2WEEKS イカレタ愛

第三回

野中美里 Illustration/えいひ

7 オカルト部

五月十七日、火曜日の朝。僕は頭痛を抱えて目覚ましをとめた。布団から出て、ロフトから降りると、カレンダーに印をつけた。

今日を入れてあと六日。僕が心配していた事態は、黒戸が母のようになってしまうことだ。でも黒戸に変化はなかった。

姫髪さんが言っていた大きな不幸とは、もう少し違うところから来るのかもしれない。

学校に行くと、その日は黒戸も登校していた。

いつもと変わらない無愛想な表情をしている。

その日の部活では、岡田さん姫髪さん黒戸に僕と、四人がそろっていた。岡田さんは一晩でモチベーションを回復していて元気だ。

中井公園で起きた殺人事件の犯人はまだ捕まっていない。そのため、どの部活も七時までには下校となる。オカルト部も例外ではない、と言うか、活動してもあまり意味のない部活は、教師からしてみれば早く帰ってほしいのだろうけど。

長机で僕らの話す内容は、先日の殺害現場のことだった。

「黒戸さんはあの事件をどう思う?」

と岡田さんが口を開いた。

黒戸の反応は「興味ない」の一言だ。

姫髪さんも、積極的に発言することはない。

そんなとき、ドアを開けて男子生徒が入ってきた。身長が高くて、モデルのような体型のその人は、俳優でも目指しているのかと思える笑顔だった。

「うっす、まさか廃部にならなかったなんてな。岡田すごいじゃん」

染谷そめや先輩! なにしに来たんですか?」

と岡田さんはびっくりしたように言った。

「なにって、後輩の励む姿を見に来ちゃいけなかったか?」

「そんなこと言っても、先輩の席はもうないですよ」

「先輩が来てそれはないだろ、お前のイスをよこせ」

岡田さんは「嫌です」と表情を歪めて言った。

「後輩一人残して引退する先輩なんて、先輩じゃありません」

「しょうがないだろ、受験生なんだから」

染谷先輩は長机の端に座った。

「いやしかし、まさか三人もこんな部に集めるとはな」

染谷先輩はしみじみと言って、僕らを見渡した。

「男子一人じゃ辛いでしょ?」

と笑顔を僕に向けた。

「いや、けっこう辛いです」

「だな」

うんうんと一人頷く染谷先輩は、なんだか不思議と人をなごませる雰囲気を持っている。

そんな気がした。

僕は言った。

「染谷先輩はどんなオカルトに興味を持たれたんですか?」

「俺? そうね、奇跡とかかな」

「奇跡ですか」

「ああ。そもそも、こんな部に入ろうとした理由は飼ってた猫なんだよ」

「はあ」

「俺の猫って、目が潰れてたんだ。喧嘩でもしたのか、完全にふさがっていたんだな。それが三年くらい前に突然治ったんだよ。散歩から帰ってきたと思ったら、傷がないの。他の猫かと思ったけど、首輪もしてるし、模様も一緒だったから」

その猫って、僕が治したやつじゃないのか。

「あの、どっちの目でした?」

「え? ああ、右だな。右目。そんな奇跡ってあるのかな、って思ってさ。ここに入部したわけ。でも誰も信じてくれないんだよな。オカルト研究部の人間ですら半信半疑なんだから。岡田は信じたよな?」

「当たり前ですよ! たぶん、誰かが超能力で治したんでしょうね」

そう言って、岡田さんは僕を見た。

「俺としてはもっと宇宙規模ですごいことが猫に起きたんじゃないかって気がするんだ。キリストが三日後に復活したと言われるように、猫も右目が治って、猫族に救いと希望をもたらすとか」

「どんだけ大げさなんですか。だいたい猫の希望ってなんです?」

岡田さんがやや引き気味に訊いた。

「毎日マグロの切り身が食べたいニャーってところかな。君はこの話を信じる?」

染谷先輩の言葉に、僕は首肯する。

「もちろんです」

「君はいいやつだ。もう少し早く会いたかったよ。引退してなけりゃ色々と奇跡について研究ができたんだが。受験生の辛いところだ」

岡田さんが机を揺らして言った。

「受験なんてまだ先じゃないですか! 一緒に活動しましょうよ!」

「落ちる! やめろ! お前もあと一年したら分かる」

染谷先輩は腰を上げて言った。

「たまに来るかもしれないから、そのときは仲よくしてよ」

スマイルを空中に散布させた。

「こちらこそお願いします」

僕は頭を下げた。

黒戸は無視。

姫髪さんはなぜか怯え、岡田さんはため息をついた。

「やっぱり君はいいやつだ。ところであの殺人事件、中井公園でも起きただろ。危ないから早く帰れよ」

岡田さんが言った。

「分かってますよ! 部室にいるなら、染谷先輩も新聞作り手伝ってくれますか?」

「あのな、お前に言ってるんだからな、岡田。私は大丈夫とか思ってるだろ? そんなやつが狙われるんだぞ」

「そんなこと思っていません! 先輩は私のことを少し馬鹿だと思っていませんか? 先輩に言われなくても、今日は早く解散するつもりでしたよ」

「少しじゃなくて、お前は馬鹿なんだから。だからわざわざこうして忠告しに来てやったんだよ。ありがたく思え」

「心配して来てくれたんですか?」

「それもあって来た、だ。新入部員の顔を知らないわけにもいかないだろ、一応部長だしな」

「ご苦労様です」

「ご苦労様は目上に使う言葉じゃねえな」

「目上だと思ってません」

「ま、可愛い後輩の顔も見られたし。俺はもう帰るから」

じゃあな、と笑顔で言って染谷先輩は部室を出て行った。

その姿を目で見送ると、はぁとため息をついて、岡田さんは渋い表情で言った。

「あんなのが部長なわけですな、ここの」

「いい先輩じゃないか」

「どうかなぁ。あ、ところで、先輩の猫に上代君は覚えがある?」

「治したの僕だね」

「それ、笑えないね」

岡田さんはそう言って、机に突っ伏した。

「偶然ってのはよくあることなんだな。それにしても、岡田さんが染谷先輩と活動していたのはひと月くらいだよね?」

「それが?」

「仲がよさそうだと思った。昔からの知り合いとか?」

岡田さんは片手を顔の前でブンブン振って、違う違うと言いながら苦笑する。

「それに染谷先輩と仲よくない。だってあの人、私が入らなければここを廃部にするつもりでいたんだから。私が入ってからもほったらかしだし。人数が足りなくて廃部になるって言われたのも入部していきなりだよ! 新入部員の最初の仕事は勧誘だとか言って。廃部になっても、文芸部辺りと合併するだけなんだけどさ」

「岡田さんも苦労したわけだ」

「それに染谷先輩ってやたら女子にモテるんだよね。なんかムカつくけど」

「モデルみたいだから」

「ちゃらちゃらしてるだけ!」

僕は他人の人生について、額に手を当てて深く考える。

僕は女子三人に囲まれているけど、話すのは部活の時間だけだ。

参加する理由も、義務感や契約に近い気がする。青春気はまったくない。

僕も染谷先輩みたいだったらよかった。

かっこよくて、明るい雰囲気を出せるようになりたかった。

思惟から覚めると、岡田さんがなにか話していた。

「その一ヶ月の間は色々教えてくれはしたけど、勧誘の目途が立ったって言ったとたん来なくなったの。あのクソ野郎!」

副部長はご立腹だった。

顔を真っ赤にして、頭から煙でも出てしまいそうだ。

いきなり部の責任を全部丸投げされたんだから、怒りもするだろうけど。

「三年生じゃ仕方ないよ」

「なくない!」

しかしモテるというのは他人からたくさん奪うことだ。

でも悪いことじゃない。誰でも幸福を追求する権利はあるのだから。

なんだか新興宗教信者のようなことを考えているから、これは僕の頭の中だけで消化させておこう。

つまり僕は染谷先輩に憧れを持ったんだ。あの明るい先輩が、自分の理想像と重なったのだと思う。

黒戸がそろそろ帰る、と言ったのは六時前で、一人で部室を出て行ってしまった。岡田さんはため息をつくと、今日は解散しようか、とぽつりと言った。

「そう言えば、新聞の記事どうする?」

「今月はやっておくから心配しないで。来月からは上代君にも色々手伝ってもらうつもりだから」

「さすが」

「好きだからね。調べたり書いたりするの」

僕らは帰る支度したくをし、部室を出た。

岡田さんが部室に鍵をかけて、三人で職員室に返しに行った。下駄箱に向かって歩いていると、岡田さんが口を開いた。

「文化部は帰宅しているところが多いね」

「暗くなると危ないからな。この辺は外灯が少ないし」

「可愛い女の子が歩いていたらおそわれるかも」

「まだ人通りがあるから心配ないよ」

「上代君、私たちを家まで送っていけ」

僕らは三人で歩いて帰る。岡田さんと姫髪さんの女子トークを聞きながら、姫髪さんのマンションに着いた。

そのあと、岡田さんを家まで送るのだけど、自転車に乗らないで僕らは歩いた。

もう空は暗くなってきていた。

そう言えば、二人きりになる機会もなくて岡田さんに話すのを忘れていた。岡田さんにもネクタールが入り込んでいると。でも、こんな話はしない方がいいのかもしれない。変に意識してしまうと、岡田さんの中にあるなにかしらの能力が顕在化けんざいかしてしまうかもしれない。

能力は人を幸せにはしない。

「上代君に訊きたいことがあったんだよね」

「なに?」

「黒戸さんと姫髪ちゃんどっちがタイプ?」

唐突だな。

「黒戸は凶暴だから。姫髪さんは可愛いね」

「じゃあ私は?」

僕は口ごもる。

岡田さんは自転車をとめた。

「今が上代君の生涯で一番のモテ期かもよ。この先はたぶん女の子に囲まれることなんてないよ」

「僕はモテてないと思う。モテたいけど」

「じゃあさ、三人の中で誰が一番好き?」

「分からないよ」

「つまらない」

岡田さんは再び歩き出した。

僕は言った。

「あのホットプレートいつ取りに来る?」

「べつに使うことないからいつでもいいんだけど。邪魔かな?」

「邪魔じゃないけど、妙生が嫌がるから」

思い出すと、気分が悪くなる。

自分のしたこと。

「悪いことしたかな。早めに取りにいくよ」

「お好み焼きは美味おいしかったよ」

「よかった! ところで上代君は本当に気がついてないの?」

岡田さんは僕を見た。

「なにが?」

「なんでもない」

不機嫌そうにそう言って、岡田さんは空を仰いだ。

ガクンと首を下ろしたと思ったら、ため息交じりに口を開いた。

「あのね、私さ、本当は染谷先輩が好きなんだ。でも先輩は私のこと見向きもしない。どうして? 私って魅力ない?」

「岡田さんは明るくて、可愛いと思う。染谷先輩に告白とかした?」

「してない。そんな度胸ない」

変なとこで控えめなんだな。しゃべるハムスターよりも、死体よりも、好きな人に想いを伝えることに臆病おくびょうになるのか。

「私は本当に可愛い? うるさくない? 乱暴とか思ってない?」

「うーん」

「悩むなよ! 君は女の子との会話にもっと気を遣った方がいいと思う」

「申し訳ない」

「許せん」

そう言って、岡田さんは僕の方に倒れこんできた。自転車と彼女の重量が同時にかかり、僕は脚をもたつかせてしまう。

岡田さんは僕の肩に寄りかかり、小さく呻いていた。

どうしていいか分からず、僕はその場に立っていた。

「岡田さん、大丈夫?」

「大丈夫じゃない、まったく!」

「アイス買ってこようか?」

うん、と岡田さんは頷いた。

コンビニでアイスを買って、駐車スペースで二人で食べた。岡田さんは目を赤くしている。ソフトクリームをちょっとずつ口に運んでいた。

「おいしい。ありがと」

「岡田さんが染谷先輩を好きになるのは分かるよ。僕も一目見て憧れたし。明るくて、かっこいい。僕には絶対にあんな風になれないだろうって思った」

「上代君はあんな風にならないでいいの。君には君のよさがあるんだから」

「そうなの?」

「そう」

「そうなんだ」

「ねえ、幸せってなんだと思う?」

と岡田さんは呟く。

僕は少し考える。

「誰かが不幸になったとき、相対的に表れるものが幸せだと思ってる。物も人も限られているから」

「それは幸せではなく、たんに他人が不幸になってるだけだよ。幸せってそれぞれ形は違うけど、奪い合うものじゃない!」

そうだったのか。

「衣食住に困らないことかな?」

「それじゃあ、つまらない」

「岡田さんはどう思うの?」

「好きな人と一緒にいることかな」

「染谷先輩?」

「それもあるし、家族とか友達とか、好きな人みんな」

「なるほど。それは新しい境地だ」

「いないの? 上代君にそういった人って」

「どうだろう」

「君は本当に駄目なやつだね。染谷先輩と一緒。二人ともクソ野郎だ」

「否定はしないけど、ちょっと悲しくはあるかも」

「じゃあ忠告してあげる。もしも誰かを選ばないといけなくなったら、絶対に中途半端ちゅうとはんぱなことをしては駄目。必ず誰かを選ばないといけないよ」

「なんのこと?」

「自分で考えることだよ」

なにを考えるのかも分からないのに。

「岡田さんには、これから色々と相談することが多くなるかも」

「いいよ。なんでも相談して」

僕らはアイスを口に運んだ。

「気になっていたんだけど、岡田さんはネクタールの入っている僕らをどう思う?」

「ストレートにうらやましいって感じかなぁ、私だけみんなと違うのは嫌だよ。黒戸さんは一ツ目の種族って喩えたんだよね? なんだか可愛いね」

岡田さんは頭を捻りながら続けた。

「違うかな、不器用なだけ? 黒戸さんが自作の作り話までして上代君に伝えたかった気持ちって、結局上代君に届いてないみたいだし」

「僕は一ツ目種族の話は気に入っているよ。宇宙人や超能力者と言われるくらいなら、僕は一ツ目種族と言われる方がいい。黒戸の言いたかったことは分かっているつもりだけど」

「そうなの?」

岡田さんは面白そうに僕の表情を見た。

僕は話を変えた。

「姫髪さんの言っていた大きな不幸って結局なにかな?」

「姫髪ちゃんに分からないことを、考えても無駄かもね。ただ、私が怖いのは四人の気持ちがそれぞれ違う方向に向いてしまうこと。少なくとも私は、四人の気持ちが離れないように努力はしたい」

「気持ちが離れないようにする」

岡田さんは頷いて、ソフトクリームをちろっと舐める。

「私は部のみんなが好きだよ。このままみんなで一緒にいたい」

「うん」

岡田さんを自宅まで送ると、もう八時を過ぎていた。空は暗いし、出歩く人もいない。仕事帰りの人がちらほらと歩いているだけだ。

岡田さんの家は僕のアパートと反対の方向だ。

自転車に乗ろうとすると、電柱の陰にチラリと人影が見えた。

よく見ると、それは染谷先輩だった。

僕を見ると、さっと電柱に身を潜めるけど隠れきれていなかった。声をかけると、苦笑いをしながら出てくる。

「どうしたんですか?」

「いやね、君たちが心配で」

そう言って、染谷先輩は微笑を浮かべた。

「もしかして学校からついてきてくれたんですか?」

「いや、コンビニで姿を見て、そこからだよ」

まったく気がつかなかった。

でも本当にいい人だ。まるで保護者のようだ。

「みんな送り届けましたから。大丈夫ですよ」

「ああ、ありがとう。上代君だったかな?」

僕は頷く。

「君も早く帰った方がいい。連続殺人犯は恐らく人間ではないだろうからな」

染谷先輩は微笑を崩さずにそう言った。

オカルト部の話に慣れすぎていたせいか、先輩の言葉が冗談だと気づくのに間が開いた。

僕はたぶん、相当真剣な表情をしていた。

先輩は黙って僕の反応を見ている。僕は言った。

「人間じゃないと、やっぱり宇宙人ですか?」

「なるほど。上代君はユーモアのセンスがあるな」

「ありがとうございます」

「ちなみに宇宙人説はすでに却下きゃっかされている」

「却下されたんですか」

「そうだ」

僕は考える。

「じゃあ、先輩はどう考えているんです?」

「そうだな。以前、千葉県内の暴力団系組織が一日で壊滅した事件があったが、覚えているか?」

黒戸が起こしたやつか。

僕は頷く。

「その事件と、今回の事件はどことなく似ている。死体が惨殺されていることを除いても、その異常性といい、非常識さといい、こんな平和な場所で起こるべき事件ではない」

「起きて欲しくもなかったです」

「まったくだ。犯人はきっと獣のようなやつなんだろう。もしかしたら、獣そのものかもしれない」

この人。

なにか、知っているんじゃないのか。

「獣そのものですか?」

「黒い猫で、昔右目が潰れていたやつとか」

それも冗談のつもりなのか。

「猫には人を殺せないんじゃないですかね」

「ふむ」

先輩は目頭を押さえた。

「こんな話は部室でした方がいいんだろうな。行けないのが残念だ」

「みんな、来て欲しいと思っています」

「うるさい先輩なんていない方がいい。それに、オカルト研究なんて俺にとっていくら重要でも、親にしてみれば下らないもんなんだよ」

「親、ですか?」

先輩は頷いた。

「面倒だよな、学生って。人それぞれだとは思うけどさ」

「大変そうですね、なんだか」

「君はいいやつだ。男子部員が上代君でよかった。それから、岡田は面倒臭いやつだけどよろしく頼むよ」

返事をすると、染谷先輩は照れたように微笑んで暗闇に去っていった。

家に帰ると、妙生が「おかえりぃぃん」と声を出した。キャベツがお気に入りだったので、帰りに買ってきたものをケージに入れておいた。

「そう言えば、お前に向日葵の種をあげたことなんてあったっけ?」

「ないだろ」

おかしいと思ったんだよ。

「よく岡田さんに向日葵の種が好物だなんて言えたな」

「女の子は花が好きだからな! 俺もずいぶん人間臭くなってきたぜ」

「ハムスターだけどな」

妙生はキョトンとしてこちらを見た。

「似たようなもんだろ」

そう言ってキャベツを食べ始めた。

僕は部屋にいるときあまりテレビを見ない。音楽も聴かないし、漫画を読むことも少なかった。なにもしないでボウッとする。

ストレスが溜まったり、嫌なことを考えるときには、なにかを再生させたくなった。

能力を思う存分使うと、不思議と気持ちが晴れる。それは、妙生の言ったように自分が特殊な人間だと思えるからなのだろう。ある意味、他人を支配している感覚を得られるからだと言える。

いくら綺麗ごとを並べても、否定しても、その快感を得ることに変わりはない。

しかし、母を殺したとき、僕は快感を得ることはなかった。生き返らせたときも、ただ必死に能力を使っただけだ。それに噓はない。

噓はない。

うそはない。

宇宙人ぽく、ウソハナイ。

人を殺すのは悪いことだろうか?

そんなこと僕でも分かる。

戦争で人を殺すことや、過失で殺すことや、安楽死として殺すことなど、人間は自分の意思とは関係なくても色々なケースで人を殺す。殺してしまう。罪として問われることもあるし、許される場合もある。

僕の場合はどうなんだ。

罪になるのだろうか。

一度死んだ母を生き返らせ、能力に欠陥があり、上手くいかなかったため今度は殺した。

「雪介! 雪介! 返事しろ」

妙生が玄関から騒ぎ立てた。ちょっと迷ったけど、返事をした。

「なに?」

「俺の相手をしろよ! 暇なんだから」

僕はしぶしぶと立ち上がり、ケージを持ってくるとテーブルの上に置いた。

「さて」

と言って、妙生はケージの中で器用に立ち上がった。

「いいか雪介、考えごとってのは人に話すと解決しやすいんだ。ちょっとなに考えてるか言ってみろ!」

「考えごとが好きなんだよ。そういう性格なんだ」

「暗!」

「体質だよ」

「昔からそうだったのか?」

「いや、小学生の頃は明るかった気がする。悩みがないからな、子供の頃って。自分の思うようにすることに迷いがない」

「今は?」

「物事が複雑に感じる。だから考えることが多くなる」

「物事はシンプルが一番だな。食べ物は野菜が一番だ」

「宇宙人はベジタリアンだって教えたら岡田さん喜ぶかな。それにしても、なんでそんなに地球のこと詳しいんだよ?」

「内緒」

「べつに知りたくもないけど」

妙生はちょこちょこと動いた。

僕は口を開く。

「そんな地球フリークな宇宙人に訊きたいことがある」

「どんどん来いよ!」

「僕が母を生き返らせ、そのあと殺したことは、罪になると思う?」

妙生は動きをとめる。

ジッと僕を見た。

「そんなこと考えてるの? 本気?」

そう言った。

ハムスターに表情はないはずだけど、僕には笑っているように見えた。嗤う。

その表情に、僕は言葉を詰まらせた。

「雪介の行為が罪になるはずないじゃないか」

「人を殺したんだぞ」

「じゃあ、雪介が虫を生き返らせたり、殺すことは罪にならないの?」

「この社会で生きるのに、虫の生死なんて考えるわけないだろ」

「同じじゃないか」

妙生は人間も虫も同じような命だと言っているのか。

僕は笑っていた。妙生の言っていることが滑稽に思えたからだ。

「やっぱり妙生は人間臭くない。安心して大丈夫だ。たしかに、一寸の虫にも五分の魂なんてことわざがあるくらいだけど、実際には人間は暮らすために色んな生き物を殺すし、ほとんどの虫は害虫扱いだ。てんとう虫や蝶くらいなら可愛いけど。もし、どんな命も等価値と考えて生きていくとしたら、無人島やジャングルの中で暮らすしかない。弱肉強食ならまだ平等だと言えるよ。それか、どこだったか、宗教で生き物は殺さないことになっている国がある。ハエの一匹も殺さない。そのハエは両親の生まれ変わりかもしれないと考えるからね。そういったことを聞けば僕だって感動する。でも、現実にハエをほっとけば病原菌を運んでくるかもしれない」

たしか、ブータンだったかな。

それを言おうとしたけど、妙生は話に飽きたのか回し車で遊んでいた。

「分かってるじゃないか」

と妙生は走りながら言った。

「なにが?」

「雪介はもう人間じゃないんだろ?」

僕は黙る。

妙生が自分から僕にそう言ったのは初めてだった。

「それよりも高等な生き物なんだよ」

「なんの話してんだ?」

「人間が虫や家畜を殺して罪にならないように、雪介が人間を殺しても罪にはならないってこと。人間が作った理屈に当てはめるとそうなるでしょ」

こいつ、人間も虫も同じ価値しかないと言っていたのか。

「まさしく宇宙人的な考え方だな」

「宇宙人ですから」

「たしかに僕は化け物かもしれないけど、人間の社会で暮らしているんだ」

「じゃあ罪になるってことで」

「それなら誰が裁くんだ?」

「いないよ、そんなやつ。言い方を変えれば、雪介以外、みんなアウストラロピテクスだ。雪介は進化の段階をいくつもすっとばして今の人間になったわけ! 猿人をいくらピストルで殺したって彼らに雪介を裁くことはできないだろ? 彼らは未成熟なんだから」

妙生の言い方に、僕は気持ちが悪くなった。

「僕はピストルの使い方なんて知らないよ」

「あそっか!」

「まだ黒戸の喩えの方がマシだ」

「へえ、黒戸ちゃんはなんて言ったの?」

興味深きょうみぶかげに妙生はそう訊いてきた。

「湖から出てきた一ツ目の種族」

「なんだそれ!」

妙生はゲラゲラと笑い始めた。

「結局、お前の喩え話はなんの役にも立たないよ」

「残念至極しごくだ」

「悔しがってるようには見えないけど」

妙生は回し車から転げ落ちた。

ケージの中からこちらを見て言った。

「詰まるところ、雪介が自分で罪と思うかどうかにかかってるんだよ。雪介を裁けるのは雪介だけってわけ。あんま気にするなよ!」

僕はため息をついた。

そのまま外に出た。

妙生との会話で胸のモヤモヤが増していた。胸の中の黒いものが表出しそうになっているのが分かる。それは無視するには重過ぎる感覚だった。自分でも恐ろしいし、気持ち悪い。

好きではない。

自分のことが。

近所を歩きながら、適当な生き物を探した。植物や虫は治してもあまり面白くはない。できれば猫や犬が丁度ちょうどいいのだけど、都合よく死骸が転がっているはずもなかった。

国道に沿って歩きながら、いつの間にか三つ分の駅を通り過ぎ、大きな川に出た。昼間は釣りや、川沿いの野原で野球などをしている人がいる。

夜になると、外灯が少なく人気はない。

土手を降りて、川原を見て回ると、橋の下に猫の死骸が転がっていた。

誰かに捨てられたのかもしれない。

しかし、死骸の状態が不自然だった。

公営プールの裏で見た死体を思い出させるような、食われたような痕がある。

そこで思考をとめた。誰が捨てたにしても、関係ない。僕はしゃがみ込み、猫の死骸に手を当てて集中する。手の平に集まった力が猫に移っていくような感覚があり、ビクビクと動きながら、死骸は失った部分を再生させていく。

しばらくして、猫は目を開けた。すぐに闇の中に走っていった。

僕は立ち上がり、そのまま薄暗い橋の下へ進んだ。

そこで立ちどまり、目を疑った。

コンクリートの地面には、ありの死骸でも落ちているように、猫や犬の死骸が散らばっていた。血が地面を濡らして、臓器がこぼれ、食われたような痕があった。

一匹の猫はまだ生きていた。

三毛猫で、腹を裂かれているけど、脚を痙攣けいれんさせて苦しそうにしている。

その猫に手を当て、治した。

そのあと、他の猫や犬を生き返らせた。再生するとすぐに怯えるように逃げていった。

全部で六匹やられていた。

集中していたからか、時間が過ぎるのが分からなかった。たぶん二十分くらいは能力を使っていたはずだ。

もしかしたら、犯人が近くにいたかもしれない。そいつは、恐らく連続殺人を犯しているやつと同一人物だ。

なにをしているんだ。

何度も同じあやまちを繰り返している。

僕は、馬鹿だ。

自宅に帰る頃には、もう深夜になっていた。

玄関では妙生がぐうぐうと眠っていたので、起こさないように部屋に入る。電気をつけると、ロフトから声がした。

「おかえりなさい、お兄ちゃん」

ロフトには、黒猫フードを被ったみぞれの姿があった。僕の妹で、見た目は中学一、二年生くらいの小柄な子だ。ちょこんと顔を出して、はにかんでいる。

あれだけの生き物を生き返らせたから、出てきてしまったのか。

「お腹減ってない?」

と僕は訊いた。

「平気だよ」

「電気くらいつけろよ。テレビも見ていいんだから」

「うん。今度からそうする」

テレビをつけて、シャワーを浴びるため着替えを用意した。

みぞれはロフトから降りてくると、隅の方で体育座りをしてテレビを見る。フードからはみ出た青い髪が、キラキラと輝いていた。肌も綺麗だし、存在感もある。

これなら一日は消えずにいられる。

五月十八日、水曜日。残りは今日を入れて五日となった。

学校には黒戸も、岡田さんも、姫髪さんも来ている。部活のメンバーだけではなく、学校内でも被害に遭っている人はいないようだった。

でも事件の犯人は捕まっていない。

先生たちもどことなく疲れているようで、学校全体が暗くなっていた。

部活に関しては、今月末に中間試験があるので、少し早いけど勉強期間として活動休止になった。

放課後、黒戸と姫髪さんはすぐに帰宅したけど、岡田さんはホットプレートを取りにアパートへ来た。

部屋に入ると、岡田さんはバッグを放り出して、クッションの上でくつろぐ。黒戸もそうだけど、彼女たちは僕を男として見ていないふしがあるな。

いいけど。

よくない。

「あー上代君の部屋は落ち着くよ。このこざっぱりした感じがね」

僕の部屋にはテレビ、テーブル、小物を入れる棚くらいしかない。布団はロフトに置いてるし、収納は小さいけど、服もあまり持っていないからまだスペースが余っているくらいだ。

「買い物好きじゃないから」

「そんな人間がいるんだねぇ」

人間じゃないんで、と言おうとして言葉を飲み込んだ。

ちょっとブラックかもしれない。

「それはそうと、妙生君なんか元気ないけど大丈夫?」

「平気平気」

「そうは見えなかったけどなぁ、って、うあぁ!?」

岡田さんはロフトを指差した。

「なにかいた! 宇宙人!?」

ロフトを見上げると、みぞれのフードの耳だけ見えていた。

「妹です」

「妹! いたの!? 宇宙人より驚いたかも」

なんだか耳がぷるぷる震えていた。顔すら出さないので、降りて来させるのも悪いかと思っていたら、岡田さんが大きな声で話しかけた。

「妹ちゃんこっちおいで! こっちこっち、ほら、お菓子あげるよ!」

岡田さんはバッグからチョコ菓子を出して、ほらほらーと気を引こうとしていた。

釣りじゃないんだから。

でもみぞれは降りてきた。

「やだ! 超可愛いー! 小学生くらい? 今いくつ?」

「んー、十四歳くらいです」

「上代君には訊いてないから。名前なんていうの~?」

「上代みぞれです」

声色を変化させて言うと、岡田さんに蹴っ飛ばされた。

「こんなお兄ちゃんで可哀想」

「みぞれはあんまりしゃべらないんだ。初めて会う人にはとくに無口になる」

「そうなんだぁ、上代君と全然似てないね。しかもなんで髪の毛青いの? でももう本当に可愛いなぁ。私の妹にしちゃいたい!」

岡田さんはそう言ってみぞれに抱きついた。

みぞれは、表情を固くしてやっぱり震えていた。

「岡田さん、もしかしたら怖がってるかも」

「えぇ! ごめんね。お菓子あげるから許して」

そう言って、岡田さんはお菓子のパッケージを開けると、袋の先を破ってスティックのチョコを出した。

みぞれはチョコをじっと見ている。僕が一本貰って食べると、みぞれも真似するようにお菓子に手を伸ばした。

食ってる。

「みぞれ、美味しい?」

みぞれは頷く。

今度甘いもの買ってこよう。

「これでもう仲よしになったよ!」

「やっぱり、みぞれも女の子なんだな」

「なに当たり前なこと言ってるの?」

岡田さんは怪訝そうに僕を見た。

説明してみるか。そう思い、玄関からハムスターのケージを持ってきた。妙生を会話に交ぜる。なるべく、みぞれからは離すようにして。

妙生はケージの中で大人しくしている。みぞれを怖がっているから、同じ部屋にいるだけでも我慢しているのだろうけど。

「説明、苦手なんだよな」

と言うと、妙生が叫んだ。

「俺だって我慢してんだぞ! 早く話を進めろよ!」

猿がライオンの檻に入れられるのと変わらない、そう以前言っていたけど、それは大げさだろう。

岡田さんはウキウキした表情をしていた。

みぞれはほっとけばテレビを見ている。

どこから話せばいいか迷う僕に、岡田さんが言った。

「まず上代君の妹ってのは本当なの?」

「人に説明するときは、色々誤解がありそうだからそう言ってるんだけど、本当は違う。血は繫がってないし、母親のおなかから生まれたわけじゃないから。宇宙人でもないけど」

「よく分からないね」

「そうだね」

「もうなんでもいいよ! とにかく、端的に説明して」

僕は頷いて、話し始めた。

「僕が能力を乱用するようになってから、三ヶ月くらいしてからのことだ。中学一年生の秋頃だったと思う。その日、僕は道路で潰れていた猫を見つけて能力を使った。ハムスターよりも大きな生き物を生き返らせるのは初めてだったよ。それを終えて家に帰ると、みぞれがいたんだ。わけが分からなかったけど、一日も経たずに消えてしまったから、気にしないでいた。害がありそうな感じでもなかったし」

「部屋にいたの? この格好で?」

「押入れに隠れていたんだけど、僕が帰ると出てきた。服は着ていなかったよ」

岡田さんはみぞれのことをチラリと見て言った。

上代君ってやっぱり変態気あるよね」

冗談で言ってるんだよな。

目が本気に見える。

「もちろんあわてて服を着せたよ。それに着ぐるみはみぞれが気に入っているんだ。普通のパジャマもある」

「そうなんだ」

と岡田さんは無感情に言った。

「とにかく、僕はみぞれが出てくるたびに色々と質問したんだけど、みぞれは首を捻るだけだった。本人にも自分のことはなにも分からないんだ」

「なんだか可愛いけど、可哀想な話かも」

「あと、みぞれは成長をしていない。初めて見たときと、三年近く経った今も姿に変化はない。飯は食うんだけどな」

「上代君みたいに能力が使えたりする?」

「今のところは見たことない。たぶんできないんじゃないかな」

「不思議な子だね」

「ただ、妙生が怯えていることには理由があるんだ」

「うん」

「みぞれは僕が生物を生き返らせると出てきてしまうわけだけど、黒戸のシマウマ男と似たようなものだと思う。シマウマ男が黒戸の精神的なストッパー役だとしたら、みぞれは僕の精神的な安定剤かもしれない。中学生の頃、友達いなかったし。こんな能力に目覚めて、周囲と距離を取っていたから。再生能力を乱用して紛らわしていた気持ちが、みぞれを生んだんだと思う」

もしかしたら、黒戸や姫髪さん、あと岡田さんにも、もっと早く出会っていれば、みぞれは生まれなかったかもしれない。

僕は話を続けた。

「ただみぞれは自立的に動くしものを考える。シマウマ男と違ってコミュニケーションが取れるし、この世界のことを学習している。

僕が見た感じシマウマ男に知性は感じなかったから。

妙生が言うには、みぞれの体は半分ネクタールでできている。

だからネクタール本体である妙生に干渉できる。妙生本体を握り潰すことや、つまみ出すことができると妙生は考えているんだ。そんなことをしたら、ハムスターも妙生も死んでしまうらしい。でもみぞれが動物や虫を殺すところなんて見たことないし、そもそも妙生に関心がないんだ。危害を加えるなんて心配を僕はしたことがないよ」

ただ、もし僕がみぞれに頼んだとしたら、関心がない分あっさりとハムスターを殺すかもしれない。

僕は自分の考えに首を振った。

岡田さんは言った。

「結局みぞれちゃんはなんなの?」

「みぞれは僕の能力が生んでしまった犠牲者であり、存在自体不安定な、生き物と言えないもの」

「もの?」

「そうとしか喩えられないよ。でも、僕は妹と思っている」

岡田さんはみぞれを見ていた。

呼吸をしているし、心臓も動いている。瞬きもするし、たまに笑う。

「僕はみぞれを人間だと思っている。ちょっと変わった一ツ目の種族なんだ」

「上代君はみぞれちゃんの考えを訊いたことある? 彼女の意見をさ」

「いや、ないけど。意見ってどんなこと?」

岡田さんはみぞれの方を向いた。

「ねえ、みぞれちゃんはちゃんとした体を持ちたいって思わないの? 消えてしまうような体じゃなくて」

みぞれはこちらを振り向く。じっと僕を見ていた。

それから小さく頷いた。

「なにか手段を見つけようよ」

と岡田さんは言った。

「うん」 

僕は諦めていたのかもしれない。みぞれがしっかりとした体を持つことを。

みぞれは再びテレビに向き直り、岡田さんは口を開いた。

「たしか、みぞれちゃんは成長してないんだよね。上代君が再生能力を得たのは中学一年生の頃だから、そのときは二人とも同い年くらいだったわけだ」

「そういえばそうだね。いつの間にか妹って呼ぶようになったけど」

「あのさ、みぞれちゃんの容姿ってちょい昔の萌えキャラに似てない? あり得ない髪の色、電波、宇宙人設定エトセ」

「岡田さん、アニメも詳しいの?」

「広く浅くが私のモットー」

さすが。

「でも、みぞれの方が可愛い」

「うわやめてよ。だって、みぞれちゃんは上代君の想像力が生んだんだから、その容姿って上代君の趣味が反映されているわけでしょ?」

「そうかも」

「上代君、よく分かった」

なにがよく分かったんだろう。

みぞれは可愛い。その事実は変わらない。

岡田さんはなにか考えていた。ゆっくりと口を開いた。

「みぞれちゃんが上代君の想像力から生まれたのなら、シマウマ男は黒戸さんの想像力が生んだわけだよね? 黒戸さんシマウマ好きなのかな?」

「どうだろ。シマウマが好きとか嫌いじゃないような気もするけど」

僕は想像してみる。

黒戸の願いは復讐というグレーな行為だった。

そこに現れたシマウマ男の存在は、黒戸にとってよくも悪くもなかったように思う。白でも黒でもない、グレーな存在。

黒戸のそんな灰色のイメージが、たまたまシマウマ男になったのかもしれない。

でもこれは黒戸のことだ。本当のことは本人にしか分からない。僕の勝手な印象を岡田さんに語ることは、あまりしない方がいいように思えた。

岡田さんもこれ以上その話をするつもりはなさそうだ。

岡田さんはみぞれを見て口を開いた。

「みぞれちゃん、姿が透けそうになってる」

「そろそろ時間だからな」

みぞれが消える兆候ちょうこうだ。

岡田さんはまた、なにか考えていた。

なんだか、ゆっくりしている内に外が暗くなり始めた。

時計を見ると午後七時を過ぎている。「もうこんな時間かぁ」と岡田さんが呟いた。

まだ殺人事件の犯人は捕まっていない。

「そろそろ帰るよ。面白い話を聞けて楽しかったよ」

「そう言ってくれて僕も嬉しい」

「みぞれちゃんについてもっと知りたいことはあるけど、それはまたの機会にしようかな。体の半分がネクタールでも、写真にはちゃんと写るの?」

「写ると思うけど。いや、でも試したことないな」

もしかして岡田さん、みぞれを新聞の記事に載せるつもりなの。僕は勘ぐる。チラッと岡田さんの顔を見ると、しっかり目が合った。

「安心して。ちゃんとみぞれちゃんの許可を取るから」

本気なのか。

近くまで送ろうかと訊くと、気遣い無用だと言われた。玄関まで見送ると、岡田さんは靴を履いてすぐにアパートを出ていった。

岡田さんが出ていったあと、僕はハムスターのケージを玄関に戻した。ずっと黙っていた妙生が、ようやく言葉を出した。

「俺があの場にいた意味はなんだ?」

「ああ、僕の説明を補ってくれるかと思ったんだけど。珍しくなにもしゃべらなかったな」

「だから怖いんだって!」

部屋に戻ると、ホットプレートを返すのを忘れていたことに気がついた。

追いかければ間に合うかと思って、僕はホットプレートを持って外に出た。自転車の荷台に乗せる。

自転車を漕いで岡田さんを追いかけたのだけど、結局追いつけなくて、岡田さんの自宅まで来てしまっていた。岡田さんは急いで帰ったんだな。

インターホンを鳴らすと岡田さんが出たので、僕はホットプレートを渡した。

「ごめん! すっかり忘れてた」

「追いつけるかと思ったんだけど」

「ダッシュで帰ったから。忘れないうちにレポート書こうと思って」

本当に熱心だ。レポートの中身がちょっと気になるけど。

「じゃあレポート頑張って」

「うん、また明日ね!」

岡田さんは手を振っていた。

岡田さんと別れ、自転車をゆっくり漕いで帰っていた。

薄暗い林道りんどうに入ると、誰かの視線を感じた。周囲に人気はない。ふと、もしかしたら幽霊でもいるのかもしれないと思った。

外灯はあまり光度がなく、木の枝に覆われて薄暗い。カラスの鳴き声も聞こえている。

突然、体になにかぶつかってきた。僕は自転車ごと地面に投げ出される。周囲を見るけど、なにもなかった。

られたような衝撃だった。

早くこの場を離れた方がいい。

自転車を持ち上げ、サドルにまたがろうとした。

だが頭を鈍器どんきで殴られたような衝撃が走った。上下の視界が入れ替わり、僕は地面に倒れた。

8 暗闇の中で見たもの

苦しさで目が覚めるが、周囲は真っ暗でなにも見えなかった。

十字に組まれた木材に、手足と首が縄でしばられている感触がある。体重が首にかかっていたせいで苦しかったんだ。僕じゃなければ、窒息ちっそくしているんじゃないのか。

ふいに電気がつくが、見える範囲には誰もいなかった。

コンクリートの打ちっぱなしで、八畳程の部屋だ。窓がなく、カビ臭い。裸電球がぶら下がり、物置に使っているのか、埃を被った古い家具が隅にあった。

僕がいるのは壁際に近く、正面には鉄製のドアが見える。

僕をはりつけにしているものは、廃材はいざいを十字に組んだもののようだった。建物の柱にでも固定されている。自分の服を通しても、皮膚にささくれ立つような痛みを感じていた。

「変わってるな、お前」

声がして、視界の外に誰かいるのが分かったけど、僕の口にはガムテープが貼られていた。

頸椎けいついが折れていたはずなんだよ」

男の声だった。

「この磔はゴルゴタの丘をイメージしたんだ。即席だけどな」

自分の置かれている状況が、少しずつ理解できてきた。この人物は僕を林道で殴り、殺そうとしたのだ。でも殺すことはできず、ここに連れてきた。

「ところで、磔というものは本来、手の平に釘を打つんじゃないらしい。それでは体重を支えられない。手首と足首の辺りに刺すわけだ」

口調は変わっているけど、声に聞き覚えがある。

「それでも磔と言えば手の平に釘だ」

突然、目の前に釘と金槌かなづちが浮かび上がった。釘は僕の手の平に当たり、金槌が振り下ろされた。激痛が走り、のどの奥で叫び声をあげた。

打たれるたびに、振動があるたびに、叫び声は高くなった。

もう片方の手にも、釘が当てられた。

「どうやら、痛みは感じるみたいだな」

声は、染谷先輩のものだ。

明るい調子はなく、淡々としゃべっている。

口に貼られたガムテープが、一気に剝がされた。

「どんな気分だ?」

僕は声の方向に視線を向けた。

「染谷先輩ですか?」

まるでカメレオンが現れるように、背後の景色から人が浮き出てくる。制服姿で、腕を組んでいた。

「やっぱりバレるよな」

なんでこんなこと。

染谷先輩は無表情で言った。

「お前はどうやったら死ぬんだ?」

黙っていると、染谷先輩は首を振り口を開く。

「いいだろう、そのうち死にたくなる」

再びガムテープを口に貼られた。

染谷先輩にもネクタールが入り込んでいた。

連続殺人もこの人だったのか?

でも、どうしてだ。

染谷先輩は僕の死角から、なにかを取り出していた。

目の前に現れたのはマチ針だ。

「これを眼球に刺していく。ゆっくりとだ」

馬鹿だろ。

ふざけるなよ!

「暴れるな。足にも釘を打つか?」

僕は必死で首を振った。

「皮膚を剝いでいってもいいが、床が血だらけになるのは避けたいからな」

染谷先輩は、強引に僕のまぶたを開かせ、針を近づけてくる。

歯の根が合わなかった。全身が震え、呼吸が浅くなり、心臓の鼓動は速くなった。先端が眼球に当たり、プツッと音がした。痛覚が一箇所に集中した。思考が真っ白になった。狂的に喉で叫び、視界が染まった。

奥まで差し込むと、染谷先輩は二本目の針を近づけてきた。

暗闇の中で、呻いていた。

自分の能力を使えば、死ぬことができる。再生能力を自分に向けて注ぎ込めばいい。しかし手は動かせなかった。

母を殺した罪。生物の命をもてあそんだ罪。それらの罪が、今の状況を生んだのかもしれない。

両手には釘が打たれ、両目には何本もの針を刺された。

ドアが開く音がして、真っ暗な室内に明かりが灯った。目が再生しようとしているせいなのか、ぼやけながらも、周囲の光景は見えていた。

染谷先輩の声がした。姿は見えない。

「まだ生きているのか。しかしすごい光景だ。両目から、涙ではなく血が流れているところがとてもいい。だが、俺は拷問マニアではない。こんなことをして快感なんてない。受験勉強もしなければいけない。俺は医者を目指さなければいけないんだよ、なりたくもないんだけどな。こんなことしている時間は本来ならないんだ」

姿を消していた染谷先輩が、徐々に現れてくる。

「便利な体だな」

独り言のようにそう言った。

染谷先輩は口に貼ったガムテープを再び剝がした。

もう必要ないと思ったのかもしれない。

「床が汚れるのは避けたかったが、仕方ないだろう。それにお前の体に起こる奇跡に興味が湧いてきた。腕や脚を切ったら、どう再生するんだろうか。生えてくるのか?」

「やめ

「口は塞いでおくか」

またガムテープを貼り直した。

染谷先輩は、枝切えだきりバサミを持ち出してきた。

恐怖が全身に広がり、呼吸が上手くできなくなる。

「電ノコが楽なんだが、うるさいし、血が跳ねるからな」

頭が麻痺して、意味不明なことを喉の奥で叫んだ。

まるで羽をもがれただ。不気味に叫び、もがいて、目の前の恐怖にあらがおうとする。

先輩はハサミの刃を開き、左脚の靱帯じんたいに当て、一気に閉じた。

バチンと音がした瞬間、全身に雷で打たれたような衝撃が走った。のけり、呼吸がとまった。足に力が入らなくなり、釘に打たれた両手が引きつり、首に体重がかかった。

「ノコギリでゆっくりと切断してく処刑方法があるらしいが、目的に沿ってないからな。この方が楽でもある。骨を避ける方が、簡単に脚は切断できるだろう。どちらにしても、死ねないお前からしてみれば、苦しみは変わらない」

再び目が覚めると、磔が解かれ僕は床に仰向けに倒れていた。手足が床に転がっている。どれも関節の部分で切られていた。

どうしてこんな状態で生きているんだ。

思考も、麻痺しかかっている。

「心臓を潰しても無駄だったな」

染谷先輩は、僕に見えるように、なにかを取り出した。

「頭を開くために、ノコギリを持ってきた」

口に貼っているガムテープを剝がした。

僕は朦朧もうろうとした意識の中、口を開いた。口の中が乾いて、舌が上手く回らない。

「死なせて、下さい」

「やっと言ったか」

「手が、ないと」

「右手と左手どっちだ?」

僕は右肩を動かした。

透明のまま、染谷先輩は床に転がった右腕を探している。先輩はネクタールが入り込むことで、自分を透明化する能力を得ていた。触れたものも透明にできてしまう。着ているものや、僕を殴った鈍器のようなものも、僕には見えなかった。

せめて、みんなに先輩のことを伝えたかった。でももう耐えられない。

早くこの苦しみから逃れたい。

人間じゃない僕は、人間のような死に方も、死に様もできない。最後は母のように黒い粉になる。

いつかこうなるだろうと、予感はしていた。それに怯えていた。これで終わらせることができる。

右腕が宙に浮かんで、僕の近くに投げられた。

僕は、右腕の方に体の向きを捻る。

羽をもがれた蛾。

一生懸命に、体をうねらせた。

そのとき一箇所しかない鉄のドアが音を立てて、内側に外れた。

現れたのは黒戸だった。

黒戸は僕を見て目を見開き、その場に立ち止まった。

「上代、君?」

染谷先輩は姿を消している。

僕は声を絞り出した。

「染谷先輩だ、いるぞ」

突然、床にあった枝切バサミが動いた。先端を黒戸に向けて、突き刺そうとする。

黒戸は刃先をかわすが、制服をかすめていた。

「逃げろ、黒戸」

先輩は自分の触れたものも、不可視にできる。宙に浮いていたハサミも、消えてしまっていた。

「染谷さんに襲われたの?」

僕は頷いた。

黒戸は僕から顔を逸らし、次の動きで、蹴りを打った。 

鈍い音がした。ハサミが床に落ち、壁に衝撃が走った。染谷先輩が姿を現していた。壁に叩きつけられており、そのままずるずると崩れた。気を失っているのか、立ち上がることはなかった。

黒戸は僕の前で膝をついた。

「なんでこんなこと

「黒戸、針を」

そう言うと、黒戸は一瞬の間に、両目に刺さった針を抜いた。針は空中に舞って、バラバラと床に落ちた。

目の傷が徐々に治っていき、視界がはっきりとしてくる。

黒戸は眉をひそめて、僕を見ていた。

「なんで、怒ってるんだ」

「ふざけないで」

「転がってる手足を傷口に当ててくれ

黒戸は僕の手足を持ってきて、傷口に当てていく。筋肉や神経が、お互いを求めているように引きつけあい、切断面が埋まっていく。最後に皮膚の傷がすっと消えた。しかし、体が治っても、しばらく動くことはできそうになかった。

黒戸は僕を壁に寄りかからせて、言った。

「一人で死のうなんて思ってないよね?」

「黒戸が来てくれなかったら危なかった」

そんなの勝手すぎると思わないの?」

僕はうつむいてしまう。

ごめん」

「馬鹿すぎると思わない?」

ごめん」

「許さない、絶対に」

「なにがあっても、一人で死なないで」

僕は小さく頷いた。

ゆっくり顔を上げると、開いているドアからなにか現れた。

それは、見たことのないような獣だ。

大型犬程の大きさがある。牙を覗かせて攻撃の体勢を取っていた。

「黒戸!」

そいつは黒戸の背後から飛びかかった。

動きが速い。

黒戸の体勢からよけることは無理だ。

黒戸は振り向きざま、落ちていたハサミを取り、獣の牙をとっさに防いだ。

獣はバネのような身のこなしで、距離を取る。

黒戸はハサミを捨てて、獣と対峙した。

「なにこいつ?」

猫のように見える。だがそれにしては大きい。筋肉が異常なくらい発達しており、爪や牙もナイフのように鋭かった。威嚇いかくするような体勢で唸り声をあげ、唾液だえきを垂らしている。

ガードはできない。刃物で襲われるのと同じだ。

獣は、黒戸の首をめがけて跳ぶ。

黒戸はカウンターの左フックを打った。

獣の脇腹に当たるが、怯まない。

攻撃の反動を利用して、壁を蹴ってきた。

二回目の攻撃は、黒戸の肩を裂いた。

鮮血が飛び、黒戸は肩を押さえる。

獣はとまらない。

前後、左右、上下の壁を蹴り、黒戸を襲った。

よけるか、カウンターを打つしかない。限られた空間では、黒戸に不利だ。どこから来るのか分からない。

黒戸は紙一重でよけている。制服は裂けて、所々血で染まっていた。

もう一撃、腹部に食らった。流れた血液が、脚を伝い床に溜まっていく。

獣は返り血で体を赤く染めている。ゆっくりと近づいて黒戸を威嚇していた。

こいつは、昔僕が治した染谷先輩の飼い猫だろう。

ネクタールが入り込んでしまっている。そうとしか考えられない。能力も、他者を殺傷するためのものだ。

それなら黒戸でも危ない。

僕の視線を読み取ったのか、黒戸は言った。

「心配しないでね」

黒戸は構えを変えた。

体の力を抜いている。

「平気だから」

黒戸はつま先で床をとんとんと叩く。

獣が、正面から飛びかかってきた。

黒戸は短く息を吐くと、見たことのない速さで蹴りを打った。

瞬間、ものすごい炸裂音さくれつおんが響いた。

獣は吹っ飛び、壁に激突した。部屋が揺れ、電気がパチパチと点滅した。コンクリートの壁には、獣のサイズに穴ができて、壁一杯にヒビが入っている。

獣はどうにか立ち上がろうとしているけど、脚がついていっていない。

黒戸は髪をかき上げると、獣を見て言った。

「襲う相手が悪かったね」

黒戸は獣に近づいた。

獣は諦めたように体の力を抜いて、弱々しく黒戸を見た。

獣の前で、黒戸はしゃがみ、喉をくすぐった。

「猫かな?」

と言った。

黒戸が負けるわけがなかったのか。

僕が黒戸の傷を治していると、岡田さんと姫髪さんが外れたドアから顔を覗かせた。

岡田さんは染谷先輩の姿を見て、小さく悲鳴をあげた。奇妙な磔もある。驚かない方がおかしい。

岡田さんが口に手を当てて言った。

「なにがあったの?」

「染谷先輩に捕まってた」

岡田さんはふらふらと染谷先輩に近づいて、しゃがみ込んだ。

姫髪さんは僕を見て、泣いていた。

「私のせいです。もっと早く、気がついていれば

姫髪さんの能力で僕が捕まっていることが分かったのか。

だけど、なにがあったかまでは知らないようだった。黙っていた方がいい。

黒戸が珍しく優しい声で言った。

「違うよ。姫髪さんのお陰で助けられたんだから」

岡田さんが僕の方に来て、震える声で言った。

「あの連続殺人、犯人は染谷先輩だったの?」

「目が覚めたら訊いてみよう」

「ねえ、ここでなにされたの?」

「ちょっと思い出したくない」

「上代君は平気なんだね」

「死なないからね。でも、すごく喉が渇いた。あとお腹も減った」

そう言うと、岡田さんはバッグからペットボトルを取り出した。用意してくれていたのかもしれない。中身は水だった。僕の口に当ててくれ、ゆっくりと飲ませてくれた。

岡田さんは静かに口を開いた。

「もしかして、あれから二日、なにも食べてなかったんじゃ」

記憶が曖昧あいまいになっているけど、僕は二日の間、ここにいたのか。

染谷先輩が目を覚ますと、部屋の隅で大人しくしていた猫がそばに寄った。主人の顔を舐めている。染谷先輩は、起き上がることができないのか、倒れたままで口を開いた。

「上代君、俺とこいつを殺してくれないか?」

染谷先輩を見ると、無感情に天井を見ていた。

「信じてもらえないだろうけど、こんなことはしたくなかったんだ。俺の心の中になにかいて、そいつがやれって言う。拒みきれなくなる」

「連続殺人も先輩が起こしたんですか?」

「それは、こいつだよ」

そう言って、視線を猫にやった。

「こいつも同じなんだ。昔は臆病だったのに、凶暴になって、体もこんなになっちまった。俺たちの体に起こったことは奇跡なんだろうけど、必要なかったな」

先輩は猫をそっと撫でた。

「先輩を憎めないんです」

僕も、猫や先輩と同じだ。

染谷先輩は猫を撫でる手を止め、腕を枝切バサミの方に動かした。

ハサミの刃の先端を、猫の首に当てた。

「先輩

猫は動きをとめ、先輩を見ていた。

「また人を襲うだろうし、そのうち捕まって殺される」

先輩はハサミを猫の喉に突き刺した。

猫は倒れ、動脈が切れたのか、出血が酷くなり目を閉じた。

「俺は君を拷問した。二日の間、地獄を味わわせたんだ。目を潰し、手足を切断した。他にしたことを、覚えているか?」

僕は首を振る。

「耐え切れなくて、記憶に制御がかかったのかもしれない。何度かそんなことがあった。君の記憶は所々なくなっているはずだ」

「先輩はどうして

僕を殺そうとしたんだ。

「たぶん」

言いよどんで、染谷先輩は岡田さんを見た。

「いや、俺にも説明ができない」

岡田さんは震えていた。染谷先輩から目を逸らした。

先輩は自分の意思とは関係なく、僕を殺そうとしたんじゃないだろうか。黒戸が部屋に現れたときも、躊躇なくハサミで襲っていた。もし黒戸でなければ、透明になっていた先輩を倒すことなんてできなかっただろうし、そのまま殺されていたはずだ。先輩の体にも、あの猫にも、ネクタールが入り込むことによってなにか起きた。

黙って聞いていた黒戸が、染谷先輩を睨みつけて言った。

「死にたければ、自分で死ねばいいのよ。そんな責任までこっちは負いたくない」

染谷先輩は倒れたまま、目を閉じた。

僕は黒戸に背負われて、その部屋を出た。外に出ると、空は薄暗かった。

僕の格好はめちゃくちゃだ。ジーパンとシャツは間接の部分で切れているし、二日分の汚れが染みついていた。

黒戸は岡田さんから学校ジャージを借りている。破れた制服はバッグに入れていた。

僕の捕らえられていた場所は、小さい山の中にある古い建物だった。そこは物置小屋で、地下室にいたらしい。この辺りの敷地は染谷家のものだと岡田さんが説明してくれた。

「ここから私の家が近いから、みんな来て」

と岡田さんが言い、僕は黒戸に背負われて山道を降りていく。三人は自転車で来ていたので、僕は黒戸の自転車の後ろに乗って、岡田さんの家に向かった。

岡田さんの家に着くと、僕はまず風呂に入れられた。その頃には体もだいぶ回復していたし、汚れたまま部屋に上がるわけにもいかない。

岡田さんの父親か兄弟のものであろう、男物の下着とズボン、Tシャツを借りて、部屋に入れてもらう。岡田さんのお母さんがいたのだけど、部活の友達と試験勉強すると言ってあったようだ。僕のことは、バレないように家に上げて、風呂も使わせてくれた。

風呂から上がると、まず水を飲んだ。緊張がほぐれてから、喉の渇きと空腹を同時に覚えていた。岡田さんの家に着く頃には、ちょっと耐えられない程になっていたからだ。

そのあと岡田さんが持ってきてくれる食べ物を、詰めるように食べた。

「食うね上代君! お母さんがビックリしてたよ。女の子だけでどんだけ食べるんだって!」

そう岡田さんが笑いながら言った。

なんだか無理に笑っているみたいだ。

壁に寄りかかっている黒戸が口を開いた。

「ねえ、本当にあのまま放っておいてよかったの?」

僕は勉強机のイスに座っている岡田さんを見た。

岡田さんは、染谷先輩が好きだと言っていた。あまり、岡田さんの前で染谷先輩の話はしない方がいい。

「あの出来事は、染谷先輩の責任じゃない」

僕がそう言うと、岡田さんが声を上げた。

かばわなくていいよ! あんなことのあとで」

「そうじゃないんだ。染谷先輩は心になにかいるって言っていた。僕が捕まっている間の染谷先輩は、別人だった。再生する僕をどうにか殺そうとしていたんだ。なんだか、機械的にそうしているようにも思えた。そこに染谷先輩の意思はなかった気がするんだよ」

黒戸は顔をしかめて言う。

「上代君はなにが言いたいの?」

「あの猫もネクタールが入っていた。体を乗っ取られていたんだ。妙生がハムスターの体を操っているように」

「染谷先輩のことをネクタールが乗っ取ったわけ?」

「いや、小さい動物を乗っ取ることはできるんだろうけど、人間は操れないはずだ。でも、なにか起きた」

「私たちの体は?」

「分からない。だから、今度こそ妙生に本当のことを話してもらう。それから」

と僕は岡田さんを見る。

「妙生は岡田さんにもネクタールが入り込んでいると言っていた」

岡田さんは目を丸くしていた。

それから、

「マジで!」

と笑顔で言った。

「私も薄々気づいてたんだけどね。自分にも上代君のような能力があるって」

そう言って、岡田さんは大学ノートを取り出した。

中には見たことのない文字や、数式が乱雑に書かれている。

黒戸が言った。

「なにこれ、岡田さんが書いたの?」

「そう。私がみんなの特徴を記したレポート。言ってみれば、あなたたちの能力の分析がされているわけ。私の知る限り地球にはこんな文字は存在しないし、数式もめちゃくちゃじゃないかな。私にとってはすごい情報量を含んだノートなんだけど。でも、どうしてこんなもの書けるのか自分でも分からないんだよね。自動筆記じどうひっきってやつかな。応用すれば、みんなの能力をもっと効率よく使用することもできると思うよ」

僕は岡田さんのレポートを勘違いしていたのか。僕らのオカルト現象に興味があるだけだと思っていた。

黒戸は首を捻って言った。

「効率よくする必要ないと思うけど」

「だね」

「いつから、こんなことしてるの?」

「部室で上代君から色々と教えてもらってから」

岡田さんが僕らをオカルト研究部に誘ったのは、偶然じゃなかった。直感的に分かったのだ。僕らが人と違うことが。

「役立てる機会は今のところないけど、これ書いているときはけっこう楽しいよ」

少なくとも、僕らの能力より害はない気がする。岡田さんが能力で不幸になることがなければ、気にすることはないか。

僕は言った。

「じゃあ、僕のアパートに行こう」

黒戸が言った。

「姫髪さん、時間平気?」

「はい。私もお友達と試験勉強すると言ってありますから」