アリス・エクス・マキナ
第一回
伊吹契 Illustration/大槍葦人
伊吹契×大槍葦人が贈る“未来の童話”ーー。星海社FICTIONS受賞作、遂に刊行!
Prologue
あれはいつのことだったか。
錆色の空が重たい雨を吐き出し、眼前で震える少女の肩を、髪を、しとどに濡らしていたように思う。
彼女の澄んだ大きな瞳が切なそうに震え、冷たい雨と混じり合った涙が白い頰をそっと伝っては、制服の襟に染みをつくっていた。
雨を吸い込み、重みを増した彼女の髪。長い間変わっていない紫黒色のセミロング。駆けるたび、跳ねるたび、軽やかに揺れたその髪は今、水分を含んで色艶を翳らせ、すべらかな肌に張り付いている。
大切な幼馴染だった。
互いに父は無し。俺の母の行方は知れず、彼女の母は、まだ彼女が産まれて間もない頃に病魔に倒れたと聞く。
血の縁はなく、それ以上の何が共通した訳でもない。ただ幼い頃より、それしか縋るもののないかのように、また北に咲いた一輪の花がただひたすらに雨のみを待ち続けるかのように、互いに身を寄せ合って生きてきた。
もう会えないわけじゃない。永劫の別れとはとても呼べない、ありふれた、つまらない別離に過ぎないはずだった。だが彼女の浮かべる涙が、零れる吐息が、悪魔じみた囁きとなって俺の耳を撫で続けた。再会のその日は決して来ない。お前達は二度と、寄り添い笑いあうことはない。
「冬治、また直ぐ会えるよね?」
非難するかのような眼差しで俺を見つめた彼女が、ほっそりとした指先を、俺に向かい黙って差し出す。目に涙を浮かべ、薄桃色の可憐な唇を僅かに震わせ、その手を俺が握り締めるのを待っていた。
「勿論だ。何だよお前、ちょっと遠くに行くだけだろ」
俺は何を気取っていたのだろう。何を強がっていたのだろう。彼女の指先を乱暴に摑み、幾度か振って、投げ捨てるように離したのではなかったか。俯いた彼女が、一言何か、呟いたのを覚えている。
「連絡するから。冬治も絶対、連絡ちょうだいね。会いにも来てね」
顔を上げた彼女が、縋るようにそう言った。追い詰められた心が透き通ったソプラノを蝕み、美しい音色にノイズを織り込んだ。喘ぎに似た彼女の言葉に、俺はただ何度も頷いてみせることで応えたのだ。
「わたし駄目だ。ちょっと離れるだけなのに、何でこんなに寂しいんだろ」
泣き笑いの面持ちでのその台詞を最後に、辛うじて言葉を成していた彼女の声は、嗚咽へと変わった。小さな手で自身の顔を覆い、弱々しく儚げに、その肩を震わせた。
大丈夫だ。お前の言葉の通り、俺達はほんの少し離れるだけなんだから。
海を渡る訳でもない。黄泉路を下る訳でもない。きっと直ぐにまた会える。きっと直ぐに、笑顔で言葉を交わせるようになる。
彼女の面差しに、悲痛な想いに触発されてか、俺の胸にも徐々に質量を増す哀情が圧し掛かった。
ともすれば震えてしまいそうな唇を固く結び、気の昂ぶり故か寒さ故か、上手く動かぬ指先で、彼女の濡れた髪を優しく撫でた。
口を開けば言葉にしてしまいそうで、ただ彼女を困らせるだけの台詞を、何度も口にしてしまいそうで。胸の中で、彼女の問いかけへの答えを幾度も呟きながら、俺はゆっくりと天を仰ぎ見たのだ。
何故だろう。何故あんなにも、不安に駆られたのだろう。大したことではないはずなのに。幸せにつながる別れなら、微笑まねばならないと分かっていたはずなのに。笑顔で、とびきりの明るい声で、送り出してやるべきだと知っていたはずなのに。
耳の奥に、胸の奥に、彼女の弱々しい嗚咽がいつまでも響き続けた。それは大切な人の奏でる、悲哀の音色。俺の記憶の中にある、彼女の最後の音色。
そう、あれはいつのことだったか。
彼女と最後に言葉を交わしたあの日は、いったいいつのことだったか。
今となってはもう、思い出すことすら、かなわない。
Chapter.1 アリサ
1
「T3200、聞こえるか?」
少女がゆっくりと瞳を開く。その様を確認し、俺は胸に抱えた小型端末に電子ペンを走らせる。SystemAllGreen。ベッド脇に腰掛けて上体を軽くひねり、寝そべる少女の額に手を当てる。そのまま首筋に指先を滑らせ、内部機構の奏でる僅かな駆動音を確認した。
「OKだ。T3200、ReBootだ。起き上がってみてくれ」
体温調節機能及びギア駆動、触診上も問題なし。小さな掌を軽く握り、少女に身を起こさせる。数秒の沈黙。突如はっとしたように大きな瞳を見開くと、少女は俺の手を乱暴に振り払った。
「ちょっとっ、気安く触んないでよっ。このヤブ医者っ」
甲高い声で叫ぶと、素早く身を引き細く端整な眉を吊り上げて俺をねめつける。僅かに上気した頰が、LEDランプに照らされて妙に輝いて見える。一つ溜息。だがこれでいい。
「気分はどうだ?」
端末をサイドテーブルにそっと置き、もう触れないよと両手を開いて見せてから、問いかける。鋭い眼光はそのままに、少女は呟くように答えた。
「いいわけないでしょ……。あっちこっち触られたし……」
漸くと俺から視線を外すと、不快感と羞恥心がぶり返したのか、少女は僅かに目を細める。艶やかなグレーブラウンの髪と、それを彩る青いリボンが小さく揺れた。
「診察の一環なんだから、仕方ないだろ? それにもう終わったんだ。あんまり怒るな」
サイドテーブルの端末を再び手に取り、部屋の隅に設置されたデスクに移動する。
引き出しから親指程の金属棒を取り出すと、先端を液晶画面に向けた。小さな駆動音と共に、金属棒に刻まれた1㎜程の溝が赤く明滅する。同時に小型端末の電源が落ちた。オートマティックシール。液晶画面のハードキャプチャを瞬間的に取得する道具だ。
デスクに備え付けられている大型の液晶パネルと無線でリンクしているため、この操作で小型端末に入力した内容は全てデスクの本体に移されたことになる。今更だが、便利な世の中になったものだ。
「で、調子はどうだ? T3200」
尋ねれば、少女は押し黙る。視線を自身の足元に向けたまま、少しして、小さく唇を動かした。
「型番で呼ばないでよ。わたしにはちゃんと、アリサって名前があるんだ」
悔しそうにも、あるいは寂しそうにも聞こえるそんな調子で、少女は呟く。一瞬の間の後、ヤブ医者、と一言付け足した。
「ああ、悪かったよアリサ。それじゃついでに俺のことも、ちゃんと呼んでもらえるか? 医者じゃなくて調律師なんでな。朝倉先生とか、冬治さんとか、ヤブ医者でさえなければなんでもいいぞ」
微笑んで見せ、それから手の中の銀筒をデスクに放る。変わらず俺の顔を見ようとしない少女に、重ねて問いかけた。
「兎に角、どこか異常はないか確認したい。お前の感覚でいい。答えてくれ」
デスクの上のプラスティックボトルを手に取り、差し出しながら尋ねる。ボトルを受け取り、軽く伸びをしてみせると、少女は頷いた。「問題ない」ととって良いようだ。
「ならいい。作業はこれで完了だ。お疲れ様」
ほっとしたせいか、直前の遣り取りを一瞬忘れた。頭でも撫でてやろうと手を伸ばし、思い切り振り払われる。続いてボトルが飛んできた。
「触んなって言ってんでしょっ」
すんでのところで身をひねって避けたボトルは壁にぶつかり、サイドチェアの上へ。置いてあった小型端末に少し、モノトーンのワンピースに盛大に、内容液をぶちまけた。
「ったく……」
大きく溜息。さすがにやりすぎたと思ったのか、少女も押し黙る。
「元気そうで何よりだ」
叱責の声に身構える少女にそう告げると、サイドチェアに向かった。
2
抵抗するアリサを苦労して寝付かせ、居間に戻った。
居間は職場と屋根を同じくする居住空間の一室で、先刻までアリサの罵詈雑言が響いていた研究室とは、廊下を一本隔てた真向かいにある。
固めのソファに腰を沈めると、サイドテーブルに備え付けられたタッチパネルに指を滑らせた。広さにして8畳程の洋室の隅、簡素なキッチンからゴトゴトとミルの挽かれる音が響く。背もたれに完全に身を預けると、天を仰ぐようにしてゆっくりと目を閉じた。
Automatic LivingDoll Common(Custom)Edition。通称ALICE。10年前に国内最大の精密機器ベンダーであるPhysical Illusion社から発売された女性型アンドロイドだ。15歳程度の思考能力と語彙力を有し、10歳女子程度の運動能力を備えている。極めて精緻な人格プログラムと体表を覆う人工皮膚の恩恵で、外貌と行動だけで見たのなら、人間の少女と僅か程の違いもない。
一体1250万円という高額な商品であるにも拘わらず、ALICEは発売から僅か1年で100万体を出荷。Physical Illusion社は発売年度の業績予想で、当初発表に比して経常利益270%増ともなる上方修正を最終的に迫られることになった。
同商品の爆発的なヒットを受け、4年前には業界2位の精密機器ベンダーであるTIMEWORKS社が、2年前には自動車産業に於ける国内最大手の沖自動車工業が、相次いで類似商品を市場に投入。高性能アンドロイド市場は盛況の一途を辿っている。
世紀末も近い近年、21世紀最大のヒット商品ともなる可能性を秘めているとして、全国的にアリスの販売強化キャンペーンが各社勢いを増している。
「子宝に恵まれなかった夫婦の究極的な癒しとして、あるいは、永続的に稼動し続ける最強の家事手伝い、ベビーシッターとして」――Physical Illusion社のALICE開発プロジェクトを特集したドキュメンタリー番組で、以前販売責任者がそのような発言をしていた。だが妄言だ。開発プロジェクトの定義段階でどれ程に清廉な目的があったかは知らないが、アリスの爆発的なヒットの理由は他にある。
それはアリスの体軀の「ありとあらゆる部位」が人間と同様の造りをもっているということだ。
無論アンドロイドである以上、人間が感じる諸般の感覚は持ち合わせていない。痛みを感じることはなく、片腕が切断されようが平気で動き続ける。子を産むこともできず、涙を流すこともない。髪、睫、眉、陰毛を除いた体毛は元より生えておらず、一度抜けたものが再び生え揃うこともない。ただ、股関節付近に位置する例の部位は、極めて精巧に形作られている。出産という機能が存在せず、また排尿もしないにも拘わらず、そのためのパーツは存在するのだ。それが何を意味するかなど、言わずもがなだろう。
キッチンから良い匂いが漂ってきた。珈琲が入ったらしい。サイドテーブルに再び手を伸ばし、タッチパネルの右下に表示された「Discharge」のアイコンに触れる。キッチンに置かれた円筒状の無機質な珈琲メーカーからマグカップに珈琲を注ぐ音が聞こえ始めた。
部屋隅のキッチンまで数歩歩くと、マグを取り、再びソファへ戻る。砂糖もミルクも必要ない。珈琲メーカーは事前に設定してある俺の好みにそって、それらを既に投入してくれている。淹れたての珈琲の香りを楽しみながら、俺はふと、アリサの顔を思い出した。
勝気につり上がった細い眉。意思の強そうな大きな瞳。大げさな身振り手振りで、俺に対し怒りらしきものを訴えていたアリサ。はねっかえりで強気なあの性格は、彼女の内部に組み込まれた人格プログラムによるものだ。
人間のような、複雑怪奇な本物の感情、意思ではなく、あくまでプログラム。プログラムによって彼女の性格は形作られ、形作られた性格に基づき、言動の決定が行われる。
プログラム。あくまでもプログラム。プログラムは、書き換えられる。
「朝倉先生ですね?」
10日前、事前の連絡通り来訪した少女は、玄関ドアを背に優しい音色を響かせた。
「本日からお世話になります。ALICETタイプ3200です。旦那様からは、アリサという名前をいただいております」
柔らかな笑顔で、落ち着いた口調で、少女は丁寧に俺に頭を下げた。どこか仄々とした、有態な言い回しだが、春の日の陽光のような暖かな雰囲気が、とても印象的だった。
日に6時間、計60時間をかけ、俺は「仕事」を済ませた。
アリサが非常に協力的であったこともあり、作業は極めて円滑に進んだ。アリサの稼動状態について簡単なチェックとメンテナンスを行い、人格プログラムのバックアップを取得した。研究室に保存してあるニュートラルプログラムをコピーし、依頼主から事前に渡されていた要件書に従って、新しい人格プログラムを生成した。
完成したものを、アリサにインストールしたのが今朝方。人格プログラムを書き換えられた姫君から飛び出たのが、先程の罵声という訳だ。
「調律師 朝倉冬冶工房」。この建物の外壁には、シンプルな明朝体で文字を記した、そんな看板が取り付けられている。助手の類はおらず、「調律師」である俺一人で切り盛りしている、小さな工房。工房と名づけてはいるが、コレは業界の慣習に従っただけのもので、内部は極めてメカニカルだ。旧時代的な代物とは違う。
「調律師」はアリスの発売と同時に誕生した、非常に新しい職業だ。アリスの開発プロジェクトに何らかの形で携わった技術者が独立開業しているケースが多く、俺もその経緯を辿った一人に数えられる。
消費者はアリスを購入する際、その外貌と性格とを数万種類のパターンの中から選択する。基本的に永続的に稼動するアリスは、購入者、いわゆるオーナーにとっても、非常に長い時間を共に過ごすパートナーとなる。より自身の好みに合致したアリスを選択できるようにと考案されたシステムで、この販売形式がアリスヒットの原動力の一つとなったのは間違いない。
ただ髪型、肌色、顔の造り、乳房のサイズなど、それぞれの組み合わせによる外貌の選択肢が無数に存在するのに対し、複雑な人格プログラムにより構成される性格は、そう多くのパターンを持たない。
それ故に、最も好みに近い性格を選択したものの、もう少し従順であれば、もっと社交性を備えていれば、など、購入後にアリスの性格に関して大なり小なり不満や改善の要を感じるオーナーが、かなりの数存在するのだ。そこで、そういった要求に個別対応するのが俺たち調律師の仕事となる。
依頼者であるオーナーからアリスを預かり、事前に記載してもらった要件書に従って、希望通りの人格プログラムを作成、挿入することで、アリスの人格を強制的に改変する。この人格プログラム改変の一連の作業を「調律」と呼び、その効果の程は、朗らかで礼儀正しかったアリサの罵詈雑言が表す通りだ。
「さて……」
珈琲を飲み干し一息ついた俺は、ソファから大仰に立ち上がる。カップをキッチンの洗浄機上に置くと、そのまま居間を出た。
研究室に戻ると、直ぐにデスクに向かった。腰掛けたプレジデントチェアの背後から、アリサの寝息が微かに聞こえている。本当に眠っているわけでもないだろうに。無駄に凝ったアリスの造りに、思わず苦笑めいた笑みがこぼれた。
俺を含む「調律師」は、アリスの行動論理など内部システムの専門家であり、アリスの全身を覆う人工皮膚やアンドロイドとしての素体の構成などの機械的部位については然程の知識を持っていない。機械製品が奏でる呼吸音。結構なことだ。
デスクに備え付けられた電子パネルを操作し、アリサの調律依頼書を表示させる。パネル上に専用のペンを滑らせ、依頼書右下に調律完了のサインを記した。表示を要件書に切り替え、同様にすべての要件を満たしている旨を示すチェックを入れていく。
サインの終わった書類を消し、表示をスケジュールに切り替えた。アリサのオーナーが彼女を迎えに来るのは明後日となっている。調律の作業は先程のサインですべて完了となるので、丸2日程暇ができたわけだ。軽く伸びをし、さて何をしようかと思案する。
調律を開始する際、たいていのアリスは俺の工房まで一人でやってくる。アリスの思考能力は人間でいうところの15歳程度。工房の場所さえ教えておけば、オーナーが付き添ってくる必要はないわけだ。余程距離があれば話は別かもしれないが、まあその場合は普通、もっと近くの工房を利用するだろう。実際アリスの調律工房はいたるところに存在する。
調律開始時にアリスが単独で工房を訪れるのに対し、調律完了後の引き取りは、必ずオーナーが迎えに来るよう頼むようにしている。一言でいうならば、トラブル防止のためだ。調律の成果を工房で直ぐ確認してもらい、必要であれば簡単な調整程度は無料で行う。
アリサのオーナーは元村というよく肥えた中年の男で、成金趣味丸出しのやや気難しそうな、はっきりと言ってしまえば面倒くさそうな人物だった。確認段階で何かしらの注文をつけてくる可能性はそれなりにありそうに思える。
「起きろアリサ。ReBootだ」
チェアをまわしてアリサに向き直り、やや大きめの声で呼びかける。微かな呼吸音が止まり、少女の大きな瞳がゆっくりと開いた。
立ち上がって手を差し伸べれば、アリサは視線を素早く伏せる。不機嫌そうに表情を歪めた少女は、心なしか照れくさそうに見える。
「どうした?」
問いかけると、少女は戸惑ったように一層顔を背けてしまった。
「なんでもない。てゆうか、何よこの手……」
ボソボソと、呟くように言う。
「起き上がるのに手を貸してやろうかと思っただけだ。何か不愉快だったか?」
「別に不愉快とかじゃ、ないけどさ」
こちらに視線を合わせず、また口元で喋る。不毛な遣り取りに苛立ち、アリサの右手首を摑むと、強引に立ち上がらせた。強く引かれバランスを崩した少女が、俺の胸に倒れこむ。鼓動を聞くかのごとく俺の心臓部に頰を寄せ、アリサは一層表情を強張らせた。
「怒ったか……?」
少々乱暴に過ぎたかと思い、慎重に尋ねる。少女は緩く首を振り否定の意を示すと、視線をそらしたまま俯いてしまった。
「ふむ……」
本来であれば理解に苦しむ反応ではあるが、この反応の根源的要因は把握している。言うまでもなく、俺が改修した人格プログラムの行動分岐に準じたものだ。
青春ごっこにケリをつけるようにグレーブラウンの髪を軽く撫でると、少女の肩をそっと押す。サイドテーブルを親指で指しながら告げた。
「そこに替えの服が置いてある。直ぐに出るからな。着替えてくれ」
指差した先には、薄いブルーのワンピースが置かれている。丁寧にアイロンが掛けられ、畳み方には僅か程の乱れもない。人格プログラム改修前のアリサが、調律の折をみてやってくれた作業だ。本来の持ち主は以前この工房にいた別のアリス。要は忘れ物だが、取りに来ないので使わせてもらっている。
姫君は微動だにしない。いや、微かに頷いたか。俯いた少女の瞳に映っているのは、おそらく真っ白なリノリウムの床だけだろう。「そこ」を正確に理解したか怪しいものだが、長く付き合っていても埒も無い。背を向け、静かに研究室を出た。
3
「全く……」
何度目かの溜息が漏れ出る。随分と難儀な性格になったものだ。オーナーの元村の要望に従い人格プログラムを改修したが、なぜ高い金を払い、わざわざ面倒な性格に変えるのかとうとうわからなかった。アリス本来の存在意義が生活をオールマイティにサポートするパートナーとするならば、10日前の素直なアリサの方が何倍も良いだろうに。
居間の戸を開け、歩きながら白衣を脱ぐ。壁のハンガーにそれを掛けながら、ふと、あの有難くない呼び名はコレのせいかと思い至る。安易な発想だが、まあいい。ならばもう医者ではない。
クローゼットから外出用の上着を取り出す。この5年程愛用している、牛革のトラッカーだ。細身の体にはよく似合うと自負しているが、友人らからの評判は芳しくない。本革が醸し出すやや野生的なイメージと、無表情と揶揄される顔立ちとのアンマッチが原因らしい。無表情、上等だ。ポーカーフェイスってヤツだろう。クールでいいじゃないか。
デスクから工房のカードキーを取り上げると、再び廊下に出た。さて、新しい服は姫殿下のお気に召しただろうか。研究室のドアを軽くノックし、声を掛ける。
「アリサ……」
「いま開けたら殺すっ」
言い切らぬうちに応答があった。さっきのだんまりはどこへやらだ。
「玄関で待ってる。着替えたら来い」
一人玄関へ向かいながら、苦笑する。いま開けたら殺すとは大したものだ。オーナーと同状況に対峙しても、同じ台詞を吐くのだから。
調律を行う際、俺達調律師はアリスに対し、少々特殊な処理を施す。オーナーに対してと、実際に作業をする調律師に対して、対象のアリスが同一の態度をとるよう仕向けるのだ。コレを行うか否かで、調律完了後の成果確認の難度が大きく変わってくる。
アリスは自身のプログラム内に、印象値と呼ばれる変数を保持している。自身が関わった人間、新しく存在情報を得た人間に対して、それぞれ個別に印象の良し悪し、インパクトの強弱を数値化して保有するのだ。
印象値は0から10000までの整数で、この数値が大きい程対象の人物に対して好意的な態度をとるようになる。0であるならば会うだけで顔をしかめるだろうし、逆に限界値の10000であるならば靴の裏ですら喜んで舐めるだろう。値は当人がそのアリスとどのように関わったかでリアルタイムに変動し、元の数値が両端、0もしくは10000に近い数値であればある程、一回の関わりにおける変動幅が小さくなる。
オーナーはアリスを新規に購入する際、自身に対するこの印象値を任意に設定し、さらに数値低下に対するプロテクトを掛ける。このプロテクトにより、オーナーに対するアリスの印象値は低下することがなくなる。アリスが自身のオーナーを嫌ってしまうという状態を避けるためだ。
便利なシステムではあるが、個人的にはあまり賛同する気になれない。極端な話最初に10000の印象値を設定してしまえば、たとえそのオーナーがアリスを毎日のように迫害しようとも、アリスは精一杯の愛情をその人物に注ぎ続けるのだから。
現在のアリサの元村に対する印象値は9570。俺に対する印象値も9570。元村に対する値は元来のものだが、俺に対するそれは、調律開始時に改変した言わば偽りの数字。
アリスは印象値に基づいてその人物に対する自身の態度を決定する。オーナーに対してと同一の態度を取らせる処理というのが、つまりこの改変を指すわけだ。
ちなみに工房訪問時のアリサの俺に対する本来の印象値は6620。俺に対して抱く好感の度合いが約1・5倍になった結果、呼び名が朝倉先生からヤブ医者に代わるのだから素晴らしい。プログラム改修後のアリサの性格がいかに捻くれたものかが良くわかる。
玄関にかがみこみ靴紐を結んでいると、背後から乱暴な足音が聞こえた。どうやらご到着らしい。新しいドレスは姫君の眼鏡に適っただろうか。
「ちょっと。何よこの服っ」
振り返るより先に焦ったような台詞が飛んできた。やはりそういう反応か。目を合わせるのは中止し、殊更時間を掛けて靴紐を結ぶ。
「スースーするし、変なフリフリついてるし……。ていうかこっち見なさいよっ」
キンキンと五月蠅い。仕方なく振り向くと、淡いブルーのワンピースに身を包んだアリサが仁王立ちしている。頰を僅かに染め、小さな両の手は胸元で握り締められている。「フリフリ」は、どうやら肩口のレースの装飾のことらしい。
「スースーはしないだろ。そんな感覚を認識する機能はついていないはずだ」
「言ってみただけよっ。いちいち五月蠅い」
一層声が大きくなる。火に油を注いだらしい。だが改修結果を確認するには良い流れだ。少し好意的な意見を述べてやることにする。
「だが何が不満なんだ? アリサに良く似合ってる。すごく可愛らしいじゃないか」
優しい口調を意識しはしたが、感想そのものに偽りはない。アリサは文句のつけようのない美少女だ。少々幼い印象はあるが、それだけにこの手の服は良く似合う。まあ容姿に優れているのは、大抵のアリスに共通して言えることでもあるが。
「どうした?」
ただでさえ大きな瞳をいっぱいに見開いたまま、アリサは硬直している。下から瞳を覗き込むと、先程研究室でやってみせたのと同じように、視線をそらして俯いた。
「どうしても嫌なら着替えなおしてきてもいいぞ。まあその場合、さっきの服しか選択肢はないが」
多くのアリスは工房を訪れる際、着替えの類を持参しない。余程滞在が長くなるなら別だが、精々が2、3週間の滞在なら、そういったものを必要としないのだ。
アリスの体を覆う人工皮膚は見た目や触感こそ人間のそれと近似しているが、結局のところ人工物。発汗に代表される代謝現象は起こり得ないし、付着する菌や汚れの類も、ある程度のレベルまでではあるが、自動的に分解することができる。つまりは、そうそうに汚れることがない。
今回のアリサも例に漏れず、替えの服は持参してこなかった。さっきまで着せていたのはアリサにはあまりに大きすぎる俺の部屋着。本人が着てきた一張羅は、今朝方のスリープ解除時の大暴れで、姫君御自らオイルまみれにしている。
「さて、どうする?」
立ち上がって少し膝を折り、アリサに目の高さを合わせる。小さな唇が動いた。
「ほ、ほんとに、変じゃない……?」
予想通りの感情分岐。極めて順調だ。
「ああ。すごく可愛らしい」
言っていてやや気味が悪くもあるが、我慢しよう。次に彼女が口にする台詞は恐らく、
「じゃあ……これで、いい」
想起した台詞と、少女の発した音声が綺麗に重なる。調律の成果はやはり上々のようだ。
「よし」
まだ少しふわふわして見えるアリサに靴を履くよう促すと、玄関ドアを開け先に外に出る。開いたドアを靴で押さえアリサを待ちながら、何とは無しに空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっている。これ以上ないくらいの快晴だ。
「お待たせ。うわ、いい天気」
靴を履いたアリサが、ひょこひょこと玄関から出てきた。俺がそうしたように、青空を見上げて大きな瞳を細めてみせる。微笑ましくもあり、馬鹿馬鹿しくもある光景だ。僅かにこぼれた笑みにアリサが気付く。目ざといことだ。
「何よっ?」
馬鹿にされたとでも思ったか、もう頰を膨らませている。
「いや、よくできていると思ってな。見た目じゃわからんが、眼球の中にあるのは超高精度レンズだろ? 眩しさは苦痛ではないはずだ」
「そりゃまあ、そうだけどさ……」
露骨な機械扱いに不満そうにしながら、気分よ気分、などと嘯く。それにしても、ころころとよく表情の変わるアリスだ。我儘なのは大いなる欠点だが、見ていて飽きないという意味においてだけは、この性格も悪くない。いや駄目か、それじゃただの玩具だ。
「そういえばアリサ、お前何㎝だ?」
カードキーで玄関ドアに施錠しながら、アリサに問うた。直ぐに良くない聞き方だと気付く。訂正しようとしたが、少女の反応の方が早かった。
「何㎝って、どこのサイズ?」
当然だ。アリスに対しては、この手の聞き方をしても伝わらないことが多い。曖昧に過ぎるのだ。
「済まない。聞きたかったのは身長だ。車に乗るんでな」
この20年程で、いわゆる自動車の性能は著しく向上した。車体そのものの頑強さ、事故時における搭乗者の保護機能。個別に挙げればきりがないが、その代償として、搭乗時にはやや手間が掛かるようになった。
「ああ、登録か。ちょっと待って」
今度は質問の意味を理解したらしく、立ち止まって最新の身体情報の取得を開始する。眼球の中央部、人間で言うところの瞳孔の部位に一瞬青白い光が明滅し、直ぐに消えた。スキャンが完了したらしい。
「150・23895。あ、ちょっと縮んでる。変なの」
スキャンに掛かったのは約2秒。便利な機能だ。まあ小数点以下は不要な情報だが。
「体重は?」
「ななじゅ……ってちょっと待った」
気が付いたようだ。乗車に必要な登録情報は身長のみ。体重はシートが自動的に感知する。
「良く気付いたな。だが十の位は聞こえたぞ。中々の重量感だ」
「このっ……」
言って、少女は悔しそうにセラミックの歯を軋ませる。ちなみにアリスは基本的に重い。骨格始め内部は機械なのだから当然だ。見た目、触感、動きの滑らかさ。いかに人間に近づけようとも、重量は誤魔化せない。
見た目から予想するに、アリサがもし人間の女性であったならば、恐らくは40㎏そこそこの体重しかないだろう。購入者がお姫様抱っこにチャレンジした結果、腰をやったという話も稀に聞く。
「ほら、いくぞ」
工房前に停車してある車に向かい、運転席のドアに刻まれたスリットにカードキーを滑らせる。車のキーと工房の鍵は同一化している。運転席に乗り込み、内側から助手席ドアのロックを解除した。アリサが乗り込んでくる。
「ねえ、身長が縮んだの。前回スキャンした時は150・24002あったのにさ」
「そのくらいの違いはでるだろう。0・001㎜程度じゃないか」
人間の身長も朝が一番高く、夜になるにつれ縮んでいくと聞く。よくは知らないが。
「ほら、ドアちゃんと閉めろ。直ぐに出すぞ」
言いながら、スピードメーター横のパネルに手を伸ばす。アリサの身長を登録。続いてシートが感知した体重が自動的に登録される。さっきの70云々ってやつだ。搭乗者のプライバシーに配慮してか、こちらは画面には表示されない。ふと横を見ると、シートベルトを装着し終えたアリサが、俺の作業を興味深そうに見つめている。
「ねえ、これって何のためにやってるの?」
「何だ。知らないのか?」
意外だった。未登録の知識だったらしい。オーナーの元村が、あまり車を運転しないのかもしれない。
「追突事故なんかの時に、保護機能が働くのは知ってるか?」
アリサが頷く。
「エアバッグが出たり、緩衝シールドを展開したりってやつでしょ?」
「そうだ。エアバッグをどういう角度と密度で放出するか、緩衝シールドを何層に展開するか。搭乗者の身長体重で、最も効果的な値が変わってくるんだよ。そのための登録だ」
「ふーん……」
何度も小さく頷きながら、しかし視線は登録パネルから外さない。こういったものに興味があるのだろうか。まあ機械同士仲良くするといい。
「理解したか?」
「うんうん、理解した。ありがとっ」
アリスは基本的に、習得した知識を永続的に保有し続ける。メモリに登録されてから長期にわたり使用されることのなかった情報は予備用のメモリに移されてしまうので読み出しに時間が掛かることはあるが、メモリのどこかには必ず残っている。それだけに、教え甲斐があると言えばあるのだ。
ナビを起動させ、登録してあるルートを呼び出す。シフトレバーを握った。エンジン音が響き、車が動き出す。
「あのさ……わたしの調律って、上手くいったんだよね?」
随分と真剣な声色。唐突な質問は、しかし無視できる類のものではなさそうだった。
「そう思ってるよ。なんだ、不安か?」
聞くと、少し目を伏せて頷いた。先程までの無駄な元気はどこへやら。随分しおらしい。
「お前のオーナー、元村さんの要望どおりに、俺は調律を進めたつもりだ。要件書に書いてもらった条項は無論すべて満たしている。ただし、元村さんが100%満足するかまでは保証できん。つまるところ主観だからな」
可能な限り優しい口調を心がけ、しかし言葉を選んで喋る。あまり適当なことは言いたくなかった。
「わかるけど……。でもさ、アンタが見てる限りでは、わたし上手く、遣り取りできてるんだよね?」
少女の声に僅かに焦りが混ざる。どうやら本当に不安らしい。
「ああ。それは間違いない。今までの調律成果に比しても、すこぶる順調だ」
そう不安がるな、と付け加え、左手で軽く頭を撫でてやる。アリサは驚いたように一瞬目を見開くと、少しはにかんでから僅かに俯いた。旦那様、喜んでくれるかな、などと呟く。大丈夫さ、きっと。
「お前、音楽は聴くか?」
しんみりと、僅かに濡れた空気を振り払うように、話題を転じた。ナビのタッチパネルを操作し、表示をオーディオに変える。取り込み済みの音楽が一覧で表示された。
「好きなのをかけろ。結構入ってるぞ」
促すと、一応興味は引かれたのか、白い指先が液晶に伸びた。少し前屈みになり、画面をスクロールさせ始める。シートベルトが食い込み、小さな胸が苦しそうだ。
「んー……」
次々に表示を切り替えながら、時折妙なうめき声を漏らしている。画面上に表示されているアーティスト名と、自分の好みとして設定されている情報とを照合しているのだろう。さて何を選ぶのやら。
「んー……」
「おい。まだか」
随分と時間を掛けているので、痺れを切らして声を掛けた。好みの音楽が見当たらないのか。俺は比較的音楽をよく聴く。アイドルと演歌歌手は除いて、オーディオにはそれなりに幅広いジャンルのアーティストが登録してあるはずだ。
「好みのが見当たらないのか?」
聞くと、少女は漸く画面から指を離した。大きく頷いてうんと言い切る。しおらしくいる期間は終わったらしい。
「一個もねえのかよ。お前家ではどんなの聴いてるんだ?」
アリスの趣味嗜好は、オーナーのそれと合致することが多い。オーナーの好みは自分の好み。人格プログラムの基本的なベクトルでもある。元村は恐らく50歳前後。演歌が好みという可能性も、まあなくはない。
「SHARPとか、BLADERSとか……」
ぽつぽつと、よく聴いているらしいアーティスト名をあげる。真逆だ。どちらもアイドルユニットじゃないか。無論俺のオーディオには登録されていない。
「なんだお前、アイドルが好きなのか?」
アリサがあげた二つは、どちらも確か男性数人組のアイドルグループだったはずだ。しかしやや古い。2、3年前が人気絶頂だった連中だ。幼い外貌のアリサが言うと違和感を覚えないが、アリサと二人暮らしだと言っていた元村がそれらを聴くとはとても思えない。自分の好みとは別に、アリスの好みを設定したのだろうか。
「まあ、好きって言うか……うん、まあ好きだけど……」
はっきりしない。だが凄まじくどうでもよくもある。
「聴くか? 聴くならダウンロードできるぞ」
ナビと一体になったオーディオは、衛星を通じて音楽配信会社の専用サーバにネットワークされている。有料にはなるが、聴きたい曲はタイムレスでナビに落とし込むことができる。しかしアリサはふるふると首を振り、少し勢いをつけてシートに倒れこんだ。
「アトリエ、遠いの?」
前を見つめたまま、またも唐突に少女は問うた。教えてもいなかった行き先は、しかしきちんと伝わっていたらしい。
「いや、直ぐに着くよ。もう10分も掛からない」
同じように前を見たまま答える。この先三つ目の信号を左折すれば、あとは一直線だ。
「そっか。あ、てかねえ、喉渇いた」
ころころと話題が変わる。やはりこいつと喋るのは疲れる。
「そういうのは工房を出る前に言えよ」
「だってその時はまだ喉渇いてなかったんだもん」
返事の代わりに一つ息を吐き、シフトレバーを握った。路肩に停車する。
「そこにジャンクショップがある。売ってるだろ」
少し身を乗り出し、助手席側の窓から外を指差す。十数m先に、灰色の無機質な建物が見える。見事なまでの直方体で、大きなガラスドアに「JUNK」の文字が記されている。
「買ってくれるのっ?」
急に笑顔になって、しかしやや不安そうに、アリサが俺の顔を覗き込む。
「お前、金は?」
「ポーチの中」
視線を下げ、アリサのシート付近を一瞥する。ワンピースから突き出た白い太股。ポーチらしきものは見当たらない。
「ポーチは?」
「工房の中」
だろうな。工房を出る時から、アリサは何も持っていなかった。
「お茶でいいか?」
「いいよ。お客様から預かった大事なアリスが壊れてもいいのなら」
「くそっ」
尻ポケットから財布を取り出し、小さな手に紙幣を一枚握らせる。一番でかいヤツだ。追い払うように手を振って、早く行くように促した。意気揚々と、アリサが車を降りる。ジャンクショップに駆け込んでいった。小さく舌打ち。工房に戻ったら徴収しよう。
アリスは当然、食物から栄養を摂取するようなことはない。食事は採らないし、採ることもできない。アリスの動作に連動して回転するモーターが電力を生み出し、消費電力の大部分を相殺するため、電源の供給も基本的には不要だ。
稼動状態を維持するために唯一必要なのが、マシーナリーオイルと呼ばれる油だ。水に近い触感の極めて粘度の低い液体で、アリス内部における潤滑油及び不足分の電力を生み出す燃料の役割を果たす。オイルの摂取は口から行うため、「喉が渇いた」などという人間臭い表現が為されるらしい。購入時に付属するマニュアルにも記載があるが、「喉が渇いた」は「潤滑油の残量が残り少ない」と読み替えなければならない。まあその表現をオーナーが理解しなければ、アリスは自分で説明を行うことができるわけだが。
「おまたせっ」
プラスチックのボトルを抱えたアリサが、勢い込んで戻ってきた。ボトルから突き出たストロー状のチューブを小さな唇に咥えこみながら、すと右手を差し出す。俺の掌に、数枚の硬貨が乗せられた。
「札は?」
尋ねれば、不思議そうに小首を傾げる。
「いくらだった?」
「9480円」
自分のこめかみが、ぴきりと音を立てたような気がした。よりにもよって一番高価なヤツを買いやがった。いや、間違いなく故意犯だな。
「工房に戻ったら徴収するからな」
痛い出費だが、後で請求すれば何の問題もない。だがアリサは首を振る。
「わたしそんなに持ってないよ。お財布、2000円くらいしか入ってなかったもん」
もう諦めよう。無言でハンドルを握る。とっととアトリエに行かなければ。
「身体で払うよ、身体で」
音を立ててオイルを吸い込みながら、少女はけらけらと笑う。
「働いてくれるのか?」
肯定されても、あまり期待は持てないが。アリサはまた首を振ると、少しイタズラっぽい顔つきで、ワンピースの裾をちらりとめくって見せた。白く細い太股が、尻近くまで露わになる。期待してるくせにーなどと嘯く。
「調子に乗るなロボ」
「ロボって言うなっ」
くだらない遣り取りに時間を費やす内に、目的地に到着した。俺の工房より一回り大きい、洒落た外観の建物。「Atelier HIBINO」の看板が外壁に見える。三台分ある駐車スペースの一番奥に停車すると、エンジンを切った。オイルを飲むことに夢中になっているアリサを追い出し、俺も車を降りる。アトリエを見上げた。
4
ヨーロピアンスタイルのやや古風な建物には全体に流麗な装飾がなされ、さながら小さな宮殿のようだ。二階に見えるガラス張りの温室が目を引くが、あれは経営者の趣味だろう。入り口に近づくと、木製の自動ドアが左右に開いた。来客を告げるオルゴールの音色が控えめに響く。
「いらっしゃいませ。あら冬治さん」
受付のカウンターに座っていた女性が俺の姿を目に止め、一瞬驚いたような顔になる。だが直ぐに笑顔を見せてくれた。
「美優ちゃん久しぶり。孝一のやつは?」
「いますよ。ちょっと待ってくださいね」
カウンターに載せられた旧式のベルが、細い指先に鳴らされる。目的の人物は二階にいるようだ。直ぐに下りてくるだろう。
「今日はどうしたんです? 冬治さん、あまり訪ねてきてくださらないから。驚きました」
言って、美優は俺の背後からきょろきょろと辺りを見回しているアリサに目を止める。声を出さず、唇を動かした。「冬治さんの?」そう聞いているようだ。首を振って否定する。
「ほらアリサ、挨拶しろ」
促すと、アリサはおずおずと前にでる。
「ここのアトリエの主人、孝一って言うんだけど、俺の知り合いでな。で、こちらは奥さんの美優ちゃんだ」
「はじめましてアリサちゃん。日比野美優と言います。よろしくね」
少しかがみこむようにして、アリサの顔を覗きこんだ。美優は女性としては背の高いほうだ。アリサとは10㎝以上身長差があるように見える。はねっかえりがきちんと対応できるか不安だったが、予想に反してアリサは丁寧に頭を下げた。
「ALICETタイプ3200、アリサです。よろしくお願いします」
青いリボンがふるりと揺れる。美優が微笑んで応じた。
「クライアントのアリスでさ。丁度調律が終わったところなんだ。メイクと髪型のサンプルが採りたくてね」
「あら。それも依頼として受けられたんです?」
「まさか。時間が空いたからね。オーナーさんが調律後にアトリエを使うようなこと言ってたからさ、サンプルだけでもいくつか提示してやろうかと思ってね」
元村から調律依頼を受けた際に、相談された内容を思い出す。僅かだがアリサの外見を変更したいらしく、その場合どうするべきかというものだった。何をどのように変えたいか、元村がご丁寧に説明してくれたので、CGで作成する変更後のサンプル画像を、アリサの引き取り時に渡してやろうと思ったわけだ。
勿論そんなものは本来不要なサービスだが、アリサに対する調律に元村がケチをつけてくる可能性が多少ながらも懸念されたので、それを封じる狙いがある。
アトリエは、調律工房と同時期に生まれたアリスオーナーを客とする施設だ。アリスの内面の改修を担当する調律工房の主が調律師と呼ばれるのに対し、アトリエの主はマイスターと呼ばれる。
マイスターはアリスの外面の変更をその業務とし、髪型や瞳の濃淡といった些細なものから、顔の造作や体型など、人間で言うところの整形手術に相当する大掛かりな変更まで幅広く請け負う。
アリスの外貌は、購入時に各パーツ毎に好みのものを選ぶことが可能であり、その選択肢は組み合わせにして数万種類に及ぶ。自らの好みにあった容姿を持つアリスをパートナーとすることができるわけだが、とはいえ飽きはどうやっても訪れるもの。容貌の変更が可能とあれば関心を引かれるオーナーは多く、マイスターは商売として十二分に成立し得る状態にあるのだ。
「なんだ美優、いたのか」
階段を下る足音が響き、大柄な影が受け付け前に姿を現した。
「冬治さんがいらしてるのよ。可愛い子連れて」
「可愛い子?」
アリサの肩に手を置き、二階から下りてきた男の前にそっと押し出す。男の目が僅かに見開かれた。
「朝倉、お前アリスを買ったのか。どこのだ?」
大柄な体軀と、それに比しても大きな顔が目を引く髭面の男性。このアトリエの主人だ。質問の意味は分かれど、答えてやる要はない。
「いや、クライアントのアリスだよ。今日はちょっと頼みがあってな」
アリスは本来、Physical Illusion社製の商品に対して使われる呼称。商品の正式名称であるAutomatic LivingDoll Common(Custom)Editionの略称なのだから当然だ。だが現在では、女性型アンドロイド全般を指し示す言葉として、広く社会に普及している。
Physical Illusion社の製品は、正しくはALICEと、英字でもって表記される。そのため文書などへ記載する際には、英字と片仮名とで、Physical Illusion社の製品を示すALICEと、女性型アンドロイド全般を表すアリスとを区別することが可能だ。だが口頭で執り行われる会話ではそうもいかない。紛らわしいことこの上ないが、とは言え世間に一度浸透してしまった用法を、今更修正するのは難しい。
誰かと言葉を交わす上では俺もその慣習に倣ってはいるが、厳密にはTIMEWORKS社及び沖自動車製のアンドロイドはアリスではないため、彼女らが、アリサのように自らをアリスと名乗ることはない。
「ほら、アリサ」
少女の背をもう一度軽く押し、先程と同じように挨拶を促す。美優に対してと同様、アリサは丁寧に頭を下げた。
「お、礼儀正しい子だね」
豪快な笑みを浮かべ、孝一はかがみこんで応じた。
「日比野孝一です。こいつとは古い付き合いでね。今日は来てくれてありがとう」
髭面の強面だが、笑うと妙に人懐っこい顔になる。アリサは笑顔で、いえ、お世話になります、と返した。恐らくは先刻の遣り取りで、美優と共に孝一の印象値は高めに設定されたはずだ。
「さて、朝倉」
立ち上がって俺に目を向けると、孝一は右手を上げ、太い親指で階段を指し示した。
「詳しい話を聞こうか。上に行こう」
「ああ、悪いな。アリサ、お前はここで待っててくれ」
孝一の背に続き階段に足を掛け、向き直って少女に告げた。
「はい、先生」
可愛らしい笑みを浮かべて答える少女の外面に辟易しながら、二階へと上がる。散らかり放題の研究室の中程、シンプルな応接セットに案内された。軽口を交し合いながら、友人へと簡単に事情を説明する。得心がいったのか、孝一は大きく頷いてみせた。
「それじゃ、とりあえずサンプルを撮ってみるか。連れてきてくれ。ああ、型番はなんだったっけ?」
「Tの3200だ」
「成る程。Physical Illusion社製か」
髭面がそう言って軽く頷くのを確認し、一階へ戻る。先刻話題に出た応接セットで、アリサは美優と談笑していた。手元にボトルは無い。飲み終わったらしい。
「アリサ、来い」
呼ぶと、美優に一礼してから駆け寄ってきた。微かに引きつった俺の表情に気付いたらしく、妙に顔を寄せ、何よ、と唇を尖らせる。
「いや、大した狸だと思ってな」
「たぬき?」
声をひそめて告げてやれば、忙しく辺りを見回す。この表現は通じなかったようだ。
「ほら、あがるぞ」
手を引き、振り払われ。階段を上った。
5
「さて、こんなものかな……」
研究室の隅に設置されている大型端末から、孝一が一枚のメモリカードを抜き出す。続いて端末上部に接続されている台形の投影装置を取り外すと、応接ソファに腰掛ける俺の所へ、それらを小脇に抱えて持ってきた。
「サンプルを3パターン作った。確認してくれ」
俺の向かいに腰掛けながら、髭面が装置のスロットにメモリカードを差し込んだ。
投影装置は読み込ませた3D画像情報をホログラフィーを使用して中空に投影するもので、物体光による立体表示が可能であるため、外面改修後のサンプルを確認するには最適な媒体だ。数年前に開発された新手法によって空気中の窒素に干渉するため、旧時代の同技術と異なり特殊な感光媒体も不要となっている。要はどんな場所においてでも、実物と見紛う程の立体画像が表示できるわけだ。メモリを読み込んだ装置が自動的に起動する。
「そりゃいいんだが、あいつはあのままか?」
端末横の簡素なベッドには、顔全体をメカニカルなスキャナに覆われた状態で、アリサが横になっている。
「先生、わたしも見たいですぅ」
スキャナの中から、くぐもった声。猫かぶりは順調なようだ。
「おお、そうだそうだ。忘れてた」
立ち上がってベッドへ向かおうとする孝一を手で制し、俺は投影装置に視線を投げた。
「いや、やっぱり放っておこう。それよりコレ、どうやって見ればいいんだ?」
「おいっ」
冷たく言い放てば、ベッドから鋭い声が飛ぶ。思わず、という奴だろう。続いて小さく、やばっ、と聞こえたのはご愛敬だ。
「成る程ね」
苦笑し、アリサの許へ向かう孝一。スキャナの電源を切った。
「済みません日比野先生。ありがとうございます」
スキャナと天井とを繫ぐ金属製のアームが畳まれ、機械の仮面がゆっくりと上昇する。解放された姫君は笑顔で、孝一に礼を述べた。
「もう、朝倉先生っ」
少女は俺の所へとことこと歩いてくると、笑みを浮かべたまま恥ずかしそうに言う。
「意地悪しないでくださいよぉ。思わずつっこんじゃったじゃないですか。わたしらしくもなく。ねえ、わたしらしくもなく」
妙なところを強調し、稚拙ないいわけに奮闘する。ふらりとどこかへ行ってしまったらしい猫をかぶりなおすのに必死だ。
「手遅れだろ。完全に」
言えば、何のことですかぁと、少女は可愛らしく小首を傾げて応戦する。アリサわかんなぁいといった風だ。自分で調律しておいてこう言うのも何だが、もしかしてこの娘は馬鹿なんじゃないだろうか。
「孝一」
アリサを無視し、苦笑を携えて戻ってきた孝一に呼びかける。テーブルに載せられている投影装置を指し示した。
「早く確認したい。操作してくれ」
俺の調律工房にも投影装置は設置してある。だがそれは二世代程前の商品で、目の前のそれとは操作方法が大きく異なる。こいつは最新型だろう。
「今回は顔だけの整形だから、身体は撮ってない」
アリサが俺の横に腰掛けるのを待ってから、孝一の指が装置下部の液晶画面に触れた。鈍い駆動音が響き、装置上方の中空にアリサの姿が投影される。表示された立体画像はアリサの胸から上だけのもの。眼前の映像はカラーだが、白一色にでも染めたなら、良くある石膏の胸像に似るだろう。
「素晴らしいです、日比野先生」
投影されたサンプルは、友人の言の通り全部で3パターン。アリサは笑んで称揚するが、正直なところ、俺には眼前のアリサ本人との違いがまるで分からなかった。依頼した修正が微細なものだからだろう。
だがそれでいい。目的はあくまでも、お客様のためにわざわざアトリエまで足を運んでサンプルを採りましたよと、元村にそうアピールすることだ。
「どうだ? 問題なければ、このサンプルを持ち帰ってもらうが」
「ああ、これでいい。ありがとう孝一」
礼を言い、投影装置からエジェクトされたメモリカードを受け取る。再度俺の隣に腰掛けようとするアリサを手で制すと、ソファから立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「ああ。助かったよ。アリサ、行くぞ」
少女を促し、一階へ向かう。階段の最上段に足を掛けた辺りで前を行く小さな背中が立ち止まり、振り返って孝一に深々と頭を下げた。
「日比野先生、どうもありがとうございました。旦那様に、絶対に日比野先生のアトリエをお使いいただくよう、お伝えしておきます」
「うん、よろしく頼むよ」
笑顔の孝一を二階に残して別れ、入り口のカウンターで美優にも別れを告げると、アリサと連れ立ってアトリエを出た。車に乗り込み、一息つく。
「ねえ」
シートベルトを身体に回しながら、アリサが口を開いた。
「ありがとね。ソレ」
ジャケットの胸ポケットに放り込まれたメモリカードを細い顎で示し、礼を述べる。
「ああ、まあ時間が余ったからな」
お前のオーナーが調律結果にケチをつけてきそうだから、追加のサービスで印象を良くしておきたいだけだ、とはさすがに言い辛い。
「シートベルトは締めたか? 出すぞ」
シフトレバーを握り、アクセルペダルをゆっくりと踏み込んだ。
「ちょっと聞きたいんだけどさ……」
ジャンクショップの前に差し掛かった辺りで、暫く静かにしていたアリサが声を掛けてきた。黙って促すと、ぽつぽつと話し始める。深刻な話なら、あまり聞きたくないのだが。
「わたしさっき、日比野先生のアトリエで寝てた時、間違えたじゃん?」
「間違えた?」
俺の横顔を見つめ、大きく頷く。
「アンタが変なこと言った時、てゆーかアンタが変なこと言うのが悪いんだけど、ついつい厳しくつっこんじゃったでしょ?」
「おいってやつか?」
話の方向が見えてきた。少女は不安そうな眼差しで、再度頷いてみせる。
「あんな風に言うつもり無かったのに。他の人の前ではちゃんと、素直で礼儀正しい子でいなくちゃいけないのに。それなのに、間違えたよ」
「要はだ」
アリサの台詞を遮るようにして、まとめに掛かる。
「俺が調律ミスをしたんじゃないかと、そう言いたいわけだな?」
ハンドルを回し右折する。少し黙った後、アリサはこくりと顎を引く。
「だってそうじゃん。人間なら兎も角、わたしアリスだよ? 人格プログラムのことはあんまり知らないけど、明確な行動分岐があるんでしょ。間違えるなんて変じゃん」
「成る程な」
言いたいことは分かるが、自分で言うように、人格プログラムに対する知識は浅いようだ。間違えることがあるか否かなど、それこそ人格プログラム次第だ。
「例外処理だよ」
少し細かい話になるぞ、と前置きした上で、そう告げる。
「お前はオーナーを筆頭とした親しい人間以外の人物がその場にいると、基本的に猫をかぶろうとする。そういう風にプログラムを組んである」
「うん。何かはっきりそう言われると微妙だけど……」
「そうした言動を選択すべきだと判断した場合、お前の中の人格プログラムは、フラグを立てて保持する。具体的には、PretendInnocenceFLGという変数の中身を、falseからtrueに変更する。こいつはお前が猫をかぶり続けるために必要なフラグでもある。そしてこのフラグが立っている場合、中身がtrueに変更されている場合のことだな。その場合に限り、言動決定の判断対象となる言葉を格納する変数に、禁則文字を設定する」
「禁則文字を設定……」
分かってなさそうだ。
「お前が言動を決定するための判断基準となる相手の言葉。直前に受け取った言葉を格納する変数、AssimilateUtteranceに禁則文字を設定するんだ。一種類ずつ、三度に分けてな。設定された禁則文字を含む言葉は、変数への格納が行えない。そうした言葉を格納しようとすれば、当然Exceptionが投じられ……」
「ちょっと待った」
割って入られた。少女は訝しげな目で俺を見つめてくる。一つ溜息を吐くと、
「つまりだ」
言い直すことにした。
「お前が普段耳にする言葉、つまり日本語の文章を構成する文字には、どんな種類がある?」
尋ねれば、少女はどこか白けたような表情を浮かべ、それでもほっそりとした指を立てながら口を動かす。
「平仮名でしょ。あと、片仮名と漢字だから、三種類だっ」
元気よくそう述べ、シートベルトの中で小さな胸を張るアリサ。今の発言に、誇れるような要素があっただろうか。俺は答える。
「そうだな。だがAssimilateUtteranceという変数は、数字は算用数字、英字はアルファベット、その他外国語の文字はその他言語として取り扱う。だから、全部で六種類ということになる」
答えれば、少女から抗議の声があがる。日本語って言ったじゃん、などと呟いている。
「この六種類の文字のうち一つを、乱数を使って、ランダムに禁則文字として設定するんだ。例えば算用数字が禁則文字に設定されたとき、孝一がお前に3秒待っていてくれ、と声を掛けたなら、それは禁則文字を含んだ言葉と認識される。少し待っていてくれ、なら問題ない」
「ふむふむ」
少女は難しい顔で頷く。本当に理解できているかどうか、怪しいものだ。
「禁則文字を含んだ言葉は、言動決定の判断基準となる変数、AssimilateUtteranceへの格納が行えない。そして格納が行えなかった場合、禁則文字をもう一度ランダムに設定し直し、再格納処理を行う。この再格納処理は二度繰り返され、三度連続で格納が行えなかった場合、例外処理が実行される。例外処理は分かるか?」
「プログラムに不測の事態が発生したときに実行される処理のことだよね?」
少女が理解してくれていた助かった。一からの説明は骨が折れる。
「そうだ。格納が行えずに終わると、例外処理としてExceptionがthrowされる。Exceptionが投げられるとプログラムが保持している行動論理定数は一切合財破棄されるから、お前の中の猫かぶりモードを維持するためのフラグ、PretendInnocenceFLGは圧し折られ、trueからfalseに戻る。一時的にだけどな。この処理によって、お前はいい子ぶりっ子に失敗するわけだ」
言って、ハンドルを切る。あまり見かけない二階建てのバスとすれ違った。自身の横顔に向けられているだろうアリサの視線。含まれた怒気に歎息が漏れる。
勘弁してくれ。いい塩梅で猫かぶりに失敗するようプログラムを組むのには、これでも苦労したんだ。
押し黙ったアリサが、少しして助手席で俯く。一瞬、悲しげな表情が見て取れた。念のため付け足す。
「一応言っておくが、こいつもお前のオーナーの要望だぞ」
意図は知らないが。
「ま、そう気を落とすな。オーナーは喜んでくれるさ」
しぶしぶといった様子で頷いてみせるアリサの姿を横目で確認する。アクセルペダルを強く踏み込み、スピードを上げた。
6
アリスの言動の全てを司る人格プログラム。鋼で組まれた小さな身体に温かな脈動を与えるその機序は、烏兎怱々に刻まれた機械技術史の果てに形貌を成した。プログラムの精度が現在の水準へと至ったのは僅か十数年前のこと。青と黄の旗幟を掲げる東欧の一国にて開発された人工知能が、史上初めてチューリングテストを突破したのが2014年の6月。その出来事がAI開発の歴史に於ける一つの転換点とされている事実を鑑みれば、半世紀を優に超える月日を代償に、人格プログラムは言わば醸造されたわけだ。
なればこそに、それは複雑怪奇な風骨を有している。一見して無駄とも思える冗長な構造は、世の技術者を悩ませて止まず、関わる者の精神を磨耗させては楽しげに笑う。全くもって、迷惑な話だ。
その煩瑣なる人格プログラムには、二つのアルゴリズムが存在する。それらは概念的に重なり合っており、それぞれにLogicalコード、Intuitiveコードと名付けられている。
Logicalコードは、所謂言動決定の指針となる役割を持ち、アリスが実際にみせる言動は、このLogicalコードが導き出した結果である「選奨行動」を、基本的なベクトルとしている。
対してIntuitiveコードは、アリスの実際の言動を直接に形作る役割を担っている。Logicalコードの指顧によって方向付けられた基礎命令に、当該のアリスがその時までに積み重ねてきた経験や、細分化されたメモリに格納された種々の記憶を反映させ、実際に取るべき行動、「訓連行動」を決定する。
大切なのはここから。訓連行動には、一定の割合で「紛れ」が生じるようになっている。紛れは、生成された訓連行動を捻じ曲げ、変容させる。これはIntuitiveコードの基本構造に則ったもので、従って同じ状況下に置かれても、導き出される訓連行動は必ずしも同一とはならない。人間で言うところの、気分の変化や無意識を、この処理によって再現しているわけだ。
Intuitiveコードを経由して生成された命令である訓連行動に対しては、アリスの実際の言行の前に、Logicalコードが導き出した選奨行動との比較が行われる。固定のプログラムが生成する選奨行動と、それに経験則を織り交ぜた訓連行動とには、多くの場合差異が生まれる。この差異は「乖離率」と呼ばれ、プログラム上3桁の数値にて表される。例えば乖離率30の訓連行動は、選奨行動に極めて近い言動であり、逆に乖離率800のそれは、選奨行動から大きく逸れた言行であるという具合だ。
比較はLogicalコード主体で行われ、導き出された乖離率が、選奨行動毎に設定された制限値の範囲内に収まっていた場合のみ、訓連行動にGOサインが出される。そこで初めて、アリスは手を動かす、胸を張る、口を開くといった実際の行動を起こすことになる。
逆に乖離率が、制限値を上回ってしまった場合、Intuitiveコードは再度、訓連行動の生成を開始する。紛れを生じさせ、訓連行動の乖離率を変動させるためだ。この作業は、乖離率が制限値を下回るまで幾度も繰り返される。
車中でアリサに説明したロジックは、Logicalコードに記述されたもの。俺たち調律師は主に、行動指針を決定するLogicalコードを改修することで、アリスの性格を操作する。概念的な要素を大きく含むIntuitiveコードの改修は、正直なところ難しい。少なくとも、10日程度の調律期間では。
居間のソファへ腰掛け、白い壁紙をぼんやりと眺める。仕事中、入浴中、食事中。それらの時間を除けば、ここが俺の定位置だ。アリサはスリープモードにして研究室のベッドに寝かせてある。
珈琲メーカーから取り出したばかりのマグに注がれた茶褐色の液体を口に含む。手に入れたばかりのメモリカードを左手で弄びながら、隣室の少女に想いを馳せた。
落ち込んでいたようだが、大丈夫だろうか。言いようによっては不完全な人格プログラムを挿入されたのが、どうにもショックだったようだ。
「旦那様が、そうしたいって言ったんだよね?」
研究室に戻りスリープダウンする直前、少女から念入りに確認された。オーナーの望みは絶対のもの。それは人格プログラムの、アリスの行動理念の根幹。だが目の前に元村がいない以上、不安は拭いきれないのだろう。
「困ったもんだな……」
独り言ちながら、虚空に視線を彷徨わせる。アリサにはただ、元村からそう依頼されたのだから大丈夫だと、それしか言えなかった。いや、言わなかった。彼の調律意図が読めない以上、アリサへの俺の言葉は何ら説得力を持たないからだ。
「さて……」
呟き、空になったマグを片手にソファから立ち上がる。あまり考えていても仕方が無い。俺はただ、依頼された仕事をこなすだけ。こんなことは、そう、大した問題じゃない。
壁に掛けられたデジタル時計に目を遣る。アトリエに向かうため工房を出てから、随分と時間が経っている。ふと思い至り、研究室に再度足を踏み入れた。
「アリサ、ReBootだ」
ベッドへ近づき、眠り姫に声を掛ける。目覚めはキスで、といかないところがつまらない。いや、それは白雪姫だったか。童話には疎い。
「おはよ。どうしたの?」
目覚めたアリサが、半身を起こして俺を見上げる。今回は大人しい。先刻の遣り取りを引きずっているのだろうか。
「腹が減った。飯を食いに出ようと思うんだが、お前も来るか?」
言えば、少女は意外な言葉を聞いたとばかりに大きな瞳をぱちくりとさせる。
「わたしアリスだよ? ご飯とか食べないよ?」
「そりゃ分かってるよ。お前を置いて勝手に出かけるのもどうかと思っただけだ」
俺が戻ってくるまで、工房で待っているというのならそれはそれでいい。来るかと聞いたのは社交辞令のようなものだが、俺とアリサの関係性を考えれば、確かにそれも妙な話だったかもしれない。
「アンタさ、変に律儀だよね」
妙なことを言い、少女はベッドから飛び降りた。
「スリープさせておけば、アンタがどこ行こうが何してようが、わたし気付かないのに」
どこか澄ましたような表情で、アリサは俺を見つめる。初めてみる表情だからだろうか。まっ直ぐな視線に気おされる。
「何か、つくったげよっか?」
真顔でそう続け、少女はつと視線を逸らした。行きたいお店があるなら別だけど、とも付け加える。
「いいのか?」
意外な申し出だったが、正直ありがたい。アトリエから戻ってきて大して時間も経っていない。また直ぐ外出するのが億劫だったのは確かだ。こいつの作る料理にも興味がある。アリサが頷くのを確認すると、礼を言ってキッチンへ案内した。
「改めて見るとさ、狭いよね」
居間隅のキッチンを凝視しながら、少女がまた生意気を口にする。あまり自炊をしない俺は不自由を感じないが、世間一般から見れば適当な感想なのかもしれない。
「何食べたい?」
屈みこんで小型のフリーザをのぞき見ながら、アリサが背中越しに問う。定位置のソファにゆっくりと腰掛けてから、少し考え、答えた。
「できれば肉がいいな。脂の滴る分厚いステーキを豪快に……」
「オッケー、パスタね」
暫しの沈黙。アリサが手際よく準備を進める音だけが8畳の洋室に響く。慎重に考えを巡らせてから、思い切って口を開いた。
「アリサ、俺はもしかしたら、調律ミスをしたかもしれん」
「いや、五月蠅いし」
にべも無い。煩わしそうに振り返り、少女は俺をねめつける。
「パスタ、ハム、ウィスキー、調味料各種。以上、アンタの食材のストック」
フリーザから一つ一つ取り出して見せ、大げさに溜息。怒気を孕んだ、ねっとりとした視線を投げつけてきた。
「俺が悪かった。乏しい食材で済まないが、宜しく頼む」
観念し、そう告げた。眼を閉じ、少しまどろむ。アリサは当然飯は食わない。俺のためだけに作ってくれているのだから、あまり邪魔をしてもよくないだろう。眠気に襲われながら、しかし寝て待つのも無礼だろうと葛藤していると、向こうから声を掛けられた。
「てかさ、ご飯つくってあげるの、初めてだよね」
こちらに背中を向けたまま、手元だけ忙しく動かしながら、何だか殊勝なことを口にする。
「そうだな。だが別におかしなことじゃないだろう」
アリスはオーナーに対してこそ尽くすもの。ましてや俺は、アリサのオーナーから金をもらって彼女を預かり、調律を行っている人間だ。逆ならまだしも、アリサが俺に尽くす道理は何も無い。
「そうかもしれないけどさ。でも、一生懸命調律してくれてたし、ご飯くらい、ちゃんとつくってあげれば良かったなって。ごめんね」
「仕事でやってるんだ。気にするな」
言いながら、アリサにインストールした人格プログラムのソースコードを思い浮かべる。今の彼女の発言は、少々予想外だった。アリサの行動倫理に即しているだろうか。霞掛かっていた脳内に急速に光が戻る。熟考し、バグという程ではないと結論付けた。
「できたよっ」
甲高い声で叫ぶようにそう言い、アリサがこちらを振り返った。俺はソファから立ち上がり、洋室中央の小テーブルに向かう。チェアを引き腰掛けると同時に、目の前に湯気の立つ皿が置かれた。芳ばしい香りが鼻腔を擽り、触発されてか、小さく腹が鳴った。
「旨そうだな」
正直な感想を口にすると、少女は大仰に頷いてみせる。クリーミーな白いスープの中央に、形良く盛られたパスタが顔を出している。強火で焼かれたのか、ベーコンにも見えるハムが細かく刻まれてその上に。薄く振りかけられたブラックペッパーが食欲をそそる。
「ミルクスープパスタだよ。食材が少なくてさ、ミルクやら何やら色々代用しちゃったから、ちょっとあっさり気味かも」
簡単に説明し、自分で味見できないのがキツイ、などと呟く。
「いや、本当に旨そうだ。さすがだな、アリサ」
10日間の調律作業中は、常時ソースコードの羅列に頭を支配されていた。食事に時間を掛ける気にはどうにもなれず、アリサのスリープ中にインスタント食品をかき込むばかりの生活だった。久々の真っ当な食事を前に、図らずも多量の唾液が湧いてくる。
「はい、どうぞ」
小さな手が、皿の隣にマグを配置する。珈琲も淹れてくれたらしい。本日3杯目だが、珈琲党の俺にはやはり嬉しいもてなしだ。
「いただきます」
調理者の手前、そう口にしてからフォークを取る。俺の代わりにソファに腰掛けたアリサは、そわそわと周囲を見回している。
「熱いな……」
茹ですぎることなく、程よく芯の残ったパスタに、熱を伴った濃厚なミルクスープが絡みつくその一品は極めて美味。アリスという商品のポテンシャルを改めて実感させられる。
「子宝に恵まれなかった夫婦の究極的な癒しとして、あるいは、永続的に稼動し続ける最強の家事手伝い、ベビーシッターとして」。
Physical Illusion社の語るアリスの存在意義。性処理目的に使われるアリスが一定数存在する以上唾棄すべき妄言には違いないが、あながち的外れでもないのだろうか。
癒しであり、性玩具であり、一種のツールであり、俺の生活の糧でもある。アリスとは、アリスとは一体、何なのだろう。
「旨いぞ、アリサ」
落ち着かない素振りは、味に対する評価を気にしてのことだろう。ソファの少女に、改めて感想を伝える。途端に、表情が華やいだ。良かった、と嬉しそうに呟く。
「へぇ……」
その表情に、思わず見入ってしまった。膨れっ面。何かを穿ったような目付き。怒気を孕んでつり上がった眉。体面を取り繕っただけの薄っぺらな笑顔。そんな顔ばかり見てきたからだろう。不意に見せられた純粋な笑顔は、途方も無く新鮮だった。
「何よっ」
自らの顔に張り付いた俺の視線に気付き、また直ぐいつもの表情に戻る。残念だ。もう少し見ていたい気分だったのに。
「何でもねえよ」
テーブルに視線を戻し、そう答えてから食事に集中する。アリサを現在の性格に改修しようとした元村の意図は変わらず不明なれど、あの一瞬の笑顔は悪くない。どこか暖かな気持ちになって、横目でちらりと少女を覗き見た。不機嫌そうに眉を顰めたその顔に、一瞬前の笑顔をそっと重ねる。うん。確かに、悪くない。
7
「ねえ……」
食事を終え、居間のソファで再びまどろんでいると、アリサに声を掛けられた。閉じかけていた瞼を気力でもって開き、窓際で手招きする少女を見やる。
「どうした?」
立ち上がるのが億劫で、ソファの背もたれに身を預けたまま答える。想定外にだらしの無い声が出た。
「あれ、見て」
動こうとしない俺に苛立ちを見せながらも、少女はしつこく手招きする。ほっそりとした指先が、窓の向こうをしきりに指し示す。
「ああ、珍しいな。驚いたよ」
適当にそう答え、ソファからは断固として動かずに少女に背を向ける。眼を閉じると一層強い睡魔が襲ってきた。アリサが何を見つけたのかは知らないが、猫だの犬だの、どうせそんなところだろう。今この睡眠欲を満たすことの重要性が、お前には分からないのか。
「ちょっとっ。ちゃんと見てよ」
「見たよ。珍しい模様だな」
「何の話してんのよ。ちゃんと見ろっ」
怒りのボルテージが最高潮に達したらしい少女が、怒鳴るように言う。煩わしいことこの上ない。仕方なく身を起こし、軽く伸びをする。窓の外と俺とに交互に視線をやりながら、もじもじと身体を震わせて待つアリサの許へ殊更に時間を掛けて向かった。
「ったく。何だってんだよ」
小さな手に促されるままに、窓越しに外を覗き込む。もうすっかり夜だ。デジタル時計に目をやれば、19時を回っている。
「あれ、Floatじゃない?」
耳元で少女の囁き。くすぐったい。
「Float?」
居間の窓から見えるのは、工房の周りを取り囲む低い塀。暗がりに眼を凝らせば、その向こうに小さな影が揺れている。
「みたいだな」
捲り上げていたカッターシャツの袖を下ろし、居間を出て玄関へ向かう。外へ出て、先刻揺れる影を見かけた裏路地へ。しかし動くものは確認できない。住宅街に位置する工房周辺は、夜の帳が下りると共に奇妙に静まり返る。今現在も同様、虫の声だけが暗がりに響いている。ふいに、窓ガラスを叩く音が聞こえた。
「何だよ」
振り返り、打音の発生源である窓向こうのアリサをねめつける。小さな口と手をしきりに動かし、向かって右方向を強調している。そっちへ行ったということか。
窓際の少女に頷いてみせ、細い指先に指し示された方向へ足を進める。道なりに一つ角を曲がると、前方にふらふらと揺れる影。長い頭髪を後頭部で乱雑に纏めた、Tシャツにホットパンツの少女だ。
「君……」
小走りで小柄な背に追いつき、肩に手を掛けて呼び止める。少女は別段驚くこともなく、ゆっくりと振り返った。見えているのかいないのか、空ろな瞳が、俺の姿を曖昧に捉える。
「型番は?」
できる限り穏やかな口調を心がけ、少女に尋ねる。見知らぬ男に、背後から唐突に肩を摑まれた際の落ち着いた反応からも明らか。この子はアリスだ。
「363―A55です。先生……」
「先生?」
少々驚く。363―A55。アリサとは異なる命名規則に則った、6桁の英数字。先生の呼称は何かの勘違いか、あるいは俺が調律師であることを知っていてのものか。少女の顔を、弱々しい表情を凝視し、思い至った。
「君は確か……」
以前、それも1年以上前、俺の工房にいたアリスではなかったか。オーナーの要望で、反吐の出るような調律を施してやった、哀れな性玩具。そういえば型番にも覚えがあるような気がする。名前は確か、
「キリカです」
様子を察してか、そう名乗った。それですっかり思い出す。しかしこんな時間、こんな場所を一人でうろついているということは。
「思い出したよ、キリカ。とりあえず、工房においで」
しゃがみこみ、ほっそりとした手首を取る。優しくそう誘うと、今にも泣き出しそうな程、表情が歪んだ。
「よろしいんですか……?」
アリスは泣かない。涙を流す機能など実装されていない。それでも、この表情には胸が痛む。少女の問いには答えずに立ち上がり、その背にそっと右手を回した。続いて左手を揃えさせた膝の裏へ。優しく抱き上げる。
「済みません、先生」
弱弱しく呟くが、抵抗はしない。いや、できないと言ったほうが正確か。暗がりに慎重に足を進め、工房へ向かう。
「1年ぶりだな」
そう声を掛ければ、腕の中で小さく頷く。彼女は当時と、何も変わっていないようだ。どこか儚なげな仕草も、このアリスとしては異常な程の低体重も。
キリカは軽い。身長はアリサより10㎝ほど高いにも拘わらず、50㎏少々の重量しかない。アリサの重量が恐らくは70㎏台半ば、標準的なアリスの体重であるとすると、やはり相当に軽い。
その理由は簡単で、大掛かりな外面改修を施し、部品を抜いてあるのだ。アリスが活動する上で最低限必要なパーツだけを残し、その他の補助パーツを破棄している。故にキリカの運動性能は、一般のアリスに比べ著しく低い。ではなぜ彼女はそんな改修を施されているのか。決まってる。オーナーがただのクソ野郎だからだ。
工房の玄関ドアに辿りつく。窓から俺が戻ってくるのを見ていたらしく、アリサがドアを開けてくれた。キリカを抱いたまま研究室に入り、ベッドに身体を横たえさせる。
デスクからアリサにマシーナリーオイルを持ってこさせ、小さな声で礼を言う少女に手渡した。キリカの運動性能は確かに低いが、まともに歩くこともできない程ではない。裏路地でふらついていたのは、単にオイル切れを起こしていたからだ。
「事情は後で聞く。オイルが身体に行き渡るまで、少し休むといい」
キリカが十分な量のオイルを摂取するまで少し待ち、そう声を掛けた。
「キリカ、TurnInだ」
アリサに対して使うそれとは少し異なる、しかしお決まりの文言。告げて、部屋の電気を消した。
8
Float。何らかの事情でオーナーを失うこととなったアリス達は、そのように総称される。
尽くすべき相手の存在と共に、自らが稼動する意義と居場所をも失くした哀れな機巧人形。軀体に大きな損傷さえなければ、ほぼ永続的に稼動し続けることができるアリス故に陥る、悲惨な状態の一つだ。
通常アリスのオーナーは、自らがアリスを見守ることができなくなった場合に備えて事前に命令を下しておく。頼るべき相手を教えておいたり、製造元に赴き自らの廃棄を申し出るよう伝えておいたりだ。次のオーナーを具体的に指名しておくこともあるらしい。
だが全てのアリスが、そうした通達を受け取った上でオーナーを失う訳ではない。不慮の事故や病気で唐突にオーナーを亡くしてしまうアリスもいれば、飽きて疎ましく思ったり、生活の変化により邪魔になったアリスを、それこそゴミ屑のように捨ててしまうオーナーもいると聞く。主としてそうした場合に、アリスは今後の行動指針となる指顧を何ら受けぬまま、何もかもを失うのだ。
「アリサ、お手柄だ」
居間のソファに並んで腰掛け、どこか意気消沈した様子の少女に言葉を掛ける。大きめとはいえ本来一人用のソファなので、一緒に座られると少々狭い。
身体の落ち着くポジションを探そうと小さな尻をもぞもぞと動かしながら、少女は頷く。狭いと文句を垂れれば間髪容れずに強い台詞は吐くものの、声色に混じる沈痛な響きはごまかせていない。
「お前のお蔭で、あいつを見つけられた。感謝してるよ」
アリサを元気付ける意味合いも込めて、素直に謝辞を述べる。たまたまだよ、と一言口にしてから少し押し黙り俯くと、唐突に顔を上げ、少女は真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「知り合いのアリスなんだよね? あの子」
そういえば説明もまだだった。俺はアリサの視線から逃れるように目を閉じると、首を背もたれに預けて天を仰いだ。
「アリスという単語を、女性型アンドロイド全般を指す言葉としてお前が使ったのなら、その通りだ」
まどろっこしい物言いに、アリサの表情が少し変わる。言いたかったことは伝わったようだ。少し眉を寄せた難しそうな表情で、アリサは質問を重ねる。どっち?
「D-DOLLだ。型番は363―A55。うちで調律したんだ。1年前にな」
答え、アリサの大きな瞳を見つめる。睫がふるりと、小さく揺れた。
10年前の発売時から暫くの間、様々なプロパガンダに手を引かれる形で、ALICEは順調にその売り上げを伸ばした。Physical Illusion社の主力商品として同社の業績に寄与し、同時に社会へと急速に普及していった。
一社独占の高性能アンドロイド市場に変化が訪れたのは4年前。業界2位の精密機器ベンダーであったTIMEWORKS社が同市場への参入を果たしたのが切っ掛けだった。
ALICEに近い性能を保持しつつも、一体985万円という低価格を実現した同社の製品は、それまでALICEに関心を持ちながらも価格面が原因で財布を開くに至らなかった消費者への訴求力を武器に、Physical Illusion社の牙城を揺さぶりにかかった。果たして成果は上々。ALICEに酷似したTIMEWORKS社の女性型アンドロイド、D-DOLLは、市場にて一定の占有率を確保するに至った。
ではTIMEWORKS社だけが、何故そのような価格帯での商品展開を実現できるのか。その理由は人格プログラムの差異にある。
Physical Illusion社が、ALICEに自社開発の人格プログラムを使用しているのに対し、TIMEWORKS社のD-DOLLには、米国製の汎用人格プログラムを日本人オーナー向けに改修したものが搭載されている。VESPER BELLと名付けられた前者と、PIZZICATOと呼ばれる後者とでは、アンドロイドの人工軀体を動作させるための、基本的な命令発信の方法が異なるのだ。
Physical Illusion社製のALICEには、機構核という、人格プログラムが発する複雑な命令を単純な動作指示に変換し、最適なタイミングで身体各部に伝達する特殊なパーツが組み込まれている。一方で、TIMEWORKS社製のD-DOLLにはそれがない。腕、脚、首、胴などの身体パーツを、人格プログラムが直接に操作することで、アンドロイドの微細な動作を実現している。
身体駆動方式に於けるこの相違は、ALICEとD-DOLLの違いではなく、あくまでも人格プログラム、VESPER BELLとPIZZICATOの懸隔。仕様に優劣はなく、単純な差異でしかない。
兎角それ故に、D-DOLLの軀体には機構核を搭載する必要が無く、結果としてこの構造差異が、両者に価格差を生じさせている。機構核は、コストのかかる装備だからだ。
「D-DOLLかぁ。じゃあ、わたしのライバル?」
複雑そうな面持ちで首を傾げ、アリサがずれたことを口にする。既に販売済みの個体に、一体何が争えると言うのだ。Physical Illusion社に、忠義でも感じているのだろうか。
「知らねえよ。駆けっこでもしてみるか?」
言って、少し鬱とした心持になる。台詞は諧謔として発したそれであったものの、実際にそんなことをすれば、キリカの負けは明白だ。双方の軀体性能に差が無い以上、本来の運動能力を維持しているアリサに、補助パーツを失っているキリカは到底太刀打ちできない。
「やっぱり、Floatなのかな……?」
からかいの言葉には応じず、また少し表情を硬くした少女が問いを重ねる。多分なとそう答え、押し黙って考えた。
キリカが何故俺の工房の前にいたのかは分からないが、オイル切れを起こしかけたアリスが、何があるわけでもない場所を夜一人で歩いているのは不自然に過ぎる。キリカのオーナーは、この工房からはそれなりに離れた場所に住んでいたはずだ。1年前は、だが。
「アンタさ、さっきあの子のこと、抱っこしてたよね?」
質問が続く。アリサなりに、思うところがあるのだろう。
「それがどうかしたか? してほしければお前のことも抱き上げてやるぞ」
「そうじゃなくて……」
茶化したつもりが、真剣な口調で返された。おそらくキリカの特異な身体構造のことに気付いているのだろう。
「わたしたち、結構重いじゃん? アンタあんまり力あるように見えないし、何か軽々と抱き上げてたように見えたし、だから、何ていうか……」
らしくない。随分と遠まわしな言い方だ。目を閉じたまま答える。
「補助パーツを一切合財抜かれてる。体重はお前の三分の二だ」
「それは、どうして?」
間をおかず、俺の台詞に被せるようにアリサが問う。あまりこの娘としたい話でもない。強制的にスリープダウンさせてしまおうかと、一瞬乱暴な考えが頭を過ぎった。話すべきか否か。知らないと答えてしまえば互いに楽だったのかもしれないが、少女の一意な声色がそれを許さなかった。腹を決めて口を開く。
「お前、オーナーとの性交渉は?」
元村の名誉もある。たとえそうした行為があったとして正直に答えるかは分からないが、回答はどちらでも良い。ただの話の取っ掛かりだ。アリサが怒る可能性も予想したが、少女は冷静に首を振った。
「ないよ。旦那様は、わたしにそんなことは絶対に求めない」
静かだがはっきりとした物言いに、少々意外な思いがした。噓をついているようには感じないが、とはいえ人間とは違う。アリスの口にする噓など、見破れる自信はない。
「キリカは……」
言いかけて、ふと思う。キリカは本当にFloatか。状況を鑑みれば、そうでない可能性はほぼないだろうが、本人に確認が取れていない以上、どうしたって断定はできない。となればここから先は、キリカのオーナーのプライバシーに他ならない。
アリサが聞いたことをペラペラと口外して回るとは思えないし、キリカのオーナーの恥部がどれだけ世間に漏れようが知ったことではないのだが、仮にそうなった場合、傷つくのはあくまでキリカなのだ。
「済まんアリサ。後で本人に確認をとってから、改めて話させてくれ」
溜息混じりにそう告げた。こうなると、先程の問いをアリサが否定してくれたのがありがたい。肯定されていたら、わたしは話したのに、と成りかねないところだった。
「済まない。それでいいか?」
再度尋ねると、小さくうんと答えた。
「てか、わたしこそごめんね。無遠慮な質問して」
「いいさ。中途半端に済まないな」
閉じていた瞼を上げ、時刻を確認する。20時15分。キリカはオイルが足りなくなった状態で、それなりに長時間活動していたものと思われる。全身にオイルが行き渡るまでには、もう暫く掛かりそうだ。
「2時間したら起こしてくれ」
アリサにそう頼み、もう一度目を閉じた。隣でもぞもぞと動く小さな身体。やはり狭い。
9
「どうだ? 身体の調子は」
研究室の隣、狭い工房の最奥にあるベッドルームにて、目覚めたキリカに話しかける。
研究室はゴチャついており、居間では椅子が足りないため、この部屋へ移動した。先の二部屋にこの寝室、それに浴室と玄関を加えたものが、俺の工房の全てだ。ちなみにアリサが同席するとさえ言い出さなければ、どの部屋でもスペースは足りた。相変わらず迷惑な娘だ。
「大丈夫です、先生。ご迷惑をお掛けしました」
悲しそうに表情を曇らせ、小さな声でキリカが言う。落ち着いた仕草で頭を下げてみせた。少女の動作に、木製のチェアが僅かに軋む。アリサは俺と並んでベッドに腰掛け、居間の小テーブルから持ってきたチェアに、キリカが座って向かい合っている。
「気にするな。知らない仲でもないんだしな」
それに、迷惑ならまだ掛け終わっていない。現在進行形で絶賛被り中だ。まあ、首を突っ込んだのは俺だが。
「では、事情を聞かせてもらうとしようか。率直に聞くがキリカ、お前は……」
発した言葉は遮られる。俺の台詞に回答を被せるようにして、キリカが答えた。
「はい。一昨日より、オーナーを失った状態となっています」
「それは何故だ?」
問えば、目を伏せて押し黙る。数秒して、今度はおずおずと、途切れ途切れに言った。
「旦那様は、1週間程前に新しくアリスを買われました。Physical Illusion社製の子です。それで、わたしが旦那様の許に居続けると、お邪魔になってしまうということで、その……」
結果的に口ごもる。
「要はだ。邪魔だから消えろと、そう言われたわけだな?」
キリカのオーナーの顔を思い浮かべる。似合いそうな台詞だと、そう思った。
「いえ、あの、旦那様は確かにそのような内容の発言をされましたが、それは旦那様なりの優しさからであって……」
慌てたように何やら補足し始めるキリカ。切り捨てられてなお吐かれる戯れ言に、苛立ちを覚えて問うた。どこが優しさだ? お前は捨てられたんだぞ。
「それは、自分は邪魔なんだとわたし自身が悟ってしまうより、旦那様がはっきりと口にされたほうが、結果的にわたしが傷つかずにすむと、きっとそのようなご判断が……」
「キリカ。今直ぐTurnInしてくれ」
唐突にそう言えば、小さく頷き、瘦身の少女はスリープモードに移行する。
「どしたの?」
不思議そうに見つめるアリサを無視し、動かなくなったキリカを抱き上げた。研究室に運び込む。アリサも勝手についてきた。
デスクのプレジデントチェアに腰掛け、調律用の端末を立ち上げる。ただ部屋に居られても邪魔なだけなので、アリサにも手伝わせることにする。
「アリサ、キリカの個体識別番号を読み上げてくれ」
「何するの?」
訝しみながらも、質問を無視されたアリサは素直にベッドに向かう。寝かされたキリカの口を開き、舌の裏を覗き見た。アリスの個体識別番号は、舌の裏に刻印されている。メーカーに拘わらず、この仕様は共通だ。
「363―A55―7780XF」
読み上げられた英数字の羅列を端末に打ち込み、キリカの人格プログラムに無線アクセス。設定ファイルを検索し、液晶画面にソースコードを表示した。複雑な英字の羅列が、大量に画面を埋め尽くす。
「ねえ何するの?」
液晶画面を覗き込みながら、アリサが再度問うてくる。
「見てればわかる」
あまり無視し続けるのも不憫になり、そう答えた。回答になっているかは知らない。
設定ファイル内にもう一度検索画面を呼び出し、変数EmotionalParamOwnerを探し当てる。この辺りのプログラム構成は、VESPER BELLもPIZZICATOも同様だ。数秒程掛かり、該当の変数がマークアップされた。
「ふざけやがって……」
EmotionalParamOwner=10000。画面に表示された値を見て毒づく。アリサが興味深そうに、画面と俺の顔とを交互に見やる。
「これ何?」
案の定そう訊いてきた。
「キリカの、オーナーに対する印象値だ」
教えてやれば、なるほどぉ、と大げさに頷く。それにしても、さっきからアリサの仕草の一つ一つが、妙に癇に障る。大分苛立っているようだ。落ち着かなければ。アリサに当たるなど、あってはならない。
マークアップを非表示にし、次の検索値を入力する。ProtectionOwnerFLG。出てきた=trueの表示を、=falseに書き換えた。先刻の検索値に戻り、10000の数値を今度は3000に変更する。
「印象値、下げちゃうの?」
耳元で、不安げなアリサの声。何故お前が不安がる。
「ああ。さっきの聞いたろ? あれじゃ話にならない」
言って、設定ファイルを上書き保存。確かにそうだけど、というアリサの言葉を聞きながら、保存処理が終わるのを待った。
通常の調律時には、変更箇所が多数に亘るため端末上で組み上げたソースコードをアリスに再インストールする形をとるが、今はアリス内のソースコードを直接に書き換えている。インストールの手間がないので、時間を食わない。
「アリサ、寝室に戻ってろ。直ぐに向かう」
少女が研究室を出るのを見届け、大きく溜息。妙に疲れてしまった。
「キリカ、GetUpだ」
端末の電源を落とし、立ち上がった。
10
「捨てたんです」
寝室で三人、先程の並びを再現し、事情聴取を続ける。
「新しいアリスを買ってきて、飽きたからもういらないって。わたし、旦那様に沢山尽くしたのに……」
流れることのない涙をまるで堪えるような面持ちで、キリカはぽつぽつと話し続ける。
「旦那様のために、できることは何だってしました。先生はご存じですけど、わたし補助パーツを全部抜かれてるんです。何のためだと思います?」
キリカの態度の変化に口を開けて見入っていたアリサが、自分に向けられた問いだと気付き、はっとしたように背筋を伸ばす。
「わ、わかんないよ」
戸惑ったように答えた。これは先程アリサが俺に向けた問い。答えを得る機会は存外に早くやってきたようだ。
「わかりませんか? ですよね。だって通常は有り得ない理由ですもの。重いからですって。わたしが上になる時に、重くて疲れるからって……」
「そ、そっか。疲れるのは、良くないよね」
視線をあちらこちらにやる不審な所作の後、アリサが頓珍漢な回答をする。だめだコイツは。意味も分からずにオーナーの肩を持ちやがった。
軽く頭を小突くと、悲しそうな眼差しで俺を見上げた。自分が何かを間違えたらしいことは理解しているようだ。
「確かにわたしはD-DOLLです。道具です。でも、それでもやっぱり悲しいです」
「そうだな。お前はよく頑張っていた」
俺は大仰に頷き、キリカに同意を示した。どんなに悲しかろうが辛かろうが、アリスはオーナーには逆らわない。それはそのように設定されているからであり、またそれ以上に、オーナーの命令に絶対服従することが、アリスとしての矜持でもあるからなのだ。
キリカは、性玩具としての典型的な道筋を辿ったアリスだった。オーナーに付き従い、身の回りの世話に従事し、望まれればいつだって、笑顔で股を開く。
キリカはきっと、オーナーに求められることに喜びを感じてはいただろう。自分に向けられているのが愛情とは異なる感情だと分かってはいても、望まれているのがキリカというアリスではなく、アリスの持つ柔らかな肉感に過ぎないと分かってはいても、ただオーナーの役に立てることが誇らしくあったことだろう。アリスとはそういうものだ。
自らの性欲を発散させるためだけにアリスを抱くオーナーと、その腕の中で頰を染め、艶っぽい喘ぎ声を漏らすアリス。客観的に見れば、何とも愚かな茶番劇だ。
アリスは痛みを感じない。無論、性的な快楽を感じ取るような機構も実装されていない。キリカは行為のたびに、自身の足の間で腰を振るオーナーの姿を冷静に見定め、どのようにすればより大きな快楽を得ているかのように見えるか熟考したうえで、その小さな口から、無理やりに甲高い喘ぎを搾り出したはずだ。
「それで、どうしてこの辺りをうろついていた?」
俺を尋ねて来たのか。あるいは偶々か。キリカは答える。
「どこにいって、どうすればいいのか、分からなくて……。旦那様を除けば、わたし、先生しか知らないのです。旦那様のお家から、基本的に外には出ませんでしたので……」
「えっ、全く出なかったの?」
アリサが尋ねる。キリカは恥じ入るように肯定して見せた。
「それで、ここへ歩いてきたのです。でも先生にお世話になったのは1年も前ですし、わたしのことを覚えてくださっているかも分かりませんし、お尋ねするのもご迷惑かと思って、迷っていたところを、先生にお声がけいただきました」
「迷惑だなんて、そんなことないよ。もう自分の家だと思ってくつろいでいいんだよっ」
アリサが勝手を言っているのが気にはなるが、兎角状況は知れた。
「先生、わたし、どうなりますか?」
沈痛な面持ちで、キリカは俺に問う。気持ちは分かる。だが、それを俺に委ねるか。
「お前のオーナーと、一度話をしてみてやる。それで駄目なら……」
悪いが廃棄処分だ。続けようとした言葉を飲み込む。アリサの視線が気になったからだ。
寝室に設置された、居間と同型のデジタル時計で時刻を確認する。22時30分。少し遅いが、止むを得ない。
「キリカ、お前のオーナーのフルネームを」
ズボンのポケットから5㎝四方の小型タブレットを取り出し、少女に尋ねた。1年前の依頼者の名前は流石に覚えていない。答えを受け、口元に持っていったタブレットに呟く。
「Search。スズムラチハヤ」
タブレット上部に取り付けられたレンズから、検索結果がホログラフィーで中空に投影される。孝一のアトリエで見た装置と同様の機構だが、こちらは小型機なのでモノクロだ。
「わたし、チハヤさんって聞いたことあるかも」
アリサが余計な口を挟む。情報提供のつもりだろうか。少女が誰を指して言っているのかは知らないが、何にせよ無意味な発言だ。
「22名もいるな。漢字は?」
不満げな表情を素早く形作った少女を無視し、キリカに問いかける。そういえば、ALICE開発プロジェクトのリーダーを務めていた人物が、確か千早という苗字だった。ALICEの生みの親と言って差し支えの無い人物だが、キリカのオーナーとはまずもって関係ないだろう。アリサの顔から視線を逸らし、思考を排す。
「漢数字の千に、時刻の方の早いで、チハヤです」
遠慮がちに、しかしはっきりとキリカが答える。漢字も同じ。いや、止めよう。限りがない。
「それでも8名いる。年齢は?」
質問を重ね、やがて辿り着く。キリカのオーナーの鈴村千早は38歳。年齢を付け加えて検索することで、漸くと1名に絞ることができた。
「Access」
呟けば、発信音が響く。タブレットの下端から棒状のマイクをスライドさせて取り出すと、本体は耳元へ持っていった。
「夜分に済みません。調律工房の朝倉と申します。ええ。1年程前に依頼を頂いた」
話しながら部屋を出ようとすると、出口にアリサ。ここで話せと言うことらしい。舌打ちしようとして思い留まる。電話中だった。
「そちら様のキリカさんなんですが、今うちの工房に来ておりまして。本人が話したがらないもので、事情をお伺いしようかと」
向こうから話させるのが得策と判断し、そのように告げる。鈴村が答えた。
「いや、それは失礼しました。いや私、恥ずかしながら新しいアリスを先日購入しましてね。Physical Illusion社製のものですわ。やはりアリスは、Physical Illusion社製に限りますな。TIMEWORKS社のものはどうも良くない」
「それで?」
やはり後ろめたいものがあるのだろう。鈴村の回答はずれている。
「その子にはTIMEWORKS社で廃棄処理を申し出るように伝えたんですが、伝わってなかったのかな。いや、失礼しました」
「ああ、そうでしたか。しかしそうなると費用が掛かりますが、キリカさんには持たせていらっしゃいます?」
キリカは手ぶらだ。
「持たせましたがねぇ。持っておりませんか? どこかで落としたのかもしれないなぁ」
恥じる様子もなく、のうのうと告げる。タヌキが。
「取り敢えず、一旦こちらへお越しいただけませんか? 廃棄処分となると費用も掛かりますし、キリカさんが不要なのでしたら、何か良い案がご提示できるかもしれません」
「良い案、ですか。いやぁそう言われましてもねぇ。費用は振り込みますので、其方で廃棄処理を願えませんか。そうですね。明日中には振込みを」
鈴村の意図が大体理解できた。何の命令もせずキリカを捨てたのは、廃棄処理用の費用を単にケチってのことだ。そのまま上手くどこかへいなくなってくれれば、とでも思ったのだろう。この電話で、費用については諦めたようだが。
「兎に角、わたし忙しいのでコレで。よろしくお願いしますわ先生」
「ちょっと、鈴村さん」
通信が切れた。寝室の出口に突っ立つ俺を、不安そうに見つめるキリカ。非難するように見上げるアリサ。大きく溜息を浮かべ、ベッドに腰を下ろした。
11
「あの子、廃棄処分になるの?」
寝室のベッドの上。寝そべった俺に向かってアリサが話しかけてくる。少女は先刻までキリカが座っていたチェアに腰を下ろし、股付近に手を突いて前かがみになっている。
「それしかないだろう……」
鈴村との電話の後、悄然とするキリカを慰め、研究室のベッドに寝かせた。今はスリープモードになっている。アリサも同じようにしようかと思ったが、本人が断固拒否したので諦めた。寝かせるベッドも無い。
「可哀想だよ」
少女は悲痛な声を出す。気持ちは分かるし、鈴村の言う通りにするのも癪だが、実際他に手も無いのだ。良い案を提示できるかもしれない。電話越しに鈴村に告げた文句は、ただの時間稼ぎに過ぎなかった。
「仕方がないだろう。このまま放り出して、オイル切れで動けなくなるまで町中をうろつかせるか?」
アリスはあくまでも道具。擬似的な人格はあれど、稼動し続ける権利などいかなる法律にも保障されてはいない。オーナーが不要だと言う以上、廃棄されるしか道は無いのだ。
「アンタが引き取ればいいじゃん」
そのうち口にするだろうとは思っていた文言を、少女はいとも簡単に告げた。馬鹿言え、と小さく返し、目を閉じる。
「この工房にはな、個体そのものは替わっても、ほぼ常時アリスがいるんだ。そう何体も面倒見れるか」
告げれば、押し黙ってしまう。アリサとてアリスだ。オーナーに捨てられたアリスがどうなるかなど、当然理解している。
「じゃあ、引き取ってくれる人探そうよ」
少しして、少女は提案する。だがそれも却下だ。
「時間が無い」
事実だ。だがアリサは眉を吊り上げる。
「暇じゃんっ」
「今だけだ」
アリサの調律が思いのほか早く終わったせいで、若干の猶予はできた。だがそれも明日まで。明後日の午後には、次のアリスが来る予定になっている。
「もう寝る。キリカのことは、明日また考えるから」
アリサに背を向け、厚手のタオルケットを肩まで被る。カットソーにデニムと、寝るには落ち着かない格好のままだが、アリサが部屋にいる以上脱ぐわけにもいかない。諦め、睡魔よ早く来いと祈る。羊でも数えようか。
「もう……」
背後でアリサの呟き。数秒の後、タオルケットが背中側からほんの少し捲られた。もぞもぞと柔らかいものが潜り込んでくる。
「おい」
「何よっ?」
「何してる?」
当然のごとくベッドに入り込んできたアリサに問うた。スリープモードになってしまえば寝心地も何もないのだから、床で寝たって構わないはずだ。
「悪いが、ガキにもアリスにも興味ないぞ?」
「死んじゃえ馬鹿っ」
冗談めかした断りに過激な台詞を返しながら、俺と背中合わせに、アリサは姿勢を落ち着けた。そうして直ぐに、
「ごめん、死んじゃえは言いすぎだった」
などと付け足す。何なんだ一体。
「アンタさ、いくつ?」
少女は唐突に話題を転じる。寝かせる気はないらしい。
「32だ。それがどうかしたか?」
答えれば、別に、と返す。じゃあ訊くな。
「結婚とかしないの?」
「相手がいない」
くだらない雑談だ。別段に目的があるとも思えないし、まだ起きていたいのだろうか。一度目を開け、首を回して時計を見る。24時を回っている。
「じゃあ、彼女もいないんだ?」
アリサの質問は続く。そんなに暇なのか。
「いないよ。欲しくもないし、惚れている女もいない。これでいいか?」
話を終わらせようと纏めにかかったが、無駄だった。アリサはけらけらと笑い、何で何で、と話を続ける。
「いたほうがいいじゃん。お昼のさ、美優さんだっけ? ああいう人、あんたも見つけてきなよ」
また唐突な名前を出してきた。美優の印象はやはり良かったらしい。設定された印象値は7000前後だろうか。埒も無いことを考える。
「一人のほうが楽だから、恋人はいらん。もういいだろう? この話は」
恋愛に興味のある年頃なのだろうか。ふと、アリサがもし人間の少女だったら、確かにこういう話を好むのが普通なのかもしれないと思い至った。アリサは不満そうに、えー、と呟いてから、少し黙った。背後で何かが動く感触。俺と背中合わせに寝ていたアリサが、こちらに向き直ったらしい。
「じゃあねぇ、あ、初恋はいつですかー?」
恋愛談義はまだ続く。くだらないと思いながらも、問われるとつい回答を模索してしまう。初めて心惹かれた女性の顔を思い浮かべようとし、はっとする。脳内に火花が散ったかのように思考が明滅し、胸に微かな痛みが走った。
「一つ下の幼馴染だ。ずっと一緒だったから、いつから惚れていたかなんて、分からない」
気付いた時には、もう一緒にいた。何をするにも、何を選ぶにも、彼女の笑顔を最優先に考えた。恋人ってわけじゃない。身体の関係は勿論なかったし、口付けだって、交わしたことはない。手を繫いだことくらいは、もしかしたらあったかもしれない。
急に饒舌になった俺を訝しんでか、アリサの言葉が途絶える。
「その人とは、恋人同士になれたの?」
少し落ち着いた様子で、口調で、アリサが尋ねる。茶化すには不適当な話題だと感じ取ったのだろうか。だとしたらこいつは、大したものだ。
「分からん。でも、世間一般に言うような恋人関係ではなかったかな。俺が18の時に彼女は遠くに引っ越して、それきりだ。今はどこで何をしているのかも知らない」
駄目だ。どういうわけか感傷的になっている。アリサに問われていないことまで、溜息と共に口をついて出てしまった。アリサはふーんと小さく声に出し、それきり押し黙った。
「アリサ」
会話が途絶えたのを機に、今度こそ寝ることにした。ん? と返事をした少女に告げる。
「SleepDownだ」
目を閉じる。瞼に浮かんだ彼女は、17の時のまま。今は一体、どうしているのだろう。
元気でいるといい。素敵な男性に出会って、恋をして、結婚して、今頃子の一人や二人は設けているかもしれない。それは俺にとって、良いことなのか悪いことなのか。分からないまま、俺はゆっくりと意識を手放した。
12
朝の一服を楽しもうとキッチンへ赴き、焙煎豆のストックが残り少ないことに気がついた。昨日は計三杯。少し飲みすぎだろうか。
珈琲メーカーからマグを取り出し、湯気と共に立ち上る芳醇な香りを楽しむ。舌先で液面を舐めるように口に含めば、溜息のような、熱を持った吐息が漏れた。寝起き特有の靄に満ちたような脳内に、にわかに光が差すのを感じる。毎日の習慣がもたらす、パブロフ的な身体反応だろうと、苦笑する。
「さて……」
小さく声に出し、愛用のマグをサイドテーブルに置いた。ソファに腰掛け、今日なすべきことに考えを巡らせる。はねっかえりはまだ夢の中。ソファが広くていい。
昨夜のアリサとの会話の中、キリカのことはまた明日考えるとそう述べた。早く眠りにつきたくて適当に口にした一言ではあったが、言質はきっちり取られている。考えた様子もみせずに廃棄処分だなどとぬかせば、姫君の怒りを買うのは火を見るより明らかだ。
頰を膨らませ、細い眉を吊り上げた少女の顔を思い浮かべる。煩そうで適わない。
寝室で鈴村との通話を終えた時、キリカは随分と沈痛な表情を見せた。慰めるのに苦労したが、暗い面持ちの理由は廃棄処分への恐怖ではないだろう。
製造元での廃棄処理は、アリスの辿る一つの道。Floatの立場に身を置かれなくても、何かの拍子に修復不能な故障状態に陥れば、やはり辿りつく可能性のある結末なのだ。アリスとして稼動する以上、彼女も当然に覚悟しているべきことだ。実際、十二分に理解してはいただろう。
キリカさんが不要なのでしたら。俺は鈴村に対しそう口にした。話が終わってもいないうちに通話を打ち切られもした。これらの事実が彼女に改めて突きつけたのだろう。オーナーの自分への愛が、もう完全に失われたという現実を。絶望の刃の、その切っ先を。
暫し黙考し、キリカを救うに有用な手立てを模索する。しかし時は流れるばかり。自身の脳をまさぐる思考の指先は、妙案の背は疎か、その影にすら一向に届こうとはしない。しかしそれは、やはり止む無いことではあるのだ。オーナーに捨てられたアリスが廃棄処分にならずに済む方法が短時間の思案で容易に見つかるのであれば、それはとうに確立された手段となっているはずなのだ。
やはり今回は、引き取り手を探すのが適当ではあろう。アリサの思いつきと同案であることが気に食わないが、より優れた案が無いのであれば、そうするより他は無い。
まあ、取り敢えずその方針で動いてはみて、上手く転がらなければ諦めればいい。キリカには悪いが、努力する様さえ見せればアリサも納得するだろうし、たとえそうでなくとも、明日になれば少女はいなくなる。小太りの王子に手を引かれ、森のお屋敷にご帰宅だ。
マグを洗浄機に投入すると、居間を出て浴室に向かった。今アリサは寝室、キリカは研究室でスリープダウンしている。彼女らを起こせばまた煩くなる。体力も使うだろう。せめてシャワーでも浴びてすっきりし、余裕のある心持でその時を迎えたい。
「あ、おはよ」
浴室につながる脱衣所の戸に手を掛けたところで、背後から声を掛けられた。アリサに良く似た声に聞こえたが、リブートした覚えはないから、恐らくは幻聴の類だろう。唐突にそんなものが聴こえるようになるのだから、加齢とは恐ろしい。
脱衣所に入って後ろ手に戸を閉め、昨日から着っぱなしのカッターシャツに手を掛ける。脱ごうとして思い留まった。丁度全裸になったあたりで、怒声と共に戸が開けられる未来が見えてしまったからだ。舌打ちと共に、閉めたばかりの戸を開く。廊下にアリサ。不安そうな面持ちだ。
「何か、怒ってる?」
俺が口を開くより先に、少女に問われた。憐憫の情に誘われそうな、はねっかえりに有るまじき上目遣い。成る程、挨拶を無視したのをそうとったか。
「いや。お前の発言は無為なものが多いからな。定期的に無視するようにしてるだけだ」
丁寧に答えてやれば、途端に表情が強張った。頰を膨らませ、大きな瞳には力が宿る。らしくなってきた。
「それより、どうして起きてる? ReBootした覚えはないぞ」
「今日はキリカちゃんのためにいろいろするでしょ? だったら早く起きないとっ」
取り戻したらしい元気を声量に変えて少女は答える。小さな胸を思い切り張ってみせ、両手は腰に。何が誇らしいのか妙に偉そうだが、質問に対する答えとしてはややずれている。要は自力で起きたということか。
「まあいい。シャワーを浴びるから、部屋で待ってろ」
言って戸を閉め、今度こそ服を脱ぐ。ドア越しに、キリカは起こすなよ、と付け加えた。
「全く……」
廊下から聞こえる不満の声を無視し、浴室へ。アリサが廊下から立ち去る足音に安堵しながら、シャワーヘッドのセンサーに触れた。
13
スリープダウン時、再起動時刻をアリス自身が設定しておけば、同時刻には自動でリブート処理が開始される。
これまでアリサのリブートは外部から俺が行っていたが、それは自ら再起動する理由が少女になかっただけのこと。他者からリブートの文言を拝さねば永遠に起き上がれないなどということは全く無い。と言うより、そんな仕様であればアンドロイドとしてはお粗末すぎるだろう。
通常アリスは、オーナーが余程変則的な生活を送っていない限り、24時間稼動しっぱなしという形にはあまりならない。設定にもよるが、概ねオーナーの就寝時刻前後にスリープダウンする。スリープモードに入ることで、稼動時に体内で自動生成した動力の消費量を低減し、有事の際の備蓄に回すためだ。
しかしだからと言って、オーナーが目覚めた後に自らリブートをかけなければならないようでは、アリスの「最強の家事手伝い」という存在意義、まあ俺には建前としか思えないが、それを満たすことすら儘ならない。
オーナーより早く目覚め、朝食の準備を始めとした日毎のルーティンワークを進めておく。こんなことは、当然にできなくてはならないわけだ。ついでに言えば、アリスの家事全般に対する技能は基本的に高い。昨日、アリサが乏しい材料で料理の体裁を整えて見せたのも、その証拠と言えるだろう。
浴室から出、脱衣所に用意した真新しいシャツを羽織る。洗面台で簡単に身なりを整え、居間に戻った。部屋で待たせておいたアリサが、俺のために焼きたてのトーストと珈琲を用意してくれていたり、はしないようだ。
「あれ?」
夢想した朝食に加えて、アリサ自身の姿が無い。寝室と、それから研究室も覗くが、そこにもいない。固いベッドでキリカが寝息を立てるばかりだ。サンダルを突っかけ玄関から外に出た。少女の姿は見えない。
「どこ行きやがった……」
玄関ドアを背に体重を預け、工房前の通りを眺めながら勘案する。
一人で外へ出ないよう少女に言い含めておかなかったことを後悔する。この10日間そんなことは一度も無かったため油断していたが、彼女はあくまで顧客からの預かり物。一人で外出させた結果何かに巻き込まれ、どこかの機構に損傷でも負われたら大事だ。
「あ……」
ふと思い至り、居間へ戻る。クローゼットを開け、中を検めた。やはりだ。俺の洋服と一緒にハンガーにぶら下っていたはずのアリサのポーチが無くなっている。
熊だかパンダだか、得体の知れない生き物が描かれた幼稚なデザインのポーチ。中には財布しか入っていなかったはずだから、持ち出したということは買い物か。ポーチはアリサが持参した私物の全てでもあるが、さすがに自宅に帰ったということはあるまい。
愛用のトラッカージャケットを取り出し、袖に腕を通しながら、工房を出た。
昨夜キリカを見つけた裏路地を抜け、少し広い通りに出る。ポケットからタブレットを取り出し時刻を確認すれば、まだ7時40分だ。この付近では比較的交通量の多い通りではあるが、朝は人もまばらだ。
横断歩道を渡り、その先のジャンクショップへ。曇り空に、直方体の建物が纏う煌々としたネオン。入り口を潜って直ぐ、目的の人物を発見した。レジに出した幾つかの商品の前で、肩から斜めに下げたポーチを漁っている。
「これで」
財布に小銭が多いらしく、なかなか代金を出し切れないアリサの背後から、店員に紙幣を差し出した。少女の様子を笑顔で見守っていた店員の女性が一瞬目を丸くし、それから少し、戸惑ったような様を見せる。アリサが振り返る。店員と似たような表情をしている。
「うちのアリスです。そいつで支払いを」
手渡した紙幣を指差して店員に告げ、続いてアリサの頭を軽く小突く。勝手に外に出るなと言い添えると、しゅんと落ち込んだ顔を見せた。
「済みません、先生」
そうだった。こいつは人前ではこうするんだった。店員から商品を受け取りアリサに持たせると、連れ立って外へ出る。工房に向かって歩きながら、アリサを諭す。
「言っておかなかった俺も悪いがな、お前に何かあったら一大事なんだ。絶対に、一人で外に出るようなことはしないでくれ」
袋の中の商品を見るに、アリサが買いに行ったのは俺の朝食だ。であればあまり、強い言い方もできない。とはいえ、表現が良くなかったようだ。
「なになに、そんなにわたしが心配?」
目尻を下げ、少女は何だか嬉しそうに言う。何かを勘違いしたのか、あるいは分かった上でわざと言っているのか。
「お前のオーナーが絶対に賠償請求はせず、調律料の残金も支払うと約束してくれるのなら、今直ぐ壊れてくれても構わないぞ」
言って、丁度目の前を通過した大型のトラックを指し示す。
「あれなんかどうだ? 粉々に砕いてくれそうだ」
「ムカツクし……」
俺の台詞にアリサは表情を一気に曇らせ、ぶつぶつと小さな声で不平を口にする。勢い込んだ口調での反撃を予想していたのに拍子抜けだ。この態度を鑑みるに、少女は俺が純粋に自分を心配しているのだと、本当にそう期したのかもしれない。
「まあ、あれだ」
やや気まずい空気を感じ、沈黙を避けるように言葉を繫ぐ。
「俺のために朝飯を買いに行ってくれたんだよな? それについては、感謝してる」
裏路地に入ったところで足を止め、アリサの前にしゃがみ込んだ。進路を塞がれたアリサも、止む無くといった様子で立ち止まる。覗き込むように幼い顔を見上げれば、いつかのように視線を逸らした。
「ありがとな、アリサ」
できるだけ優しく、囁くような口調で、そう礼を述べた。少女は左手に握ったジャンクショップの商品袋をぷらぷらと揺らしながら
「昨日、ご飯はわたしが用意してあげるって言っちゃったから、仕方なくだし……」
と呟いた。視線は合わせず、頰は僅かに桜色。このパターンに陥る度、彼女が見せるお決まりの挙動だ。
ちなみに俺はアリサとそんな約束をした覚えは無い。夕食の時の話をしているのだろうが、だとしたら少女は、ご飯くらいちゃんと用意してあげれば良かったと、懺悔じみた発言を一つしただけだ。
だがおそらくはそれこそが、今後はわたしがと、そのような意味で発せられた言葉だったのだろう。であれば、浴室では口にしなかったが、今日アリサが自分で起きてきたのも俺の食事のためだったのかもしれない。
「ほら、いくぞ」
俺は笑って立ち上がり、アリサの頭を軽く撫でた。
14
「済まない。ああ、それじゃ宜しく頼む」
タブレットから耳を離し、左手でするすると、引き出していたマイクを格納する。ソファに退屈そうに腰掛けているアリサに向き直った。
「朗報だ。当てが見つかるかもしれん」
伝えれば、少女はソファから飛び降りて笑顔を見せた。真っ直ぐな瞳が、期待に満ちて輝いているように見える。
朝食を終え、懸案事項についてアリサと少し話をした。キリカの引き取り手を探す旨を伝えると、少女は満足そうな笑みを見せた。それから直ぐに心当たりに電話を掛け始めることとし、最初に連絡した孝一のところで、いとも簡単に期待の持てる返事を得た。
「良かったぁ。でも直ぐに見つかったね」
アリサは微笑みながらそう言い、やっぱりみんなアリスが欲しいんだ、などと誇らしげに付け加える。
「まだ見つかったわけじゃない。ま、だとしても運が良かったな」
俺の知り合いに、直接にアリスを欲しがっている人間はいない。少なくとも、俺は把握していなかった。であれば、アリスのことを良く知っており、かつ顔の広そうなアトリエの主人は、最初に当たるにふさわしい有望株だろうと考え連絡を取ったわけだが、返す返すも運に恵まれたとしか思えない結果となった。
アリスを欲したのは、孝一本人ではない。孝一のアトリエをアルバイトの面接に訪れた若年の男性とのことだった。
アリスが欲しいがとても資金が足りない、貯めきる当ても無い。であればせめて、常日頃からアリスに接することのできる環境で働きたい。そのように考えていた時に、孝一のアトリエでアルバイトを募集している旨を知り、応募してきたらしい。
青年の面接を行ったのは一昨日。採否を美優と相談している際に俺から連絡を受け、それは丁度いい、と考えたとのことだった。
一言でいうならアリスのファン。孝一の表現だが、稀にそうした人物がいるのは俺も知っている。本人の意思と資金面の都合を孝一から確認の後、連絡をもらう手筈となった。
「だいじょーぶなのかなぁ」
眉を顰めた難しそうな表情で、アリサが言う。
「金の話か?」
「うん。それと、ちゃんとキリカちゃんのことを大事にしてくれるのかなぁって」
少女の心配は分からないでもない。孝一の見て取った印象を信用するならば、後者については大丈夫とのことだ。問題があるとすれば、孝一からも確認してもらうこととなっている前者、経済面に関してだ。
アリスがただで譲渡可能な商品であるならば、Floatの問題など、潜在化することはまず無いだろう。アリスを譲り受けるためには、一定の資金が必要となるのだ。その額はアリスの本体価格の60%。アリスを販売している三社共に、現在は共通だ。俗にコモンタイプと呼ばれる通常のPhysical Illusion製アリスであれば、本体価格は1250万円で、その60%は750万円となる。未カスタムのD-DOLLであるキリカの場合は600万円。985万円の60%、10万円未満の端数切り上げの数字だ。
対して、各社での廃棄に必要な料金は一律250万円。今日鈴村から振り込まれる予定の廃棄料を充当すれば、青年がキリカの譲り受けを望んだ場合、用意しなければならない資金は350万円となる。では、そのような高額な資金が何故必要となるのか。簡単に言えば、販売元の利益を確保するためだ。
廃棄時に必要な金額は、単純に処理費用と手数料といった意味合いが強い。故に、製造元各社としてはその額を大きく押し下げるのは難しい。そのような状況で簡単にアリスの譲渡ができてしまうと、大概のオーナーは、仮にアリスが不要となったとしても廃棄という選択肢を取らなくなる。市場には多くの中古アリスが出回り、正規のルートでの販売量に響いてくることだろう。
そこで販売元各社は、アリスのオーナー登録情報に厳重なロックを掛ける。販売時に作成する特殊な電子キーを使用しないと、オーナー情報を変更できない状態をつくるのだ。
譲渡時にかかる金額は、つまり販売元各社でのオーナー情報変更費用というわけだが、これが中古アリス市場が生成されることに対し、実際に大きな抑制効果を上げている。
要はアリスの購入を希望する人間が、1000万円前後の金額を支払って自分好みの容姿と人格を持ったアリスを購入するのと、その60%に中古業者の利益を上乗せした金額を支払って、他人が選んだ容姿と人格を有し、さらに他人に誠心誠意仕えた記憶を持つアリスを購入するのと、どちらを選ぶかという話だ。
俺がアリスを購入するならば後者を選ぶ気がしないでもないが、アリスは元来富裕層をメインターゲットとした商品。俺のように考える人間は多くないらしい。
「まあ、兎に角今は、孝一からの連絡を待とう」
不安がるアリサに経緯を簡単に説明し、そう宥めた。懸念はあるが、まずは青年の決断を待たねばならない。
座って寛ぎたくなってソファに向かい、アリサが邪魔なので退かそうとし、退かないので諦め、寝室に向かおうとする。
「どこいくのー?」
部屋を出ようとした俺の背に向かい、アリサがソファから立ち上がってそう問うた。目的の場所が空いたので、足早に少女の許に向かう。少女が反応するより早く、小さな尻を押しのけてソファに腰掛けた。
「ああっ、わたしのソファ」
悲痛な声を上げるが、当然無視する。アリサは目を細め、何か白けたような顔をすると、そのまま迷わず俺の膝の上に乗ってきた。体軀からは想像しがたい重量が下半身を襲う。
「お前、ちょっと待てっ」
復讐のつもりなのだろうか。尻は小さく太股は細い。そのせいで加重面積が狭いのだ。
「キリカちゃんのこと、ちゃんともらってくれるといいね」
俺の胸に背を預け、アリサが言う。鼻先に後頭部。人間の少女であれば、シャンプーの良い香りでも漂ってきそうだが、残念なことにアリスは無臭だ。
「どうだかな。350万って言えばそれなりの額だ。そのへんの兄ちゃんに用意できるかというと、難しそうだけどな」
ローンを組めればどうにかなるだろうが、登録変更処理には適用できない。
「あー明日でこのソファともお別れだぁ」
寂しそうにも、清々としているようにも聞こえる妙な声色で、アリサが言った。別れを惜しむ台詞だが、どうも対象は俺ではないらしい。
「お前が座っているのは、ソファじゃないけどな」
一応注釈を入れておく。嬉しいくせにーと嘯き、アリサは少し黙った。そして唐突に、
「時々、遊びに来てもいい?」
などと尋ねてくる。僅か程の疑いの余地も無く迷惑だが、そう口にすれば流石に傷つきそうだ。承諾はしないよう、間違っても言質を取られないよう、適当にごまかすことにする。
「何だ。帰りたくないのか? お前」
「え、それは帰りたい。旦那様に会いたいし」
返答に鼻白む。アリスに何がしかの好意を寄せられたいなどという想いは毛程もないが、アリサの返答をどこか腹立たしくも感じてしまう。それが妙に情けない。
会話が途切れ、沈黙が続いた。先程の質問に俺が答えていないことに触れないあたり、アリサも本気で言っていたわけではないのかもしれない。まあ考えてみれば当然だ。オーナーの許で、オーナーのために尽くす以上の幸せなど、アリスにはないはずなのだから。
15
孝一から連絡があったのは、夕刻に差し掛かった頃だった。聞けば、青年はキリカに大いに興味を示し、全財産をはたいてもいいと、狂喜乱舞の体だったらしい。
「新しいオーナー、ですか?」
不安げな面持ちで、ベッドに腰掛けたキリカは言う。
「ああ、俺より少し若いくらいの兄ちゃんらしい。お前を譲り受けたいとのことだ。2、3日中にここへ来てもらうことになっているから、会ってみてほしい」
言えば、おずおずといったように頷く。
「本来は廃棄処分になる身ですから。有難いお話だと、思います」
キリカの心情を慮れば、俺は勝手なことをしたということになろう。今のキリカにとって最も夢のある選択は、現オーナーとして登録されている鈴村の許へ戻ること。印象値をオーナーに対するものとしては通常あり得ない値まで下げられたとはいえ、それでもオーナーに尽くしたいと考えるのがアリス。だがキリカとて分かっているのだ。オーナー登録情報を変更されてしまえば、自分の気持ちなどがらりと変わってしまうということを。
「先生、何から何まで、本当にありがとうございます」
キリカは丁寧に頭を下げた。それから少し笑って、先生がオーナーだったら良かったなと、本気とも世辞ともつかぬことを口にする。
「もう少ししたら晩飯だ。お前も居間に来るか?」
アリスは食事はとらないとはいえ、ずっとここに寝かせっぱなしにしておくのも、除け者にしているようで落ち着かない。
「よし。じゃあ行こう」
キリカが頷くのを確認して、サイドチェアの上からオイルの入ったボトルを取り上げた。少女の手を引きながら、簡単なメンテナンスはしてやらないとと、そう考える。
居間のテーブルの上には、既に食事が用意されていた。今日はハンバーグか。デミグラスソースの濃厚な香りが、食欲をそそる。
「あ、キリカちゃんだ」
ソファでオイルを飲んでいたアリサが歓声をあげる。随分とその場所が気に入ったようだ。
「おいでー」
自分の身体をずらしてソファにスペースを空け、そこに座れと促す。戸惑うキリカにオイルを手渡し、優しく背を押してアリサの許へ行くように促した。自分はテーブルにつく。
「今日も旨そうだ。ありがとうアリサ」
箸をとって礼を述べる。少女は誇らしげに何度も頷いてみせた。
「アリスが欲しくなっちゃう?」
キリカと並んでソファに腰掛け、オイルを飲みながら言う。
「いや、別に」
「素直じゃないなぁ」
アリサはけらけらと笑い、本当は欲しくてしょうがないんだよと、隣のキリカにふざけたことを囁いた。相変わらず馬鹿を言う。
「アリサちゃんは、いつまでここに?」
キリカが尋ねる。アリサは残念そうに眉をよせ、答えた。
「わたしは明日までなんだ。明日の午前中に、旦那様が迎えにきてくれることに……」
そこまで言って、言葉を止める。小さな声で、ごめん、と呟いた。キリカは笑い、気にしないでと眼前で緩く手を振ってみせる。
「キリカの、新しいオーナーになる予定の彼だが」
妙な雰囲気になりかけたので、ハンバーグを咀嚼しながら、ソファの二人を見て言った。
「いい男らしいぞ」
美優曰く、だ。ちなみに何の嫉妬か孝一は否定していた。あくまで商品であるアリスにとって、オーナーの容姿など瑣末なことだ。アリサもキリカもそんなものはどうだっていいと思っているだろう。だが、雰囲気を変えるきっかけにはなったようだ。アリサが前かがみになって抗議する。
「何かうちの旦那様が不細工って言われてるみたいに感じるんだけどっ」
事実ではあると思うが、俺は手を振り、
「そんなことはないさ。元村さんだって、魅力的な男だぞ」
そう言った。
「耳たぶとか、睫とか足の裏とか、すごく整ってるじゃないか」
「どーでもいいとこばっかじゃんっ」
くだらぬ遣り取りだが、キリカは笑ってくれた。アリサもちゃんと分かっているようだ。
「あ、でもさ。明日の午後からキリカちゃん、コイツと二人きりでしょ。気をつけないと。襲われちゃうかも」
襲うわけがない。キリカは少し困ったような表情を見せる。
「お世話になってるし、それくらいは別に」
曖昧な笑顔で、右の指先で頰を搔くようにしながら、少女は答えた。
「あ、そう……」
回答に面食らったアリサが言葉を失する。馬鹿か。オーナーにそう躾けられてきたキリカにとって、人間との性交渉はその程度のものなのだ。ふと、新しくキリカのオーナーとなるかもしれない例の青年にも、このことは伝えておかねばならないと気付いた。
「襲ったりはしないけどな、それ以前に、俺とキリカは二人きりにはならないぞ。明日の午後、お前と入れ違いで新しいアリスが来る」
アリサに向かって告げた。少女は感心したように、へえ、と言い、
「繁盛してるんだねぇ」
しみじみといった感で、深く頷いてみせた。
「まあな。さて……」
食事もあらかた終えたので、食器類の片づけを二人にまかせ、俺は居間を出る。明日来る予定のアリスの資料に、もう一度目を通しておかねばならない。
16
研究室のプレジデントチェアに腰掛け、デスク備え付けの液晶に調律依頼書と要件書を表示させる。アリサが来る前日にも同じ作業をした。その時の様子を思い出し、何だか随分と忙しい10日間だったと、改めて脱力感に襲われる。
「どうしたものかな……」
表示を要件書のみに切り替え、依頼内容を読み進めていく。調律に掛けられる期間は明日を含め14日間。過去の例に比しても長い方だ。
アリスの調律料金に、明確な基準は無い。調律師次第、工房次第だ。
俺の場合は調律の内容から作業に要する期間を算出し、日数に5万5000円を乗算した額を調律料金として請求している。アリサの場合は10日間だから55万円。諸費用を差っ引くと、40万円弱が俺にとっての利益となる。
調律料金は契約時に算出した料金で完全固定としており、今回のように調律が早く終わっても一部返金したりはしないし、逆に長引いても追加料金を請求することは無い。
液晶に表示されている要件書の調律依頼の場合、総額は77万円。前金で4割以上を貰えれば、調律完了後に残金を支払うことも許可しているが、今回は既に全額が振り込まれている。結構なことだ。
指先で液晶をスクロールさせ、具体的な調律内容を記した項目に移行する。通常はそれなりに項目数があるわけだが、今回は極めて特異。要件書のその箇所には、ただこの一文のみが記されている。
「先生のお好きなように」
背後で物音がし、思わず身体を震わせてしまった。振り返れば、研究室の入り口から中を覗き込んだアリサがからからと笑っている。
「どうした?」
「んー、何してるのかなって」
ベッドに腰掛け、片付け終わったよと言い添える。大きな瞳が、デスクの液晶画面を捉えた。慌ててスクロールさせ、表示を別画面に切り替える。個人情報と言う程のものでもないので、見られたところでどうということもないのだが、まあ一応だ。
「明日から来る子の要件書?」
デスクに寄ってきたアリサの小さな手が、液晶画面に伸びる。その手首をそっと摑み、押しとどめた。
「勝手に見るな」
言えば、えー、と不満の声を漏らす。
「調律、難しそうなの?」
ベッドへ戻ったアリサが問う。
「まあ、そうだな」
難しそうと言えば難しそうだ。要件書の一文が思い出される。依頼内容が、幾らなんでも奇態に過ぎる。そしてそれ故、依頼主であるオーナーが何を考えているのか、いまいち読めない。まあそれは、アリサのオーナー、元村も同様と言えるが。
当該の調律依頼は、タブレットによる通話で受けた。依頼を寄越してきたのは田宮晴彦と名乗る若年の男性で、直接顔を合わせてはいないため、どのような人物であるのかはよく知らない。声の調子から俺よりも年若いのではないかと思うが、であれば、いわゆる青年実業家の類だろうとは思う。アリスは高額商品。普通の企業勤めの人間が、若くして購入するのは難しい。
「気分を変えたいだけなんです。ほらいつも一緒にいるでしょ? だから、彼女が今までとは少し違う雰囲気になってくれさえすれば、それでいいんです。どう変わるかではなく、変わることそのものが大事。どう変えるかは、先生におまかせします」
電話越しに、田宮青年はそのように言った。人と話すことがあまり得意でないのか、たどたどしい口調で。主張は分からないでもないが、珍妙な依頼であることに変わりは無い。
液晶に調律依頼書を表示する。契約書も兼ねるそれには、調律対象となるアリスの型番と名、加えて田宮晴彦の名も記されている。
「あっ、Xタイプだ」
考えに耽っていたせいで忘れていた。アリサが見ていたのだった。記された型番の特徴を目ざとく見つけた少女が、再びデスクに擦り寄ってくる。その通り。Physical Illusion社製アリスの場合、Xの型番には特別な意味がある。
「そのアリスってさ、もしかして……」
興味深そうにデスクを覗き込むアリサを見やる。一つ溜息。会うこともないだろうアリスに、どうにも興味がつきないようだ。個人情報だから他言無用だぞ、と言い添えてから、告げた。
「名前はロザ。型番はXの7055。俺も初めて扱う、カスタムアリスだ」