アリス・エクス・マキナ

第二回

伊吹契 Illustration/大槍葦人

伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!

Chapter.2 邂逅

「ちょっとっ。触んないでよっ」

アリサを抱きしめようと伸ばした元村の腕を、小さな掌がしたたかに打ち付ける。既視感のある遣り取りが再現されている居間の隅で、俺は小さく溜息を漏らした。

「いかがです? 元村さん」

暴れるアリサを強引に抱きしめ満面の笑みを浮かべる中年男にやや閉口しながらも、俺はそう問いかけた。

相好そうごうを崩す元村は今にもアリサに口付けでもしようかという雰囲気であったが、俺の言葉にその存在を思い出したか、アリサをゆっくりと解放した。こちらに向き直り、やや表情を引き締める。初めて会った時同様、趣味の悪いスーツに身を包んでいる。

「素晴らしいですよ朝倉先生。いや、やはり先生にお願いして良かった」

元村は何かしら調律結果にケチをつけてくるのではないか。そう懸念し、孝一のアトリエで外面改修のサンプルを採るまでした。だが元村は今日ここへ来てから、心底喜ばしいといった態度でアリサに接している。俺の心配は、つまるところ杞憂きゆうに終わったらしかった。

「問題がなければ、こちらにサインを。後でコピーを送らせていただきます」

研究室から持ってきた小型端末に調律依頼書を表示し、電子ペンと共に差し出す。元村は笑顔でそれを受け取った。

「いやね、実は迷ったんですよ。大事なこの子の調律を、どこの工房にお任せするか。Physical Illusion社に問い合わせまでしてしまいましたよ。いやでもしかし、返す返すもここにお願いして良かった」

ペンを液晶に走らせながら、元村は言う。調律師として独立してから100体近いアリスを扱ったが、ここまで絶賛されるのは初めてかもしれない。

「アリス販売各社と我々調律師は、業務的に提携関係にはありません。問い合わせはカスタマーセンターに?」

「ええ。腕のいい調律師を教えてくれと言ったら、同じ説明をされてしまいました」

元村は気さくに笑う。俺はもしかしたらこの男を誤解していたのかもしれない。調律の説明を聞きに工房へ来た時は終始眉間にしわをつくっていたが、単にそれだけ真剣だったと言うことなのだろう。

「でもね、教えてくれましたよ。それでここへ」

「教えてくれた? Physical Illusion社のオペレーターが、私の工房を、ですか」

元村は頷くが、通常はあり得ないことのように思う。とはいえ俺は元々Physical Illusion社の人間だ。当時の同僚の中には、俺が今ここで調律師をやっていることを知っている者も幾らかいる。そのうちの誰かだろうか。

「はい先生、どうもお世話になりました」

サインの終わった端末を俺に返し、元村は軽く頭を下げる。同じように礼を返した後、そろそろ工房を辞そうかという元村に待ったをかけた。

「キリカ、メモリを」

俺の背後で黙って待機していたキリカにメモリカードを持ってこさせ、元村に手渡す。孝一の工房で作成してもらった外面改修のサンプルデータが格納されたものだ。本来の意図では不要になったが、とはいえ渡さなければ無駄になる。

「アトリエを利用されるとおっしゃっていたでしょう? この近くにあるHIBINOというアトリエで作成したサンプルデータです。参考にお持ちください」

「サンプルですか。いや、何から何まで、ありがとうございます」

再度頭を下げ、元村はアリサの手を引く。キリカと共に二人を玄関まで案内した。

「それじゃ元村さん、また何かありましたら、ご連絡下さい。アリサも元気でな」

玄関ドアを背に並んで立つ二人を、廊下から見送る。

「アリサちゃん、またね」

これはキリカ。アリサにむかって手を振ってみせる。

「では、我々はこれで」

ドアが開かれる。元村の言葉を最後に、二人は鉄扉てっぴの向こうへ消えた。全身を襲う脱力感。午後に新しいアリスが来るまでの短い時間だが、取り敢えず一息つけそうだ。

「アリサちゃん、一言も喋りませんでしたね」

並んで立つキリカがこちらを見上げ、そう言った。

「オーナーの前だからな、あいつもいろいろあるんだろう」

「本気で言ってます?」

俺の言葉に少女は微笑む。

「寂しいんですよ。先生と離れるのが」

「馬鹿言え。とっとと帰りたいって言ってたぜ」

居間に向かって歩き始めながら、そう返す。だが恐らくはキリカの言う通りなのだろう。アリサの顔は、寂寥感せきりょうかんに満ちているように見えた、ような気がする。心のどこかで、そうであってほしいと願う自分に気付き、苦笑する。

「キリカ。昼飯、頼んでいいか?」

まずは昼食。腹ごしらえを済ませたら、訪問者の登場まで、ゆっくり読書でもしよう。アリサはもういない。きっと静かに寛げるはずだ。キッチンへ向かったキリカの小さな背を見つめながら、俺はソファにゆっくりと腰を下ろした。

居間のソファに腰掛け、タブレットの液晶画面に指先で触れる。ホログラフィーで中空に投影された最新のニュース情報を眺めながら、黙々と時を過ごす。キリカは研究室でスリープダウン中。工房は静まり返っている。

どこぞの金持ちが、過去最高額となるアリスを購入したらしい。特別な改修を行わない通常のアリスは販売価格が各社固定されているので、当然出荷時にカスタムを行った個体ということになる。全身に宝飾品を纏った派手派手しい体軀を持つアリスで、価格は7200万円だそうだ。まあ、趣味は自由だと思う。

カスタムタイプのアリスは、通常のアリスとどう異なるのか。基本的に、大きくは変わらない。ただ、外貌や人格といった顧客が購入時に選択可能な項目に関して、ゼロからの生成が依頼可能となっている。数万に及ぶ選択肢の中から選ぶのではなく、購入者が望むものを、望む通りに作成できるわけだ。

購入時の一度のみに限り、販売元が工房とアトリエの作業を代行すると言えば、分かり易いかもしれない。Physical Illusion社の場合、価格は1450万円からで、上限は無し。盛り込むオリジナルの要素が些細なものであるならば、コモンタイプのアリスを購入してから、アトリエと工房を個別に利用したほうが安上がりな場合もある。

一つ息をつき、ホログラムを消去する。タブレットをテーブルの上に置き、それから窓の外へと目を遣った。

敷地の隅に停められた愛用のミニバンのフロントバンパー。ラジエータの中央に、菱形のエンブレムが見える。シルバーの縁で囲まれたその内に、アルファベットのK。沖自動車工業の車に決まって取り付けられるそれだ。

沖自動車は、社名の通り自動車の製造販売を主要事業とする企業だ。搭乗者の安全確保を命題とした製品開発のベクトルと、積極的な海外戦略が功を奏し、国内外双方の市場において同社は日々存在感を増している。一昨日のアリサとの会話の中で話題にした緩衝シールドも、初めて開発したのは確かここでなかったか。

その沖自動車が、高性能アンドロイド市場に手を伸ばしたのが2年前。大規模な宣伝戦略と共に世に産み落とされた製品、MORGIANAは、Physical Illusion社のアリスをも上回る価格設定であるにも拘わらず、短期間で20%近い市場占有率を築き上げた。

低価格を最大の売りとしてシェアを伸ばしたD-DOLLと異なり、MORGIANAの特徴はその軀体性能にある。

沖自動車独自の自動車開発技術を転用して開発されたMORGIANAの軀体は、兎角頑強堅牢がんきょうけんろう。身体各部に搭載された回転動機構はロータリーエンジンを原型としながらも低回転時に異常な安定性を見せる。総合的な運動性能は、同社測定値において他二社のアリスの1・2倍だそうだ。価格は一体1350万円からで、上限は無し。人格プログラムとして使用されるのがTIMEWORKS社と同じPIZZICATOであるにも拘わらずこの価格なのだから、軀体製造にどれ程の原資が掛かっているかは想像に難くない。

Physical Illusion社のALICE。TIMEWORKS社のD-DOLL。そして沖自動車のMORGIANA。この国のアンドロイド市場では、詰まるところ現在この3製品がしのぎを削っている。後発二社のプロパガンダむなしく、一般に3製品全てがアリスと呼ばれてしまっているのはご愛嬌。Physical Illusion社製品のシェアと知名度が、それだけ圧倒的であるということだろう。

「ん?」

玄関方向に、気配を感じた。僅かな物音。新しい姫君のご到着らしい。ホログラムを消去し、タブレットをサイドテーブルに置く。玄関に向かう途中で、訪問者が鳴らしたらしい呼び出し音が響いた。玄関ドアの外に設置された小型カメラは、今頃タブレットに訪問者の映像を送信しているはずだ。

「今開ける」

ドア越しにそう告げ、ロックを解除する。内側から鉄扉を押し開いた。開いたドアの隙間から、レトロなデザインのキュロットと、細く白い太股が視界に入る。

「ようこそ改造基地へ」

くだらぬ冗談を口にしながら、ドアを開けきり、そのまま言葉を失った。

「どうして

自分の瞳が、異常な程に見開かれているであろうこの双眸そうぼうが映し出す光景が、まるで理解できない。動悸どうきが異常に速くなるのを感じる。鉄扉の表面に触れた指先が、がくがくと震えだすのが分かる。

雪のように白い肌。高く通った鼻筋。大きく、どこか憂いを秘めたような瞳。毛先を内に向かせたセミロングの頭髪は艶やかに輝き、微風を受けて揺れている。

「どうして、突然

声が掠れる。膝が笑い、力が入らない。俺はこの子を、良く知っている。誰よりも、誰よりも良く知っている。

「先生?」

小首を傾げた少女が、不思議そうに俺を見る。そうだ。その声。記憶の奥底にしまわれていた、懐かしいその声。

「あきらっ」

勢い込んで叫ぶように名を呼び、少女の手を取る。強く引き寄せ、バランスを崩した小さな身体を抱きとめる。両腕を背と肩口に回し、思い切り抱きしめた。

「ちょっとっ。朝倉先生っ」

腕の中で戸惑ったような声をあげる少女を無視し、柔らかな髪に自身の顔をうずめる。美しく輝く紫黒色の髪からは、きっと懐かしいシャンプーの香りが、俺の好きだった彼女の香りが、控えめに揺蕩たゆたうに違いない。

「あの

少女は抵抗はせず、しかし恐々といった様子は漂わせながら、言葉を紡ぐ。

「今日からお世話になります、ロザと、申します」

「えっ?」

少女の言葉。腕の中で俺に見せる困惑の表情。一向に運ばれてこない懐かしい香り。漸くと、自分がとんでもないことをしているのではないかという疑念に駆られる。

「型番は、Xタイプの、7055です。先生」

「えっと

ゆっくりと手を離し、ロザと名乗った少女を解放する。濃霧に包まれた思考を叱咤しった激励し、気を落ち着けようと必死に努める。そうだ。良く考えろ。この子が彼女であるはずがない。永峰ながみねあきらであるはずがない。目の前の少女は、記憶の中にある17歳の彼女と瓜二つ。彼女本人はとうに、30を超えているはずなのだ。

「舌の裏を」

頭では理解した。だがまだ感情が、思考についてこようとしない。少女は小さな口を目いっぱいに開き、指先で自身の舌を捲りあげて見せた。恥ずかしそうな表情がひどく胸を突く。だがそこには確かに、例の数字が刻まれていた。

「その、済まない」

後ればせながら現実を悟り、少女に告げる。こりゃクレームになるかもなと、妙に冷めたことを考えた。

「わたしは先生のお知り合いに、とても良く似ているようですね」

いつくしむような笑みを見せ、ロザは言う。その言葉に、耳を撫でるような澄んだソプラノに、何故だか涙が出そうになる。俺は何をやっているのだろう。鼻を押さえ上を向き、熱くなった目頭をごまかそうと奮闘する。

「先生、泣かないで」

少女は優しく言い、ほっそりとした指先で俺の頰に触れた。白い指を濡らす小さなしずく。努力の甲斐もなく、俺の涙腺はとっくに決壊していたらしい。自然と笑いがこぼれる。恥かしさをごまかすためなのだろう。いい大人が情けないったらない。

「じゃあ改めて」

優しさを感じさせるとびきりの笑顔で、ロザは言う。

「本日よりお世話になります、ALICEXタイプ7055、ロザと申します。宜しくお願いしますね。朝倉先生」

「ああ、調律師の朝倉冬治だ。よろしくな。ロザ」

ロザは笑うと、両の頰に笑窪えくぼができるようだ。どうして、そんなところまでが彼女と同じなのか。目の前の笑顔に15年前の記憶を重ね、俺は再び、目頭が熱を持つのを感じていた。

永峰あきら。

物心もつかぬ頃、恋という言葉も知らぬ頃より、多くの時間を共に過ごした美しい人。俺が守らなければならなかった、大切な家族。

小舎制のこぢんまりとした児童養護施設で幼少期を共に過ごし、彼女が養子に出されてからも、互いに暇を見つけては、笑いあい、回顧に興ずる時間を作った。

彼女が特有の儚げな笑顔で小さな提案を口にしたのは、俺が高校3年生の時、確か夏季休暇が明け、幾日も経たぬ頃だったと思う。

「お祭りがあるの。再来月のね、6日と7日。土日だよっ」

俺が通う高校から程近いカフェのテラス席。向かい合って座った彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめながら、楽しそうにそう言った。

「行きたいな。出られるの?」

彼女からこの手の誘いを受けるのは久しぶりのことだったと思う。新しい両親は厳しい人だったようで、彼女に夜の外出の許可が出るのは極めて稀なことだった。

「6日の夜ね、お父さんもお母さんも、仕事でいないの。だからこっそり出ちゃおうと思って」

7日なら、お昼になるけど。弾んだ声をそのままに、彼女はそう付け加えた。

「祭りっていったら夜だろ、やっぱり。6日に行こう」

そう答え、妙に嬉しげな声を出した自分を恥じたのを覚えている。頷いた彼女の満面の笑みを脳裏に刻み、カフェを出た。並んで歩きながらぽつぽつと話す。その話題を出したのは、確か俺からだった。

「学校はどう。楽しくやれてる?」

通う高校は別だった。俺はそれなりに友人もでき楽しく過ごせていたが、彼女はどうだったろう。友人の話をまるで聞かないのが、少し気になっていたように思う。

「まあまあだよ。うん、まあまあ」

俺と視線を合わせずに彼女は答え、そういえば、と話題を転じた。

その話題に興味を引かれたからなのか、あるいは共に過ごせる貴重な時間を、楽しいままに終わらせたいと願ったからなのか。彼女の雰囲気を訝しみながらも、それ以上の追求を俺は控えた。彼女は笑い、驚き、はにかみ、ころころと表情を変えながら、俺に楽しくも心やすらぐ時間を呈してくれた。

「お祭り、約束だよ。絶対だよ」

そう念を押し、彼女は改札口の向こうに消えたはずだ。そんなものは持っていないだろうと思いながらも、彼女の浴衣姿を拝める二ヶ月後を想じ、俺も帰路についたのではなかったか。通行人の視線から、にやけそうになる口元を隠すのに必死だったように思う。

「あきら、大丈夫かな

思い返せば俺達の幸せは、その日を最後に途切れたのだ。約束は果たされず、彼女は父親の仕事の都合で、容易には逢えぬ土地への転居を余儀なくされた。

経済的な問題でタブレットを始めとする通信機器の所持が許されなかった彼女への連絡は難しく、当時既に旧世代の遺物と化していた有線電話での数回の通話を最後に、一切の連絡が途絶えた。

暫くして高校を卒業した俺は知り合いのツテで何とかPhysical Illusion社の高卒採用枠に潜り込んだ。忙しさにかまけ、ただ目の前の日々のみを見つめる生活に没していった。彼女を思う機会は少しずつ少しずつ減っていき、いつの日かその行為は他の想い出が頭を過ぎるのと何ら変わらぬ、ただの回顧となった。そしてありふれた回顧はもう、俺の心を、惹かなかった。

ロザの荷物は多かった。少女は居間の隅で自身の身体程もある旅行用トランクの前に膝を突き、笑顔で整理作業にいそしんでいる。何が気を良くさせたのか、妙に楽しそうだ。

「随分と多いな」

近付いて声を掛けると、見知った笑顔を向ける。

「長期滞在ですから。このくらいはないと困っちゃいます」

小さな唇から発せられる、一切の不純物を含まない澄み切った音色。一音一音が記憶に相似し、どうにも感傷を誘う。埒も無い回顧に寄る意識を首を振って排除し、大きく口を開けたトランクの中を覗き見る。

「かもな。だが今朝までここにいたアリスは、財布しか持ってこなかった」

トランクの中には、多種多様な物品が効率良く格納されている。何着もの衣服。下着の類が入れてあると思われるポーチに、近年あまり見られなくなった紙製の書籍。タブレットやぬいぐるみまである。どうやら全てが必要なものというわけでもないようだ。

「先生は

トランクの蓋を閉め、取り出した幾つかの持参品をその上に載せながら、少女は言う。

「アリスがお好きなんですか?」

視線はトランクに向けたまま。端整な横顔は、どこか物憂げに見える。

「何故?」

何かを意図して問うたわけでもないだろうとは感じながら、しかし何故そう思うに至ったかを図りかね、尋ねた。

ロザは俺に視線を戻し、少し笑って言う。憂い顔は気のせいか。表情は晴れ渡っている。

「調律師をやっておられるのは、アリスが好きだからなのかなって」

深い意味はないですよ、と付け足した。

「人に使われるのが苦手でな。独立しようと考えた時に、アリス絡み以外の選択肢がなかっただけだ。スキルや知識の問題でな」

「成る程。そうでしたか」

少女は小さく頷き、立ち上がる。閉じられたトランクの上には、タブレットとオイル入りのプラスティックボトル、財布とぬいぐるみが載っている。当面頻繁に使いそうなもの、というわけか。一つを除けば理解できる。

「それは?」

ぬいぐるみを指差し、尋ねる。灰色で、妙に平べったい。何の動物を模したものなのかまるで分からないが、どこかで見たような形状をしている。

「ぺちゃんこあらです」

ロザは答え、ご存じないですか、と首を傾げる。

少女の話によると、ぺちゃんこのコアラでぺちゃんこあら。数年前から女性や子供を中心に流行しているキャラクターらしい。眺めていて、既視感めいた思いに得心がいった。アリサのポーチに描かれていたのが、確かこのキャラクターではなかったか。しかし何とも馬鹿馬鹿しい。

「とりあえず、だ」

ロザも人心地ついたようなので、作業に入ることとしよう。

「簡単な動作チェックを行いたい。研究室に案内するから、ついてきてくれ」

壁のハンガーから白衣を取り、袖を通しながら居間を出た。研究室のベッドに案内しようとし、思い出す。そういえばキリカが寝ていたのだった。

「キリカ、GetUpだ」

キリカを目覚めさせ、相互に紹介を済ませると、空いたベッドにロザを腰掛けさせた。続いて下着を除いて服を脱ぐように告げる。キリカは少し離れた場所で、退屈そうに俺達を眺めている。

「脱がないと、駄目でしょうか?」

素直に指示に従うと思いきや、ロザは不安げな眼差しで俺を見つめ、そう問うた。少々意外な反応だ。

「無理にとは言わないが、脱いでくれたほうがチェックはし易い。脱げない事情でも?」

人格プログラム次第とはいえ、アリスにも羞恥心はある。とはいえ俺は調律師。恥かしいから、などといった戯言を聞き分けるつもりはない。幼馴染に良く似た彼女の柔肌を眺め見るに抵抗はあれど、相応の報酬を受け取っての仕事に手を抜くわけにもいかないのだ。

ロザは俺の問いには答えず、しぶしぶといった様子で身にまとっていたキャミソールに手を掛けた。抜けるような白い肌と、ホワイトのシンプルな下着が露になる。

「少し動かずにいてくれ」

首からげた聴診器を手に取り、イヤーピースを装着する。ベルと呼ばれる集音部を右手で摑み、白肌に滑らせた。耳管を通して、微かな駆動音が聞こえてくる。オイルの流れも正常なようだ。続いて胸の中央、両の乳房が作り出すやや浅い谷間にベルを押し当て、耳を澄ませる。駆動音が強くなった。

金属製の車輪が抵抗をもって回転するかのような不思議な音は、機構核が奏でる動作音。ゆったりとしたリズムが耳に心地よい。

「右手を上げてくれ」

身体の各部を順に動かさせ、駆動音にノイズが交じっていないかを綿密にチェックする。どうやら何も問題はないようだった。

指示を受け再び着衣をまとったロザが小さく息をつく。緊張したのだろうか。だとすれば随分と小心なアリスだと思う。俺はデスク前のプレジデントチェアに腰掛け、少し距離を空けて少女と向かい合った。

「忙しくして悪いがな、調律方針についてお前の意見を聞きたい」

宣言すれば、少女ははいと頷いて背筋を伸ばす。通常は発生しえない作業だが、今回ばかりは勝手が違う。「先生のお好きなように」。要件書のふざけた一文が思い起こされる。続けて口を開こうとして、思い至った。

「キリカ、悪いが外へ出ていてくれ。ああ、そうだな、夕食の準備を頼む」

どう指示すべきか迷い、思いつきでそう告げる。要は部屋から出てくれさえすればそれで良かったのだが、キリカは困惑の表情を浮かべた。聞けばもう食材のストックがないらしい。アリサがジャンクショップに勝手に買い物に出たのを最後に何も補充していないのだから、当然と言えば当然か。

「じゃあ準備はいいから、とりあえず

居間に行っていろ。出しなおそうとした指示はベッド上の少女にさえぎられる。ロザは胸の前で小さな掌を合わせるようし、微笑んで言う。

「でしたら先生、お買い物にいきませんか。わたしと、キリカちゃんと、先生と三人で」

「食材を買いにってことか?」

「ええ。先生さえよろしければ」

提案に少し逡巡する。俺としては作業を優先したい。しかし食べるものもないのであれば買い物にはいずれ出ねばならないし、運動性能の低いキリカを一人で外出させるのもはばかられる。暫く沈思黙考し、結論を出した。

「仕方が無いな。二人とも準備しろ」

立ち上がり、白衣を脱いだ。

アクセルペダルを踏み込み、スピードを上げる。愛用のミニバンの中。アリス二体は並んで後部座席に座っている。工房から車で30分程度のショッピングモールに向かいながら、乗車前の遣り取りに想いを馳せた。

「157㎝です。先生」

お決まりの質問に、ロザはそう答えた。誰かと違い不要な小数点以下を口にしなかったのは褒めてやりたいところだが、問題もある。彼女が口にした、まさにその数値に関してだ。

幾らなんでも妙だ。繰り返し繰り返し、その言葉が脳裏を過ぎる。少女が口にしたその数値は、あきらのそれと全く同一ではなかったか。無論俺の記憶に錯誤がある可能性も否定はできない。だが考えれば考える程、不審めいた思いが募る。

「きゅうきゅう泣くの。確か笹の葉が好きで、8人兄弟なんだよ」

背後からロザの声。ぺちゃんこの珍妙なコアラについて、キリカに一生懸命解説している。ぬいぐるみを工房に持ち込むくらいだから、少女は当然そのキャラクターが好きなのだろう。しかし何とも適当な設定だ。コアラが食べるのはユーカリだろう。

二人の会話に時折割り込みながらハンドルを回して30分。話題がコアラから昨今の経済情勢へと滅茶苦茶な転じ方をしたところでブレーキ。目的地に到着した。

「着いたぞ。二人とも降りろ」

ドアをロックし、連れ立って駐車場を出る。前方には、白い外壁で統一された巨大な建造物が大量に並んでいる。

「すごい。大きいですね」

隣でキリカが感嘆の声を漏らす。彼女は殆どオーナーの家から出なかったと言っていた。こういった場所へ来るのは初めてなのだろう。

「数年前に出来た大型のショッピングモールでな。200近い店舗があるらしい」

通常の店舗に加え、シアターやスポーツジムも敷地内にはあるらしい。見て回っても楽しめるかも知れないが、今は控えよう。二人を連れ、地下にあるフードストアに向かった。

「うわぁ。すごいかも」

売り場に足を踏み入れて早々、今度はロザがはずんだ声を響かせる。だが正直なところ、久々に来た俺の感想も似たようなものだ。目の前には、ここへ来れば手に入らない食材など無いのではないかと思えるくらいの広大な売り場が展開されている。

陳列棚が延々と続く中を少し歩いた後、俺は二人に指示を出した。

「せっかく来たから、1週間分は買っておきたい。二人で相談して適当に見繕ってくれ」

こういうことは女性に任せたほうが良いだろうと判断し、歩き出した二人の直ぐ後ろをついていく。それにしても広い。帰る頃には足が棒になっていそうだ。

「冬治さん」

と、背後から名を呼ばれた。顔を見ずとも分かる。俺をこう呼ぶ人物は一人しかいない。

「あれ。偶然だね」

首を回すと共に、近寄ってきた美優の顔が視界に入る。友人の妻は細い腕に買い物かごを提げ、落ち着いた笑顔を見せている。

「お一人でお買い物ですか?」

美優に問われ、首を振って左手で前方を指す。ロザとキリカが、何やら話しながら陳列棚の前にしゃがみ込んでいる。

「あら。何だか冬治さん、お金持ちの人みたいですね」

美優は冗談めかすが、言われてみればその通りだ。アリスが二体、しかも一方はカスタム品だから、最も安く買ったとしても、しめて2435万円。周囲の客からもそう思われているのかもしれない。

「キリカ」

思い至り、前方に声を掛ける。キリカが振り向き、一人こちらへ歩いてきた。

「美優ちゃん、この子が例の」

キリカの引き取り手の青年、厳密にはまだ候補に過ぎないが、彼は日比野夫妻の紹介で見つかったものだ。キリカに改めてその旨を告げ、美優を紹介する。

「この度はお世話になりました。D-DOLL363A55、キリカと申します」

丁寧に頭を下げる少女に、美優は笑顔で挨拶を返す。

「優しそうな人だったから、安心してね」

そう言い添えてくれた。キリカもはにかんだ笑顔を見せる。天性のものなのだろう。美優にはどこか、人を安心させる雰囲気がある。

「あっちの子は?」

自分も挨拶をして良いのかどうか迷っているのだろう。ズッキーニを片手にこちらを覗き見ているロザを指し、美優が言った。

「ロザ、お前も来い」

呼べば、嬉しそうに駆け寄ってくる。その姿を見、美優の瞳が僅かに、見開かれた。

「初めまして。本日より朝倉先生の工房でお世話になっています、ALICEXタイプ7055、ロザと申します」

キリカ同様丁寧に、お決まりの挨拶を口にする。我に返ったように、美優が急いで笑顔を作った。日比野美優です、と会釈えしゃくを返す。紹介が終わったところで二人をまた食材選びに戻らせ、今度は美優と並んで、小さな背中を追う。

「わたしの、勘違いかもしれないけど

遠慮がちに、途切れ途切れに、美優が口を開く。

「ロザちゃんって、冬治さんの幼馴染の子に、すごく良く似てません?」

「ああ。俺も少し戸惑ってる」

美優とあきらに、直接の面識は無い。工房に夫妻が訪ねてきた時に、一度写真を見せたことがあるだけだ。あきらの容姿が気に入ったようで、綺麗な子ねと、その時美優は随分とはしゃいでいた。記憶にあるのはそのせいなのだろうが、だとしても大した頭だと思う。

「先生っ」

両手に豆腐を持ったキリカの声を受け、足を速める。不思議な縁ですね、と呟く美優の声が、妙に耳に残った。

「それじゃあ、改めて」

二人の用意してくれた夕食を平らげ、研究室でロザと向かい合った。ベッドとチェアに分かれ、昼間の配置を再現する。キリカは居間で後片付けの最中だ。

「調律方針について、ですよね」

これがないと落ち着かないんです。そう言って持ち込んだ例のぬいぐるみを膝に乗せ、ロザは真っ直ぐに俺を見つめる。俺は顎を引いて肯定の意を示すと、小型端末に要件書を表示して少女へ差し出した。

「そこに記載のある通り、調律方針は俺に一任されている。お前の持つ雰囲気、オーナーへの接し方、極端な話、喋り口調だけでも良いんだろう。何かしら変わりさえすれば良いと、そう言われている。お前も理解しているな?」

念のための確認だ。ロザは軽く頷いてみせ、滑舌よく、はいと答える。

「結構だ。ではもう一つ聞かせてくれ。率直に言って、どう変わりたい?」

調律されるロザ自身に何かしらの希望があるのなら、それを軸に調律計画を立てればよい。そう考えての問いであったが、少女は緩く首を振った。

「どのようにでも。先生のお好きなように、変えていただければ嬉しいです」

「成る程な」

俺は立ち上がり、端末を内蔵したデスクを数度、叩いてみせた。

「ここに、今朝まで工房にいたアリスの人格プログラムが格納されている。調律前に取得したバックアップだ。こいつをお前に突っ込んで、調律完了。それでもいいんだな?」

無論そんな手抜き作業をするつもりはない。だが、ロザやオーナーの田宮の要求を文面通りに受け取れば、それでも良いということになる。少女は少し考えるような仕草を見せ、

「勿論です」

笑顔でそう答えた。

「旦那様のご意思の活きる形でさえあれば、わたしは何だって構いません」

溜息。それでは1日も掛からずに作業が終わってしまう。

通常の調律依頼受諾時、俺はクライアントからの依頼内容を鑑みて、掛かる期間を勘案、決定する。ロザの場合は要求が特殊に過ぎてそれが難しかったため、調律に際しての細かなスケジュールも初めから立てられていない。14日間というのは、オーナーの田宮が自ら指定した期間だ。代金を全額受け取っている以上、相応の業量は自身に課すべきだろう。

「聞いてくれ、ロザ」

言いながら、考える。彼女はアリス。オーナーである田宮の所有物でしかない。

田宮の意思はロザの意思であり、ロザの報ずる全ての事象には、田宮の考えが色濃く反映されてしかるべきだ。少女はアリスとしてそれを誰よりもよく理解し、そのベクトルに従属する。オーナーへの隷属こそが、自身にとっての幸せでもあるからだ。それはアリスとしては当然の、極めて真っ当な論理。だが、本当にそれで良いのだろうか。

「お前が、オーナーの、田宮さんの希望に従いたいという気持ちはわかる。それはアリスとして正しいことだし、そうでなくてはいけないとも思う。だが今回の調律作業においては、お前と田宮さんの要望を双方かなえることだって可能だ。違うか?」

ゆっくりと言葉を選びながら話し、そうした自分に少し戸惑う。アリスはオーナーの意思、指示に絶対的な服従を誓う。本当にそれで良いのかなどと、何故そんな疑問を抱くのだ。良いに決まっている。アリスは人ではないのだから。アリスは道具に過ぎないのだから。ロザは少し困惑したような表情で、俺と同じように、言葉を選ぶように喋る。

「旦那様が、先生のお好きなように調律を施してもらえと、そのようにおっしゃった以上、そうしていただく以外ないように思います。そうしていただきたいとも、思います」

惑うように視線を彷徨わせながら話す少女に、俺は苛立つ。

ふと、もしアリサやキリカが同じことを口にしたら、俺はどう思うのだろうと、疑問が浮かんだ。隷属的で消極的な態度に、同じように腹を立てるだろうか。立てないのだとしたら、それは何故だろう。ロザが、ロザだけが、幼馴染に良く似ているからではなかろうか。他者に従属する親しい女性の姿に、嫉妬じみた感情を抱いているからではなかろうか。

「では、こう言おうロザ。お前を、お前のなりたいお前にしてやることが、俺の行いたい調律だ」

はっきりと宣言するつもりが、妙にまどろっこしい言い方になった。意図は伝わっただろうか。ロザは小さく笑い、では、少し考えても良いですかと、優しい目でそう問うた。

「自分がどうなりたいかなんて、考えたこともなかったので。許していただけるのなら、一晩ゆっくり考えたいです」

僅かに頰を染めてはにかみ、少女は言う。無意識にか、小さな手は膝の上のぬいぐるみを忙しなく撫で回している。提案を俺が許可すると、ロザは小さな声で礼の言葉を述べた。

「一晩ゆっくり考えたら、明日の朝にでも聞かせてくれ。調律自体は午後からとしよう。それでいいか?」

「はい。お言葉に甘えてじっくり考えちゃいます」

話は終わった。ロザから視線を離し、意味も無くタブレットを弄ぶ。少女の顔を視界の隅に捉えながら、暫し黙考した。

アリサやキリカが同じ状況で同じ発言をした時、俺はやはり同じように言えなくてはならない。クライアントは皆、同一の基準に従って俺に金を支払っている。であれば、どのアリスやどのクライアントに対しても同様の態度で接するのが、プロとしての誠実な姿勢。幼馴染を思わせるアリスにだけ情を込めて応ずるなど、単なる色ボケのやることだ。

「戻ろうか、ロザ」

少女を促し、連れ立って居間に向かった。

居間ではキリカがソファに腰掛け、ぼんやりと中空を眺めていた。夕食の後片付けはとうに終わったらしく、どうにも手持ち無沙汰といった体だ。俺とロザの入室に気付くと、少女はソファから腰を上げ、俺にその場所を譲ろうとする。どこぞの我儘わがまま娘とは大違いだ。

「先生、お座りになってください」

キリカが勧めるので、厚意に甘えることにする。ソファに腰掛け、一つ息を吐いた。

「二人に相談があるんだが

背もたれに身を預け、眼前に並んで立つ二体のアリスに対し口を開く。今日やるべきことはもう何も無い。一昨日の夜から抱えている懸念事項について語るには良い機会だった。

「キリカは知っているし、ロザももう気がついているかもしれないが、この工房にはベッドが二つしかない。研究室にある調律用の簡易ベッドと、寝室にある俺のベッドだ」

アリスが二体いるという状況は一昨日からだが、寝場所の取り決めをきっちりと行うのはこれが初めてだ。ここ二晩は、その二体の中に図々しい個体が紛れ込んでいたせいで図らずも取り決めの要が無かった。俺は二晩に亘る苦難を乗り越え、狭苦しいベッドから今日ついに解放されるのだ。

「そこで申し訳ないが、二人のどちらかにはこのソファで寝てもらいたい。何か質問は?」

スリープモードになってしまえば瞬間的に意識を失うアリスに、寝心地も何も無い。対して人間である俺はそうはいかない。さすがにどちらかに寝室のベッドを譲り、俺がソファで寝るという選択肢は存在しなかった。少し慌てたようにキリカが言う。

「でしたらわたしが。ロザちゃんはちゃんとしたお客さんですし」

わたしはただの居候ですから。小さな声でそう続ける。寝る、と表現はしたものの、アリスにとっては只のスリープモードの場所選びだ。どちらが良いも悪いも無いとは思うが、まあ順当な結論かもしれない。

わたしが後から来たんだから、わたしがここで。ロザが何やら反論し、譲り合いが始まった。なんとどうでも良い遣り取りなのだろうと、率直にそう思う。最初から俺が一方的に決めて指示すれば良かった。

「ロザは研究室のベッド。キリカはここ。それで決定にしよう」

告げて、立ち上がる。キリカは満足そうに、ロザは不安げにそれぞれはいと返事をした。

「先生、どちらに?」

「風呂だ。お前らは好きにしてていいぞ」

ロザに訊かれ、そう答える。ごゆっくり、という声を背中に受け、浴室に向かった。

脱衣所で服を脱ぎ、シャワーを浴びながら一日の汚れを丁寧に落とし、浴槽になみなみとためた湯に足先を伸ばす。ゆっくりと身を沈め、今日という日に想いを馳せた。

つまらない冗談を口にしながら玄関を開けた時の、あの衝撃。陽光を背に微笑んでいた、紫黒色の髪の少女。15年ぶりに見る幼馴染の姿。何一つ記憶と相違ない、懐かしいシルエット。涙を流したのはいつ以来だろう。自分で認識している以上に、俺は彼女を、永峰あきらを大切に思っていたのかもしれない。

「何を考えているんだか

静まり返った浴室で一人、自嘲気味に呟く。

日々に追われ、15年もの長い間ろくに想いもしなかった女性を、あろうことか大切に思っていたなどと表するとは。何とも調子の良い考えだ。本当に大切な存在であったならば、会いにくらいは行ったはずだ。少なくとも彼女が俺の許を離れ遠方へと越した当時、簡単に会いにいける距離ではなかったとはいえ、住所そのものは知らされていたのだから。いやたとえそうでなかったとしても、捜して会いに行くくらいの気概は見せて然るべきなのだ。本当に、心の底から大切に思うのならば。

どこかからか、話し声が聞こえてくる。ロザとキリカの会話だろうか。いや、出てくる時に居間の戸は閉めたはず。小さな工房とはいえ、居間の中で交わされる会話が浴室まで聞こえてくることはあるまい。であれば廊下だろうか。そう思った時、戸が開く音が響いた。脱衣所に誰かが入ってきたらしい。

「先生」

浴室の曇りガラスの向こうから、そう呼びかけられた。ロザの声だ。ガラス越しに小柄な少女のシルエットが見える。

「どうした?」

「美優さんからお電話です。キリカちゃんの件でお話があるそうですが、お出になられますか?」

タブレットは防水機構を備えている。出るかと訊くからにはここへ持ってきてくれているのだろうし、浴槽につかったまま通話できなくも無いが。

「後で掛けなおすと伝えてくれ」

訊けば、火急の用件ではないとのこと。返事をしたロザが脱衣所から出て行くのを確認してから、溜息を漏らす。電話を持ってわざわざ浴室までやってくるとは。アリスらしいというか、甲斐甲斐しいことだ。

少しして、浴室を出る。明日の午前中、キリカの引き取り手の青年が工房に来る。美優からの電話は、そんな内容だった。

肌寒さに目を覚まし、ベッド上で身を起こす。辺りを見回し、寝室の戸が僅かに開いていることに気がついた。9月も下旬。身を撫でる冷気の原因はそれらしい。

大仰な仕草で立ち上がり、居間へ向かう。中から笑い声。アリス達の朝は早いようだ。

「あ、おはようございます先生」

俺の姿に気がついたロザが、ゴム鞠のように弾む声を響かせる。続いてキリカも、ロザよりはやや落ち着いた口調で、同様の挨拶を口にする。

「おはよう」

指定席のソファに腰を下ろし、両手を突き上げて大きく伸び。この快感、アリスには味わえまいと、埒も無い考えが浮かぶ。寝起きの頭は、まだ本調子でないらしい。

「で、何やってるんだ? お前ら」

居間中央のテーブルを前に、チェアに腰掛け髪を解いたキリカと、その背後に立つロザ。ロザの手には自身の持参品と思われる小さな櫛。キリカの髪を梳かしているようだ。

「今日はキリカちゃんの新しい旦那様がいらっしゃるので。おめかししないとっ」

笑顔でそう答え、ロザは肩甲骨辺りまで伸びたキリカの髪に、丁寧にくしを通していく。ロザは浮き浮きと、キリカは恥ずかしげに、その作業に従事する。二人とも楽しそうだ。

「この服も、ロザちゃんがくれたんです」

申し訳なさそうに話すキリカ。見れば、確かに服装が替わっている。上半身をゆったりと覆うクリーム色のドルマンスリーブ。大きめに開いたニットの胸元からすべらかな肌が覗け、どうにも扇情的だ。下はキリカがここへ来た時から穿いているホットパンツのままだが、グレー地であったのが幸いしてか、良く合っている。

「随分気前がいいな、ロザ」

多すぎると思われた少女の持参品は、ひょんなところで役立ったようだ。ロザは胸を張り、誇らしげに言う。

「お友達の大切な日なんですから、当然です」

「成る程な」

アリスに友達というのも妙な話ではあるが、まあ、見ていて悪い気はしない。ただ懸念もある。今日ここへやってくる青年がキリカを本当に引き取るかどうかは、まだ分からないのだ。取り敢えず一度キリカを見に工房へ来る。美優からはそう聞いている。

「二人とも、水を差すようで悪いが

ロザやキリカはもしかしたら誤解しているのかもしれない。不安に襲われ、口を開く。

「大丈夫ですよ先生。ちゃんと分かってます」

俺の言葉を遮り、ロザが言う。視線をキリカの後頭部に向けたまま忙しく両手を動かし、しかし力強い口調で。

「でも心配はいらないんです。若い男性の方と伺ってますし、見て下さいキリカちゃんのこの可愛らしさ。イチコロですよっ」

髪から手を離し、両肩を摑んでキリカの顔を俺のほうへ向ける。一度大きな瞳をぱちくりとさせ、恥じ入るように俺から視線を逸らすキリカ。解けていた髪は何本かのピンを刺され、後頭部で複雑に纏められている。顔の小ささが強調されるような、柔らかなニットのスリーブに良く合う洒落めかしんだフルアップ。ドレスでも纏えば一層映えそうだ。

「成る程。確かにそうかもしれないな」

面映そうなキリカの表情も相まってか、美しさに感嘆させられる。アリスの整った容姿に仕事柄慣れてしまっている俺ですらそう思うのだから、青年には一層だろう。この少女が自分のものになるというのだから、引き取りを即決しても不思議はない。素直に漏らした感想に、キリカの頰が朱に染まる。ロザの咳払いが小さく響いた。

「一応言っておきますけど、わたしだって、本気でお洒落すれば同じくらい可愛いんですからね」

何の注釈か。何の対抗心か。どうにも餓鬼くさい。

だが実際のところ、大したものだとは思う。キリカに限らず、アリスは基本的に美しい外貌をしている。人間であったならば、アイドルや女優として成立するに十分なレベルだ。それらの単語にトップの冠を付けたってお釣りが来るだろう。そのアリスと並んで遜色ないのだから、あきらの容姿がいかに優れているかがわかる。

俺はこんなにも美しい幼馴染に触れることの許される立場にいたのかと、今更に驚く。考えをそのまま口にしようとして、気付く。何を考えているんだ俺は。ここにいるのはあきらじゃない、ロザだ。ただのアリス。俺のものでもなんでもない、クライアントからの預かりもののアリスだ。

「ああ、そうかもしれないな」

俺は妄念もうねんを振り払い、とってつけたような笑みを浮かべる。不満そうな顔で、何だかなぁとロザは呟くと、直ぐに笑顔に戻ってキリカの肩を軽く叩いた。終わったよキリカちゃん、と言い添える。

「ロザちゃん、ありがとう」

チェアから腰を上げ、キリカが俺の方へ視線を送る。良く似合ってるぞと言ってやると、少女は頰を搔くようにし、それから少し、はにかんだ。

浦田修輔うらたしゅうすけと名乗った青年を研究室に案内し、ベッドに掛けてもらう。アリス二体は居間で待機。青年がキリカと顔を合わせる前に、意思と資金の確認をしておきたかった。

緊張した面持ちで背筋を真っ直ぐに伸ばし、浦田青年は言う。

「資金は、日比野先生にもご協力いただいて、何とか目処が立ちました。きっかり350万、用意してあります」

青年曰く、アリスを正規の手段で購入しようと貯めていた資金が約160万。その全額と、車やらコンピュータやら、資産と呼べる物を片っ端から処分して作った100万とで、計260万。残りの90万は孝一からの借金らしい。アトリエでアルバイトをしながら、少しずつ返していく約束とのことだ。キリカの引き取り手を早々に見つけたい俺としては有難い話だが、親友も随分とお優しいことだと思う。ただ。

「350万、全額用意してきたのか

行動が早いのは素晴らしいことだが、大丈夫だろうか。今日の来訪は、青年がキリカを引き取るか否かの判断を下すためだと思っていた。財産の処分などしてしまって、万一キリカが青年の好みに合わぬアリスだったらどうするつもりなのか。

「持っていたお金は全て今回の費用に回したので、暫く生活は苦しくなりますが、でも、ちゃんと引き取れます」

胸を張り、目を輝かせて青年は言う。決意に満ちた表情。美優の言う通り、確かに整った顔立ちをしているようだ。俺は一つ溜息を漏らし、口を開く。兎角話を進めよう。

「そりゃ重畳ちょうじょうだ。直ぐにアリスと会わせてやりたいところだが、その前にいくつか説明しておきたいことがある」

話しながら段々と前のめりになる青年に気圧けおされながらも、俺は努めて冷静に言う。

キリカの現在のオーナーがどんな人物で、その下で彼女がどんな生活を強いられてきたか。それ故に彼女がどんなアリスとして自己を確立させているか。オーナーである鈴村の個人情報に極力触れぬよう気遣いながら、私見を交えず、事実のみを訥々とつとつと語った。運動性能が低いことなどは孝一を通じて既に伝えてもらっているはずだが、念のためその件にも言及しておく。。

「本来985万円で購入するアリス、まあD-DOLLだが、それを君は今回、半額以下の350万円で購入する機会を得た。だが、キリカというアリスの持つ特徴を鑑みれば、それはむしろ割高な買い物と言えるかもしれない」

青年は真剣な表情で、俺の話に耳を傾ける。

「それらの事項を考慮した上で、改めて考えて欲しい。君はそれでも彼女を欲するかい?」

無論、キリカと顔を合わせる前に最終結論を出せというのは難しいだろう。だが、キリカと一度顔を合わせた上で、今話したような事実を理由に引き取りを躊躇して欲しくなかった。恐らくはそうした断り方が、少女を最も傷つける。

浦田青年は一度目を閉じ、はっきりとした口調で述べた。

「今朝倉先生がおっしゃったようなことは、何の問題にもなりません。少なくともそれらを理由に、僕がキリカさんのオーナーになることを諦めるようなことはありません」

「ほう

青年の真っ直ぐな瞳を見つめる。財産の多くを処分し、後に引けなくなったから言っている、というわけでもなさそうだ。

「人間誰でも、短所はあるものでしょう? アリスだって同じだと思うんです。同じでいいと思うんです。僕達はアリスに、いつだって何かをしてもらうばかりです。オイルを買い与えること以外に、してあげられることなんて殆どない。でも

「短所があるなら、欠点があるなら、補ってあげられる。ということかな?」

言葉を引き取ってそう問えば、青年ははにかんで頷いた。美優の評価が思い出される。成る程確かに、好人物だ。

「君の考えは良くわかった。引き伸ばして悪かったね。それじゃ、ご対面願おうか」

青年にこの場で待つよう告げ、居間へ向かう。落ち着かない様子で室内をうろついていたキリカの手をとり、研究室に戻った。連れ立って中へ。青年がベッドから立ち上がった。

「キリカ、挨拶を」

少女の背を優しく押して俺の前に立たせ、そう促す。キリカは少しの間虚空に視線を彷徨わせ、それから意を決したように一歩踏み出し、口を開いた。

「D-DOLL363A55、キリカだよっ。会いに来てくれてありがとう。お兄ちゃんっ」

「お前、何を

意表をついた挨拶の言葉に、浦田青年の反応を待たずに割って入った。少女は唇を微かに震わせ、赤面している。

「浦田君、ちょっと待っていてくれ」

呆気にとられた様子の青年にそう断りを入れると、入室時と同じように手を引いて、キリカを廊下に連れ出す。ドアを閉め、尋ねた。

「お前、何だ今の挨拶は?」

図らずも詰問きつもん調になる。今はキリカにとって自身の今後を左右する大切な局面のはず。いつもどおりにしていればそれで良いというのに、唐突に馬鹿げた行動に出る意図が知れない。キリカは今にも泣き出しそうな表情で、ずれた言葉を並べ立てる。

「だって。好きになって貰わなくちゃいけなくて。気に入って貰わなきゃ、オーナーになって貰えないかもしれないですし、若い人だし、だから」

「キリカ?」

身を屈め、狼狽した様子の少女に視線を合わせて尋ねる。キリカは端整な顔を歪ませたまま、俺を見つめ返す。半開きの口が、妙に痛々しく映る。随分と慌てているようだ。言葉すら発しなくなってしまった。

いや、待て。これはおかしい。長い睫も、桃色の唇も、或いはほっそりとした指先も、微動だにしていない。少女は完全に動作停止している。

「フリーズかよ

タイミングが悪いにも程が有る。浦田青年をいつまでも部屋で待たせれば、何が起きたのかと彼は不審に思うだろう。とは言え俺が焦る意味も無い。キリカの頰を数度叩くようにし、少し様子を見る。フリーズの原因は分かっている。直ぐに復旧してくれればいいが。

D-DOLLに挿入されている人格プログラム、PIZZICATOには、大きな瑕疵かしがある。Physical Illusion社製のVESPER BELLにはない、大きな瑕疵が。

アリスの行動開始前には、Logicalコードが生成する選奨行動と、Intuitiveコードが導き出す訓連行動との比較が必ず行われる。比較結果にGOサインが出されなければ、Intuitiveコードは命令生成を再実行する。すなわち訓連行動の乖離率が制限値にいつまでも収まらなかった場合、Intuitiveコードの命令生成は延々と繰り返されることとなる。この処理が、兎角メモリを圧迫するのだ。

PIZZICATOはこの処理を、全てメインの人格プログラム内で行っている。メモリが圧迫されることで人格プログラム自体の処理速度が低下し、結果として一時的なフリーズが引き起こされる。

対してVESPER BELLは、同比較処理を機構核にて実施する。機構核は動作命令の単純化及び比較処理専用のセパレートされたメモリを保有しており、そのため比較処理が人格プログラム自体のパフォーマンス低下を喚起しづらい。絶対にとは言わないが、フリーズが起きる可能性はPIZZICATOに比して格段に低い。

ALICE専用に自社開発されたVESPER BELLと違い、PIZZICATOは元々、複数社がオープンに使用できる汎用人格プログラムだ。VESPER BELLよりも新しく、現在も発展途上にある。近々予定されているアップデートでは、比較処理が一定回数を超過した場合、乖離率の制限値を開放し、Logicalコードに強制的にGOサインを出させるためのロジックが追加されると聞いている。とは言えそれは未来の話。現時点でのPIZZICATOは、問題を含有した人格プログラムなのだ。

「若い男の人は

キリカが漸くと続く言葉を発した。どうやら復旧したらしい。フリーズが想定外の挙動である以上、アリス自身はそれを認識しない。俺も動作停止の件には言及せず、キリカに続きを促す。まあ、早い復旧で助かった。

「若い男の人はああいうのが好きだから、今みたいに挨拶したほうが良いって、そう聞いたんです。それで

「誰がそんなこと言った。ロザか?」

可能性は低いだろうと思いつつ尋ねれば、首を振る。

「アリサちゃんが、一昨日そう教えてくれて

溜息。どうやら質の低い参謀がついていたようだ。そのアドバイスは忘れろと念を押し、研究室に戻る。

「浦田君済まない。さっきのは忘れてくれ」

「あ、はい

何だか打ちひしがれた様子のキリカを再度促し

「先程は失礼致しました。D-DOLL363A55、キリカと申します」

と、今度は真っ当な挨拶の言葉を述べさせる。浦田青年はキリカに歩み寄り、意気消沈して俯いている少女の顔を、腰をかがめて覗き込む。そして優しい口調で告げた。

「浦田修輔といいます。今日からよろしく。キリカさん」

「え、あ、よろしくお願いしますっ」

キリカの表情が華やぐ。挨拶の失敗で、もう駄目だと諦観していたのかもしれない。青年の態度に、俺も胸を撫で下ろした。

「よろしくって、いいのか浦田君?」

尋ねれば、顔を上げた青年が大きく頷く。

「勿論です。こんなに可愛らしい子のオーナーになれるなんて、夢みたいですよ」

視線を直ぐキリカに戻し、浦田青年は目を細める。ほころんだその表情に、肩の荷が下りるのを感じた。どうやら予想以上に、事はうまく運んでいるらしい。

放っておくといつまでも見詰め合っていそうな一人と一体に声を掛け、並んでベッドに腰掛けさせた。今後の段取りについて、話しておかねばならないことが多くある。一つ咳払いを挟み、俺は口を開いた。

「それじゃあ、今後浦田君がやらなくちゃならない具体的な手続きの話をしよう。キリカもちゃんと聞いてろよ」

二人の目を交互に見ながら、ゆっくりと話す。

「浦田君には、オーナー登録の切り替えをしてもらう必要がある。わかっているとは思うが、用意してもらった350万円、実際には600万円だが、これはその申請に必要な費用だ。切り替え申請は、TIMEWORKS社本社、もしくは各地にあるD-DOLLの販売店で行うことが出来る」

一度言葉を切る。浦田青年は両の手を自身の膝に置き、相も変わらず真剣な眼差し。先刻までの遣り取りでも感じていたことではあるが、中々に印象の良い青年だ。美優の高評価も頷ける。

「申請自体は簡単だ。本社でも販売店でも、アリス同伴で受付にいって、その旨申し出ればいい。後は向こうが案内してくれる。切り替え作業そのものは、そうだな、1時間もあれば終わると思う」

高額な費用は、あくまで製造元の利益確保のためのもの。実際に行われる作業は、俺が工房で毎日行っている調律作業と大差ない。

「申請時に、色々と書類を書かされるとは思う。ただまあ、面倒なのはそれくらいだ。持っていく必要があるのも、一般的な身分証明書だけ。ここまではいいかい?」

同意を求め、頷いたキリカの表情で気付く。彼女はD-DOLLだ。TIMEWORKS社の製品なのだから、今俺が説明しているようなことは既知きちの情報なわけだ。講釈を垂れたのが何だか気恥ずかしくなり、言葉を止める。簡単に纏めに掛かることにした。

「まあ、その作業が終われば、晴れて君はキリカのオーナーだ。費用はキャッシュでも、電子振込みでもいい。一応聞くが、質問はあるかい?」

「あの

口にしたのは念のための問いかけに過ぎなかったが、浦田青年から声が上がった。ご丁寧に挙手までしてくれている。続きを促した。

「あくまで参考にお訊きしたいだけなんですが、もしそのオーナーの切り替えを行わなかった場合、どうなるんでしょうか?」

おずおずといった様子で、青年は言葉を紡ぐ。遠慮がちな口調になったのは、恐らく支払う金銭を惜しんでの問いかけと誤解されたくないが故だろう。だが問われてみれば当然の質問だ。キリカを一瞥いちべつし、俺は答えた。

「アリスは基本的に、オーナーに尽くすことにこそ喜びを感じるように作られている。君はこれからキリカのオーナーとなるということで彼女と合意しているが、登録上、彼女のオーナーはまだ君じゃない。仮にこのままオーナー登録の切り替えを行わず、君とキリカが数日を共に過ごしたとしよう。その場合

言葉を切り、視線を伏せるキリカに問いかける。

「キリカ、お前はどんな感情を抱くだろう?」

「わたしは

浦田青年に気を遣ってか、少女は途切れ途切れに話す。真面目なことだ。喩え話にそう真摯しんしに臨まぬとも良いだろうに。

「わたしはきっと、違和感を覚えると思います。2〜3日なら平気です。でも1週間、2週間と経てば、旦那様の、あ、前の旦那様の所へ、戻りたくて仕方がなくなると思います」

「だそうだ」

成る程、と小さく呟く青年に、俺は視線を戻す。

「アリスとオーナーの関係性ってのはそういうものだ。だが逆に、君を正式にオーナーとしてキリカに登録すれば、その関係性は君とキリカの間に築かれることになる」

「はい」

「キリカは君と共に過ごすことに、君のために身を粉にして働くことに、大きな喜びを見出せるようになるだろう」

言って、理解したかいと付け加える。青年は頷き、爽やかな笑顔を見せた。

「よし、こんなところかな。それで、どうする? このままキリカと行くかい?」

青年は今日、キリカと顔を合わせに来ただけ。だから俺が彼女と別れるのも、もう数日先のことになる。そう思っていた。だが想定外に早く準備は整ってしまった。青年がこのままキリカを連れて行くと言うのなら、彼女の居候生活はここまでとなる。果たして青年は、大きく頷いて見せた。

「キリカさんさえ良ければ、そうしたいと思います」

はっきりとした口調。だが、それでいい。キリカの人格プログラムは不安定な行動分岐を見せている。オーナーとなる彼までが迷いがちでは、送り出すに躊躇するところだ。

お前もそれでいいかという俺の問いかけに、キリカは切なそうな表情を一瞬浮かべ、そしてゆっくりと頷いた。

「分かった。ここから向かうなら、TIMEWORKS社本社が近い。気を付けて行くといい」

少し俯いたキリカの頭を撫で、簡単な別れの言葉を告げる。一人と一体を玄関までエスコートし、居間で待機していたロザを呼んだ。

「先生、本当にありがとうございました。わたしご迷惑をお掛けするばかりで、なのに、とても優しくしてくださって

涙が頰を伝わぬのが不自然な程に、表情を歪めた少女が言う。隣を見れば、何故だかロザも似たような表情をしている。気にするなと返し、髪を一撫で。浦田青年に問うた。

「浦田君、廃棄料の充当分を振り込む。電子口座のナンバーを教えてくれ」

青年の答えた数字の羅列をタブレットに打ち込み、表示された振込先に、一昨日鈴村から振り込まれていた250万を投入する。ほんの少しだけ、色をつけておいた。ここ数日家事に奔走してくれたキリカへ贈る、まあバイト代のようなものだ。

横目で液晶を覗き込んでいたロザが僅かに微笑む。可愛い顔をして行儀の悪いことだ。

俺とロザとに何度も頭を下げる少女と、丁寧に一礼する青年をドアの外へ送り出す。キリカの寂しそうな、それでいてホッとしたような、不思議な表情。アリスを送り出すのは慣れているはずなのに、こうも唐突となると寂しい気がしてくるのが不思議でならない。

「安心してね、キリカさん。僕は日比野先生のアトリエで働くことになってるから、朝倉先生にだっていつでも会える」

キリカの表情をどうとったか、浦田青年がそう少女に声を掛ける。俺も同意し、キリカに微笑んで見せた。上手くできたかは分からない。笑顔というのはどうも苦手だ。

「お世話になりました。先生」

言葉と共に、少女は視界から去っていく。青年に手を引かれ、ゆっくりと。

「キリカちゃん、今度は優しくしてもらえるといいですね」

ゆっくりと閉じた鉄扉に目を向けたまま、ロザが言う。そうだなと一言返事をし、居間に向かってきびすを返した。

「先生、もしかして泣いてます?」

追いかけてきたロザが、くだらない諧謔に戯れる。

「泣いてない」

振り返って目を見せてやれば、残念そうに口を尖らせた。

「飯にしようロザ。午後は働くからな」

キリカの辿りつく未来が、夢あるものになればいい。高々アリス一体に感傷的になる自分が、おかしくてならなかった。

10

研究室のプレジデントチェアに腰掛け、ベッドのロザと向き合う。アリス二体との生活も終わり、一対一での、いつも通りの調律作業。漸くと日常に戻ってきた気分だ。

小さな唇から零れ落ちるロザの言葉に、黙って耳を傾ける。一晩じっくりと考えた末に出した答えを、聞かせてもらうこととなっている。

「わたしは

惑うような表情を見せながら、少女は言う。

「わたしはもっと、強くなりたいです」

「強く?」

意外な答えだ。ロザが出すであろう回答を何ら想定していたわけではないが、オーナーに従順であることを美徳とするアリスの望みとしては、少々変わった表現と言えるだろう。

「心を強く持てるようにしたい、そういうことか?」

問いかける。ここは調律工房。身体機能に何かを付加してやることはできない。万が一にも、そういった意味ではないことを確認する。

「例えば、旦那様に何か望むものがあったとして

伏目がちに、少女は語る。

「その望みが、旦那様が幸せに過ごされるためのとても大切なもので、でも旦那様が、何かに気を遣われたり誰かを守ろうとされたりして、その望みを諦めようとされた時に

少し黙り、それから、上手く言えませんと残念そうに言う。暫し待ったが口を開かないので、少々助け舟を出す。言いたいことは何となく伝わっていた。

「つまりお前は、オーナーが何かを欲した時に、その背を強く押してやれるようになりたい、というわけか。遠慮したり、変に気を遣ったりせず、オーナーのためにもっと

「がむしゃらになりたいんです」

俺の言葉を引き取り、先刻よりやや力強い口調で、少女は言う。

「色々なものをかなぐり捨ててでも、必死になれるようになりたいんです。今のわたしはきっと、旦那様が諦めるとそう決められたなら、たとえそうすべきではないと思っても、それに従ってしまいますから

何とも曖昧なことだ。恐らく何か、具体的な事案があっての発言であり、望みであるのだろう。であれば、叶えてやりたい。無論今の少女の希望を、俺なりの解釈でソースコードに落とし込んで、という形にはなってしまうが。

「わかった。じゃあ、今の話を元に調律計画を立案する。大まかな設計は今日中に仕上げるから、出来上がり次第、お前も目を通してくれ」

「はい先生」

兎角意思が伝わり、一安心と言ったところか。少女は屈託のない笑顔を見せた。

「設計はあくまでも俺の仕事だから後で一人で行うとして、まずはお前の協力が必要な作業を一つ済ませてしまおうか」

言って、デスクの大型端末を立ち上げた。設計には時間が掛かる。ロザの調律に掛けられる残日数を考えれば、アウトライン程度は今日中に仕上げるのが望ましい。進捗によっては睡眠時間も削らなければならないだろう。であれば、今日行うべき他の作業は全て終わらせ、集中できる環境を作った上で、研究室に籠もりたい。

「何を行うのですか?」

きょとんとした表情で、少女は首を傾げた。昨日からこの部屋に置きっぱなしになっていたコアラを自身の隣に座らせ、小さな手で、その頭を撫で回している。

「印象値の改変だ。お前の俺に対する印象値を、少しだけいじらせてもらう」

「印象値を。成る程」

一つ頷いて、不安げな面持ち。気持ちは分からないでもない。自分の感情を外部から操作されるのだから、良い気分であるはずがない。とはいえ、気持ちが悪いからといってそれを嫌がってしまっては、人格そのものを書き換えられる調律など論外もいいところだろう。

通常の調律作業において、人格プログラムの置き換えが行われるのは最終日近くになる。日数をかけて端末上で作成したプログラムを、最後にアリスにインストールする形をとるためだ。アリサの時もそうだった。

それに対し、印象値の修正は調律作業開始前に行うこととしている。こちらは、人格プログラムのインストール前後での態度の変化を適正に比較するためだ。当該のアリスが、普段オーナーに対しどういった態度で接しているか。それを俺が充分に理解していなければ、プログラム改修の成果の程も摑みづらい。

つまりロザは今日から、俺に対する印象値をオーナーと同じレベルまで引き上げられた状態で、工房での日々を過ごすこととなる。

プレジデントチェアから立ち上がり、ロザの唇に手を伸ばす。少女は一瞬身を震わせ、驚いたような眼差しで俺を見上げた。

「済まない、個体識別番号を知りたくて

ロザのプロパティファイルに無線アクセスするためには識別番号が必要だ。幼馴染に酷似した少女の容姿がどうにも気を緩ませるのか、妙なミスをしてしまった。どう考えたって、スリープダウンさせるのが先だ。

「あ、識別番号ですね」

驚きましたと言い添え、少女は微笑む。無理やりな印象の笑みが、何だか痛々しく見える。

「X7055_54985113です」

チェアにもう一度腰掛け、少女が口にした数字の羅列を端末に打ち込む。何をやっているんだ俺は。アリスは当然自身の識別番号を記憶している。自分で見ようとなどしないで、初めから本人に聞けば良いのだ。どうにも頭が回っていないような気がする。ロザに礼を言い、ベッドに横たわらせた。

「ロザ、SleepDownだ」

お決まりの命を告げ、少し待つ。少女の大きな瞳が輝きを失い、全身が僅かに弛緩する。直後に鼻腔からファンの駆動音。少女が弄くり回していたコアラは、枕元に置かれている。

「アリス、だよな

アリスとして正常な動作を見せた少女の姿に、どうしてか少し胸が痛んだ。簡素なベッドに横たわるは、紛れもない彼女の姿。だがそれでも、少女はロザであり、アリスなのだ。

頭を振って愚考を振り払い、俺はデスクに向き直る。ロザへのアクセスが完了した端末上で、プロパティファイルを検索。キリカに対して行ったのと同種の作業を開始する。

プロパティファイルには、アリスの持つ無数のパラメータが一通り格納されている。オーナー登録情報や各人への印象値、身体情報に付随する数字もここだ。ややあって、目的の数値が発見された。値を確認し、少し驚く。

EmotionalParamOwner=8750。ロザの、オーナーである田宮晴彦に対する印象値だ。二人の仔細な関係性は知らないが、アリスのオーナーに対する数値としては、随分と低い値であるように思う。同様の数値はアリサが9570、キリカが上限値の10000だった。

オーナーはアリスの購入時に、自身に対する印象値を任意に設定できる。オーナーへの印象値は通常下がることはないから、田宮はロザを購入した際、自身に対するそれを少なくとも8750以下の値に設定したことになる。日々の生活の中で、少しずつ育まれていく愛情を期したのだろうか。分からないが、余り考えても埒も無い。続く作業に移る。

ロザの保持している人物情報の中から、朝倉冬治を検索。該当者が1名であったため直ぐに特定できた。

アリスは新規に知りえた人物情報に対して、昇順にナンバーを振った上で、プロパティファイル内にそれを格納する。朝倉冬治のナンバーは112。俺はロザの112番目の知り合いらしい。製造年月日にもよるが、まあ標準的な社交性でもって、人間と関わってきたアリスと言えるだろう。少し安堵する。少なくともキリカのような過ごし方はしていないようだ。

自身の情報に振られた数字を頼りに、次の変数を検索する。EmotionalParam_112=8190。こちらは随分と高い。オーナーに対しての数値と殆ど差がないではないか。好かれて悪い気は無論しないが、多少怪訝にも思う。出会うや否や抱きしめようとしてくるような男の一体どこに好印象を抱いたというのか。特殊な性癖でもあるのかと疑ってしまいそうだ。

「妙な奴だな

顎に手を当て、独り言つ。後で聞いてみるのもいいかもしれないが、今は作業を進めよう。

8190の値を、オーナーと同値である8750に修正。この程度の値の変更では、恐らくロザの俺に対する態度に大きな変化は見られないだろう。プロパティファイルを保存し、作業終了。端末の電源を落とした。

ベッドで紛い物の寝息を立てる少女に再び目を向け、一つ溜息を漏らす。見れば見る程、その寝姿は幼馴染の、永峰あきらのものだ。幾ら彼女はアリスなのだと自身に言い聞かせてみても、意識は回顧に染まりそうになる。幾らそんなことではいけないと自身を律してみても、柔らかな頰に触れたいという衝動は高まっていく。

ロザの口にした願いを、もう一度思い返す。大切な人のために必死になれる強さが欲しいと、彼女はそう言った。それが彼女の願いならば、どうしたって叶えてやりたい。

あきらの願いは何だったろう。俺と共にいた当時、彼女は何を願い、どんな夢を想い描いていたのだろう。分からない。今となっては思い出せない。ただ一つだけ、それでも一つだけ、叶うことのなかった彼女の願いを、俺は知っている。

煌びやかな灯火ともしびに彩られた祭りの夜は、とうとうやってこなかった。あくまで彼女の都合とはいえ、叶えてやれなかった願いに相違はない。本人はもう、そんな昔日の想い出はとうに忘却の彼方に押しやり、幸せに満ち足りた毎日を送っているのかもしれないが、それでも。一度思い出してしまった以上、それでも俺は。

「一緒に頑張ろうな、ロザ」

楽しげに約束を交わしたあの日の彼女の笑顔を、降り注ぐ雨の中再会を誓ったあの日の彼女の泣き顔を。目の前で小さな寝息を立てる少女に何度も重ね合わせ、それから俺はゆっくりと、天を仰いだ。