アリス・エクス・マキナ
第三回
伊吹契 Illustration/大槍葦人
伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!
Chapter.3 疑念
1
3日が過ぎた。プログラム改修は極めて順調。ロザの願望を調律の枠組に落とし込むこと、即ち設計の段階でやや苦労はあったものの、以後は予想外に早いペースで作業が進んだ。
初めて行うカスタムアリスの調律には躊躇いもあったが、案ずるより産むが易し。実際に手をつけてみれば何ということはない。それは俺が何年も従事してきた、いつも通りの仕事に他ならなかった。
実のところ、俺はカスタムアリスの人格プログラムというものを見たことがなかった。
これまでに調律対象としてきたアリスは全てコモンタイプ。同一の人格プログラムを元にしている以上、両者に基本的な構造差異はあるはずもないのだが、それでも今回の調律依頼を受けるにあたり、一抹の不安はあった。
だが結果として、ロザの人格プログラムに、初見のロジックはまるで見当たらなかった。安堵感が思考の歯車の潤滑油にでもなったのか調律は兎角効率的に進み、実際のコード修正開始から3日目、ロザの訪問から5日目の現在、作業は立てた予定に比して1・5日の前倒しとなっていた。
「お味はいかがですか?」
昼食のオムライスに舌鼓を打ちながら、今俺は居間でロザと向き合っている。可愛らしく小首を傾げそう問うた少女に、旨いと一言、食事の度に口にしている定型句でもって返事をする。ロザは嬉しそうに目を細め、良かったと胸を撫で下ろす。
「先生はいつも美味しそうに食べてくださるので、とても作り甲斐があります」
「そうか?」
少女は笑顔で言うが、腑に落ちない評価だ。以前より他者からは無表情との評を受けている。ロザの料理の腕はアリサ同様かなりのものだが、そう毎度感激しながら食べているわけではない。アリスの機嫌をとるつもりも、無論毛頭ない。
ロザの発言を世辞の類かと訝しんでいると、視界の隅にキャミソールの胸元が映りこんだ。視線をやれば、ロザが半身を折るようにして、俺の顔を覗きこんでいる。
「どうした?」
尋ねれば、恥かしそうな笑顔で、何でもありませんと首を振る。追及しても埒も無いので、俺は再び食事に集中。ケチャップの味わいが何故だか懐かしい。
ここ数日で気がついたのだが、ロザにはどうも、自分がコミュニケーションをとっている相手の顔を過剰に眺め見つめる癖があるようだ。ソースコードを読み解けばどのような行動分岐に基づいての行為かはわかりそうなものだが、今回の調律内容とは関係がないので放っておく事にしている。
「キリカちゃん、今頃どうしているでしょうか。新しい旦那様と仲良くできているでしょうか」
チェアに腰掛けた俺とテーブルを挟んで向かい合った形で、立ったままのロザが言う。話題に出たキリカが工房を去ってから、日に三度の食事は全てロザに任せているが、彼女はいつもこうしている。
人間と異なり、アリスは疲労という身体反応を持たない。故に、何時間立ちっ放しでいようが不快感や倦怠感を覚えることもない。とはいえ、座っている俺としてはどうにも落ち着かない。ましてロザは、俺が無遠慮に貪り食っている毎回のメニューの調理者だ。何度かソファに座って寛ぐよう勧めたが、その時は言う通りにしても、次の食事の際には元に戻っているので、もう諦めてしまった。ことこの一点に関してだけは、俺を押しのけてでもソファを占領しようとしていたはねっかえりの姫君が懐かしい。
「オーナー情報の変更さえ無事に済ませたなら、きっと大丈夫さ。今度美優ちゃんにでも聞いてみるよ」
答え、オムライスの最後の一欠けを口に運ぶ。愛用のマグに注がれた珈琲を飲み干した。
「先生、お疲れではないですか?」
空になった皿をキッチンへと運びながら、少女は問う。
「長い時間、ずっと研究室に籠もっていらっしゃるので、少し心配になってしまいます」
「大丈夫だよ。企業勤めの人間は毎日もっとずっと働いてる。俺なんか楽なもんさ」
この3日間でロザについて分かったことがもう一つ。彼女は少々、心配性の気があるようだ。ちなみにこれもまだ、ソースコードからは読み取れていない行動基準だ。
「もし先生さえよろしければ……」
食器とマグを洗浄機に入れ終え、俺の正面に戻ってきた少女が言う。
「気晴らしに外出しませんか。作業も予定より進んでいるとお聞きしていますし」
朗らかな表情を浮かべての、やや遠慮がちな提案。俺のその作業が自分のためのものと認識しているからこその態度だろう。
「外出ねぇ……」
確かに気分転換を図るのも悪くはない。スケジュールを通しての作業効率という観点からも、有意義な行動ではあるだろう。しかし外出するとなればどこへ足を向けるか。
悩み言葉を継げずにいたところへ、室内に響き渡る電子音。ソファの上に放り出してあったタブレットが、着信を受け中空にホログラムを投影する。ネットワーク内に該当人物情報無し、発信者不明につき番号のみ表示します、とのメッセージ。知らぬ番号だった。
ロザがソファに駆けていき、タブレットを俺に差し出す。電子音を発し続けるそれを手に取り、耳にあて、Accessと呟いた。音が鳴り止み、通話状態に移行する。
「アリサだよっ」
電話の向こうから、無闇に活力に溢れた声が響く。即座に通話を終了し、様子を見守っていたロザに声を掛けた。
「外出するとして、どこか行きたい場所があったりするのか?」
「えっ、特にないですけど、先生お電話はよろしいのですか?」
テーブルに転がったタブレットと俺の顔を交互に見ながら、少女は問う。
「ああ、もう終わった」
「そうなのですか? でも2秒くらいしか……」
ロザの言葉を遮り、再び室内に電子音が響く。先程と同じ番号。止むなく再度タブレットを手に取った。
「何だよ」
「いきなり切るなっ」
アリサの怒鳴り声。姿は見えずとも、どのような表情をしているのかは容易に想像がつく。眉を吊り上げ、頰を膨らませ。数日前まで何度も目にしていたアレに違いない。
「何の用だ。て言うかお前、タブレット買ったのか?」
元村とはアリサの調律に際して何度かタブレット越しに話している。彼の番号はネットワークに登録済みなので、此れは別の端末からかけられている電話ということになる。アリサはがらりと声色を変え、嬉しそうに言う。
「旦那様が買ってくれたの。いいでしょ。羨ましい?」
「何で羨ましがるんだよ。俺は前から持ってる」
くだらない遣り取りだ。アリサは電話越しにからからと笑う。
「で、用件は何だ?」
「ん、キリカちゃん、どうしたかなって気になって」
成る程。案外にまともな用件だったようだ。数日前に無事に引き取られていった旨を伝えてやる。良かったと、心底安堵したような様子で、少女は声を弾ませた。
「ま、キリカについては、お前のお蔭によるところも大きい。ありがとうな」
キリカを本当に心配していたのは、俺よりもアリサだった。キリカを助けてあげようと、少女が強硬に主張しなければ、俺は腰を上げはしなかっただろう。まあお兄ちゃんがどうのと、余計なアドバイスを残していったのは減点対象だが。礼を述べれば、少女は誇らしそうに、また恥ずかしそうに、少し笑った。
「ねえねえじゃあさ、今から遊びに行ってもいい?」
「それはダメだ」
はっきりと断る。じゃあ、の意味も全く分からない。
「これから外出するんでな。大体ここに来ても何もすることなんかないだろう」
何故調律工房になど来たがるのか。日中は元村も仕事で自宅におらず、暇なのだろうが。
「カスタムアリス来てるんでしょ。見たいし」
言われ、そういえば興味を示していたなと思い出す。何となく目の前の少女に視線を投げる。ロザは不思議そうに、小首を傾げて見せた。
「兎に角、これから出かけるからダメだ。また今度な」
適当に話を纏め、今度は穏便に通話を終了する。一つ溜息。何だか疲れた。
「お友達の方ですか?」
相変わらず朗らかに、ロザが言う。断じて友達などではないが、もしかしたら向こうはそういうつもりなのかもしれない。頭の痛くなる話だ。
「お前の一つ前に調律したアリスだ。ちょっと変わった奴でな。ここに遊びに来たいらしい。すっかりお友達気分でいやがる」
答えれば、少女は笑う。好かれていらっしゃるのですねと、くだらぬことを言い添えた。
「どうだかな。それよりどうする。出かけるなら、映画でも見に行くか?」
深く考えずに口にし、なかなか良いアイデアかもしれないと考える。外出はあくまで気分転換のため。体力を消耗するような選択肢は避けたかった。ロザは嬉しそうに答える。
「良いと思います。大賛成です」
「決まりだな。出るぞ」
立ち上がり、纏っていた白衣をソファに脱ぎ捨てる。ロザが着替えると言うので居間を出、廊下をぶらぶら。映画なら、先日も行ったショッピングモール内のシアターが近い。着替え終わったロザと連れ立って、玄関に向かった。
「服、本当に沢山持ってきたんだな」
ロザの姿を眺め、半ば呆れてそう口にする。
黒のトレンカにホットパンツ。胸元がやや大きく開いたタイトなロングティーシャツの上に、白いダウンベストを羽織っている。寒さを感じないアリスらしく、先日出かけた時はキャミソール一枚だった。一転、今日は冬の装いだ。
ドアノブに手を掛け、鉄扉を押し開く。一瞬視界に入った白い太股に危機感を感じ、慌てて手を引いた。再びドアが閉まる。
「先生、今誰かいませんでしたか?」
大きな目をさらに見開いて、ロザが慌てたように言う。俺にもそう見えたが、どうだろう。見間違いだろうか。というより、見間違いであってほしい。
念のためドアに鍵を掛け、ロザの肩を抱いて少し玄関から離れる。突如、廊下に大きな音が響いた。誰かが外から鉄扉を叩いているようだ。合わせて、開けてーと甲高い声が聞こえてくる。
「先生やっぱり誰か……」
「聞くな。悪霊の類だ。開ければ魂を抜かれるぞ」
俺に肩を抱かれたまま、ロザは戸惑った様を見せる。外にいるのが誰かは当然分かっているし、流石に無視し通すのも不憫だと思ってはいるが、できることなら抵抗したい気分だった。何故かと問われれば答えは一つしかない。面倒だからだ。
「はあ……」
分かったような分からないような。少女はドアと俺の顔とを交互に見つめ、少し押し黙る。どうすべきかの判断に迷っているようだ。ドアを叩く音が止んだ。諦めたのだろうか。
「ごめんなさいっ。パパごめんなさいっ。アリサが悪かったから。もうしないからぶたないでっ」
安堵したのも束の間。鉄扉の向こうからとんでもない台詞が聞こえてきた。ロザの肩から手を離し、急いでドアに向かう。たちが悪いにも程がある。ご近所様が本気にしたらどうするんだ。
ドアを勢いよく押し開き、俺の顔を見て笑顔になったアリサの手首を取る。玄関内に引っ張り込み、ドアを閉めた。
「遊びに来てあげたよっ」
満面の笑みで言う少女の頭を小突き、俺は今日何度目かの溜息を漏らした。
2
「映画初めてだよっ。楽しみー」
車から降りたアリサが、ショッピングモールの入り口へ向かって駐車場を駆けていく。ロザと並んで、但し歩いてその背を追いながら、俺はどうにも鬱とした気分に苛まれていた。
俺に電話をよこした時、既にアリサは工房付近にいたらしい。オーナーの元村にも朝方、今日は俺の工房に遊びにいくことになっている旨告げておいたとのこと。よくもまあ相手の都合も確認せずに勝手なことが言えたものだ。流石に工房に置いてきぼりにするわけにもいかず、連れ立っての外出と相成ってしまった。
「走るとこけるぞ」
入り口で立ち止まり俺達を待っていたアリサに追いつき、そう窘める。少女は工房を去ったあの日と同じブルーのワンピースに身を包み、例のコアラのポーチを提げている。
「アリサちゃんは元気だね」
慈しむような笑みを見せ、ロザが言う。二人は本日が初対面であるものの、ともに社交性は高い。既にある程度打ち解けたようだ。
「今、何がやっているのでしょう?」
モール内のシアターに向かって歩きながら、細い人差し指を顎にあて、ロザは呟く。行けば分かるだろうとそう返し、ゆっくりと足を進めながら周囲を見回した。思った程モール内は混雑していない。タブレットを取り出し、カレンダーから今日が平日であることを確認する。仕事柄曜日の感覚は失いがちだ。
「わたしラブラブなやつがいいっ」
意味不明の発言をしたアリサが、また前方へ向かって駆け出していく。先程の注意は頭に入っていないらしい。少女が終始この調子では元村も大変だろうと思いながら、隣を歩くロザに話しかける。
「すまないな。余計なのがついてきてしまって」
いまさらとも思うが、一応謝罪しておく。俺も被害者には相違ないが。
「お気になさらないで下さい。アリサちゃん可愛いし、三人のほうがきっと楽しいですよ」
「だといいけどな」
アリサが本当は優しく、気立ての良い娘であることは知っている。彼女の人格は、言ってみれば俺の作品なのだから当然だ。とはいえゆっくりと過ごしたかった俺としては、今回の来訪はいただけない。調律を完了しオーナーに返却したアリスがその後工房に遊びに来るなど、初めてのことでもある。
「ここですね」
ややあって、シアターに到着する。やはりここも人はそう多くない。何を鑑賞するにしても、問題なく入場できそうだ。
「わたしたちも大丈夫そうですね」
ロザが言う。自分達の入場可否について言っているのだろう。話題作の公開初日など、混雑が予想される場合、アリスに対し入場規制が掛かることがある。アリスが席に座り、その分人間が座れなくなる、などということは基本的に許されない訳だ。
俺達より先に入場口に到着していたアリサが、公開中作品の一覧を見ながら思い悩む様にしている。放っておくと少女の主張を強引に通されるハメになりそうなので、ロザの希望を先に聞いておくことにする。
「ロザ……」
隣の少女に目を向け、息を吞んだ。ロザの視線が、真っ直ぐにアリサの背に向けられていたからだ。いや、そのこと自体は問題ではない。俺を驚かせたのは、その瞳の冷たさだ。
先刻まで彼女は、今とは真逆の、慈しみに満ちた温かい視線をアリサに向けていた。だが今はどうだ。有態に言えば凍りつくような、かくも冷たい視線があろうかと言う様なそれを、前方の少女の背に注いでいる。
「ロザ、聞いてるか?」
声がやや掠れた。俺の問いかけに気がついたらしい少女は、少し慌てたようにアリサの背から視線を外し、こちらを振り向く。柔らかな笑顔だ。先刻の悪寒の走るような瞳は、表情は、俺の見間違いだろうか。
「ごめんなさい先生、ちょっとぼーっとしてました」
照れたように少し笑い、ロザは言う。何でしょうと問われ、希望の作品があるか尋ねた。見間違いとも疑われる以上、先程までの表情に言及するのは憚られる。
「そうですねぇ……」
自身の首筋に小さな手を当て、ロザは答える。
「わたしは、何でも良いです。先生は何かないのですか?」
「俺も特にはない。でもそうなると、アリサの希望の作品を見ることになるが、構わないか?」
俺の目的は映画を見て気分を変えること。見たい作品があってここへ来たわけじゃない。問えば、ロザがそれで構わないと言うので、腕を組んで沈思黙考していたアリサを呼ぶ。
「何か見たいのあったか?」
お前の好きなのでいいぞと言い添えると、意外にも少女は首を振って見せた。
「元々二人で来る予定だったんだから、二人の好きなのにしようよ。わたし何でもいい」
「どうした、妙に殊勝だな?」
「五月蠅いし。でもわたし、ちょっと勝手だなって思った。ロザちゃんごめん」
言って、何だか神妙な表情でロザに頭を下げる。作品一覧の前で悩んでいるからてっきり映画を選んでいるものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
自身の行動を鑑み、反省していたのが正解のようだ。俺への謝罪は一切無いのが多少気になるが、まあいつものことと言えばいつものことだ。自分の言動をきちんと振り返り、是非を求め、必要とあれば素直に頭を下げられるのがこの娘の美徳。悪い気分ではないし、まあ良しとしよう。
「わたしは何にも気にしてないよ。だから謝らないで」
笑顔でアリサの頭を撫でるロザ。口調も、表情も、柔らかな髪に手を這わすその仕草も、全てが慈愛に満ちている。悪くない光景だが、どうにも釈然としないものを感じる。言うまでもなく、先刻見たあの表情のせいだ。
「俺もロザもな、特に見たいのがないんだ」
妄念を振り払い、明るい口調を心掛けて俺は言う。
「だから、お前の見たい奴でいい。アリサは何が見たい?」
少女の背に軽く手を当て、作品一覧の前まで一緒に歩く。じゃあこれ、と何だか高尚そうな純愛作品を指差した少女は、つと顔を上げて俺を見つめ、小さな声で言う。
「アンタさ、何だかんだで優しいよねいっつも」
僅かに頰を染め、しかし視線は珍しく逸らさぬまま。少し驚き、言葉を返せないでいると、
「でももてないよね。彼女いないし。可哀想」
などと、悲痛な声で余計な一言を付け足した。うるせえよと頭を小突き、見るものも決まったのでロザを呼んでチケットを購入。当然だが代金は俺持ちだ。
「少し時間が空いてるな」
選んだ作品の次回上映開始は1時間後。二人と相談し、モール内をぶらつくことにした。
3
「一般料金なんだな……」
俺を真ん中にして三人並んで歩きながら、誰にともなく呟く。アリスには具体的な年齢というものが設定されていない。予想してはいたものの、アリス二体のシアターの入場料は俺と同額だった。
「済みません先生」
俺の言葉に反応したロザが、細い眉を寄せ、申し訳なさそうに答える。
彼女は入場料を支払うに充分な金額を所持していたが、さすがにじゃあ払えとは言えない。俺にも大人としての体面がある。本人の申し出を断って俺が支払った。アリサに関しては論外で、所持金は僅か600円だった。まあ外出するとは知らずに工房へ来たのだから、それも止むなしだ。
広い通路を数分歩くと、左前方にトイショップが姿を現した。電子機器の類から人形、幼児向けの遊具など、様々な玩具が広範な売り場にディスプレイされているのが見える。ふと隣に目をやれば、アリサの視線が一直線にそれらの陳列棚に向けられている。どうやら興味を引かれたようだ。
「見たいんなら行って来い」
アリサの肩に手をやり、促す。少女は俺に向かって嬉しそうな笑みを見せると、そろそろとトイショップの中に入っていった。ロザと並んで、その後を追う。
「相変わらずお子様だな」
呟き、苦笑する。普段の行動や人格設定を鑑みるに、アリサは所謂玩具の類に関心を持つ程幼くはないはずだ。とはいえこういった店には、大人の俺をもどこかわくわくさせるような不思議な魅力がある。万事に対し好奇心旺盛で活動的なアリサの場合、そういった感覚を人並み以上に強く覚えるのだろう。
「お前も、適当にぶらついていいんだぞ」
あくまで俺の隣を歩こうとするロザに、そう告げる。遠慮なのか何なのか、先刻から1mも離れず、俺に追従している。
「ご迷惑でしょうか?」
アリサのように好きに時間を潰したいだろうとの考えから口にした言葉だった。しかし少女は少し困ったような表情で、俺にそう問うた。
「できれば、先生のお隣に」
そしてもう一度、ご迷惑でしょうかと遠慮がちに口にする。
「いや、それならそれで構わんさ」
答え、並んで陳列棚の森を縫い歩く。前方にはぬいぐるみ達の山。その一角に、灰色の珍妙な生き物が群れを成して陣取っている。例のコアラだ。
「ロザ」
俺に付き従いながらきょろきょろと周囲を見回している少女に、声を掛ける。右手で奇態な生物が巣くう一帯を指し示し、見ろと促した。視線を遣ったロザが笑みを浮かべる。
「ぬいぐるみですね。お好きなんですか、先生?」
「いや、そうじゃなくて」
思っていた反応と少し違った。研究室にまで必ず持ち込んでくる程好きなキャラクターなのだから、黄色い声の一つも上げるかと予想したのだが。
「コアラだよコアラ。お前の好きなぺちゃんこのヤツだ」
言えば、漸くと気付いたのだろうか。あ、と声をあげ、ぬいぐるみの群れに駆け寄った。乱雑に詰まれた山から今にも落ちてしまいそうになっていた一体を手に取り、少女は改めて微笑む。俺の方にコアラを向け、細い指でぬいぐるみの首を優しく捻って見せた。みょうちくりんなコアラが、ロザの手の中で媚びるように首を傾げる。
「可愛いですよね、ぺちゃんこあら。先生もこの子の魅力にとうとうお気付きになられました?」
ロザは心底といった様子の華やいだ笑顔を見せる。しかしどうしてだろう。柔らかなその笑みが、どこかとって付けたような物に映るのは。シアターの前で見た心を凍てつかせるようなあの表情を、俺が引きずってしまっているからだろうか。
「いや、気付いていない。多分これからも気付かない」
疑念めいた違和感を胸の底に押し込み、そう答える。ロザはコアラを山に戻しながら、小さく、残念ですと呟いた。肩を落とした様子が可愛らしい。
「あっ、ぺちゃんこあらだっ」
唐突に背後から、甲高い声が大音量で響く。アリサだ。振り向かずとも分かる。というか声がでかすぎる。
「ロザの持っているぬいぐるみは、オーナーに買ってもらったものなのか?」
「いや、振り向けよ」
闖入者を無視しロザに問いかけると、背を強く叩かれた。乾いた音が周囲に飛散する。
「何だよ」
渋々背後に目を向けると、なにやら白けた顔のアリサ。相変わらず表情の豊かなことだ。
「お前も好きなんだよな?」
それがデザインされたポーチを愛用しているくらいなのだから、やはりファンなのだろう。ロザといいアリサといい、よくよくと機械に好まれるコアラだ。
「うんうん。好き」
少女は大きな瞳を輝かせて答える。俺はロザが陳列棚に戻したばかりのコアラを再度手に取り、アリサに差し出す。丁寧にそれを受け取ると、少女は嬉しそうにコアラを撫で擦り始めた。
「可愛いよねー。ぺちゃんこあら」
満面の笑みを浮かべ、小さな手にコアラを弄びながらアリサは言う。その様を目にし、俺がロザに先刻期待したのはこの反応なのだと、改めて考える。
「買おうよっ」
一通りコアラを愛でたアリサが、握ったコアラを俺に突き出しながら唐突にそう言った。何と言うかこの遠慮の無さがすごい。俺に買えという意味なのだろうが、であればせめて買ってくれと言って欲しい。何を思っての提案口調なのかが僅か程も分からない。
「お前がお前の物を買うのに、俺の許可はいらないぞ」
分かってはいるが、そう言ってみる。少女は短くうめき声のようなものを上げた後、ちらりとぬいぐるみについた値札を覗き見る。馬鹿みたい分かり易く表情が曇った。まあ、600円の所持金では足りないだろうとは思う。
「噓だよ。そのぬいぐるみでいいのか?」
言えば、少女は一瞬呆けた様を見せる。その直後、奇跡にでも遭遇したかのように表情が華やいだ。
「買ってくれるのっ?」
勝手に玩具の類を買ってやって、オーナーの元村が気を悪くしないか懸念しないでもない。俺の感覚だが、これは散歩に出た愛猫を他人が勝手に家に招きいれ、豪勢なエサをやったようなものではないだろうか。とはいえ映画の代金はもう支払ってやってしまっているし、口にしてしまった以上今更取り消すわけにもいかない。
「元村さんには、そうだな。駅前で配っていたとでも言っておけ」
「うん、あの……」
いつものように頰を染め、少女は俯く。桜色の唇が小さく、ありがとうと、そう動いたように見えた。苦笑し、ロザに向き直る。
「ロザ、お前も選べ。どれがいい?」
アリサ一人にだけ買ってやるわけにはいかない。軽く人形の山を手で示し、問いかけた。アリサ程の反応は期待できなさそうだが、まあ喜んではくれるだろう。そう思った。
「いりません」
表情を僅かに歪め、辛そうに、苦しそうに。冷たさまでもを感じさせる声色で、ロザは言った。何か醜悪な物でも見せられたかのような物言いに驚いたのだろう。俯いていたアリサがびくりと顔を上げる。
「先生わたし、ちょっと一人で、ぶらついてきます」
「おいロザっ……」
俺の視線から身を隠すように、ロザは陳列棚の向こうに去っていく。視界の隅で捉えたアリサの脅えたような表情が、いやに胸を抉った。
4
「わたしが、怒らせちゃったのかな……?」
先刻の笑顔から一転、不安げに眉を寄せたアリサが震えた声で呟く。両手で握り締めたコアラを小さな胸に当て、ロザの消えた方向を一心に見つめている。大きな瞳は揺らぎ、今にも泣き出しそうな風情だ。
「そんなことはないだろう。お前は気にするな」
答えて、俺はアリサの前にしゃがみ込む。優しく語りかけた。
「ぬいぐるみ、後でちゃんと買ってやるから。ちょっとここで待っててくれるか?」
自分のせいかと不安がる少女も不憫だが、ロザを放っておくわけにはいかない。彼女は現在進行形で調律している、クライアントからの大切な預かり物だ。アリサが頷くのを確認すると、ロザの後を追う。
周囲を忙しく見回しながらトイショップ内を徘徊し、数十秒。少女は直ぐに見つかった。広範な売り場の隅、需要の低そうな商品群がやや乱雑に陳列された人気のない場所で、壁に寄りかかって俯いている。ぶらついてくるは建前。俺達から離れたかっただけのようだ。
「ロザ」
声を掛け、顔を上げた少女にゆっくりと歩み寄る。刹那瞼を閉じたロザは、諦めたように頭を緩く振り、そして口を開いた。
「申し訳ありませんでした、先生。わたし最悪ですね……」
先刻とは打って変わり、沈痛な、憐憫の情を強烈に誘う面差しで、少女は謝罪の言葉を発する。
「構わんさ。何か不快なことがあったんだろう?」
俺が考えているよりも、ロザは感情の起伏の激しいアリスなのかもしれない。それは言動の勢いに山谷のあるアリサとは少し違う、どちらかというと不安定な印象を受ける性質だ。ただ、これまでの調律過程で把握した人格プログラムの仕様からは、そうした特徴は見受けられなかった。その点がやや気にはなる。俺が見逃しているのだろうか。
「何がお前に嫌な気持ちを抱かせてしまったのか、未だに分かっていなくて申し訳ないが、良かったら教えてくれないか。向こうでおろおろしてる奴もいることだしな」
親指で背後を指し、できるだけ柔らかにそう告げる。俺とロザの立っている場所からアリサの姿は見えないが、想像するに、不安に駆られながらうろうろとぬいぐるみ売り場近辺を歩き回っているのではないか。
「どうした?」
謝罪を口にして以降、押し黙ったままの少女の顔を覗き込むようにして、俺は尋ねる。たっぷり数秒の沈黙の後、少女は小さな唇を漸くと動かし始めた。
「怒らないで、聞いて頂きたいのですけれど……」
そう前置きしてから、ぽつぽつと話し始める。どうにも恥ずかしいようで、頰が僅かに染まっている。
「アリサちゃんは何にも悪くなくて、ただのわたしの我儘なのですけれど、わたし本当は、先生と二人で来たかったんです。だから先生がアリサちゃんに優しくされているのを見て、面白くなくて……」
「ふむ、成る程」
俺は顎に手を当て、少し考える。断りの返事を無視して突然俺の工房に押しかけてきたアリサが全く悪くないかどうかは別として、要は嫉妬ということなのだろうか。ロザの言葉は、そのように受け取れる。だが率直に言って、違和感を覚える。
先刻の態度や、シアター前でアリサに向けていた視線が純粋に嫉妬からくるものなのだとしたら、幾らなんでも辛辣に過ぎないだろうか。アリサは悪くないと少女は言うが、そう認識しているのだとしたら、乱暴に過ぎる行動とは言えぬだろうか。無論、アリスの挙動としての話だ。
加えてもう一つ。先日俺は、ロザの自身の対する印象値をオーナーレベルまで上昇させた。とはいえ、俺とロザの関係性は、あくまで調律師とアリスというものに過ぎない。主従の間柄でもない以上、嫉妬などという感情が芽生えること自体、腑に落ちない。
「話してくれてありがとう。事情は分かった」
この状況で、俺があまり沈黙しているわけにもいかない。考えは纏まらぬが、兎角そう告げ、ロザに微笑みかけた。
「2、3日中に、改めて二人で出かける機会を作ろう。だから今日のところは我慢してくれないか」
正直なところ、そう何度も何度も遊びに出てなどいられない。ロザが俺の工房にいるのはあくまでも調律を受けるためであり、くだらぬ色恋に戯れるためではない。だがこうとでも言わねば、円満にしこりを残すことなくこの場を収めることは出来ない、そう感じた。
「改めて二人で……。よろしいのですか?」
場当たり的な俺の発言を受け、視線を伏せたままの少女は問うた。沈痛な表情からはどこか葛藤めいたものが見て取れる。俺の作業の邪魔となるのが明白であるが故、素直に頷くことに抵抗があるのだろう。引き出した提案に乗るべきか、礼を言って断り、先刻の謝罪が本心からのものであることを証明するべきか。
「我儘は、もう二度と言いません」
惑いがちに視線を揺らしながらロザはそう前置いて、ですからと、こう続けた。
「二人きりでお出かけする機会、一度だけ欲しいです……」
強い痛みを堪えるかのように細められた瞳から感じる悲痛な想い。俺に軽蔑の念を抱かせることを恐れているように見える。それでもなお、少女には通したい想いがあるようだ。
「わかった。それじゃ、今は機嫌を直してくれるな?」
ロザの先刻からの言動は、総じて納得感に欠けるものだ。とはいえそれは諸般の事情を鑑みた上での感想であり、少女の発言そのものに筋の通らぬ箇所は無い。疑念は一度胸の奥に封じ込め、俺は笑顔を作った。
「勿論です、先生。ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」
向けられた笑顔に安堵したのか、少女は僅かに表情を緩め、再度謝罪の言葉を口にした。
「いいさ。それじゃ戻ろうか」
言って、小さな肩を抱く。こちらを見上げたロザの弱々しくも嬉しそうな表情に胸を撫で下ろし、連れ立って先刻の人形売り場に戻った。
「あ……」
人形を胸に抱いたまま、所在無く立ち尽くしていたアリサがこちらに気付き、少し怯えたような視線を送ってくる。
少女は先刻のロザの態度を自身に対しての怒りの発露ではないかと疑っていた。故に不安があるのだろう。やはり自分は何か、ロザの怒りを買うようなことをしてしまったのだろうか。そうだとして、ロザはまだ怒っているだろうか。自分から謝ったほうがよいだろうか。万一口論にでもなったら、朝倉冬治は助けてくれるだろうか。
ころころとよく色を変えるアリサの大きな瞳からは、様々な思いが脳内を錯綜しているのが見て取れる。脳など無いが。
「待たせたな、アリサ」
言って、隣に立つロザの背をさりげなく押しやる。一言謝っておけと、柔らかなダウンに沈み込む指先で、そう告げた。
「アリサちゃん、あの、ごめんね……」
果たして少女は、俺の意を汲み取ってくれたようだ。アリサに負けず劣らずおどおどとした様子で、小さな唇から言葉を紡ぐ。
「わたしちょっと、自分でも良くわからないのだけど、苛々してて。アリサちゃんも先生も、何にも悪くなくて。だからその、嫌な思いさせて、ごめんなさい」
要領を得ない、たどたどしい物言いではある。原因の判然としない苛立ちというのも、人格プログラムの実装次第では再現可能な現象とはいえ、アリスとしては不自然な挙動に相違ない。
肩を落として謝罪の言葉を口にするロザの姿を、アリサはどう捉えたか。発言内容を鵜吞みにする程に餓鬼ではあるまい。だが、気にしないでと、笑顔でそう言えぬ程に幼稚でもあるまい。
「気にしないで」
瞳を細め、アリサは笑う。俺には意地でも見せぬであろう飛び切りの笑顔で、頭を垂れる少女を許す。中々に悪くない絵面だ。僅かに弛緩した空気が、人形売り場に満ちていく。
「よし、それじゃこの話は終わりだ」
兎角話が纏まったことに胸を撫で下ろし、俺は二人の眼前で大きく手を鳴らした。
「ぬいぐるみ、それでいいんだったよな。ロザはどうする?」
二体のアリスに順に目をやり、それぞれの意思を確認。一人は元気よく頷き、もう一人はゆるゆると首を振り、正反対の反応を示す。ロザはやはり、人形はいらぬようだ。先刻と返事は変わらねど、表情は違う。では人形ではなく別のものを、と一瞬考えもしたが、少女の様子を見るに、恐らくそういうことではないのだろう。片方にのみ物を買ってやるのは気が引けるが、それが双方の意思ならば仕方ない。
一人我儘を押し通した形になり気まずそうにするアリサに軽く笑いかけると、俺はその小さな手からコアラをそっと抜き取った。三人連れ立ってレジに向かい、精算を済ませる。
「ほら、大事にしろよ」
トイショップのロゴが入った簡素な手提げ袋を渡してやると、アリサははにかみ、もう一度小さく、ありがとうと呟いた。愛らしいその表情に、鬱とした気分が僅かに和らぐ。小さな肩から斜めに提げられたポーチに一匹。左手の手提げ袋の中に一匹。コアラまみれになった少女の気分は大層良いらしく、今にも鼻歌でも歌いだしそうな体だ。
「さて、そろそろ時間かな」
タブレットを取り出し時刻を確認。チケットを購入した映画の上映時刻まではあと20分程。そろそろシアターに戻るのが良いかもしれない。
「戻りますか? 先生」
俺の顔を真っ直ぐに見つめ、ロザが言う。約束通り、しっかり機嫌は直してくれたらしい。表情は晴れやかだ。
「そうしよう。アリサもいいか?」
「うん、勿論」
浮ついた心持がそうさせるのだろう。やや過剰な動作で頷いて見せた少女に軽く笑みを返し、トイショップを離れる。足取り軽く前を行くアリサの背を見ながら、隣を歩くロザの頭をそっと一撫で。恥ずかしそうな上目遣いと共に返された笑みに、どこか儚げな哀情を見た、そんな気がした。
5
恋とは何か。人を好きになるとは、どういった現象なのか。それは精神世界に於ける各事象地位の変動であり、本来有り得べからざるパラダイムシフトなのだ。世界構造そのものの変容に他ならぬのだ。何と恐ろしい。嗚呼、何と恐ろしい。
映画は終始この調子だった。シアターを出、アリス二体と連れ立ってモール内を闊歩しながら、鑑賞する作品の選択を誤ったことを後悔する。
つまらなそうな表情で、しかしスクリーンからは目を離さぬロザと、途中で完全に鑑賞を放棄しコアラで遊び始めたアリサの間に座って2時間。得たものは背と尻の痛みのみだ。あくびを嚙み締め耐え抜いた2時間は、俺の体力を想定外に奪ってくれた。
「つまんなかったねっ」
何が楽しいのか妙な笑顔で、しかしはっきりとアリサが言う。作品を選んだのはこの娘でなかったろうか。責める気はないが、笑顔で否定的な意見を言われると納得のいかない心持だ。
「ロザはちゃんと見てたな。理解できたか?」
表情こそ冴えなかったが、ロザは最後まで鑑賞を諦めはしなかった。途中何度か頷くような素振りを見せてもいた気がする。
「難解な作品ではありましたけど、納得のできる箇所もありました。良い映画だったと思います」
紫黒色の髪の少女は、まあ想定通りの優等生回答。どこまで本心かは知らないが、楽しんでくれたのなら何よりだ。
「それじゃ……」
飯でも食っていくか、と言いかけ、口をつぐむ。共にいるのはアリス達だ。レストランなりに入るにしても、食べるのは俺だけになる。少し迷いつつも眼前の二体に尋ねれば、問題ないとの答えを得た。
アリスと連れ立って手近な洋食屋に入り、出てきたウェイトレスに四人がけの席へ案内される。俺の隣にアリサ、真向かいにロザ。ややあって注文をとりにきた若年の女性に、ハンバーグセットをオーダー。アリサとロザの注文もとろうとしたところを見ると、うら若いウェイトレスは、二人がアリスであることには気付かなかったらしい。
やや硬い感触の椅子に腰を下ろして一息。何の気無しに店内を見渡し、驚いた。見知った顔がある。
「孝一」
斜め向かいの席に、俺が注文したものと同じハンバーグセットにフォークを伸ばす大柄のシルエット。1週間前にそのアトリエを訪ねたばかりの友人が、一人で飯を食っている。
「朝倉か。偶然だな」
毛むくじゃらの顔を上げ、孝一は低い声を響かせる。人のことを言えたものではないが、一人で外食とは寂しい奴だ。手招きすると、友人は通りがかったウェイターに一声掛け、立ち上がった。大きな体を揺らしながら、こちらのテーブルの空いた席に移動してくる。直ぐに食べ途中の皿が複数、ウェイターの手で運ばれてきた。
「お久しぶりです、日比野先生」
腰掛けた孝一へ、すかさず飛ぶ猫なで声。ワンピース姿の狸は今日も平常運転だ。笑顔で応じる孝一に、ロザを紹介する。美優と違い、こちらはロザの容姿に反応を示さないが、まあそれが普通だろう。美優の記憶力が異常なのだ。
「アリス二体とショッピングデートか。豪勢なことだな」
言って、孝一は豪快に笑う。夫婦揃って似たような感想だ。
「美優ちゃんは? 一緒じゃないのか」
友人がショッピングモールへ一人で来、一人で食事をしている光景に違和感を覚える。はっきりと言ってしまえば、似合わない。果たして孝一は、首を振って見せた。
「あいつは下で買い物中だ。ダイエット中だから、飯はいらんらしい」
下、というのは、先日彼女に遭遇したフードストアのことだろうか。しかし、だからといって一人で食事とは。この夫婦の関係性もよく分からない。日常的にそんな風には全く見えないが、不仲を疑ってしまいそうだ。
「ダイエットねぇ。充分細いと思うけどな」
美優は確か、孝一より二つか三つ年下だったはず。であればぎりぎり20代だ。健康上必要な以上の細さを好むのは、若い女性の常なのかもしれない。
「ところで浦田君はどうだ? お前のところで雇うことにしたんだろう」
ふと思い出し、キリカのオーナーとなった青年について尋ねる。キリカのことも分かるのなら聞いておきたい。昼食の際、ロザも気にしていたことだ。
「昨日から来てるよ。アリスが手に入ったのが嬉しいんだろうな。妙に元気がいい」
「そりゃ重畳だ。キリカについては、何か聞いてるか?」
様子を知りたいのは、専らオーナーの青年より、その所有物のアリスの方だ。共に面識がある故に気になって仕方がないのだろう。ロザとアリサも、黙って孝一の発言を待っている。
「どうすればアリスに喜んでもらえるか、自分のことをもっと好きになってもらえるか、彼にしつこく訊かれたよ。分かっていたことではあるが、ベタ惚れだな、ありゃ」
安心したのか、視界の隅でロザが小さく笑みを零す。どうやらキリカが新しいオーナーと上手くやれているのは間違いないようだ。
「ありがとうな、孝一」
浦田青年が捻出すべき費用の一部は、孝一が立て替えたと聞いている。キリカは元より俺の所有物でも何でもない。とすれば礼を述べる義理もないが、まあ口にして減るものでもない。それに、気分も悪くない。
「来たぞ、食えよ」
ウェイトレスが盆を持ってやって来る。それを親指で指し示し、髭面の友人は視線を逸らした。顔に似合わずシャイな男だ。
「照れんなよ、似合わねえぞ」
「照れてないっ」
どういう理由か嬉しそうに目を合わせる二体のアリスを視界の両端に納め、俺は湯気を立てるハンバーグにナイフを伸ばす。
孝一に会えたのは僥倖だった。新たに生まれた懸念もあれど、ショッピングモールへの外出は、結果的には悪くない気分転換になった。そう思えた。
6
工房に戻ったのは、19時を回った頃だった。途中、アリサを自宅近くまで送り届けていたこともあり、予定より幾分遅い帰宅となった。
羽織っていたトラッカージャケットと、ロザのダウンベストを居間のクローゼットに仕舞い込み、いつものソファに腰掛けて息をつく。甲斐甲斐しく珈琲を運んできてくれたロザの手つきは、さすがにもう慣れたものだ。一瞬、彼女が自身所有のアリスであるかのような錯覚にさえ捕らわれそうになる。
「先生、お昼のお話ですけど……」
いつものようにテーブル前に屹立したロザが、遠慮がちに口を開く。右手には持参のタブレット。ミニバンの後部座席で何やら弄り回していたが、現在の様子を見るに、何がしかの調べ物だったようだ。
「出かけようって話か?」
詰問調にならぬ様、穏やかな声色を心がけてそう返す。果たして彼女は、惑いがちに頷いて見せた。
「先生とお出かけしたいなって思うところが、実はあって、それで、先生さえよろしければ、そこに行けないかなって……」
「成る程。で、その行きたい場所ってのは?」
たどたどしい様子で望みを述べようとしていた少女は、その問いかけに一度口をつぐむ。自身の口にしていることが所謂我儘の類であると、十二分に認識しているためか。アリサと違って、ロザは元来自己主張の強いタイプのアリスではないはずだ。率直に願い、請うことを得意とはしていないのだろう。
「ここから車で10分程行ったところに、神社があるのはご存知ですか?」
「いくつかあると思うが……」
大きいところだと、鵬村神社か。日本武尊を主祭神とした神社で、工房からショッピングモールとは逆方向に車を10分程走らせた辺りに立地している。
「おおとりむら、と読むのですね。実は読みが分からなかったのですが、その神社です。そこで来月の2日と3日に……」
心臓が、とくりと跳ね上がった。再度言葉を切ったロザの端整な顔立ちを、じっと見つめる。遠慮と後ろめたさに揺らいでいた瞳のダークブラウンは、いつしかその深きを増し、対する者の心根を見透かすように、俺の顔に向けられている。
「ロザ……」
続く言葉は何か。いや、大体に想像はついている。上社でこの時期に行われるイベントなど、そう多くは無い。ただ何がしかの祈願に行くというのならば、2日間に亘る日時の指定が不可解だ。
可憐な桃色の唇が残る言葉を紡ぐのを押し止めるかのように、無意識に少女の名を呼び、その無為な行為を自嘲する。分かっているのだロザ。お前が何を言おうとしているのかは、分かっているのだ。だが言ってくれるな、続けてくれるな。
「先生、怖い顔をしていらっしゃいますよ」
言われ、はっとする。目の前にロザの穏やかな笑顔。俺はいつの間にか目を閉じていたらしい。その間に、歩みを進めていたのだろう。テーブル向こうに屹立していたはずのロザは、ソファに腰掛ける俺の足先から半歩程の距離に今立っている。
「何を、思い出しておられたんです?」
仄々とした、柔らかな笑みが、放たれる印象にそぐわぬ不可思議な威圧感を伴って眼前に迫る。優しげな、慈愛に満ちた微笑であるのに、どうして。どうしてこんなにも、不安を搔きたてられるのだろう。
「行きたいのは祭りか? ロザ」
少女の質問には答えず、結論を問うた。ロザは嬉しそうに笑んで、ゆっくりと顎を引く。
「はい先生。来月の2日と3日、鵬村神社で縁日が行われるんです。土日ですよ」
「土日かどうかは、俺達には関係ないだろう」
問い詰めるような、荒い口調になった。数分前の気遣いは水泡に帰したが、それも止む無し。ざわめく心中に促されるまま言葉を紡ぐが、今の俺に出来る全てだ。
「そうですね。関係ありません、先生」
投げつけられた乱暴な言葉も意に介さず、微笑を絶やさぬ少女。何だこれは。今目の前で起きているこれは、目の前に広がる光景は、一体何なのだ。
「お祭りがあるの。再来月のね、6日と7日。土日だよっ」
同じ声色で、同じ笑みを浮かべ、俺にそう言った幼馴染の姿が、目の前の機巧人形に重なっては消える。どうしてだ。どうして同じ姿で、同じ眼差しで、似たような言葉を放つのだ。この得体の知れぬ不快感、この胸の奥の痛痒感、何の責め苦だ。俺が何をした。ロザに、あきらに、一体何をした。
背筋を冷たい雫が伝う。項垂れ額に手をやれば、じっとりと汗ばんでいるのが分かる。
眼前に展開される情景の正体も、不快感の理由も、皆目見当がつかない。だが俺は確かに、流れゆくこの時間を痛苦と感じている。目を閉じる。落ち着け、落ち着くんだと、何度も自身に言い聞かせる。ロザとあきらの容貌の酷似は偶然。行きたいと願う先が共通したのも偶然。願望を表す言葉が似通ったのも、偶然に過ぎない。
「先生……」
言葉と共に、熱を持った頰に冷たい感触。瞼を開けば、ロザの白い手が伸び、優しくそこに触れている。
「ごめんなさい、先生」
少女の顔に、既に笑みはない。それどころか、その表情は悲愴感に満ちてすらいる。肩を落とし、大きな瞳を細め、苦しそうに俺を見つめている。
「何故謝る?」
分からない。少女の言動が、俺にとって腹立たしいものだったのは事実だ。だが、それだけのこと。謝らねばならぬことなど、ロザは何一つしてはいない。
「わかりません。でも、先生を悲しませてしまいました」
消え入りそうな声で、ロザは言う。俺は頭を振って、自身の頰から離れた少女の手を、握り締めた。立ち上がり、しかし彼女の顔は見ずに、告げる。
「祭りの件は了解した。約束したからな、必ず行こう」
ふらつきそうになる身体を押して、居間の出入り口へ。背後から少女の言葉が、どちらへ、と遠慮がちな声色で、そっと投げかけられる。
「作業のつづきだ。いつまでも遊んでいる訳にはいかないからな」
廊下を渡り、研究室の戸を開く。冷たいプレジデントチェアに腰を落とし、天を仰ぐ。三度目を閉じ、大きく息を吐く。
鬱とした気分に苛まれながら、俺は確信していた。ロザは先の行動を、何がしかの意図を持って故意に選択したのだと。全てを偶然で片付ける愚考は、捨て去るが正しいのだと。
7
10月1日。ロザが工房を訪れた日を1日目と数え、7日目の朝。トーストとハムエッグのシンプルな朝食を前に、俺は沈思黙考していた。
昨日は終日、頭に纏わりつく何かを振り払うかのように、研究室での調律作業に没頭した。甲斐あって予定に比した作業の進捗は既に2日の前倒し。日数に余裕が出来、また時間の経過で心に平静が戻ったことで、懸念事項に落ち着いて向き合えるようになった。視界の隅ではいつものように屹立したロザが、小首を傾げてこちらを見つめている。
8750。現在ロザのプロパティファイル内に格納されているはずの、俺に対する印象値だ。数値の変更から日が経っている為幾らかの変動は起こっているかもしれないが、経験則から言って、せいぜいが±100程度だろう。
オーナーである田宮とほぼ同値にまで引き上げられたそれは、アリスが他人に対し設定する印象値としては極めて高い部類に入る。人が人に対して抱く愛情や好意の類を数値化することはできないが、この数値を仮にそういったものに喩えるならば、交際初期のカップルといったところだろうか。俺の感覚にすぎないが。
では、それ程に高い印象値を設定した相手に対し選択される動作として、一昨日のロザの行為は適当だろうか。
彼女の放つ言葉に、どこか脅迫めいた雰囲気さえ纏う笑みに、俺は気圧され、戸惑った。
明確な拒否の言葉を吐いたわけではない。恐怖心を少女に対し露にしたわけでもない。だがそれでも、俺の心情を彼女は感じ取っていたはずだ。最終的に謝罪の言葉を口にしたとはいえ、あの時のロザの瞳には、そんな俺の無様を楽しんでいるような色さえ浮かんでいた。アリスの正常な挙動として、そんなことがあり得るだろうか。好感を持ち、高い印象値を設定した相手に対し、人に従順たることを活動方針の基本ベクトルに設定されたアリスが嗜虐的な行動をとるなど、本当にあり得るのだろうか。
「先生、朝食はお口に合いませんでしたでしょうか?」
唐突に発せられた言葉に思考を破られる。一向に進まぬ食事に不安を覚えたのだろう。発言の主たる少女を見れば、ただでさえ小さな身体を、可哀想なくらいに縮こまらせている。
「そんなことはないさ。ちょっと考え事をしていてな」
「考え事、ですか。お仕事のことでしょうか?」
細く形の良い眉を寄せ、上目遣いの少女は遠慮がちに質問を重ねる。今の台詞は、考え事の内容をわたしが聞いても良いものでしょうか、とでも読み替えてやるのが適切か。どう答えたものか少し悩み、やがて思い至る。
得心のいかぬロザの言動を説明するに足る現実的な事由として、印象値の低下は考えられないだろうか。プロパティファイルへのアクセスから数日、特段に大きな事件があったわけでもない以上、大幅な値の昇降はそれだけでバグの疑いを生む。しかし一方で、先の疑念に対する説明はつかぬことも無くなる。ここらで再確認してみるのも悪くないかもしれない。
「ロザ、訊きたいことがある。今現在の、俺に対する印象値はいくつになっている?」
「えっ……」
質問が意表をついていたのか、少女は一度驚いたようにぱちくりと瞳を瞬かせ、それからゆっくりと、白い指先で頰を搔いた。
「お答えしないと、いけませんか?」
「無理にとは言わないが、できることなら」
人格プログラムで特殊なロジックが組まれてでもいない限り、アリスは自身のプロパティファイル内に格納された数値を把握することができる。
アリス単体で可能なのは参照に限られており、強制的な改変を行うためには、俺が調律開始時に行ったような手順を踏む必要がある。話題に出した印象値など、リアルタイムに変動する一部の数値については個体依存のロジックを経由して都度修正が行われるが、これは言わば無意識の挙動であり、アリスが自らの意思で数値を指定して改変しているわけではない。
「どうした?」
ロザがいつまでも口を噤んだままなので、そう尋ね回答を促す。ややあって、少女は口を開いた。
「先生もご存知の通り、印象値は好意の度合いを表す数値です。他の方に対するものなら良いのですけれど、先生に対する印象値を、先生ご本人にお伝えするのは、やっぱり……」
「恥ずかしいか?」
切られた台詞を引き取ってそう問えば、ロザはこくりと頷いてみせる。想定内の反応ではあるが、いまいちピンとこない。
数日前、印象値の引き上げ処理を行った際、ロザはプロパティファイル内の数値を一通り俺に覗き見られている。それを考えれば、今更といった気がしないでもない。
「調律に必要な情報なんだがなぁ……」
対するはアリスとはいえ、無理やりに答えさせるのは趣味ではない。笑顔を作ろうと努め、言いながら強引に口角を吊り上げる。自分では確認できないが、もしかしたら不気味な顔になっていたかもしれない。案の定というか、直ぐに胸を抉るような台詞が返ってきた。
「先生、怒っていらっしゃいます?」
「いや、逆だ。笑っているつもりだった」
洗面所へ行きたい衝動に駆られる。表情は相当に酷いものだったようだ。
「で、どうしても言いたくないか?」
まあ、それならそれでも構わない。何も言わずとも、夜になればロザはスリープダウンする。寝る場所は研究室のベッドと決まっているから、プロパティファイルにアクセスしてしまえばいい。行儀は悪いが。
「あの、8767です……」
少ししてポツリと、少女が呟く。唐突だ。観念したのか、調律対象のアリスとしての義務感に従ったのか、はたまた俺の笑顔がそれ程までに怖かったのか。何でもいい。兎角数値は知れた。結論として、疑念の解消には至らず。余計なバグが発覚しなかったのは結構なことではあるが、目的を考えれば、遣り取りは徒労に終わったと言える。
「ありがとう。ついでと言っては何だが、もう1名分頼む。アリサに対する数値だ」
「アリサちゃん、ですか」
言ったきり、また沈黙。少女の反応はどうにもスローだ。
「アリサちゃんは、えっと、6240です」
「ふむ……」
頷き、もう一度ロザに礼を言って話を終える。それから急いで、ほぼ手付かずになっていたハムエッグに箸を伸ばした。調理者の悲しげな視線に耐えかね、一気に頰張る。不自然を自覚しながらも旨いぞと賞賛すれば、少女は一層表情を曇らせた。笑ってごまかすことにする。今度は上手くいったろうか。
咀嚼音だけが響く居間に、少女の漏らす吐息が一つ、色を成して浮かんだ気がした。
8
朝食の片づけをロザに任せ、研究室へ戻った。デスクの大型液晶に各種設計書を表示し、ソースコードと見比べながら調律作業の続きに取り掛かる。しかしどうにも駄目だ。集中できない。
先刻ロザが口にした二つの数値は、どちらも想定の範囲内のものだった。俺に対する印象値は、数日間で17の上昇。言ってみれば誤差の範囲だ。当人の発言を信じるのならば、印象値の低下は起こっていないことになる。プロパティファイルへの接続をいつ俺に求められるか分からない以上、つまらぬ噓もつかぬだろう。
では、アリサに対するものはどうだろう。こちらは妥当性を判断するための材料に乏しいが、初対面の状況から、半日を共に過ごした天真爛漫なアリスに対するものと考えれば、さして特異な印象は受けない。ロザがアリサにシアター前にて向けていた視線を一昨日の俺に対する発言と同種の行動と仮定し確認した数値であったが、結論としてはこちらも意味を成さなかった。
「どうしたものかな……」
何の気無しに取り出したオートマティックシールの銀筒を手の中で弄びながら、考える。ロザに対し生じた疑念をどのように処理すべきか、正直なところ判断がつかない。
ロザのオーナーは田宮晴彦。電話で一度話したきりの顔も知らぬ男性だ。名にも、無論聞き覚えは無い。彼がオーナーである以上、特段の事情がなければ、ロザを調律に出すことも、調律師に俺を選択することも、彼の意思により決定された事項ということになる。
ではロザのここでの言動についても同じことが言えるだろうか。少女の言動が事前にオーナーから出された指示に従ったものであるのならば、以下二つのファクトについて、是とすることができる。
一つ、田宮は、永峰あきらを知っている。二つ、田宮は、俺と永峰あきらの関係性を知っている。
とすれば、そこに介在する意思はどういったものだろう。少なくとも現時点では、敵意と言える程のものではあるまいが、何にせよ確認するのには難儀する。
電話し、永峰あきらを知っていますか、とでも問うてみようか。上手い手段とは言えないだろう。否定されれば終わりだし、肯定されたところでどうだというのだ。ロザさんが、永峰あきらを連想させるような行動をとったのですが、とでも伝えるというのか。それがどうかしたかと言われるのが関の山だ。
俺に対し明確な敵意を向けるなど、調律に差し支える行動を少女がとったのならば、厳正な対処を行う要に駆られるだろう。受領済みの調律料を返金し、作業の継続を拒否するのも選択肢だ。
逆に、少女の現在の人格や、それによって選択される言動に少々の問題が見られるという程度ならば、深くは考えず無視してしまうのが得策だろう。俺が彼女と共に過ごすのが僅か2週間に限られる以上、深く関わる意味はあまり無い。
だが実際のロザの言動は、そのどちらでもない。問題の二字を掲げて断じる程に性質の悪いものではなく、俺には関係の無いことと思考を放棄してしまうには奇異に過ぎる。
アリサに対し向けた凍えるような冷たい視線、不自然な嫉妬心。少年期を共に過ごした幼馴染である永峰あきらに酷似した容貌、望み、発言。彼女の存在は極めて不可解だ。
一昨日の夜、俺は一連の行動を受け、ロザが何かしらの意図を持ってあきらを連想させる行動をとったと、そう考えた。ではロザに、永峰あきらを知っているかと尋ねてみることに意味はあるだろうか。残念ながら、それによって得られる情報は無に等しいだろう。彼女は、永峰あきらを知らぬからだ。
掌の銀筒をデスクに転がし、液晶に指を滑らせる。表示が切り替わり、膨大なソース群が姿を現した。
英字、数字、カナ、漢字。多様な文字規格に彩られたそれは、ロザのプロパティファイル。調律開始時に取得したバックアップだ。続いて検索画面を呼び出し、幼馴染の名を入力。格納された人物情報全体に検索をかければ、直ぐにウインドウがポップアップ。ERROR。該当のテキストが存在しません。一昨日にも行った作業だ。
「参ったね、全く」
独り言ち、殆ど惰性でアリサの名を検索する。同様のエラーが表示され、一瞬驚くも、直にその理由を把握する。人格プログラムのバックアップを取得したのは調律作業の開始時。目の前にある人物情報が当時のものである以上、アリサの名があるはずも無い。ロザが小生意気な姫君と知り合ったのは一昨日のことだ。
プロパティファイルの表示を消去し、身体を振って腰掛けたプレジデントチェアをくるりと回す。ベッド上に鎮座するロザのコアラと目があった。
黒いビーズの瞳で俺の顔を覗き込まんとする珍妙な生き物。キャラクター元来のデザインが良いのか、人形の造詣が優れているのか。こうして見ると、中々に愛嬌のある顔をしている。
幼馴染に瓜二つのロザの笑顔が、脳裏に映し出される。少女は毎晩、この研究室のベッドでスリープしている。見たことはないが、コアラを抱えて眠っていたりするのだろうか。
「先生……」
ノックの音と共に、ドア向こうからロザの声。昼食には早すぎる。食事の準備ができたという以外の理由で、彼女が研究室を訪ねてくるのは珍しかった。
「お仕事中に申し訳ありません。ご相談がありまして」
「構わないさ。入って来い」
招き入れれば、少女は入り口でぺこりと頭を下げる。今日の彼女はクリーム色のシンプルなワンピース姿。スカート丈は短く、露出した白い足が艶めかしい。リノリウムの床にぺたぺたと足音を響かせ、俺から数歩の距離まで歩み寄った少女は言う。
「朝食の際に伝えそびれてしまったのですが、焙煎豆のストックがもうないのです先生。買いに行きたいのですが、よろしいでしょうか」
申し訳なさそうに眉を寄せてのロザの言葉に、そういえば少なくなっていたなと思い出す。ここ数日、自分で珈琲を淹れる機会がめっきり減っていたため、ストックが乏しいこともすっかり忘れていた。
10日程前、アリサが初めて夕食を準備してくれたあの時から、どうにも家事全般をアリスに頼るようになってしまっている。居候状態のキリカがいたことも大きい。いちいち外食に出ていたこれまでとは、大きく生活が変わってしまった。
「そうだな。それじゃ買いに出るか。一緒に行こう」
アリサにも一度注意したことがあったが、調律師として、調律対象のアリスを一人で外出させる訳にはいかない。可能性は極めて低いとはいえ、事故にあって腕が取れました、なんてことになったら弁償責任が発生する。
一人で行けますと驚いたように言う少女にその旨説明し、連れ立って研究室を出た。作業にも集中できずに困っていたところだ。丁度いい。集中できない原因をつくった奴と外出するのも妙な話だが。
「先生と二人でお買い物、初めてですね」
外へ出、工房のドアにカードキーを通したところで、笑顔の少女がそんなことを言う。言われてみれば確かにその通りだ。ショッピングモールには二度行ったが、一度目はキリカ、二度目はアリサが一緒だった。ついでに言えば、それぞれの外出で日比野夫妻の片方ずつにも遭遇している。
「直ぐそこまで行くだけだぞ」
そんな要素がどこにあるのかは不明だが、何かを期待されても困る。行き先は工房付近の喫茶店。主人の趣味なのだろうが、珈琲の種類が妙に豊富な店で、焙煎豆の販売も行っている。
「ほら、行くぞ」
裏路地を通り抜け、大通りへ。嬉しそうに隣を歩くロザの紫黒色の髪が、刹那頰を撫でた微風にふわりと舞い上がる。
少女の目的は、あるいは、この調律依頼をよこした田宮の意図は。いやが上にも思案に耽りそうになる自身を律しながら、足を進めた。
9
「ここ、カフェですよね」
木製の枠に曇りガラスはめ込んだレトロな入り口ドアの前。中央部に下げられた木札を見つめ、ロザが言う。
「ああ。ここでいつも買っててな。もう常連だ」
「成る程。先生は珈琲にはお詳しいですものね」
ドアを押し開き、ロザを引きつれ店内へ。平日の午前中にしては人がいる。狭い店内に整然と配置された20席程の椅子は、半分程度埋まっているように見えた。
「いらっしゃい」
入り口近くのレジカウンターで何やら作業していた主人が、俺達の入店に気付き声を掛けてくる。オールバックに撫で付けた銀髪に、口の周りを囲むように蓄えられたボリュームのある髭。目尻に刻まれた深いしわが見るものに優しげな印象を与える主人は、まさに好々爺といった体だ。
「今日はお連れさんがいらっしゃるんですね」
店内をもの珍しそうに見まわしていたロザを目に留め、笑顔を見せる主人。慌てたように頭を下げるロザを簡単に紹介し、カウンター越しに二言三言。
「今日はどうされます?」
「モカ・マタリをミディアムで400。それから、そうだな、ストロングを」
目的の焙煎豆と、座って焙煎を待つ間に飲む一杯をオーダー。ロザと共に、窓際のテーブル席につく。この店で使用している小型の焙煎器だと、一度に煎ることの出来る生豆は200グラム程度。400グラムの注文だと二度に分けて焙煎を行うため、30分程度は待つことになる。
何となく手持ち無沙汰になり、窓の外に目を向ける。スピードを落としたセダンが喫茶店前の狭い道を走り抜けて行くのを眺めていると、ロザに声を掛けられた。先刻の俺の注文の意味を理解しかねたらしく、モカ・マタリとは何か、ミディアムとは何かと、妙に真剣な眼差しでそう問われる。簡単に説明し、それから一つ息を吐いた。
「そんな事を確認してどうする? お前が工房にいるのはあと1週間程度だ。焙煎豆の種類なんぞ覚えたところで、ここへ買いに来ることはもうないぞ」
「それはそうかもしれませんが……」
寂しそうにも聞こえる口調で少女はそう言い、言葉を切る。この娘はいつも何かを考えながら、言葉を選んで喋る。思慮深いとでも言えば聞こえはいいが、消すに消せぬ疑念が俺の脳内にこびりついている現状では、胡散臭さを感じてしまう。
「先生の工房にお邪魔している間は、先生のお役に立ちたいですから。少しでも役立ちそうな情報は、得ておきたいのです」
「ふむ。成る程ね」
余り穿った見方ばかりしても仕方が無い。オーナーにこそ尽くすのがアリスだが、俺の工房にいる以上、田宮に何かしてやれるわけでもない。であればせめて近くにいる人間にと考えるのは、まあアリスとしてそう不自然な挙動でもないかもしれない。
丁度運ばれてきた珈琲に口をつけながら、暫し無言でその味と香りを楽しむ。ロザもそれ以上何か言うことはなく、テーブルを沈黙が支配する。
「いや、すげーんだって」
その声は背後から飛んできた。
声量の大きさに興味を引かれちらりと振り返って覗き見れば、若い男性が二人。年恰好を見るに、学生か何かだろうか。
その二人組みの片割れ、俺と背中合わせに座った一名が、何やら興奮したように勢い込んで話をしている。こちらは何の会話もしていないため、暇つぶしがてらその会話に耳を傾ける。何を想っているのか、ロザはぼんやりと窓の外を眺めている。
「人間の店だとさ、当たりハズレがどうしてもあるじゃん。高い金払ってハズレとかマジで勘弁してくれってなるじゃん。そういうのが全然無い。全員超美少女、てかアイドル。しかも何してもオッケー」
何の話をしているのかと、少し考える。人間の店と何かの店を対比している。人間と比較される何か。美少女。高額らしい代金。やがて気付き、呆れた。馬鹿馬鹿しい。風俗店の話だ。
「値段も人間のトコと変わらないし、マジで一回行ってみろって。お勧めだから。病気の心配もないしさ。何とか症候群とかさ、怖いじゃん」
彼らが話をしているのは、人間の従業員の代わりにアリスを使用した風俗店についてだろう。数は多くないが、そういった店舗が繁華街には一定数存在していると聞く。キリカのケースのような特殊なルートで入手したアリスを経営者をオーナーとすることで複数使役し、風俗店従業員として働かせるのだ。
羞恥心に欠ける青年が口にした何とか症候群は、恐らくボニファティウス症候群。近年発見されたウイルス性の疾病で、主には感染者との性的接触によって伝染する。
感染成立すると、半年前後の潜伏期間の後に発病。異常促進された代謝による高熱と、徐々に腐敗していく臓器が生み出す激痛が罹患者を苦しめる。確か年毎に数名程度、死亡者が出ているはずだ。
ボニファティウス症候群に限らず、最悪の場合死に至る性病の類は少数ながら存在するため、そうした危険性がないのも客にしてみれば魅力なのだろう。
高額商品のアリスが何体も必要となるため、店舗が負担するイニシャルコストはかなりの額になるだろうが、言ってみればそれは人件費を纏めて前払いするようなもの。人間の女性を従業員とする場合に比してランニングコストが格段に低く抑えられるため、商売としては成り立つのだと言う。
だが何にせよ、反吐の出るような話であることに変わりは無い。この手の話を公共の場で平然とできてしまう彼らの神経も、俺の理解の外だ。
「先生……」
唐突に、震えるような声。見れば、窓の外に広がる代わり映えのしない景色を眺めていたはずのロザが、俯き、肩を震わせるようにしている。
「どうした?」
尋ね、自身の愚かな問いかけに閉口する。ロザはアリスで、人格は女性。アリス達を使役しての性風俗の話題が心地よいはずがない。背後の青年の声量を鑑みるに、話はロザにも当然聞こえていただろう。切ないのか、寂しいのか、あるいは単に物悲しいのか。俺が気を遣ってやるべきだったかもしれない。
「済まない、席を移動しようか」
ソーサーと伝票をテーブルから取り上げ、そう声を掛ける。しかし固く目を瞑ったままの少女は、ゆるゆると首を振って見せた。そして震える声で、お聞きしてもよろしいですかと、そう呟く。頷いて続きを促せば、一瞬躊躇うようにした後、おずおずとした様子で口を開く。
「先生は、その、あちらの方が話されているようなお店に、行かれたことはあるのでしょうか」
「俺がか?」
少女は珍しく、随分と踏み込んだ問いかけをしてきた。別段に答えてやる義理もないが、回答を拒否すれば、それが少女の目にどう映るかは明らかだ。少し笑い、それからできるだけ優しく答えてやることにする。
「アリスを使った店にも、そうでない店にも、行ったことはないよ。俺は人見知りでね。初対面の女性と長時間密室で二人きりだなんて、背筋が凍るよ」
今のロザへの対応として正しかったかは不明だが、冗談めかし、そう口にする。行ったことがないのは本当だが、理由は少し違う。刹那的な快楽に高い金を払うのが、馬鹿馬鹿しいだけだ。
「本当ですか……?」
俺の言葉はどこまで信用してもらえたろうか。ロザは僅かに表情を緩め、それでもすがるような目付きで重ねて問うてくる。
「当たり前だろう。アリス相手の店になんて特に行けやしない。万が一俺がその手の店に入るところをクライアントに目撃されてみろ。あっという間に噂が広まって、誰も俺にアリスを預けてくれなくなる」
そうなれば商売あがったりだ。貯金を食いつぶした後は、友人への土下座とHIBINOでのアルバイト生活が待っている。回答に満足したのか、ロザは微笑み、良かったと一言。心底安堵したようなその表情に、俺もまた胸を撫で下ろす。
「済まなかったなロザ。座る席を間違えた」
背後の若者に、先刻からの俺の台詞はもしかしたら聞こえているのかもしれない。彼らに悪意がないことは分かっているため申し訳なくも思うが、不快と言うならこちらも同じ。公の場で堂々とする話ではないこと、理解してもらいたい。俺の言葉にロザは視線を伏せ、緩く首を振った。
「先生が謝られるようなことではありません。わたしの方こそ、失礼な質問をしてしまい、申し訳ありませんでした」
謝罪を返す少女の表情は穏やかなもの。その様を見、思う。アリスとして、女性として感ずる嫌悪感の他にも、ロザには何か、性風俗という商いに対し拒否感を抱く理由があるのかもしれない。否。それどころか、ともすれば少女自身が。
「馬鹿馬鹿しい……」
刹那浮かんだ愚考を言葉と共に振り払い、俺はカップに半分程残った珈琲を、一気に飲み干した。
Interlude.1
床を拭く。テーブルを拭く。灰皿を拭く。
見た目ばかりが流麗華美な、安物の装飾品に溢れた仄暗い小部屋。わたしは敷き詰められたモノトーンのタイルに膝をつき、這い蹲って雑巾を滑らせる。
今日は一日ここで過ごした。ただの一歩も外へは出なかった。出ようと思えば出られただろう。でも、出たところで意味なんて無い。楽しいことも嬉しいことも、そこにはきっとありはしない。出るも籠るも地獄なら、動かぬほうが幾らかマシだ。そうに決まってる。
湿った空気に満ちた正方形の部屋の隅。一層に深い闇を纏うその場所に、ちかちかと明滅する小さな赤い点。消臭器の稼動ランプだ。普段なら常時点灯しているはずなのに、今日はやたらと目に煩い。もしかしたら壊れてしまったのかもしれないと、そう思う。何年も取り替えられていない年季の入った一品だ。安物なのに、本来であればとうに寿命は尽きているはずなのに、随分と長い間働き続けてくれた。偉いね、良く頑張ったねと、声を掛けてあげたくなる。
わたしは立ち上がり、雑巾をテーブルにそっと置く。消臭器の対角、やや高い位置に設置された有線電話まで数歩足を進め、薄汚れた受話器を取り上げた。短いコール音の後、電話の向こうから、ぶっきらぼうな低い声が響く。消臭器の調子が悪いことを簡潔に伝え、握った受話器を丁寧に置いた。
客は三人だった。昨日は五人。一昨日は一人。年も、背格好も、身に纏う雰囲気も、まるで異なる男性達が、毎日わたしを抱きに来る。牢獄のようなこの部屋の中央で、戸が開くたび、わたしは三つ指ついて彼らを迎え、冗談みたいに薄っぺらい、このネグリジェを脱ぎ捨てる。出来る限りの笑顔で、出来る限り妖艶に、この身に指を滑らせる。
今日最後の客は、少しだけ優しかった。背の高さと、浅黒い肌が印象的な中年の男性。ほんの30分前までこの部屋にいた彼は、疲れているのかいと、そう問うてくれた。差し出した灰皿を、わたしが取り落としそうになったためだ。憐憫の情と、蔑みの心根が入り混じったような、物悲しい視線だった。
そんなことはありません。緩く首を振って、わたしはそう答えた。疲れることなどありません。そういう生理現象は、この身体には起こりません。向けられた視線から憐憫の情は消え、蔑みだけが残った。いや、少し違ったかもしれない。あれはもっと複雑な、そう、不気味なものを見るような、そんな視線だったようにも思う。
時計に視線を遣る。時刻は午前零時。部屋の掃除はあらかた終わった。明日の朝、店が再び開くまで、一人きりの時間を過ごすことができる。この牢獄を出、建物を出、10分程歩いた先にある、薄汚れた居室に戻るのだ。
再び受話器をとり、全ての作業が終わった旨を伝達する。ロッカーから服と鞄を取り出し、着替え、最後にコートを羽織る。廊下に出た。部屋の中と同じ、照明を落とした細い通路。ここの空気も淀んでいる。足を進め、店の入り口で受付の男に頭を下げ、蔑むような視線を背に浴びながら、建物を出た。
「雨……」
いつの間にか降り出していたらしい。濡れたアスファルト。傘を差す幾つかの人影。それらを仄かに照らす、弱々しい月明かり。朝、天気予報を確認しなかったことを後悔する。これでは居室に戻る頃には、すっかり濡れ鼠だ。
少し迷い、それからゆっくりと足を踏み出す。数歩も歩けば、髪の毛が、羽織ったコートが、雨粒を吸って重みを増す。ついていない。一瞬そう思い、少し笑う。何がついていないものか。わたしのような欠陥品には似合いの扱いではないか。濡れた髪が、頰に張り付いて煩わしい。毛先を内に向けた、紫黒色のセミロング。汚れきったこの身体の中で、唯一綺麗だと自信の持てるその髪さえも、今はわたしを苛もうとする。
「旦那様、見てくださいっ」
傘を差し、満面の笑みを浮かべる少女。とぼとぼと歩くわたしの横を元気に駆け抜け、一人の男性に駆け寄っていく。直ぐに分かる。彼女はアリスだ。小さな唇が発した旦那様という文言は、敬愛の情に満ちている。手に握った何かを、オーナーに見せているようだ。褒められ、頭を撫でられ、嬉しそうにしているのが見える。
俯き、視線を少女から外そうとして、いつしか自嘲的な笑みを浮かべている自分に気付く。そうなのだ。あれがアリスというもの。あれこそがアリスの正しい生き方。なのにわたしは、何をしているのだろう。
雨粒が勢いを増してきた。居室まではもう5分程掛かる。少し足を早め、また少し早め、やがては駆け出した。早く帰ろう。帰って、濡れたこの服を脱ぎ、やわらかなパジャマに着替えるのだ。ソファにでも座って寛げば、きっとひと時の安息が得られる。わたしだけの静かな時間を、過ごすことができる。それがたとえ、仮初めに過ぎなかったとしても。
夜が明ければ、わたしはまたあの牢獄へ戻る。深い闇の中で、一糸纏わぬ姿で、無様なダンスに明け暮れる。仕方が無い。それがわたしの、愛無きアリスの往く道なのだ。
そう。わたしはアリス。虚ろの国から抜け出せぬ、哀れな哀れな機巧人形。
闇に好まれ、光に謗られ、堕ち行くだけの性玩具。
ならばこの身が朽ちるまで、汚れた時に舞うてみよう。
無限の時の螺旋の中で、淫らな夢に抱かれよう。
わたしはアリス。
わたしはアリス。
歪の鎖に囚われた、愚かな愚かな、機巧人形。