アリス・エクス・マキナ
第四回
伊吹契 Illustration/大槍葦人
伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!
Chapter.4 灯火
1
白衣を脱ぎ捨てソファに放り、クローゼットを覗き込む。自然と愛用のトラッカージャケットに伸びる右手を、すんでのところで引き留めた。指先が宙を搔く。外出の度に同じスタイルでは、幾らなんでも芸がない。まして今日エスコートする姫君は、驚く程に気合充実のご様子だ。
「先生、お着替えはお済みになりました?」
戸が開く音と共に、背後からロザの声。ままよとオールドイエローのブルゾンを取り出し、振り返る。もう終わるとそう伝え、一呼吸。少女の姿に、改めて見惚れる。
白を基調とした綿生地の浴衣。品良くちりばめられたパステルカラーの折紙風車が美しい。藍色の帯はシンプルな文庫結び。帯と同色の鼻緒に飾られた下駄を小脇に抱え、指先には竹籠入りの巾着を提げている。
「良かった。それじゃ、もう出られますね」
笑顔のロザは、満面の笑み。ほっそりとした指で自身の前髪を少し触り、それから少し、視線を伏せた。どうでしょうか、と小さな声で呟く。髪型のことを言っているのだろう。恥ずかしそうな表情に何故だか胸が騒ぐ。
「ああ、えっと、良く似合ってる」
少女は美しかった。頭頂部よりやや右寄り、眉頭の上辺りに作った分け目から左に向け、艶やかな髪を大胆にコレクトしている。片側にのみボリュームを持たせたアシンメトリーは豪奢な印象。複雑にカールした紫黒色が、端整な顔立ちを一層に大人びたものに見せている。簪の一つでも挿せば、浴衣にもより映えることだろう。
「ありがとうございます先生。嬉しいです」
やや戸惑いながら放った俺の言葉に、少女ははにかむ。その様はどこまでも愛らしく、どこまでも微笑ましい。彼女の見せる表情が本心からのものであると信じられたのなら、どれ程心安らいだことか。
「それじゃ、玄関でお待ちしていますね」
小さな背を揺らして廊下へと消える少女。ひとつ溜息を漏らすと、俺はブルゾンを羽織った。
浴衣、帯、下駄、巾着。ロザはそのすべてを持参してきていた。7日前の来訪時、妙に多いと感じた彼女の荷物には、そんなものまで含まれていたのだ。嵩張るのも当然だろう。着替えると言って寝室に籠り、あの姿で出てきた時には驚いたものだが、心のどこかで、やはりなと、そう感じたことは否定できない事実だ。恐らくこれは予定通りの行動。10月の2日、俺が少女を連れて祭りに繰り出すというこの出来事は、来訪のその時点から、少女の胸のうちで既に決定されていた未来なのだ。
数日前に出かけたショッピングモール。トイショップでの俺とアリサの遣り取りにロザは憤怒の情を見せ、結果として俺に対し、この約束を取り付けることに成功した。であればあの一連の行動も、これを想定して計算されたものだったのだろうか。思い出してみれば、あの日外出を提案したのもロザだった。すべては、彼女の想定の通りに進みゆく事象に過ぎぬのだろうか。
いや、やはりこれは穿った見方だ。少なくともアリサの合流は埒外の事象であるはず。はねっかえりの姫君の闖入をないものとした場合、ロザは不機嫌を発する機を失うではないか。
「先生、まだ掛かりますか?」
開いたドアから顔を見せた少女が、悲しそうな声色を居間に響かせる。思い返せば、少女は朝から落ち着かぬ様子を見せていた。この外出が楽しみで仕方がなかったのだろう。
済まないと一言告げ、鏡の前に立った。ダークグレーのカーゴパンツにくすんだイエローのミリタリーブルゾン。インナーはカジュアルシャツにセーターでモノトーンに纏めている。浴衣の少女を連れ歩くには情緒に乏しいが、和服の類を持たぬ以上は止むを得ない。
ドア横のセンサーに手を翳し部屋の明かりを落とすと、少女の待つ玄関へ向かった。
「待たせたな」
靴紐を結びながらそう言うと、少女はいえいえと首を振り、身を屈めて俺の顔を覗きこんできた。
「どうした?」
「先生、今日は何だかお洒落さんですね」
埒も無い。それには答えず立ち上がり、行くぞと一声。質問を無視された少女は不機嫌になるでもなく、にこにこと朗らかな様子を保ち続ける。
「鵬村神社ですよね。歩いて行きます?」
「悪いがこちとら若く無くてね。そんな体力は無い。車で行こう」
外へ出、ポケットからカードキーを引っ張り出す。ついでに取り出したタブレットに目をやれば、時刻は18時40分。遅くとも19時までには着けるだろう。
「先生っ」
先に車の前に移動していたロザが、少し大きな声で俺を呼ぶ。ドアに施錠を済ませ振り返り、歩きながら何だと問うた。
「あの、ありがとうございますっ」
何だか哀しげにも見える笑顔で、少女は礼の言葉を述べた。俺は何に向けられた言葉だろうと一瞬考え、直ぐにその思考を放棄する。
ロザが謝意を表したその対象が、約束を守った俺であろうと、あるいは別の何かであろうと、そんなことはどうでも良いのだ。夜の帳に響いたソプラノは、ひたすらに純粋な思いだけを、その背に乗せていたのだから。であれば、それで良い。それで良いのだ。
月明かり。微光を背に受け謝した少女は、一体何を想うのか。言葉の意味は計れれど、その心情は覗くに能わず。苦手な笑みを辛うじて返し、少女の肩にそっと触れた。何かを堪えるように瞳を閉じた彼女が、俺にはただただ脆く、儚げに見えた。
2
目的地の神社から徒歩5分程の有料駐車場に愛用のミニバンを停め、一人アスファルトに降り立つ。慣れぬ下駄履きで足元のおぼつかないロザの手を取り、丁重に降車をエスコートした。神社裏の駐車場は見事に満車。出立が遅れたのが災いし、結果的にそこそこの距離を歩くはめになってしまった。
「お祭り初めてです。すごく楽しみ」
俺の顔を真っ直ぐに見上げ、ロザは屈託の無い笑顔を見せる。夜風に揺れる浴衣の裾は、ふわふわと舞い上がる少女の心情を表すかのよう。微かに聞こえる太鼓の音がBGM。駐車場のアスファルトを舞台に、姫君は今にも踊りだしそうな風情だ。
「綿飴に、焼きそばに、チョコバナナに、先生沢山買いましょうねっ。あ、あとたこ焼きもっ」
夜店で買いたいらしいジャンクフードの類を指折り数えながら、ロザは軽やかに足を進める。調べて来たんですよと誇らしげに胸を張る少女は、まだ神社にも着いていないというのに、随分と高揚した心持でいるようだ。逸る想いがそうさせるのか、珍しく俺より前を歩いている。
「買うのはいいが、ちゃんと自分で食えよ」
少し呆れてそう言えば、振り返った少女は頰を膨らませる。
「壊れちゃうから駄目です。先生食べてくださいっ」
華やいだ表情をそのままに、どこぞのはねっかえりを思わせるような勝手を抜かす。苦笑しながら足を早め少女に追いつくと、時刻を確認。19時丁度だ。夜店が畳まれ始めるのは、恐らく21時から22時の間くらいだろう。これなら2、3時間は会場に居てやれる。ロザは少しでも長く祭りを楽しみたいと願うだろう。面倒な話ではあるが、これ程に楽しそうな様子を見せてくれるのなら、まあ付き合ってやるのも悪くない。
「うわぁ、すごい人ですね」
暫く歩いたところで、感嘆の声を漏らすロザ。ぽつぽつと点在する屋台と、ごった返した人ごみの向こうに見える黒ずんだ朱は鳥居か。その下を潜る形に伸びる階段の向こうが、恐らくは会場のメインだろう。
逸れるなよと言い添え、少女の細い手首をそっと握る。人波を搔き分けるようにしながら、ゆっくりと階段を上った。
「さて、それじゃ適当にぶらつくか」
揺れる提灯、境内を埋め尽くす数多の人影、飛び交う笑い声に、心地よく耳を打つ太鼓の音色。久しく忘れていた空気が胸に染み込んでは、その奥に温かな灯を点す。
桜色に頰を染めた姫君の頭を一撫でし、それから俺は人ごみへと身を躍らせる。半歩後ろの少女の歩調に合わせ、夜店の一つ一つに何とも無く視線をやりながら、ゆらりゆらりと会場を練り歩いた。
「素敵ですね。賑やかで、とっても綺麗で……」
俺の真横に居場所を確保し、視線を正面に向けたまま、嘆声を漏らすロザ。気付かれぬよう、その横顔を眺め見る。
吊り下げられた提灯の明かりに照らされて、緋色に染まるすべらかな頰。浴衣に身を包んだ愛らしいその姿は、あの日俺が夢想した彼女そのもの。気を抜くと感傷に誘われ、足を止めてしまいそうになる。
15年前のあの時、もし俺が彼女と共に、煌びやかな祭事へと繰り出すことができていたのなら。もし俺と彼女が互いに、約束を守ることができていたのなら。彼女はやはり目の前のアリスと同じように、灯火の夜を謳歌したのだろうか。俺はやはりその姿に見惚れ、足を止めそうになったのだろうか。
「あ、りんご飴発見です、先生」
唐突に立ち止まったロザ。勇躍としたその声に、俺の回顧は終わりを迎える。現実に引き戻され、二度三度と転瞬して状況を認識。少女は屋台の前に立ち止まり、俺のブルゾンの裾を引っ張りながら破顔する。細い指先で暖簾下に並んだ甘味を指し示し、何だか得意気だ。祭りに来るのは初めてだと、先刻彼女はそう言っていた。その言が本当だとしたら、随分と詳しいものだ。と思ったら、屋台の暖簾にでかでかと商品名の記載があった。
「甘いものはあまり得意じゃないんだがな……」
商品を欲しがるのは少女でも、それを胃袋に入れるのは俺。妙な話だが、目の前のアリスは祭りを満喫したくて仕方がないらしい。付き合ってやると決めた以上、中途半端なのも良くないだろう。腹をくくり、カーゴパンツの尻ポケットから財布を取り出した。
「あの、先生……」
ブルゾンから手を離さぬロザが、指先を僅かに震わせながら一言。見れば表情にも少し陰が差している。先程までの元気はどこへやら。視線で続きを促せば、妙なことを言った。
「お金、後でわたしが全部払いますから、二つ買っていただけませんか?」
「二つ?」
問えば、少女は不安げな眼差しで、しかしこくりと頷いてみせる。
「他にも、食べ物沢山買いたいんです。それで、それも全部二つ買ってほしくて。それから、注文はできれば先生にしていただきたくて、あと、あと、それから……」
「落ち着け」
俺の服を摑むロザの手に、徐々に力が籠っていくのを感じ、慌ててそう宥める。細い眉を寄せ、哀しそうな面差しで、勢い込んでしゃべる少女。どんな想いがそうさせるのか、必死としか言いようの無い様を見せる。小さな肩に手を置いて、わかったからと言ってやれば、漸くと表情が和らいだ。
「注文は俺がしてやる。お前がさっき言ってた焼きそばやらたこ焼きやらも、全部二つ買ってやる。食うのはどうせ俺だから、金はいらないけどな。他にしてほしいことがあるのなら、慌てずゆっくり、その都度言え」
できるだけ優しく、諭すように言い、力の抜けた少女の指先をそっと握った。軽く振って、手を離す。笑って見せてやるのは、止めておいた。雰囲気を鑑みるに、このタイミングで怒っているとでも誤解されるのは致命的だ。
ありがとうございます、との少女の言を背に受けながら、屋台を覗き込む。指を2本たて、的屋の親父と二言三言。冗談みたいな値段に閉口しながらも、目的の品を手に入れた。少し離れたところに移動して待っていた少女に一つ渡してやれば、何だか泣きそうな顔をする。割り箸を握り締め、艶やかな飴に彩られた小ぶりの林檎をしげしげと見つめ、それから微かに、薄桃色の唇を震わせた。
「俺がこっちを食い終わるまで、それはお前が持っててくれ」
言って、手の中の毒々しい赤に齧り付く。甘ったるい。2本も食ったら胸焼けしそうだ。
「どうした?」
少女が足を止めたまま俺の顔を見つめているので、不審に思ってそう問うた。食べるわけでもないロザに1本持たせたことに対する苦情なら、無論受け付けるつもりはない。当然の処置だ。可憐な浴衣の少女の隣を、両手にりんご飴を握り締めて歩く中年の男性。その光景を想像してみるといい。俺が警官なら迷いなく声を掛ける。
「どうもしませんっ」
少女の顔に、再び灯が宿る。嬉しそうにも哀しそうにも見える笑顔で、刹那瞳を閉じたロザは、それから緩く首を振って見せた。
「あ、でも、ちょっと分かっちゃいました」
両の手を胸の前で優しく合わせ、おどけた調子の少女は言う。なにがだと問えば、珍しく蟲惑的な目付きで諧謔に戯れた。
「先生のこと、好きになっちゃう人の気持ちです」
くだらない。とはいえ華やいだ心持が戻ったのなら、歓迎しよう。
「そりゃ重畳だ。で、誰が俺に惚れてるんだ? 美人なら紹介されてやってもいいぞ」
少女の笑みが思わせる、ある人の面影を振り払い、少し間を置いてそう返す。ロザは悪戯っぽく笑い、楽しげに言う。アリサちゃんはどうです?
「随分とアクロバティックな人選だな。せめてキリカにしてくれ」
出るはずの無い彼女の名前。それがやはり出なかったことに胸を撫で下ろし、俺は笑う。今度はきっと自然に笑えた。当然だ。これは嘲り。眼前のアリスの笑みに何かを期した、自身の愚昧に対する嘲りなのだから。
3
ロザを連れ、人波を搔き分けながら足を進める。本堂の脇、小さな木作りの建物の前にスペースを見つけ、並んで座った。
建物の壁に背を預け、天を仰ぐようにして一息。俺の両手には焼きそばとたこ焼きがそれぞれ二箱ずつ、少女の手にはチョコバナナが握られている。篝火の熱に当てられたのだろうか。果実表面の褐色が、少しずつ艶めき始めている。
「買いたかったものは、一通り買えたか?」
両手の荷物を地面にそっと置き、二つあるたこ焼きのパックの片方を開けた。楊枝に挿した一つを口に放り込みながら、少女に尋ねる。果たしてロザは、笑顔で頷いて見せた。
「満足できました。ありがとうございました先生」
「そりゃ重畳だ。ここで全部は食えねえから、残った分は持って帰るからな」
言って、そっと胸を撫で下ろす。りんご飴2本の後、綿飴とお好み焼きをそれぞれ二人前食わされた。腹は既に膨れかかっている。持って帰るのに難儀しそうなチョコバナナもここで平らげておきたい。これ以上買われると色々と面倒臭そうだった。
タブレットを取り出し、時刻を確認する。19時55分。まだ暫くはここにいることになりそうだ。ロザは相好を崩したまま、空を見上げている。視線の先には月か、星か。
「お前さ……」
ふと思い立ち、そう口にする。自分でも何故唐突にそんなことを訊く気になったのか分からない。少女の機嫌が良い今を、無意識に好機とでも捉えたのだろうか。
「何で、俺の工房に来たんだ?」
「と、おっしゃいますと?」
不思議そうな顔。小首を傾げた少女の視線が、ぼんやりとこちらに投げつけられる。
「そのままの意味だ。お前は俺の工房に、何をしに来たんだ?」
訳の分からない質問だろうとは思う。少女がただの、本来俺と何の関係もないアリスであるのなら。少女の目的が、本当にごく普通の調律であるのなら。
「それは、勿論調律をしていただくためですけれど……。あっ」
眉を寄せ、困ったような表情で答えたロザが、思い至ったとばかりに言葉を切る。黙って待つと、こう続けた。
「わたしが遊びにばっかり行きたがるから、先生怒ってらっしゃるんですね。申し訳ありません先生、これで最後ですから。もう絶対、どこどこに行きたいとか、言いませんから」
「そうじゃないさ」
何をしに来たのかという俺の問いを、少女は単純に嫌みの類だととった。そういうことだろうか。俺は溜息を浮かべて目を閉じる。まるで強引に話を纏めに掛かるかのようなロザの発言が、どうにも何かのポーズに思えてならない。
「お前が工房に来た時のこと、覚えてるか?」
言って、少し笑う。覚えていないはずが無い。アリスは見聞きしたことを、決して忘れない。ロザは頷き、答える。
「先生に抱きしめられてびっくりしてしまいました。あきらさんという方に、わたしがそっくりなんですよね」
少女が口にした幼馴染の名。あきらさん、という発言に不思議な感覚を抱く。あきらの顔をした女が、あきらのことを他人行儀にさん付けで呼ぶ。何だか寂しいような気さえする。あの時は悪かったなと、改めて謝罪し、俺は続ける。
「そっくり何てもんじゃない。僅かな違いを見つけるのにも苦労するくらいだ。本当に、瓜二つなんだ」
「成る程。その方は、先生とどんなご関係なんですか?」
両膝を立てて踵を揃え、細い腕でもって膝小僧を抱え込む。所謂体育座りの姿勢で、ロザは俺の顔を覗きこんでいる。
「幼馴染だよ。俺が18の時まで、一緒にいたんだ。家の事情で彼女が遠くに引っ越して、それっきりだけどな」
「連絡はされなかったんです?」
「ああ。彼女さ、タブレットとか、通信機器を何も持ってなくてな。連絡しようと思ったら、家用のに掛けなくちゃならなくって。連絡するとさ、絶対親父さんが出るんだよ。それがちょっときつくてな」
あきらの両親は、厳しい人だった。俺が彼女と親しくすることも、あまり好んではいないように見えた。俺からの電話は少なくとも歓迎はされておらず、故に、連絡をとることもどこか躊躇われた。無論、こんなのは言い訳だ。
あきらと離れ、程なくして就職した俺は、忙しさに感けた。純然たる成果主義のPhysical Illusion社で生き残るため、巡り行く日々に溺れた。あきらはきっと大丈夫、便りの無いのは良い便りとばかりに、彼女を思う時間を減じた。薄情だったと思わないでもない。だが、今更どうしようもない。当時の番号が生きているとは思えないし、仮になにがしかの手段で連絡がついたとしても、それが彼女にとって良いことだと、どうして言えよう。
美人揃いのアリスと同一の容姿を持つ程に、あきらは器量の良い娘だった。年齢を考慮すれば、高い確率で結婚し、家庭を持っていることだろう。唐突に来る俺からの連絡が、迷惑でないとも限らない。
「後悔してます? 連絡なさらなかったこと」
自身の膝に頭を乗せ、どこかしっとりとした雰囲気を醸し出しながら、ロザが言う。責めるような口調では無い。小さな唇が奏でたのは、優しげな、まるで俺の身を案じているかのような、そんな調子のソプラノだった。
「分からない。連絡は、彼女からも来なかった。ただまあ……」
「ただ?」
「彼女と一つ約束をしていてな。それを守ってやれなかったことだけは、心残りではある」
息をつき、ロザの顔を見つめる。ロザはゆっくりと瞳を閉じ、俺の言葉を待つ。
「祭りに行きたがっていた。お前と同じように、お前がここに来たいと、そう口にした時と同じ笑顔で、あきらも同じことを言った」
そうなのだ。何もかもが同じだった。口調も、控えめな笑顔も、薄桃色の可憐な唇から零れた、楽しげな台詞さえも。ロザは小さく笑い、目を閉じたまま言う。それは偶然です、先生。
「先生は、お祭りに行きたかったですか? あきらさんと」
「そうだな。あきらを連れて行ってやりたかったって気持ちのほうが強いが、まあ俺も当時楽しみにしていたのは事実だ」
あきらの浴衣姿を勝手に夢想し、自分も浴衣を買おうかなどと思い悩んだ覚えがある。金銭的な事情でそれは断念したが、確かに俺は今眼前に広がっているこの灯火の群れを、彼女と共に見ることのできるその日に、胸躍る想いを向けていた。うっすらと笑みを浮かべたまま、ロザは続ける。
「行きますか? あきらさんと、お祭りに」
「何?」
少女の発言に耳を疑う。今ロザは何と言った。あきらと祭りに行くかと、そう問わなかったか。
「お前、やっぱりあきらを知っているのか?」
意図せず、詰問するかのような口調になる。ロザのプロパティファイルにあきらの名は無かった。故に、少女があきらを知らぬことは明白。頭ではそう分かっていても、発言の意味をどうしても、そのように捉えてしまう。
「そうじゃなくて……」
やっぱりって何ですか、と不満そうに言いながら、ロザは発言の意図をゆっくりとした口調で補う。
「わたしの我儘に付き合って下さった先生へのお礼です」
少女は立ち上がり、握っていたチョコバナナを一つ俺に手渡す。それから空いた手をそっと、差し出して見せた。幾つもの提灯の明かりを背に受け、微風に浴衣の裾をはためかせながら、柔らかな笑みを浮かべ。
「やっと連れてきてくれたね。わたし、すっごく楽しみにしてたんだからっ」
「お前……」
馬鹿馬鹿しい。お前は、あきらを演じようというのか。俺に約束を守るための、仮初めの機会を与えようと言うのか。あきらの何をも知らぬお前に、務まる役ではないではないか。
俺は笑い、差し出された手を握る。こんなものが礼になるものか。だが、心意気には感謝しよう。考え、あきらは俺を名で呼んでいたと、一言そう助け舟を出す。ロザは笑い、頷いた。
「変なこと言うなぁ冬治は。自分のことだもん、知ってるよ」
成る程、あくまで演じる気か。アリスに下の名を呼ばれるなど、どうにも背がくすぐったいが、まあいい。我慢しよう。
「行こう、冬治」
楽しげなアリスに手を引かれ、慌てて焼きそばやらを取り上げる。人ごみの中へ、灯火の中へ。妙に切なげに胸に響きだした、太鼓の音の中へ。俺達はゆっくりと、一歩一歩足を進める。時折振り返る少女の微笑に、心中は追懐の情に溢れ、吞まれ、ざわめく。活気に沸く祭りの夜は、まだ長いようだ。
4
「ねえ、ああいうの、駄目かな?」
言葉とともに、俺の腕首に絡みついていた少女の指先がするりと離れ去る。唐突に失われた温もりに、僅かな寂しさが胸に宿る。虚空に戯れ舞うしなやかな手指を目で追えば、とある一点を示して止まった。促されるままに滑らせた視線の先には、年若い一組の男女。腕を組み、想い人にしなだれ掛かるようにしながら諧謔に戯れる乙女の横顔に映るは、確かな至福の二字。青春の一幕だ。
「本気か?」
ロザが顧客所有のアリスであることを考えれば、どうかという思いはある。とはいえこれは少女の側からの提案。こと煌びやかな祭事の場に限っては、峻拒の無粋など、上社に鎮座せし神の御眼が許さぬだろう。
「やったっ」
柔らかな笑顔を一層輝かせ俺との距離を詰める少女を手で制し、握っていたチョコバナナに齧り付く。不幸にも両手が塞がっている。まずはそれらを片付けなければならない。
「冬治、おいしい?」
妙に饒舌な少女が、俺の顔を覗き込みながら笑い掛けてくる。
「甘いものは得意じゃないと言ったろう。ほら、そっちも貸せ」
串刺しのバナナの最後の一片を咀嚼しながら、ロザが持つもう一本に手を伸ばす。口内の粘つきに辟易し、気力で齧り付き、安っぽい甘みに閉口しを繰返した。小動物にでもなった気分だ。
「はい冬治。これ使って」
二串のバナナが漸くと姿を消して少し。差し出されるは小さなビニル袋。俺の気付かぬうちに、どこかの店で手に入れたらしい。手際が良くて助かる。
小さな手から袋を受け取り、左手に抱いていたパック類を重ねて詰め込む。ほぼ同時に、右の肘を柔らかな感触が包み込んだ。胴と肘との間に滑り込ませた細い腕を、まるで蛇のように俺の上腕に絡ませ、上目遣いの少女は悪戯っぽく笑う。
過剰と思える程に押し付けられた小さな体軀。浴衣越しに届く、控えめな膨らみの感触。妖艶な、しかしどこか滑稽な、不思議な印象をその姿に抱く。
「デートって感じだね。ねえ冬治、嬉しい?」
「ああ。嬉しくて涙が出そうだ」
「うわぁ……。何か冷静」
では何と答えろと言うのか。歩き難さに少々げんなりとしながら、戯話に興じつつ人波を縫う。眩いばかりの笑みを零す少女を連れ、歩き、また歩き。
もしこれが、本当に15年前のあの日の出来事であったなら。腕を組んで共に足を進める少女が幼馴染のあの人で、俺が18の餓鬼であったのなら。きっとこんなにも冷静ではいられなかったに違いない。二人の歩幅が乱れるたびに肘先に触れる感触に心中ざわめき、会話すら儘ならなかったかもしれない。少女の楽しげな問いかけに気のない言葉を返しつつ、頭の中は下らぬ妄想に溢れていたかもしれない。口付けまでの段取りを反芻しつつ、横目に可憐な唇を覗き見るような醜態すら、晒していたかもしれない。
埒も無い回顧に浸れば浸る程、感じ入るは重ねた齢。15年とは、随分と長い時であったものだと思う。
「あ、可愛い」
足を止めた少女に軽く腕を引かれ、その視線を追う。先刻も立ち寄ったりんご飴の屋台の隣、控えめなスペースを金属製のラックを立てることで天地に長く使った、煌びやかな印象の露店。ラックの一面に飾られた無数の輝きは、どうやら簪のようだった。
「簪屋か……。珍しいな」
子供用の面などを売る店はこうした場でたまに見かけるが、簪売りとは稀有でなかろうか。
金属製のもの、木製のもの、愛くるしい花弁を模したもの、佳麗な蝶を模したもの。素材もモチーフも多種に及ぶ簪が所狭しと並べられたその様は、中々に壮観だ。
「お嬢さんにお一つどうです?」
店の親父に声を掛けられ、成る程と笑う。どうやら俺は、ロザの父親と見做されたらしい。容姿から想じられる二人の年齢差は、確かに恋人同士というよりは親子のそれに近しいだろう。大きな瞳をぱちくりと瞬かせたロザと一度視線を合わせ、それから訂正の言を吐こうとして、しかし思いとどまった。
ロザ演ずるあきらと、俺は今デート中、ということになっている。娘ではなく調律中のアリスだなどと説明するのは謹厳に過ぎるだろうし、幼馴染だは無理がある。返事の代わりに、手近い場所にあった簪を一つ、手に取った。眼前に掲げひとしきり眺めた後、またラックに戻す。
「あきら、どれがいい?」
言えば、どういった心境か、ロザは瞳を閉じて大きく息を吐いた。心なしか、その吐息に震えを感じる。感極まったような、深く安堵したような、どうにもとり辛い不思議な反応だった。
「嫌でなければ、ひとつ贈らせてくれ」
そう付け足したのは、思い出したからだ。数日前のショッピングモール、トイショップでの出来事を。
ロザが好むキャラクターのぬいぐるみを、俺は彼女に買い与えようとした。喜んでもらえると思ってとった行動だったが、結果少女は俺の申し出を拒絶した。
当時の彼女の言、アリサに対する嫉妬というそれが本当であれば、今この状況では発生しえぬ拒否理由だ。とはいえ、考えてしまう。少女はまた、俺の申し出を断るのではないか。俺の提案は、少女にとって迷惑に過ぎぬのではないか。
「いいの? 冬治……」
果たしてロザの反応は違った。惑いがちな、懐かしさすら覚える程久しぶりに見る表情で、少女は真っ直ぐに俺を見る。笑いかけ、頷いて見せた。
「ああ。迷惑でなければ、是非そうさせてくれ」
「迷惑だなんて。わたし、買って欲しい」
申し訳なさそうな面差しはそのままに、しかし少女ははっきりとした調子で、そう望みを口にした。胸を撫で下ろし、ではどれが良いかと改めて問う。しかしその問いかけには首を振るロザ。
「冬治が選んで。わたし、冬治が選んでくれたものが欲しい」
しっとりとした物言いに、何だか胸がざわめくのを感じる。俺が選ぶ。ロザに似合うものを。いや、あきらに似合うものを、ということなのか。
「そうだな。それなら……」
提灯の明かりを受けて煌く簪の群れに視線を這わせ、考える。デザインもだが、つけられた値も様々だ。あくまでも祭りの夜店であるが故に、そう高いものは置いていない。一番安価な木作りのもので千円程度。金属製の、最も高いものでも1万円に届かない程度だ。どうせならば良いものをと考えそうになるが、しかし値段で選ぶのも無粋な気がし、逡巡する。ふと、思い至った。
先刻も頭を巡った、他愛もない回視。俺がまだ18の小僧で、隣には一つ年下の幼馴染がいる。俺と彼女が、二人でやってきた祭事の場。簪を贈りたいと申し出た俺に、はにかむ少女。安いものでは格好がつかない。が、1万円近い品には、とてもではないが手が出ない。俺は眺め見るはずだ。自分の手持ちで出すことの出来る精一杯の金額を値札に記した、いくつかの品を。
「それを見せてもらえますか」
ラックの中段当たりに置かれたひとつを指し示し、店主にそう告げた。威勢の良い返事とともに手渡された簪を、ロザの艶やかな髪にそっと、当ててみる。
「うん。悪くないな」
紫黒色の頭髪を背景に輝く一本足の飾り簪。絡み合う二頭の蝶を表す装飾部は、水色の樹脂で形作られている。そこから揺れる下がりはアマゾナイトだろうか。そう質の良い石ではないのだろうが、主飾りとで統一された色調は上品な印象だ。真鍮製と思われる本体部が屋台備え付けのライトに照らされて輝いている。
「それじゃ、これを」
簪を店主に手渡し、カーゴパンツの尻ポケットから財布を取り出す。包みましょうかとの申し出を丁重に辞し、数枚の紙幣と引き換えに、金に輝く装飾具を手に入れた。口を噤み、何かを堪えるような眼差しを俺に向ける少女の鼻先で簪を軽く振り、ほら、と差し出す。
「受け取ってくれ。お前に良く似合いそうだ」
少女がどういう心積もりで、この和心揺蕩うオーナメントを欲したか。一介のアリス、ロザとしてなのか。あるいはこの朝倉冬治の幼馴染、永峰あきらとしてなのか。俺にはそれが分からない。お前に、と表したのはそれ故だった。
「ありがとう、冬治」
哀切漂う眼差しを、しかし真っ直ぐに俺に向け、少女は言う。雪細工でも扱うかのようにゆっくりと、丁寧に簪を受け取り、優しく掌で包み、それから静かに目を閉じる。長い睫が震え、頰は桜色に染まりきる。少女がその華奢な身体に纏うは、ただ、哀情。抉る。その様が胸を、俺の胸を強く強く、抉る。
「こんなに……」
舞い散る言の葉。痙攣するかのように震える、少女の唇。
「こんなに嬉しいの、いつ以来だろう」
簪を握り締め、自身の胸に強く押し当て、そして。そして少女は、涙を零した。
「馬鹿な……」
美しいのに、こんなにも美しいのに。俺の身は、強烈な悪寒に包まれる。涙を流すなど、アリスが涙を流すなど、そんなことがあるというのか。
「わたし、一生大事にするね。これ、宝物にするから……」
目尻に浮かんでは白い頰を伝いゆく、幾つもの雫。顎先から垂れ落ち、胸元で握られた手を濡らし、腕首にその軌跡を残しては、浴衣の袖に吸い込まれていく。いつまでも止まらぬ落涙。しゃくりあげながら、途切れ途切れの震える声で、俺への礼の言葉を繰返すロザ。
その姿に、俺はただ魅入られるばかりで、指先一つ動かせない。何をも慮らぬ痴呆の様に、ただただ魅入られるばかりで、うめき声一つ、発すること適わない。どういうことなのだロザ。お前はどうして、アリスの身でありながら涙など流すのだ。お前は一体、何だというのだ。
中空に織り交じる月光と灯火。紅涙絞る少女はその訳を語ることなく、遷ろう時の中で暫し、嗚咽を漏らし続けた。
5
「はあ……」
漸くと気を落ち着けたらしいロザが、浴衣の袖で目頭に触れる。対の手には簪。前髪を少し弄って整えてから、見上げるように俺に視線を合わせた。
「ごめん冬治、もう大丈夫」
セラミックの白い歯を見せ、恥ずかしそうに一言。仄々としたその様に、俺の身体を支配していた緊張も、徐々に和らいでいく。そうか、と小さな声で答え、微笑を添えた。ロザが落涙に縛された時は数分程度。しかし随分と久しぶりに口を開いたような気がする。
「教えてくれ、ロザ」
少女の涙の訳を、俺は知らねばならない。勿論それは、落涙が愉楽によるものか悲哀によるものかといったような、感情という側面からの話ではない。少女のアリスとしての体軀が何故涙を零すという挙動を選択し得たのか、つまりは機械的な可否性の話だ。
俺が選択したロザという呼び名に反応してか、少女は再び頰を膨らませる。一々面倒な遣り取りだが、それも少女なりに、俺を思ってくれてのことなのだろう。口を開きかけたロザの眼前に手を翳し、俺はその行為を押し止めた。
「あきらとのデートは終わりだ、ロザ。俺の質問に答えてくれ」
発言の纏う空気を察してか、口を噤んだロザが少し俯く。残念ですと呟き、しかし直ぐ、顔を上げて笑顔を見せてくれた。
「まあいいです。あきらさんごっこ楽しかったですし。で、何でしょう先生。もしかして、わたしがどうして泣けるのか、ですか?」
「その通りだ。涙を流すアリスなど聞いたことがない。どういう機構だ?」
言っていて、思う。俺は一体何に、戦慄など覚えていたのかと。
アリスが涙を流すことができないのは、人間と違い、涙を流すための機能がその身体に備わっていないからだ。しかしロザは、先刻俺の目の前でその涙を流して見せた。であれば、ロザには特別にその挙動を可能とする機構が備え付けられているということになる。
理由や構造は不明なれど、ただそれだけのこと。少なくとも恐怖に吞まれたり、悪寒に包まれたりするような現象ではないはずだ。
いや、分かっている。俺が紅涙絞るロザの姿に背筋を凍らせたのは、その容姿のせいなのだ。アリスが本来流せないはずの涙を流し、簪を手に嗚咽を漏らす少女の姿に、埒も無い想像を膨らませたせいなのだ。
目の前にいるのは、もしかして本当に俺の幼馴染なのではないか。
アリスなどではなく、この娘は本当は人間で、15年の時を経て、約束を果たすため俺に逢いに来てくれたのではないか。
くだらない。我ながら頭が悪すぎる。ロザの舌の裏には個体識別番号の刻印が確かにあったし、容姿から想定される二人の年齢も矛盾する。そして何より俺は、ロザのソースコードにアクセスし、それを何度も閲覧している。故にありえない。そんなことは、あるはずがないのだ。
「見てください先生」
言って、少女はきつく瞼を閉じる。眼瞼の内に残っていたらしい雫が、両の目頭にそれぞれ一片、浮かび出た。少女の細い指がそれらにそっと触れる。人差し指の腹に乗せた水滴を、少女は俺の目の前にそっと、差し出した。
「これは……?」
夜店に囲まれた賑やかな境内。人の流れから少し離れた道の隅で、馬鹿みたいに指先を付き合わせる俺達に、時折そそがれる訝しげな視線。
片や平凡な中年男性、対するはトップアイドルと比してもお釣りが来るような美少女だ。そりゃ胡散臭いだろうと思いつつ、間抜けな行為に身をやつす。自身の指を濡らした雫は無色透明、しかし僅かに粘度を持っている、か。
「マシーナリーオイルか」
判明した涙の正体に安堵しながら、俺は呟く。頷いてみせた少女が、機構について、簡易な説明を加えてくれた。
「眼球の下部に、専用の小型タンクを左右1機ずつ設けてあります。摂取したオイルの中から活動時に生じた余剰分をタンクにストックし、人格プログラムが特定のロジックを経由した際に、一度濾過用のフィルタを通した上で、目頭及び目尻に接続されたアルミニウムチューブから放出します」
「成る程な……」
答え、それから少女の無感動な解説に苦笑する。しかし種を明かされてみれば何と言うことはない。恐らくソースコード中にも、その挙動にGOサインを出すためのフラグを保持しているはずだ。変数の命名規則を鑑みれば、名称も大体想像がつく。大方ShedTearFlgやら、そんなところだろう。現在ロザに対して行っている調律には関連がないと俺が流しでしか読まなかった箇所に、きっと該当のロジックが含まれていたのだろう。
「先生は確か、Physical Illusion社製カスタムアリスの調律実績はお持ちでなかったのですよね?」
「そうだ。扱うのはお前が初めてだよ」
小首を傾げて問うた少女に、顎を引いてそう答える。無様をさらしてはいるが、一応のところアリスの専門家である俺に対し色々と講ずるのは無礼に当たらないかと、そんな辺りで悩んだのだろう。少し考えるような素振りを見せた後、ロザは続けた。
「カスタムアリスの販売時に行われる仕様変更は非常に多様です。顧客の要望に応じ、人格プログラムや外貌の改修の他、コモンタイプのアリスが持たない特殊な機構を身体に組み込むことも間々あるのです。費用が嵩みますので、カスタム品といえど、人格と容姿の個別オーダーのみで販売される個体が殆どではありますが」
「お前もその、特殊な機構を組み込まれた一体なわけだな」
「その通りです先生。この特殊な機構を、ユニークエレメントと呼びます。あまりメジャーな用語ではありませんが。お耳に挟まれたこと、ございますか?」
ロザは随分と詳しい。カスタムアリスの出荷時に一律で登録される知識なのかもしれない。
「いや、申し訳ないが……」
言いながら不安になる。俺は大丈夫なのだろうか。謝らないで下さいと慌てて言い、遠慮したのか少女は僅かにトーンを落として続ける。
「結論として、わたしのユニークエレメントが、先程の涙を流すという機構なのです、先生。あ、ちなみにタンクのストックがきれたので、しばらくは泣けません、わたし」
ロザ先生の授業はこれで終わりらしい。不出来な生徒で申し訳なく思う。少女に礼を言い、優しく頭を撫でてやった。はにかむ少女。
「簪、挿してみるか?」
「はいっ、先生」
恥ずかしげな面差しは、満面の笑みへと変わった。
「ほら……」
少女から簪を受け取り、艶めく紫黒色の髪に静かにあてがう。さてどうするべきかと少し悩み、それからボリュームを持たせてある左側頭部をセレクト。ピンとワックスとでアップに仕上げた頭髪を一度眺め、一本足の飾り簪をできるだけ深く、慎重に差し込んだ。
「よし、こんなところだろうな」
黒の御髪は言うなれば秋口の草原か。羽を休める番の蝶は果たして蜜にありつけたろうか。装飾部から垂れた青緑の石がしゃりんと、なった気がした。
「ありがとうございます、先生」
笑顔で礼の言葉を述べ、ロザは手にした巾着から手鏡を取り出す。眼前で開き、首を捻って様々な角度から、映し出された装飾具を嬉しそうに眺め見た。
「あんまり頭を動かすなよ? 落ちるぞ」
簪はとりあえず挿し込んだだけ。正しく装着しようと思えば、一度髪を解かなければならない。この場で執り行うには少々骨の折れる作業だし、折角美しく纏め上げた少女の結い髪を崩すのも興を削ぐ。
タブレットを取り出し、久方ぶりに時刻を確認。20時20分。まだ少し時間がある。頭部に揺れる装具をひとしきり堪能したらしいロザに声を掛け、再び並んで歩き出そうとした時だった。
かしゃりと響く異音は足元から。見れば簪。どうやら早速に落下してしまったらしい。哀しそうな表情で屈みこんだ少女の指先はしかし、目的のそれにあとひと搔き、届かなかった。
「あっ……」
最初に声を上げたのは俺か、少女か。あるいは目の前の人物か。石畳に身を横たえた金色の装飾具を、黒いブーツの硬そうな本底が思い切り、踏みつけた。歪な音が静かに耳朶を打つ。
「ああっ」
耳元で痛切な悲鳴。発したのは無論ロザだ。簪は恐らく、装飾部を破損したことだろう。金属製の足は頑丈故にそうそう壊れぬだろうが、樹脂製の装飾部はそうはいかない。適当な挿し方をするべきではなかったと、酷く後悔する。先刻ロザはあれ程に喜んでくれたというのに。
ブーツがゆっくりと、石畳から持ち上がる。現れたのは無残に命を散らした二頭の蝶。蜜持つ花に辿りつくことなく、短い生涯を終えることと相成ってしまったようだ。目を閉じる。装飾部の破損は、思った以上に酷い様子だった。
ロザの白い手が、砕けた蝶の青い羽に伸びる。石畳に膝をつき、浴衣の膝が汚れることも厭わず、ひとつひとつ、丁寧に欠片を拾い集める。細い指先を伸ばし、無言で、必死に、拾い集める。
「アリスか……」
悲痛なその姿を呆然と眺め見ていた俺は、その声に漸くと顔を上げる。
目の前に一組の男女。呟いたのは男の方だ。やや鋭い目付きと撥ね上げた前髪が印象的な、20代前半と思われる男性。しかしどこか安堵したような、妙な表情をしている。目が合った。軽く、ごく軽く、男の首が動いた。どうやら俺に頭を下げたらしい。
一拍置いて、男の斜め後ろに立っていた金髪の女が屈みこみ、簪の欠片を拾い集め始めた。ロザに対し何か呟きながら、集めた欠片を丁寧に手渡している。その姿を見、我に返った。俺が呆然と立ち尽くしていてどうする。簪が落下したのも、結果壊れてしまったのも、元はといえばいい加減な挿し方をした俺のせいだ。飛び散った欠片を回収し、ロザに謝罪し、それから新しいものをもう一つ、買ってやらなければ。
「行こうぜ」
小さく発せられた低い声に、耳を疑った。目の前の青年が、足元に屈みこむ金髪の女性に向かってかけた言葉らしい。行こうぜと促された当人は困惑の表情。一緒に屈みこもうとしていた俺も、思わずその身を固まらせる。ロザはただ一心不乱に、細かな欠片をその手に乗せ続ける。
「おい、行こうぜ」
同じ言葉をもう一度発し、青年は俺達に背を向ける。一体どういうことだ。このまま行くのか。一言の謝罪も無しに、このまま行ってしまうのか。物言わず簪の破片を集めるロザの姿に背を向けることに、その心は何の痛みも覚えぬのか。
「待ってくれ」
遠ざかりそうになる背に、静かにそう声を掛ける。男性にしては細い足が動きを止める。振り向き、俺に目を向けた青年の表情は妙に冷めていた。
「何すか」
「謝ってくれ」
少し強く、そう述べる。視界の隅で、ロザがその身体を硬直させる。大きな瞳が俺を見上げた。
「悪気がなかったのは分かっている。混雑してるし、落ちていた簪に気付かず踏んづけてしまうのも仕方ない。だから勿論、弁償しろなんて狭量なことは言わない。ただ一言くらいは、謝ってくれてもいいんじゃないだろうか」
はっきりとした口調で、しかし熱くならないように気をつけながら、青年に告げる。人ごみの中、物を落としたこちらにも非はあった。故に、青年らもある意味では被害者だ。しかしだからと言って、一言の謝罪もなくこの場を立ち去るのは、少々常識に欠けると言えないか。
「あんたに、ですか?」
青年は言う。うんざりした様な、そんな口調だった。
「いや、あの簪は彼女のものだ。だから彼女に謝って欲しい」
「何で? そいつアリスですよね」
青年は一目で、ロザをアリスと判断した。それができるということは、恐らく日常的にアリスと接しているのだろう。
この娘はアリスかもしれない、その考えが頭の片隅に常にあれば、アリスと人間との見分けはつかないこともない。数日前、俺が夜道を行くキリカを一目でアリスと判断できたのも、同じ理屈に基づく。異常に整った容姿は、その最たる判断材料だ。
「そうだ。君の言う通りこの子はアリスだ。だが、今それは関係ないだろう?」
「あるだろ」
俺の発言に被せるように、青年は強い言葉を吐く。
「あんたに謝れってんなら、謝ってもいい。でもアリスに謝るのはおかしいだろ」
「何故だ?」
青年の台詞の意味が、俺にはいまいち摑めない。問えば青年は口角を吊り上げ、小さく笑った。
「アリスは道具だろ。んで簪はアリスの持ち物なんだろ? てことは、その簪はアリスの付属品みたいなものじゃねえか」
「成る程、それが君の主張か」
言いたいことは大体分かった。だが、納得はしかねる。真っ直ぐに視線を合わせる俺に対し、青年は勢い込んで続けた。
「あんた人とぶつかって、その人が持ってたタブレットのアンテナが折れたらどうするんだ? アンテナ折っちゃってごめんねってタブレットに謝るのか」
向き合う俺を小馬鹿にしたように、青年はもう一度笑う。耳につく、どうにも品性に欠ける笑い声だ。周囲を往く人々の視線が俺達に集まっているのを感じる。野次馬根性を発揮して、足を止めて眺めている者もいる。
「先生……」
俺のカーゴパンツの裾を屈んだまま摑み、ロザが言う。久方振りに声を聞いた気がする。
「わたし、大丈夫ですから。どうか、喧嘩したりなんてなさらないで下さい」
視線を少女に向ける。痛切極まる表情に胸が痛む。大丈夫なはずがない。無言で、一心不乱に装飾具の欠片を拾い集めていた小さな背中を思い出す。涙を流してまで喜んだ贈り物の簪が一瞬のうちに粉砕されたのだ。少女が受けた衝撃の程は推し量るに難くない。
「ほら、こいつも大丈夫だって言ってるじゃねえか。簪はコイツのなんだろ? 本人がいいって言ってるんだから、横からごちゃごちゃ言うんじゃねえよ」
ロザの発言に、青年は自身の利を見て取ったらしい。随分と良く滑る舌だと思う。だが、何とも愚かしい。どうやら今度は、俺が笑う番のようだった。
「君はまた妙なことを言うんだな。道具に頭を下げるのはおかしい、だから謝らない。今しがた君はそう言ったはずだ。にも拘わらず、道具の言葉は受け入れるのか? 道具がいいと言うのだからいい。謝る必要はない。道具の意思と主張を認め、それによって自らの正当性を判ずるのか」
「先生っ」
立ち上がったロザが、再び悲痛な声を上げる。彼女をはっきり道具と断じる発言をしたことも、俺を案じてくれての言葉を無視したことも、申し訳なく思う。だが目の前の青年への怒りがどうにも収まらない。
「君の言う通り、アリスは確かに道具だ。だがタブレットとは違う。俺達人間と同じように喜び、同じように悲しむ。そういった感情をつまらないプライドで無下にするとは、随分と狭量な男なんだな君は」
分かり易く色鮮やかに、青年の首筋が紅潮する。俺の胸倉でも摑もうとしてのことか、石畳を一歩分、黒いブーツが滑った。思わず身構える。強い言葉で青年を非難しておいて何だが、腕っ節には全くと言っていい程自信がない。
「てかさ」
声は視界の外から聞こえた。目をやれば、金に染め上げたロングヘアーに年若さを感ずる、青年の連れの女性。気の強そうな、しかし整った顔立ちをしている。立ち上がって気だるげに腕を組み、俺と青年とに交互に視線をやっている。
「道具がどうとかさ、ありえないんだけど」
鋭い視線は同伴の青年一人に向けられ、そのまま固定された。ややハスキーな声で、彼女は続ける。
「こっちが壊したんじゃん。謝るくらいなんでできないの? 一生懸命欠片集めてさ、この子普通に可哀想なんだけど。あんた器ちっちゃ過ぎでしょ」
彼女は味方についてくれると思っていたのかもしれない。狼狽した表情で、青年は押し黙る。目の前で繰り広げられた男二人の論争は、彼女には戯言の類にしか聞こえぬのかもしれない。理も論もなく、ありえない、の一言で俺達それぞれの主張を一蹴した強引さには、堂に入ったものを感じる。金髪の少女は続いて、俺に向き直った。
「お兄さんもさ、女連れの時に喧嘩すんなよ。こっちが悪いけどさ、やっぱそこは我慢してやらないと。彼女のためにさ。ねぇ?」
最後のねぇは、どうやらロザに対してのものらしい。当惑の面差しを浮かべていたアリスは、どこか安堵したような落ち着いた表情で、しかし曖昧に頷いた。
「本当にごめんね、簪壊しちゃって。弁償させてほしいんだけど、いいかな?」
ロザの前に屈みこんで手を取ると、声色を和らげ、金髪の少女は言う。真っ直ぐにロザへ向けられた視線同様、表情は柔らかい。連れの青年も俺も、最早彼女の眼中にはないようだ。
胸の奥に怒りの残滓はまだあれど、とはいえここらが潮時か。我ながら情けない。俺より余程、目の前の少女のほうが大人の振る舞いを見せている。
「それには及ばない。そもそもこちらがあんな場所に簪を落としたのが悪いんだ。簪はまた、こちらで買いなおす。気持ちだけ受け取らせてくれ」
言えば、大丈夫ですと、笑顔のロザも追従する。無理やりに悲しみを押し殺したような目元が、痛々しくてたまらない。金髪の少女は一つ息をつき、もう一度謝罪の言葉を口にすると、年に似合わぬ大仰な仕草で立ち上がった。
「わかった。それじゃ行くね。あ、多分コレで全部だよ」
握り締めていた簪の欠片を言葉と共にロザに手渡し、少女は俺達に背を向ける。押し黙ったまま棘のある空気を周囲に撒き散らしている連れの青年を冷たい目つきで一瞥し、しかし何も口にはせず、静かに人波の向こうに歩み去った。騒動の収束を見て取ってか、足を止めていた野次馬達も離散する。
「済まなかったロザ。簪、同じものを買いなおそう」
未だこちらに鋭い視線を向けている青年を視界から外し、少女の手を取る。しかしロザはゆっくりを首を振り、小さな手を開いてみせた。青い破片が数十、灯火の熱を受けて白い掌に輝いている。
「わたし、これ直して使おうと思います。時間かかるかもだけど。だから、大丈夫です」
ありがとうございますと付け足し、少女は笑う。遠慮しているのだろうと、そう思う。だが、高精度レンズをその内に潜ませる機械の瞳には、どこか強い意志を感じる。
「いいのか? 正直大した額じゃない。買いなおしたところで、俺に負担なんてかかりゃしないぞ」
情緒も何もない言葉だが、事実でもある。再度礼の言葉と共に提案を辞したロザは簪の欠片をそっと、巾着袋に流し込んだ。
「行きましょう先生。まだ少し、時間あります」
笑みを解かぬままに、ロザは俺の腕を取る。立ち尽くす青年に律儀に一礼し、行きましょうともう一言。僅かにその量を減じた人の群れに向かって、俺達は連れ立って一歩を踏み出した。
数歩足を進め、目の前を行き交う人々の頭越しに、先刻の青年を覗き見る。まさか絡んではこないだろうが、金髪の少女の言にもあったように俺はいまロザを連れている。故に少し、気になった。
「先生?」
不思議そうに俺の顔を見上げるロザ。何でもないとそう答え、俺は再び視線を前へ。だが確かに見た。背後の青年は微動だにせず立ち尽くし、憤怒の情を込めた視線を、真っ直ぐに俺に向けていた。
6
シャワーヘッドのセンサーにそっと触れる。勢い良く流れ出る熱い湯に身を晒しながら、俺は静かに目を閉じた。搔き上げ撫で付けた髪に熱い湯が通り、こびりついた疲労と砂塵を洗い流していく。
工房へ戻ったのは22時を少し回った頃だった。浴衣姿のロザを先に浴室に向かわせ、ヘアワックスに濡れた髪を洗わせた。今頃少女は着替えを済ませ、居間で髪を梳かしているはずだ。
シャワーを止め、浴槽に目をやる。張られた湯はロザが準備してくれたものだが、どうにも使用された形跡を感じない。俺のために湯を溜めはしても、自身が使うことはなかったようだ。
必要性があるかどうかは別として、入浴行為自体は、アリスにも可能だ。機械の体軀を覆う人工皮膚は付着した菌や汚れの類を自動的に分解する。故に人間のような頻度での入浴は、こと汚れを落とすという観点からは不要となる。浴槽に浸かっての入浴ともなればなお更だ。その機会があるとするならば、大抵はオーナーの要望を受けたか、あるいは行為そのものに、人間じみた生活の情を見た場合となるだろう。
髪と体を洗い終え、湯船に浸かって一息。溢れた湯が浴室の床をひと撫でし、隅の排水溝に吸い込まれていく。
今日は随分と疲れた。ロザの来訪から8日。調律作業はもう仕上げ段階に入りかけている。できることなら就寝前に机に向かっておきたいところではあったが、体力的に余裕が無さそうだ。着替えて、歯を磨いて、そのまま寝室のベッドへ倒れこんでしまいたい。
簪は直して使う。だから大丈夫。砕け散った装具の欠片を掌に乗せ、ロザはそう言った。申し訳ないことをしたと、心の底からそう思う。
贈られた簪を見つめ、涙を零したロザ。破砕した二頭の蝶を前に跪き、悲痛な面差しで俺を見上げたロザ。ほんの一刻程前に見た少女の表情が順に脳裏に浮かび、いやが上にも気持ちは沈む。天を仰ぎ、呟いた。
「済まなかった。ロザ……」
「いいえ先生。お蔭さまで、とっても楽しかったです」
不意に浴室に響いた高い声。謝罪の言葉は、独り言のはずだった。想定外の返事に驚き、浴槽の中で俺は身を正す。水面が揺れ、幾らかの湯がまた湯船から零れた。
「お前いつからそこにいた?」
浴室と脱衣所とを隔てる曇りガラスの向こう。佇むシルエットは小さい。小室に満ちた湯気は俺の心身を隙間無く包み込み、注意力を散漫にさせていたらしい。脱衣所にロザが入ってきていたことになど、まるで気が付かなかった。
「今来たばかりです先生。驚かせてしまいましたか?」
「いや、まあ構わんさ。どうかしたか?」
尋ねれば、一瞬の沈黙の後、少女はくすりと笑う。
「はい。実は先生に、お見せしたいものが」
言葉と共に、少女のシルエットが躍動する。胸の前に勢い良く両手を突き出し、大きな布のようなものを曇りガラスに押し付けた。
「じゃーんっ。見えますか? 先生」
白とベージュが折り重なった、細長い布地。見えているには見えている。それが何かは分からないが。
「いや、悪いが良く見えない。それは何だ?」
尋ねれば、また少し沈黙。何やらがっかりさせてしまったようだ。少女の肩を落とした様子が、不明瞭な視界の向こうにも把握できる。
「それじゃ、お部屋でお待ちしていますから、上がられたら来てくださいね」
言って、脱衣所から姿を消すロザ。訳が分からない。取り立てて急ぎの用件にも思えなかった。何か意味があっての行動かと潜考し、直ぐに頭を振って思考を振り払う。今日だけは、疑念は先置いてしまいたいと、そう感じたからだった。
灯火の群れの中で過ごした数刻は、決して俺にとって悪い時間ではなかった。15年前に強く焦がれた鮮やかな時を、少女は確かに供してくれた。
我儘に付き合ってくれたお礼だと、少女はその行為を表した。だが、礼を言うのは俺のほうだ。心の片隅にこびりついていた穢れのようなものを、洗い流すことができた。彼女との約束を、仮初めの時の中とはいえ、果たすことができた。いや、正直に言おう。俺は嬉しかったのだ。あきらに久方ぶりに会えた様な気がして、大切だった幼馴染の幸せそうな姿を本当に目にすることができた様な気がして、俺は嬉しかったのだ。
一度天を仰ぎ、ゆっくりと浴槽から這い出る。脱衣所で七部袖のシャツとスウェットパンツを身にまとい、ロザが待っているはずの居間へと向かう。
「あれ……」
ロザの姿が見えない。先刻部屋で待っていると少女は口にしていた。居間のことではなかったのだろうか。考え、踵を返そうとして驚く。首筋に柔らかな感触が纏わり付いた。
「これは?」
自身の肩口から視界へと飛び込んできた随分と可塑性の強い物体。両手で掬い上げ、その正体に気付く。マフラーだ。白とベージュがシンプルに絡み合う、ゴム編みのそれは落ち着いたデザイン。浴室へ少女が持ってきたのはこれだったらしい。
「先生がお仕事をされている間、ずっと編んでたんです。さっき漸く編み上がったので、早く見ていただきたくて」
ドアの陰に隠れていたらしいロザが、背後からひょこりと姿を現す。妙なことをするものだ。しかしこんなことを態々したからには、これは。
「受け取っていただけますか? 先生」
正面に回り込み、マフラーを丁寧に俺の首へと巻きつけながら、華やいだ表情を浮かべる少女。良くお似合いですと、楽しげに目尻を下げる。一つ息を吐き、笑んで返した。
「冬も近い。丁度、欲しかったところだ」
礼を述べ、紫黒色の髪をひと撫で。疑念はさて置くと先刻決めたが、どうやら正解だったらしい。この行為に、他意があるとも思えない。
「上手いものだな。綺麗に編めている」
上社での、恋愛ごっこの続きだろうか。大きな瞳でこちらを見つめる少女の頰は、僅かながらに桜色。今日は巻いたまま寝てくださいね。馬鹿げた諧謔に手を振って応じ、重ねて礼の言葉を口にした。
手のひらで首元の感触を楽しみながら、寝室へと足を向ければ、背後の少女から、おやすみなさいと言葉が掛かる。
いつもより少し、良く眠れそうな気がした。
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声が聞こえる。俺の名を呼ぶ懐かしい声。それは優しく柔らかな、アンティークのオルゴールを思わせるような澄んだ音色。少しずつ、ゆっくりと鮮明さを増すそのソプラノに導かれ、徐々に浮かび上がる意識。俺というアイデンティティ。瞼を開く。寝室のベッドの上。差し込む秋の日差しが、僅かに暖かい。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
声の主は随分と近くにいたようだ。ベッド横に立ち、半身を折って俺の顔を覗き込むロザ。重力に手繰り寄せられて垂れ堕ちた紫黒色の髪の一房が、少女が浮かべた微笑みにつられてか、ひらりと揺れた。
「もう朝か。今何時だ?」
上半身を起こし、自身の顔を乱暴に一撫でしてから、少女に問うた。
「9時30分です。今日はちょっぴりお寝坊さんですね、先生」
どうやらそのようだ。少しばかり寝すぎた。歯を磨かずに寝たためか、口の中が粘ついて気持ちが悪い。
「朝食の準備がもう直ぐ調いますので、少しだけお待ちくださいね。それからもう一点、先程先生宛にお電話がございました。長谷川様という方からです」
ベッド上に座り込んだ俺に対し、少女は右手に持っていたタブレットを差し出す。居間から持ってきたらしい俺のものだ。不在着信を知らせるランプが点滅している。画面に指を滑らせホログラムを中空に投影。9時10分。長谷川莉子様より着信。メッセージと共に、やや童顔な、ショートカットの女性の顔が表示される。
「珍しいな……」
呟き、ホログラムを消去。電話をよこした相手は、俺がPhysical Illusion社に勤めていた頃、同部署にいた後輩だった。潑剌とした印象の女性で、俺のことをよく慕ってくれていたように思う。最後に連絡を取ったのは確か1年程前だったか。その時から変わっていなければ、彼女はまだPhysical Illusion社の社員をやっているはずだ。
「ありがとう。あとで掛けてみるよ」
タブレットをスウェットパンツのポケットにしまい込み、両手を突き上げて、一度大きく伸びする。それからゆっくり、ベッドを下りた。少女と向かい合う。
「お前、何時に起きたんだ?」
朝から随分と至れり尽くせりだ。アリスのいる生活がどういうものか、改めて実感させられる。少女は変わらず朗らかな表情を浮かべたまま、答えた。
「7時丁度にReBootしました。朝食の準備を少し進めて、それから1時間程、先生の可愛らしい寝顔を眺めておりました」
「成る程。で、実際のところは?」
「あ、はい。先生がとても気持ちよさそうにお休みになっていらっしゃいましたので、あまり早い時刻にお声がけするのもと思いまして……。お片づけの後、読書をしておりました」
口にした諧謔に期待した反応が見られなかったことを恥じたか、ロザはややバツが悪そうだ。早朝からの読書とはなかなか優雅なものだ。ロザが持参した品の中には、確か紙製の書籍があったように思う。読んでいたのは恐らくそれだろう。
「悪かったな、朝から忙しくさせて」
軽く頭を撫でてやれば、少女の表情は一転して輝く。叱られれば悲痛なそれに、褒められれば歓喜のそれに、アリスは良く表情を変える。この分かりやすさも言ってみれば一種の美徳なのだろうと、少女の様子を見、埒も無いことを考える。
それにしても、ロザは随分とこの生活に慣れてきたように思う。諧謔の類も良く口にするようになった。昨日鵬村神社へ出向いてからは、特に変化が顕著なように感じる。少女の我儘に応じてやったことで、印象値が大幅な上昇を見せたのかもしれない。連れ立って向かった居間の隅。キッチンで忙しく動く少女の背を見つめながら、そう考える。
ややあって、珈琲の良い香りが漂ってきた。茶褐色の液体に満ちた愛用のマグがテーブルに運ばれる。続いてガラス製の皿に盛られた色鮮やかなサラダ。焼きたてのトースト。イタリアンパセリの添えられたスクランブルエッグ。シンプルながらもどこか温かみのある定番のメニュー。うん。いい朝だ。
「それじゃ、いただきます」
いつものようにテーブル向かいに屹立して待機するロザと言葉を交わしながら、朝食を平らげる。今日は一日研究室に籠る旨伝え、最後に珈琲を一口。食器の片付けを始めたロザの姿を視界の隅に置きながら、タブレットを取り出した。
マイクにお決まりの文言を告げ、何の用件か連絡を寄越してきた後輩に電話を繫ぐ。数度の発信音の後、無闇に陽気な声が耳に飛び込んできた。どういうわけか頭に浮かんだアリサの顔を、慌てて打ち消す。後輩とはいえ無礼にあたる。あんなにガキじゃないはずだ。
数分の通話を終え、タブレットをテーブルへ。電話の内容に耳をそばだてていたらしく、こちらに向き直ったロザに予定の変更を知らせる。
「昼過ぎに少し出てくる。留守番を頼む」
言って、一人での外出が久方ぶりであることに気がついた。ここ暫く、どこかへ出向く際は常にアリスが隣にいた。個体こそ替われど、いずれも絶世の美女に相違ない。独身男が随分と恵まれたものだと思う。告げた予定に頷くロザの顔を見て、ふいに一つ、頭に浮かんだ妙案。言葉を重ねた。
「ロザ、昨日の簪はどこにある?」
8
愛用のミニバンを走らせ、ジャンクショップの前を抜ける。アリサが以前マシーナリーオイルを買いに飛び込んだあの店だ。当時と違い、助手席にはねっかえりの姿は無い。代わりに置かれているのは昨夜浴衣の少女が握り締めていた薄紫の巾着袋。中には砕け散った簪の破片が入っている。光沢を持たせた綿生地が車の振動に波打ち、しゃらりと音を立てた。
「急に暇になっちゃって。久しぶりにお茶でもどうかなって思ったんです」
唐突に電話を寄越してきた後輩は、折り返しの連絡にそう答えた。火急の用件でも無い以上、本来であれば誘いは辞し、予定通りの調律作業を進めるべきだ。作業の進捗はそう悪くない状態ではあるが、遊び呆けている程の余裕は無い。それでも提案を受諾したのは、考えあってのことだった。
幼馴染に酷似したロザの容姿が、果たして偶然によるものなのか否か。俺はそれが知りたかった。
少女当人は、それを偶然だと断じた。だがそんな言葉は信用できたものではない。
ロザの容姿が仮に何らかの意図をもってあきらに似せられたものだったとした場合、少女が工房を訪れたのもまた、調律以外の目的を含むと見るのが正しいだろう。その行為がロザの意図によるものか、あるいはオーナーである田宮の意図によるものか、そこについては現状考えて分かるものではない。だがどちらにせよ、その場合ロザが正直にあきらとの繫がりを口にするとは到底思えない。
ロザの容貌、声、仕草の機微。あきらとの合致に、何がしかの意思が含まれる可能性は低い、ということは重々承知している。数日前にも確認した通り、ロザは永峰あきらという人物を知らぬからだ。さりとて素直に偶然と片付けられる程、俺は理性的な人間ではない。仔細に見れば無限にパターンを持つはずの人間の外貌。にも拘わらず、あそこまでに極端な合致が果たして起こり得るものなのか。論理ではなく、理性でもなく、感覚に頼った疑念だった。
ロザとあきらの外貌の酷似は、何らかの意図が介在した結果。そう仮定して考察を進める。ではそういった容貌の合致を試みた場合、それを実現させるためにはどんな方法があるだろう。考えられるのは主に二つだ。
一つ。Physical Illusion社にて新規にアリスを購入する際、その容貌が永峰あきらに一致するよう外面のカスタムを行う。
二つ。Physical Illusion社にてアリスを購入する際にはそのカスタムを行わず、後日外部のアトリエに外面の改修を依頼し、永峰あきらに酷似する容姿を生成する。
可能性が高いのは前者だろう。後者の手法をとる場合には、購入するアリスがカスタム品である必要は全く無い。どちらにしろ外部のアトリエを使用するのならば、コモンタイプのアリスを購入し、外面改修のベースに使用したほうが安上がりだからだ。ロザがカスタムアリスである以上、Physical Illusion社での販売時に、外面のカスタムも行われたと考えるのが自然だ。
仮に俺の予想が的を射ており、Physical Illusion社での新規販売時、ロザの容貌を幼馴染に酷似させるための改修が行われたとする。では、その形跡を辿ることはできないだろうか。
正直なところ、難しいとは思う。だが、不可能ではない。Physical Illusion社に保存されている販売記録が参照できれば、過去に外面改修を行う形で販売されたカスタムアリスの中に、永峰あきらと同一の容姿への改修を購入顧客から希望として提示されたアリスが居たか否か、きっと辿れる。
タブレット越しに聞いた話によると、後輩はまだPhysical Illusion社に勤務しているらしかった。彼女が今どんな部署におり、どんな仕事をしているのかは分からない。だが彼女に上手く頼めさえすれば、先の記録を当たってもらうことも可能かもしれない。社内において彼女に与えられた権限の強弱にもよるだろうが、俺がPhysical Illusion社を退社してから、既にそれなりの年数が経っている。彼女は優秀な人間だった。順当に行けば、幾らかは出世もしているに違いない。
トラッカージャケットの胸ポケットから、小さなメモリカードを取り出す。二世代程前の規格故、今はもう殆ど市場流通していない希少な一品だ。容量は現在各種携帯機器に使用されている物の数百分の一。フルカラーのホログラムデータを一つ保存したら一杯になってしまうようなチンケな品だが、俺のタブレットなどでも保存されたデータの再生は可能となっている。ハードとなる再生機器の方が進化したためだ。
工房を出る前、研究室のデスクを時間を掛けて漁り、苦労の末に見つけ出した。格納されているのは一つの画像データ。日比野夫妻が俺の工房を訪れた折に一度見せた事のある、幼馴染の写真だった。Physical Illusion社での記録の参照が仮に可能であるとするならば、この写真は必要となるに違いない。そう考え、わざわざ持ち出してきたわけだ。
ジャンクショップの先、三つ目の信号を左折する。5分程直進し、それからわき道に入った。見慣れた建物の前でブレーキを踏み、停車する。車から降りた俺の眼前に、ヨーロピアンテイストの小さな建造物。後輩との待ち合わせは2時間後、Physical Illusion社本社の一階受付ロビーにて。その場所までは俺の工房から車で1時間も掛からない。早めに出立したのは、その前に立ち寄りたい場所があったからだった。そしてここが、その目的地。言うまでも無く、友人のアトリエだ。
オルゴールの音を響かせながら木製の自動ドアを潜り、受付に足を進める。カウンターの向こうで立ち上がった女性を見て、少し驚いた。受付で俺を迎えてくれたのは、本来そこにいるはずの美優ではなかった。
「先生っ、お久しぶりです」
高い声をあげ、相好を崩した細身の少女が、カウンターに身を乗り出して俺を見つめる。俺の工房に居たころには殆ど見ることの叶わなかった、晴れやかな笑顔。新しいオーナーとは、どうやら上手くやれているらしかった。
「キリカ、どうしてここにいるんだ?」
1週間前、訪れた浦田青年に手を引かれ、俺の工房を去った薄幸のアリス。もう顔を合わすことは無いかもしれないとすら、胸の内では感じていたその少女が今、目の前にいる。キリカは目尻を下げ、やや薄い唇から言葉を零す。
「美優さんが少し体調を崩されていて、今日はお手伝いに来たんです。美優さんは寝室でお休みになっていますが、日比野先生と修輔さんは二階に。お呼びしますか?」
言いながら、キリカの細い指が旧式のベルに伸びる。美優は風邪でも引いたのだろうか。少し心配だが、まあその辺りは孝一に聞くのがいいだろう。頼むとそう伝え、カウンターに歩み寄った。呼び鈴の奏でる甲高い音色が、室内に響き渡る。
「オーナーとは、仲良くやれているか?」
尋ねはしたものの、こんなものは社交辞令だ。人間に奉ずるアリスとして、キリカがいかに充実した日々を送っているかは、その輝くような笑みが証明している。果たして少女は、恥ずかしげに頷いて見せた。頰が僅かに桜色に染まる。
「修輔さん、とっても優しくしてくださるので。何もかも、朝倉先生と、日比野先生、それから美優さんのお蔭です。本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、少女はもう一度、俺に微笑んでみせる。まさに幸せの絶頂といった印象だ。
オーナーの浦田青年を定型の旦那様ではなく名前で呼ぶ辺り、二人はどうやら、主従と言うよりも恋人同士の関係に近いのかもしれない。工房の鉄扉の向こうへ姿を消した少女に対し、柄にもなく感傷的な想いを抱いた1週間前の自分。密やかな願いは叶えられた。少女の歩む道は確かに今、輝きに満ちているようだ。
「ま、元気そうで何よりだ」
真っ直ぐな謝辞に返す言葉を探り当てられず、視線を逸らしてそう答えた。俺を見つめる少女の大きな瞳に少し、柔らかな色が差す。微笑ましいものでも見るような優しげなその様に、一層に搔き立てられる羞恥心。全く。ロザといいこの娘といい、どうにも俺を餓鬼のように扱おうとする。同じようなことに挑戦しては俺に返り討ちにあっていた単細胞の姫君が懐かしい。
カウンターを挟んでキリカと再び視線を合わせ、言葉に窮したところで助け舟。口元に白い手をやり、上品な様でくすりと笑った少女の声に誘われるように、上方から響く足音。熊面の友人のご登場のようだった。
「朝倉か。最近よく来るな」
足音を響かせ、階段を下りてくる髭面。カウンターに毛むくじゃらの腕を乗せ、お前も暇だな、などと生意気を口にする。孝一とともに作業しているという浦田青年は、まだ二階のようだ。
「頼みがあってな。まあ聞いてくれ」
言って、右手に持っていた巾着袋を差し出した。訳が分からぬといった様子ながらも、兎角それを受け取る孝一。ゆっくりと中を覗き見、それから少し、眉を顰めた。
「簪だ。壊れちまってるけどな」
巾着袋に収まっているのは、細かな欠片の群れだ。金属製の足は無事に残っているものの、簪など日常的に目にする品ではない。蒼く煌めく破片が積み重なったその様から、それらが元々何であったのか当たりをつけるのは難しいかもしれない。そう考え、言い添えた。
「お前のか?」
難しそうな表情をそのままに、友人は問うた。
「いや、ロザのものだ。お前に直して欲しい。いけるだろ?」
受付周囲を、暫し沈黙が支配する。図々しいことこの上なく、また無礼な要求であるとは承知しているが、そこは男同士。あまり遠慮していても埒も無い。頼むぞ親友。
「いいだろう。ただ安い素材だ。どこまで綺麗に直せるかは知らんぞ」
小さな溜息と共に、髭面の大男は応諾の意を示してくれた。礼を言い、俺のそれよりやや高い位置にある友人の肩を、何度か叩く。
孝一は出来を保証しないとそう言うが、きっと心配ない。この男が直接に修復を担当してくれるのなら、石畳に散った二頭の蝶はきっと、美しく蘇る。友人が生業としているアリスの外面改修は、とてつもなく緻密な作業だ。ナノm単位での細かなパーツ位置の調整すら、場合によっては必要とされる。そんなことができる機材と腕を持っている以上、簡素な樹脂細工が直せない道理はないはずだ。
「朝倉先生、お久しぶりです」
上方から響いた低い声に、首を捻って視線を向ける。階段中程に、デニムパンツにボタンシャツ姿と、ラフな姿の浦田青年が立っていた。両手にゴム製の手袋をはめ、俺の知識では正体の判然としない金属パーツを持っている。青年は1週間前と同じ爽やかな笑顔で、俺に対し軽く会釈をしてみせた。
「久しぶり。元気にしてたかい?」
「お蔭さまで。その節はお世話になりました」
小走りに階段を駆け下り、長身の青年は孝一の後ろへ。キリカと少し、小声で何か遣り取りをする。二人とも弾けんばかりの笑顔を見せているのが、何だか微笑ましい。その様を見、ふと昨夜の若者を思い出した。
アリスに対する考え方の違いから俺とひと悶着あった黒髪の青年。目の前の浦田青年と彼とは、同じような年齢でなかろうか。一方はアリスに恋愛感情に近い想いを抱き、もう一方はアリスは道具に過ぎぬと主張する。それらの考え方そのものに、優劣は無いだろうとは思う。アリスの何を認め、何を否定するか。それだけの違いだ。そしてそれだけの違いであるが故に、難しい。
「ところで美優ちゃん、体調崩してるらしいな。風邪か?」
唐突に脳裏に浮かんだ考えを振り落とし、俺は友人に視線を向ける。美優は寝室で休んでいると、キリカはそう言っていた。俺の工房と同じく、友人のアトリエは住居を兼ねている。寝室は確か、カウンター内から出入りできる住居部分の最奥にあったはずだ。孝一は頷き、無骨な手で自身の後頭部を軽く搔いた。
「まあ、元々あまり丈夫なほうでもないからな。時々熱を出す。2、3日も休めば良くなるさ」
友人の口調は軽い。いつものこと、といった調子だ。やや薄情な印象を受けぬでもないが、兎角深刻な状態ではなさそうなことに安堵する。美優は親友の妻であると同時に、俺にとっては貴重な女友達でもある。早く快方に向かえば良いと願わずにはいられない。
「で、他に用件は?」
「いや、それだけだ」
雑な口調で問うた孝一に、巾着袋を指差してそう答えた。今回の俺の来訪は、アトリエの主人からはどうやらあまり歓迎されていないらしい。孝一の俺への雑な対応からも分かるが、彼らはそれなりに忙しいようだった。繁盛しているようで何よりだ。
「それじゃ、修理が終わったら連絡するよ。忙しいんでな、作業に戻るが、お前はどうする? 受付を手伝ってくれていってもいいぞ」
巾着袋の口を閉じ、階段に足を掛けながら孝一は言う。馬鹿言えとそう返してふざけた誘いを断ると、浦田青年とキリカに軽く手を上げて辞去の挨拶をしてから、俺も出入り口に向かった。アトリエを出、見送りに外へ出てきたキリカと二言三言。車に乗り込んだ。
「先生、よろしければ今度うちにもいらして下さい。修輔さんも喜ぶと思います」
「機会があればな。それじゃ、受付頑張れよ」
運転席の窓を開け、手を振るキリカにそう返す。愛の巣へのお誘いは流石に社交辞令だろうが、だとしても、言われて悪い気はしない。口元が綻びそうになるのを堪えながら、アクセルペダルを踏みつけた。微かな振動と共にミニバンが動き出し、バックミラーに移るキリカの姿が徐々に小さくなっていく。待ち合わせの時刻には少し早いが、目的地に向かうとしよう。広々としたロビーのソファで、快適に後輩の登場を待つのもいい。
妙な気分で少し笑い、ハンドルを切った。
9
縹渺たるアスファルトの原野から、巨大なガラス張りの建造物を臨む。そこは俺が開発職を辞した数年前から何一つ変わらぬ、無機質でモダンな異空間。国内最大にして、世界有数の精密機器ベンダーでもあるPhysical Illusion社の本社だ。
駐車場でミニバンを降りて数分。視界に押し迫る巨大ビルの荘厳な様に圧倒され、俺は小さく息を漏らした。数年前まで毎日ここへ通っていたのが、今となっては信じられない。
Physical Illusion社本社が保持する敷地面積は12万2000平方m。中心に聳え立つビルは地上55階建ての巨大アーティファクト。ガラスに包まれた外壁が陽光を受けて煌めき、超巨大企業に似つかわしいシャープな印象を醸し出す。アスファルトに靴音を響かせながら足を進め、幾つものガラスドアが連なる門扉を抜けて、ビル内に入った。外とは違うどこか冷たい喧騒が身を包む。
「本日はご来訪誠にありがとうございます。ご用件をお伺い致します」
広範なエントランスロビーに足を踏み入れて直ぐ、にこやかな笑みを浮かべた一人の少女が近づいてきた。
どこと無く学生服を思わせる、上品なブレザーに身を包んだ可憐な少女。ここはPhysical Illusion社。来訪客のエスコートを任せられている彼女は、無論ALICEだ。
彼女達はナビゲータと呼ばれ、他の企業で言うところの受付嬢に近い役割を担っている。来訪客が自ら足を向ける受付カウンターもあるにはあるが、ナビゲータのALICEはロビー内に10体以上配置されているため、大抵の場合来訪者がカウンターに辿り着くより早く、いずれかの一体が声を掛けてくる。訪問客にとっては、楽と言えば楽な形だ。ちなみにこの辺りのシステムは、俺が勤めていた頃とほぼ同じ。顧客の誘導を担当するALICE達が、発売前から継続して運用されていたプロトタイプから、完成品に入れ替わっただけだ。
「人を待っているだけだ。ナビゲートは必要ない」
Physical Illusion社の社員は、オフィス部に入場するために必要なIDカードを身体のどこか見える位置に装着することが義務付けられている。ナビゲータのALICEたちはその有無を目視で判断し、未装着の者を来訪者と見做すよう命じられている。昔と変わっていなければ、だが。
「左様でございますか。大変失礼致しました。それでは何か御座いましたら、お近くのナビゲータまでお声がけ下さい」
やや辛辣とも取れる俺の言葉に丁寧に頭を下げた少女は、ゆっくりとした動作で受付カウンター方向へ歩み去って行く。社員として彼女らと接していた頃の感覚がふいに戻りでもしたのか、少し冷たい言葉を口にしてしまった。相手はALICEとはいえ、無礼だったかもしれないと反省する。
ロビー内を睥睨し、それから隅に設置されている喫茶スペースに足を踏み入れる。俺が勤めていた頃には無かった施設だが、数年もたてば変わるのは当然だ。
入り口近くに空いたソファを見つけ、腰掛けた。目の前には茶褐色の小テーブル。艶のよいその素材はマホガニーだろうか。だとすれば随分と品の良いことだと思う。
何とは無しに周囲を見回し、人の多さに少し驚く。喫茶スペースに配置されたソファは計30脚程。その半数以上が今は埋まっている。大企業への来訪者は多様らしい。
「よろしければ、何かお持ちいたしましょうか?」
黒の簡素なドレスを身にまとった少女が、俺のソファに近づいてきて笑顔を見せる。この喫茶スペース専属のALICEのようだ。少しばかり、どこぞのはねっかえりに似た面差し。決定的に違うのは、眼前の少女からは品性が感じられるという点だ。
改めて辺りを見回す。人が多い故気がつかなかったが、ソファの並ぶ中に数名、同じ服装の少女が立っている。やや配置過多な印象も受けるが、サービスの質を保つためには必要なのだろう。ドリンクは何があるのかと尋ねれば、少女は朗らかな面差しをそのままに、定番の品を複数、挙げてみせた。有り難いことに、それらは無料であるらしい。
「アイス珈琲を。ミルクはいらない」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
言葉と共に頭を下げた少女は、先程のナビゲータ同様ゆっくりとした動作で俺のソファから歩み去る。見るものに落ち着いた印象を与えるその動きは、教育によるものか、あるいは特殊な設定によるものか。ややあって運ばれてきた珈琲にストローを指しながら、俺は再び周囲を睥睨。正直なところ手持ち無沙汰だ。
ふと、今しがた珈琲を届けてくれた給仕のALICEが背後に控えていることに気付く。俺のためにそこに立っているわけではなく、単にそこが彼女の立ち位置なのだろうが、少し落ち着かない。座る席を間違えたような気さえする。
「君、ちょっといいかい?」
振り返って、暇そうにしている少女に声を掛けた。喫茶スペースに配置されたALICEはやはり人数が多すぎるようだ。ソファの群れの中に立つ他のALICEも、今は同じように所在無げにしている。
「はい。何かございますでしょうか?」
笑みを浮かべ、何だか嬉しそうな様子で近寄ってきた少女に視線を合わせ、尋ねた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだが……。そうだ。その前に君、名前は?」
話しにくさから名を訊こうとして直ぐ、その質問の誤りに気付く。案の定少女は少し寂しそうな表情を浮かべ、謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ございませんお客様。私どもはオーナー様所有のALICEとは異なりまして、名は与えられておりません。型番でよろしければ、Lタイプの3122でございます」
俺としたことがつまらないミスだ。ロザやアリサなど、一般のアリスは一個人である自身のオーナーから名前を与えられている。対してここにいるALICE達のオーナーは個人ではない。特殊な設定を用いて、Physical Illusion社そのものをオーナーとしているのだ。
一体一体の判別は、アリスが舌の裏に持つ個体識別番号があれば事足りる。接客業務に従事する以外のプライベートな生活を持っているわけではない以上、それで充分。人間じみた名など不要なのだ。加えて言うなら彼女らは、そもそも。
「済まない。ではL3122。訊きたいことがあるんだが、いいかい?」
そもそも、長い時は生きられない。Physical Illusion社のエントランスで活動する彼女らは、言ってみれば会社の顔。Physical Illusion社の技術力と、ALICEという製品の品質を訪れた者にアピールする役割を担わされている。常に最新であらねばならず、常に無欠であらねばならない。故に入れ替えられる。2、3年ごとに行われるALICEのマイナーチェンジに応じて、最新の個体と入れ替えられる。役目を終えた旧型のALICEは、一直線に廃棄処分。酷なようだが、それが現実だ。
「はいお客様。何なりとお尋ね下さいませ」
プロ意識の現れか。あるいはアリスとしての矜持の発露か。笑顔に戻った少女に、俺は自身のタブレットを見るよう促した。スロットには、研究室のデスクから持ち出してきたメモリカードが差し込まれている。指先で幾つかの操作をした後、高精細な画面に一枚の写真を表示してみせた。
「この女性を見たことがあるかい?」
自身の発する言葉が、僅かに丸みを帯びたように感じた。眼前のALICEは、1年後にはもういないかもしれない。そんな思いが頭を過ぎったせいだろうか。だとしたら俺も、随分と。
「えーっと……」
少し首を傾げるようにし、少女は俺の手元を覗き込む。愛用のタブレットが映し出すは、美しい幼馴染の姿。15年前の、若かりし頃の永峰あきらだ。
俺の読みどおり、もし現在のロザの容姿がPhysical Illusion社での新規販売時にカスタムされたものであるのならば、この確認は有効であると言えないか。カスタムのその折、この喫茶スペースをロザがオーナーの田宮と共に使用した可能性はゼロではない。給仕のALICEがいつからここで勤務しているか、ロザの外面改修が行われたのはいつのことか。すれ違う要因は無数にあれど、もし二人が一度でも顔を合わせていたのなら、給仕のALICEはロザの容姿を記憶しているはずだ。アリスは、一度覚えたことを忘れはしないからだ。
「申し訳ございませんお客様。私はこちらの方にお会いしたことはございません。よろしければ、他の者にも確認させますが?」
果たして少女の返答は期待にそぐわぬものだった。残念だが、止む無しだ。賭けたのは低い可能性。そうそう上手くことが運ぶのならば、人生楽しくて仕方が無いだろう。
「いや、そこまでしてくれなくてもいい。手間を取らせて悪かったね」
少女の提案を辞し、タブレットをジャケットに仕舞い込む。大丈夫。本命の確認手段はこの後、愛すべき後輩の手によってもたらされるはずなのだから。
名無しのアリスに笑いかけ、それから俺は水滴を纏ったグラスに手を伸ばす。待ち人来たるその時までは、まだ少しあるようだ。
10
グラス内の氷が溶け出してすべり、からりと音を立てる。
瞼を開き、周囲を見回して現状を認識。そうだ。俺がいるのははPhysical Illusion社本社エントランスロビーの喫茶スペース。後輩の到着を待っているうちに、いつの間にか睡魔に吞まれていたらしい。
ジャケットからタブレットを取り出し、時刻を確認。約束の時間まであと10分。いいタイミングで目が覚めた。念のため、変わらず俺の後ろに立っている給仕のALICEに声を掛ける。
「少し寝てしまっていたようなんだが、その間に誰か来たか?」
L3122との型番を名乗ったALICEは少し笑い、答えた。
「男性がお一方、お客様のソファ横で少し足を止めていらっしゃいました。お声がけしようかと思ったのですが、直ぐに行ってしまわれたので、ご用件はお伺いできておりません」
申し訳ございませんと言い添え、少女は頭を下げる。俺は眼前で緩く手を振り、笑った。
「構わないさ。そんなのは君の仕事じゃないだろう」
男性とやらが誰かは知らぬが、恐らくは俺に何か用があったわけでもなかろう。何かあれば声を掛ければ良いだけのこと。想像するに、俺がPhysical Illusion社に勤めていた頃の顔見知りか何かではないか。知った顔がソファで馬鹿面を晒しているのに興味でも引かれたのだろう。今更手遅れだが、無様を晒したものだと思う。
「あ、先輩いたっ」
唐突に背後から、弾んだ声が響く。振り返れば、懐かしい後輩の立ち姿。待ち合わせの相手、長谷川莉子だ。ショートカットをそよがせ、俺の座るソファに歩み寄ってくる。
「よう。久しぶりだな長谷川」
「お久しぶりです先輩。相変わらず元気ないですねぇ」
小さな胸に首から下げたIDカードを揺らし、莉子はからからと笑う。親しみの表れだとは理解しているが、この娘はどうにも俺を目上の人間と認識していないような節がある。莉子は俺の向かいのソファに腰掛け、給仕のアリスを手招きで呼んだ。
「アイスティーください。あとこの人にも何か目が覚めそうなやつを」
楽しそうに注文を終え、莉子は再び白い歯を見せる。それから悪戯っぽく、寝てたでしょと言い添えた。
「何で分かった?」
「だって先輩目赤いから。あ、てか済みません。こんなところまで来てもらっちゃって」
独特のリズムで話しながら、莉子は済まなそうに眉を寄せた。どこぞのアリスに負けず劣らず、この娘も良く表情を変える。根本的な気力の質に俺とは差があるのか多少のやりにくさは感じるが、まあ、分かりやすいのは嫌いじゃない。
「いいさ。仕事だったんだろう? 休日なのに大変だな」
10月の3日。今日は日曜日だ。業務の都合上、莉子は休日出勤を命ぜられていたらしい。急に暇になったと言っていたのは、あくまでも午後の話。丸一日出勤の予定だったのが午前中だけで良くなった、という経緯のようだ。待ち合わせにこの場所が指定されたのも、彼女の予定故だった。
「お前、今何やってるんだ?」
尋ねたのは莉子の業務内容だ。俺の目的にも関わる故、得ておきたい情報だ。ロザの耳がある電話口ではあまり仔細に聞くことができなかった。莉子は相も変わらず朗らかに、楽しそうに話す。
「カスタマーセンターでマネージャやってます。まあ、SVですね。時々電話対応もやらされますけど」
コールセンターのスーパーバイザー。ベストではないが、俺の目的に照らし合わせれば悪くない立場だ。一応は管理職でもあるし、販売履歴の閲覧など、顧客情報にアクセスする行為が容易に為し得る。考えてふと、思い至った。
「お前か。元村さんに俺の工房を勧めてくれたのは」
調律の完了したアリサを返却した際、元村が話していた。Physical Illusion社のカスタマーセンターに調律工房の紹介を依頼したと。
Physical Illusion社と調律師に何ら業務上の提携関係がない以上、通常はもらえないはずの回答を元村は得、その回答に従って俺の工房へ調律依頼を出した。話を聞いた時には不思議に思ったものだが、莉子がカスタマーセンターにいるのなら説明がつく。果たして後輩は、飛び切りの笑顔を見せて頷いた。
「先輩のお仕事に協力してあげようかなって。持つべきものは健気な後輩ですね、やっぱり」
生意気を口にし、後輩は今度は柔らかく微笑む。
莉子が元村に俺の工房を勧めた結果、俺はアリサと知り合った。アリサと知り合ったからこそ、キリカを救ってやることができた。ロザに対して不可思議な疑念を抱くに至ったのも、アリサを連れて出かけたショッピングモールでの出来事があったからだ。前者は兎も角、後者については吉事であるのか凶事であるのか、俺には判断がつかない。だが、莉子が恐らくは何の気なしにとった行動がここ数週の俺の生活に及ぼした影響は、相当に大きかったようだ。
「健気かどうかは知らないが、まあ、ありがとうな。長谷川」
どうにも複雑な思いを添えて述べた謝辞に、莉子が僅かに頰を赤らめる。照れているのか。分かりやすい奴め。
「先輩はお仕事の調子はどうですか?」
俺達は暫し雑談を続ける。仕事のこと、プライベートのこと。共通の知り合いのこと。半刻程の後、穏やかな会話は途切れ、刹那の沈黙が訪れる。俺はタブレットを取り出し、口を開いた。
「実はな長谷川。頼みがあるんだが……」
唐突な俺の言葉に、莉子は可愛らしく小首を傾げてみせる。不思議そうな顔。
「Physical Illusion社で販売されたカスタムアリスの中に、こういう容姿へのカスタムを行ったALICEがいたかどうか、調べてもらうことはできるか?」
先刻も給仕のALICEに見せた幼馴染の写真をタブレットに表示し、後輩の眼前にそれを晒しながら、俺は問う。自分でも嫌になるくらい、ストレートな物言いになった。上手い頼み方ができさえすればと散々考えていたにも拘わらず酷いものだ。莉子は眉を寄せた怪訝そうな表情で、小さな唇を開く。
「先輩、もしかして私に顧客情報を漏らせって言ってます?」
周囲の耳を気にしてか声量を下げた後輩は、不満そうな面差しだ。俺は緩く首を振り、言葉を継いだ。
「無理にとは言わない。それに、仔細な顧客情報が知りたいわけじゃないんだ。この写真の女性の容姿をベースにした外面改修を行ったALICEが居たか否か、それだけでいい」
顧客の名前、住所。そんな情報は不要だ。ロザのオーナーは田宮晴彦。名前も住所も、俺はとうに把握している。
莉子は腕を組み、目を閉じ、押し黙ってしまう。無理な頼みをしているのは重々承知している。断られたとしても、それはそれで止む無しだ。どうすべきか悩んでくれるだけでも、有難いことなのだと認識しなくてはならない。暫しの沈黙の後、溜息と共に、莉子は言った。
「やってあげてもいいです。ただし、先輩がきちんと事情を説明してくれるのが条件です」
「本当か? ありがとう」
つられるように息を吐き、俺はその言葉に安堵する。礼を述べ、テーブル上に少し身を乗り出した。
「事情は勿論説明する。いや、お前の言う通り、持つべきものは健気な後輩だな」
「はいはい。そりゃどうも」
呆れたように言う後輩が、調子の良いことに何とも可愛らしく見える。自身の現金さを恥じ入りながら、俺は再び口を開いた。
8日前、俺の工房へやってきた一体のアリスのこと。15年前に別れた、大切な幼馴染のこと。容姿、声、そして望みと、二人の生を彩る様々な要素が何もかも酷似していること。順を追って一つずつ、クライアントである田宮に関する情報だけを伏せて、莉子に説明する。暫し黙って俺の話に耳を傾けていた後輩は、一通りの説明が終わると同時にひとつ、大きく頷いてみせた。
「分かりました先輩。話してくれてありがとうございました」
俺の顔を真っ直ぐに捉える莉子の視線は、何だか優しげだ。俺としてはそう感傷的に事情を説いたつもりはない。だが後輩は、俺自身把握し切れていない何かしらの想いを、口にした言葉の中に感じ取ってくれたのかもしれない。
「これから直ぐに調べてみます。そのロザって子の識別番号を教えてください」
「識別番号?」
鸚鵡返しに問うた俺に、後輩は一瞬驚いたような顔を作る。まさか分からないとは言いませんよね、大きな瞳がそう言っている。
「個体識別番号が分かれば、そのALICEの販売記録をダイレクトにあたって、カスタムの内容を調べられます。先輩本当に分からないんですか?」
莉子の口調は辛辣だが、言われてみればもっともだ。
あきらの容姿を手がかりに、それに酷似させることを目的とした外面改修を行ったALICEが居たか否か調べるなど、手間が掛かりすぎる。調べ方にもよるが、調査結果も正確性を欠くやもしれない。手法はそれしかないとばかり思い込んでいたため、それも止む無しと覚悟していたが、考えてみれば何とも馬鹿げた発想だ。個体識別番号からピンポイントに販売記録を読み出せば、一発で調査は終わると言うのに。
「済まない。いや、識別番号が必要になるとは、考え付かなくて……」
後輩相手に情けない。何だかしどろもどろになってしまった。クールでスマートな朝倉先輩のイメージが台無しだ。
大きく溜息を浮かべた莉子が、頰杖をついてじっとりとした目つきを俺に向ける。どうやら少し、機嫌を損ねたようだ。莉子の細い首に提げられたカードパスが、ひらりと揺れた。
「それじゃ、今日じゃなくて明日また出社した時に調べますね。工房に戻ったら、識別番号確認して、連絡してください」
「分かった。そうさせてもらうよ。ああ、何か飲むか? 俺の奢りだ」
無理な頼みごとをした以上、どうしたって立場は俺が下だ。機嫌をとるべく、俺は相変わらず回らぬ口で、知恵の足りぬことを口にする。
「もうさっき頼みましたし。てか無料だし。まだこないけど」
後輩は手厳しい。そんなに怒らなくてもいいじゃないか。一応俺は先輩だぞ。物悲しい思いに誘われながら、話題を変更すべく脳みそを回転させる。兎角、調査の約束は取り付けられた。目的が達せられて一安心といったところ。作業を措いてまで、ただ暇だという理由での呼び出しに応じた甲斐があった。
「あ、そういえば先輩って……」
ころりと楽しげな面差しに戻った莉子の様子に胸を撫で下ろし、こちらも笑顔で会話に応じる。
俺の頼みを後輩が受けてくれるか否か、正直なところ不安だった。懸念事項を解消する言質がとれたことによる安堵故か、先程より会話が弾む。後ればせながら注文したドリンク類も届き、それから暫しの雑談の後、俺達は席を立った。自宅まで車で送っていく旨申し出ると、後輩は随分と喜んでくれた。
本社ビルを出、駐車場へ向かって連れ立って歩きながら、引き続き何とは無い戯話に興じる。楽しげな笑い声を響かせる莉子をエスコートし、愛用のミニバンへ。トラッカージャケットの胸ポケットに指先を差し入れ、カードキーを探った。
「先輩、うちにいた時からこれ乗ってますよね」
口元に白い手をやり、気抜けしたような、感心したような、妙な言葉を漏らす莉子。8年目だとそう返し、俺は改めて愛車を眺めた。見慣れてしまっているため意識もしなかったが、確かに車体全体から年季が窺える。最後に洗車をしたのはいつだったかと、ふと考えた。
「稼いでるんだから買い換えればいいのに。って、あれ?」
言葉の途中で素っ頓狂な声を上げ、莉子が瞳を見開いた。どうしたと尋ねながら、俺は後輩の見る先を追う。車種も色合いも様々な、車の群れ。駐車場には異変も、特別に興味を引かれるような物も、何も無い。
「どうしたんだ?」
同じ言葉を繰り返し、俺は視線を後輩の横顔に戻した。すべらかな頰に垂れ下がる黒髪。莉子は怪訝な様子で眉を寄せ、しかし視線は前方に投げつけたまま答えた。
「うん、誰かこっち見てたから。知り合いかなって思ったんですけど」
敬体と常体を織り交ぜた独特の調子で、惑うように話す莉子。何とも歯切れが悪い。
「で、知り合いじゃなかったのか?」
莉子の視線の先に、俺ももう一度目を向ける。駐車場に停められている車は無数にあれど、人影は殆ど見当たらない。後輩が見つめる先にも、誰かがいるような様子は無い。
「顔は分からなかったんです。確かに誰か見てたような気がしたんだけど、気のせいかも……」
「性別は?」
尋ねれば、後輩は首を振る。それもわからない、という意味らしい。どうやら人影を目にしたというのは一瞬のことだったようだ。目ざといものだと思う。
「誰もいないな。見間違いじゃないのか」
見間違い。気のせい。誰にでも良くあることだ。にも拘らず、莉子は随分と正体不明の監視者を気にしている。胸にふと、何やら不穏な高鳴りが生まれる。ミニバンのドアを開け、彼女を助手席に押し込みながら、俺は考えを巡らせる。
可能性は低いとは思う。万が一にもそんなことはないとは思う。だが、莉子が見たというその人物は、俺達を見つめていたというその人物は、もしかしたら。
ロザではないか。
「あり得ない。幾らなんでも」
無意識に呟いた台詞を、莉子の小さな耳が拾い上げる。何がですかとそう問われ、何でもないと一言。車の前方を回る形で、運転席に乗り込んだ。
「長谷川、お前身長は?」
聞き出した身長をスピードメーター横のパネルに登録し、思考を継続。シートベルトを装着し、シフトレバーを握る。
俺の工房からPhysical Illusion社までは、車で約1時間。孝一のアトリエに立ち寄るために、俺は本来出立すべき時刻より随分と早く工房を出た。タブレットを取り出し時刻を確認。14時35分。工房を出たのは11時過ぎだったはずだから、約2時間半が経過している。
仮に俺が出発した直後にロザも工房を出たとしよう。これだけの時間があれば、車という移動手段を持たぬロザが公共の交通機関を利用して、この駐車場に辿りつくことも充分に可能だ。こうなると、孝一の工房に先に寄ったことが少し悔やまれる。
「長谷川、悪いが真っ直ぐ俺の工房へ戻る。お茶でもしていけ」
「え、今したばっかりなんですけど」
「いいから」
莉子を巻き込んで申し訳ないとは思う。だが、このまま真っ直ぐに俺の工房へ向かうことで、確認できることが一つある。ロザには車がない。つまり、俺よりも短い時間で工房へ帰りつく手段を少女は持っていない。仮に既にこの駐車場を離れ帰路についていたとしても、俺が車を飛ばして寄り道をせず工房へ戻れば、少女は必ず、俺よりも遅れて工房に辿りつくことになる。
俺が戻った時、工房に少女がいれば、先程莉子が見たという人影はロザではない。だが、もし工房が無人であったなら。俺の帰りを待っているはずのロザが、そこにいなかったのなら。
監視者がロザである明確な根拠は何も無い。それどころか、そんな人物はそもそもおらず、莉子が何かを見間違えた可能性のほうが余程高い。だが、芽生えた疑念は潰したい。工房の鉄扉を引き開けたその向こうで、笑顔の少女に、おかえりなさいと言って欲しい。ただいまと、頭を撫でて留守番の労を労ってやりたい。
「そうか……」
今度は意図して呟く。刹那頭を巡った想いに、気付かされた。気付かされてしまった。
俺はずっと、自身がロザを疑っているのだと、そう思っていた。少女とそのオーナーの真意を知り、そこに悪意が透けて見えるのならば対策を講じる必要があると考えているのだと、そう思っていた。だが、違った。俺は信じたかったのだ。幼馴染と同じ姿をした少女を、灯火の夜に見た少女の涙を、笑みを、信じてやりたかったのだ。後輩の力を借りてまで潰したいと願っていたのは、隠された悪意ではなく、自身の脳内にこびりついた疑念であったのだ。
アクセルを踏み込み、車を発進させる。俺が漏らした呟きを聞き流してくれた後輩の気遣いが、兎に角今は、ありがたかった。
Interlude.2
突風に吹き上げられた木の葉が、わたしの眼前を回転しながら通り抜ける。
遮蔽物が少ないせいだろう。随分と風が強く感じられる。停められた車は数あれど、秋の風を防ぐにはやや高さが足りない。自慢のセミロングがはらりと舞い上がり、中空で乱れて頰を打つ。羽織ったコートの衽を両手で搔き合わせ、わたしはゆっくりとしゃがみこんだ。
無闇に広い、Physical Illusion社の駐車場。辿り着いたのは半刻程前。車の群れの中を意味も無く歩き回りながら、わたしはひたすらに時間を潰していた。待ち人はまだ、姿を現さない。
スーツ姿の男性が一人、車の間にしゃがみこむわたしの前を早足で通り過ぎていく。濃紺の高級そうな生地に、淡いグレーのストライプの入ったダブルボタンのスーツが、細身の身体によく似合っている。エリートビジネスマンのイメージを地で行くその様にわたしは一瞬見入り、それから少し、鬱とした気分になる。自分のような汚れた者がこの場所にいて良いのだろうかと、罪悪感じみた想いに駆られたせいだ。何だか酷く場違いな気がする。
ボンネットの向こうに聳え立つ巨大な建造物を眺め見る。無数の直線で構成された、ガラス張りの今めかしい高層ビル。
聞くところによると、フロアは55階まであるらしい。一体どれ程の人数が働いているのだろう。企業に勤めた経験など当然ないわたしには、見当すらつかない。毎日の仕事は大変なのだろうか。お給料はどのくらいもらえるのだろうか。長時間コンピュータと向かい合い、わたしには分からないような難しい計算をしたりするのだろうか。
立ち上がり、少し歩く。ビルに近づき、陽光に輝くガラスの向こうをじっと見つめる。広々としたエントランスフロア。行き交う人々と、その間をゆったりとした動きで闊歩する何体ものアリス達。彼女達の表情は一様に喜びに満ち溢れている。人に奉仕できる幸せに、小さな魂を震わせている。
「わたしは……」
呟き、俯いた。ガラスの向こう側とこちら側。一体何が違うのだろう。一体どちらが幸せなのだろう。わたしには分からない。わたしは彼女達とは違う。それでも、それでも願ってしまう。いっそのこと、彼女達の中に交じれたら。何も考えず、ただ与えられた仕事のみをこなす毎日に身をやつせたら。
いや、違う。仕事ならわたしにもある。ここ数日はお休みしているけれど、ただただ与えられた職務を遂行するだけの毎日なら、わたしにもある。問題は、その職務に誇りが持てるかどうかなのだ。矜持を、意義を、生業として繰る一挙手一投足の中に見いだせるかどうかなのだ。美しいエントランスロビーで働く彼女らには、きっとそれがあり、わたしにはない。故にわたしは、彼女らに取って代わりたいと、埒も無い夢を思い描くのだ。
「あっ……」
ビルの入り口、大きな何層ものガラスドアが開き、背の高い男性が姿を現す。待ち人来たり。彼だ。大好きな彼だ。慌てて踵を返し、また車の陰に身を隠す。しゃがみこみ、目を閉じて、昂ぶる感情を抑えつける。ボンネットの陰から少し頭を出し、予想通り駐車場へ向かって歩いてくる彼の姿を覗き見た。
「あれ……」
一人で歩いてくると思った彼の横に、小柄な女性の姿を見つけた。何だか可愛らしい人。風に揺れる艶やかな黒髪が、整った顔立ちを一層に引き立てている。首からパスケースのようなものを提げているところを見ると、Physical Illusion社の社員のようだ。
ゆっくりと足を進める二人の様子を観察する。腕を組んだり、手を繫いだりはしていない。特別な関係だったりはしないのだろうか。いや、わからない。ここは会社の敷地内。たとえ二人が恋人関係にあったとして、こんなところで露骨な行動をとりはしないだろう。
二人が駐車場に足を踏み入れた。話し声が、僅かにだが聞こえてくる。楽しそうなその様に、胸が締め付けられる。二人の前に出て行こうか。わたしは迷い、立ち上がりかけては、また膝を折ってを繰返す。周囲に人がいないのが有難い。傍から見れば、わたしはさぞ挙動不審なことだろう。
やはり出て行こう。そう思い、立ち上がることを決めた瞬間だった。車の陰から頭を出したその途端、彼の横に立つショートカットの女性と目が合ってしまった。慌ててまたしゃがみ込み、そして俯く。駄目だ。おかしなことをしている姿を見られてしまった。もう出て行けない。恥ずかしすぎる。大体わたしは、唐突に出て行って何をしようとしていたのだ。彼はきっと驚くだろう。それから、それからどうするだろう。突然何だと怒るかもしれない。いや、それならまだいい。迷惑そうな顔や、嫌そうな顔などされたら、きっとわたしは酷く傷つく。ヘタをしたら泣いてしまうかもしれない。もしそんなことになったら、彼にどれ程迷惑がかかるだろう。
慎重に、今度は気付かれないように、彼の方に視線を送る。ショートカットの女性が、彼の腕を突っつきながら何か伝えている。不振な女がこちらを見ていたとか、そんな内容に違いないと、そう思う。
腰を屈めたまま、わたしは車の陰を移動する。帰ろう。帰って、気持ちを落ち着けて、何事もなかったかのように夕食の準備でも進めよう。そういえば食材のストックがあまりなかったような気がする。帰りにジャンクショップにでも寄って買わなければ。何をつくろうか。冬も近づいている。温かいシチューなどいいかもしれない。
頰を涙が伝っているのが分かる。必死に日常に思いを馳せ、今の無様な出来事を忘れようとしている自分が、痛々しくてたまらない。
コートの裾を、たれ落ちた滴が控えめに濡らす。涙など、どうして流れてしまうのだろう。アリスなのに。わたしはアリスなのに。
静かに足を進めながら、わたしは自嘲的な笑みをこぼす。熱を持つ目頭の疼きが、恨めしくて仕方がなかった。