしないだろう。何故ならば親友は既に、法を犯しているだろうからだ。
アンドロイドが人間へ齎す厄難を、この国の法は認めない。9年前、アリスの発売から1年の後に制定、施行された法令は、決してそれを看過しようとはしない。当然の話だ。それを許してしまえば、アリスと人間の共存など、絵空事と笑われる。
アリス販売各社は、全ての人格プログラムのLogicalコードにロックを掛けている。一部のロジックを到達不可コードとして打ち消すことで、アリスの思考に制約を施している。
この処置により、人間に危害を加える結果となる一部の言行は、Logicalコードが導く選奨行動として、生成されることがなくなる。アリスは人間を攻撃しなくなるのではなく、攻撃することができなくなるのだ。
例えば一体のアリスとそのオーナーが夜道を歩いていて、暴漢にでも遭ったとしよう。ナイフを持った男に、オーナーが組み敷かれた。アリスはきっと、オーナーと男との間に割って入り、盾になろうとするだろう。何でもするから見逃してくれと、必死に許しを請うだろう。だが、男を蹴り飛ばしてオーナーから引き剝がそうとはしない。腕を取り、ナイフを奪い取ろうとはしない。することができないのだ。そういった思考が、選択肢が、そもそも脳裏に浮かばないのだ。Logicalコードのロックによって。
この制約の施行こそが、法にて定められた義務。これを侵した企業或いは技術者には、相応の刑罰が科される。罰せられるのはあくまでも人間。ロックを掛けなかった、或いは掛けられていたロックを解除した人間だ。今回のケースでは、その対象は恐らく孝一となる。美優に本来掛かっていたはずのロックを解除したのは彼、もしくは彼から依頼を受けたどこかの調律師であろうからだ。
居間に入り、孝一にソファを勧める。続いて先程青年の腰掛けていたスツールを美優に差し出すが、こちらはゆるりと首を振って辞された。立っていようが疲労などせぬ自分には必要ないということなのだろう。今更ながらに怪我はないかと尋ねれば、メンテナンス明けだから快調ですよと、そう返される。昨日のアトリエの様子が思い出され、納得すると共に胸が疼きだす。本当に何故こんなことになったのだ。
「先生、どうぞ。お疲れでしょうから、少し甘めにしました。日比野先生も、熱いので気をつけてくださいね」
湯気の立ち上るカップをテーブルに静かに置き、ロザが笑顔をつくる。優しい娘だ。
「有態な言葉だがな、朝倉」
茶褐色の液体に一度口をつけてから、孝一が俺を見た。
「お前を騙すつもりはなかった。どうか、許して欲しい」
そう言って、少しの間の後、友人は深々と頭を下げた。毛むくじゃらの手が自身の膝を握り締めたまま、小さく震えている。少し笑い、俺は口を開いた。
「謝ってほしいだなんて、考えちゃいないんだ、孝一。ただ、知りたい。美優ちゃんは一体、いついなくなったんだ。いつからアリスへと、姿を変えたんだ?」
美優が初めからアリスであったはずはない。数年前、俺が美優と初めて会ったその時、美優は確かに人間であったはずなのだ。
そもそも俺は、孝一と美優との結婚式にも出席している。披露宴の場ではスピーチもこなした。美優が初めからアリスであったのなら、そんな式典が成立し得るはずもない。新婦側の出席者だってゼロになってしまう。
つまり美優は、俺と知り合った当初、確かに人間の女性だった。それがいつしか、英字と数字との無機質な文字列を冠せられた1体のアリスへと、姿を変えていた。ということになる。
「2年程前です」
口を開いたのは美優だった。向かい合って座る俺と孝一の間に立ち、寂しげな瞳で俺を見つめている。ロザはただ静かに、俺の背後に控えている。
「2年程前。11月9日。孝一さんの奥様であられた美優さんは、亡くなられました」
「美優ちゃん……」
美優の顔を持ち、美優の体軀を操る女性が、美優は死んだと静かに謳う。理屈の通らぬ目の前の情景が、現実感を薄れさせる。孝一と一度視線を合わせ、目の前のアリスは、訥々と語る。
「わたしは美優さんをモデルに作られたMORGIANAです。美優さんの姿を精緻に再現し、美優さんの再誕を願い形作られました。孝一さんご自身の手によって」
予感していたことではあった。だがどこかで期待もしていた。美優が元来人間であり、目の前の女性がアリスであるならば、美優はもう、少なくとも孝一の傍にはいないということだ。だが、別離にだって種別がある。その別れによって二人の間に生まれた距離が、長い道程が、黄泉路を下るそれであるか否かだ。
孝一に対する美優の愛は失われ、永久の誓いは破棄された。残された友人は未練を断ち切れず、どこにいるとも分からぬ妻の代替品を作り上げた。そういう可能性だってあった。
それはそれで狂気じみたものを感じずにはいられないが、それでもいい。そうであったなら、彼女は今も無事なのだから。もし、もしそうであればどれ程良かったか。
「美優と同じ外貌を持つアリスをな、購入したんだ。手に入れたアリスに更なる外面改修を施し、ここにいる彼女を、完璧な日比野美優を作り上げた」
瞳を伏せ、孝一が美優の、いや美優に似たアリスの言葉を引き取る。友人の言葉はどこか、自嘲的に響いた。
「起動させた彼女に、徹底的に叩き込んだ。写真を見せ、語って聞かせ、俺と美優との想い出を、過ごした日々を、記憶と記録にある全てを、彼女に記憶させた。妻であればとらなかった行動や、口にしなかった言葉を彼女が選び取る度に、そうではないと指摘した。調律にも二度出した。馬鹿馬鹿しいと思うか、朝倉。狂っているとでも思うか、朝倉?」
ただ静かに、孝一は言葉を紡ぐ。だが、俺には分からない。彼が間違っているのか、あるいは正しいのか。ただ、否定したくは無い。俺は、似た行動をとった人物を一人知っている。今朝方会ってきたばかりの男。元村惣一郎。彼はアリスに、娘を重ねた。友人はアリスに、妻を重ねた。愛故だ。深い深い、愛故にだ。
「美優ちゃんは、何故亡くなったんだ?」
孝一の問いには答えず、俺は逆にそう尋ねた。病か、事故か。前者ではあるまい。ここ数日程の頻度ではないが、俺は孝一や美優とは当時も定期的に連絡を取っていた。彼女が長期にわたり体調を崩していたような事実はなかったはずだ。
「暴行被害に遭われました」
今度は美優。孝一の代わりに答えたのは、恐らく彼への気遣い故だろう。
「突然のことでした。近くのジャンクショップまで、不足した日用品を買いに行くだけのはずでした。ですが1時間経ち、2時間経っても、美優さんは戻られませんでした。案じて捜しに出られた孝一さんが見つけられたのは……」
美優は一度言葉を切り、少し惑うような様を見せた後、小さな声で続けた。
「道端に打ち捨てられ、変わり果てた美優さんの姿でした」
美優の目を見る。彼女は真っ直ぐに俺を見つめている。ある程度、想像がついた。美優が発言に躊躇するような様を見せたのは、それが言うに憚られる様な出来事であったからだろう。美優は恐らく、強姦被害に遭ったのだ。結果、不運にも命まで失った。
先刻の格闘の際、美優が見せた信じられないような身体能力。あれは恐らくその過去あってのことなのだろう。身体能力に優れるMORGIANAを素体として選択し、法を犯してまで人格プログラムのロックを解除し、更にはユニークエレメントとして、孝一は美優に付したのだ。何があっても、自分で自分を守れるだけの力を。もう二度と、同じ悲運に搦めとられぬように。もう二度と、妻が傷つくことのないように。
分からない。どうしてこうも、理不尽なことが起きるのか。どうしてこうも、世の中は歪んでいるのか。美優の姿をしたアリスが目の前にいることが救いだ。目頭からあふれ出そうになる熱いそれを、その光景が押し止めてくれている。
「どうして教えてくれなかった。美優ちゃんは、俺にとっても大切な友人だった。彼女が亡くなった時、どうして俺にも、別れを告げさせてくれなかった?」
事件後、アリスへと姿を変えた美優と初めて顔を合わせた時、俺はどんな様子だったのだろう。自らと語り合う眼前の女性が既知の人物ではないと気付きもせず、俺は笑顔で言を発したに違いない。事情を知る者から見れば、その様はさぞかし滑稽だったことだろう。
「迷ったんだ。お前には言うべきだろうとも思った。だが言えなかった。口にすれば、何もかもが消え去ってしまうような気さえした。俺以外の美優を知る全ての人間が、彼女を美優として扱ってくれること。それが、彼女を美優たらしめる、そう思えた」
俯いたまま、孝一は語る。美優は目を閉じ、口を結ぶ。分かっている。俺に孝一を責める権利など無い。美優が美優でなくなったことに気付くこともできなかった俺に、一体何が言えようか。大切な友人だなどとほざいておきながら、本質を見抜く目を持たず、ピエロを演じ続けた俺に、一体何が言えようか。
「不安だったんだ。自分がやったことが正しかったのかどうか、俺自身分からなかった。俺の様を見て、美優がどう思うか、何度も考えた。天国なんてものがあるのかどうか知らないが、もしそんな場所が本当にあって、美優がそこから俺の様子を見ているとしたら、彼女はどう思うのか、何度も何度も考えた。自分そっくりに形づくられたアリスと過ごす俺の様を見て、喜ぶのか、悲しむのか、あるいは怒るのか。答えは出なかった。だが、俺に選択肢などなかった。美優のいない毎日など、俺には耐えられなかった」
「孝一……」
意味を持たぬ俺の呟きを最後に、室内は沈黙に包まれた。
美優が亡くなったのは、MORGIANAの発売時期に重なる。急増した調律依頼に忙殺され、当時の俺は、普段以上に周囲を顧みる余裕を失っていた。事態に気付くことができなかったのもそれ故だろうか。いや、そんなものは言い訳だ。一人の男として、孝一や美優の友人の一人として、俺は何と情けないのだろう。
「あの……」
沈黙を破る声は背後から響いた。振り返ると、意を決したような表情のロザ。小さな唇を震わせ、続く言葉を発しようとしている。
「なあに? ロザちゃん」
柔らかな笑みを浮かべ、美優が少女に視線をやる。その様に勇気付けられたか、ロザが必死に、言葉を紡いだ。
「美優さんは、喜んでると思います。できることなら、日比野先生には自分のことを忘れて、新しい幸せを見つけてほしいって、そんな風に考えて、でも、それでもやっぱり、いつまでも自分と一緒にいることを望んでくれる日比野先生の気持ちが、嬉しくってしかたがないと思います。だから、だから不安になんかならなくていいんだと思います。ごめんなさい。良く知らないのにこんなこと言って。でも、でもわたし……」
勢い込んで喋るロザの目尻から、一片の雫が溢れ、頰を伝う。その様を見、俺は苦笑する。馬鹿が。お前はこの話に、唯一無関係な人間だろう。そのお前がいの一番に泣いてしまってどうするのだ。全く、餓鬼臭くって適わない。
「そう。そうだったのね……」
どこか悲しげに、切なげに、美優が呟いた。その言葉が意味するものは分からない。美優は何かを、ロザの言葉から何かを知ったように見えた。彼女はそれから優しい瞳でロザを見つめ、再び笑顔をつくる。ありがとう、ロザちゃん。
「泣くなよ、馬鹿」
ロザにそう呟き、俺は小さく溜息を漏らす。美優は笑っている。孝一は目を閉じ、しかしその表情にはどこか柔らかなものを漂わせている。
かけられた礼の言葉に感ずるものでもあったのだろうか。ロザのしゃくりあげるような嗚咽が、いつまでも室内に木霊していた。
10
研究室。座りなれたプレジデントチェア。孝一と美優が工房を辞し、3時間程経った。ロザの調律作業を進めようとここへ籠ったが、どうにも手が進まない。様々な思考が去来し、その度に心身は磨耗する。
数分前、玄関ドアの開く音が聞こえた。ロザがどこかへ行ったのかもしれない。だとすれば引きとめ、叱らなくてはならなかったが、どうにもその気力が湧かなかった。疲れさせてくれるなよと溜息を漏らし、俺は天を仰ぐ。
簪は、美しく修復されていた。さすがの腕だと、素直に感心した。とはいえ友人は、俺が日常的に接していてもなおアリスと気付くことのできない程の完成度で美優を作り上げた人間だ。簪の修理など朝飯前も良いところだ。
ロザは随分と嬉しそうにしていた。孝一に何度も礼を言い、ハンカチにくるんだ簪を、大切そうにトランクケースにしまっていた。
チェアをまわし、立ち上がる。ロザが無断で工房を出たのなら、やはり放っておくわけにはいかない。研究室を出ようとして、ベッドの上に鎮座するコアラと目が合った。相も変わらず間抜けな容姿だ。先刻の涙もそうだが、あの娘にはどこか幼稚なところがある。毎晩このコアラと一緒に寝ているのだとしたら、結構なものだろう。
「ロザ、いないのか」
居間へと廊下を進みながら、一応そう声を掛ける。俺も少し気が沈んでいる。叱り飛ばすようなことはできればしたくなかった。
「おりますよ、先生。どうかされましたか?」
居間の入り口から、ロザが顔を出した。どうやら無断で出て行ったわけではなかったらしい。少し安堵し、少女に珈琲を淹れてくれと頼んで、居間へ足を踏み入れた。
「うわっ。なんか辛気くさっ」
「うるせえ。帰れ」
ソファを占領していたアリサを適当にあしらい、スツールに腰掛ける。先刻の玄関ドアの開閉音はこの娘の来訪故だったらしい。
「元村さんのところにいなくていいのか?」
ロザが運んできてくれた珈琲カップに口を付け、アリサにそう尋ねる。
「うん。もう大丈夫みたいだし。明日退院だから、その時迎えにいくけど」
「そうか」
細い足をぷらぷらと揺らしながら、アリサはタブレットを弄っている。
「お前さ」
どうしてそんな気分になったのだろう。自分自身よく分かりもせず、俺はアリサに尋ねた。
「不安になったりするか? 自分のこと。自分が有紗として……」
そこまで口にし、ふと気付く。アリサが元村有紗を模してつくられたアリスであるということを、ロザは知らぬはずだ。アリサからその話を聞いた時、ロザは部屋の隅でスリープダウンしていた。であれば、ここで俺が話してしまってよいはずがない、だが。
「不安になるよ。てか、いっつも不安。有紗ちゃんはどう思うのかなって、よく考える。わたしのこと、有紗ちゃんは嫌いなんじゃないかなとか、思うしね」
ロザが直ぐ隣にいることを気に掛けるそぶりすらなく、少女は話し始めた。それから俺の視線に気付き、明るく笑う。いいよ。ロザちゃんは友達だもん。
「昨日さ、ちゃんとロザちゃんにも聞いてもらえば良かったって、ちょっと後悔してたんだよね。相手のことちゃんと知りもしないで、仲良くなんかなれないでしょ? だから、ロザちゃんにもやっぱり聞いてほしいのさっ」
からからと笑い声をあげ、アリサは続ける。ロザが何故か寂しそうに、少し俯いた。
「でもさ、有紗ちゃんの気持ちをわたしが知ることなんてきっとできないから。だから考えたって仕方ない。有紗ちゃんはきっと、わたしにお父さんをよろしくって、そう言ってくれるって信じて、わたしはわたしにできることをするだけだって、そう思うんだ」
わたしって大人だよね、といらぬ一言を付け加え、アリサは立ち上がった。どうやらソファを譲ってくれるらしい。代わって腰掛け、ロザの運んできた珈琲に口をつける。小さく溜息。やらなくてはならぬことを、一つ思い出した。
「わたしね、旦那様の亡くなった娘をモデルにつくられたアリスなんだ。アリサは、旦那様の本当の娘の名前なの」
アリサがロザに、自身の身の上を話している。ロザは瞳を伏せ、どこか寂しそうな面持ちで、アリサの言葉に耳を傾けている。
「ロザ、ちょっといいか」
アリサの話が一段落したのを見計らって、俺はロザに声を掛けた。気落ちしたような様子を見せていたロザが顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめ返してくる。
「お前に言わなくちゃならないことがあるのを、思い出した」
アリサの眼前で話すべきことか、少し迷った。だが俺が今から話そうとしているそれは、第三者に聞かれてロザが迷惑するような類のものでもない。聞かれて恥をかくのは俺だ。であれば、何も気にすることではない。そう考えた。
「わたし、お手洗い行って来るっ」
続く言葉を発しようとした矢先、アリサが妙なことを口にしながら居間を出て行った。どうやら気を遣ってくれたらしい。昨夜のロザと立場が逆になった。
「何でしょう。先生」
廊下の奥へと遠ざかるアリサを一度見遣り、それからロザは弱々しい笑みを向ける。少女は先刻から元気が無い。
「いや、昨日のことだ。長谷川の前で、お前を責めただろう、俺は。Physical Illusion社の駐車場までやってきてこそこそと何をしていたのかと。それを謝りたい」
昼にこの工房を襲ったあの男。彼はPhysical Illusion社で俺を見かけたと言っていた。喫茶スペースで名無しのアリスが口にしていた、眠る俺を見ていたという男が、恐らくは彼だったのだろう。であれば、駐車場で莉子が見かけた人影も、彼であったと考えるのが妥当だ。この工房へ即座に辿りついたことからも、それはほぼ間違いのないことのように思える。にも拘わらず俺は、勝手な思い込みでロザを疑い、詰ってしまった。少女の抱える不審の影は消えねども、ことこの一件に関しては、非は明らかに俺にある。あらぬ疑いを掛けられ、違うと言っても信じてもらえず、少女はさぞ傷ついたことだろう。
「お前は本当に、Physical Illusion社になんか来ちゃいなかったんだな。疑って済まなかった。許して欲しい」
自身の両膝に手を突き、俺は少女に深く頭を下げた。そうしながら、ふと考える。昼間の青年は、これ程に一方的な非が自身にある場面においても、アリスに頭を下げる必要などないと、やはりそう言うのだろうか。だとすればそれは、とても悲しいことだと思う。
「先生、もういいんです。どうか頭など下げないで下さい」
慌てたように駆け寄ってきたロザの手が、優しく俺の肩に置かれる。まあ、ロザはそう言うだろうなと、どこか冷めた様な心持で俺は考える。ロザも、アリサもキリカも、あるいは美優も、本当に優しい奴らだと思う。ここ数日の出来事で、何だかアリスに対する考えが変わってしまいそうだ。
「ありがとう、ロザ」
暫くの後に頭を上げ、俺はロザに礼を言った。少女の微笑みに助けられてか、幾らか戻った気力でもって立ち上がる。夕食の準備を進めると言うロザに空になったマグを手渡し、それからやや軽くなった足取りで、俺は居間を出た。
11
「何をしてるんだ?」
研究室に戻ると、ベッド上にアリサ。両の手で摑み上げたロザのコアラと視線を合わせ、難しい顔をしている。俺の声にこちらを振り向いた少女は、ぬいぐるみを握り締めたまま、非難するような調子で言葉を発した。
「これ、あんたの?」
「そんなわけないだろ。ロザの私物だ」
答え、溜息を漏らしてプレジデントチェアに向かう。物が物なのだ。尋ねずともロザの所持品だと理解して欲しい。
「で、お前は一体何をしに来たんだ? 俺なりロザなりに用があるのなら、とっとと済ませて帰ってくれ。俺も仕事があるんでな」
元村家及び病院への訪問、訳のわからない襲撃者の来訪。俺に責のあるものも無くはないが、立て続けに起こる厄介ごとのせいで暫く作業が進んでいない。
「これさー、何かギミックがありそうなんだけど、動かし方が分からないんだよね。あんた知ってる?」
俺の言葉を完全に無視し、アリサは小さな手の中でコアラをこね回す。耳を引っ張ってみたり、お腹を押してみたりと忙しい。
「ギミック? 例えば何だ」
少女の言わんとすることが今ひとつ分からない。興味が無かったのであまり注視したことも無かったが、俺の目にはアリサに蹂躙されるコアラはただのぬいぐるみとしか映らない。少女は細い眉を寄せ、未解決問題に挑む数学者のような真剣な面持ちでコアラの尻をつついている。
「耳を引っ張ると目が光るとかさ、お腹を押すと泣き声をあげるとかさ、あるじゃん、そういうの」
「ただのぬいぐるみだろ。気になるならロザに訊け」
腰掛けたチェアをまわしてアリサに背を向け、俺はデスク上の大型液晶を表示させる。いい加減集中して作業を進めねば、調律期間内に仕事を終えることが出来なくなる。
「お腹にさ、何か入ってるんだよね、コレ。絶対何かあると思うんだけどな」
ぶつくさと言いながら、少女はぬいぐるみを持ったまま立ち上がる。ロザに訊けという俺の提案をどうやら受け入れる気になってくれたらしい。
「話が終わったら、ロザにここへ来るように言ってくれ」
コアラと連れ立って研究室を出るアリサにそう伝え、俺は液晶画面に目を走らせる。不運が連なり随分と遅くなってしまったが、確認しなくてはならないことがある。今朝方電話越しに莉子と話した一件についてだ。
ロザの個体識別番号は、Physical Illusion社の販売記録上に存在しなかった。どういった種のトラブルが起きた結果、そのような事態が生じたかは定かでないが、デスクの大型端末から取得した識別番号を俺が莉子へと伝えるその過程の中で、凡ミスの類が発生した可能性も無くは無い。
端末に保存されている識別番号は、調律開始当初、ロザの人格プログラムを取得するために使用したもの。少女へのアクセスに成功した実績がある以上間違いがあるとは考えにくいが、とはいえそれも絶対とは言い切れない。10日間にも亘る調律作業の最中、何らかの操作ミスで、端末に保存されていた識別番号を誤ったそれに上書いてしまった可能性も僅かながら存在する。
ロザに個体識別番号を口頭で確認し、端末上のそれと照合しても確認は可能だが、そもそも識別番号が販売記録に無いというその事実自体、ロザに対する疑いに端を発している。少女には仔細を告げず、実際に再度アクセスできるか否かを確認する方が良いだろう。
デスクに肘をつき、考えを巡らせながら少女の来訪を待つ。はねっかえりがコアラと共に退室してから、5分程経過した時だった。控えめなノックの音と共に、落ち着いた少女の声が耳朶に触れた。
「先生、何か御用でしょうか?」
「ああ、すまないな。入ってくれ」
答えれば、少女はドアを開き、それからゆっくりとした足取りで俺の許へ歩み寄る。小首を傾げ、不思議そうな顔をしている。
「大した用じゃないんだがな。今日はいろいろあっただろう。念のため一度、軀体の動作状況を確認しておきたいんだ。協力してくれるか?」
噓をついた。だが、説得力は無きにしも非ずだろう。昼間はロザも、多少激しい運動を強いられた。軀体のメンテナンスを俺が申し出たとしても不自然は無い。はた迷惑な青年が齎した僥倖を甘受するとしようではないか。
「はい。どうしたら良いでしょう?」
大きな瞳で、少女は真っ直ぐに俺を見る。その様に少し、心が痛んだ。
「それじゃ、まずはSleepDownしてくれ。関節稼動のチェックを行いたい」
そう笑顔で告げた。素直に従うかとも思ったが、少女は僅かに眉を寄せた。
「あの、先生。やっぱり後では駄目でしょうか。夕御飯の支度の途中ですし……」
困ったように瞳を揺らがせ、ロザは遠慮がちに問う。その言の通り、少女には夕食の支度を頼んでいる。アリサにも邪魔をされたところだろうし、タイミングの悪さを申し訳なく思わないでもない。
「ああ、そうだったな。では急ぎでやろう。数分で済む作業だから、悪いが協力してくれ」
「ですが今、スープを温めている最中でして、あまりキッチンを空けておきたくないのですが……」
少しばかり、不審感が芽生えた。少女は随分と抵抗するように思う。言っていることにおかしさはないが、普段の彼女を鑑みるに、素直に従うとばかり思っていた。
「ロザ?」
眼前の愛らしい困り顔を真似るように、俺は眉を寄せる。視線でどうしたのだと問うた。
「わかりました。でも、関節稼動の確認だけにして下さいね」
諦めたのか、少女はゆっくりとベッドに腰掛ける。俺の放つ定型句を待つことなく、そのままスリープモードに移行した。
「さて」
関節稼動のチェックは方便に過ぎないが、少女は夕食の支度中であるのだから、何にせよ作業はすばやく済ませてやらないといけない。チェアに腰掛けると、俺は液晶画面に手を伸ばした。表示された個体識別番号を確認し、ロザへのアクセスを試みる。数日前と同じ作業。小さな駆動音と共に、端末がアクセス処理を開始した。
「やはりか……」
そう声に出し、腕を組み、俺はチェアの背もたれに身を預ける。AccessError。該当する個体を検索できません。
液晶画面上にエラーメッセージが表示された。懸念の通り、どうやら端末に保存されていた個体識別番号は誤っているようだった。保存されていた識別番号を、何らかの作業の折に誤ったそれに書き換え、そのまま保存してしまっていたらしい。低い可能性ではあるが、アリスの持つ個体識別番号が変化することなどありえない以上、変わったのは端末に保存されていた番号の方としか考えられない。
立ち上がり、ベッド上の少女に歩み寄る。正確な番号を確認しようと、小さな唇に手を伸ばした時だった。
「うわっ。ロザちゃんが貞操の危機」
何ともくだらない諧謔が室内に響き渡った。手を止めて目をやれば、開きっ放しになっていた研究室の入り口ドアを背に、コアラを抱えたアリサが立っている。
「作業中だ。どっかいってろ」
投げかけられた言葉に不満そうな表情を見せた少女が踵を返すと同時、俺の背後から響く控えめな電子音。振り返る。液晶画面の中央にポップアップした小さなウインドウ。アクセスが正常終了した旨を示すメッセージ。何故だ。何故突然アクセスに成功した。
「どしたの?」
足を止め、不思議そうにこちらを見つめるアリサの大きな瞳。手の中の玩具。コアラのぬいぐるみ。ずっとこの部屋に置かれていたロザの持参品。先程の少女の言葉が思い出される。
「アリサ、そいつを貸してくれ」
眉を寄せて首をかしげる少女からコアラを受け取り、パイル地を指先で押し込んで中を探る。先刻のアリサの言の通り、腹の中、綿の詰まったその内側に硬い感触が存在している。
「こいつは……」
確証はない。だが、考えられる要因はこれを除いて存在しない。強まる疑念故か衝撃故か、かじかんだように動作を鈍くする指先を叱咤し、俺はコアラの全身を探る。見れば下腹部に当たる箇所に、小さな縫い目が存在している。製品製造時のそれとは明らかに異なる、やや荒い縫い目。ここから何か、そう、何かを綿の中に縫いこんだのだろう。
「アリサ、ロザの個体識別番号を読み上げてくれ」
コアラをサイドチェアに置き、訝しげな表情を見せるアリサに命じた。少女は何も言わず、ベッドでスリープするロザの横に立つ。白い指先で唇を押し開き、口の中を覗き込んだ。
「X7055_54965173。てかこれ何? どしたのさ」
アリサの発言を無視し、端末上に保存されていた個体識別番号と照合する。やはり違う。似ているが、異なる番号だ。端末上に保存されていた番号、以前も、また今回もアクセスに成功し、莉子に伝達したそれは、ロザの個体識別番号とは別のものだ。
「馬鹿野郎がっ」
思わず毒づく。唐突に昂ぶった感情が、呼吸を荒くする。何らかのミスで端末内の番号を書き換えてしまった可能性を考えていた。だが違った。俺はそもそも、ロザの個体識別番号を誤って認識していたのだ。いや、させられていたと言うべきか。
ロザの印象値を改変する際、ロザ本人から口頭で伝達された番号。この番号は、これまでの調律作業の全てだった。それが、それが間違っていた。
俺はこの番号を使用し、10日前ロザの人格プログラムを取得した。プロパティファイルを覗き、印象値を書き換え、それをベースとして人格プログラムの改修を行ってきた。だが無意味だった。何もかも無駄な作業にすぎなかった。俺が取得し、閲覧し、日数を掛けて改修を重ねてきたそれは、そもそも偽物のプログラムだったのだ。
ロザの印象値は改変などされていないし、調律自体も、何も進んでいないに等しい。馬鹿な時間を過ごしたものだと、心の底からそう思う。
目を閉じてベッドに横たわる少女を見遣る。頰を思い切り、ひっぱたいてやりたい衝動に駆られる。
目の前のアリスは俺を謀った。偽りの個体識別番号を提供し、偽のプログラムへのアクセスを行わせた。無意味な調律作業に従事させ、無駄な時間を過ごさせた。
偽のプログラムは恐らく、コアラのぬいぐるみの中に仕込んだメモリディスクにでも格納されているのだろう。先刻少女が食事の準備を理由にスリープダウンすることを拒んだのはそれ故だ。少女にとって埒外の事象であったアリサの言動。そのせいであの瞬間、この部屋には俺に伝えた識別番号のアクセス対象であるぬいぐるみが存在しなかった。関節稼動の確認のみにしろと念を押したのもそのため。何らかの事情で再度のアクセスを試みられることによって、識別番号の誤りに気付かれるのを恐れたからだ。
プレジデントチェアに再び腰掛け、アリサから伝え聞いた識別番号を打ち込む。指先が震え、入力にやや手間取った。
気が付いたことが一つある。ロザへの度重なる疑念。その数少ない否定理由の一つとなっていたある事象。無様に謀られ、ロザのものと思い込んでいたプロパティファイルがそもそも偽物であったのなら。そこに並んでいた人物情報が全て偽物であったのなら。
ウインドウのポップアップを確認し、ロザの人格プログラムの取得を開始する。画面に並ぶ無数のクラスファイル。表示される人物情報。朝倉冬治の名を検索する。割り振られたナンバーは78。やはり違う。今までアクセスしていたプロパティファイルと、目の前のそれは別物だ。以前のファイルにおいて、俺に割り振られたナンバーは112であったはずだからだ。
続いて印象値を確認する。EmotionalParam_78=4230。随分と低い。ロザは数日前、俺に対する印象値を8000代後半と言っていた。馬鹿にされたものだ。それを鵜吞みにしていたのだから笑えない。
「ねえ、大丈夫……?」
直ぐ横に立ったアリサが、不安げに声を掛けてきた。目をやれば、大きな瞳を僅かに揺らがせ、俺の顔を見つめている。手を伸ばし、柔らかな髪を軽く撫でた。俺はもしかしたら酷い顔をしているのかもしれない。
「大丈夫だ。お前は、そうだな。居間へ行っていてくれ」
微笑んでみせ、それから少女に告げた。ロザは俺を謀っていた。内部に保持する印象値も、好意からは程遠い低いものだった。それ故だろうか。純粋に俺を慕ってくれるアリサの存在を、心からありがたく感じる。
「無理しちゃ駄目だよ?」
悲しそうにそう言い残し、アリサは研究室を出て行く。小さな背中が廊下へ消えるのを見届け、液晶画面に向き直る。眼前に展開された人物情報の中に、俺の名が存在するのは当然のこと。本当に存否を知りたい名は別にある。
一度大きく息を吐き、目を閉じる。指先に加え、足まで震えているのが分かる。腹の奥から、恐怖心にも似た感情の奔流が胸に向かって迫り来るのを感じる。呼吸を整え、気持ちを振るい立たせ、その名前を端末へと打ち込んだ。
「ああ……」
喘ぐような、呻くような、得体の知れぬ声が自身の口から零れ出た。あるのだろうと思っていた。見つかってしまうのだろうと気付いていた。だが看取されたその場所だけは、予想し得ぬものだった。
諦観にも似た無力感に包まれ、俺は再び目を閉じる。鮮やかにマークアップされたその単語。胸を抉る無機質なその文字列。美しいアリスの所持者を指し示す言葉と、等号にて結び付けられたその名前。微かな明滅を見せる視界の中央で、それは異様な存在感を放って、俺を見つめていた。
OwnersName=永峰あきら。