2WEEKS イカレタ愛
第四回
野中美里 Illustration/えいひ
9 ザトウクジラの死骸と透明な少女
僕らは四人でアパートに向かった。
黒戸はジャージで姫髪さんは制服姿だ。岡田さんは私服に着替えていた。
そう言えば、僕の自転車はどうなったんだろ。染谷先輩に路上で襲われて、たぶんそのままほっとかれたはずだけど。そのまま撤去されたか、誰かに盗まれたんだろうか。もう路上にはなかった。
ため息をつく。
ただ、自宅の鍵と財布はジーパンのポケットに入っていたので手元にあった。
玄関を開けると、ハムスターが大きな声で言った。
「おかえり! どこ行ってたんだよ、心配したぞ! もう水が少ないよ、ご飯もね」
「みんなもいるよ」
そう言うと、妙生はそっと後ろを覗いた。
「水と餌は入れとくよ」
「うん」
「みんなでお前に話があるんだ。今度は噓は通じない」
妙生は静かに返事をした。
僕はケージを部屋に持って行く。三人も部屋に入って、適当な場所に座った。
冷蔵庫から余っていたキャベツを取り出して、適当な大きさに千切って入れた。水入れにも補充しておく。それを済ませてから、僕も空いている所に腰かけた。
「僕が二日間帰らなかった理由を聞いてもらう」
染谷先輩に捕まっていたことや、ネクタールの入り込んだであろう猫の話をした。染谷先輩が豹変したことや、猫が凶暴になったことは間違いなく、精神と同化したネクタールに関係している。そうでなければ、染谷先輩はあんなことを言わなかっただろう。
――心の中になにかいて、そいつがやれって言う。拒みきれなくなる。
染谷先輩は自分の体になにが起きたか知らなかったから、そう表現した。
ネクタールは僕らの体でなにかしている。
僕は言った。
「たぶん、宇宙船の自己修復プログラムに関係してるんじゃないのか? 僕らと同化したネクタールには知性がないらしいけど、なにか起こそうとしている。なんとなくだけど、染谷先輩の話を聞いてそう思ったんだ」
直感は重要な感覚だ。余計な感覚が省かれる分、信頼できる。
それは、岡田さんがオカルト研究部にネクタールの入り込んだ三人を集めたことや、僕が黒戸の戦闘現場に立ち会わせたことにも繫がる。
妙生は黙って周りを見渡した。
それから、僕をジッと見た。
「話すよ。だからここから出してくれ。この中はもう嫌なんだ」
「あまり出したくない」
「いいだろ、それくらい」
僕は妙生をケージから出して、テーブルの上に乗せた。部屋の中はどこも閉めてある。
妙生は話し始めた。
「宇宙船の自己修復プログラムはようやく佳境に入ったんだ。雪介の話を聞いて確信したよ。本当によかった。もうすぐこの残酷な世界から脱出できる」
「なに言ってるんだ?」
「この世界は不気味で、薄汚くて、不自然だ。どうしてみんな殺し合ってるんだ。動物も、人間も、虫も、生きるために殺して、増えて、最後には自分の生きる土台を壊していく。おかしいじゃないか」
「お前から見たらどんな場所でも奇怪に映るだろ」
「違うよ。俺が知ってる中で一番恐ろしいところだ。雪介たちが可哀想だ、そしてこんな世界に落下してしまった俺はもっと可哀想だ。でも、ようやく終わる」
ハムスターはそう言って、ガッツポーズっぽい仕草を取った。
「船の、失ったパーツの修復が済んだんだろうな。依り代にしていた、必要のない肉体を消去しようとしているんだろう。それには自殺させるのが手っ取り早いんだろうけど、ネクタールは人間を操る程の強制力は持っていないからな。だから、感情を上手く使って、ネクタールの入っている人間を殺していこうとしているんだよ。染谷とかいう人も、猫も、その役割を負ったんだ」
「必要のない肉体を消去って、寿命で死んだら勝手に飛び出るんじゃないのかよ」
「もちろん寿命で死んでも飛び出る。でも、思ったよりも修復が早く終わったんだ。雪介たちもいずれ染谷のようになる。その時期は近い」
「僕らが殺し合うって言うのか」
「俺が見た感じそうなるだろうな。そうなる前に雪介がみんなを殺してあげれば? 黒戸ちゃんでも楽に殺せるだろ」
お前、なに言ってるんだ。
「ふざけてるのかよ」
「ふざけてるのはそっちだろ、俺をなんだと思ってたんだ。可愛いハムスターじゃないんだよ。お前らみたく進化し損ねた不完全な生き物は、見ているだけで酷く気分が悪かった。残酷で、気持ちが悪い」
初めから。
「この世界で宿主がいない状態は、人間が真空か深海にでもいるようなものだろう。空気がなくなるようなもんだ。なにかに乗り移らなければいけなかった。この格好でいたのは、ネクタールの入った人間の様子を見るためでもあったけど、それ以上に籠の中で飼われているのが安全だったからだな。雪介の妹は予想外だったけど。俺を焼こうとしたときの雪介の直感は、当たらずとも遠からずってとこだ」
僕は混乱してしまい、聞き出せなかった。
「それから、雪介のお母さんのことも教えとくよ」
「母さん?」
「雪介の能力が原因じゃないよ。おかしくなったのは」
「どうして」
なんで今、そんな話をするんだ。
「お母さんを生き返らせたときに、俺が精神に入り込んだんだ。他の魂が入り込むんじゃなくて、宇宙人が入り込んだわけだな。起きたことは似たようなものだ。ただ、人間の精神と俺の存在は相容れなかった。雪介が殺してくれてすごく助かったよ。感謝した」
「なんで黙ってた?」
「言ったら、どうしてた? 火あぶりにでもしてた? 雪介ならもっと酷いことしてたよね。言えるわけないじゃないか」
「ずっと、僕を恨んでいたのか」
だから、そんな話をするのかよ。
「俺がどれだけ雪介を嫌いか分からないだろ。ここにいる生物は、全て死ねばいい。そう宇宙人は思う。さて、死ぬ時間くらい教えとくのが優しさだろうな! 明後日の午後五時。早めに、その肉体を捨てておくことを勧めるよ」
そう言って、ハムスターは突然走り始めた。僕らの間をすり抜けていく。ササッとテレビラックの裏に入り込んだ。
「妙生!」
逃げようとしているんじゃない。
こいつ。
バチッと音がした。
すぐにテレビラックをどけるが、壁には焦げた痕があり、感電死したハムスターが倒れていた。
ハムスターの死骸は、舌を出して目が開いていた。手足を広げている。それを見て、不気味だとしか感じることができなかった。僕はハムスターの背中を摘み、ケージの中に入れ、おが屑を被せた。
僕と妙生の関係は、利害関係ではなかった。妙生は僕のことなど、始めから道具としか見ていなかった。母のことも、黒戸のことも、姫髪さんや、岡田さんのことも、あいつにとっては貴重な道具だ。
慎重に扱われていた。
それなのに、僕は妙生を保護している気になっていた。優越感すら感じていた。
「上代君」
と岡田さんに声をかけられて、意識が現実に戻った気がした。
時計を見ると、そろそろ夜の十時になろうとしている。
「大丈夫? お母さんのこと言っていたけど」
「それより、これからどうするか話そう」
「いいけど、少し休んだ方がいいよ」
「うん。でも大丈夫」
岡田さんは黙っていた。
「あの……」
ずっと不安そうな表情をしていた姫髪さんが、そろそろとこちらを向いた。
「どうしたの?」
「妙生さんの言っていたことに、噓はないと思います。以前お話ししたように、私の能力は先週の月曜日を境に不安定になりました。もう未来はまったく見えないんです」
「僕は、姫髪さんの話してくれた大きな不幸が、黒戸に関係していると思っていたんだ。でも、そうじゃなかった……」
姫髪さんは言った。
「違うんです。妙生さんは明後日の午後五時がタイムリミットだと言いました。未来が見えないのは、運命が不確定だからだと思うんです」
「まだ、不幸は回避できるってこと?」
「それは、はっきりとは。ですが、小さい変化がいくつも起きているはずです。もし、私たちが部活に参加していなければ、染谷先輩に襲われた上代さんを救う人はいなかったかもしれません。妙生さんの話を聞くこともなかったのだと思います。そう考えることは、できませんか?」
「……そうかもしれない」
気持ちを切り替えよう。
「捕まっていたから、日にちの感覚がないんだけど」
カレンダーを見ると、岡田さんが言った。
「五月二十日の金曜日。明日、明後日は学校が休み。来週末には中間試験が始まるんだよね。ってそんな心配してる場合じゃないか」
「妙生は日曜の午後五時がタイムリミットと言っていた。あと二日ある」
少し考えて、僕は話した。
「その間に、自己修復プログラムを解除する方法を探そう。他にもネクタールが潜在的に入り込んでいる人はいるかもしれないんだ。動物にも、もしかしたら植物にも可能性はある。一斉に殺し合いが始まれば、僕らだけの問題じゃない」
黒戸が言った。
「それで、結局どうすればいいの?」
僕は悩む。
「妙生はまた、他の生き物に入り込んでいると思うけど、探してみるとか?」
「もし妙生君を探して捕まえたとして、それで解決するとは思えないんだけど」
「ネクタールを僕らから取り出すとか?」
「そんな方法あるの?」
「知らないけど……」
黒戸は僕から顔を逸らした。
なにも浮かばない。
「上代君は甘いね。怪しい生き物と暮らしているんだから、もっと情報を聞き出しておかないと」
と岡田さんが言った。
なにも言えなかった。
「妙生君から聞き出しても、対抗する手段をまったく考えていない時点でアウトだしね」
僕は勘違いしていた。
僕は妙生よりも、上手だと思っていた。でもそれは、最終手段にみぞれの存在があったからだ。そのことを、妙生は分かっていたんだろう。
僕はどこまでも卑怯だ。
岡田さんは僕らを見渡してから、グッと拳を作って言った。
「でも、妙生君も甘い。私におしゃべりになるべきじゃなかった」
岡田さんが、レポートノートになにか書き始めた。
ノートの中が、どんどん奇妙な数式や、出鱈目にしか見えない文字で埋まっていく。
なんだか迫力がある。能力を使っているせいか、不思議な感じもする。瞬きもしないし、表情がまったく変わらない。腕の動くスピードも一定で、そこだけ時間の流れが変わっているようだった。
僕らは啞然としてその光景を見ていたのだけど、岡田さんの腕がとまった。
「自己修復プログラムをとめるには、みぞれちゃんが必要になる」
岡田さんは機械的にそう言った。
「できるの?」
「みぞれちゃんなら、ネクタールに干渉することができるから。黒戸さんのシマウマ男でもできないことはないけど、発生条件やコミュニケーションの有無を考えると難しいし。コンピュータにウイルスを忍び込ませるようにして、自己修復プログラムをとめる。ただ、結構重労働になるから」
みぞれが出てくるには、僕が生物を生き返らせる必要がある。
犬や猫なら、百体以上生き返らせないといけないと、岡田さんは言った。
「まだ問題があって、宇宙船の落下ポイントが分からないといけないの。妙生君からなにか聞いてた?」
「市内に落ちたとしか話してなかった」
「この二つの条件をクリアする必要があるんだけど。どうにかならないかな?」
姫髪さんが口を開いた。
「あの、生き返らせる生き物はどんなものでも大丈夫でしょうか?」
僕は少し考えて、口を開く。
「経験上、体の大きな生物程、みぞれの存在は安定する。虫よりトカゲ、トカゲより猫って感じだった。植物はなぜかあまりみぞれの存在を安定させない」
「クジラならどうですか?」
「それなら、犬や猫よりも能力を使うことになるはずだ。でも、クジラが打ち上げられたのは一週間以上も前だから、もう浜辺にはないと思うけど」
「明日、もう一度打ち上げられると思います」
と姫髪さんは言った。
「岡田さんはどう思う?」
「やってみるしかないでしょ」
僕の能力に制限は今のところないけど、本当にクジラを生き返らせることなんてできるのか、やってみないと分からなかった。大きすぎる。
それにしても、回遊しているザトウクジラがどうしてこの時期に打ち上げられるんだろう。千葉の方を回ってくるとしても、十一月くらいからだ。
もしかしたら、それも宇宙船の落下と関係してくるのかもしれないし、どこか他の沖で力尽きて、黒潮に乗って浜に打ち上げられるのかもしれない。
ネクタールが入っているってことはないと思うけど。
「詳しい場所は分かる?」
「T市の海岸で、その周りの特徴くらいしか」
「目印になるものがあればいいんだけど」
姫髪さんは、海岸近くの道路沿いにある、食堂の名前を思い出した。僕らは翌日、クジラを探すためにT市に向かうことになった。
翌朝、インターホンが鳴る音で目を覚ました。
ふらふらと玄関を開けると、黒戸が立っている。黒戸は、僕の顔を見て首を振った。
「なんだ?」
「なんだって、寝ぼけてるの?」
部屋に戻って時計を見ると、集合時間の十時半まであと十分しかなかった。
「黒戸は先に行っててくれ!」
「待ってるから、早くしなよ」
黒戸が起こしに来なかったら僕は一日寝ていた。
急いで支度をし、集合場所の駅まで黒戸の自転車で二人乗りをした。
岡田さんと姫髪さんはもう来ていた。合流すると、岡田さんが言った。
「上代君、寝ぐせすごいよ。それに十分遅刻だ!」
「ごめん」
岡田さんは相変わらずで、あまり深刻になっている様子はなかった。みんなのおにぎりとお茶まで持ってきてくれていた。
姫髪さんはちょっと不安そうに見える。
僕も同じだ。
明日の午後五時がタイムリミットなら、残りはだいたい三十時間となる。
クジラを見つけて生き返らせたとしても、まだ宇宙船の落下ポイントを見つける作業が残っている。M市といっても広い。人口は四十万人を超えている。高校生四人が歩き回って、カバーできるような範囲じゃない。
切符を購入して、四人でホームで電車を待っていると、岡田さんが口を開いた。
「上代君はさあ、少し楽観的になった方がいいよ。せっかく天気もよくて、みんなで海に行くんだよ! 楽しまないでどうするの!」
「でもさ……」
「暗い暗い!」
「岡田さんは落下ポイントを一日で見つけられると思う? 移動距離を考えると、残り時間は一日を切ることになるけど」
T市までは電車を乗り継いで三時間はかかる。その後の移動時間を含めると、合計で五時間は見ておいた方がいいはずだ。
「私がなにも考えていないと思ってるの?」
「落下ポイントに心当たりあるの?」
「なくはない。自信があるかと言えば、そうも言えないけど。考えたって仕方ないじゃん。もし駄目なら駄目! 今日を楽しもうよ」
電車の中で、三人はずっとおしゃべりをしていた。黒戸も二人と打ち解けている。
部室の中でもずっと無愛想だった黒戸が、笑っている姿はなにか安心するものがあった。
僕は一人外を眺めていた。
女の子のおしゃべりには、やっぱり入っていけない。なんだか圧倒される。
そんな姿を見てか、岡田さんが僕の隣に腰かけた。
「妙生君のこと、気になる?」
と岡田さんは言った。
「そういうわけじゃ……。ただ、疑問に感じていることはあるんだけど」
「なんでも訊きなよ。私に答えられるかもしれないよ」
「妙生はこの世界のことに詳しかったんだ。どうしてだろうって思ってた」
「上代君のお母さんに入り込んだときに調べたんだろうね。入り込んだ相手の記憶を覗くようなことも、できたんじゃないかな」
「どうしてこの世界に詳しいのか訊いたことがあったよ。内緒って言ってたけど」
妙生が人間の精神は複雑でノイズが多いと言っていたことも、人間に入り込んだことがあるから言えたことだ。
岡田さんはちょっと笑った。
「面白いハムスター君だと思ったけど、中々侮れないね」
僕はふと思ってしまう。妙生の住んでいた世界ってどんなものなんだろうかと。
岡田さんは腕を組んで言った。
「私はネクタールを分析する能力を持っているけど、妙生君の住んでいた高次元の世界まではどんなものか分からないんだよね。言葉で説明できることでもなさそうだし。でも上代君のイメージしている世界とは違うんじゃないかな?」
「僕のイメージしている世界って?」
「上代君は、人間には魂があって、輪廻転生するって考えを持ってるでしょ。でももしネクタールと魂が似たものなら、人間が解脱すると、魂は妙生君の住んでいた高次元の世界へ昇るんじゃない? そんな風に考えると、高次元世界って、霊界とか天国みたいなものってわけだよね。それだと妙生君の存在って、天使とか神様みたいなポジションになると思うんだよね。ハムスター君が天使ってピンとこないじゃん」
僕は曖昧に返事をした。
「だから私は、妙生君の住んでいた世界を余剰次元の中の一つと考えている。少なくとも、そっちのイメージで考えた方が気分的に沈まないで済むから」
妙生が天使っぽくないのは分かる。
「私たちの世界は、三次元空間と時間でできている。観測者である私たちにはそれしか知覚することができないから、それより多くの次元があっても分からない。残念ながら。
ただ、計算上では他次元がありそうだと言われてるの。
知覚できないし、旅行することもできないだろうけど、私たちの住む世界のすぐ隣には、他の世界が存在するかもしれないということ。その他次元の宇宙は、私たちとは違う物理法則の元で調和が取れていて、ネクタールなんてものが存在するかもしれない。ネクタールで構成された生き物や、道具があるのかもしれない。ネクタールって、私たちの世界でいう原子とか、粒子みたいなものなんじゃないかとも思う。
ハムスター君って実際には、宇宙人っていうより他次元宇宙ネクタール生命体と言える気がするかな。宇宙人って呼ぶ方が似合うけどね」
妙生は文明人だったのかな。自家用の宇宙船に乗って旅行していたのかもしれない。
それが突然こんな世界に来てしまったのか。
岡田さんは言った。
「ただ、人間には肉体と別個のなにかがあるんだろうね。それは魂と呼ばれるものかもしれない。死んでみなくちゃ分からないけど」
岡田さんはチラッと黒戸を見た。
黒戸は嫌そうに首を振った。
僕は岡田さんに言う。
「自己修復プログラムについて思うことがあるんだけど」
「どんな?」
「妙生は、ネクタールの入った生き物を殺し合わせるために、感情を使うって言っていた。それなら、少なくとも僕ら四人が殺し合いになることはないんじゃないかな? お互いに憎しみ合う理由が、僕らにはない。協力すれば、タイムリミットを過ぎてもどうにかなると思うんだ。怖いのはあの猫や第二の染谷先輩が生まれてしまうことだけど」
おしゃべりをしていた黒戸と姫髪さんが、こちらを見た。
岡田さんは僕をジッと見て言った。
「ねえ、染谷先輩がどうして上代君を襲ったか考えないの?」
たぶん、実家の環境でオカルト研究ができなくなってしまったところに、僕みたいな中途半端な人間が入ってきて怒ったんだろう。
「嫌われていたのか。なにか理由があったのかもしれない。医者を目指すことと関係があるのかも」
「違うと思うよ」
僕は悩む。
「岡田さんはどう考えてるの?」
そう訊くと、岡田さんの表情から温度が消えた。
僕は背筋に冷たいものを感じてしまう。
「私にも分からないよ、そんなこと。とにかく、自己修復プログラムは明日までに解除しなくちゃ駄目。それをできるのは私たちしかいないんだから」
「ごめん、その通りだ」
それにしても、この日も黒戸の格好は制服だ。猫にぼろぼろにされてしまったので、黒戸は今朝、学校に寄って制服を新調してきていたらしいのだけど、その制服代はなぜか昨日のうちに僕が払っていた。助けてくれたのだから文句は言えないけど……。
頼むからもう制服を駄目にしないでくれ。しかし、なんだかこの日も嫌な予感がした。
岡田さんはホットパンツを穿いていた。あと大きめのセーター。岡田さんは脚が綺麗だ。姫髪さんはワンピースのような格好にふわふわなニット帽を被っている。少しだけ化粧もしていた。可愛い。ジーパンにジャンパー姿で、靴も汚れている僕はなんなのだろう。
電車を乗り換えると、四人が向かい合える座席を見つけた。
「時間あるし、ゲームでもしようか」
そう言って岡田さんが出したのはトランプだった。岡田さんにカードを配るように言われ、僕はサクサク切って配る。
電車の移動だけで三時間はある。暇つぶしがなければたしかに退屈だったかもしれない。そう思っていると、岡田さんがまじめな口調で言った。
「上代君にカードを切ってもらったのは、ゲームを公平にする配慮も含まれているんだよ。黒戸さんや姫髪ちゃんにやってもらうと、一発であがられるかもしれないし」
黒戸はふっと口元を歪めて言った。
「それでもまだ公平とは言えないけどね」
岡田さんが手札を捨てながら言う。
「自信ありそうだね。なにか賭ける?」
穏やかじゃない、この二人。姫髪さんはちょっと怖がっているみたいだ。
黒戸が言った。
「目的地に着くまでのタクシー代はどう?」
おそらく黒戸は本当に資金がないのだろう。その口調はかなり本気だった。
「それでいいよ」
と岡田さんも言う。僕はそろそろと口を挟んだ。
「普通にトランプしようよ。賭けはよくないって」
岡田さんがビッとこちらを睨んだ。
「じゃあ上代君があがれたらなんでも言うこと聞いてあげる」
「なんでも……」
「そう! なんでもいいよ」
僕はつばを飲み込んでしまう。
「だけど、上代君があがれることは万に一つもないと思うよ。これはみんなが手を抜かないようにするための措置ってだけ。さ、始めよう」
僕は賭けにのることにしたのだけど、結局一度もあがれなかった。きっと目は血走っていたことだと思う。やましい気持ちが出ていたせいか、三人とも本当に手加減抜きだった。
姫髪さんがダントツだった。黒戸と岡田さんは同着といったところだ。
思い返すと、黒戸は筋肉の微妙な動きを見て、ジョーカーを持っている人を目で追っているようだったし、岡田さんはなにか暗算をしているようだった。姫髪さんは能力を使ってなくても、潜在的に直感が優れているのか恐ろしく強い。
試しに、裏返して並べたトランプの絵柄を当ててもらったのだけど、ほぼ正解していた。僕ら三人は一般人レベルであったことを考えると、姫髪さんの直感というのは、一つの能力と言えるんじゃないだろうか。
ただ、本人はあまり嬉しそうではなく、むしろ自分でも気味悪がっていた。姫髪さんもこんな実験したことなかったみたいだし、戸惑いの方が大きい。
それもそうだ。
黒戸なら、スプーンを曲げることなんて造作もなさそうだけど、そんな意味のないことをしないだろう。
T市に着くと、僕らはタクシーに乗り、知っている限りの目印を伝えた。運よく、ベテランのドライバーだったのか、その場所に覚えがあるようだった。それでもかなり迷った。ところどころ、姫髪さんがこの道に見覚えがありますとか、そこを左ですなどと言うことで、最終的に目的の場所に着くことができたのだが、二時間くらいかかったかもしれない。同じ道を行ったり来たりした。運転手さんはずっとにこにことしていたからよかったけど、それは女子高校生が三人もいたからかな。
そして僕の財布からは、かなりのお金が飛んだ。僕は、自分の浅はかさを悔いた。
「帰りは割り勘にするから」
と岡田さんが苦笑いで言ってくれたのだけど、黒戸が口を挟んだ。
「気を遣わない方がいいよ」
黒戸の声色はなんだか不機嫌そうで、僕はなにも言えなかった。
時計を見ると、もう午後四時になろうとしていた。
路上からはまだ海は見えないけど、波の音が聞こえた。目印の食堂から林道を抜けると、海岸に出た。
林のせいで視界が開けていなく、辺りは岩場が多かった。
まだ海水浴に来る人はいないし、この辺りではサーフィンをしている人もいなかった。
「とりあえずお弁当食べようよ! お腹減った。上代君はシート広げて」
僕はシートを受け取り、草の上に広げた。
そう言えば、トランプに躍起になってみんなご飯を食べていない。朝からなにも食べていなかった。
広げたシートに座って岡田さんのおにぎりを食べた。
「クジラってもう打ち上げられてるのかな?」
と僕は岡田さんに訊く。
「食べてから探してみよう。どっちみち、生き返らせるのは暗くなってからじゃないといけないし」
「そう言えば、生き返らせたあと、どうやって海に返す? 自力じゃ難しいだろうし、かと言ってほっとけば、また死んでしまうんじゃない? 呼吸はできるはずだけど、自重で内臓が潰れるって聞いたことがある」
「そのことだけど、クジラ君は黒戸さんに沖まで飛ばしてもらうつもり」
「それは、できるの?」
うーん、と岡田さんは悩む。
「この辺りの海岸で見られるクジラは、ザトウクジラかマッコウクジラになるんだけど、十メートル級の個体で体重は十トン以上あるみたい」
黒戸は鼻を鳴らして言った。
「余裕」
「黒戸、十トンって、タンクローリーを吹っ飛ばすのと大差ないぞ」
黒戸はそっぽを向いた。
岡田さんが言う。
「黒戸さんの能力なら、ジャンボジェット機でも吹き飛ばすことができるはずだよ。その辺はあとで説明するから」
「ジャンボジェット機って」
三百トンはあるだろ。
食べ終わると、僕らは海岸を探索した。どんどん岩場が多くなり、歩きにくくなったところで、姫髪さんが口を開いた。
「漂着するのは、この辺りだと思います」
辺りは林で囲まれており、周囲から隠れるようになっていた。
岡田さんが言った。
「漂着の時間は分かる? おおよそでいいから、勘で答えて」
「……あと三時間後といったところでしょうか」
「おっけー! じゃあ、ひとまず砂浜に戻ろう!」
僕らは一旦その場を引き上げ、砂浜のあるところまで戻って来た。スニーカーを履いているのだけど、かなり足が痛い。砂が入り込んでいた。
「さてと、黒戸さんにはクジラ君を沖まで飛ばすための特訓をしてもらいます!」
岡田さんは、黒戸に向かって笑顔でそう言った。
それから、僕と姫髪さんに向かって口を開いた。
「ちょっと二人で遊んでいて。ここで見ていてもいいよぉ」
遠慮しておくことにした。
姫髪さんと僕は、弁当を食べた草地に戻り、適当な岩に腰かけた。そのまま、浜辺で豆粒のようになっている黒戸と岡田さんを眺めていた。なんだか、岡田さんは必死に教えている。
姫髪さんが僕の方を振り向いて、静かに言った。
「上代さんは、とめられると思いますか?」
自己修復プログラムのこと。
「分からないよ」
「……はい」
「でも、僕はみんなとまだ一緒にいたい」
姫髪さんはちょっと考える。
「今日の夜、二人で少し話をしてもいいですか? これを無事に終えることができたら」
「もちろん」
今のうちに、話せることや、聞けることはなんでも。
海岸を散歩したり、姫髪さんとトランプをして三時間を潰し、時刻は午後七時すぎとなった。林で囲まれている海岸はもう暗い。外灯もないし、人もいない。
これなら、クジラを生き返らせるところを誰かに見られることもない。
岡田さんが懐中電灯で先を照らし、僕らはそろそろと岩場の方へ歩いていった。
さっき確認をした場所に、クジラの死骸は打ち上げられていた。腐臭がすると聞いていたけど、まだあまりしていなかった。
海岸に頭を向けて、身体中に傷を作り、潰れたように息絶えている。かなり大きく、目算で十メートルはある。
その迫力に、僕は息を吞んだ。
こんなものを生き返らせるのか。
「これはザトウクジラかな。初めて見るけど迫力あるね」
と岡田さんが感心したように言った。近寄って、死骸に触れていた。
姫髪さんが僕の服の裾を握った。正直、僕も怖かった。まるで、本能が自然とそうさせているように、体が強張るのが分かった。
黒戸もあまり積極的に近寄ろうとはしていなかったけど、たぶんクジラに興味がないだけだ。
岡田さんが僕に振り向いて言った。
「上代君、かなりビビってる?」
「ビビってないよ。ちょっと鳥肌が立っただけだ」
「君はこの中で唯一の男なんだよ」
と岡田さんは首を振り、続けた。
「上代君の気分が落ち着いたら始めるね」
「もう大丈夫」
「じゃあ練習なしの一発本番! 黒戸さんも準備はいい?」
「いつでも」
と黒戸は言った。
僕は意識を集中して、クジラの表面に手を当てた。クジラの顔は浜辺に向いている。暴れたら、僕なんて潰されてしまいそうだ。頼むから、そんなことにはならないでくれ。
再生の力を注ぐけど、猫や人と比べ物にならない量が必要になり、呼吸を整えるために休憩をはさんだ。
「上代君、情けない」
と岡田さんがため息交じりに言った。
もう一度意識を集中し、クジラに力を注ぎ込んだ。
少しずつ、クジラに生気が戻ってくるのが分かった。そして、ある境界を超えた瞬間、クジラが息を吹き返し、尾ひれを海に叩きつけた。飛沫が飛ぶ。身体を動かそうとしていた。
たぶん、苦しんでる。
手を離すわけにはいかない。岩場にいるから、治ったそばから傷ついているだろうし、どのくらい陸で耐えられるのか分からない。
「黒戸さん!」
そう岡田さんが叫んだ。
黒戸は僕の横から、クジラの腹に両手を押し出すような形の打撃を加えた。と思うのだけど、速すぎて正確には分からない。
打撃の衝撃波のようなものが、逆流して僕らの全身を襲った。
同時に、クジラは海の上をスケートでもするように滑っていった。滑ったところは、海が左右に割けている。しばらくして沖の方で海に潜るような音がした。
「上手くいったのか」
「いったね。すごいな、これは」
岡田さんが呟いた。
みんなで暗い海の先を見ていると、姫髪さんが言った。
「逃げた方がいいかもしれません」
「どうして? 上代君も疲れてるし、ゆっくり戻ればいいよ」
「あの、波が、来るのではないでしょうか」
「ああ、私もそこまでは計算できないな。よし、ダッシュで逃げよう!」
僕らは林の方にどんどん逃げていった。
クジラを飛ばしたせいか、ネクタールの吹き返しか、姫髪さんの言った通り、波は僕らの逃げたすぐそばまで来た。愉快そうに笑っている岡田さんの横で、僕は呆然とその光景を見ていた。
そのあとタクシーを呼び、駅まで送ってもらった。クジラの近くにいた僕はかなり濡れていたので、Tシャツだけ買って着替えをした。
黒戸がほとんど濡れてないのはどうしてかは分からない。もしかしたら、飛沫が避けて落ちたのかもしれない。
だけど制服は無事だ。
帰りの電車で、岡田さんに黒戸がどんな方法でクジラを飛ばしたのか訊いた。
「まあ、あれだよ。簡単に説明すると、黒戸さんがネクタールを放出して、その上にクジラ君を滑らせたって感じだね」
「放出?」
「上代君だってしてるんだよ。ネクタールは目に見えないから、分かりにくいと思うけど」
「僕の再生能力も、離れた相手に使えたりするようになる?」
「それは難しいかな。上代君の能力は、妙生君といたせいだろうけど、隙間がないの。無駄がない。完成された絵画や、建造物と一緒。数式もこんなに綺麗」
レポートノートを見せてくれたけど、その文字に意味があるのか僕には分からない。
「ね!」
岡田さんは笑った。
地元の駅に着いた頃には、もう日付が変わっていた。
「さて」
岡田さんは言った。
「今日は一回帰ろう。ゆっくり休んで、明日はここに九時半集合で。それから、明日は山歩きができるような格好で来ること」
黒戸はすぐに帰ってしまった。表情は少し疲れているようにも見えた。岡田さんは、これからやることがある! と自転車を立ち漕ぎして走って行った。
僕は姫髪さんを自宅まで送るべく、一緒に歩いていた。
姫髪さんはうつむいていた。今日は元気がなかった気がする。元気が出るわけもないけど。
姫髪さんは静かに口を開いた。
「上代さんとは小学生の頃に会っているんです。一緒に遊んだりもしたんですよ」
突然そう言われて、僕は混乱した。
「ごめん……覚えていなかった」
「低学年の頃でしたから。帰り道が同じだったことで、一緒に話すようになったんです。そのあとは、休み時間に私の席に来てくれたり、二人で話したりしていました。懐かしいです。でも二ヶ月後に、私は突然転校になってしまって。学校に連絡したのも、引越ししたあとでした」
ちょっと思い出してきた。
僕も学校が嫌いだったけど、仲のよくなった女の子といる間は楽しかった。
小学二年生頃だ。
夏に入る前に、彼女はいなくなってしまった。
「僕は、本当にどうしようもありません」
「……そんなことありません」
姫髪さんは、顔を伏せた。
「上代さんは、事故でご両親を亡くされました……」
姫髪さんはゆっくり顔を上げた。
真っ直ぐこちらを見た。
「あの事故は誰のせいでもないよ」
姫髪さんは小さな声で言った。
「気がついて、いたんですか?」
「そうじゃないけど……」
「事故の風景を見た翌日に、新聞で上代さんの名前を見つけました。私は上代さんを事故に遭わせてしまったんだと、そのときに知りました……」
僕は沈黙してしまった。
姫髪さんは続けた。
「死にたいと思いました。それでも、自分のしてしまったことを伝えて、恨まれてから死んだ方がいいと思いました。でも言えなかった……」
なにを言っても、姫髪さんを傷つけてしまいそうだった。
僕は恐る恐る、口を開いた。
「僕は、両親を失って不幸になったなんて思ってないよ。能力を使って父を生き返らせなかったのも、騒ぎになるのが嫌だったからだ。母ですら、自分の能力でもう一度殺した」
「それも、私のせいです……」
「違うよ。僕は次に黒戸を生き返らせた。母のようになってしまうかもしれないと考えながら、黒戸を生き返らせたんだ。そして、死体を見た日、僕は黒戸が殺人犯だと思い、黒戸の家に忍び込んで、母と同じよう殺そうとした。同じことを繰りかえした」
それは言い訳すらできない、僕の間違いだ。
「僕は全部ネクタールが入り込んだことに原因があるって考えることにしていた。一人でいるのも、自分が暗いのも、今置かれている環境も、全部がネクタールのせいだって思っていた」
なんだか、話していて自己嫌悪におちいりそうだった。
「でももう一人で辛いこと探しをするのはやめたいんだ。過去に後悔することがあっても、死のうだなんて思っちゃいけない。そう思うようになった」
後悔ばかりしていたくないと思うようになった。
「それに、あのとき姫髪さんは、事故のことを話してくれていたじゃないか」
姫髪さんは小さな声で言った。
「私は、どうすればいいのか。分かりません……」
「部活のみんなと話したり、活動したりして、これからも一緒にいよう」
姫髪さんは言った。
「私は事故のことを知ってから能力は使わなくなりました。ですが最後に使ったとき、上代さんに逢えることを知ったんです……」
「僕は姫髪さんに逢えて嬉しいよ」
姫髪さんはうつむいたまま、小さく声を出した。
「上代さん、もしプログラムを解除して助かることができたら……」
「うん」
「黒戸さんの、そばにいてあげることはできますか?」
「黒戸?」
「……黒戸さんは、その、苦しんでいるのだと思うんです」
僕はまた理由を訊こうとしたのだけど、姫髪さんは顔を伏せたまま、一歩距離を取り言った。
「すみません。あの、ありがとうございました」
姫髪さんは小走りで行ってしまった。
家に帰ってくると、みぞれがいた。
存在感がしっかりしていて、青い髪が輝いているように見えた。
「おかえりなさい」
声もハッキリしていて、僕は驚く。いつもは出てきてもボウッとして、猫背で、テレビをずっと見ているのに。今もしていることはゲームだけど、なんとなくやる気が感じられた。
「お腹減ってる?」
「うん」
と、みぞれは笑顔で頷いた。
弁当を二つ買っておいてよかった。
あと甘いお菓子。
みぞれのやっていたゲームは落ち物系で、僕は対戦相手になる。
「明日、みんなと一緒に山に登るんだけど」
と僕は言った。考えてみると、みぞれの外出は初めてだ。
「山?」
とみぞれは反応する。
「みぞれも一緒に来てほしいんだけど」
「いいよ」
「それから、みぞれにしてもらいたいことがあって」
「頼み事なんて初めてだね」
とみぞれは笑った。
みぞれは僕が生き物に能力を使うと出てくる。使えば使うほど、みぞれの存在は安定する。クジラを生き返らせるにあたって、犬百匹分の力は使った。
その分、みぞれの意識はしっかりしているのかもしれない。
「ネクタールに働いているプログラムを壊してほしいんだ。詳しいことは明日、岡田さんが説明してくれるから」
みぞれはコントローラーを置いた。
僕の胸元に手を伸ばす。
みぞれの手が、すっと僕の体に入り込んだ。痛みはないけど、驚きは強かった。
だがバチン、とみぞれの腕が弾かれる。
見ると、みぞれの手首から先が消えていた。
僕は啞然とする。
ただ血は流れない。断面も皮膚で覆われていた。
「今、なにしたの?」
「ネクタールに触った。弾かれたけど」
もしかして、自己修復プログラムの解除は、みぞれにとっても危険なんじゃないのだろうか。
「痛くないのか?」
「大丈夫だよ」
僕はみぞれの手を治そうと能力を使う。
だけど手首から先は元に戻らなかった。
朝の九時半に集合場所の駅前広場に向かい、みんなと合流した。
みぞれは家に残していた。一緒に連れてこようと思ったのだけど、服がなかった。薄いパジャマか、着ぐるみしかない。それを言うと、
「じゃあ、私の服をあげるよ!」
と岡田さんが乗り出してくれた。
「お願いします。でもみぞれに選ばせてあげたいから、今度、ちゃんと買うよ」
「その方がいいだろうね」
「ところで、落下ポイントはどうやって見つけるつもりなの?」
岡田さんはショルダーバッグから、地図のコピーを取り出した。赤ペンで、いくつかチェックがある。よく見ると、それは僕らの家のある場所だった。
「これは市内の地図で、チェックしてあるのは、三年前私たちが住んでいた場所。上代君はアパートの近くに実家があったんだよね。聞いた住所はこの辺のはず」
「そこで合ってる」
「一箇所、知らない場所があるけど」
と僕はその箇所を指す。
「そこは染谷先輩の実家」
大きいな。
「こう見ると、染谷先輩の敷地にある山を中心として、パーツが拡散しているんだよね」
宇宙船は山に落ちたのか。
「もしそうだとしても、どんな形をしているかも分からない宇宙船をどうやって見つけるの?」
「まあ焦るなよ!」
僕らは駅前広場にあるベンチに腰かけた。
岡田さんがもう一枚地図を取り出す。それは、山の部分を拡大したものだった。
「ここから、姫髪ちゃんに手伝ってもらいたいんだけど」
そう言われて、姫髪さんは岡田さんの前に来る。
「Oリングテストって知ってる?」
と岡田さんが言った。
オーリングテスト?
「いえ……」
姫髪さんは首を振る。
「親指と人差し指で輪を作るわけ。その輪を誰かに引っ張ってもらう。そのときに、輪を作っている人がもう片方の手でなにかに触れる。自分にマイナスになっているものを触っていれば、輪を閉じる力が弱くなって、自然に崩れるのね。例えば、煙草とかかな。逆にプラスになるものを触っていれば、輪が崩れることはない」
「これはオカルト的な知識?」
と僕は岡田さんに訊いた。
「そう! こういった知識はいくらでもあるわけです。普通の人がやってもある程度効果があるんだろうけど、姫髪ちゃんなら余裕なわけですな」
もしかして、昨日電車でやったトランプは姫髪さんの能力を見るためだったのかな。
姫髪さんは左手で輪を作り、右手の指先で地図に触れた。
姫髪さんの左手の輪に、岡田さんが指を入れて、軽く引っ張っている。
前提としている、山の中に落下ポイントがあるといったところが間違えていなければ、これで見つかるはず。
だけど、姫髪さんの輪が崩れる場所は、なかなか見つからない。
間違えていたのか。
と思ったら、黒戸が地図を指して口を開いた。
「ここで、姫髪さんの力が弱くなったかも」
岡田さんが頰をポリポリかきながら言った。
「あー、姫髪ちゃん、緊張してた?」
「すみません」
姫髪さんはうつむく。
「いやぁ、なんか指に力が入りすぎていると思ったんだよね。だけど、黒戸さんなら気がつくと思ったよ」
黒戸は岡田さんから顔をそらした。
もしかして照れているのか……?
岡田さんは地図に印をつけ言った。
「よし、じゃあそこに向かおう」
まだ午前十時半だ。
もしそこに落下ポイントがあるなら今日中に間に合う。
まずはみぞれを連れて来ることになった。
女子三人は岡田さんの家で待っている。岡田さんの家なら山に近い。
僕は岡田さんの自転車を借りてアパートに引き返し、みぞれにひとまずパジャマに着替えてもらうと、自転車の後ろに乗せて岡田さんの家に向かった。
部屋に入ると、岡田さんが笑顔で言った。
「みぞれちゃーん、ようこそ!」
みぞれは頭を下げる。
「岡田さんに訊きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「みぞれの右手首なんだけど、ネクタールに触れるだけで消滅したんだ。僕が治そうとしても治らない」
みぞれが袖に隠していた手首の先を見せる。
岡田さんの表情は驚きに変わる。
「自己修復プログラムの解除が、みぞれにとって安全なのか疑問なんだ」
「……ネクタールにどんな風に触れたの?」
「僕の胸に手を入れていた。腕が弾かれて出てくると、手首が消えていたんだ」
「……私が考えているより、みぞれちゃんはネクタールに対して弱いのかも」
「だったら計画は中止しよう。どうなるのか分からないのなら、危険なことはさせたくないよ」
僕は以前、大勢を救うために、一人が犠牲になるのは仕方がないと、そんなことを岡田さんに言った。
今、同じ言葉は言えなかった。
「時間を頂戴。計算をやりなおすから」
岡田さんの能力は、対象の情報が多ければ多いほど色々な可能性を考え出せるらしい。
まず岡田さんは自分の能力を使う前に、みぞれの手首の断面に触れた。僕はもう一度、再生能力を使うように言われ、試すけどやはり手首は戻らない。原因は僕の中のネクタールに直接触れたことだそうだけど、そう考えると、妙生のみぞれに対する恐怖心は結局のところ杞憂だったのではないかとも思ってしまう。
それから、みぞれと話をしていた。とくに質問をぶつけたり、実験めいたことはしなかった。好きな食べものについて話したり、みぞれの興味のあるテレビ番組の話をしていた。その会話には、黒戸と姫髪さんも加わっていた。女子の輪の外で、僕は遠巻きに四人の姿を眺めていた。
もしかしたら、一時間以上話していたんじゃないだろうか。いつの間にか、お菓子と紅茶が並べられているのだけど、時間、大丈夫なんだろうか……。
不安に思っていると、岡田さんが会話から抜けて、机に向かって能力を使い始めた。
みぞれはどうやら姫髪さんに懐いたらしく、好きなゲームについてなにやら真剣に話している。姫髪さんも笑顔だ。
僕は時計を見てなんだかソワソワとしてしまう。もう午後一時を回ってしまった。
岡田さんは、しばらくして手を休めると、僕に向かって言った。
「以前、みぞれちゃんに訊いたことがあったよね。しっかりとこの世界に存在していたいか」
僕は頷く。
「宇宙船に触れることで、可能性が出てくるの」
「でも、失敗するかもしれないんじゃ……」
「失敗するとは、まだ、決まってないよ」
「成功するの?」
「宇宙船を直に見ればもう少しはっきり言えるけど……」
「岡田さんの、概算でいいんだ」
「……五割」
五割ならやってほしくない。
僕が言うより早く、みぞれが口を開いた。
「やりたい」
僕は驚いてみぞれを見た。自分の意思を表したのも、初めてだ。
「本当にやるのか?」
「うん」
「僕はやってほしくない」
「もう一人でいるのは嫌」
「みぞれ、姿が消えている間は一人だって感じるのか?」
みぞれは頷いた。
僕は言葉が出なかった。
みぞれは消えている間、意識がないのかと思っていた。
ずっと一人でいるなんて、とても怖いことなんじゃないのか。
それでも、みぞれがこの世界に存在するための方法なんて、探せば他にも見つかるかもしれないじゃないか。
黙っていた黒戸が声を出した。
「上代君はみぞれちゃんを守っているつもりかもしれないけど、もう少し考えてみて。みぞれちゃんは自分からやるって言っているじゃない。自分の力で、自分の存在を作りたいってことでもあるんだよ。私にはちょっと気持ちが分かるよ」
みぞれは黒戸を見て、小さく頷いた。
岡田さんが、ゆっくりと口を開いた。
「みぞれちゃんに頼むと言った私が、こんなこと言ってはいけないのかもしれないけど……。現状で最悪のケースは、プログラムの回避をしないことなの。上代君にもしものことがあったら、みぞれちゃんの存在も消えてしまうから」
「だからと言って、みぞれに全てを押しつけるなんてできないよ」
「だから私も、命がけでみぞれちゃんをサポートする。そのくらいの覚悟はしてる」
「助けるって、岡田さん、なに考えてるんだ」
「私の能力には、まだ伸びしろがあるの。プログラムの解除に協力できると思う」
それで失敗したらどうなるんだ。
「だって、他に方法がないんだよ」
そう岡田さんは言った。
それから、岡田さんは昼食を食べておこうと言い、キッチンからサンドイッチを持ってきてくれた。それはとても美味しかったのだけど、時間がちょっとまずい気がする。
食べ終わると、僕は外で待たされることになった。パジャマ姿だったみぞれを、岡田さんの部屋で着替えさせている。
しばらくしてみぞれは着替えを終えた。
なんだか、山を登るだけなのに服がかわいらしい。帽子も被っていた。
とにかく、早く出発しないとまずい。もう午後三時だ。服を着替えるのに意外と時間を取られていた。
僕らは二人乗りをしながら自転車でその場に向かった。
山の麓の道端に着くと、印をつけた場所に向かう。
岡田さんがバッグからコンパスを取り出した。山の規模はあまり大きな方ではないし、植林なのか、密集してもいない。
歩けることは歩ける。それでも広いし、慣れない山歩きはかなりきつかった。
印のある場所は、山の奥にある。
無断で敷地に入っているだけでも法に触れるので、あまり傷をつけるわけにもいかない。黒戸に邪魔な枝をバシバシ叩き折ってもらうことはできるけど、あまりせずに進みたかった。
山の中程まで来ると、時間は午後四時を回っていた。
「そのポイントまで着いたら、そのあとはどうする?」
と僕は岡田さんに訊く。
「一応ダウジングの用意もしてあるけど、たぶん、私たちならその箇所が分かるんじゃないかな」
「地面にあるのかな?」
「私はそう思ってるけど、なんで?」
「いや、どんなものだろうと思って」
「仮に空中に浮いていたり、木に引っかかっていたり、その形が見えなくても問題はないよ。そもそも、形は見えないと想定しているけどね」
午後四時四十五分、途中迷ってしまったこともあって、予定よりもかなり遅くなってしまった。なんとか印の場所まで着いたけど、もうあまり時間がない。午後五時がタイムリミットだ。あと十五分。
周囲を見渡すけど、とくに変わったものは見当たらなかった。傾斜がなく、木立もなくなっている空間だ。地面には落ち葉しかない。
「近所の山だから楽勝で登れるかと思ったんだけど、案外しんどかったね」
「時間ギリギリになってしまったけど……」
「うん。早速ダウジングの用意をしよう」
岡田さんがそう言ってバッグを広げようとしたのだけど、黒戸が突然声を出した。
「動かないで」
岡田さんは黒戸を見る。姫髪さんもびくりとして動きを止め、黒戸を見た。
黒戸の視線は前方を向いている。
「そこにいるの染谷さん? 透明になってなにするつもりだったの?」
視線の先から、徐々に、染谷先輩の姿が浮かび上がってきた。僕らの五、六歩先に立っている。
黒戸が言った。
「あとをつけていたわけじゃなさそうだけど、最初からここで待っていたってこと?」
染谷先輩は微笑を浮かべて言った。
「そうなるな」
「どうして落下ポイントのこと知っているわけ?」
「俺も自分なりに調べたんだ」
そんなこと、どうやって調べるんだ。どこかで僕らの話を聞いていたのか。
黒戸が言った。
「なにをするつもり?」
「俺にもなにか手伝えることがあるかと思って来たんだよ」
違和感がある。
姿は染谷先輩だけど。
「信用できるはずないじゃない」
そう黒戸は言った。
「信じてくれてもいいだろ、俺にもネクタールが入っているんだ。時間もない、争っている場合じゃないだろ」
染谷先輩はこんな風に言わない。
それにこの雰囲気は、あいつに似ている。
僕は言った。
「お前、妙生なのか?」
染谷先輩は僕を見た。
目が合うと、染谷先輩は意外といった様子で、口を開いた。
「さすが雪介! 一緒に暮らしていただけはある」
「お前、人間の精神とは相容れないとか言ってただろ!」
「聞けって! これは共生と言える。染谷君の心の空洞に俺は入っているからな。そうでなければ、染谷君は自分を保てなかった」
「邪魔しに来たのか?」
「それはそうだろ。でももう諦めた。落下ポイントも教えるよ」
「なんだか怪しいけど」
「邪魔しようにも、手がない。姿を消していたけど、黒戸ちゃんには敵わないよ。岡田ちゃんの能力にも気がつくべきだったな。落下ポイントを見つけられるなんて思っていなかった」
「そんなに僕らが憎いのかよ?」
「そんなに人間臭くないな、俺は。ただ早くこの世界から出たいだけだ。不便な肉体を捨てることもできるわけだし、雪介たちにも悪くないことなんだけどね。もう小さなことで悩まないで済むんだから」
「冗談じゃないって言ったろ」
「そうだな。おしゃべりにいいことはないと分かったよ」
「宇宙船の場所は?」
「俺の立っている真下だ」
「そこから、離れていろ」
妙生はゆっくりと離れた。
僕らはその場所に近づいていく。落下ポイントに立つと、全身に鳥肌が立った。体がその場に立っていたくないと、拒絶している。
岡田さんが口を開いた。
「ポイントはここで合ってるね。残り時間は五分」
岡田さんはみぞれとその場所に立った。なにか説明している。
黒戸は妙生から目を離さない。
「お前、なんだか余裕だな」
「結局早いか遅いかの違いしかないからな。これ以上危険を冒すよりも、いいと思っただけだよ」
危険って、みぞれの存在のことを言っているのか。
「それに、雪介は本当にプログラムの解除が成功すると思っているのか?」
「……思っているさ」
「そう言えば、染谷君の記憶を覗いたら面白いことが分かったよ」
岡田さんが説明をとめて、妙生を見た。
「いや、人間ってのは本当に複雑な生き物だな! 雪介はどうして染谷君が襲ってきたか知ってる?」
「知らないよ」
「嫉妬で雪介を殺そうとしたんだよ」
妙生は続ける。
「染谷君は、岡田ちゃんのことが好きだったんだ。告白までしてるけど、岡田ちゃん断ったんだね」
岡田さんがふいにこちらを向いて、声をあげた。
「妙生君!」
妙生は続けた。
「染谷君は、雪介が岡田ちゃんを家まで送るところを見たとき、すごく嫉妬していたんだ。会話も聞いていた。岡田ちゃんが雪介のこと好きだって思った」
「染谷先輩の誤解だ」
「どうだろうね。どちらにしても自己修復プログラムの影響を受けたって、いきなり人を殺そうなんて思うもんじゃない。それくらい染谷君は岡田ちゃんが好きだってことだ」
「なにが言いたいんだ?」
「人の感情はやっかいなものだってことさ。岡田ちゃんは意地になっているんじゃないの? プログラムの影響を受けて、みんなを憎みたくないから。そうじゃなければ、妹ちゃんを犠牲にしてまでプログラムをとめようなんて思わないだろ?」
「犠牲にしたいわけじゃない」
「あのな雪介、宇宙船のネクタールは、岡田ちゃんの計算できるようなもんじゃない。能力のキャパシティを超えているんだ。宇宙船に触れたら妹ちゃんは間違いなく消えるぞ」
ずっと黙っていたみぞれが、口を開いた。
「私が自分で決めたことだよ」
みぞれは地面に手を当てた。
「みぞれ!」
髪がブワッと逆立ち、みぞれの瞳の色が赤く染まった。
放電のような現象が起きて、みぞれの周りにバシバシと光が弾け、音が鳴っていた。
岡田さんも地面に手を当てて、小声で数式のような言葉を唱えていた。
だけど、岡田さんの腕や顔に、血管が浮き出てくる。岡田さんは数式のような言葉を唱えるのをやめることはなかった。体の内部にダメージを受けているんじゃないのか。
僕も急いで落下ポイントに入った。その中に入っただけで、電気が体に流れたようにショックを受けた。岡田さんは生身だ。こんなの死んでもおかしくないじゃないか。
岡田さんは集中している。
できるだけ、邪魔はしたくない。
視界に入らないよう、僕は岡田さんの背中に両手を触れて、再生能力を使った。岡田さんは言葉を唱えるのも苦しそうで、どれだけ無理をしているのか、怖かった。
僕の体にも血がにじみ始めていた。体の中にも痛みを感じる。
みぞれの放電現象は続いていた。辺りは白い発光で満たされている。
姫髪さんが叫んだ。
「二人とも死んじゃいます! 妙生さん、お願いだから助けて……」
「助けたいのは山々だけど、俺のこと信用していいの?」
黒戸の声がした。
「壊す」
「無理だってば。助けたいなら、二人を引っ張りだせばいいんじゃない?」
岡田さんが声をあげた。
「駄目! 私が離れると、みぞれちゃんが――」
瞬間、岡田さんの浮き出た血管が、破裂した。
数箇所から、すごい量の血液が、吹き出した。岡田さんが、前のめりに倒れていく。
「黒戸! 岡田さんを――」
僕の言葉より早く、黒戸は動いていた。放電現象の中に入り、岡田さんを抱くと外に出た。
岡田さんが出ると同時に、みぞれの体が粒子のように分解していく。僕はみぞれに再生能力を使うけど、体の分解はとまらない。
妙生の声がした。
「時間だ」
目の眩むような光が辺りを照らした。
光が収まると、すぐに姫髪さんが声をあげた。
「上代さん! 岡田さんを治してあげて下さい! 早く!」
岡田さんは姫髪さんの膝に頭を載せて、横たわっている。僕はすぐに岡田さんのところに行き、能力を使った。
岡田さんが、苦しそうに声を出した。
「みぞれちゃんは……?」
辺りを見るけど、みぞれはいなかった。
妙生が少しだけ残念そうに言った。
「プログラムの解除は完了した。コンディンジェント・システムは、ネクタール全ての自己修復プログラムに影響を与える。おめでとさん」
黒戸が、妙生の胸の辺りを摑み、木に叩きつけた。
「殺してやる」
「やめろ! 傷つけているのは染谷先輩なんだ」
「じゃあどうするの!? みぞれちゃんはもう戻ってこないんだよ!」
妙生は視線を黒戸の後ろに向けて言った。
「妹ちゃんなら、そこにいるだろ」
妙生の視線の先を見た。
落下ポイントが、再び放電現象を起こしている。そこから、少しずつ消えてしまったみぞれの体が、元に戻っていく。
「まったく、信じたくない光景だ。奇跡だよ」
そう妙生は言った。
みぞれは成功させていた。
岡田さんが起き上がり、みぞれの肩に、自分の上着をかけてくれた。それから口を開いた。
「奇跡じゃないよ。みぞれちゃんは自分の意思を持って成功させたいと思っていたの。みぞれちゃんの気持ちが生んだ結果だよ」
妙生は言った。
「どうするんだよ、俺を消すのか?」
「どうもしないよ。黒戸も離してやってくれ。これ以上意味のないことはやめよう」
黒戸はゆっくりと妙生を離した。
黒戸が離すと、妙生はつまらなそうに僕を見た。なにか考えているようだった。
それから口を開いた。
「俺はもう、染谷君の中で雪介たちが死ぬのを待つことにする。冬眠ってやつだな」
「ああ」
「だけど雪介! 俺はここに生きる生物はみんな嫌いだけど、お前と過ごしている間にちょっとくらい楽しいと思ったことはあった気がするからな! 宇宙人的には、なんでこの世界に固執するのか理解できないけどね!」
「ふざけるな」
「お別れだ」
そう言うと、染谷先輩の力は抜けた。妙生の意識がなくなったからかもしれない。
僕は染谷先輩を支えて、木に寄りかからせた。
それから、みぞれのそばに行った。見ると、消えていた手首も元に戻っていた。みぞれはゆっくりと瞼を開いて、声を出した。
「みんないる?」
「いるよ。みぞれのお陰だ」
「よかった」
みぞれは笑顔で呟いた。
みぞれの服は分解されずに、地面に落ちていた。みぞれは起き上がってそれを着ると、僕の後ろに来てジャンパーの裾を摑んでいた。
僕はみぞれの可愛さに悶絶しそうになるけど、我慢して岡田さんに訊いた。
「さっき妙生が言っていたコンディンジェント・システムってなんのことかわかる?」
岡田さんは染谷先輩から目をそらして、口を開いた。
「オカルトの範囲を出ないものだよ。例えばグリセリン結晶の都市伝説的な話とかかな。
グリセリンは当初、どんな実験をしても固体化しなかったの。それがあるとき偶然、トラックの運搬中に固体化した。
科学者は大喜び。サンプルを得てグリセリンの固体化を研究しようとすると、実験室にあったグリセリンも自然に固体化していった。密閉容器の中に入っていたグリセリンまで自然に固体化したらしいよ。固体化したグリセリンが、離れた場所のグリセリンにも同じ影響を与えたというわけ。
ある形態がある域に達した結果、自らを拡張するのがコンディンジェント・システム」
「え?」
「自己修復プログラムを解除するにあたって、ネクタールは他の形態に変化したの。その変化は全てのネクタールに自動的に広がった。地球の裏側にあるネクタールでも、深海にあるネクタールでも、自己修復プログラムは解除されました」
岡田さんは染谷先輩を見る。
「上代君、私」
と岡田さんは目を僕に向けた。
「一人で行くね」
岡田さんは足早に山を下っていった。
「あの、私も岡田さんについていきます」
そう姫髪さんが言い、二人は先に歩いていってしまう。
黒戸とみぞれと僕の三人は、染谷先輩が目を覚ますのを待っていた。二人の姿が見えなくなる頃、先輩は目を覚ました。
先輩は事情を察していた。妙生に支配されている間の記憶は、残っているようだった。
染谷先輩は、うつむいたまま言った。
「岡田のこと、聞かれたか。俺が君を殺そうと思ったのは事実なんだ」
「染谷先輩の責任じゃありません」
「気持ちが悪いくらいに、俺のことを庇うな」
「庇っていません。先輩の中には妙生がいます。先輩が死んだら妙生がなにかに入り込むことになる。先輩が妙生を黙らせておいて下さい」
「君はいいやつではなかったんだな」
「先輩は、僕を本気でいいやつだと思ってくれていたんですか?」
「……いや。いいやつなんていない」
先輩は薄く笑みを残して、姿を消した。
みぞれと、黒戸と、僕の三人がその場に残っていた。
みぞれが口を開いた。
「お兄ちゃん、ちょっとだけその辺見てくる」
「暗くなるまでには家に戻ってこいよ」
みぞれは走っていった。みぞれは怪我の心配はないし、来るまでに分かったのだけど、体力が無限にあるようで、いくら歩いても疲れないようだった。
山に登る途中で色んなものを物珍しげに見ていたから、興味をそそるものが多いのかもしれない。
みぞれに付き合ってあげるのもいいけど、それは僕の疲労の度合いからみて無理だ。
「僕らも降りよう」
黒戸にそう言って、山を下った。
なんとなく、岡田さんには追いつかないように歩いていた。一人で行くと言っていたし、姫髪さんもついている。僕はいない方がいい気がした。
ただ黒戸もついてくると思ったのだけど、いつまで経っても追いついてくる気配がなかった。
僕は胸騒ぎがして、来た道を引き返した。
黒戸はまだ落下地点にいた。ケヤキの木に寄りかかって、一人で空を見ていた。
「早く行くぞ」
そう言うと、黒戸は僕をぼんやりと見て言った。
「さっき私は、染谷さんを本当に殺してしまうところだった」
「気にしすぎだよ」
「私は、自分のことが気持ち悪い。この世界から消えてしまいたい。上代君も私が気持ち悪いと思うでしょ?」
「思うわけないだろ」
黒戸は、僕から視線を外して言った。
「全部、聞かせてあげる」
10 壊れた引き金
「私の背中の傷は、シマウマ男につけられたものではなかった。そもそも、シマウマ男を作り出しているのが自分であることは、なんとなく気づいていた。だから、必要以上に攻撃を仕かけてくることはなかったし、そもそも私自身が自分のレベルに合わせて強くしていっていたんだと思う。無意識に、でもどこかで理解しながら。
シマウマ男と遭遇してから一年が経ったころ、私は父を殺した連中を探し始めた。見つけるのは簡単だったよ、私はそいつらの名前を覚えていたから。父が叫んでいたの。
やくざ風の男に聞き込みをしたんだけど、そいつ私を人気のないところに連れていったわけ。
話を聞いたあとで、襲われたのね。
押し倒された。
覚悟はしていたはずだった。今程じゃないけど、男一人に負けはしない。そう思っていた。
でも現実は違った。
相手の怒声に足がすくんだ。
一旦はそいつから逃げたんだけど、すぐにまた捕まった。
頰を殴られて、大人しくしてろと言われたのね。
そのあと、自分がなにをしたのか分からなかった。
気がついたら、血まみれの男が倒れていて、もう息をしていなかった。
私はそのときから、人間じゃなくなった。
それから一ヶ月間シマウマ男と戦って、私はもう一度自分に自信を持った。
父を殺した二人のいる組織はとても成長していたよ。二人もチンピラから、独立した事務所をかまえるまでになっていた。
私は事務所の前で待ち伏せして、一人に接触した。
普通に話しかけたの。
父の名前を出して、娘だと言った。
どういうわけか、相手の愛想はよかった。
そのまま一緒に、ご飯を食べたくらい。
ご飯を食べたあと、私はマンションに連れていかれたの。なにをするつもりかだいたい察しはついたけど、こっちとしても好都合だったから愛想よくしていた。
私は隙をみて、バッグからビニールロープを出してそいつをイスに縛りつけた。
相手はお酒を飲んでいたし、油断していたから拘束するのも楽だった。
私はまず指を一本折った。
そいつ、信じられないって顔してたよ。
続けて二本三本と折っていくと、声をあげて泣き始めた。
声を聞くのも嫌になって、私はそいつの首を思い切り捻ったの。
私を舐めるな。
なにが苦労しているだろうよ、困ったら連絡しろだ、ふざけるな。
そう思ったのね。
死体はベランダから落とした。警察がどう判断したのか分からないけど、私に疑いがかけられることはなかった。
そいつの手帳に、もう一人の携帯番号を見つけたから、数日後に連絡を取ったの。
私は会ってすぐに無理矢理車に乗せられた。
実際には、抵抗するフリをして私から車に乗ったんだけど。
私は工場跡で降ろされた。手錠と、口にテープまで貼ったんだよ、そいつ。中学二年生の女の子に。
私は車から降ろされると手錠をあっさり壊して見せた。
でもそいつの表情は変わらなかった。
驚くよりも早く、ピストルを撃ってきたの。
弾は腕を掠めた。
私は急いで逃げた。ピストルなんてこのときはよけられなかった。
そのときは、本当に殺されると思ったよ。
ピストルからは逃げ切ることができた。闇雲に何発も打っていたから弾が尽きていた。
身体能力は私が上だったから、そいつの背後に回って襲おうとしたの。だけど相手は上手で、私は殴り飛ばされた。
そいつは、もちろん能力なんてなくて、普通の人間だった。でもすごく強かった。実践的で、中学二年生に油断していなくて、躊躇なく殺そうとしていた。
倒れた私に、そいつは刀のようなもので切りつけてきて。
必死でかわそうとしたけど、背中を切られた。
傷で目眩がしたけど、その場から必死で逃げて、警察に保護してもらったの。
そして入院。
警察に聴取を受けて、噓の連続。
背中の傷は、変なやつに後ろからいきなり切りつけられましたって。
それが一年前。
退院は一ヶ月後だった。今考えると、ネクタールが入っていたからだと思う。先生も傷の治りが早くて驚いていたし。
それから、私はその組織に何度も命を狙われて、無傷ではいられなかった。相手もどうしていいか分からなかったのかもね。
少女一人に、大の男が敵わないなんて話にならないでしょ? そんな世界で生きてるのなら。
私は自分を狙った下っ端を躊躇なく殺した。
その中には強いやつもいたし、ピストルや刃物は私だって怖い。
だから私はシマウマ男と戦って強くなったの。ピストルもよけられるようになった。もう相手からしてもどう殺せばいいんだって話だと思うよ。
そいつら、しばらく大人しかったから、諦めたのかと思っていたんだけど、上代君に遭った翌日、おじさんを人質に取られていたと知ったの。
私は廃ビルに呼び出された。
あいつらの予想外だったことは、一年前に比べて私が人間レベルの強さでなくなっていたことかもね。
私はすぐにおじさんを救い出した。まだ呼吸はあったけど、すごい怪我をしていて意識がなかった。
私のせいで、おじさんが殺されかけた。
頭の中がぐるぐる回っていた。
私は、こんな酷いことを平気でする人間が、世の中にいるのが間違っていると、思うことにした。
その結果は、新聞を見ていれば想像つくでしょ?」
「この話に意味はないね。話していてそう感じたよ」
「十分あるだろ」
「ないでしょ。長くてつまらない話」
「後悔してるんじゃないのかよ?」
「してないよ。これっぽちも」
「だったら、あのときどうして幸せになる資格がないなんて言ったんだ」
「後悔はしてないの。でも、私は人間ではなくなった。人間ではない私が、人の幸せなんて求めてはいけない。そんな私がいることで、幸せになれない人がいる。本当はあの夜、上代君の手で私を殺してほしかった」
僕はまず、ここを離れるべきだと感じていた。
そうしないといけない、そんな焦燥感があった。
「もう行こう。暗くなる」
「やっぱり話すんじゃなかった」
そう言うと、黒戸を囲むように、粘ついた空気が舞い上がった。周囲の重力が重くなったように感じ、全身にプレッシャーを感じた。
「なにしてるんだよ!」
「今度は上代君でも生き返らせることはできない」
空気が鋭い音を立てた。
黒戸の体にナイフでつけられたような傷ができている。
黒戸はネクタールを放出することで、自分で自分を傷つけている。
「近づかないで」
「死ぬつもりじゃないだろうな?」
「もうこれ以上、生きていけないよ」
僕の出した右手は、黒戸に触れる前に焼け、霧散していた。
「どうすればいいんだよ……」
黒戸は目を閉じた。
空気の密度がましていく。黒戸の周囲の風が、渦を巻いて、僕を飛ばそうとした。
僕は飛ばされないように、地面に這いつくばった。
黒戸を見ると、こいつには似合わないような、悲しい顔をしていた。
僕は本当に馬鹿だ。
どんな生き物よりも勝手で自分中心だ。
なんであのとき黒戸を生き返らせたんだ。そんなのもう、分かっているじゃないか。
黒戸を生き返らせて、幸せを感じることができると思ったから?
相対的に、他人の不幸を見ることで。黒戸の不幸を見ることで、自分が幸せになったと思ったのか。
そんなわけないだろ。
僕は、黒戸といることで幸せだと思えたんだ。
「黒戸と一緒にいると楽しい。会話がないときでも、なにを言われてもだ。一緒にいることで嬉しく思えたんだ。一人じゃないと思えた」
こんな世界でも。
そうじゃなければ、あんな能力を使うわけない。
同属嫌悪でもなんでもない単純な感情だった。
でも生き返らされた黒戸はなにを思うんだ。
僕は、暴風の中心にいる黒戸に両手を出した。
焼けるような痛みが両腕に走る。
腕がどんどん焼けて、先から消えていく。
腕の断面で、僕は黒戸に触れた。
傷つこうとしている体に、再生の力を注いだ。
「一緒にいるんだよ」
黒戸の反応はなかった。
「目を覚ますまで、いつまでだってこうしてやる。死のうとしても、僕は何度でも生き返らせる」
黒戸の力の方が強い。
拮抗していない。
僕の腕は徐々に消えていく。
気がつくのが遅かった。もう黒戸には聞こえない。
僕は目を閉じて、黒戸の纏う空気に身を預けた。
全身が切り刻まれ、焼けていった。
目を開けると、僕はベッドの上にいた。
どうしてこんなところにいるのか、記憶がなかった。
横から岡田さんが顔を出した。
「やっと気がついたか」
「岡田さんの部屋?」
「そうだよ。姫髪ちゃんもいる」
「黒戸は?」
「分からないけど。家のベルが鳴って、外に出たら上代君が倒れてた」
僕の記憶は、落下ポイントのところまでしかなかった。
「みぞれが運んでくれたのかな?」
「みぞれちゃんは来てないけど。あのあと、なにがあったの?」
「黒戸が」
「……なに?」
「僕がいけないんだ」
「いけないって?」
「僕は黒戸のことを理解しようとしなかった。遅かった、気がつくのが」
「上代君は好きだったの?」
場にそぐわない言葉だと思った。でも、言い返す気も起きない。
僕は小さく頷いた。
「自分の口から言って、黒戸さんが好きだって」
「どうしてだよ」
「言って! 大きな声で!」
「言いたくないよ」
「言え!」
「……黒戸が好きだった」
「大きな声で言えよ!」
「黒戸が好きだったんだよ! 傷ついても、なにを言われたとしても、あいつと一緒にいたかったんだ。……もういいだろ」
どんな拷問だ。
「だって、黒戸さん」
と岡田さんが廊下の方を向いて言った。
部屋のドアを開けて入ってきたのは、黒戸だった。
僕は目を開いて、息を吞んでその姿を見た。
もしかしたら、化け物を見るような目だったかもしれない。
でもそうもなってしまう。
黒戸がいる。
なんでだ。
黒戸はそっぽを向いた。
僕は戸惑いながら、口を開いた。
「どうして、いるんだよ?」
岡田さんが言った。
「ここまで上代君を連れてきたのは、黒戸さんだもん」
「黙っていたの?」
「そうだね」
「姫髪さんまで」
姫髪さんはすみません、と呟いた。
どれだけ辛く感じたと思っているんだ。
岡田さんが、僕の表情を見て、咳払いをした。
「でも、本当に危なかったらしいよ。黒戸さんはそのとき意識がなかったみたいだし。染谷先輩が助けてくれたんだって」
「染谷先輩?」
「その場に残っていたのかもね。上代君が意識を失ったとき、染谷先輩がどうにかしたみたい」
「それで、染谷先輩はどうなった?」
「なんにも。すぐにその場からいなくなったみたい。たぶん妙生君のアイディアで、染谷先輩がネクタールを使って、黒戸さんの能力を一時的にかき消したんだね。妙生君にならできないことはない」
「妙生が助けてくれたの?」
「そういうことになるかな。それより上代君、黒戸さんが好きで好きでたまらない上代君」
「は?」
「キスでもしちゃえば?」
「しないよ」
「黒戸さんはその気なんじゃない?」
黒戸を見ると、腕を組んで嫌悪感を出していた。
「あーあ、つまらないな。ま、お幸せに」
岡田さんはそう言って僕らに笑って見せた。
姫髪さんも笑顔だった。
僕は居心地が悪くなり、岡田さんの部屋を出た。
帰ろうとしたけど、なんだか落ち着かなくて、中井公園の方まで歩いていた。
ベンチに座っていると、ゆっくりと黒戸が歩いてきた。岡田さんの服を借りたのか、黒戸は私服姿だった。制服はまた破けてしまったから。ドレスのような服で、ちょっと大人びて見えた。
黒戸は黙って隣に座った。
僕は不覚にも緊張してしまう。黒戸は綺麗だった。普段の態度があまりにそっけないから、意識するのをやめていたのだけど。
僕はなんとなく目をそらしていた。
「黒戸はあのとき僕の言葉聞こえてた?」
「あのときって?」
「いや、聞こえてないならいいんだけど」
後ろから声がした。
「それって『一緒にいるんだよ』ってところ?」
振り向くと、染谷先輩が立っていた。
「それとも、もう少し前の――」
「やめて下さい。聞いてたんですか?」
「ああ。君もあんなこと言うんだな」
「助けてくれたんですか?」
「妙生君がね。落下ポイントと重なっていたから助けることができたらしい。もし違う場所なら二人ともここにいなかったよ。黒戸さんは無茶するね」
「でも、妙生は僕らを嫌っていたはずなのに」
「ここで恩を売っとけば、手出ししてこないと思ったんじゃないのか? 感謝する必要はない」
「分かっています」
染谷先輩の口調が突然変わった。
「しかし雪介のにぶさが宇宙人以上とはな! しかもそのにぶさが原因で死にかけるなんて! 助かったのになんでまた死のうとするのかよく分からなかったよ」
人格が、妙生に切り替わっていた。
「僕はにぶくない」
ただ、染谷先輩を好きだった岡田さんが、どうして染谷先輩との交際を断ったのかは分からない。
「岡田ちゃんが可哀想だ」
「その台詞は人間臭いかもしれない」
「そうそう一言だけ言いに出たんだった!」
うんざりだった。
「黒戸ちゃんと雪介を祝福したいだけだよ」
「いいよ、祝福しなくて」
「そう言うなよ! 宇宙人的には、あまり相性のよさそうな二人には見えないんだけどね。でも雪介はMっ気があるみたいだから、どうにかなるかもね! 頑張ってね」
「僕はMじゃない」
染谷先輩は消えた。
僕と黒戸はお互いを見ないように、ベンチに座っていた。
夜の中井公園。
黒戸を生き返らせたあと、話をしたのもここだったかとふと思った。よくよく縁のある公園だ。
僕は黒戸の方を向いて言った。
「黒戸に言いたいことがある」
「なに?」
「黒戸を生き返らせたのは僕だ。だから、お前が死ねばそれは僕の責任になる。罪になるんだ」
「うん」
ふと、僕らの関係はなんなのだろうと考えてしまう。
罪悪感が生んだものだろうか。
「じゃあ、私は上代君のために生きる」
そう黒戸はなんのためらいもなく言った。
そんなものじゃなかった。
「僕もお前のために生きる」
僕らはお互いに必要とし合っている。
それで、いいんだ。
僕は黒戸の前に手を出した。
黒戸はその手に重ねるように自分の手を持ってきた。
僕らは手を繫いだ。
黒戸が小さく言った。
「私はまだ言っていなかったね」
「なにを?」
僕は黒戸を見る。
「私も上代君が好き」
黒戸が僕に向かって微笑んだ。
信じられなかった。
黒戸の綺麗な顔がそこにある。
僕の全身は硬直して、心臓が破裂しそうだった。言葉が出ない。呼吸すらとまってしまう。
「だから私じゃない誰かを上代君が好きになったなら、私は上代君を殺してあげてもいい」
僕の体温は一気に下がる。小さく頷いた。
平気でそんなことを言ってしまう黒戸はやっぱりイカレている。でもこの瞬間、僕は嬉しかった。
エピローグ
翌日、ジャージ姿で登校した黒戸を連れて制服を購入した。この二週間で僕の使ったお金は相当の額になっていた。祖父に返そうと思って残していたお金の、ほぼ全てが消えてしまっていた……。
黒戸はお金を稼ごうと思えば、簡単に稼ぐことができるのではないだろうか。ラスベガス辺りで熊とでも戦えば、あっと言う間にスターになれるだろうし。
本人の前で言うことはできないけど。
僕なんかでもブラックジャックの真似事をすれば相当稼げるかもしれない。
考えるだけなら罪はないだろう。
そんな風に現実から遊離したままで始まった中間試験は、目も当てられない結果に終わった。
ようやく気がついたのだけど、僕が染谷先輩や姫髪さんと同じ学校に入れたのは、ネクタールが起こした奇跡みたいなものだった。授業にもまったくついていけていない僕は、悲しい程の現実にさらされていた。
しかし黒戸と岡田さんは試験を無事に終えたらしい。勉強する時間はなかったはずなのに……。
あれから二ヶ月が経った。梅雨が明けた、七月の半ば。今月末の期末試験を乗り越えたら夏休みとなる。
その日は休日だった。アブラゼミが鳴き始めた中井公園を、僕とみぞれは歩いていた。
岡田さんとの約束通り、みぞれには自分で選んでもらい服を買った。その値段に驚きはしたけど、今まで三千円の着ぐるみを着せていたのだから文句は言えないだろう。
中井公園の公営プール入り口まで来ると、オカルト部の面々がすでに集合している。
岡田さんが僕らに気がついて手を挙げた。
「遅いっての! あ、みぞれちゃん洋服すごく似合っているよぉ」
みぞれは僕の後ろに隠れ、照れているようだった。
黒戸は相変わらず無愛想で、姫髪さんはこの熱波の中でも微笑を崩さなかった。
僕らは二百円を払ってプールに入場する。プールに行くのは、オカルト部があまりにも太陽を浴びていないことを危惧した、副部長の提案だった。窓が一つしかない部室はかなり暑いし、気晴らしもしたかった。
僕らは入り口で別れ、更衣室に入る。
出てきた女子たちを見て、やっぱり美少女ぞろいだと改めて目を見開いてしまう。姫髪さんと岡田さんは水着姿だ。僕とみぞれも昨日買ってきている。ただ黒戸は水着を着ていない。ハーフパンツにTシャツを着ていた。体に傷があったせいで、まだあまり、人前で肌を出すことに慣れていないらしい。
姫髪さんは普段着やせするのか、胸がすごかった。視線がどうしても向いてしまう。岡田さんはやっぱり脚が綺麗だ。
カメラを買っておくべきだった。やけに周りの視線を集めているようだ。
僕はプールサイドにシートを広げた。
岡田さんは日焼けオイルを持ってきていた。姫髪さんは、日焼け止めの方を持ってきていたけど、残念なことに僕が塗るのを頼まれることはなかった。
みんなで日光浴をしていると、岡田さんが言った。
「みぞれちゃん、元気そうだね」
「でもまた消えてしまうんじゃないかって、不安になるときがあるんだ」
「消えないよ」
そう言われ、僕は頷く。
みぞれのことはまだ祖父には言っていなかった。
みぞれのためにバイトをするのも悪くないけど、学校にも行かせるべきかもしれないし、アパートの契約も一人住まいだ。どうにか説明を考えなければいけない。
プールの方に目をやると、トビウオのようなスイマーが一人いた。長身のその人は、ブーメランパンツを穿き、一人バタフライ泳法を猛然と決めている。
ようやくプールから上がると、それが染谷先輩だとはっきり分かった。あまりに自然に僕らの方に寄ってきた。
「偶然だな」
と染谷先輩は言った。
僕らは身構える。黒戸は露骨に敵意を出して、睨みつけていた。
僕は言った。
「受験勉強はどうしたんですか?」
「余裕ができたんだよ。妙生君は実に優秀な宇宙人でね。言ってみれば、大容量のハードディスクと、高性能なCPUを頭の中に得たようなものだ」
そんな風に言えるのは染谷先輩くらいのものだ。
先輩は自分の本心を隠すのが上手いし、それを自然なことだと思っている。
「ハムスターの中にいるより、妙生も快適なんだと思います」
染谷先輩の表情は柔和だけど、視線が鋭い。僕の体は強ばっていた。
「これからは、俺も部活に参加しようかと考えている」
「本気ですか?」
と僕は驚いてしまう。
「悪いのか?」
「いえ……」
「俺には、オカルト部で活動する資格は十分にある。奇跡について研究しようと思う次第だ」
「僕らは、あまり会わない方がいいんじゃありませんか?」
「なぜ?」
僕は黙る。
染谷先輩から敵意を感じていた。
染谷先輩が口を開く。
「妙生君が、一つ言い忘れていたことがあったらしいんだが」
「あまり聞きたくないです」
染谷先輩は視線を姫髪さんに移した。
「姫髪君は自分の能力が原因で、ある事故を引き起こしたらしいな」
姫髪さんは、え、と声を漏らす。
なんで、そんな話をするんだ。僕は慌てて立ち上がり、染谷先輩をとめようとした。
「やめて下さい! あの事故は姫髪さんが原因じゃない」
「君は黙っていろ。姫髪君は俺の話を聞きたいか?」
姫髪さんは体を震わせていた。黒戸と岡田さんは、この話は知らない。戸惑っているように見えた。
姫髪さんは、小さく頷き、言った。
「聞かせて下さい」
僕は染谷先輩の肩を摑み、言った。
「あの事故が、もし因果の改変で起きたものだとしても、姫髪さんの能力は運命までは変えられない。事故は初めから起きるものだったんだ。そもそも妙生はなんでそこまで知っているんです? 事故と姫髪さんの繫がりを知っているなんておかしいじゃないですか」
「雪介君」
染谷先輩は僕の腕を摑み、引きはがした。
「君は残酷だと思わないのか? 姫髪君が真実を知らないということを。君が優しさだと思っていることは、ただの傷の舐め合いだ」
僕は姫髪さんを見る。
姫髪さんは小さく頷いた。
染谷先輩は話し始めた。
「事故のあった日まで、妙生君は宇宙船に残っていたんだ。そこにいれば妙生君は生き物に入り込む必要がないからな。それに、宇宙船にいれば姫髪君のように物事の因果を見ることや、未来の予測ができる。コンディンジェント因子という、全物質の集団的無意識のようなものにアクセスするらしい。
当初、妙生君の予想だと、自己修復プログラムが発動するまでの期間は三年以内だった。しかし事故のあと、未来の予測が変わった。大幅に遅れる可能性が出てきたんだ。
妙生君は、自分が動くことでさらに因果に影響を与えようとした。そして上代君のお母さんに入り込んだ。
始まりは姫髪君の因果の改変にあったということだ。言い換えれば、姫髪君が因果を変え、事故を起こしたから、俺も含めたネクタールの入っている生き物がまだ生きていることになる」
「そんな話、今しなくても……」
「姫髪君がまだ死にたいと思うなら、俺はそれで構わないと思うがね。その方が妙生君も喜ぶだろう」
姫髪さんが口を開いた。
「私はもう、死にたいだなんて思いません」
僕は姫髪さんの言葉に驚く。
姫髪さんは変わっていた。
染谷先輩の口調が変わった。
「雪介元気? 黒戸ちゃんとは上手くいってる? 妹ちゃんもなんだか元気そうだね。頼むからこっち来ないでね」
「妙生か?」
「俺も元気だよ! しかしモテモテだな雪介! なあ、染谷君の頭の中に入って分かったんだけど、やっぱりお前ら人間は変だよ。染谷君の頭なんて大変だよほんと!」
染谷先輩の姿で妙生の口調は、やっぱり違和感がある。
「なにが大変なんだ?」
「染谷君は俺が体に入ったことで、自分は選ばれた存在だと思い始めているんだ。神に近い存在だってな。宇宙人ですらついていけねーよ!」
「選ばれた存在って、そんなはずないだろ」
「どうだろね」
と言って妙生は面白そうに僕を見た。
「まあ俺は頭のねじがぶっ飛んだ染谷君がけっこう気に入ってるよ。退屈しなくて済みそうだからな」
「冬眠するんじゃなかったのか?」
「それが眠くならないんだな。じゃあな雪介」
口調はまた染谷先輩のものに戻り、さして興味もなさそうに言った。
「そういうことだ。進化論には共生説というものがある。ネクタールと共生することで、我々は進化をしたと俺は考えている。現人類の種の寿命は終わるんだ。俺たちは現人類に代わって繁栄するといった責任を負っている。神が与えた使命なんだよ」
口調とは反対に、染谷先輩の目は真剣で、僕はぞっとしてしまう。
岡田さんが口を開いた。
「染谷先輩は進化論を主張して、神を肯定するんですか?」
「俺はべつにキリスト教徒じゃない。俺にとって神とは、俺たちよりも、上位にいる存在のことを指している。妙生君をこの世界に落とし、俺たちの体にネクタールを入れ込んだ、さらに高次の存在のことだ」
岡田さんはため息をついて、言った。
「そんなのどこにいるんですか?」
染谷先輩は言った。
「それは分からない。しかし、この一連の出来事は偶然ではなく、神によって定められていたんだろうと考えると納得できる」
「好きにして下さい」
染谷先輩は背中を僕らに向けた。
「あまり日焼けするとあとで後悔するぞ」
と言った。僕は去って行く染谷先輩がなにか呟いたのを聞いていた。
――俺はまだ諦めていない。
それは思念が直接頭に飛んできたような感覚だった。
妙生がハムスターでいたころ、どのように声を出しているか気になったことがある。ハムスターに人語を操れる程の声帯はないからだ。もしかしたら、テレパシーのようなものだったのかもしれない。
諦めないって、岡田さんのことか。それか妙生の言葉なのかもしれない。僕には分からなかった。
「来るなら戦います!」
そう僕は後ろ姿に叫んだ。
染谷先輩は振り返ると、するどい視線で僕を見た。
本当に、染谷先輩の瞳にあるものは嫉妬の色なのかもしれないと、僕はふと感じた。
僕はシートに座ってみんなを見た。黒戸は去って行く染谷先輩に最後まで殺気をぶつけていた。
岡田さんは、心配そうに姫髪さんを見ている。
僕は姫髪さんに言った。
「あの事故のことは忘れた方がいいよ」
「私は、大丈夫です。でも事故のことは、やはり忘れることはできません」
姫髪さんに、落ち込んだ様子はなかった。
僕は安心する。
僕らは、お互いを信頼できるくらいには、理解し合うことができているのかもしれない。
僕らはプールから上がり、アイスを食べてから自宅に帰ることにした。試験勉強もしなければいけない。
僕と黒戸は帰る方向が一緒だ。みぞれと三人で帰路についた。
黒戸はみぞれと仲がよくて、姉妹のような関係に見える。
たまにアパートに寄って、みぞれとゲームをしたりもしていた。
ただ、僕と黒戸の関係にあまり変化はない。クラスではお互いほとんどしゃべらないし、僕がしゃべりかけても黒戸は無視同然の態度をする。
部室でも同じだ。
それでいいのかもしれない。僕らの関係は複雑で、でも気持ちは、とても分かりやすいものに変わってきているはずだ。
オカルト部の活動は、そこそこ順調に続いている。
プールに行ったり、みんなで遊ぶのも、活動の一つだ。
岡田さんはみんなの気持ちが離れないようにすることや、誰かがメランコリックにならないようにすることを、オカルト部の目的に含めているから。
肝心の新聞作りは、載せる内容に本当のことを書けない分、なんだか噓をまとめているだけな気がしてくる。
岡田さんとしては、それは表向きの活動で、裏ではネクタールの研究や、それらの被害を調査する組織にしたいらしい。
必要かもしれないとちょっと思う。
あまり危険なことはしてほしくないんだけど。
あの二週間で、僕らは少しだけ前向きになれたのだろうかと思うことがある。
僕はクラスで暗いままだし、黒戸は周囲と関わらない。岡田さんは明るいし、姫髪さんは人と接するのが苦手だ。
表面上はなにも変わっていないのかもしれない。
でも、僕らはゼロの状態になれた。きっとこれから、幸せの値を増やすことだってできるはずだし、そもそも幸せの値だなんて、考える必要がなくなるかもしれない。
幸せに値をつけるだなんて、結局は自分の不幸探しをしていることと同じなのだから。
自宅に帰り、僕は夕飯の準備を始めた。材料を出して、カレーを作る。僕はみぞれの手伝いをするだけなのだけど。
みぞれが誤って包丁で指を切ってしまうけど、傷からは血が流れない。あまり痛みも感じていないらしい。
僕はみぞれの指に触れ、再生能力を使った。みぞれの体はもう僕の再生能力を受けつけるようになっているし、もし僕が死んでもみぞれの体が消えることはないそうだ。
二人でカレーを食べたあと、僕はみぞれに訊いた。
「みぞれが姿をなくしていたとき、どこにいたのか考えることがあるんだ」
みぞれは僕の前に来て、片手で僕の胸に触れた。
「見て来なよ」
みぞれの手が僕の胸に入り込む。
すると、僕の意識に変化が起きた。
体から、意識だけ抜けていくような感じだった。
僕の意識は空に飛び、宇宙に向かい、速度を増した。無秩序にいくつもの惑星の周囲を飛び回っていくのだけど、遠隔操作されているみたく動いていった。火星を周回し、木星のガス状の中を通り、土星の輪をジグザグに飛んでいく。
さらに銀河を出て、意識は何十光年もの距離を瞬時に移動した。
途中、なにかにぶつかった。
そこには次元を隔てる、とてつもなく巨大な壁があった。どこまで伸びているのかも分からない。その壁は粒子すら通さず、この世界の物質を全て弾いていた。
意識は水面に潜るように、ゆっくりとその壁に入り込んでいく。壁は薄い膜になっていて、僕はすぐに反対側に出た。
そこは真っ暗で、星がなかった。
ただ、計り知れない巨大な空間が存在するだけだ。
物質ではないけど、巨大な思考の渦のようなものがあった。思考の渦は発生しては混ざり合い、分裂していた。
その思考の渦は、たぶん僕らがネクタールと呼んでいるものだ。
僕は、妙生の住んでいた世界や、みぞれのいた場所のことを少しだけ分かった気がした。
ここには争いや、悩みがない。苦しみは生まれない。人間みたく個の存在はない。
ここから生まれたのなら、僕らの世界は住みにくいのかもしれない。
僕らの世界で生きることは辛いことだ。苦しみが多く、そんな苦しみの中からしか幸せは生まれてこない。
死に魅せられるのは、心のどこかで、他に安らかな世界があると知っているからなのかもしれない。
ネクタールの渦は僕を覆うように、取り込もうとした。
この渦に入り込めば、もうなにも考える必要がなくなり、苦しみは永遠に感じることがなくなる。
でも僕は、元の世界に戻りたかった。
こんな世界は噓だ。
辛くない世界なんて、あるはずがない。それに僕は、黒戸やみんなと一緒にいたい。
そう思ったが、ネクタールの渦が鋭く僕の方に向かってきて、意識を貫いた。
僕は衝撃を受けるが、しかし、なにか変化が起こることはなかった。
その出来事のあと、僕が今見ているものは、たぶん、みぞれの記憶なのだと気づいた。僕の意識はネクタールの世界に入り込んだわけでも、宇宙に飛び出しているわけでもなかったのだ。
もし僕や、ネクタールの入っている生き物が肉体を失えば、この場所に来るのだろうか。
ネクタールの世界では、様々なデータを交換し合うことで、思考の渦という大きな生命を作り出していた。
もしかしたら、他次元の世界からデータを取り込むことで、ネクタールの世界は存続しているのかもしれない。
僕らが死ぬとネクタールといった存在になり、データという形で、ネクタールの世界に取り込まれる。それは、ネクタールの世界の栄養になると言えるのではないだろうか。そう考えると、僕らは進化した人間でも、一ツ目の種族でもなくて、より大きな生命の一部と言える。
そして僕らの存在はネクタールの世界に利益する一方ではなく、僕らの世界にも影響を与える。僕らの世界にも、ネクタールという新しいエネルギーが生まれているから。
多元宇宙といえるこの世界は、なんだか生き物のようだ。
僕らは自立的に動いているけど、ネクタールの渦という、大きな生き物と繫がっていて、ネクタールの渦は、さらに入れ子である、宇宙という生き物と繫がっている。
ミジンコがクジラを眺めるみたいに、僕はネクタールの渦を見ている。圧倒されるだけで、ほとんど理解なんてしていないのだけど。
でも僕は、早く自分の世界に戻りたかった。黒戸や、みんなと会いたい。
きっと僕らの世界には、僕らの世界にしかない、データがあるのだろう。それは個という存在がなければ成り立たないものなのだ。
みぞれの記憶は徐々に白く薄れていった。そして僕はゆっくりと目を覚ました。目を開けた僕の前には、僕の胸に手を当てているみぞれの姿があった。みぞれは僕の胸から手を離し、確認するように一瞥してから、くるりとテレビの方に向き直った。
時計を見ても、時間はまったく進んでいない。
僕はしばらく放心状態だったのだけど、なんだか急に、黒戸に会いたくなった。会話をしたいと思った。しかし連絡を取ろうにも、携帯電話はない。
立ち上がり、みぞれに「ちょっと外出てくる」と言うと、みぞれは「お菓子が食べたいかも」と言った。
僕は「分かった」と言い部屋を出て、玄関で靴を履く。みぞれが「いってらっしゃい」と言い、僕は「いってきます」と返す。ドアを閉めると、僕は駐輪場に向かった。
黒戸は迷惑がるかもしれないけど、連絡を取る手段がないのだから自宅に出向くしかないだろう。僕は自転車に乗り、ペダルを踏み込んだ。
七月の風は気持ちよくて、僕は自転車の速度を上げた。
了